震災・原発

2014年3月20日 (木)

「そして、効率性は、多様性を犠牲することによって高められる」

3回前のブログ(3月13日)で、社会学者の山下佑介さんによる「人の暮らしより『復興』が優先されている」という言葉を紹介した。

今回は、いくつかの言葉から、この今行われている「復興」から「社会」に通じるものについて考えてみたい。

北海道大学大学院教授で政治学者の宮本太郎さん『さらさらさん』(著・大野更紗)より。

先日、私も宮城県の石巻を見てきましたけれど、沿岸部はともかく街並みだけみればかなりきれいになっている。でも、きれいなった建物の向こうで人びとが抱えている『困ったこと』をどれだけ政治が想像できているかと言えばあやしくなります。3・11以降、内部疾患と外傷を切り分ける議論が進んで、明らかに『効率化』という声が広がったと思います」 (P193)

様々な被災者の個々が持つ「困ったこと」、すなわち「暮らし」よりも、「効率化」された「復興」が優先されているということである。

僕も被災地に行くと、よく感じることだ。被災者の方々の事情は、本当にそれぞれだし、多様な「困ったこと」を抱えている。

文化人類学者の辻真一さんは、著書『弱さの思想』で、その「効率」と「多様性」について、次のように書いている。

「多様であるってことは非効率ですからね。効率性を重んじる現代社会から見ると、多様であることは弱いことなんです」 (P117)

「効率性は文明における強さの定義に欠かせないものです。そして、効率性は、多様性を犠牲することによって高められる。つまり、多様性を負かすことによって効率性は勝つ」 (P165)

それは、きっと被災地だけの問題ではない。我々の一般社会だって、

そうなのだ。緒方貞子さんが言う「多様性のある社会」(2月26日のブログ)よりも、「同調圧力」による画一化された社会が形成されていく。

どうすれば、「効率化」よりも、多様な「暮らし」が優先される社会を手に入れられるのだろうか。

もうひとつ、社会学者の山下祐介さんの言葉を載せておきたい。著書『東北発の震災論』から。

「システムが大きすぎるのだ。大きすぎる中で、中間項がなく、政治がすべての国民を大事にし、そのための決定を行おうとすることに問題があるのだ。そして政治のみでは無理だから、科学が、マスコミが、大きな経済が介入する。だがこうした大きなものによる作用の中では、一人一人の声は断片でしかなくなる。しばしば人は数字となり、モノとなる。人間の生きることの意味は逆立ちしてしまい、人は人でなくなる」

大きなシステムの中で、「まったなし」がキャッチコピーとされるような「効率性」を追求した政策がすすめられていく。そうして個々の「暮らし」が失われているのだ。


2014年3月17日 (月)

「しかし、それもこれも、どこかできいたようなことばかりではないか」

前回のブログ(3月14日)では、「ムラと空気のガバナンス」というジャーナリストの船橋洋一さんの言葉を載せた。

その船橋洋一さん近著『原発敗戦』は非常に興味深い本だった。今回は、その中からの言葉を中心に紹介してみたい。

まずは、もう一度、船橋さんによる「村と空気のガバナンス」についての言葉を載せたい。ビデオニュース・ドットコム(3月8日放送)より。

「民間事故調で『ムラと空気のガバナンス』という言葉を打ち出した。まさに空気。異質のものを認めたくない排除しようする。だから本当の意味での議論がなかなかできない。同質的なもの、初めから結論を分かっていて落としどころが分かっていて相場観を共有している、ということ。これは、リスクという観点に絞ってみても、ここまでにしておきましょうという、みんな言わなくても以心伝心分かっちゃう」 (パート①27分ごろ)

「異論をあえて唱えることをダサい。KYなんだよ、読めないと。空気を読める奴ばかりだから、役に立たない。ムラと空気のガバナンスをやっているから、どうしても危機には弱い」 (29分ごろ)

『原発敗戦』では、その「危機には弱い」という日本の社会の問題点がいやというほど指摘されている。

「危機の際、求められる人間は空気を読むタイプではない。危機の時は優先順位を峻厳につけるしかない。こうしたときは、現実の感情の渦に巻き込まれず、専門性と理性だけを頼りに発想し、助言できる人間――空気を読むのが必ずしも得意でないタイプ――が役に立つ」 (P66)

「官僚機構は平時は、法遵守、公正、効率――実際、それが実現しているかどうかは別問題として――、ボトムアップなどを重んじる。
 
しかし、危機にあっては法律を曲げなければならないこともある。トリアージュのような優先順位を容赦なく迫られることもある。効率一本槍ではなくリダンダンシー(溜め)が必要なこともある。指揮官の更迭、チームの編成替え、損切りなどはトップダウンでやる以外はない」 (P150)

「危機の時には、このように所見、知見を明確に言い切る専門家が必要なのです。しかし、空気はまったく読めないし、読もうともしない。結局は、官邸からつまみ出されてしまう。集団を同質にしすぎてムラにすると、危機に弱くなる。日本の“国債ムラ”にもそのリスクがあると見るべきでしょう」 (P235)

これは、ビデオニュース・ドットコム(3月8日放送)でも本人が語っている。

「日常の場合だったら、平等とか公正とかいうのはとても重要です。それから法の遵守。それから効率がなければ続かない。下からきちんとあげていくという手続き、手順、これも重要です。しかし、危機の時は、ここだけは残さなければいけない、ここだけは切り捨てるという優先順位というのが決定的に重要。全部は残せない。法律の遵守もギリギリ守るにしても相当変えなければいけない。例えば効率も、一辺倒ではいけない無駄なところが意外に力を発揮したりする」 (パート①54分すぎ)

