システム・組織

2014年3月26日 (水)

「そこでは「主/従」「目的/手段」の図式が反転します」

このブログでは、ここ5回ほど(3月20日のブログから)、「大きすぎるシステム」について考えている。

今は、あちこちでシステムが大きくなりすぎて、個々の暮らしがないがしろにされている。これからは、小さなサイズを見直し、「当事者」としての立場で考え、身近なところから変えていくしかないのではないか。

こんなことを考えてきた。

さきほど読み終わったのが、社会学者の宮台真司さん著書『私たちは、どこから来て、どこへ行くのか』。この本の中に、同じ状況について説明している部分があった。

今回は復習しながら、その宮台さんの文章を載せておきたい。以下の言葉は、全てこの本の中から。


「<システム>がある程度以上に広がって<生活世界>が空洞化すると、もはや「我々」がシステムを<システム>を使っているとは言えなくなります。「我々」や<生活世界>というイメージすら、<システム>の構造物、つまり内部表現だと理解するほかなくなります」 (P158)

まさに、前回のブログで紹介した村上春樹さんが指摘する「システムが我々を利用」している状態のこと。
オシム氏が言う「システムが人間の上に君臨する」状態のことである。

「そこでは「主/従」「目的/手段」の図式が反転します。学問的に言えば、それがポストモダンで、それが生じない状態がモダンです。モダン段階では「<生活表現>を生きる『我々』が<システム>を使う>と表現できますが、ポストモダン段階ではそれが難しくなるのです」 (P158)

主と従、目的と手段の逆転。これはいろいろなところで見られる。

「処方箋の話をいたします。欧州は、こうした変化が良いことか悪いことかを、ずっと議論してきました。その結果『便益の増大は良いことだが、絆の崩壊は悪いことだ、ゆえに、絆を守るために多少の便利さの犠牲は仕方ない』という話になりました」 (P166)

文学、演劇、映画など、いろんな作品でテーマとして取り上げてきたということでもある。高橋源一郎さんの指摘通り、それが文学をはじめ、クリエイティブの役割なのである。(3月25日のブログ

「こうして『<生活世界>空洞化=<システム>全域化』がもたらす副作用への処方箋として、『<システム>全域化への制約』が選択されました。80年代半ばに北イタリアのコミュニティ・ハウスから出発したスローフード運動がきっかけです」 (P166)

「ファストフードにスローフードを対置しています。つまり『早い、うまい、安い』もよいが、それによって失うものに敏感になろうという運動です。具体的には、地元商店、地元産業、地元文化、地元の絆などの複合体を作ろうというのです」 (P167)

辻真一さんが指摘するように、「大量化、加速化、複雑化」ではなく、「スモール、スロー、シンプル」を見直す、ということである。(3月24日のブログ

「システムが我々を作ったのではありません。我々がシステムを作ったのです」

 「大きすぎるシステム」。
システムの暴走については、例えばアメリカ映画の世界では『2001年宇宙の旅』をはじめ、最近では、リブートされた『ロボコップ』、『スノー・ピアス』など、ずっと映画のテーマになっている。

日本の映画やドラマでは、あまり思いつかない。

一方、村上春樹さんの小説は、人間の尊厳より「システム」が優先される社会へのとまどいをずっと描いている。だから世界中で受け入れられているのだろう。

その村上春樹さんの言葉。エルサレム賞受賞のあいさつから。『雑文集』より。

「それは『システム』と呼ばれています。そのシステムは本来は我々を獲るべきはずのものです。しかしあるきにはそれが独り立ちして我々を殺し、我々に人を殺させるのです。冷たく、効率よく、そしてシステマティックに。」 (P78)

「システムに我々を利用させていけません。システムを独り立ちさせてはなりません。システムが我々を作ったのではありません。我々がシステムを作ったのです」 (P80)

社会学者の宮台真司さんは、ビデオニュース・ドットコム(2013年10月19日放送)で「巨大化するシステム」について次のように説明していた。

「もともと都市化というのはそういうもの。
都市の利便性というのは、もともと僕たちがより幸せで便利な生活を送るために作り上げていくもの。そのうちに都市システムが巨大になると、都市システムを維持・運営していくための、ある種のコマ、リレースイッチとして各人が存在するように変わっていきます」 (パート2 20分30秒)

思想家の内田樹さんは、著書『内田樹による内田樹』で、個人とシステム(経済)の逆転について次のように書く。

「経済活動はもともと人間が社会的成熟の装置として創り出したものです。経済活動に奉仕するために人間が存在するのではありません。逆です。人間が成熟するための装置として経済活動が存在する。この順逆はどんなことがあっても取り違えてはならないと思います」 (P292)

