ルール

2014年2月 1日 (土)

「だけど野球にはマナーがあります。フェアプレーが大切です。ルールでは規制されないけど、やってはいけないことがあるのです」

ここ3回のブログ(1月24日から)では、日米の野球における価値観の違いについて書いてきた。今回も、その続き。

これまで、このブログでは「日本では、一度決めたルールから外れることができない風潮がある」ということについて何度も書いてきた。(2013年3月22日のブログなど)

そのうえで、これからは「ルール主義から、原則主義」2012年5月8日のブログなど)、「ルールを守ることから、スペースを埋めることへ」2013年8月28日のブログなど)という考え方を打ち出してきた。

それらのの文章を読み直した後、改めて平林岳さんの本を読んでみると、いくつか「ルール」に関する言葉が引っかかってくる。改めて、その著書『サムライ審判「白熱教室」』から。

「ルール重視の日本野球とマナー重視の『ベースボール』。勝利主義に偏ってしまうと、野球を楽しめなくなります。フェアではないことまでしてしまうのです。勝つためには、ルールに反しないギリギリのことまでしてしまいます。指導者が勝利に執着するあまり、ずるいことを子供たちに教えることもあります。だけど野球にはマナーがあります。フェアプレーが大切です。ルールでは規制されないけど、やってはいけないことがあるのです」 (P37)

 

わかかりやすく言えば、日本の野球は「ルール重視」、ルールさえ守れば何をやってもいい(これはボク自身、日ごろの少年野球で感じていること)。それに対して、アメリカ野球は「ルールよりマナー重視」、ルールが当てはまらなくても、マナーを守ることが大事。


つまり、日本の野球では「ルール主義」、アメリカの野球では「原則主義」という言い方もできる。

 

平林岳さんは、もうひとつの著書『パ・リーグ審判、メジャーに挑戦す』でも、次のように書く。

「アメリカで審判をしていると、ルールに則ってゲームを進めるための『マナー』がいろいろあり、ルールよりもむしろマナーを運用しているという実感があります。ファンが試合を楽しめるようルールを守るのは当然で、また常にルールがりっかり守られているので、それ以外のマナーを大事にして、さらに補っているという感じを受けます」 (P245)

こうしたことを読むと、株の世界で「法律や決まりがないから」ということでギリギリなことをやっていたホリエモンのこともなどを思い出す。だから政治の世界でも、日本では法の抜け穴を探しながらの「ねずみごっこ」が絶えない。

以前のブログで、結局、スポーツの世界では「ルールを守ることより、ルールを作る、変えることが大事」ということを書いた。(2013年3月7日のブログなど)

リアリストの落合博満さんも、まったく同じことを指摘している。著書『采配』から。

「ルールで決められることは、どんな理由があっても守らなければいけない。私はそう考えている。ただし、そのルール自体に抜け道があったり、時代にそぐわないものになっていたら、徹底的に見直すことも必要だろう。ルールがその世界の発展を停滞されるものであってはならないからだ」 P288)

毎度のことだが、それは野球だけのことではない。一般の市民社会でも同じことがいえる。

小平市で住民投票などの市民運動を支えてきた哲学者の國分功一郎さんの言葉も、上記の落合さんの言葉などとほとんど重なってくるから興味深い。國分さんは、これからの民主主義に必要なことを、著書『来るべき民主主義』で次のように書いている。


「法規等のルールに則って『このやり方でやれば文句はありませんね』という仕方で物事を進めていくのではなく、その場に現実にある条件に合わせてやり方をきめていく」 (P178)

たかが野球、されど野球である。日本の野球は、当然ながら、そのまま日本という社会の縮図になっている。ということなのだろう。

2013年11月 5日 (火)

「彼らはクレイジーと言われるが 私たちは天才だと思う。自分が世界を変えられると本気で信じる人たちこそが本当に世界を変えているのだから」

前回のブログ(11月1日)では、政治家というものは、必要な時にはルールや掟の枠の外に出る必要があるという言葉を並べてみた。

一応、今回のブログもその続きのような感じ。


先週金曜日に公開された映画『42~世界を変えた男~』を観た。黒人として初めてメジャーリーガーとなったジャッキー・ロビンソンについて取り上げたもの。とてもいい映画だった。 

この映画の中で、ハリソン・フォード演じるドジャースのGMリッキーが黒人選手と契約を結ぶことを提案するとき、球団スタッフからの大反対に遭う。そのスタッフの一人は、「慣習を破るものは排除される」と注意をする。しかしリッキーは、それを強くはねのけ、結局、野球の世界や歴史を変えてしまう。まさにリーダーが、「使命感」と「覚悟」、そして「勇気」を持って、それまでの掟や慣習を変えたからこそ、その世界は変わった。そんな映画だった。 

ちょっと話はそれるが、この映画で印象的な言葉のひとつが、差別的なヤジを受けたジャッキー・ロビンソンと、リッキーとの会話である。 

ジャッキー 「あなたは、やり返す勇気もない選手が欲しいのか?」 

リッキー 「違う。やり返さない勇気を持った選手が欲しいのだ」

まさにお互いの使命感と覚悟を確認する会話である。 

話を戻す。

続いて、同じく先週金曜日に公開された映画『スティーブ・ジョブズ』を観る。天才ジョブズの伝記的な内容で、映画の中で、彼がアップルに復帰した時に作ったCMのナレーションの言葉が紹介される。それは次の通り。(1997年のTVコマーシャル  

