経済・政治・国際

2014年3月28日 (金)

「でも、勝つことを至上の目的としてしまうような人を自分たちの代表として選びたくないからこそ、私たちは選挙を始めたはずなのです」

話題は変わります。政治と勝利至上主義について。

きのうの朝日新聞(3月27日)に、大阪市長に再選されたばかりの橋下徹氏のインタビューが掲載されていた。

「僕の意見では直接民主制が民主主義の原則だ。議会は直接民主制の補完的な役割で、直接民主制が後に控えている議会は直接民主制に送るための一つのスクリーニング(ふるい分け)機能。議会が最終判断の場ではない」

読んでいて、やはり違和感が強い。


イエスかノーによる首長選や住民投票など、勝者と敗者、白と黒がはっきりする選挙制度によって選ばれた者や事柄が、様々な立場の人が集まった議会で話し合って決められたことよりも優先される。どうも彼は、そういう考えのようである。

そしてその勝者は、「民意」を背景に絶対的な決定権を持つ。とも考える。

橋下徹氏は、かつての朝日新聞(2012年2月12日)で、次の言葉を残している。


「有権者が選んだ人間に決定権を与える。それが選挙だと思います」

「ある種の白紙委任なんですよ」


この考えは、総理大臣である安倍晋三氏の次の発言にも通じている。衆議院予算委員会(2014年2月4日)での憲法96条改正問題で。

「たった3分の1の国会議員が反対することで国民投票の機会を奪っている」


たった3分の1…。

選挙で少しでも多くの票を得た勝者の前では、3分の1といえども「たった」であり、意味がない。勝者のみが決定権を持つ。選挙の結果が全てなのである。

つまり、勝利至上主義。

このブログでは、以前、サッカーや野球といったスポーツなど、いろんな分野での「結果がすべて」というような「勝利至上主義」についての言葉を紹介して、それについて考えた。(2013年5月30日のブログなど)

その勝利至上主義という考え方が、政治の世界、選挙にまでどうも広がっている。

かつてスポーツの勝利至上主義を考えた際にも同じことを書いたが、もちろん選挙は勝つことが大事である。だからといって、負けたからといって、その候補者の考え方や支持者たちがまったく意味がないということにはならないはず。


その政治の世界の勝利至上主義について考えるようになったのは、先週、えにし屋代表の清水義晴さん著書『変革は、弱いところ、小さいところ、遠いところから』を読んだから。

清水さんは、かつて新潟市長選挙に立候補した知人を手伝った際の経験について、次のように書いている。

「正直言って、私だって『選挙は負けたらなんにもならない』とチラッと思わないでもありません。だれにも負けないほど、心底この候補を当選させたいという、熱意と覚悟で選挙に向かっているのですから。でも、勝つことを至上の目的としてしまうような人を自分たちの代表として選びたくないからこそ、私たちは選挙を始めたはずなのです」 (P228) 

「それに、選挙を始めると、相手の候補と戦っているような錯覚に陥りますが、じつは私たちが向かうべき相手とは、選挙民(=市民)です。べつに他の候補が『敵』なわけでもなんでもないはずです」 (P228)

「『選挙は闘いではなく、仲間作りの場にしよう。勝敗というのがあるとするなら、候補者の考えに共感する仲間を、どちらかがより多くつくったかを競いあおう』。仲間にもそれを語り、自分もまた行動で示していきたいと思っていました」 (P229)

最近、小泉時代の「刺客騒動」などもあり、すっかり選挙というのは、自分の考え方にとっての「味方」と「敵」がいて、そして勝つか負けるか、敵を倒すか倒されるか、という論法で考えるようになっていた部分は確かにある。

しかし、本来、清水さんの言うように、選挙とは「勝つこと」はあくまでも結果であり、本来、できるだけ同じ考え、志を持った人を増やしていくということだったはず。

そして選挙に勝った方にも、負けた側の支持者たちに対する責任を背負うことで、彼らとの熟議を重ねる政治が求められる。そうすれば、勝利至上主義による横暴・暴走は自制されるし、「負けた側にも意味がある」という考えにもなるのではないか。

上記の清水義晴さんの指摘は、社会学者の開沼博さんの次の言葉にも重なる。著書『フクシマの正義』より。

「今求められているのは、短絡的に作られた『敵』でも、薄っぺらい『希望』でもない。なぜ自分が、自分たちの生きる社会が、これまでのその『悪』とされるものを生み出し、温存してきてしまったのか、そして、これからいかに自分の中の『悪』と向き合うのか、冷静に真摯に考えることに他ならない。『変わる変わる詐欺』を繰り返さないために」 (P39)

このことは、政治家はもちろん、彼らを選び、支持する有権者にこそ当てはまることだと思う。

 

 

2014年2月21日 (金)

