ランニングコスト

2013年4月10日 (水)

「へそ曲がりというか、偉そうな連中を見るとつい歯向かいたくなる反骨心というか、それは記者にとって最も大切な資質ですよ」

前回のブログ(4月9日)に続き、『メディアの罠』からの言葉を並べてみたい。

4月4日のブログでも、メディアでも、ジャーナリズムを果たすことよりも、効率化、リスク管理といった企業の論理が優先される「コンプライアンス」の風潮が強まっていることに触れた。今回も、そうしたメディア企業の組織やコンプライアンスについての言葉を中心に。 

まず、ジャーナリストの青木理さんのメディアの組織についての指摘から。 

「昨今の新聞やテレビは、官僚化と硬直化が極まり、安全運転と自己規制の固まりみないになってしまっている。少しでも危ない取材はせず、波紋を呼びそうな報道には手を出さない。つまりは、良い意味でのメディア組織の『緩さ』のようなものがほとんどない」 (P198) 

一方、長く北海道新聞で記者を続け、現在は高知新聞に属する高田昌幸さんは、次のように語る。 

「過度のおびえ、過度の忖度、そして報道組織の無責任体質が、タブーを作り上げている。そんな感覚が新聞社内にはあります」 (P158) 

ジャーナリズムを追うことを忘れ、あたかも一般企業のようなコンプライアンス意識が、原発事故にまつわる報道での「惨敗」を招いたということなのかもしれない。

青木理さんの言葉から。

「しかし今回、大手と言われるメディア組織は、まさに薄っぺらなコンプライアンス意識に足を引っ張られ、原発事故現場に近づかず、会社にしても組合にしても、身動きが取れなくなってしまった」 (P240) 

高田昌幸さんは、さらに詳しく語っている。 

「原発事故のような本当の厳しいケースとなると、記者を会社公認で現地に行かせるかどうかなんて、なかなか判断できないし、判断しようとしないでしょう。30代半ばくらいのキャップ給が決めることはあり得ないし、その上のデスク級も判断できないし、判断しない。では部長?局長?社長?もしかしたら、社長ですら判断できないかもしれません。事態の大きさを考えると、一社だけでは動けないかもしれない。きっと、同業他社や政府・当局の動向を探って『うちだけが突出しないように』という思考が働く。判断の放棄です。逆に言うと、事態が大きくなればなるほど、『国難』になればなるほど、メディアは自由な判断をしなくなる。きっと、そういうことです」 (P218) 

「うちだけが突出しないように」というのは、僕が現場にいたころも、ちょくちょく上部から回ってきた言葉である。いやな言葉、空気だ。 

さらに高田さんは、次のように話す。 

「つまり『誰が責任取るか』という話ですよね。だれも責任を取ろうとしない。『会社のために』などという理屈は嘘ですよね。『会社のために』という言葉が出るときは、単にその人の自己保身の裏返しでしかない。大メディアは、自己保身の集合体になっている。メディア組織の官僚化がものすごく深化したということです」 (P240) 

まさに「官僚」という行動様式なのだろう。ちなみに本は、変わるが、元朝日新聞主筆の船橋洋一さんの近著『カウントダウン・メルトダウン』には、原発事故における霞が関官僚に対する次のような指摘があった。参考として記しておく。 

「SPEEDIを公表することによってパニックが起こった場合、責任を取らされることを官僚機構は極度に恐れた。公表によって放射線量の高い地域の住民が我先に避難殺到し、制御できなくなるリスク、二次災害が起こるリスク、試算結果が後で間違いとなるリスク、そして何より保障を求められ、訴訟されるリスクを彼らが恐れた。
 
彼らは、行動することのリスクより行動しないことのリスクを取ることを選択したのである」
 (下巻P388) 

確かに、ジャーナリズムの世界も、官僚機構も、同じ病理に蝕まれているのかもしれない。メディア組織が官僚化し、硬直化すると、当然ながら、属する記者たちも追従することになる。再び『メディアの罠』から、青木理さんの指摘である。 

「日本のメディア企業は、所属している記者をスポイルしてしまう。徹底して型枠に嵌め込み、そこからはみ出ようとする人間を許さないような組織になってしまっているからです」 (P76)

「記者のスタイルも思考形式も定型化されていってしまっているように思うんです。職場である会社には、同じような学歴や同じような家庭環境で育った人たちが集まっていて、同じようなルートで記者として成長していきますから、同じような価値観に染まっている。そこに若干のエリート意識があって、同じ組織にいるという安心感が蔓延する中で仕事をしていると、本当に物事を深く考えなくなる」 (P80)
 

「へそ曲がりというか、偉そうな連中を見るとつい歯向かいたくなる反骨心というか、それは記者にとって最も大切な資質ですよ。しかし、大半の組織記者は、高田さんや僕のようにへそ曲がりじゃない。特に最近は、良くも悪くもまじめで従順なんです」  (P107)

メディアの規模の違いこそあれ、ボクも現場で同じようなことを感じ、呆れ、疲れ、その組織を出ることを選んだ。できればスポイルされる前に、と願って。ジャーナリズムの現場でも、コンプライアンスの徹底に何の疑問も持たず、その完全実行に使命を感じる人間がいるのは確か。どんどん増えている。そして今の時代は、そうした人間の方が、メディア企業の中では確実に出世する。悲しいことに。

やれやれ。ジャーナリズムの将来に光明を感じさせてくれる言葉を集めたいのだけど…。

2013年4月 9日 (火)

「俗っぽい事件まで、何やらものすごく大層な事件化のように仕立て上げてしまう。これは日本メディアの一つの病理です」

ここ3回(4月3日のブログから)では、メディアが抱えるランニングコスト、それがジャーナリズムの居場所を狭め、そして世の中で進んでいく「単純化・簡略化」を後押ししている、という指摘の言葉を並べてみた。

この週末に、3人のジャーナリストによる著書『メディアの罠』を読んでいたら、もっと詳しく話し合われていた。そこからの言葉も並べておきたい。この本は、ジャーナリストの青木理さん、高知新聞の高田昌幸さん、ビデオジャーナリストの神保哲生さんによる対談を中心にまとめられたもの。 

まずは、メディアが抱える「ランニングコスト」について。青木理さんの指摘から。

「誤解を恐れずにいえば、新聞記者なんて所詮はブン屋といわれ、本来は蔑まされているような職業だったのに、給料をもらい過ぎなんです。いや、かつては所詮ブン屋だからこそ、せめて給料くらいは高くしなくちゃという側面もあったのかもしれないんだけど、最近のブン屋は社会的地位もプライドも高い上に給料まで高くなってしまっている」 (P32)
 