「最後は価値観なんです。つまり優先順位って価値観になる。危機の時は価値観のぶつかり合い、激しい衝突ですから。その時に誰の価値観、社会全体とか、民族全体とか、将来の時間軸とか、そういうことになってくる。どこを残すかということは。単に効率性とかいうことではなくて、価値観そのものを日頃から育てるような、共有するような場と、それを引っ張っていくような人材をつくらないといけない」 (パート②11分ごろ)

ここでの「最後は価値観」という言葉は重いと思う。

えば企業におけるコンプライアンスとは、危機対応のためのものに設けられているはず。本来は、その企業にとっての一番大事な「価値観」を決め、その理念に基づいた経営を行うことが大切なはず。

なのに実際におこなわれているのは、コンプライアンスを突きつめた結果、コントロールしやすい同質的な組織を作り、リスクを避け、異質を排除し、危機に直面しても法令順守し続け、まったく危機に向かない組織を作り上げてしまう。


まさに東京電力がそうであり、また日本という国もそうなのである。ということ。


船橋洋一さんは、次のようにも書いている。 

「危機の時、その国と国民の本当の力が試されるし、本当の姿が現れる」 (P20)

上記した船橋さんの指摘の中には、このブログで、これまで何度も取り上げていた問題がたくさんある。


「ルール」
「コンプライアンス」「コントロール」「優先順位」「価値観」「水を差す」、そして「言葉・言語力」

『原発敗戦』の中には、その「言葉」についての指摘も多い。

「もう一つ、危機の際、重要なのはリーダーの発する「言葉」である。
あの国家危機のさなか、菅は国民の心に残る言葉を一つとして発しなかった。
それによって『国民一丸』となって危機に取り組むモーメントを生み出すことができなかった」 (P68)

「『絶対』は魔語である。『絶対』という言葉を使った瞬間からそれこそ『負け』なのである」 (P108)

そして、この本の「はじめに」には、次のように書かれている。

「しかし、それもこれも、どこかできいたようなことばかりではないか」

「戦後70年になろうとしているというのに、いったい、いまの日本はあの敗戦に至った戦前の日本とどこがどう違うのだろうか」

「日本は、再び負けたのではないか」

「福島原発事故は、日本の『第二の敗戦』だった」 (P20)

そして、最後に収められている歴史家の半藤一利さんとの対談の中で、船橋さんは次のように語る。

「共通の遺産として後世に残していく。いざというときに反射的に、『あ、これはあのときの失敗に似ている』『あのときはこうして助かった』と。国民の記憶に深く刻まれるかどうかが、次の危機を乗り越えるための、よすがになるはずなのです」 (P272)


そうなのである。我々は「ムラと空気のガバナンス」を抜け出すためにすることは、「歴史から学ぶ」しかないのである。(「歴史に学ぶ」

 

2014年3月14日 (金)

「空気を読めるやつばかりだから、役に立たない。ムラと空気のガバナンスをやっているから、どうしても危機には弱い」 

今朝(3月14日)のTBSラジオ『スタンバイ』で、森本毅郎さんが、浦和レッズのサポーターによる差別的横断幕の問題に触れて、次のように語っていた。

「熱心になって、声援も一糸乱れずに送りたいという気持ちが高ぶってくると、どうしても統制を乱す人たちはちょっとお引き取り願いたいとなる。訳が分かった人たちだけでやりたい。この気持ちが横断幕になったんだろうけど、横断幕の言葉が悪い」

「言ってみれば集団で一糸乱れずにやりたいというこの発想。個々、一人ひとりが自由に応援するとか、自由に喜ぶとかではもの足りない。これが高じると、こういう形になって、自分たちと違う人たちは全部排除と。情けない話だと僕は思いますよ」


集団。統制。一糸乱れず。そして、言葉による違う人たちの排除。これらは、今の日本の社会で、あちこちで見ることのできる構図ではないか。

同調圧力、効率化、コントロールしやすい集団、そして曖昧な言葉による「異なる価値観」の人たちの排除…。


まさに安倍政権がやろうとしている政策も含めて、この1年くらいで、急速に広まっている構図なんだと思う。

きのう聴いていたビデオニュース・ドットコム『マル激トーク・オン・ディマンド』(3月8日放送)でほとんど同じ構図について話していたのを思い出す。こちらは原発について。

ゲストとして出演していたジャーナリストの船橋洋一さんが、原発をはじめとした日本社会の問題について次の言葉で語っていた。船橋さんは、福島原発事故独立検証委員会のプログラムディレクターを務めた。

「民間事故調で『ムラと空気のガバナンス』という言葉を打ち出した。まさに空気。異質のものを認めたくない排除しようする」

「だから本当の意味での議論がなかなかできない。同質的なもの、初めから結論を分かっていて落としどころが分かっていて相場観を共有している、ということ。これは、リスクという観点に絞ってみても、ここまでにしておきましょうという、みんな言わなくても以心伝心分かっちゃう」
 (パート①27分ごろ)


「異論をあえて唱えることをダサい。KYなんだよ、読めないと。空気を読めるやつばかりだから、役に立たない。ムラと空気のガバナンスをやっているから、どうしても危機には弱い」 (パート①29分ごろ)