「クレイジーな人たちがいる。反逆者、厄介者と呼ばれる人たち。四角い穴に 丸い杭を打ちこむように物事をまるで違う目で見る人たち。彼らは規則を嫌う。彼らは現状を肯定しない。

 彼らの言葉に心をうたれる人がいる。反対する人も 賞賛する人も けなす人もいる。しかし 彼らを無視することは誰もできない。なぜなら、彼らは物事を変えたからだ。彼らは人間を前進させた。

 彼らはクレイジーと言われるが 私たちは天才だと思う。自分が世界を変えられると本気で信じる人たちこそが本当に世界を変えているのだから」
 

ルール、規則、慣習、掟を飛び越え、そして世界を変える。さらに大事なことは「人間を前進させた」ということ。くしくも同じ日に公開された『42』と『スティーブ・ジョブズ』という2つの映画は、共にこのことについて描いていた。

しかし、こうした映画だけでなく、色んな人が「ルールを超えること」の必要性を口にしていいるにもかかわらず、一方でコンプライアンス信奉が大手を振っている。それが分からない…。

2013年11月 1日 (金)

「でも政治家は、法を守ることに意味がある社会自体の存続のために、必要ならば法の外に出ることを辞さぬ存在でなければならない」

前回のブログ(10月29日)では、国会議員の亀井静香氏の以下のコメントを紹介した。改めて載せてみる。朝日新聞10月29日より。

「政治家に必要なのはね、使命感と覚悟だ。しかし今の政治家は覚悟がないから権力を使わない。間違えて損をするのは怖いから、事なかれ主義で掟に従う。どうして政治家になったのかね」 

最近、使命感と覚悟を持って、リスクを恐れずに実行する政治家が少なくなったとの指摘である。掟、すなわちルールに従わない政治家は「悪人」とされるとのこと。 

本当に「ルールに従わない政治家」がダメな政治家なのだろうか。その辺のことを改めて考えてみたい。

岩波書店が100周年で編集・出版した『これからどうする』という本の中に、ジャーナリストの船橋洋一さんによる以下の言葉を見つけた。
 

「官僚機構は通常、ルーティン(日常)に対応するように設計されている。ここでは、公正、法遵守、効率などの価値観が尊ばれる。ところが、危機時は、選択と集中・柔軟性、臨機応変・ルール無視、冗長性が往々にして必要となる。このモードの切り替えは政治家の最初にして最大の仕事である」 (P41) 

法・ルールを守るのが官僚で、それに対して、臨機応変に「ルール無視」が求められるのが政治家である。という指摘。

そこで
以前、紹介した社会学者の台真司さんの言葉をもう一度、並べてみたい。(2012年5月8日のブログ パート1パート2から)

宮台さんは、マックス・ウェーバーの『職業としての政治』という本に書かれていることを次のように紹介している。TBSラジオ『荒川強啓デイキャッチ』(2012年4月27日)より。

「政治家は、法律を守るべきでは必ずしもない。法律を守っていては、国民を守れない場合には法律を踏み越えろ」 

「合理的であることに意味がある社会の存続には、合理性の枠外で振る舞える存在が必要で、それが政治家だというのがウェーバーの主張でした。人が重要だということ」
 

雑誌『サイゾー』(2012年5/18号)での宮台氏の指摘もある。 

「一般市民は、命を失うことを恐れ、法を尊重しない者を糾弾します。でも政治家は、法を守ることに意味がある社会自体の存続のために、必要ならば法の外に出ることを辞さぬ存在でなければならない。法の外に出ることで社会に益する所が少なければ政治家は血祭りにあげられますが、政治家にその覚悟がなければ、社会が淘汰されます」 

マックス・ウェーバーも言っているのだ。必要ならルール・掟を乗り越えろ、と。そのリスクを背負うために、亀井氏の言う「使命感」と「覚悟」が必要とされる。 

南相馬市の桜井勝延さんの言葉も思い出す。『放射能を背負って』(著・山岡淳一郎)から。(2012年6月20日のブログ 

「現実を直視して、人間として、ふつうに、当たり前に、ということです」 

「彼らの声は、なかなか外に伝わらない。その声なき声を支えるためには法的根拠には従うし、専門家の知見も参考にする。でも現場感覚が圧倒的に重要です。机上論は、現場で通用しない。現場感覚を大切に、人間の良識、常識に従って判断をする」 (P144) 

その使命感や覚悟はどこから来るのか。現実を直視し、現場感覚を大切にし、人間の良識・常識に従うこと。決して、ルールや掟に従うことではないのである。 

もうひとつ。

スピルバーグ監督の映画『リンカーン』もそんな映画だったと思う。映画の中でのリンカーン大統領のセリフ。(2013年4月22日のブログ  

「コンパスは真北を示すことができるが、君の目的地と君との間にある障害物については何も知らせてくれない。もし君が真北を目指して、その結果、沼にはまってしまったら、君は良いことを誰にもしてあげられない」

日本の政治の世界では、経済成長や消費者要求、対アメリカ関係の前に何もできない政治家、前例や慣習、しがらみを飛び越えられない政治家、そんな政治家ばかり。われわれ有権者やマス・メディアも、掟やルール、慣習を遵守することばかりを求めるのではなく、「長い目で社会に益するかどうか」で彼らを判断・支援していくべきなのだろう。

 



 

2013年10月29日 (火)