「もう一つは部数です。800万部、1000万部なんていうお化けみたいな巨大部数を持つ新聞、これは明らかに大衆紙でしょう。大衆紙だからこそ、いわゆる事件報道を極度に偏重する。俗っぽい事件まで、何やらものすごく大層な事件化のように仕立て上げてしまう。これは日本メディアの一つの病理です」 (P33) 

神保哲生さんは、今のメディア企業に対して、次のように指摘する。 

「あまりにも特殊な環境の下で超のつく高コスト構造ができてしまい、試験管の中でしか食えないビジネスモデルになってしまった旧メディアは、インターネットに参入しようとすると、稼げないマーケットでのシェアを増やすばかりで、稼げるシェアがどんどん喰われていく」 (P21) 

高田昌幸さんによる新聞社の「体質」についての言葉も興味深い。 

「日本の新聞社は部数だけでなく、博覧会やらスポーツ大会やら何やら報道業務とは直接関係ない事業を多数抱え込んでしまった。組織が大きくなりすぎると、その組織維持が目的になる。保守化、官僚化の始まりですね。それが極まった。独創的な判断や行動は、官僚的組織には邪魔ものですが、一方では、パターン化された行動を重宝するようになります。融通が利かないし、決断も遅くて鈍い。そういうマイナス面が原発事故報道では、すべて出てしまったように思います」 (P304) 

社員記者たちの人件費、巨大な発行部数などなど、高コスト構造を抱え込む。結果として、硬直化した取材が増えるだけでなく、「事件報道の偏重」が起きてくるということなのだろう。 

高田昌幸さんの言葉から。

「事件報道が年々、過大、過剰になってきたように思います」 (P140)

「画一化とセンセーショナルな傾向が強まってきました。それはとくに、北朝鮮報道や大事件・大事故報道において顕著です。みんなが報道するから、うちも報道する。その代わり他社より少しだけ派手に行こう、みたいな感じですね」 (P44)

青木理さんも、紙面の変質を指摘する。 

「取材力の低下なのか、そもそも取材をしなくなっているのか。新聞で言えば、読み応えのある長期の連載記事なども、かつてより随分と減ってしまったように思います。逆に一つ一つの記事が極端に短くなり、単純で表層的な分かりやすさばかりが優先される」 (P84) 

そんな中、ネットへの比重をより増やすジャーナリズム。そこでは「売れる記事」が求められていく。高田昌幸さんの指摘から。 

「ネットのアクセス・ランキングを見ると、アサヒ・コムにしても読売オンラインにしても、三面記事的なものが上位に並びますよね。ヤフー・ニュースのランキングは典型的です。ネットへの移行が進み、伝送路をネットに依存する度合いが増すと、その傾向はますます強まるでしょう。『記者も売れる記事を書かないといけない』と言われるけど、本当にそれを最優先していいんですか、というのが最大の問題です。私はそこにも危機感がある」 (P173) 

青木理さんも次のように語っている。 

「僕が通信社の記者として働いていた時は、この記事が売れるとか、売れないとか、一片たりとも考えなかった。部数や視聴率という数字が如実にあらわれる雑誌やテレビと、宅配制度で支えられた新聞業界のそこは圧倒的な差異だったでしょう」 (P182)

以前、このブログで、我々の生活は、社会の埋め込まれたランニングコストのため、野球観戦の自由(2012年12月22日のブログ)、さらには、個人の移動の自由(2012年12月25日ブログ)や住まいの間取りの自由(1月15日ブログ)が奪われている、というような言葉を紹介してきた。

まったくジャーナリズムも、同じ構造なのである。抱えるランニングコストのために、取材の自由や紙面の自由が奪われる。さらには、我々が「単純化していない社会」に住む自由も奪われているのかもしれない。
 

やれやれ。『武士の家計簿』について書いたブログ(1月31日)を思い出す。その本で指摘されていたのは「武士がランニングコスト過多から自由になるためにも明治維新は必要だった」ということ。さて、今のジャーナリズムが、ランニングコスト過多から抜け出すためには、どこから手を付けていくべきなのか。

この『メディアの罠』には、まだまだ興味深い指摘があったので、追って掲載してみたい。

2013年4月 4日 (木)

「でも企業ジャーナリズムにとってケース・バイ・ケースは、組織論理と齟齬を起こします」

前回のブログ(4月3日)では、メディアにとって、企業としての立場とジャーナリズム、その両立が難しい時代に入ったという内容の言葉を並べた。その続き。

メディアが、企業として抱えるランニングコストの割合が増えていくなか、ジャーナリズムは、どのように生き残っていくべきなのか。TBSラジオに『DIG』(3月19日)では、元毎日新聞の河内孝さんが、例として朝日新聞の抱えるランニングコストを具体的に説明しながら、「デジタル革命」をどう乗り越えていくかについて話していた。(この番組『DIG』は先週で放送自体が終了してしまった)。 

「朝日新聞って今、社員だいたい4000人台で、3000億円くらいの売り上げ。で、ウェブ、ネット新聞に完全に切り替えると、紙がいらない、印刷工場がいらない、流通網がいらないでしょう。販売店いらない。それで、社員だって、朝日新聞4000人の中で、記者っていうのは、たぶん1600~700人。そのうち300人は管理職だからいらない。本当に駆け回っているのは、12~1300人さ。1200人だったら、人件費で言うと3000億円かせぐ必要ないんだよ。で、ウェブでやった時にどうなるかという計算をして、どうやってそこまでシフトしているか、ということを少なくとも朝日新聞は考えている」 

つまり、これだけ紙の新聞というのが手間と時間をかけて作っている。その一方、アメリカではどのようにして、ジャーナリズムが新たな居場所をつくり出しているかも話している。 

「アメリカって壊して作っていくのが上手じゃない。なぜそういうことが可能かというと、いろんな理由があるんだけど、やはりアメリカのジャーナリストの給料の安さがあると思う。平均して3万ドルくらいですから、日本円でいうと300~400万円。もちろんスター記者は何千万とっていますが、平均的には300~400万円。ダブルインカムですからやっていける。ヨーロッパも同じ。日本みたいに某新聞などは、1千万円とかよりいいわけですから、社会変化に応じてどれだけ自分の身の丈を。そのくらいの革命をやらないと、このデジタル革命は乗り切れない」 

アメリカでは元々、ジャーナリストや記者たちのランニングコストが低いため、新しいメディアも作りやすいという指摘である。すなわち自分たちジャーナリストとしての居場所、活躍の場所を、時代の変化に合わせて新たに作っていく。