一糸乱れない集団。異物・異論の排除。結局、日本社会は、どこもかしこも行っても「ムラと空気のガバナンス」になってしまう。政治、原発、そして浦和のサポーターたち。

「ムラと空気のガバナンス」では、曖昧なローコンテキストの言葉が流通し、誤解や不和を広げてしまうというのは、まさに浦和サポーターがやったこと。(3月6日のブログ

上記のビデオニュース・ドットコムの番組で社会学者の宮台真司さんが語っていた次の言葉も覚えておいた方がいい。

「口火を切る。空気を破る人間が、この世界では、特に最悪な事態が起こるかもしれないときには、もっとも倫理的な振り舞いとなるということ」 (パート①6分ごろ)

何回でも書く。空気が破る。つまり、水を差すことが、もっとも「倫理的な振る舞い」となるのである。(「水を差す」

今回の浦和レッズの問題では、差別的な文字を掲げたサポーターも問題だが試合中に他のサポーターから指摘を受けたものの、何も動かなかった球団の問題もある。

これも、原発事故と重なる部分がある。上記の番組で、司会でもあるジャーリストの神保哲生さん宮台真司さんとのやりとり。

神保 「危機対応ができていないために、何が発生しているかというと。一番大事な時には非決定という、何も決めないということによる決定がなされている。で状況が流れていくということが必ず起きる」

宮台 「日本の場合は、過失不作為、みんなでやれば怖くない。明らかに過失があったんですよ。みんなが不作為なことによっておこった過失なので、責任は問えない。つまり責任はないということなる」 (パート①58分ごろ)

過失不作為。まさに「思考停止」であり、「見たくないものは見ない」「考えたくないことは考えない」問題。「集団的アインヒマン状態」ともいえる。(3月3日のブログ

2014年3月13日 (木)

「わたしたちはこの種の熱狂が、必ずしもわたしたちに幸福な未来を約束してこなかった歴史に学びたいと思う。そして、圧倒的な祝祭気分に、あえて水を差しておきたいと思う」

一昨日の3・11は、何度も通っている気仙沼で迎えた。2時46分、市内にサイレンが1分間鳴り響き、海岸に向かって黙とうした。

その後、ボランティア受入部のリーダーMさんが、黙とうのあとに行った言葉が残った。

「あの震災が起きた3年前に思っていた3年後がこの姿なのか、という疑念は正直ある」

被災地に行くと、どうしても社会学者の山下祐介さんの次の言葉を思い出す。著書『東北発の震災論』から。

「『復興』を進める事業のためには、人の暮らしはどうなっても構わないという力学が生まれているようだ」 (P269)

3年がたった。ガレキはなくなった。しかし、その後に広がる更地がそのままにされているのを見るたびに、ガレキと共にいろんなことを「なかったこと」にしたいのではという疑念はぬぐえない。

3月4日のブログの最後のところで、1964年開催の初回の東京五輪は太平洋戦争の「敗戦」を、2020年開催予定の第2回目の東京五輪は3・11の「第2の敗戦」を「なかったこと」にすることに貢献するのかもしれない。ということを記述した。

作家の平川克美さんは、著書『街場の五輪論』で次のように語っている。

「東京は今回を含めて三度開催候補地となっている。
最初のオリンピック招致が決定する少し前の1923年、東京は関東大震災に見舞われ、首都はほとんど壊滅状態であった。その二年後の1925年、治安維持法が国会を通過し、国民の政治活動が制限される」

「この、震災という自然の災厄からオリンピックを挟んで、太平洋戦争へ至る歴史を見ていると、この度のオリンピック招致に相前後する歴史状況との符号にお何処かされる」 (P174)

ここで言う1回目の東京五輪とは、1940年に予定されていたのに戦争によって中止になったオリンピックのこと。

平川さんは、関東大震災の2年後に治安維持法が成立したことと、東日本大震災の2年後に特定秘密保護法が成立。そのあと五輪へ向かっていくことなど重なっていることが多いことへの危惧を語っている。

「もうじき、建設のラッシュがはじまり、いやがおうでもオリンピックに向けての熱狂の空気が支配的になるだろう。しかし、わたしたちはこの種の熱狂が、必ずしもわたしたちに幸福な未来を約束してこなかった歴史に学びたいと思う。そして、圧倒的な祝祭気分に、あえて水を差しておきたいと思う」 (P183)

このブログでは、何度も書いてきたが、僕たちは歴史から学ぶしかないのだと思う。(2013年1月8日のブログ)(「歴史に学ぶ」

震災遺構の問題も同じなのではないだろうか。「なかったこと」にしないためにも、時間をかけて残していった方がいいと個人的には思う。(2012年7月6日のブログ

作家の半藤一利さんの言葉も載せておきたい。著書『そして、メディアは日本を戦争に導いた』から。

「昭和13年ぐらいで国家体制の整備統一と強化は、大体けりがついていた。その打ち上げが昭和15年の紀元2600年のお祭り。ああいう大きなお祭りをやるということは、後ろに意図があるんですよね。国家行事には裏があると常にそう思わなければならないんだよね」 (P158)

改めて書く。2020年、東京五輪という大きなお祭りがやってくる。

2014年3月 4日 (火)

