自律と他律

2013年4月30日 (火)

「被災地にも、またそれ以外のところでも、『誰かが何とかしてくれる』という強い依存感覚が働いていたように思えてならないのである」

4月28日は「主権回復の日」というんだそうだ。なんだかなあ、と思っていたら、その式典で安倍総理は「万歳三唱」をしたという。さらに、なんだかなあと思ってしまう。やれやれ。

この日については、ジャーナリストの青木理さんが、TBSラジオ『荒川強啓 デイキャッチ』(4月8日)で、次のように話していたのを思い出す。


「サンフランシスコ講和条約が発効した日というのは、主権を回復した日というより、むしろ対米追従の原点なわけですよ」 

この日は、対米追従、すなわちアメリカ依存の「はじまり、はじまり~」という訳だ。 

そこで。しばらく前に、「外部規律」や「数値・数字」に必要以上に依存してしまう日本社会の「依存体質」をめぐる言葉をいろいろ並べてみた。今回は、そこにはこぼれたけど、最近、見かけた「依存体質」についての言葉、フレーズ、文章をダァーッと並べておきたい。 

まず、その「対米依存」について。ジャーナリストの船橋洋一さん著書『カウントダウン・メルトダウン』から。この本は、今年の大宅壮一ノンフィクション賞を受賞している。

「官邸政務中枢では、対米依存と対米排除の真理が同時に噴き出していた。原子炉がいよいよ制止できなくなる中で、一気に米国への依存心が高まっていくのと同時に、そうなった場合の米国の介入の重苦しさと政治的な負荷を感じ始めていた」 (P148)
 

原発事故とともに、さらに対米依存が強まったという指摘は深いと思う。 

その震災について。社会学者の山下祐介さんは、著書『東北発の震災論』で、次のように書いている。

「これほどの大きな事態に対して、それでもなお、日本人には主体的な動きが現れなかった。ある種の人任せの風潮がこの震災では広くみられたように思えるのである。
 
国が何とかしてくれる。経済大国だから大丈夫。専門家が何とかしてくれる。
 
あえて強い言い方をするなら、被災地にも、またそれ以外のところでも、『誰かが何とかしてくれる』という強い依存感覚が働いていたように思えてならないのである」 (P25)


これは日本の社会風潮の深いところを衝いている指摘のように思えてならない。

続いて、ジャーナリズムに関して。ジャーナリストで高知新聞の高田昌幸さんは、自らのブログ『ニュースの現場で考えること』(2008年12月12日) で、次のように書いていた。

「日本の新聞社はたいてい、『県庁クラブ』とか、『首相官邸記者クラブ』とか、地方・中央を問わず、記者クラブに記者を張り付けている。情報の『出口』に記者を常備し、上流から流れ落ちてくる情報を掬い取り、記事を作っている。私が常々言っていることだが、簡単に言えば、『官依存』『警察依存』『大企業依存』である。『発表依存』と言い換えても良い」


「発表依存」、本当にそう思う。僕もある時、テレビのニュース番組を観ていて思ったが、それはニュース番組ではなく、「記者会見」番組ではないかということ。ただただ、様々な記者会見の様子を順番に流す。話題の事件や事象にまつわる人たちに、まず記者会見を行うことを求め、それを取材と呼び、ただ流す。これは報道番組とは呼べないのでは・・・と。 

その高田昌幸さんが、『メディアの罠』で紹介している次のエピソードも興味深い。

「前、朝日新聞の筆政(今の主筆)だった緒方竹虎は敗戦が濃厚になった時期、政府の情報局総裁に転じますが、就任後、あまりにも政府・軍部の情報統制が効きすぎていたことが気になり、『諸君はもっと自由に書いていい』という趣旨のことを発言します。すると、記者たちは緒方総裁に言うわけです。総裁、それは困ります。どこまで書いていいかを示して欲しい、と。それと似たものを今回の原発事故報道でも感じていました」 (P202)

昔も今も、「発表依存」は変わらない。まさに「自律」というものは存在せず、「他律」から抜けられない体質なのである。

同じ『メディアの罠』で、青木理さんが紹介する次の話も。

「事件などをめぐる日本のメディア報道の問題点って、量の異常な多さも問題だけど、警察や検察といった『お上』のお墨付きを得た途端に怒濤のごとき集中砲火報道が繰り広げられてしまうところにもあると思うんです。誤解をおそれずにいえば、『お上公認の血祭り対象』が出現したかのように、メディアが大はしゃぎして徹底的なパッシングを加えていく。
 
その原因はいろいろあるでしょう。何よりも大きいのは、メディアに限った話じゃありませんが、『お上依存』『お上絶対視』という日本社会の風潮もあるし、高田さんのおっしゃる通り、取材力の低下や調査報道能力の劣化もあるでしょう。そしてもう一つ、訴えられた際のリスクをおそれる自主規制です」 (P150)


「警察沙汰になるや否や、鬼の首を取ったかのように大騒ぎするというのは、あまりにみっともない話です。『のりピー報道』もそうだし、朝青龍の暴行問題もそうです。警察や検察という『お上』が動き出した途端、その尻馬にのって被疑者側を洪水報道で徹底パッシングするというのは、この国のメディアの最大病理です」 (P152)