という意味でも、日本のメディアは、今後、自分たちのランニングコストにぶら下がっている、人たち、関係者、ステークホルダーをどう整理できるかが生き残りのカギだったりするのだろう。
 

ただ、メディアが抱える問題は、当然ながらランニングコストの削減だけではない。もうひとつコンプライアンスという流れに、どう向き合っていくかも大きな問題だと思う。 

森達也さんは、『誰がこの国を壊すのか』の中で、次のようにも語っている。 

正解などない。現場では誰もが悩みながら、自分自身の答えを探すしかない。ジャーナリズムはそんな領域です。常にケース・バイ・ケースです。でも企業ジャーナリズムにとってケース・バイ・ケースは、組織論理と齟齬を起こします。効率も悪いしマニュアル化もできない。リスク軽減も難しい。だからこそ葛藤や煩悶を回避する。現場で悩まなくなる。マニュアルと求め始める。こうして横並び報道が行われる。それはやっぱり、ジャーナリズムではなくてメディアです」 (P196) 

最近の企業が持つ、ケース・バイ・ケースを許さない風潮。管理責任というやつ。効率化、リスク管理・・・、そうした現代的な企業論理、すなわちコンプライアンスを突き詰めていくと、ジャーナリズムは、「いらないもの」になっていかざるをえないのではないか。 

もうひとつ。北海道警察の裏金問題を、キャンペーンをはって追及した北海道新聞、その調査報道を引っ張った高田昌幸さんが、その舞台について書きとめた著書『真実』。その中で、高田さんが、2~3年目の若手記者から浮きあげられたというエピソードも印象的だった。

「先輩たちの裏金報道はすごいと思いました。入社前でしたが、あこがれました。でも今はちょっと違うんです。自分は調査報道をやりたいとは思いません。

 だって社内では調査報道をやろうという雰囲気、全然ないじゃないですか。あんな危ないものは手を出すな、みたいな気分が充満しているじゃないですか。社内では、調査報道なんて、まったく評価されていないじゃないですか」 (P251)

メディアの企業としての立場。ランニングコストとコンプライアンス、こうした問題にちゃんと向き合って考えていかないと、前回のコメントで神保哲生さんが危惧するように、ジャーナリズムが生き残っていけなくなるのかもしれない。

2013年4月 3日 (水)

「経済論理に抗してでも、損を甘受してでも、絶対に守らなきゃいけない一線がある」

少し前に何回かに渡って、「ランニングコスト」に関する言葉を紹介した(12月25日のブログ )。今回は、ちゃんとまとめられるか正直分からないが、ジャーナリズムの世界での「ランニングコスト」にまつわる問題が浮かび上がってくるような言葉を並べてみたい。

メディアといえども、当然ながら「商売」という世界の中に存在する。そこで、ジャーナリズムはどういう立ち位置を取っていくべきなのか。僕自身も、ささやかながら現場で悩んだ問題である。まずは、それにまつわる言葉から。 

元共同通信の記者である、ジャーナリストの青木理さんは、著書『僕たちの時代』で、次のように語っている。 

「ジャーナリズム性をきちんと追求しようとすれば、売れるか売れないかということと同時か、時にはそれ以上に背負わなくちゃならないものがある」 (P24)

「もちろん新聞だって商売であって、僕たちは書いたものを売って飯の種にしていることは間違いないんだけれども、この稼業には別の意味もある。経済論理に抗してでも、損を甘受してでも、絶対に守らなきゃいけない一線がある」 (P25)
 

同じく青木さんは、TBSラジオ『DIG』(1月3日)の中では、かつての記者時代、記事を「売れる」と思って書いたことはなく、「意義がある」「やるべき」「重要だ」などの思いで書いていたと話していた。それに対して今の記者たちは、記事がネットの紙面に掲載されることもあり、アクセス数やヒット数を気にしながら書かなくてはならず、大変であるとも言っていた。 

一方で、朝日新聞の連載『プロメテウスの罠』(2012年10月16)の中で、高知新聞社の社長、宮田速雄さんのこんな言葉が取り上げられている。 

「新聞社の目的はカネではない。経営が厳しい時こそ、ジャーナリズムが試される」 

ジャーナリズムの本質的な目的は、「売れること」「カネを稼ぐこと」ではない。しかし一方で、ジャーナリズムをやっていくためには「カネ」の問題は避けて通ることができないのも事実である。 

同じくTBSラジオ『DIG』(3月19日)の放送で、ビデオジャーナリストの神保哲生さんは、次のように語っている。

「ジャーナリズムというのは、重要なことが起きれば、それを取材してもそれほど読む人がいない、視聴率が上がらないと分かっていても、重要だったら取材に行こうよ、というのが判断なんだけど。経営判断としては、それはダメですよね。回収の見込みのないものを取材リソースを投入しているようじゃ、経営者としては、その会社の単純な収益でいくと上がらないということになる。これからマスメディアがどうなるこうなることには、個人的には関心はない。新しいマーケットの中で、いかにしてジャーナリズムを生き残らせていくか」
 

今の時代、企業はお金を生み出さないものを扱っていけない、という傾向は強まっている。今後、ジャーナリズムというものの居場所はあるのだろうか。 

何度も引用するが、作家の森達也さん『誰がこの国を壊すのか』の中で、「ジャーナリズム」と、企業としての「メディア」の両立の難しさを話している。 

テレビも新聞も、それを見る人・読む人・買う人によって社員一人ひとりの生活が支えられている。それは否定できない。でも市場原理を最優先事項としたその瞬間から、メディアは民意によって造型されることを回避できなくなる。その結果、民意が求める単純化、簡略化―つまり『わかりやすさ』を表現の主眼に置くようになってしまう」 (P109)

当然、テレビや新聞などメディアには、勤める社員たちの給料や、設備や流通システムなどのコストがかかる。ランニングコストである。時代の変化とともに、必要なものも、不必要なものも出ているに違いない。経営環境が厳しくなり、ランニングコストの重荷感が増えれば増えるほど、より過剰にユーザーに受け入れられようとする。結果、ジャーナリズムの記事やコンテンツも「受け入れやすいもの」「売れるもの」、つまりは「単純化、簡略化されたもの」がますます求められるということなのだろう。

2013年1月31日 (木)

「明治維新は武士を身分的義務(身分費用)から解放する意味をもっていたことを忘れてはならない」

日本我々の生活は、気が付くと多くのランニングコストが付きまとうようになり、日常生活におけるスタイルや移動の自由までを限定している、ということについて2回のブログ(2012年12月25日と、2013年1月15日)で書いたが、そのあと磯田道史さん『武士の家計簿』を思い出した。そして、その本を改めて読み直した。