「考えたくないことは考えない、考えなくてもなんとかなるだろう。これが空気の国の習い性だ」

きのうのブログ(3月3日)では、最後に畑村洋太郎さんの次の言葉を紹介した。岩波書店編集『これからどうする』から。

「東日本大震災の津波と原発事故で私たちが学んだ最大のことがらは、“人は見たくないものは見ない、考えたくないことは考えない”という特性を持っているため、敢えて“見たくないことも見る、考えたくないことも考える”ようにしなければ同じ愚を繰り返すことになる、ということではないだろうか」 (P349)

政府の事故調査・検証委員会委員長を務めた経験からの言葉である。

 

今朝の読売新聞(3月4日)にも、その畑村洋太郎さんのインタビューが載っていた。事故から3年、政府や東京電力を強く批判している。

「報告書に『見ないものは見えない。見たいものが見える』など、事故で得た知見を書いたが、ほとんど改善されていない」

「どんなに考え、調べても、自分たちには考えが至らない領域がある。まずそれを認めることだ」


あれだけ大きな事故を起こしても、「見えないものは見えない」。この習性をただすことなく、もう3年が過ぎようとしている。

エッセイストの阿川佐和子さんインタビュー集『阿川佐和子の世界一受けたい授業』で次のように語っている。

「この対談で半藤一利さんにお話を伺いしたとき、『日本人は、起きてほしくないことには、起きないだろうと思ってしまう。先の大戦でも、ソ連は絶対に参戦しないと思い込んでいた』とおっしゃっていたんですけど、たしかに大事な判断をするときに、楽観的になる癖があるのかなと」 (P85)

3年前から変わらないのではない。先の大戦から、ずっと変われていないのである。

作家の荒俣宏さん著書『すごい人のすごい話』から。

「ぼくは、現代の日本人は楽しいことばかり追い求めて、その代償として重いものを背負うことを避けているように見えるんです。例えば、かつて日本が戦争をやったという事実も、きちんと背負うべきだった。でも、そういうことは重いから、できるだけ考えたくない。『背負う』を別の言葉でいうと『あきらめる』。どこであきらめがつくかという問題じゃないですか」 (P314)

去年9月1日の東愛知新聞の社説には、作家の笠井潔さんを引き合いに次のように書かれている。

「『最悪の事態を想定しての必要な準備ができず、危機管理能力を致命的に欠いているのは、日米戦争から福島原発事故にいたるまで、空気が支配する日本社会の宿命的な病理』だ、と作家の笠井潔さんが指摘しています」

「笠井さんは『考えたくないことは考えない、考えなくてもなんとかなるだろう。これが空気の国の習い性だ』と指弾します。場の空気に流される習性からの脱却が大切です。これは国づくり、地域づくりにも言えることなのです」


見たくないものを見ず。考えたくないことは考えず。背負うことを避け、あきらめることを避け、そうやって70年余り、そういう「思考停止」の習性でやってきた。そこで、「第2の敗戦」という人もいる「3・11」を迎えることになった。

 

ドキュメンタリー映画監督の想田和弘さん東京新聞(2013年9月11日)では、次のように語っている。

「放射能汚染や人びとの苦しみを『なかったこと』にしないと、五輪の昂揚感も経済利益も台無しになる。招致の成功で、多数派には原発事故をないものにする強い動機が生まれた」

最初の東京オリンピックは結果として、「第1の敗戦」を「なかったこと」にすることに貢献し、今度の東京オリンピックは、「第2の敗戦」である3・11を「なかったこと」にすることに貢献するのだろうか。

2013年10月24日 (木)

「神話を信じるほうが、悩まなくてすむからね。自分の頭で考え、疑い、苦しみ、戦うという主体的営みの対局に神話はある」

もうしばらく「リスク」「失敗」の続き。すいません。

きのう新たに、茨城県東海村の前村長、村上達也さんと、ビデオジャーナリストの神保哲生さんとの『東海村・村長の「脱原発」』論』という本を読んでいたら、同じような指摘があったので、それも記す。あちこちで出会う。そのくらい「リスクを避ける習性」というのは、日本社会の根深い問題ということでもある。

その村上さんが、お役所、すなわち行政の習性について次のように語っている。 

村上 「余計なことをして、パニックを起こして、そのために被害が起きると、行政側が責任を取らなければならない。それが怖い」 

神保 「たとえ人の命がかかっているような状況でも、何かをやり過ぎた結果、トラブルが起きてその責任を取らされるくらいなら何もやらないでおいたほうがいいと考えてしまう、そういうことですか」 

村上 「ええ。日本は、行政のそういう性向がきわめて強い国ですよね。官僚組織の論理が最優先にされる結果、無謬性を失うのを恐れて緊急時には何もできなという性向です」 (P52) 

ちなみに、「無謬性」とは、「間違いがない」ということ。 

本来なら、「人の命」を失う以上のリスクはないはず。でも、それよりも目先のパニック、トラブル、その責任というリスクを避けるがために、「何もしない」という選択肢を選んでしまう。 

でも、これまで何度も書いてきたが、人間社会では、必ず間違いや失敗も起きるし、リスクゼロなんて状況もありえない。それでも「無謬性」というものを信じるために用意されるのが、「安全神話」なのかもしれない。「リスクゼロ」というフィクションを信じ込ませるために、「安全神話」を作りだし、流布させる。 

原発の「安全神話」について、東海村の前村長、村上達也さんは、次のように話している。 

「それまでは住民避難を計画すること自体、原子力の危険性を認めることになると考えられていた。原発は絶対に安全なのだから住民避難など考慮する必要はないと、本気で言われていたのです」 

