「だけど野球にはマナーがあります。フェアプレーが大切です。ルールでは規制されないけど、やってはいけないことがあるのです」
ここ3回のブログ(1月24日から)では、日米の野球における価値観の違いについて書いてきた。今回も、その続き。
これまで、このブログでは「日本では、一度決めたルールから外れることができない風潮がある」ということについて何度も書いてきた。(2013年3月22日のブログなど)
そのうえで、これからは「ルール主義から、原則主義」(2012年5月8日のブログなど)、「ルールを守ることから、スペースを埋めることへ」(2013年8月28日のブログなど)という考え方を打ち出してきた。
それらのの文章を読み直した後、改めて平林岳さんの本を読んでみると、いくつか「ルール」に関する言葉が引っかかってくる。改めて、その著書『サムライ審判「白熱教室」』から。
「ルール重視の日本野球とマナー重視の『ベースボール』。勝利主義に偏ってしまうと、野球を楽しめなくなります。フェアではないことまでしてしまうのです。勝つためには、ルールに反しないギリギリのことまでしてしまいます。指導者が勝利に執着するあまり、ずるいことを子供たちに教えることもあります。だけど野球にはマナーがあります。フェアプレーが大切です。ルールでは規制されないけど、やってはいけないことがあるのです」 (P37)
わかかりやすく言えば、日本の野球は「ルール重視」、ルールさえ守れば何をやってもいい(これはボク自身、日ごろの少年野球で感じていること)。それに対して、アメリカ野球は「ルールよりマナー重視」、ルールが当てはまらなくても、マナーを守ることが大事。
つまり、日本の野球では「ルール主義」、アメリカの野球では「原則主義」という言い方もできる。
平林岳さんは、もうひとつの著書『パ・リーグ審判、メジャーに挑戦す』でも、次のように書く。
「アメリカで審判をしていると、ルールに則ってゲームを進めるための『マナー』がいろいろあり、ルールよりもむしろマナーを運用しているという実感があります。ファンが試合を楽しめるようルールを守るのは当然で、また常にルールがりっかり守られているので、それ以外のマナーを大事にして、さらに補っているという感じを受けます」 (P245)
こうしたことを読むと、株の世界で「法律や決まりがないから」ということでギリギリなことをやっていたホリエモンのこともなどを思い出す。だから政治の世界でも、日本では法の抜け穴を探しながらの「ねずみごっこ」が絶えない。
以前のブログで、結局、スポーツの世界では「ルールを守ることより、ルールを作る、変えることが大事」ということを書いた。(2013年3月7日のブログなど)
リアリストの落合博満さんも、まったく同じことを指摘している。著書『采配』から。
「ルールで決められることは、どんな理由があっても守らなければいけない。私はそう考えている。ただし、そのルール自体に抜け道があったり、時代にそぐわないものになっていたら、徹底的に見直すことも必要だろう。ルールがその世界の発展を停滞されるものであってはならないからだ」 (P288)
毎度のことだが、それは野球だけのことではない。一般の市民社会でも同じことがいえる。
小平市で住民投票などの市民運動を支えてきた哲学者の國分功一郎さんの言葉も、上記の落合さんの言葉などとほとんど重なってくるから興味深い。國分さんは、これからの民主主義に必要なことを、著書『来るべき民主主義』で次のように書いている。
「法規等のルールに則って『このやり方でやれば文句はありませんね』という仕方で物事を進めていくのではなく、その場に現実にある条件に合わせてやり方をきめていく」 (P178)
たかが野球、されど野球である。日本の野球は、当然ながら、そのまま日本という社会の縮図になっている。ということなのだろう。