この本には、武士は、「武士という身分」を保つためのランニングコストに苦しめられていたという話が、加賀藩の猪山家の家計簿を通して詳細に書かれていた。彼らが武士としているために、どれだけ窮していたかが分かる。藩の財政が豊かなときは何とかなってきたものが、幕末が近づき、財政が苦しくなると、そうしたコストが日常生活を苦しめてくる。 

磯田さんは、次のように記している。 

「江戸時代のはじめ、十七世紀ごろまでは、武士身分であることの収入(身分収入)のほうが、武士身分であることによって生じる費用(身分費用)よりも、はるかに大きかったと言える。武士の俸禄は多かったし、身分による行動制限は少なく、金融行為の規制などもゆるやかだった。ただ、家来は多く、身分費用のなかの人件費は大きかった」 

「ところが、幕末になってくると、武士身分の俸禄が減らされて身分収入が半減する。『半知』や『借上』とよばれる俸禄カットが諸藩で行われだした。しかし、武士身分であるために支払わなければならない身分費用はそれはど減らない。十七世紀に拝領した武家屋敷は大きなままで維持費がかかる。また、『家格』というものが次第にうるさくなってきて、家の格式を保つための諸費用を削るわけにはいかなくなった。そのため、江戸時代も終わりになると、武士たちは『武士であることの費用』の重圧に耐えられなくなってきた。猪山家にしても、そうである。武士身分でなければ、借金を抱えなくて済んだのである」 (P76)
 

実際、この猪山家の支出のうち、「武士身分のための費用」は、消費全体の三分の一にも上っていたとのこと。例えば、どんな費用かというと、「召使いを雇う費用。親類や同僚と交際する費用。武家らしい儀礼行事を執り行う費用、そして、先祖・神仏を祭る費用。これは制度的・慣習的・文化的強制によって支出を強いられている費用」。中でも親類や同僚との祝儀交際費が多かったという。結果、自由に使えるお金は、家の主人より、召使いの方が多かったりしたそうだ。

右肩上がりや、安定していた時期には問題にはならず、どんどん増えていったランニングコスト。一転、右肩下がりの時代になり、収入が減る。すると交通費や住宅費などなど社会がこれまでのように求めるコストや、また個人が豊かなライフスタイル(格)や安心のために払い続けるコストが重くのしかかってくる。いつのまにか日常生活の中のいろんな場面で、真綿で締められるように「自由」が奪われていく。そうやって考えていくと、今の時代と、幕末の武士たちの生活がなんだか重なってみえてくる。 

磯田さんは、次のようにも書いている。

「今日、明治維新によって、武士が身分的特権(身分収入)を失ったことばかりが強調される。しかし、同時に、明治維新は武士を身分的義務(身分費用)から解放する意味をもっていたことを忘れてはならない。幕末段階になると、多くの武士にとっては身分利益よりも身分費用の圧迫のほうが深刻であった。明治維新は、武士の特権をはく奪した。これに抵抗したものもいたが、ほとんどはおとなしく従っている。その秘密には、この『身分費用』の問題が関わっているように思えてならない」 (P77)

明治維新は、武士たちがランニングコストから抜け出すためにも必要だったのだ。なるほど。改めて『武士の家計簿』を読んだけど、いろんなことを示唆していて非常に興味深かった。

2013年1月15日 (火)

「日本はエレベーターのメンテナンス価格がものすごく高いんです」

日本社会が内包するランニングコストが、「移動」などなど、我々の生活の幅を狭めているのでは、という話を、年末のブログ(2012年12月25日)で書いた。そのランニングコスト構造の象徴的な話を思い出したので掲載したい。

建築家の隈研吾さん『日本人はどう住まうべきか』という養老孟司さんとの対談本の中で、日本の高層住宅の住まいの設計の幅のなさ、画一性について語っていた。 

「日本はエレベーターのメンテナンス価格がものすごく高いんです。だから高層の集合住宅の場合、エレベーターはたったの1か所で、その脇がダーッと長い廊下であって住戸が並ぶスタイルが日本では基本的になっちゃった。あれは、世界ではすごく異常な配置構造なんですよ。 

 日本はエレベーター1基あたりに対する戸数を多くすることで、1戸あたりのランニングコストを減らせるようにマンションのプランを作ります。
 日本の長屋方式だと、外の景色は開かれることなく一方向にしか間口がなくて、廊下側は格子付きの刑務所スタイル。後は全部隣の住戸の壁になってしまう。そういう方式の中で、日本ではエレベーター会社がメンテで儲けているんですね」 (P104)

エレベーターのランニングコストが住まいのスタイルまで規定する。しばりつける。部屋の間取りの多様性を奪うだけでなく、景色を楽しむことも押しのけられ、我々は、壁に囲まれた「刑務所スタイル」に住むことになる。そんな部屋では窓も少なく、風通しだって限定される。その結果、当然、エアコンが必需品となる。そして電気量もどんどん増えていき、生活のランニングコストそのものも膨れ上がっていく 

人の住み心地や、社会の安全性より、ランニングコストで稼ぐ企業の存在を優先する。どこかで聴いたことある構図のような気がする。 

日本の電力使用量を減らすためには、そもそもこうした住宅の構造から変える必要があると思うのだが・・・。必ず、いろんな方向に窓を設置する部屋を作らせ、風通しをよくする。その結果、冷房の使用を減らさせる。そうすれば、電気使用量だって減り、原発の依存率も減る。そのための、規制や建築環境の整備を進めた方がよいのではと、素人ながら思う。 

ちなみに我が家は、窓の箇所が多く、風通しも良いため、ここ数年、エアコンを使ったことがない。自然の風と、扇風機と、あとは我慢である。風通しの良い構造の部屋に感謝したい。 

以前、知り合いに、この隈さんの話をした。すると、その知人のマンションでも、エレベーターのメンテナンス費が問題となったことがあるそうだ。契約していた会社に、まず「見積もりを出せ」というと、その時点で、メンテ費は3分の2にすると言ってきた。しかし見積もりを出させ、他社と比べたうえで、エレベーター管理会社を変えたところ、メンテ代は、年間800万円も安くなったということ。100戸のマンションで、800万円は大きい。その分、居住者たちのランニングコストとして圧し掛かっていたのである。 

その知人の話で、もうひとつ興味深かった話も。それまでマンション内で配る「瓦版」のような新聞も同じ会社に委託して作っていた。その時から、そのフォーマットを自分たちで作成し、自分たちで新聞を作ることにしたところ、当然、その費用も浮くことになった。さらに予想外のことも起きた。住居者の勇士たちが集まり、記事や文章を書きだしたところ、マンションの集まりの参加率が上がっていったということだ。たいへん興味深い。 