「本当に、日本は恐ろしい国だと思っています。国民の生命財産より原発が大事で、しかも随所で隠蔽体質と無謬性への恐怖がある」 (P54) 

「それは、少し考えれば誰にでもわかることだった。いくら安全対策を施しても、結局は日本で原発を建設すること自体に無理がある。その無理を押し通すために、原発推進の勢力は自らも安全に対して思考停止するしかなかった。ですから、日本人が本当に反省しなければならないと私が思うのは、そういう思考停止をうながす流れ、世の中の雰囲気ができたとき、日本社会はあっという間にそれに同調してきたということですよ」 (P173) 

本来フィクションでしかない「リスクゼロ」。それを信じるために、「安全神話」をつくりだし、流布させる。そして「思考停止」して、それを同調という圧力のもとで受け入れ続ける。

ゼロリスク」というフィクションを信じる状況を、社会学者の宮台真司さんは「フィクションの繭」と表現する。宮台ブログ(2012年8月13日)から。 

「〈原発を止められない社会〉である本質的な理由は何か。〈巨大なフィクションの繭〉のせいです。例えば日本にしかない『100%原発安全神話』。そのせいで津波対策やフィルタードベントなどの追加的安全対策が、技術はあるのに採用されなかった」 

「これらが〈巨大なフィクションの繭〉の中で、何もものを見ないで出鱈目な決定を連発してきているのが、日本の政治です。これは戦前から変わっていません」


こうした「安全神話」について、作家の辺見庸さんは、『この国はどこで間違えたのか』という本の中で、次の湯に語っている。

「神話を信じるほうが、悩まなくてすむからね。自分の頭で考え、疑い、苦しみ、戦うという主体的営みの対局に神話はある。皇軍不敗神話、天皇神話もそうです。神話は、われわれの思惟、行動を非論理的に縛り、誘導する固定観念や集団的無意識、根拠ない規範にもなる。とりわけ、われわれは巨大なものや先進テクノロジー=善という『近代神話』に長くとりつかれてきた。その近代神話の頂点にあるのが原発だった」 (P285) 

結局、安全神話を信じ、リスクゼロを信じることで、安心できる。その方が、日々の生活は「楽」なのだ。きっと。でも、その神話、フィクションはいつか崩壊するのだろう。その時、巨大に増長したリスクと対面しなければならなくなるのではないのか。 

上記の『この国はどこで間違えたのか』の中で、沖縄タイムス記者の渡辺豪さんは、次のように語っている。 

「過ちは確かにあった。そして今もある。われわれが抱える問題の深刻さは、過ちに気付きながら事態を放置してきたこと。対象と向き合って転換や変革を測れない構造的な弱みにあるのではないだろうか」 (P294) 

リスク、失敗、間違い、過ち。どうすれば、それらと向き合い、共存していけるようになるのか。

最後に。テイストはぐっと変わるが、糸井重里さんの本の中にも「失敗」についての言葉があったので。著書『ぽてんしゃる。』から。

「『失敗』を求めているはずはないのですが、『失敗』を恐怖していたら、なんつーか、「悪い運命のおもうつぼ」です」 (P157)

2013年5月30日 (木)

「人間のためのシステムのはずが、いつの間にかシステムのための人間になっている。ここには明らかに転倒がある」

前々回のブログ(5月22日)前回のブログ(5月28日)では、「平均」というものにまつわる言葉を並べてみた。

特に前回では、原発事故において、個々の事情を考えることなく、「平均」というものに合わせて対応することの無意味さについての言葉も紹介した。今回は、そこから考えてみたことをうまくまとまるかどうかわからないけど、流れにまかせて並べてみたい。 

社会学者の山下祐介さんは、著書『東北発の震災論』で、次のことを書いている。

「『復興』を進める事業のためには、人の暮らしはどうなっても構わないという力学が生まれているようだ」 (P269)

こういう風に考えることはできないか。被災地では、具体的な個々の被害や暮らしぶりがあるのにも関わらず、それより、地域全体を大括して把握した、すなわち「平均」した概念による「復興」が進められているのではないか。これは前回の紹介したヤブロコフ博士の指摘とも重なる。 

この山下さんの本を読みなおしていて思ったのだが、もしかして「平均」というものは、そのまま「システム」という言葉に置き換えられるのかもしれない。「システム」というものは、平均した概念を効率よく、管理しやすく行うためにあるものだから。 

同じく『東北発の震災論』から。 

「本来、防災施設にしても、道路などのインフラにしても、みな人間のためのものだったはずだ。原子力発電所だってそうだ。人間のためのシステムのはずが、いつの間にかシステムのための人間になっている。ここには明らかに転倒がある」  (P253)

「システムが大きすぎるのだ。大きすぎる中で、中間項がなく、政治がすべての国民を大事にし、そのための決定を行おうとすることに問題があるのだ。そして政治のみでは無理だから、科学が、マスコミが、大きな経済が介入する。だがこうした大きなものによる作用の中では、一人一人の声は断片でしかなくなる。しばしば人は数字となり、モノとなる。人間の生きることの意味は逆立ちしてしまい、人は人でなくなる」 

山下さんが問題があると指摘する「政治がすべての国民を大事にし、そのための決定を行うとすること」。大事にするがうえに、「平均」「標準」「規格」「フツー」「平等」「公平」といったことばかりが優先され、そして「システム」が起動する。 