精神科の斎藤環さん毎日新聞夕刊(2月20日)から。

「人々は自ら所有する中間集団(省庁、自治体、企業などの組織)の利益を最優先するあまり、全体的な国家の安全がなおざりになるという日本的体質の最悪の部分が、原発事故では一気にと呈したことになる」

結局、個人の暮らしより、システムが優先される背景には、巨大化したシステムにぶらさがったステークホルダーたちの思惑がある。映画『スノー・ピアサー』や『ロボコップ』では、それがちゃんと描かれている。

それは、戦前の「國體護持」の時代から、ずっと続いているものなのだろう。

例えば、スポーツ。サッカーの世界でも同じ。元日本代表監督のオシムさんは、次のように指摘している。『オシムの言葉 増補版』(著・木村元彦)より。

「例えば国家のシステム、ルール、制度にしても同じだ。これしやダメだ、あれしちゃダメだと人をかんじがらめに縛るだけだろう。システムは、もっとできるはずの選手から自由を奪う。システムが選手をつくるんじゃなくて、選手がシステムを作っていくべきだと考えている」 (P139)

「大切なことは、まずどういう選手がいるか把握すること。個性を活かすシステムでなければ意味がない。システムが人間の上に君臨することは許されないのだ」 P240)

2013年5月30日のブログを読み返してみたら、ここでもほとんど同じ問題を指摘する言葉を並べていた。

2014年3月25日 (火)

「そこに当事者としての立ち位置を取り戻したものがきっと、つぎの時代をつくるのだ」

今回も続き。
「大きすぎるシステム」から「小さいもの」へ、の流れについて。

当事者。
最近、本を読んでいたら、たまたまだけど「当事者」という言葉を使った文章をいくつか見かけた。

その言葉から考えてみたい。

作家の高村薫さん
『日本人の度量』から。東日本大震災を受けての言葉。

あるいは、日本の場合は、みんなが当事者になり得ると思うのがいちばんの近道ではないでしょうか。ここだけは安全などというところは、どこにもないからです。あすは我が身と思っていれば、他人事にはならないのではないでしょうか」 (P90)

哲学者の鷲田清一さん。同じく『日本人の度量』から。

「今大切なことはデリベレーション=熟議ということではないでしょうか。みんながさっと答えを出すのでなくて、あるいは感情的に反論するのではなく、みんなが自分が当事者だと思って、政治のことも、地域社会のことも、異なる意見があって当然だから、議論を繰り返し繰り返し行って、みんなが納得して判断を行う、というのが政治においては大事なのではないでしょうか」 (P154)

そして、佐々木尚俊さんの言葉。本のタイトルにも「当事者」が入っている著書『「当事者」の時代』から。

「それでも闘いつづけるしかない。そこに当事者としての立ち位置を取り戻したものがきっと、つぎの時代をつくるのだ。これは負け戦必至だが、負け戦であっても闘うことにのみ意味がある」 (P463)

システムが大きくなりすぎて、今は、みんなが「当事者」ではなくなっているということ。

NPO法人「地域再生機構」の平野彰秀さんは、朝日新聞(2012年5月29日)で、まさにそのことを書いている。


「高度化する現代社会は巨大なシステムが複雑に絡みあい、自分の生活がどう成り立っているのか、みえなくなっています」

「私たちはシステムに自動的に組み込まれてしまうから、管理・運営への責任感や主体性は当然育まれません。平時は『誰か』に全くのお任せだし、問題が起きると『誰か』に文句をいう。文句をいって溜飲を下げたり、不安を紛らわしたりしかできない人が大多数の社会は危うい」

宮台真司さん
がよくいう次の言葉も同じことである。『原発をどうするか、みんなで決める国民投票へ向けて』から。

「〈任せて文句をいう社会〉から〈引き受けて考える社会〉へ!」 (P56)

これからは、個々が「当事者」として、引き受け、考え、熟議する。そのためにも、大きなシステムではなく、小さな共同体のようなものの中で、なるべく自分が「当事者」になれる状況を増やしていくことが必要となってくるのだろう。

さらに興味深い指摘も。文学について。

作家の高橋源一郎さん東京新聞夕刊(3月6日)から。

「すごく簡単に定義すると、文学って遠く離れたものと、今ここにあるものとを結びつける行為。物理的な距離だけじゃない。自分とは関係ないように思える死でも、自分のよく知る死と共通する部分がある。そうした寄り添う回路を新たにつくり出すことができるんです」