ランニングコストを下げることで、我々にとって住みよい環境を作る。理想のパターンだと思う。 

建築、テナント、住居のランニングコストを減らす方法について、同じ隈研吾さんの本の中に載っていた。養老孟司さんとの対談である。ちょっと長いけど、引用させていただく。 

 「汐留にあるような大きなビルを建てた場合、サラリーマン的な考え方では、すべてのテナントからきちんと家賃をとらなきゃいけないわけです。でも、そうやって計算を積み上げると、家賃が高くなって、なかなか普通の店が入店できなくなる。入店できたとしても、長期的に商売できるということは少なくて、短期的に成り立てばいいようなショールームやアンテナショップがほとんど。汐留を歩けば分かりますよ。この場に根付いて長く商売するのではなく、何年か後には撤退するような店しかないわけです。それでは楽しく歩ける街ができるわけがないですよね」

養老「二度と行く気にならないよ」 


隈 「アメリカでは超高層ビルの足元に花屋さんがよくあるんです。家賃をものすごく安く抑えて、1階に入ってきてもらうわけです。つまり、花屋さんは植木、並木と同じなんだ、という考え方ですね。並木から家賃をとるやルはいないだろうということで(笑)」 

養老「確実に花を飾ってくれて、しかも自分でメンテナンスをしてくれるんでしょう。そんなにいい並木はないよね」 

 「要するに人間付き緑ですよね。で、アメリカ人はコーヒーショップも同じように考えるんです。コーヒーショップは街に楽しい雰囲気を作ってくれるんだから、家賃を取っちゃダメだ、と」 (P86) 

自分たちの生活を縛り付けているランニングコストを減らして、それでも「快適さ」を保つヒントが、知人の「瓦版」の話と、くまさんと養老さんの「花屋」の話の中にあるような気がする。

2013年1月12日 (土)

「一回どこかで関係ないよって離れないといけないのかなと思っています」

大阪市立高校の17歳のバスケットボール部主将が自殺した問題について新聞やネットの記事を読み込んでいる。今朝の朝日新聞(1月12日)に載っていた元プロ野球選手の桑田真澄さんのインタビューが、やはり心に残った。

私は、体罰は必要ないと考えています。『絶対に仕返しをされない』という上下関係の構図で起きるのが体罰です。監督が采配ミスをして選手に殴られますか? スポーツで最も恥ずべき卑怯な行為です」

「指導者が怠けている証拠でもあります。暴力で脅して子どもを思い通りに動かそうとするのは、最も安易な方法」 

この「暴力で脅して子どもを思い通りに動かそうとする」という指摘は、前回のブログ(1月11日)に書いた「政治家の方々は、すべてをコントロールできると考えているのではないか」ということに通じているように思える。 

少し話は飛ぶが、その政治家である大阪市のトップ、橋下徹市長は、知事時代(2008年10月26日)には、口で言って聞かないと手を出さないとしょうがない」と発言するなど、かつて体罰を容認している。 

その橋下氏は、今回の事件では、市長としては、「こんな重大問題を教育委員に任せておけない」「市教委がどれだけ神経質になって調査したのかをしっかり調べていく」と発言して、市教育委員会の対応を厳しく批判している。いまのところ体罰そのものを否定するのではなく、あくまでも市教育委員会という仕組みの問題という考え方のようである。「仕組みが悪い」と言って、彼が何でも仕組み・システムのせいにしがちなことについては、以前のブログ(2012年6月7日)に書いたことがある。 

と、書いたところで、ラジオのニュースを聴いていたら、今日、橋下市長は、これまでの「体罰容認」について、「認識が甘かった。反省している」「教育専門家らの意見を聞き、スポーツ指導で手を上げるのは前近代的で全く意味がないと思った」と語ったとのこと。正直、「今更」と思わなくもない。少なくとも、容認してきたこの4年間、今回の事件を含め、体罰をめぐる不幸な事件はいくつか起きているはず。それについての自らの責任については、ちゃんとコトバにして欲しいと思う。 

話は、戻る。最初に書いた桑田真澄さんは、以前にも朝日新聞(2010年7月24日) で、体罰についてインタビューに答えている。 その時は、次のフレーズが印象に残った。 

「理不尽な体罰を繰り返す指導者や先輩がいるチームだったら、他のチームに移ることも考えて下さい。我慢することよりも、自分の身体と精神を守ることの方が大切です」

今回自殺した17歳の少年も、親に「部員の信頼を失うので『キャプテンを辞めたい』とは言えない」と言っていたように、主将を辞められなかったり、チームを移れない様々な理由があったに違いない。高校生なりに、人間関係や立場、親に心配かけたくないなど色んな事情を抱えている。でも自殺という「死」を選ぶくらいなら、そういう選択肢もあるのに、とは思くはない。なぜ、最悪の選択肢を選びとってしまうのか。

ランニングコストというのは、お金のことだけでない。人間関係とか色んな事情を、生きるための「コスト」として抱え込み、それによって自分の選択肢を狭めてしまう。それは、年末のブログ(2012年12月25日)で触れたサラリーマンの姿にも重なる。 

上記の桑田さんの他のチームに移ることも考えて下さい」というフレーズを読んだとき、思い出したコトバがいくつかある。まずは、自殺対策支援センター「ライフリンク」代表の清水康之さんが、毎日新聞(2012年9月6日)で「いじめ」について語っていたコトバである。 

「いじめを受けている子は、仕組みから出てしまえば、いじめは成立しないと知ってほしい。まず退避して、どう生きるかは後で考えてもいい。教室も日本もちっぽけなものだ」

正確には「いじめ」と「体罰」が違うのかもしれない。しかし今、自分が身を置く「仕組み」の外に出てみると、新しい世界が見えてくるというのも、ひとつの真理なのかも。 

同じような文脈で、建築家の坂口恭平さんは、朝日新聞(2013年1月10日)で次のように語っている。 

「社会を変えるためには1回はずれなきゃいけないんですよ。でもみんな円がないと怖いという妄想にとらわれすぎている」

ちなみに、ここに出ていくる「円」とは、お金のこと。お金や今の立場を失うことを恐れるのではなく、思い切って外に出てみることで環境を変え、そして身軽になって、社会を変える。ライフスタイルの「断捨離」である。

さらに作家の高橋源一郎さんは、雑誌『文学界』(2012年3月号)に、こんなコトバを残している。 

「結局のところ僕たちが生きている世界の中で何かがうまく回っていないのは、思うに1回他人として遠ざけたうえで選びとることをしていないからじゃないか。考えてみると、そこに行きあたる気がするんですね。 