個人よりシステムが優先される世界。システムに依存する世界。まさに村上春樹さんが小説で書き続けていることでもある。 

場面は変わる。菅政権のときに内閣広報審議官として官邸に入った下村健一さんかなり以前のブログ(2011年9月7日)でも、その言葉を取り上げた。最近、出版された新著『首相官邸で働いて初めてわかったこと』にも、同じようなフレーズがあったので改めて。 

「原稿の素案を用意するたびに、『システム』という名の生き物が立ち現われて、色んな人間の口を使ってさんざんに“安全”“堅実”“没個性”な言葉に置き換えられていった日々が、一気によみがえった。そう、最後まで、敵は『システム』だったのだ。それぞれの『人』ではなく」 (P234) 

この本にも、日本政府の中枢でさえ、個々よりもシステムが優先される様が書かれていた。あまりにも巨大なシステム過ぎて、総理大臣さえも何もできなくなっているのだ。やれやれ。 

山下さんの指摘するように巨大になりすぎたシステムでは、やがて社会の事象に対応できなくなる。それが顕著に表れたのが、東日本大震災だったのである。改めて『東北発の震災論』から。

人間は無力である。この災害で我々は、我々自身であること、その自律性/主体性を失った。人間はシステムを自由には動かせない。しかも、そうしたシステムの崩壊を前にして、我々はそこから逃れるどころか、ますますこのシステムの強化へと自分たち自身を追い込みつつある」 (P251)

「我々は、普段は広域システムによって豊かに、安全に暮らしている。しかしこのシステムが解体するような危機が訪れると、システムがあまりにも大きく、複雑すぎるために、個々の人間には手に負えない事態に陥ることとなる。東日本大震災で起こったことに対して、首相も、政府も、メディアも、科学者も、みな無力だった。
 
広域システム災害に直面して我々は、システムの本質を反省し、改善するよりはむしろ、崩壊後の再建においてそのシステムをさらに強化する選択肢をとりつつあるようだ」 (P251)
 

個人よりもシステムが優先される社会。そこでは個人は、システムに依存する。依存すればするほど、個々は断片となり、孤立し、埋没していく。そしてシステムはさらに巨大化する。巨大化したシステムは、巨大な故に個々の事象に対応できなくなる。その結果、我々は、どうするか。悲しいかな更にシステムを強化しようとするのだという。 

ぐるぐる回るスパイラル。やれやれ。スパイラルのなかで、我々はどうしたらいいのか。お手上げなのか。よく分からない。 

もう一度、下村健一さん『首相官邸で働いて初めてわかったこと』から、次の言葉を引用する。 

「その“システム”を作っているのも、それに憑依されて動くのも、全ては『人』だ。喜怒哀楽を持ち、決めも迷いも、燃えも挫けも、成し遂げも間違えもする『人の束』。だからこそ、我々一般国民の働きかけが、作用する余地がある」 (P325) 

長くなってしまったが、最後にもうひとつ。こちらもかなり前だが、このブログ(2011年11月10日) で取り上げた思想家の内田樹さん著書『ONEPIECE STRONG WORDS』で書いていた言葉をもう一度。 

「残る方途は、たぶん一つしかありません。ルフィたちもそれを戦略として採用します。それは、システムの中にあるのだけど、システムの中の異物として、システム内部にとどまるということです」 

僕なりに解釈するとこうなる。システムは、管理・効率を強め、巨大化していく。「平均」を押しつけながら。先日のブログ(5月2日など)でも書いたが、その過程で失われていくのが「辺境」ではないか。巨大なシステムを外部から変えるのはもはや難しい。だったら個々がシステムのなかにとどまり、そこで異物・異端の存在として「辺境」をつくっていくことしかない。そういうことではないだろうか。


2013年5月28日 (火)

「ぼくはね、平等や公平って、どういう意味なんだろうと考えるんです」

前回のブログ(5月22日)、「平均」というものについての言葉を並べた。
その中で、藻谷浩介さんの「平均値と個人は違う」という言葉はお気に入りである。「平均」で表せる具体的な人はいなくて、個人個人はそれぞれ別々の事情を抱えているということである。 

今週、ビデオニュースドットコム『Nコメ』(5月25日)を聴いていたら、その藻谷さんの指摘と同じような指摘があったので書いておきたい。先週(5月21日)、日本外国特派員協会での記者会見で、ロシアの生物学者、アレクセイ・ヤブロコフ博士がチェルノブイリや福島の原発事故に関して、次のように語っている。

「『平均実行線量』とは何か。これは広範囲に使われている概念ですが、個々人の本当の被線量を反映してません。それは例えば『平均体温』と同じように、あくまでも『平均』に過ぎないのです」

「『平均』などというものは科学的にはありえないのです」
 

このヤブロコフ博士の指摘について、社会学者の宮台真司さんは、次のように説明している。 

「今回の災害の場合には、システマティックに管理された場所にいるわけではないので、どこをどういう経路で逃げたかは分からない。特に初期の3日くらいは、通常の千倍以上の放射能があるところを逃げ回る中で、各個人がまったく別の体験をしているはずで、それを平均することに全く意味はないんだということ」 