「間違えて損をするのは怖いから、事なかれ主義で掟に従う。どうして政治家になったのかね」

今日の朝日新聞(10月29日)での「私の悪人論」という特集記事。そこに国会議員の亀井静香氏のインタビューが載っていた。興味深いコトバがあったので、それを紹介してみたい。

「今の時代、欲望だらけで、金よ、金よの利益追求が極大に達している。新自由主義なんてその最たるもんだ。政治家もその渦に巻き込まれている。そこで起きるのは事なかれ主義だ。世の中をどうにかしようという強烈な意志を持つやつなんていなくなった。大勢に順応し、自分の利益を守ろうとする。政界もそんなのばかりだ」 

「金よ、金よ」の利益追求の社会では、「事なかれ主義」が広がり、「大衆に順応」する傾向も増える。つまり、「リスク回避」の傾向が広がり、「水を差す」ことも忌避される、ということだ。政界も例外でないという。 

さらに亀井氏は、次のように話す。 

「俺は違う。人間が決めた掟にかまわない行動をする。だから悪人といわれる」 

「政治家に必要なのはね、使命感と覚悟だ。権力は、男性を女性にし女性を男性にする以外なら、なんでもできる。しかし今の政治家は覚悟がないから権力を使わない。間違えて損をするのは怖いから、事なかれ主義で掟に従う。どうして政治家になったのかね」

「掟」に従わない人間が「悪」。いうことは、今の世の中での「善人」というのは、「掟」つまり「ルール」に従う人のこととなる。まさに「ルール主義」がはびこるわけだ。(2012年5月8日 6月20日のブログ など)

亀井さんの指摘によれば、リスク回避の「事なかれ主義」と、「掟に従う」というルール主義はセットなわけだ。 

この「私の悪人論」という特集は、リレーで行われており、前回は、元検事の田中一光さんのインタビュー。その中から。(朝日新聞10月22日 

「検事や弁護士の仕事をする中で、法と自分が考える正義が衝突することがよくありました。法に従うか自分の信念に従うか。究極の選択をする時、判断基準にしたのが若いころから私のバックボーンだった『論語』でした」 

ルールである「法」と、価値観や美意識による「自分に考える正義」の衝突。これは、検事だけでなく、普段の生活や社会活動の中でもあちこちで起きる。こういう時に、盲目に「法」や「ルール」に従ってしまうことが、まさに「ルール主義」なんだと思う。ここで興味深いのは、田中さんは、「論語に照らし合わせる」という考え方。まさに「過去の英知」すなわち「歴史に学ぶ」ということ。(7月25日のブログなど) 

ちなみに。 

この「私の悪人論」。その第1回は、俳優の宇梶剛士さん。そこでも次の言葉が出てくる。(朝日新聞10月16日

「人間は理性を持ち、過去から学ぶ生き物です」

そうです。学ばなければいけない。当たり前のことです。

ちょっと前に、NHKのBS1で『オリバー・ストーンが語るアメリカ史』というシリーズ・ドキュメンタリー番組を放送されていた。その最終回(第10回)で、オリバー・ストーン監督も、次のように語りかけていた。 

「人類の歴史には戦争や死の記録だけでなく、誇りや成功、優しさ、思い出、そして文明が刻まれているのです。過去を振り返ることから未来への道は開けます」 

リスク回避社会、ルール主義社会。それを打破し、抜け出すためには、「歴史」や「過去」に学び、そして積み上げた自分なりの価値観、美意識、心情を信じるしかないということ…。こう書いてみると、本当に本当に、当たり前のことなんだと思うんだけど、どうも政治の世界をはじめ、そうはいかないのが、これまた不思議だったりする。

2013年8月28日 (水)

「会社の業績悪化や家族の病気など、人にはいや応なく別のニッチを探さなければならない場面がでてきます」

少し前の毎日新聞夕刊(8月13日)に、作家の島田雅彦さんのインタビュー記事が載っていた。新刊『ニッチを探して』の出版に際してのもの。まだ本の方は読んでいないけど、印象的なフレーズがあったので紹介しておきたい。

「会社の業績悪化や家族の病気など、人にはいや応なく別のニッチを探さなければならない場面がでてきます。どう対応できるか、自分をどう更新できるかで、その人の生き方が分かれると思う。この覚悟を持っているかどうかは大きい。東日本大震災を意識しました」 

生きていくうえでは、突然予想外の出来事が起きる。今までの自分の居場所が失われ、新たな居場所を見つけなければならない時が来る。ということだろう。 

ちなみに小説のタイトルにも入っている「ニッチ」。辞書で調べてみると「隙間」という意味。

「隙間」という言葉で思い出す話がある。建築家の坂口恭平さん著書『一坪遺産』で紹介していたエピソードで、東京駅で靴磨きを続ける男性についての話。少々長いけど、紹介したい。 

「そんな変化を続けている場所でムラタさんは今日も路上で靴磨きをやっている。 

『都市開発進んでますけど、大丈夫ですかね?』と僕が聞くと、『その時はまた必ずどこかに隙間が見つかるんだよ。そうやって今まで来たからね』。

 
どんな所でも隙間があるという確信なんてものを、今どれくらいの人が持っているのだろうか。いつの間にか僕は、かつてあって、自由に出入りこんで遊べた空地のような土地なんて無くなってしまったと思い込んでいた。こんな都市のド真ん中ではなおさら無理だと。

 
しかし、ムラタさんは全く逆の考え方で生きている。彼を見ながら、もしかしたら都市は視点さえ変えれば隙間だらけなのかもしれないと僕も思うようになった。使う人によって空間はどんな姿にでもなるのである」 (P72)