「ツイッターでは、ここ数年、やさしいより厳しい言葉の方が受ける傾向が強まっている」

きのうの朝日新聞(2月20日)に、作家の百田尚樹さんのインタビューが載っていた。

都知事選挙で田母神候補の応援演説に立ち、他の候補について「人間のクズみたいなもの」と言ったことに対して、次のように語っている。

「言葉の表現としての反省はある。言いすぎだったなと」

一応、「言いすぎ」という認識はあるらしい。

この「クズ」発言もそうだが、最近、ネットなどで「言いすぎ」な強い言葉が氾濫しているのが気になっていた。例えば、気に入らないものがあるとする。そこで「あまり好きでない」と言えば済むのに、わざわざ「クズ」とか「クソ」とか「許せない」というような汚い言葉を投げるのである。

攻撃的な言葉、汚い言葉、尖がった言葉、相手を傷つける言葉を使うことへのハードルが低くなりすぎているのではないか。

コラムニストの小田嶋隆さんは、TBSラジオ『たまむすび』(1月7日放送)で次のように言っている。

「ツイッターでは、ここ数年、やさしいより厳しい言葉の方が受ける傾向が強まっている」

結局、「厳しい、強い言葉」を使わないと届かない、受け取ってくれないという意識でもあるのだろうか。

思想家の内田樹さん著書『街場の憂国論』で、「ネットにあふれる言説」と「攻撃的な言葉」の関係について次のように書いている。

「『誰でも言いそうなこと』を言う人の言葉づかいはしだいにぞんざいになり、感情的になり、断片的になり、攻撃的になり、支離滅裂になっていき、やがて意味不明のものになります」 (P8)

「『誰でも言いそうなこと』を語る人は、『いなくなっても替えが効く人』だということです。その人自身は『多くの人が自分と同じことを言っている』という事実を根拠にして『だから私の言うことは正しいだ』と思っています。ネットに匿名で攻撃的なことを書く人のほとんどはそういう前提に立っています」 (P10)

ネットだけの世界でない。ヘイトスピーチしかり、政治家しかりである。

敢えて具体的なフレーズはここで取り上げないが、大阪の橋本市長による「クズ」のような言葉はきりがない。

ドキュメンタリー映画監督の想田和弘さんは、雑誌『世界』(2012年7月号)で、橋下氏の言葉について次のように語っている。

「橋下氏お得意のフレーズを並べてみると、人々が社会に対して抱いている不満や懸念を掬い上げるようなものであることに気づかされます。しかもそこに、人々の(理性ではなく)感情を煽り立てる何かを感じます」

一水会の鈴木邦男さん著書『愛国者の憂鬱』から。

ヘイトスピーチのデモを受けて政治家が『日本人の中にこんなに激しい声があるのか』と思って、政治家も差別的な発言をついつい言っちゃったりする。『俺たちも過激なことを言わないと選挙に通らない』みないな感じで。日本は外国にする配慮って全然ないです」 (P192)

「僕はずっともう何十年も右翼活動をしているからわかるけども、同じ考えの人たちだけが集まっていると、どうしても言葉がより“強い”方が勝つんですよ」 (P208)

結局は、新しい「価値観」みつけ、それを共有することができないため、不安や不満の共有でしか繋がれないということなのではないか。

エコノミストの藻谷浩介さん著書『里山資本主義』から。

「はじき出されないためには、不安・不満・不信を強調しあうことで自分も仲間だとアピールするしかない。つまり擬似共同体が、不安・不満・不信を癒す場ではなく、煽りあって高めあう場として機能してしまう」

 

「安倍首相も、不安・不満・不信を解消する力量のある人物というよりは、自分と同じ目線で不安・不満・不信を共有し、自分の側に立って行動してくれる人物として人気になる」 (P253)

きのう読んでいた角田光代さん小説『私のなかの彼女』にも、こんな一文があった。悪口でしか居酒屋で盛り上がれない同僚に対しての主人公の言葉。

「今は、こんなネガティブなことでしか共有し合えないのだ」 (P39)

このブログでは、年末から何回か「言葉」について書いてきた。(2013年11月21日のブログなど

曖昧な輪郭な言葉に、汚い攻撃的な言葉…。とにかく言葉が荒れている。

最近知った『苦海浄土』で知られる石牟礼道子さんの言葉を紹介したい。(森達也『クラウド 増殖する悪意』から)

「昔の言葉は織物のように生地目があって、触れば指先で感じることができたのに、今の言葉は包装紙のようにガサガサとうるさくて生地目がないの」 P24)

2013年10月21日 (月)

「優先順位はその人の価値観で決まる。国がとり組む優先順位はその国の人々の価値観の反映だ」

「リスク」を前にして動けなくなってしまう傾向。これは結局、選ぶことができないことでもある。ということについて、ここ数日のブログで書いてきた。

この流れで、ボクが思っていることは「優先順位」を付けることの大切さである。社会の中の価値観が広がり、多様になり、それによって選択肢が増えていくことはとても良いことだと思う。その動きを止めていけない。

