「教養は常に多様性とセットであるべきだ、と思います。教養がその価値を本当に発揮するのは、多様性が担保されている場だ、と思います」
少し前のブログ(11月7日)では、教養について少し触れた。何が起きるか分からない未来を楽しむためには、教養が必要ということだった。
今回は、改めて「教養とは何か」を考えられる言葉を並べてみたい。
建築家の隈研吾さん。著書『僕の場所』より。
「教養というのは、実は毎日を生きていく上でとても力になってくれるもので、それは樹木にとっての土や水のような形で、僕の体を支え、守ってくれているのです。まさに『人はパンのみにて生きるのにあらず』なのです」 (P7)
予備校教師の里中哲彦さん。著書『まともな男になりたい』より。
「小生のいう『教養』とは何か。それは『自分とは何かを明らかにしてくれる力』のことである。つまり、内に向けては『自分とは何か』を承認し、外に向けては『自分とは何か』を証明していこうとする行為の集積が『教養』なのである」 (P90)
そして池上彰さん。著書『池上彰の教養のススメ』より。
「教養を身につけるとは、歴史や文学や哲学や心理学や芸術や生物学や数学や物理学やさまざまな分野の知の体系を学ぶことで、世界を知り、自然を知り、人を知ることです。世界を知り、自然を知り、人を知る。すると、世の理が見えてきます」 (P4)
「向き合っている世界の中から、自ら問題を発見し、自ら答えを見つけてくる。狭い専門分野に収まっているだけではできないこと。それが実社会で生きる、ということです。そこで必要なのが教養です。教養はきわめて実践的で、実用的な『道具』になり得るのです。教養は、何が問題で何が答えか分からない現実社会で、問題と答えを探るための手がかりを与えてくれます。教養のあるなしが、生死を分けることだって珍しくなのです」 (P32)
「与えられた条件を疑うのは教養の力のひとつです。でも、疑ってそれでおしまいでは、ただの評論家どまりです。教養の力はもっともっと大きい。つまり、自分で新たに条件を創る、ルールを創る、市場を創る際、教養がものを言うのです」 (P32)
「教養はあなたを『ルールを守る側』から、『ルールを創る側』にいざなってくれます」 (P34)
この指摘は「ルール主義から原則主義へ」につながる(2012年5月8日のブログ)(2013年3月7日のブログ)
さらに、池上さんは次のようにも綴っている。
「未来に必要なのは、『いまだないもの』を生むことです。逆にいえば、みんなが使っている『今役に立つ道具』では、未来を生むことができません。一見「役に立たない」「関係ない」教養こそが、未来を生む創造的な力となるのです」 (P38)
「教養は常に多様性とセットであるべきだ、と思います。教養がその価値を本当に発揮するのは、多様性が担保されている場だ、と思います。つまり、文化の多様性であり、人種の多様性であり、性の多様性であり、世代の多様性であり、経験や知識の多様性です」 (P380)
そうなのである。
教養と多様性はセットなのである。この言葉は大事だと思う。
サッカー元日本代表のイビツァ・オシムさんは、次のよう語る。雑誌『フットボール批評』(2014年2号)より。
「ピッチの内と外に限らず、サッカー選手の成功のためには一般教養も大事だ。(ウインストン)チャーチルほど一般教養を持つ必要はないが(笑)」
「今のサッカー選手は人生についてのインテリジェンス、言葉の知識あるいは他の民族の習慣の知識も持っていないといけない」
「W杯ブラジル大会を制したドイツのブンデスリーガを例にあげるまでもない。現在はどこのチームでも移民あるいは外国籍の選手が多くなっているじゃないか」
「サッカー界ではボードの上の戦術知識だけではない。ますますいろいろな知識が必要になってくる」 (P18)
まさに、多様性と教養はセットであるという話である。
このオシム氏のコメントは、当然ながらサッカーだけの話ではない。そのまま我々が迎えるこれからの一般社会そのものにも当てはまる。(7月17日のブログ)