まさに、新たなニッチを探して生き延びている人の具体的なエピソードである。「都市は視点さえ変えれば隙間だらけなのかもしれない」という言葉にも勇気づけられる。 

さらに、ドキュメンタリー映画を撮っている想田和弘さんも、毎日新聞夕刊(6月16日)のインタビュー記事で次のように語っていた。 

「主流から外れたときに、すき間を探すことが大事だ」 

ニッチを探す。隙間を探す。これまで僕は、サッカー用語から「スペースを探す」「スペースを埋める」という言い方を使ってきた。かなり以前のブログ(2012年5月8日)で、「ルール(規則)主義から原則主義へ」というフレーズを、「ルールを守ることから、スペースを埋めることへ」という言葉に言い換えたことがある。

そういえば、作家の平野啓一郎さん『空白を満たしなさい』というタイトルの小説があったが、この「空白」という言葉も同じニュアンスなのではないか。 

その「ルールを守ることから、スペースを埋めることへ」といことをシミジミと感じたのは、何度か通った東日本大震災の被災地である。非常事態の被災地では、空いている「スペース」を自分で見つけ、そのスペースをひとつひとつ埋めていかないと社会が起動しない。そこでは、これまでのルールや規則はもう役に立たない。現状に合わせて、ルールを変えたり、新しいルールを作っていく必要があるのである。 

これも以前のブログ(2013年3月7日)で書いたことと重なる。 

きっと同じことは、きっと日本の社会全体にも当てはまるのではないか。これまで右肩上がりが続いてきた社会では、何よりも「ルールや規則を守ること」が尊重されてきたように思う。しかし、これからの先が見えない社会では、きっと今までのルールが適応できない。現状とズレてしまったルールを守り続けることより、ズレによって発生したスペースや隙間を自分なりに埋めることが重要になってくるのではないか。
 

話はサッカーに移る。ただサッカーコーチをしている池上正さんが指摘していることも同じなのだと思う。コーチの言うことを聴いているだけでは選手は伸びない。自分でやるべきこと、スペースを見つけ、そこを埋める新しいプレイをクリエイティブしていくべきなのである。著書『サッカーで子どもをぐんぐん伸ばす11の方法』より。

「子どもが困ったときに大人の顔を見るという状況が、日本では非常に多い気がしてなりません。 

特に、スポーツというものは、練習したような場面がいつも実戦で出てくるわけではありません。その都度、その都度、本当に微妙なのですが、違う状況がいっぱい出てきます。すると、言われたとおりの練習をやってきただけの子どもたちはそういう状況に対応できません」 (P90)

「『コーチの言うことを聞いてその通りにやる子よりも、コーチに反抗して全然言うことをきかない選手を育てたい』という方もいます。そういうコーチは自分の経験でわかっているわけです。自分たちの言うことを聞く子よりも、言うことをきかないこの方があとで伸びていくということを」 (P92) 

「ある時、オシム監督は言いました。 

『ヨーロッパの選手は、コーチが右だ!と言ったら、知らん顔して左へ行くよ』
周りになんと言われようが「おれの判断では左だ」と主張するのがヨーロッパの選手だといいます。
 
『日本人は右へ行けと言われたら、みんな右に行くね』

日本人の従順さは、監督にとって不可解であるとともに残念そうでした」 (P98)

もうひとつ。異なる分野から。ノンフィクションライターの立石康則さん著書『パナソニック・ショック』から。

「経営は日々、未知との遭遇である。マニュアルにないことばかりが起きるのが現実である。その現実と向き合い、自分の頭で考え絞り出した答えをぶつけながら、間違えば修正しながら正しい答えを見つけ出す作業でもある。つまり、経験は暗黙知の世界なのである。だから、それを幸之助はしばしば『カン』という言葉で言い表している」 (P179)


先の読めない時代。未知なる時代。今までのルール・規則・マニュアルに背いたとしても、自分で考え、やるべきことや場所をみつける。やはり時代は「ルールを守ることから、スペースを埋めることへ」という流れなんだと思う。

 

2013年4月22日 (月)

「枠をいちいち怖れることはないけれど、枠を壊すことを恐れてもならない。人が自由になるためにはそれが何より大事になります」

これまで「ルール」をめぐるエピソードを何回か取り上げた。昨年6月12日のブログでは、東日本大震災直後の非常時においても、既存のルールに囚われ、従ってしまう具体的な例を紹介した。

そんな例をもうひとつ。朝日新聞で連載が続いている『プロメテウスの罠』。それが書籍化された朝日新聞特別報道部『プロメテウスの罠4』を読んでいたら、震災対応での個人情報の問題を取り上げていた。 

南相馬市にある社会福祉協議会の高野和子さんは、震災直後、市内の障害者の居場所や避難先を確認しようとして、市に問い合わせても、個人情報保護法を盾にして「いえません」との回答だったという。それについて高野さんは、次のように語っている。 

「混乱の中では個人情報保護なんていっていられないはずなのに、命にかかわることだってあると思う。何とかしなければならないことなのに、忙しいのでうやむやさにされている」 (P35) 

そんな中、南相馬市の健康福祉部長、西村武義さんは、市としての判断の前に、障害者の個人情報を支援者に開示することを決断する。西村さんは、部下に面と向かって次のように言われたという。 

「部長のやっていることは、条例違反です。意義はあると思いますが、すぐに中止すべきです」 (P37) 