実は既に自分も「当事者」だったりするのである。ただ、気付いていないだけだったり、思いが至っていなかったりするだけ。

自分とは関係ないと思っているものから「共通性」をあぶり出し、自分も「当事者」だと気づかせるもの。それが文学だという指摘である。

なるほどである。

きっと文学だけでない、ジャーナリズムや、あらゆるクリエイティブも本来その役割を果たさなければいけないのだろう。

まさに「当事者」の時代には、メディアの役割もより問われる。

2014年3月24日 (月)

「私はその小ささにしか、日本の希望はないと考える」

前回の続き。
では、どういう「小さなシステム」で個々の暮らしを守っていけばいいのか。
今回は、そんな言葉を。

社会学者の宮台真司さんビデオニュース・ドットコム『Nコメ』(1月18日放送)から。

「自分の周辺からやっていくしかない。それは共同体自治をできるだけ貫徹すること、ホームベースを作り直すこと、前哨戦を作り直すこと、それらによって、感情の劣化と教養の劣化に抗い、ポピュリズムに負けないようにする。巨大システムが、今後、市場や行政が、うまく働かなくなっても、自分たちで自分たちを助けることができるような枠組みを作っていくしかない」 (1時間21分ごろ)

もうひとつ宮台さんの言葉。朝日新聞(2013年6月19日)から。

「これからは小さくなるパイを分け合って幸せならなきゃいけない。『我々が住むのはこういう街だから、それじゃなく別のものが必要だ』という客観的な評価が欠かせません。これは中央の官僚にはできない。全国一律基準はリアリティーを欠く虚構です」

これからは、大きな一律の基準ではなく、個々の価値観で決めていく。

劇作家の平田オリザさん朝日新聞(2013年4月16日)より。

「個々の価値観によって緩やかにつながる出入り自由な、そして小さな共同体を幾重にも作り、ネットワークを広げていく。その小さな共同体で、小さな経済を回し、地域に誇りを持って生き、経済も少しずつ活性化していくことは、B級グルメや地域のゆるキャラの成功を見るまでもなく、その萌芽は、そこかしこに出てきているように思う。私はその小ささにしか、日本の希望はないと考える」


やはり、「小さな共同体」というのがキーワードでもある。

哲学者の内田節さんの言葉。朝日新聞(2013年3月13日)『リフレ論争の限界』より。


「若い人たちは物価も賃金も上がらないなかで、お金を使わずに生活するノウハウを持ち始めています。たとえばシェアハウスに住む人が増えている」

「お金ですべてを得る市場経済ではなく、何らかのコミュニティーにつながり、みんなで生きる経済。助け合いながら、社会的な役割を果たせるような働き方をしようという動きが強まっています」


最後に。思想家の内田樹さんの言葉を載せておきたい。自身のツイッター(2011年1月17日)に書いていたもの。

「『悪のシステム』に対抗するのは、『正しいシステム』ではなく、小さな、ローカルな、でも手触りの温かい『物語を語り継ぐ共同体』である。『物語』の破格さだけが、システムの遍在性を打ち破ることができる」

 

「統御可能性からスモールさが大切だ」

前回のブログ(3月20日)は、社会学者の山下佑介さん「システムが大きすぎるのだ」という言葉を紹介した。

個々の暮らし、個々が持つ多様性を大切にしていくためには、今のシステムは大きくなりすぎているということ。

社会学者の宮台真司さんは、『週刊読書人』(2013年12月20日)のインタビューで次の言葉を述べている。

「統御可能性からスモールさが大切だ」

今回は、「小さいサイズ」を見直していく必要があるのではないか。そんな言葉を並べてみたい。

政治学者の姜尚中さん著書『日本人の度量』から。

「小さいことは素晴らしい、小さいものが美しい、ということ。私たちはやっぱり自分たちの生活を、もうちょっとダサくていいから、違う幸せのあり方を見出せるようなサイズに見直すべきではないかと」 (P22)

文化人類学者の辻真一さん著書『弱さの思想』から。

「近代的な社会の中で、『弱さ』として見なされてきたもの――巨大化、集中化、大量化、加速化、複雑化などに対する『スモール』、『スロー』、『シンプル』、 『ローカル』といった負の価値を荷ってきたもの――が元来持っているはずの『強さ』が浮かび上がってきたのではないか。この逆説的な事態――『強さの弱さ』と『弱さの強さ』――こそが、ポスト三・一一の月日のひとつの重要な特徴でなかったろうか……」 (P13)


えにし屋代表の清水義晴さんは、「大きなもの」「強いもの」が有難がられていったのは、競争原理、効率化が進んだバブル期以降のことだと書いている。著書『変革は、弱いところ、小さいところ、遠いところから』から。