ジャーナリストの神保哲生さんは、次のように説明する。 

「個人のリスクを特定する必要がある。運わるく、仮に1000人に3人でも、100人に3人でもいいけど、その3人になった場合に自分がしなきゃいけないことと、そうじゃない場合は違う。平均して0・3%だから大丈夫というのは・・・。ある人にとっては200%かもしれない、ある人にとってはゼロに近いかもしれない。平均すると0・3%、それが意味がない。その数字に混乱させられている」 

個々の事情をみることなく、現場を平均値という枠に押し込めて、政策、対応を行うことにどれだけ意味があるのだろうか、ということである。これは前回も触れたが、教育や地域政策においても全く同じことが行われている。 

今回も、乙武洋匡さんの言葉を引用する。今度は、小説『ありがとう3組』から。 

「ぼくはね、平等や公平って、どういう意味なんだろうと考えるんです。三十人の子どもに、一律同じサイズのTシャツを配ることが平等なのか。それとも体の大きな子にはLサイズを、小さな子にはSサイズをといったように、一人ひとりの体に合ったTシャツを配ることが平等なのか。これまでぼくらがやってきた教育って、きっと前者だった気がするんですよね」

発達障害の児童に向き合う桃井康隆という教師の言葉である。

「平等」、「公平」という言葉を使っているが、そのまま「平均」と置き換えることができると思う。いろんな場面で「平均値」だけを考えて対応することは、結局、楽なんだろう。だけど、そんな対応に意味はあるのだろうか。もっと「平均」というものについても、桃井先生のように「どういう意味なんだろう?」と揺れて考えながら、個々に目を向け、向き合っていくべきなのだろう。個々より平均が優先される状況は、ツマラナイと思う。

2013年4月22日 (月)

「枠をいちいち怖れることはないけれど、枠を壊すことを恐れてもならない。人が自由になるためにはそれが何より大事になります」

これまで「ルール」をめぐるエピソードを何回か取り上げた。昨年6月12日のブログでは、東日本大震災直後の非常時においても、既存のルールに囚われ、従ってしまう具体的な例を紹介した。

そんな例をもうひとつ。朝日新聞で連載が続いている『プロメテウスの罠』。それが書籍化された朝日新聞特別報道部『プロメテウスの罠4』を読んでいたら、震災対応での個人情報の問題を取り上げていた。 

南相馬市にある社会福祉協議会の高野和子さんは、震災直後、市内の障害者の居場所や避難先を確認しようとして、市に問い合わせても、個人情報保護法を盾にして「いえません」との回答だったという。それについて高野さんは、次のように語っている。 

「混乱の中では個人情報保護なんていっていられないはずなのに、命にかかわることだってあると思う。何とかしなければならないことなのに、忙しいのでうやむやさにされている」 (P35) 

そんな中、南相馬市の健康福祉部長、西村武義さんは、市としての判断の前に、障害者の個人情報を支援者に開示することを決断する。西村さんは、部下に面と向かって次のように言われたという。 

「部長のやっていることは、条例違反です。意義はあると思いますが、すぐに中止すべきです」 (P37) 

障害者団体が組織する日本障害フォーラムの幹事会議長の藤井克徳さんも、次のように語る。 

「ほかの市町村ではほとんど情報開示が進まなかった。こんな極限状態で、個人情報を悪用することなど考えられないのに」 (P39) 

そうした「お役所」の対応について、弁護士の岡本正さんは、次のように指摘する。 

「何か不祥事が起きたときの責任ばかり考えている。これでは住民の命を救えない」 (P49) 

ここでも、もしもの「ミス」を恐れ、住民の命よりも、ルールを守ること、何事もないことが優先される。何事もないといって、それは自分の立場に限ったもので、その陰では命という、「何事にも変えられないもの」が犠牲になっている。 

以前(2012年9月3日のブログ)に紹介したことがあるが、映画『ダークナイト ライジング』では、ゴッサムシティの市警のゴードン本部長が新人警官に対して、次のように語っていた。

「法が武器にならずに枷となって、悪人を裁くことができない悔しさ。いずれわかる時がくる」 

まさに個人情報保護の場合は、法(ルール)が枷となって、「悪人を裁くことができない」ではなく「住民の命を救うことができない」という状況になっていたのである。この映画では、ジョゼフ・ゴードン=レヴィット演じる新人警官は、最後に本部長の考えに理解を示した。南相馬市の西村部長を問い詰めたという部下も、事態のあとにはそうなっていてほしい。 

村上春樹さん新刊『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』では、主人公の多崎つくるに対して、友人の灰田文紹は次のように語っている。 

「どんなことにも必ず枠というものがあります。思考についても同じです。枠をいちいち怖れることはないけれど、枠を壊すことを恐れてもならない。人が自由になるためにはそれが何より大事になります。枠に対する敬意と憎悪。人生における重要なものごとというのは常に二義的なものです」 (P68) 

このセリフの枠というのも、ルールに置き換えられるだろう。まさに、ルールそのものに対して敬意と憎悪の両面を持っていて、そして非常時に必要があれば、そのルールを壊すことも大切なことなんだと思う。

最後にもうひとつ。この週末に公開されたスピルバーグ監督映画『リンカーン』。その中で、ダニエル・デイ=ルイス演じるリンカーン大統領は、次のように語っていた。

「コンパスは真北を示すことができるが、君の目的地と君との間にある障害物については何も知らせてくれない。もし君が真北を目指して、その結果、沼にはまってしまったら、君は良いことを誰にもしてあげられない」