障害者団体が組織する日本障害フォーラムの幹事会議長の藤井克徳さんも、次のように語る。 

「ほかの市町村ではほとんど情報開示が進まなかった。こんな極限状態で、個人情報を悪用することなど考えられないのに」 (P39) 

そうした「お役所」の対応について、弁護士の岡本正さんは、次のように指摘する。 

「何か不祥事が起きたときの責任ばかり考えている。これでは住民の命を救えない」 (P49) 

ここでも、もしもの「ミス」を恐れ、住民の命よりも、ルールを守ること、何事もないことが優先される。何事もないといって、それは自分の立場に限ったもので、その陰では命という、「何事にも変えられないもの」が犠牲になっている。 

以前(2012年9月3日のブログ)に紹介したことがあるが、映画『ダークナイト ライジング』では、ゴッサムシティの市警のゴードン本部長が新人警官に対して、次のように語っていた。

「法が武器にならずに枷となって、悪人を裁くことができない悔しさ。いずれわかる時がくる」 

まさに個人情報保護の場合は、法(ルール)が枷となって、「悪人を裁くことができない」ではなく「住民の命を救うことができない」という状況になっていたのである。この映画では、ジョゼフ・ゴードン=レヴィット演じる新人警官は、最後に本部長の考えに理解を示した。南相馬市の西村部長を問い詰めたという部下も、事態のあとにはそうなっていてほしい。 

村上春樹さん新刊『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』では、主人公の多崎つくるに対して、友人の灰田文紹は次のように語っている。 

「どんなことにも必ず枠というものがあります。思考についても同じです。枠をいちいち怖れることはないけれど、枠を壊すことを恐れてもならない。人が自由になるためにはそれが何より大事になります。枠に対する敬意と憎悪。人生における重要なものごとというのは常に二義的なものです」 (P68) 

このセリフの枠というのも、ルールに置き換えられるだろう。まさに、ルールそのものに対して敬意と憎悪の両面を持っていて、そして非常時に必要があれば、そのルールを壊すことも大切なことなんだと思う。

最後にもうひとつ。この週末に公開されたスピルバーグ監督映画『リンカーン』。その中で、ダニエル・デイ=ルイス演じるリンカーン大統領は、次のように語っていた。

「コンパスは真北を示すことができるが、君の目的地と君との間にある障害物については何も知らせてくれない。もし君が真北を目指して、その結果、沼にはまってしまったら、君は良いことを誰にもしてあげられない」

こちらも深いセリフ。
コンパスはあくまでも目安・指針なのである。当然、現場での判断が大事になる。

少し話はずれるが、この映画は「これぞ政治、これぞ議会、これぞ民主主義」という内容。ぜひ「憲法96条改正」を唱える政治家の方々に観てほしい。3分の2を越えるための努力が詰まっている。憲法を改正するなら、このくらい駆け引きして改正すべき。その前に、まずなくすべきは、「枠」「枷」そのものの党議拘束だろうけど。

 

2013年3月22日 (金)

「とくに日本人はその傾向が強くて、勝手にいろんな標識を立ててしまうわけです」

このブログでは、何度も取り上げているが、ピーター・バラカンさん「この国は、ルールを決めておけば、絶対にそこから外れないというところがあります」(2012年6月20日のブログ)など、ついつい決められたルールに拘泥してしまう日本の体質に関する言葉を紹介してきた。(2013年3月7日のブログなど)。

昨夜、作家の森達也さんとジャーナリストの上杉隆さんによる対談をまとめた『誰がこの国を壊すのか』という本を非常に興味深く読んだ。その中で、上記の「ルールに拘泥してしまう体質」にまつわる話があったので紹介してみたい。森達也さんは、かつてテレビの世界での経験を次のように語っている。

「テレビ時代に『放送禁止歌』というドキュメンタリーを作りました。誰もが放送禁止かというカテゴリーがメディア内には存在していると思い込んでいた。メディアだけじゃなくて、ミュージシャン、レコード会社、音楽業界も含めて、この社会全域といってもいいかもしれない。ところが調べてみたら、そんな規制などどこにもない。つまり自主規制と同時に、規制の主体が自分たちであることを放送業界の人たちが忘れていた」

「極めて日本的な現象だと思います。なぜ放送禁止歌ができるか、なぜこの歌は放送してはならないという標識が立てられるのか。標識がないと人々が不安になるからです。ここから先は立ち入り禁止ですよ、ここから先は足を踏み入れてはなりませんよ-そういうサインがあってはじめて、人は『ではこちら側は安全なんだ』と安心できる」
 (P112)
 

非常に興味深いコメントだと思う。誰もが絶対的な「ルール」だと思っていた「放送禁止歌」という規制。しかし、これは、「自主規制」でしかなく、「規制の主体が自分たちである」という。「とりあえずのルール」でしかなかったのだ。それを、森さんは「標識」と表現する。なるほどと深く肯いてしまう。 

さらに森さんは、次のように語っている。

「とくに日本人はその傾向が強くて、勝手にいろんな標識を立ててしまうわけです。そして自分たちで立てたにもかかわらず、それが何か一般意思のようなものが立てたと思い込んでしまう。自律を他律とすり替えてしまうわけです。つまり共同幻想です」 (P113)
 

「自律」と「他律」。はじめ自分たちの意思で、目安としての「標識」を立てる。いつの間にか、それを「絶対」のものとして、そこに「他律」、すなわち「外部規律」として依存する。これは、ピーター・バラカンさんらの指摘と全く重なってくる。 