「日本中が拝金主義に覆われていたバブル期と、その後の不況による倒産・リストラの嵐が荒れ狂った『失われた十年』のあいだに、弱いものは負け、強いものだけが生き残ることは当然だ、という空気が私たちの社会のすみずみまで覆ってしまいました」 (P119)

そして、『変革は、弱いところ、小さいところ、遠いところから』という書名にも表れているように、次のように述べている。

「より人間らしい絆によってつながりはじめ、ほんとうに些細なこと、見落としがちなこと、しかし、じつはだれもが感じていることへの働きかけ、高くて大きなところからではなく、低くて身近なところから私たちの社会を変え始めている。そんなふうに私は思いはじめています」 (P120)

イギリスの経済学者、シューマッハ『スモール・イズ・ビューティフル』という著書があるが、「スモール」「スロー」「シンプル」という概念は、我々の生活を守っていくうえで、「必需」の考え方になっているのではないか。もう小さなシステムでしか、個々の暮らしは守っていけないのではないか。そんな気がする。

 

 

2013年5月30日 (木)

「人間のためのシステムのはずが、いつの間にかシステムのための人間になっている。ここには明らかに転倒がある」

前々回のブログ(5月22日)前回のブログ(5月28日)では、「平均」というものにまつわる言葉を並べてみた。

特に前回では、原発事故において、個々の事情を考えることなく、「平均」というものに合わせて対応することの無意味さについての言葉も紹介した。今回は、そこから考えてみたことをうまくまとまるかどうかわからないけど、流れにまかせて並べてみたい。 

社会学者の山下祐介さんは、著書『東北発の震災論』で、次のことを書いている。

「『復興』を進める事業のためには、人の暮らしはどうなっても構わないという力学が生まれているようだ」 (P269)

こういう風に考えることはできないか。被災地では、具体的な個々の被害や暮らしぶりがあるのにも関わらず、それより、地域全体を大括して把握した、すなわち「平均」した概念による「復興」が進められているのではないか。これは前回の紹介したヤブロコフ博士の指摘とも重なる。 

この山下さんの本を読みなおしていて思ったのだが、もしかして「平均」というものは、そのまま「システム」という言葉に置き換えられるのかもしれない。「システム」というものは、平均した概念を効率よく、管理しやすく行うためにあるものだから。 

同じく『東北発の震災論』から。 

「本来、防災施設にしても、道路などのインフラにしても、みな人間のためのものだったはずだ。原子力発電所だってそうだ。人間のためのシステムのはずが、いつの間にかシステムのための人間になっている。ここには明らかに転倒がある」  (P253)

「システムが大きすぎるのだ。大きすぎる中で、中間項がなく、政治がすべての国民を大事にし、そのための決定を行おうとすることに問題があるのだ。そして政治のみでは無理だから、科学が、マスコミが、大きな経済が介入する。だがこうした大きなものによる作用の中では、一人一人の声は断片でしかなくなる。しばしば人は数字となり、モノとなる。人間の生きることの意味は逆立ちしてしまい、人は人でなくなる」 

山下さんが問題があると指摘する「政治がすべての国民を大事にし、そのための決定を行うとすること」。大事にするがうえに、「平均」「標準」「規格」「フツー」「平等」「公平」といったことばかりが優先され、そして「システム」が起動する。 

個人よりシステムが優先される世界。システムに依存する世界。まさに村上春樹さんが小説で書き続けていることでもある。 

場面は変わる。菅政権のときに内閣広報審議官として官邸に入った下村健一さんかなり以前のブログ(2011年9月7日)でも、その言葉を取り上げた。最近、出版された新著『首相官邸で働いて初めてわかったこと』にも、同じようなフレーズがあったので改めて。 

「原稿の素案を用意するたびに、『システム』という名の生き物が立ち現われて、色んな人間の口を使ってさんざんに“安全”“堅実”“没個性”な言葉に置き換えられていった日々が、一気によみがえった。そう、最後まで、敵は『システム』だったのだ。それぞれの『人』ではなく」 (P234) 

この本にも、日本政府の中枢でさえ、個々よりもシステムが優先される様が書かれていた。あまりにも巨大なシステム過ぎて、総理大臣さえも何もできなくなっているのだ。やれやれ。 

山下さんの指摘するように巨大になりすぎたシステムでは、やがて社会の事象に対応できなくなる。それが顕著に表れたのが、東日本大震災だったのである。改めて『東北発の震災論』から。