 だからこれからは特に、どうやって何を選びとるのかが大きな課題になってくると思いますが、そのためには一回どこかで関係ないよって離れないといけないのかなと思っています」

大阪の体罰問題の記事を読んでいて、桑田さんのインタビューから連想して思い出したコトバをざっと並べてみた。桑田真澄さん、清水康之さん、坂口恭平さん、高橋源一郎さんのコメントは、どこかつながっているというか、同じことを言っているように思える。 

体罰、いじめ、閉塞感、変わらぬ社会…。そうした今、目の前に存在する問題は、きっと同根なんだと思う。「仕組みが悪い」と言って、その場にとどまる。何とかなる、と我慢を続けた結果、気がつくと「死」という最悪の選択肢を選ばざるを得ない状況に追い込まれている。だったら、その前に思い切って、その仕組み・システムから飛び出してみる。外に出て、離れてみれば、背負っていた複雑なランニングコスト(重荷)から自由になれるかもしれない。そして、そのシンプルな身軽な状態で、改めて自分の道を選びとってみれば、少なくとも最悪の選択肢を選ぶことは避けられる。そんな感じではないだろうか。

2012年12月25日 (火)

「移動費がネックになっている。移動を起こしにくい社会構造になっている」

前回のブログ(12/22)では、色んな大人の事情によってコストがかさんだ結果、気が付いたらチケット代が高価なものとなり、結局、それが観客数減の一因になっているのではないか、という話を書いた。

実は関連しているのではないのか、と連想したことがある。かつて自分がいた職場で、同僚が「お金がない」と口にするのをたまに聞いたりする。彼らもそれなりの給料をもらっていたはずだし、単純に考えて、そんなことはないのでは、と思ったものだ。よくよく聞いてみると、そういう人たちは、住宅ローンを抱え、子供は私立の学校なんかに通い、さらに塾にも通い、そして車の維持費やら生命保険の支払いやら何やらで、毎月、かなり「ランニングコスト」を抱えた生活をしているようである。その結果、家族旅行を我慢したり、わずかな小遣いで我慢したりしている。自分たちで「自由」に使えるお金は殆どない状態なのである。ボクも含めて、日本のサラリーマンなんて、「まるでランニングコストのために働いているようだ」と思ったりしていたものだ。

全く同じような指摘が、建築家・坂口恭平さんの著書『独立国家のつくりかた』に書いてあった。

「35年ローンを組んで、大きな借金を背負って、おかげで働きゃいけなくて、それによって会社、銀行がちゃんと運営できて、『万歳、経済発展!』というのはどこかおかしいような気がする。そんな単純な話じゃないんだよと人は僕にいうのだが、ではどのような複雑なシステムなんですかと聞いても、誰も答えてくれない。つまり、わかっていないのだ。 

 わからないことは、考えて答えを出さなくてはいけない。簡単なことだ。もっと物事を単純に考える癖を身につけよう。そうしないと社会の複雑さには対応できない」 (P31)

サラリーマンが、自分たちのランニングコストのために日々、働き、そのコストによって、社会が回っている。そんな今の社会のシステムについて、坂口さんは批判をしているのである。その結果、我々が失ったものは何なのか。 

多くのランニングコストを抱えたサラリーマンは、仮に会社の方針とぶつかったりしても、当然、会社を辞めるという選択肢などごくごく小さいものになるに違いない。日々のローンや子供の学費が払えなくなる。同様に、多くのランニングコストを抱えた社会は、その数多くの既得権者のため、その社会のスタイルを容易に変えることはできなくなる。まさに原発依存から抜けられない問題の構図が、そうである。 

坂口さんは、こんな指摘もしている。

「この国は移動費が高い。新幹線なんて馬鹿みたいな値段がするし、飛行機のチケットも国内で乗るよりも海外に行ったほうが安い。移動費がネックになっている。移動を起こしにくい社会構造になっている。僕はこれも今の社会の日本の労働環境とリンクしているように感じる」 (P206) 

本当にそう思う。新幹線だけでない、JRや地方の私鉄の運賃の高さに驚くことは多い。ボクノ知り合いは、ゆりかもめの運賃に降参してお台場から再引っ越しをした。鉄道以外でも、ガソリン代も高速料金も日本は以上に高いと思う。そうやって、国内の移動費が高くなっている結果、我々は、移動さえ、「自由」にできない社会で生活していることになっている。これは、野球少年たちが、気軽にプロ野球を観に行く「自由」がないのと通じる。 

我々は、実は、かなり「自由」のない社会に生きてしまっているのではないか。 

確かに、デフレによって安い物は安い。しかし鉄道の運賃、ガソリンの価格、高速道路代、電気代、家賃、映画の入場料、コンサートやスポーツ観戦のチケット代など、国際的にみても日本では割高というものはたくさんある。安部政権になって、インフレ目標導入した場合、これらも更に値上がりしてしまうのだろうか。 

いつの間にか、ボクたち自身や、社会そのものをガンジガラメにしている「ランニングコスト」。もう一度、それによって失っているものにも目を向ける必要があると思う。 

ランニングコストが少ない社会とは、どういう社会なのか。作家の高橋源一郎さんは、内田樹さんとの対談集『どんどん沈む日本をそれでも愛せますか?』で、訪れた山口県の祝島について、次のように語っていた。 

「結局、何にお金がかかるっていったら、医療とか、そういうこと。それにはあんまりお金がかかんないだよ。祝島では。お金がかかるシステムにしているから、貧困はまずいってことになる。だったら、お金がかからないシステムをつくった方が合理的だっていう話になるでしょ?そういう意味では祝島の人たち、極めて合理的なんだよね。だから、知恵がある、っていうこと」 (P241) 

祝島では、原発反対運動によって、地域コミュニティーをはぐくんだ結果、医療費などがかからなくなり、その結果、例え「貧困」であってでも「自由」に生活できる環境があるというのだ。これが示唆することは大きい。都会のサラリーマンは、全くの反対を行っている。将来の「貧困」を恐れ、ますます「ランニングコスト」がかかる生活を強い、結果、「自由」を失う。きっと、そんな生活は「合理的」ではないのである。

2012年12月22日 (土)

「もっと野球ファンが球場に足を運べる料金設定にする必要がある」

ネットでプロ野球、中日ドラゴンズの山井大介投手が今週の水曜日(12/19)に行った契約更改のあとの会見のコメントを読んで、いろいろ思うことがあったので、そのことについて書いてみたい。