さらに、その「外部規律」(前回のブログなど)については、メディアの世界も例外ではない。ジャーナリストの上杉隆さんも興味深い経験談を語っている。出演していた北海道文化放送の番組『U型テレビ』で、ある殺人事件で浮上していた容疑者についてのことである。 

「自分たちの取材を信じて出すのなら今出しなさい。出さないなら匿名報道にしなさいとアドバイスしたんですけど、結局、僕のその意見は無視されてしまいました。だたいま警察が発表しましたとなったら、その瞬間から実名とか彼の映像とかがダーッと出るわけです。 『U型』はもっともマシな番組だと思います。だが、そこですら『私たちはすでに逮捕前から彼の映像を取っていました』とかナレーションが語る。これはテレビだけではありません。日本の記者たちって、そういう権力依存体質が染み付いてしまっていて、自己判断能力を失ってしまっているのです。これはもう根が深すぎて、また絶望という言葉を使ってしまいます」 (P195) 

「原発問題の報道でもそうです。昨年3月14日くらいまでは、各メディアも『メルトダウン』『炉心溶融』という言葉を使っていました。それが枝野幸男官房長官が「燃料棒の一部損壊で、炉心溶融はしていない」と発表したとたん、『一部損壊』で統一されてしまった。自分達の取材より政府発表を信じるわけです」 (P84) 

上杉さんが指摘する記者クラブ体質では、判断基準や規律を「外部」すなわち「権力」に依存してしまう事例のオンパレードである。

便宜上、暫定的に設けた標識、目安、方便が、やがて絶対的なシステムとなり、それに依存してしまう我々をがんじがらめにする。本当に日本の至るところで起きていることなのだろう。上杉さんの「これはもう根が深すぎて、また絶望という言葉を使ってしまいます」というセリフが痛々しく体にしみこんでくる。

作家の阿部和重さんの次の言葉をもう一度、問いかけたい。(2012年9月3日のブログ)


「社会を成立させ円滑にするため、人はルールを決め従っている。生活習慣でも憲法でも。でも、信じているものがなくても生きられないわけではない。人間が作ったルールはすべて暫定的なものだと強調したかった」


2013年3月13日 (水)

「わたしは『だめだと言われたからだめなんだ』と思う子どもを育ててはいけないと思っているんです」

ここ数回のブログでは、日本という社会の、一度決めたルールに拘泥してしまう体質や、外部規律に依存してしまう体質についてのツラツラ考えながら言葉を並べてきた。

どうしたら、こんな体質を変えられるのだろうか。正直、ちょっとお手上げな感じもあるけど、とどのつまりは、教育から変えていくしかないんじゃないかなと思ったりもする。教育現場で「ルールは社会の変化にあわせて変えていかなければならない」とか、「外部規律より、自己規律で考える」というようなことを子供たちの体質にしみこませていく。それしかないんじゃないのかな~と。

そんなことも考えながら、たまたまフィンランドの元外交官で、現在は教材作家として教科書作成などに携わる北川達夫さんと、劇作家の平田オリザさんによる共著
『ていねいなのに伝わらない「話せばわかる」症候群』という本を読んでいた。この本の中にも、やはり子供たちに対しても、外から規律を押し付けてしまうような教育現場の状況が指摘されていた。北川達夫さんは、次のように語っている。

「フィンランドから日本に帰ってきて、日本の教育現場に入ってみてびっくりしたものの一つに、読書指導があります。それは、先生たちが選んだ本を子どもたちに『いい本として』読ませているということです。先生たちが一生懸命、いままでの知識と経験を駆使していい本を選ぶ、社会的評価が高い本を選ぶ、それはもちろんいいです。でも、私たちは、『それを読んで、いいか悪いか、好きか嫌いかを決めるのは子どもたちだ』という教育哲学が徹底している国にいたものですから、いい本だという、教師側の価値観、評価をいっしょに子どもたちに与えていることにものすごく驚かされました」 (P22)

そして、北川さんは、次のようにも指摘する。

「そこに、規範意識といいますか、教える側の『教室での表現というものはこうあるべきである』『子どもは元気で、はつらつとした存在であるべきである』という、表現観、価値観が強く入り込んでいるのかもしれないですね」 (P122)

さらにフィンランドの教育を引き合いに、日本の教育の問題点を次のように語っている

「ご推察の通り、あれにはあらかじめ決められた答えはないんです。話し合っているなかで、『ここまで言われたら自分だったら許せない』『この程度ならば許せる』というラインを子どもたちがそれぞれ決めていくんですね。
 そういう葛藤のある、いま平田さんが言われた『うそを言うことと、おおげさに言うこと』や、同じく国語教科書のなかに出てくる、『いじめられることと、からかうこと』など、境界線の引き方が個人や社会によって大きく異なってくるような問題が意図的に立てられているんです。それは、話し合いでみんなの意見を聞くことによって他人の価値判断を知ると同時に、自分で価値判断をしていく学力が子どもたちに必要だという考えに基づいているんですね。
 ここで大事なことは、もし修身のような旧来の道徳教育だと、その境界を大人がきっちり決めて、『これはうそつきですよ』と上から教え込むことになるということです」 (P17)