人間は無力である。この災害で我々は、我々自身であること、その自律性/主体性を失った。人間はシステムを自由には動かせない。しかも、そうしたシステムの崩壊を前にして、我々はそこから逃れるどころか、ますますこのシステムの強化へと自分たち自身を追い込みつつある」 (P251)

「我々は、普段は広域システムによって豊かに、安全に暮らしている。しかしこのシステムが解体するような危機が訪れると、システムがあまりにも大きく、複雑すぎるために、個々の人間には手に負えない事態に陥ることとなる。東日本大震災で起こったことに対して、首相も、政府も、メディアも、科学者も、みな無力だった。
 
広域システム災害に直面して我々は、システムの本質を反省し、改善するよりはむしろ、崩壊後の再建においてそのシステムをさらに強化する選択肢をとりつつあるようだ」 (P251)
 

個人よりもシステムが優先される社会。そこでは個人は、システムに依存する。依存すればするほど、個々は断片となり、孤立し、埋没していく。そしてシステムはさらに巨大化する。巨大化したシステムは、巨大な故に個々の事象に対応できなくなる。その結果、我々は、どうするか。悲しいかな更にシステムを強化しようとするのだという。 

ぐるぐる回るスパイラル。やれやれ。スパイラルのなかで、我々はどうしたらいいのか。お手上げなのか。よく分からない。 

もう一度、下村健一さん『首相官邸で働いて初めてわかったこと』から、次の言葉を引用する。 

「その“システム”を作っているのも、それに憑依されて動くのも、全ては『人』だ。喜怒哀楽を持ち、決めも迷いも、燃えも挫けも、成し遂げも間違えもする『人の束』。だからこそ、我々一般国民の働きかけが、作用する余地がある」 (P325) 

長くなってしまったが、最後にもうひとつ。こちらもかなり前だが、このブログ(2011年11月10日) で取り上げた思想家の内田樹さん著書『ONEPIECE STRONG WORDS』で書いていた言葉をもう一度。 

「残る方途は、たぶん一つしかありません。ルフィたちもそれを戦略として採用します。それは、システムの中にあるのだけど、システムの中の異物として、システム内部にとどまるということです」 

僕なりに解釈するとこうなる。システムは、管理・効率を強め、巨大化していく。「平均」を押しつけながら。先日のブログ(5月2日など)でも書いたが、その過程で失われていくのが「辺境」ではないか。巨大なシステムを外部から変えるのはもはや難しい。だったら個々がシステムのなかにとどまり、そこで異物・異端の存在として「辺境」をつくっていくことしかない。そういうことではないだろうか。


2013年5月 7日 (火)

「勝手なことをする人が少なすぎますよね。いま世の中はどんどん窮屈になっていますが、従順になりすぎて自分で首を絞めているところもあると思います」

前回のブログ(5月2日)では、世の中から「辺境」が奪われていることについての言葉を並べた。最後に紹介した翻訳家の池田香代子さんの言葉をもう一度、紹介する。雑誌『世界』(2012年7月号)から。

「世界を牛耳っている勢力が怖いのは、得体のしれない有象無象がとびきり面白いことをすることだ」 

だからこそ、今のリーダーたちや既得権益者は、自分たちを脅かす新しい価値観が生まれてくる「辺境」というものを奪っていくのかもしれない。今回は、そんな時代の「リーダー」についての言葉を並べてみたい。 

元外務官僚の孫崎享さんは、著書『日本の「情報と外交」』で、次のように書く。

「一見矛盾しているようであるが、独裁政権は国際的危機に直面すればするほど、国内的に強くなる。戦争という非常事態にあって政権に反対するのは非国民だとして、政治的反対派を強権で弾圧していく。経済が厳しくなると、食料の配給ですら、指導者に忠実な人間は食べ物がもらえる。他方、批判勢力は餓えるということで、指導者の勢力を拡大するのに使える」 (P38)
 

北朝鮮の新しいリーダーしかり、オウム真理教の麻原彰晃氏しかり。独裁的なリーダーたちは、危機感をあおり、求心力を高めようとする。それは、昨今の日本のリーダーや企業のトップも同じような気がする。例えば、経済危機が叫ばれる中で、出てきたアベノミクス。政策に賛同し、従うものだけが、景気回復のおこぼれを手にできる。

一方で、企業でも自由に社員を解雇できるようにしたり、ホワイトカラーエグゼンプションといった新しい制度が、経営者の論理を補完するように導入されていく。
 

経済評論家の森永卓郎さんは、文化放送『大竹まこと ゴールデンラジオ』(4月8日)で次のように話していた。

「実力主義じゃないんです。ボスにこびへつらったやつだけが生き残る社会になる。結局、ボスの命令に忠実で地獄の底まで働いて、全部おべんちゃらで通す奴だけが生き残っていく。実力社会になるんではなくて、うまく立ち回った人が勝つ社会。勝ち組にうまく乗っかっていく人が生き残っていく社会になる」