まず山井大介投手は、交渉の場で球団と語った内容について次のように語っていた。

「チケット代をもう少し抑えた方がいいんじゃないかと話をしました。家族4人で交通費や食事も入れると4万円ぐらい。ちょっとした旅行ですよ」

ボクも、年に何回か、子供をプロ野球観戦に連れて行くことがあるので、この意見には大きく肯首する。

最近、プロ野球にしろ、Jリーグにしろ、観客数が伸びないという指摘をよく耳にする。そして「もっと魅力的な試合内容の試合を増やさない」と言う声が多い。本当に問題は野球内容だけだろうか。メジャーリーガーが増えたからだろうか。ドラゴンズの前監督の落合博満氏は、十二分の実績を残していたにも関わらず、「ファンサービスが足りない」ということを一因にされ監督をクビになった。後任には、選手たちにファンサービスを全面に押し出すことを求めた高木守道氏が就任した。ファンサービスを充実させ、終盤までジャイアンツと優勝争いを繰り広げたが、結局、ドラゴンズの今シーズンの観客数は減っている。

もちろんスポーツの世界である。シーズンの結果やファンサービスも重要である。が、その一方で、チケットの高額さをもっと指摘してもいいのでは、とずっと思ってきた。

例えば、レギュラーシーズンの東京ドーム。立見席なら大人1000円、小中学生500円。でも子供を連れて行って、立ち見とはいかない。外野席は2000円、3階席だと2300円だが、小さい子供には遠すぎて、よく見えない。なのであまり試合に集中できない。ちゃんと近くで見せようと思うと、少なくともA指定になる。チケット料金は、5200円(S指定5900円)。立見席以外に、子供料金設定はない。

ちなみに今日の新聞に、3月に日本で行われるWBC予選の福岡ドームのチケット代が掲載されていた。一番高い席で、1万4000円。なんと最も安い外野席でも4000円。内野のS指定が1万円、A指定で8000円である。高い。驚くほど高い。実は、先月、福岡ドームで開催された日本対キューバの親善試合でも、ほぼこれに近い値段設定がされていた。その結果、当日の観客席は、1万7468人にとどまり、かなりの空席が目立った。たぶん本番では観客席は埋まるだろう。でも、高すぎないか。山井投手のコメントじゃないが、今や格安チケットを使えば、海外にだって行けそうな値段である。

さらに家族で野球に行った場合は、人数分の入場料だけではすまない。ビールは600~800円するし、カレーも800円、弁当だって1000円くらいする。このデフレ時代に、とびきり美味なわけでもないカレーに800円を払うというのは、野球場か、スキー場くらいではないだろうか。財布の紐が堅くなるのも当然である。コンビニだとビール100円、弁当400円で買えるわけだから、みんな持ち込むことになる。

国際的に見て「高い!」と言われる映画ですら通常料金で、大人1800円、子供1000円。それで2時間楽しめる。ツタヤでも行けば、2時間楽しめる映画が、今や100円で借りられる。そんな中、やはり、子供で5000円オーバーの価格設定はあり得ないと思う。実生活でも、本当なら少年野球の練習終わりに、その子供たちを何人か、東京ドームに野球観戦にでも連れて行ってやりたいと思ったりもするが、この値段だとそうもいかない。入場料、交通費、弁当代、飲み物代、そしてお土産などを買ったら、総額はどのくらいになるのだろう。野球人気がジリヒンなのは、こんな所にも理由があると思う。


実際に野球界の中からも、高すぎる入場料金については疑問の声が出ているようである。楽天イーグルスのオーナー代行、井上智治氏は、WBCの入場料金について、次のように語っている。(11/19)


「もっと野球ファンが球場に足を運べる料金設定にする必要がある。サムライを応援してもらうことが大切だから」

素人考えで思うのは、どうせなら、できるだけ安い料金設定にして、なるべく多くの客を集め、大声援の前で選手をプレーしてもらった方が、選手たちも気持ちいいし、実力も伸びるのではないか。特に、子供の場合は、今、スタジアムに通い、生観戦ならではの野球の魅力を知れば、この先、数十年に渡って野球界を支えてくれるわけだし、その子供の中から新たなヒーローも生まれてくるに違いない。

放映権料や人件費、維持費、警備費など、いろんな事情があっての入場料設定なのだろう。だけど、こうした色んな事情がつもりにつもった結果、ファン層の先細りを招いているのではないか。ただ同じような問題は、球団経営にも起きている。プロ野球の経営評論家という坂井保之さんの、こんなコメントが雑誌『新潮45』(5月号)に載っていたのを思い出した。

「野球界を取り巻く環境の厳しさに、もう一つ昔より、うんと経費がかかり出したこともある。主として管理コストもそうだが、人件費がある」

選手の人件費はもちろん、いろんな事情でコストが上がり、首がまわらなくなる。結局、こちらも膨大な「ランニング・コスト」が球団経営を不自由にして、圧迫しているということになる。ドラゴンズの落合監督も、勝ち続けた結果、監督やコーチの人件費が上がり続けたことが、首脳陣交代の要因の一つとも指摘されている。サッカーでは、イギリスのマンチェスター・ユナイテッドのファーガソン監督は四半世紀も監督を続けているのに。きっと日本における、ランニングコストを生むシステムや認識が特別なのではないかなどと勘繰りたくなる。

こちらは映画の世界の話ではあるが、映画料金について、映画ジャーナリストの斉藤守彦さんが著書『映画館の入場料金は、なぜ1800円なのか?』で次のように指摘している。

「映画産業からも、何かにつけて自分たちの利益を優先するという不動産業的考え方が非常に強く感じられる。いわゆる『企業利益』『業界利益』を何より重視し、時にそれが『消費者利益』を踏みにじってまで優先されるのが、現在の映画産業においても、そのまま見られるのである」 (P201)

スポーツ界も同じような状況にあるのではないか。これまでは右肩上がりの時代、増長するコストをうまく消化して来れたのだろう。そんな時代が終われば、それは身の丈以上のコストとなる。しかし「企業利益」「業界利益」など、色んな「大人の事情」を優先していけば、結局そんなランニングコストが、業界自体の不自由さや硬直化を招き、そしてファンを蚊帳の外に追い出し、その世界そのものをやせ細らせていく。きっとスポーツや映画などのエンターテイメントの世界だけではなく、他の業界や分野にも共通する日本が抱える大きな問題なのではないかと思うのだが。

 

2012年1月19日 (木)

「不安のままぶら下がって、それに耐える力こそが『教養』だと思うんですよ」

モノへの執着を捨てることを推奨する『断捨離』という言葉があるらしい。コンサルタントのやましたひでこさんが推奨する考え方らしく、その著作も話題ということ。字面は、なんとなく見ていて知っていたが…。そんな意味だったとは全く知らなかった。