これに続いて、平田オリザさんも次のように指摘している。

「日本の国語教育は、一面で戦前の修身の代用品みたいにされてきたという歴史があって、どうしても、道徳的な読み取り、あるいは、規範的なことばの学習という傾向を、いまもずっと抱えています。読解力といっても、それが実は、社会の道徳観やその先生の価値観をくみとることだったりする。
 いま、『読解力』とか『考える力』とか『話しあう力』をほんとうに求めていくのであれば、教える側が持っている権力を放棄するような覚悟をしないと、学校の先生がまず、規制の価値観や道徳観の教え込みに対して敏感にならないとだめだと思うんです」 (P18)

やはり日本の外部規律に対する依存体質の始まりは、想っていた以上に根深いのかもしれない。

なのに、我が国の政府が立ち上げた「教育再生実行会議」というものあって、その会議は先月26日に、「道徳の教科化」などを含めた提言を取りまとめ、安倍晋三首相に手渡している。「道徳の教科化」。さすがに「修身」という言葉こそ使っていないが、もう「外部規律の押しつけ」のニオイがプンプンと漂ってくる。やれやれ。

では、日本でもどういう教育を行っていけばいいのか、
北川達夫さんの提言を紹介してみたい。

「家庭教育でも、学校教育にしても、子どもには『だめなことはだめだ』と厳しく教え込むべきだという意見や要請がありますが、わたしは『だめだと言われたからだめなんだ』と思う子どもを育ててはいけないと思っているんです」 (P35)

「相手の見解があって自分の見解がある、それが対立するとお互いが変わってくる。まさに、その変わってくるところを楽しめるか。そこを重視できるかですよね」 (P175)

一方、
平田オリザさんのの提言は、次のようになる。

「対話の場を作るには、そういう、答えが一つじゃない、あるいは、すぐに答えを決めない授業を増やしていかないとだめでしょう。それは学校の先生たちにとっては大変な事なんだと思います。やっぱり答えが一つで、そしてその一つの答えを先生がふところにかくしておいて、最後にぱっと見せるというほうが、子どもたちをコントロールしやすい、楽な授業なんですよね」 (P51)

「これからの日本社会は、協調性(価値観を一つにまとめる能力)がいらないとは言わないけれど、それよりも社交性(異なる価値観をそのままに、知らない人同士がどうにかうまくやっていく能力)が必要だ」 (P218)

平田さんの、「答えがひとつしかないことを教える授業」の背景には、その方が先生たちが「子供たちをコントロールしやすい」という理由があるという指摘。これにはドキッとした。

今年1月11日のブログや、2月1日のブログでは、「全てをコントロールしたがる大人たち」について書いている。結局、学校の教師も、そうだったのである。だけど「体罰問題」でも指摘したことだと思うが、子供は、そもそもその全てをコントロールできるものではないし、コントロールしてもいけないものなのではないか。それなのに「子供をコントロールしやすい教育」を追い求めてきた結果、「外部規律」に依存する体質が生まれてしまっている。そんな側面が今の教育現場にあるのも否定できないのでは、と思う。

しかし、こうした状況に「逆巻き」をかけるような安倍政権による「教育改革(再生)」の行く末が、怖いと想うのは少し考えすぎなのだろうか。

 

2013年3月12日 (火)

「私たちはコシヒカリとその偽物を区別することができなかった。もはや私たちは、自らの感覚ではなく、DNAという外部情報によってしか判断を下せなくなってしまっている」

前回のブログ(3月11日)で、「外部規律」につい従ってしまう日本社会の「体質」についてまとめた。その体質は、実はこんな分野でも現れているというのを紹介したい。

サッカーの世界。かつて世界各国のチームで活躍して、現在は川崎フロンターレで活躍する稲本潤一選手は、雑誌『フットボールサミット』(第9回)の中のインタビューで、次のように語っていた。 

「確かに、日本のほうが組織的な約束事だらけだったり、ここはこうしようというのは多いですね。それは、Jリーグに復帰してからも感じるし、欧州でもそういうところはあるけど、僕がいたチームはあまり戦術にハメ込む感じはなかったから。アイツが行ったからここはカバーするとかいうのも、基本的には個人の判断に基づいていました」 (P119) 

いまは、京都サンガでGMを務める祖母井秀隆さんは、サンガとJリーグの問題点について雑誌『サッカー批評』(No.60)で、次のように語っている。 

「指示待ちじゃないけど、もっともっとこう自分達でゲームを構築していかなきゃいけない。それはサンガだけの課題じゃなくてJリーグ全体の課題やと思いますけどね。即効劇みたいに自分達でパッパッパとこうね。そういうものは少なかったかな」

ともに
選手たちの「決まりごと」「指示」に従う傾向を指摘する。ただ「外部規律」に従うのは、選手だけではない。メディアもしかり。サッカージャーナリストの杉山茂樹さんの次の指摘も興味深い。著書『日本サッカー MF論』から。 

「『イタリアの大手スポーツ紙、ガゼッタ・デッロ・スポルトは、インテルの長友選手に4・5という低い評価を下しました』。その記事を書いた記者は、長友のプレイをいったいどう思ったのか。まずそれを述べるのが物事の筋だ。自分の意見を一切述べず、すなわち自分の手は一切汚さず、他人の評価だけを伝える姿勢には、狡さを覚えずにはいられない」 (P184) 

自分の中の基準で物事を見ない、語らない。そしてあくまでも外部に従ったり、従わせたりする体質、風潮はこんなところにも出ているのである。 

スポーツではなく、日本の食の、コメについて指摘する次の言葉も興味深い。生物遺伝学を専門とする佐藤陽一郎さんの著書『コシヒカリより美味しい米』から。 

「日本人は、少なくともコメについて『味音痴』になってきていると思う。それはある種の食の貧しさからきているし、またコメの品種の違いがなくなってきているからでもある」 