その結果、誰も言いたいことの言えない社会ができあがってくる。どこの新聞だか失念しているが、日立就職差別裁判元原告の朴鐘碩(パク・チョンソク)さんの言葉が、僕のメモ帖には残っていた。 

「日本の企業社会では、ものを言わない、言えない雰囲気があります。利潤と効率を求め、職場の和を重んじるあまり、言いたいことも言えずに抑圧されて生きている。ものが言えなくなっている日本の状況と民族差別は深くつながっている」 

「私は、おかしいと思うことに対して黙るか黙らないか、人間らしく生きるとはどういうことか、人間として生き方が問われていると思った。自分は黙らない生き方をしたいと開き直ったんです」
 

思想家の内田樹さんの次の指摘は、学校における「いじめ」についてのものだが、政治や企業の独裁的なリーダーと、その下で働く政治家や社員の関係と、まったく同根だと思う。雑誌『新潮45』(5月号)から。 

「今の学校におけるいじめは倫理的に自己評価の低い子どもたちと倫理的に破壊された子どもたちを組織的に生み出す仕掛けになっています。そういう子どもたちは本当に弱いのです。どんな理不尽な要求であっても、大声でどなりつけられると崩れるように屈服してしまう。自尊感情がないから。たぶん損得で動くことはできるでしょう。人の顔色をうかがうことはできるでしょう。世の中の風向きを読んで、『大勢に順応する』ことならできるでしょう。でも、抵抗に耐えてプライドを維持することはできないから、自分が『正しい』と思っていることでも、上位者やマジョリティが強く反対すれば、たちまち撤回してしまう」 (P132) 

理不尽な要求に屈服してしまうことになれた子どもたちが、そのまま「大勢に順応する」ことに長けた大人になっていく。 

元ベイスターズ監督の権藤博氏。彼による野球についての次の指摘も、まさに重なる。著書『教えない教え』から。 

「日本の教育は上に行くための教育であって『上に行って何をすべきか』という教育を怠ってきた。 いや、怠ってきたと言うより、日本社会を牛耳ってきた権力者たちが教育そのものをそういう方向へ持って行ったのだ。自分の意思を持たず、機械のように働く人間を増やすことで日本社会は発展してきた」 (P123) 

以前のブログ(2012年6月7日) で紹介した言葉とも重なる。 「上に行って何をするべきか」を考えずに、トップに立ったリーダーがすることは、とにかく求心力を得るために危機感と閉塞感をあおること。そんな気がするし、そんな社会、組織が強く、面白みがあるとは到底思えない。 

コラムニストの小田嶋隆さんが、ツイッター(2012年2月14日)に書いていたコメント。

「忠誠度の低いメンバーを排除すれば強い組織ができると思うのは早計で、実際には逆サイドに走る選手のいないサッカーチームみたいなどうにもならないものが出現する。そういうチームは行進に向いていても、試合では決して勝てない」 


きっと勝てないだけではなく、ゲーム自体面白くないと思う。もちろん行進など見てても面白かろうはずがない。

「強いリーダー」を求める風潮と、「辺境」を排除する風潮は、表裏一体なのだと思う。リーダーたちが危機感と閉塞感をあおればあおるほど、実は危機感や閉塞感は増幅している気がする。


そんな社会は、やがてどこへたどり着くのか。ちょっと思いだす指摘がある。元オウム真理教信者の上祐史浩氏は、近著『オウム事件 17年目の告白』で、麻原彰晃氏がやろうとしたことについて次のように語っている。

「『預言とは計画なんだ』麻原は力を込めてそう言ったことを、私はよく覚えている」 (P155)

「麻原は、地下鉄サリン事件の前に、『戦いか破滅か』と題するビジオを弟子たちに作らせた。実態は、変わらないと破滅するというのは被害妄想であり、戦ったからこそ破滅したのだ」 (P155)

この「戦ったからこそ破滅したのだ」という言葉は重いと思う。

話を戻す。では上記のようなリーダーや社会にしないため、「辺境」を守るため、僕たちができることはないのか。以前のブログ(2月1日)で紹介した「素人の乱」の松本哉さんの言葉を、最後にもう一度紹介しておきたい。雑誌『世界』(2012年7月号)から。(実は、最初に紹介した池田香代子さんとの対談)。