先日、たまりにたまった過去の新聞のコピーなどに目を通していたら、去年12月16日の東京新聞夕刊に、そのやましたひでこさんのインタビューが掲載されていた。そのインタビューの中で、東日本大震災を受けて考えたことを話していて、それが少し印象に残ったので紹介してみる。

「震災直後、被災地から遠く離れた人たちが買いだめに走る様子を見て、衝撃を受けました。スーパーに大挙して押しかけ、三日分、四日分の食料や水を買い求める人たち。こうした人たちは、一週間分、一カ月分買いだめしても不安が増幅していくのだと思います。『備蓄』と『買いだめ』は違うのに、どれだけのモノが必要か、分からなくなってしまったのではないか」

震災後に東京をはじめ、日本中で起きた食材や生活必需品などの「買いだめ」「買占め」という現象についての感想である。

やましたさんが指摘する、この「不安心理」について、ボクなりにつらつらと考えていたら、この構造は、多くの人が「老後への備え」としてお金を貯め込むことと、全く同じではないか、と思えてきた。

老後の不安に対して、人々がため込んだ「タンス預金」。これが莫大なため、市場にお金が回らないという話はよく聞く。仕事からリタイアする老後というは、「きっとお金がかかる」「お金がないと病院にも行けない」「お金がないと自分の生活を楽しめない」なんて思って、今、お金を使わずに「老後のもしもの時」に備えて、せっせと「タンス預金」を貯め込む。

その結果、以前、ラジオで聞いた話によると、「親の遺産を受け取る人の平均年齢は、60代の後半」とのことだ。ちょっとショックだった。今や80歳を越えた高齢の親が亡くなり、それを受け取る子供も、その時点で60代の後半になっているというのだ。若い人たちに比べて、高齢者の方々の財布のヒモが堅いことは想像に難くない。つまり、日本社会に存在する「お金」のかなりの部分が、「タンス預金」から「タンス預金」へと移動しているにすぎない。お金は消費にまわることなく、ずっとタンスの中で「もしもの時」を待って額だけ増やしているのだろう。

もちろん老後に不安があるのは分かる。そのための備えも必要になる。でも、やました氏が言うように『備蓄』と『買いだめ』は違うのである。とはいっても適切なお金の『備蓄量』というのは、高齢者にとっても、若い世代にとっても難しいことも確か。そう考えてみながら、いろんな資料に目を通していたら、そうしたお金に関するコメントは、やはりとても多かった。いくつか拾ってみたい。

まずは、ライターの北尾トロさんが自ら編集する雑誌『季刊レポ』(2011年冬号)の 『1年経ったら火の車』という文章の中で、こんなつぶやきをしていた。

「金ってそんなに大事なんだろうか。たくさんの金を得たとして、その金でやりたいことがなかったら銀行口座の数字が増えたり老後の生活に多少の安心感がもたらされるだけでしょ。やりたいことのあるヤツが、やりたいことをやるための資金を手にしたときにその金は生きる。だけど、往々にしてやりたいことのあるヤツには金が回ってこないんだなコレが」(P76)

雑誌編集のお金のやりとりに苦戦する本人から出た「お金」に対する率直な思いなんだろう。

内田樹さんは、近著『呪いの時代』で、お金を貯め込むことについて、こんな文章を載せていました。

「もちろん、老後が心配とかそういうご事情の方もいると思いますけれど、老後の蓄えなら、1億も2億もいらないでしょう。一人の人が大量の貨幣を貯め込んでも、いいことなんかない」

「『自分のところにきたもの』というのは貨幣でもいいし、商品でもいいし、情報や知識や技術でもいい。とにかく自分ところで止めないで、次に回す。自分で食べたり飲んだりして使う限り、保有できる貨幣には限界がある。先ほども言いましたけれど、ある限界を超えたら、お金をいくらもっていてもそれではもう『金で金を買う』以外のことはできなくなる。そこで『金を買う』以外に使い道のないようなお金は『なくてもいい』お金だと僕は思います」
(P172)

なぜ人はお金を貯め込むのか。老後の不安以外にも、いろんな理由があるということ。雑誌『新潮45』1月号には、経済学者の小野善康さんの『「お金への執着」が経済を狂わせる』という文章が掲載されていた。

「お金の数字情報は、もっとも効率よく人びとを幸せにする。数字の桁が上がってくるだけで、巨大な可能性を手にすることができるからである」(P54)

「交換性を保持しながら、我慢して使わないことによってのみ妄想に浸れる。そのため、働いて稼いだお金が物を買うためでなく、貯めることに向けられ、モノへの需要にならない」(P55)

最初に紹介したやましたひでこさんは、震災後におきた『買いだめ』について、同じインタビューの中で次のようにも言っている。

「買いだめをした人たちの中には、『増えたら幸せ、あればあるだけ幸せ』というのは幻想だ、ということに気付いた人もいると思います」

そして内田氏も、お金の「囲い込み」について震災後、同じようなことが判明したと、雑誌『新潮45』12月号の『「宴会のできる武家屋敷」に住みたい』に書いている。           

「いままでの社会システムは基本的に市場原理で動いていました。必要なものはすべて商品の形で提供された。ですから、市民の仕事は『欲しい商品を買えるだけの金を稼ぐこと』に単純化した」


「でも、東日本大震災と福島の原発事故でわかったことは、『金さえ出せば欲しいものが買える』というのは極めて特殊な非常に豊かで安全な社会においてだけ可能なルールだったということです」

 
最後に元外務省官僚の佐藤優さんが著書『野蛮人の図書室』に書いていたフレーズを載せておく。


「もちろん資本主義社会において、失業し、賃金がまったく入ってこないならば生きていくことができない。しかし、自分の必要以上にカネを稼ぐことにどれほどの意味があるのか、よく考えてみる必要がある。少し余裕のある人が困っている人を助けるという行動をとるだけで、日本社会はだいぶ変化するはずだ。それができないのは思想に問題があるからだ」(127P)

 

基本的には、佐藤氏も内田氏と全く同じことを言っている。とはいっても、先の見えない不安にどう耐えるのか。佐藤氏は次のように書く。

 

「『どうしたらいいか?』って問いには、答えを出さずに不安な状況に耐えることが大事だと思う。
回答を急がない。不安のままぶら下がって、それに耐える力こそが『教養』だと思うんですよ」

うん。良いこと言う。「不安に耐える力こそ『教養』」。これはメモしておいた方が良いと思う。

とても文章が長くなっていましたが、我々は震災後の買いだめ状態と同じことが、お金についても起きている。お金と買いだめ、これについて改めて考えてみたりする必要があるのではないか。そんなことを考えたわけです。

 

 

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