「私たちはコシヒカリとその偽物を区別することができなかった。もはや私たちは、自らの感覚ではなく、DNAという外部情報によってしか判断を下せなくなってしまっている」 

「『外部情報によってしか判断を下せない』という状況は。もうだいぶ前からのものである。高い物が売れる、という実に奇妙な現象がそれだ」

「外部情報」、すなわち「外部規律」にしか従えない状況を端的に表している。市場自体も一律化し、判断が難しくなっているうえ、多様性が失われた結果、違いを味わい判断する能力そのものも失われているのである。

当然ながら、こうした指摘が当てはまってしまうのは、食やスポーツの世界だけではないはずである。

2013年3月11日 (月)

「処罰への恐怖だけで規律を守っている人は、規律が利かない場面、処罰の恐れがない場面では、いきなり利己心や暴力性を噴き出してくる」

先日のブログ(2月13日)でも紹介したが、著書『荒天の武学』の中で、思想家の内田樹さんは、次のように語っている。

「今の日本人が失った最たるものは、その自己規律ですね。外的な規律は、違反すると処罰されるから、恐怖ゆえに違反しない」 

「自己規律が内面化された人は、外的な規律や処罰の有無とは無関係に、自分で決めたルールに従って行動する」 (P234) 

日本人は、「自己規律」を失い、「外的規律」に従う風潮がある、という指摘である。この指摘もまた、前回(3月7日)のブログに書いた「ルールや法令をやみくもに遵守する」という問題と、基本的には同じ構造である。 

活動家の湯浅誠さんの著書『貧困についてとことん考えてみた』には、こんな言葉もあった。 

「一律が好きだというのは、やはり、自分に自信がない。自分自身の判断基準を持っていないということじゃないんでしょうか」 (P166) 

日本社会の特徴としてよく指摘される「一律」、「空気を読む」というのも、すなわち「外部規律」に従うことである。まさに一律に「外部規律」に従ってしまうと、社会が一気に同じ方向に流れるという現象が生まれる。そうやって日本はかつて戦争に突入したのである。 

少しだけ話は飛ぶかもしれないが、「人権」というものについて、先日、「ビデオニュース・ドットコム」の『ニュースコメンタリ』(2月23日)で、社会学者の宮台真司さんが、次のように説明していた。 

「公共の秩序をどう理解するかというときに、人権内在説(社会内在説)という立場と、人権外在説(社会外在説)的な立場と言うのがある。前者が連合国的、後者が枢軸国的」 

その「人材内在説」について、宮台さんは次のように説明する。 

「前者はお互い人権は持っている、お互いの人権がバッティングし両立不可能なときに、どうするか。片側だけが人権を主張することが許されない。人権の両立可能性の問題に照準化する。もうひとつ重要な問題は、お互いが人権を実現、有効利用するのに必要なプラットホーム、コモンズですよね、そうしたものも公共の秩序にあたるわけ。これは国家が提示するものではなく、僕らが市民社会を営む上で、場の存在とか、インフラの存在とか、メディアの存在とか、そうしたものが必要だと思えば、それが潰されてしまうことも実は公の秩序への侵害なんだと考える」 

これに対して、「人権外在説」については次のように説明している。 

「人権外在説という立場というのが、まったくそれとは違っていて、市民社会で人々はなにをどう考えていようが、それとは関係なしに、良き秩序という観念が存在していて、良き秩序という観念を提示するのは統治権力。だから市民社会、人権という概念の外側から良き秩序という概念が覆いかぶさるかように入ってきて、それが人々を規制できるんだという考え方」 

この話も非常に興味深く聴いた。これも人権をめぐる「自己規律」と「外部規律」の話なのである。同じ構造だ。統治権力が定める人権、すなわち外部が定める人権(外部規律)に個人は従え、というのが戦前の日本を含めた枢軸国の考え方で、それを連合国が駆逐して、世界標準となったという。 

最近の政治の状況、自民党の憲法改正案などをみていると、またしても戦前の「人権外在説」に戻ろうとしているのではと考えたくなってくる。体罰問題から、憲法問題まで。もはや「外部規律」から脱せない日本社会の「病」は、そうとう深刻な根深いもののように感じられる。 

では、なぜ外部規律に依存してしまう状態が心配なのか。 武道家の光岡英稔さん『荒天の武学』で、次のように語っていた。

「戒律を『守らなくてはいけないもの』というふうに自分の外に置いて、求めるものにしてしまうと問題です。自己責任ではなく、ルールに従わないといけないものになってしまう。そのルールを守っているから『書かれていないことには従わないでいい』という甘えをつくってしまう」 (P234) 

この本の中で、内田樹さんも次のように語る。 

「処罰への恐怖だけで規律を守っている人は、規律が利かない場面、処罰の恐れがない場面では、いきなり利己心や暴力性を噴き出してくる。これは本当にそうですね。外的規律の厳しい集団で育てられた人ほど、無秩序状態のときにでたらめな振る舞いを始める。自己規律が内面化された人は、外的な規律や処罰の有無とは無関係に、自分で決めたルールに従って行動する」 (P234) 

ホリエモンの事件を思い出した。法・ルールが整備されていない部分では何をやってもいいという考え方。結局、外部規律に依存するからこそ、ときに「暴走」を生む。そういってもいいのかもしれない。

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