「勝手なことをする人が少なすぎますよね。いま世の中はどんどん窮屈になっていますが、従順になりすぎて自分で首を絞めているところもあると思います」

「私たちが意外と簡単にできるのは、人の言うことを聞かないということです。強力な指導者の言うこと、軍国主義でもファシズムでも、どれだけ言うことを聞かないか。言われたことを右から左に流して、ケロッとしていられる状況をどれだけつくっていけるか」


 

2013年4月15日 (月)

「現場でやってみて、まずいと分かったら、すぐに直せるシステムじゃなきゃいけないんと思うんです」

前々回のブログ(4月11日)では、「忘却」「忘れる」にまつわることばを並べた。この週末、たまたま建築家の隈研吾さん著書『建築家、走る』を読んでいたら、「忘れる」についての言葉があったので、それも追加として載せておきたい。

「東日本大震災後、『これからどういう建築を建てたいか』ということを、いろいろなインタビューで聞かれました。僕が建てたいのは『死』というものを思い出させてくれる建築のことです」

「関東大震災以前の、日本の木造の街は『死』と共存していました。なぜなら木の建築は、生物は必ず死ぬものだ、ということを教えてくれるからです。変色し、腐っていく木を見ながら、ああ自分もこうやって死ぬんだな、とゆっくり感じることができる」

「一方、コンクリートや鉄でできたピカピカの建築を見ていると、生物が死ぬこと、自分が巣にことを忘れてしまいます。20世紀のアメリカ人は、ディズニーランドのような、死を忘れさせてくれる建築で都市を埋め尽くそうとしました。日本人もそれを真似て、死と近くにいた日本の街も、今やすっかり死から遠くなってしまいました」
 

「死を忘れるとは、自然を恐れなくなることと同じ意味です。死を忘れ、自然を恐れなくなると、どんなにあぶない海際にでも、平気でコンクリートや鉄の建築を立てるようになる。原発がどんなに増えても、気にならなくなります」 (P172)

前々回のブログで触れた中島岳志さんやいとうせいこうさんの言葉とも重なる。もしかしたら、今行われている東日本大震災の復興事業というのは、大がかりなプロジェクトとして進められているが、それは急いで「死」を封じ込めようとしているもののかもしれない。 

社会学者の山下祐介さん著書『東北発の震災論』で、書いていた次の言葉を思い出す。 

「『復興』を進める事業のためには、人の暮らしはどうなっても構わないという力学が生まれているようだ」 (P269) 

本来、「人の暮らし」と「死」とは切っても切れないものなのだろう。 

もうひとつ。ちょっと前の毎日新聞夕刊(3月14日)で、隈研吾さんは次のように語っていたのも思い出す。 

「木造って、いったん建てた後でも自分たちの暮らしの変化に合わせて壁の位置を変更したり、絶えずちょこちょこ手直しできるでしょ。あの発想、やり方がいい。一方コンクリート建築は改造が困難で壊すのに大変な労力がいる」

これからの時代は頭の中で考えた抽象的なものではなく、現場でやってみて、まずいと分かったら、すぐに直せるシステムじゃなきゃいけないんと思うんです」
 

このブログの最初の頃は、システムについて考えさせてくれる言葉や文章をよく並べていた(2011年11月24日など)。既存のシステムについては、一気に変えることよりも、少しずつ手直ししうる「更新」する作業の方が大切じゃないかという指摘をしたつもり。上記の隈さんの言葉は、それにも通じる。

2012年12月25日 (火)

「移動費がネックになっている。移動を起こしにくい社会構造になっている」

前回のブログ(12/22)では、色んな大人の事情によってコストがかさんだ結果、気が付いたらチケット代が高価なものとなり、結局、それが観客数減の一因になっているのではないか、という話を書いた。

実は関連しているのではないのか、と連想したことがある。かつて自分がいた職場で、同僚が「お金がない」と口にするのをたまに聞いたりする。彼らもそれなりの給料をもらっていたはずだし、単純に考えて、そんなことはないのでは、と思ったものだ。よくよく聞いてみると、そういう人たちは、住宅ローンを抱え、子供は私立の学校なんかに通い、さらに塾にも通い、そして車の維持費やら生命保険の支払いやら何やらで、毎月、かなり「ランニングコスト」を抱えた生活をしているようである。その結果、家族旅行を我慢したり、わずかな小遣いで我慢したりしている。自分たちで「自由」に使えるお金は殆どない状態なのである。ボクも含めて、日本のサラリーマンなんて、「まるでランニングコストのために働いているようだ」と思ったりしていたものだ。