こちらも深いセリフ。
コンパスはあくまでも目安・指針なのである。当然、現場での判断が大事になる。

少し話はずれるが、この映画は「これぞ政治、これぞ議会、これぞ民主主義」という内容。ぜひ「憲法96条改正」を唱える政治家の方々に観てほしい。3分の2を越えるための努力が詰まっている。憲法を改正するなら、このくらい駆け引きして改正すべき。その前に、まずなくすべきは、「枠」「枷」そのものの党議拘束だろうけど。

 

2013年4月17日 (水)

「私は社会の眼は、発明や研究をよりよくエンカレッジする力として働くと思っています」

4月1日のブログでは、国やマスメディアが、「パニックになるから」といった理由で情報を隠ぺいする体質があることを指摘する言葉を並べた。

書籍『メディアの罠』の中にも、まったく同じ指摘があったので、それを紹介したい。ジャーナリストの神保哲生さんは、その本の中で次のように語っている。 

「つまり一般市民に本当のことなんて教えてしまったら無知な市民がパニックして大変な事になると。でも実は、いちばんパニックを起こしているのは政府でした。悪い情報を出したときに、たとえば住民が逃げようとするのは、当たり前の危険回避行動でさってそれはパニックではありません。むしろ、どうしたらいいか分からなくなり、判断が下せずに不合理な行動をとってしまう状態こそがパニックです」 

「震災と原発事故で起きたことは、日本を支えていたはずのエリートこそが真っ先にパニックに陥ってしまっていた、ということだったと思います。これをエリート・パニックと言うそうですが、そこには既存のメディアも含まれています」

「『事実を明かすと国民がパニックになるから』といった言い方が、まさに市民を愚民視した自分たちが特権的な地位を享受していることを当たり前のこととして思ってしまっている霞が関官僚や大手メディアの傲りの典型的な態度だと思います。要するに市民を信用していない。しかも、その政府や大メディアの上から目線や愚民観こそが、市民の疑心暗鬼を呼んでいることに気づいていないわけです」 (P208) 

前回と取り上げたものと、まったく同じことを指摘している。さらに、『「知」の挑戦』という本の中で、朝日新聞で『プロメテウスの罠』を担当する依光隆明さんは、次のように語っている。 

「ところが現実には情報を出す本人たちがパニックになってるし、国民がパニックになることを懸念した-と細野(豪志)さん(当時、首相補佐官)があとでいうんですが-そのためにろ過された情報であるがために、結局、出てくる情報が現場の実態とは大分違った情報になってしまって、それが繰り返されることによって、大本営発表という評価につながった面もあるように思えました」 (P60) 

もうひとつ。同じ文脈だと思うものを紹介しておきたい。ピーター・バラカンさんは、著書『ラジオのこちら側から』で次のように書いている。 

「色々な国の写真家が参加する写真集を見ていて、海外のカメラマンに比べて、日本人のカメラマンには見る人に突き刺さる写真を提示することや、衝撃を与えることへのためらいがあるのでは、と感じたことがあります。憶測にすぎませんが、日本のメディア全体に、『インパクトを与えてはいけない』という抑制が(無意識に?)あり、写真や報道にその判断があらわれるのではないか、と感じるのです。しかし、現実を伝えない報道にどれだけの価値があるのか」 (P184) 

以前のブログ(2012年10月3日)で、東日本大震災で日本のメディアが「遺体」の写真を載せなかったことについて触れた。過剰な配慮や暗黙のルールを優先しすぎているという意味では、同じことだと思う。

ジャーナリストの辺見庸さんと、一橋大学教授の鵜飼哲さんの対談が、著書『国家、人間あるいは狂気についてのノート』に載っていた。そこで以下のように語られている。

辺見 「いまは集団的な死というものの凄絶さをすぐに消しますよね。被災地から帰ってきたカメラマンから苦労話を聞きました。どこを写しても手や足が写るのに、メディアはそれを丹念に消していくのだそうです。異様な世界ですよね」

鵜飼 「系統的に隠すようになったのはいつからでしょう。七〇年代半ば以降、急速に消されていった気がします。<九・一一>のときも映像には死体が一切出ませんでした。写真評論家の西井一夫さんの話では、戦争中、日本軍は日本への死体の写真をまったく出さなかったそうです。ある意味で、いまは戦争中と同じ扱いをしているということになります」 (P193)
 

3月25日のブログで紹介した作家の森達也さんの言葉ではないが、国もメディアも、そして我々も、「もっと社会を信用する」姿勢こそが、今、必要な事なんだろう。そこで今回は科学者の池内了さんが、科学について話した言葉で終わりたい。こちらも『「知」の挑戦』から。

「『デュアルユース』といういい方があります。一つのものごとに二方向の用途があるという意味です。科学とは往々にしてそういうものです。一つのものが軍事用にも民生用にもなる。毒にも薬にもなる」

「歯止めになる方法の一つとして、私はとりあえずすべてを『公表』しましょうといっているのです」

「そうすれば、完全に悪用を抑えられなくても、ある程度の抑止力にはなるでしょう。また、取り組んだ成果がよりよい方向に向かっていく推進力にもなるのではないでしょうか。私は社会の眼は、発明や研究をよりよくエンカレッジする力として働くと思っています」
 (P220~1)


物事には、常に二方向の側面がある。それを社会を信用して公表すれば、パニックの抑止力になったり、いい方向への推進力したりもする。政治、メディアにも当てはまることだと思う。


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