しかしその一方で、誰にも一日24時間しかないわけだし、場所も制限される。つまり、存在するモノの中から、全てを選ぶことはできない。そこで重要になってくるのが「優先順位」というやつだと思う。何から選ぶのか、何を捨て、あきらめるのか。それを判断するためにも、自分なりの価値観、美意識、状況などに合わせた「優先順位」を日頃から考えておくことが大切だと思う。そうでないと、目の前の数値やランキングに依存する体質になってしまうんだと思う。
 

ちょっと前、その「優先順位」についての語っている言葉を見つけたので、載せておきたい。 

カウンセラーの海原純子さんが、毎日新聞9月8日で書いていた文章から。 

「優先順位はその人の価値観で決まる。国がとり組む優先順位はその国の人々の価値観の反映だ。汚染水問題を最優先と考える人は少ないのだろうか。早く対策を、と叫びたくなる」

どうも日本の政治的には、いろんな政策に対して「優先順位」を付けることができていないよう。 

こちらはダイブ前の新聞記事から。当時、米日経済協議会副会長のチャールズ・レイク氏は、日経新聞2011年1月9日で次のように語っている。 

「日本の通商政策について、各国の目には、国家として政策の優先順位がないと映ります。経産省、外務省、農林省が独自の立場で国際交渉に臨み、大臣が3人同席しないと話ができない。これではいったいだれが日本の代表か分かりません」 

この指摘を読むと、現在行われているTPP交渉も思いやられる。 

さらに作家の村上龍さんも、メールマガジン『JMM』2011年1月18日で次のように書く。

「菅内閣に実行力が不足している一因は、山積みの諸問題に優先順位をつけらないことです。政治家に限らず、物事を「決断・実行」するためには、優先順位を決めることが求められます」 

素人ながら当時の民主党政権の失敗については、この「優先順位」を付けられないことがすべての根源だったのではと思う。例えば、マニフェストで約束した「高速道路無料化」や「高校無償化」などを、すぐに財源がないからと取り下げた。本来、取り下げる必要はなかった。「今は財源がないから、優先順位が高いものから手を付ける。もし状況が許せば、将来、それに取り組む」と言えば、「嘘つき」呼ばわりはされなかったのではないか。 

生活面での「優先順位」でいえば、日頃から、自分なりの価値観や美意識を大事にしていることが大切である。また社会や生活の中には、先人の知恵として優先順位をつけやすい仕組みがあちこちに組み込まれていたりもする。そんな話を、養老孟司さん福岡伸一さんがしている。『せいめいのはなし』から。 

福岡 「選択できないと、はたらけなくなっちゃうわけだ。どちらへ行けばいいのかわらかないから、混乱してストップしてしまう」 

養老 「いちばん身近な例でいつも感じているのは右利きと左利きですよ。利き手というのは、いざというときにないと困るんですね。わかりやすくいえば、利き足がないといざというときに逃げるのにうさぎ跳びになっちゃう」 (P148)

利き手もそうだが、レディ・ファースト、弱者優先などの考え方もそういうことだと思う。考えることなく、そうすることで社会がスムーズに動くし、居心地がよくなる。だから、こういうものは大切にしなければいけないのだと思う。

自分なりの「優先順位」というもこそが、その人の価値観や美意識とイコールなんだと思う。それは、政治家や国家でも同じことなんだろう。きっと。

2013年10月 9日 (水)

「僕らの立場でできることは違和感を表明し続けることしかない。誹謗中傷ではなく、理性的な違和感の表明」

一昨日のブログ(10月7日)に続き、「水を差す」という言葉について。

今年から筑波大学教授となった精神科医の斎藤環さんが、今日の東京新聞(10月9日)で次のように語っていた。まずは、戦前の空気を受けての話。 

「主戦論が盛んな場面で『勝ち目がないからやめよう』とはなかなか言えない。流れに水を差す人が忌避されたり、そういう人が自分から慎んでしまったりする傾向が積もり積もると、それが合理的だとわかっていても、撤退に踏み切れず、悪習の源になりかねない」 

今の風潮では、経済成長については、「主戦論一色」といってもいいのではないか。まずは経済を盛り上なきゃ、という空気が強い。原発にしろ、東京オリンピックにしろ、アベノミクスを後押しするものについて「批判」、すなわち「水を差す」ということがなかなか言えないのである。 

そんな「水を差す」ことがしにくい空気、風潮。それに対して、我々ができることとして、斎藤さんは、こんなことを挙げている。 

「僕らの立場でできることは違和感を表明し続けることしかない。誹謗中傷ではなく、理性的な違和感の表明」 

「穏便かつ理性的に、礼儀正しく違和感を表明する発想が大事。けんかしても原発は終わらない。すっきりしない感情をどう持ちこたえるか、成熟度が問われる」
 

そう。
それでも我々にできることは、ひとつひとつの「違和感」、それもひとつの「水」だと思うのだが、それを提示していくこと。しかも、感情に流されずに、理性的に、礼儀正しく。


 

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