全く同じような指摘が、建築家・坂口恭平さんの著書『独立国家のつくりかた』に書いてあった。

「35年ローンを組んで、大きな借金を背負って、おかげで働きゃいけなくて、それによって会社、銀行がちゃんと運営できて、『万歳、経済発展!』というのはどこかおかしいような気がする。そんな単純な話じゃないんだよと人は僕にいうのだが、ではどのような複雑なシステムなんですかと聞いても、誰も答えてくれない。つまり、わかっていないのだ。 

 わからないことは、考えて答えを出さなくてはいけない。簡単なことだ。もっと物事を単純に考える癖を身につけよう。そうしないと社会の複雑さには対応できない」 (P31)

サラリーマンが、自分たちのランニングコストのために日々、働き、そのコストによって、社会が回っている。そんな今の社会のシステムについて、坂口さんは批判をしているのである。その結果、我々が失ったものは何なのか。 

多くのランニングコストを抱えたサラリーマンは、仮に会社の方針とぶつかったりしても、当然、会社を辞めるという選択肢などごくごく小さいものになるに違いない。日々のローンや子供の学費が払えなくなる。同様に、多くのランニングコストを抱えた社会は、その数多くの既得権者のため、その社会のスタイルを容易に変えることはできなくなる。まさに原発依存から抜けられない問題の構図が、そうである。 

坂口さんは、こんな指摘もしている。

「この国は移動費が高い。新幹線なんて馬鹿みたいな値段がするし、飛行機のチケットも国内で乗るよりも海外に行ったほうが安い。移動費がネックになっている。移動を起こしにくい社会構造になっている。僕はこれも今の社会の日本の労働環境とリンクしているように感じる」 (P206) 

本当にそう思う。新幹線だけでない、JRや地方の私鉄の運賃の高さに驚くことは多い。ボクノ知り合いは、ゆりかもめの運賃に降参してお台場から再引っ越しをした。鉄道以外でも、ガソリン代も高速料金も日本は以上に高いと思う。そうやって、国内の移動費が高くなっている結果、我々は、移動さえ、「自由」にできない社会で生活していることになっている。これは、野球少年たちが、気軽にプロ野球を観に行く「自由」がないのと通じる。 

我々は、実は、かなり「自由」のない社会に生きてしまっているのではないか。 

確かに、デフレによって安い物は安い。しかし鉄道の運賃、ガソリンの価格、高速道路代、電気代、家賃、映画の入場料、コンサートやスポーツ観戦のチケット代など、国際的にみても日本では割高というものはたくさんある。安部政権になって、インフレ目標導入した場合、これらも更に値上がりしてしまうのだろうか。 

いつの間にか、ボクたち自身や、社会そのものをガンジガラメにしている「ランニングコスト」。もう一度、それによって失っているものにも目を向ける必要があると思う。 

ランニングコストが少ない社会とは、どういう社会なのか。作家の高橋源一郎さんは、内田樹さんとの対談集『どんどん沈む日本をそれでも愛せますか?』で、訪れた山口県の祝島について、次のように語っていた。 

「結局、何にお金がかかるっていったら、医療とか、そういうこと。それにはあんまりお金がかかんないだよ。祝島では。お金がかかるシステムにしているから、貧困はまずいってことになる。だったら、お金がかからないシステムをつくった方が合理的だっていう話になるでしょ?そういう意味では祝島の人たち、極めて合理的なんだよね。だから、知恵がある、っていうこと」 (P241) 

祝島では、原発反対運動によって、地域コミュニティーをはぐくんだ結果、医療費などがかからなくなり、その結果、例え「貧困」であってでも「自由」に生活できる環境があるというのだ。これが示唆することは大きい。都会のサラリーマンは、全くの反対を行っている。将来の「貧困」を恐れ、ますます「ランニングコスト」がかかる生活を強い、結果、「自由」を失う。きっと、そんな生活は「合理的」ではないのである。

2012年7月 7日 (土)

「システムを変えることで個人が変わる時代は終わっている」

さらに追加分その②

先月の初め(6/7)の文章では、大阪市の橋下市長の「仕組みがわるい」というコメントを引いて、「仕組みさえかえることだけに興味を持ち、その仕組みで何をするかを考えない政治家が多いのではないか」というような内容についても長々と書いた。

 

その内容に関することで、以前読んだ村上龍氏の『寂しい国の殺人』という本にあったフレーズを追加として載せておきたい。

 

「『これからの日本をどう変えていけばいいのか』などと言っている人を私は信用しない。そんなたわけたことを言う前に、まずお前が変われ、といつも思う。システムを変えることで個人が変わる時代は終わっている」

改めて書いておく。システムを変えたとしても、個人、そして社会が自動的に変わるわけではないのである。

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