「一見分かりやすい『悪』を見つけて徹底的にパッシングし、でもすぐに忘れてしまうんです。そして次の血祭り相手を見つけて盛り上がり、またすぐに忘れる。その繰り返しの中で、もっとも大切に論議すべき事柄が脇に追いやられてしまう」 (P295)

「頼むよ、日本のジャーナリズムよ」とでも言いたくなってくる。警察発表に頼るジャーナリズム、一方で当然というか、その警察も依存体質から抜けられない。

大沢在昌さん小説『冬芽の人』で、主人公の元女性刑事、牧しずりは、次のように考える。 

「警官になる人間の多くは、頭より体を動かすほうが好きだ。さらに自己判断を得意とせず、命令に従った行動を好む。システムに組みこまれ、その一部として動いていることに不安や疑問を抱かない」 (P188)

上から下まで、右も左も、という感じだ。あちこちで依存ばかりして、もう何が何に依存しているのかさえ分からないくらい。山本七平さんに倣って、「空気依存」とでも言ったらいいのか。

思想家の内田樹さんは、著書『日本辺境論』で、次のように書いている。

「私たちはきわめて重大な決定でさえその採否を空気に委ねる。かりに事後的に決定が誤りであったことが分かった場合にも、『とても反対できる空気ではなかった』と言い訳が口を衝いて出るし、その言い訳が『それではしかたがない』と通ってしまう」 (P45)


自律なき、「空気」依存。これこそ、すなわち「空気が支配する社会」なのかもしれない。

ランダムに、最近、目についた「依存」にまつわる言葉、文章を並べてみたが、なんだかウツウツとした気分になってきた。深い深い依存体質、どうすれば、ここに「自律」という体質が芽生えてくるのだろう。ん~。


2013年4月18日 (木)

「数字や論理が、人間を置き去りにしながら、勝手に一方的に、しかもきわめて重要な決定を固めていく」

前々回のブログ(4月16日)では、数値や数字でしか「世界」や「社会」を理解できす、さらにその数値・数字のためだけに「イワシ」のように動くという言葉を紹介した。

社会学者の山下祐介さん著書『東北発の震災論』を読んでいたら、数値や数字を通してしか、「社会」を捉えることができない風潮と、それによって問題の本質が忘れられていくことについても鋭く指摘されていた。 

「少子高齢化は本来、家族の問題だが、それが全体の数値に置き換えられて様々に論じられている。さらにそれが就業人口に関わって問題視されると、必要な労働者の数だけが問題なら、子どもが生まれなくても外国人を入れればよい、という話になってしまう。ここではもはや利用可能な数とだけしか人間は認識されなくなってしまっているようだ」

「人間のための統治が、いつの間にか統治のための人間に切りかわる。人の生を尊重するあまり、統治は人をモノ化し、数値化し、非人間化する。
 
この論理こそ、我々がこの震災の中で、随所に見てきたものである」 (P266)

本来、目安でしかない数値・数字だったはずが、それさえ満たせば全てが解決するという勘違いに陥ってしまうのだ。これは、3月22日のブログで紹介した森達也さんの「暫定的に設けた標識に対して、絶対的なものとして依存してしまう」とする風潮と重なる。 

この本の中で、山下さんは、次のような指摘もしている。 

「我々の手元にあるリスク論はほとんどすべてが確率論だ。この奇妙さに敏感になるべきだ。数値で置き換えられると、一見科学的で客観的で人間にとってあらがえない真実のように見える」

科学の名の下に、数字や論理が、人間を置き去りにしながら、勝手に一方的に、しかもきわめて重要な決定を固めていく。それも当人たちではなく別の誰かが、かつ善意で、だが十分に考えつくされたわけでもなく、しかもしばしばかたちだけは民主的に」 (P268~9)

その結果、震災では次のような対応が行われる。

「『復興』を進める事業のためには、人の暮らしはどうなっても構わないという力学が生まれているようだ」 (P269) 

数値・数字、そして確率を追い求めていった結果、「人間」を置き去りにする。これは、「効率」を追い求める社会風潮にも当てはまる。山下さんは、著書『限界集落の真実』では、次のように書いている。

「一見、絶対的真理のように見える効率性の論理も、どこかで危ういものを持っていることに気づく必要がある。思考実験を色々と繰り返してみるとよい。効率性/経済性を、現時点での経済性ということだけで考えていけば、高齢者は無駄だし、子供も不要となる。しかしそのような社会は長く存続できない。子供や高齢者のいない社会などないからである。とすると、この問いは、どこか根元のところで間違っているのである」 (P136)


数値・数字、さらには効率を追い求め、それに絶対的に依存してしまう。数値・数字を追い続ける「イワシ」たちには、自分たちの「姿」は見えていないということなのだろうか。

2013年4月16日 (火)

「ぼく、『イワシ化』って呼んでるんですけども、社会がイワシ化しているんです」

外部規律に依存しがちな体質と、ランキングや世論調査など数値・数字だけで判断するのとは同じなのではないか、という言葉を、3月19日のブログでは並べた。

そんな周りにあふれる数値や流行に振り回される風潮について、内田樹さんと岡田斗司夫さんの対談による本『評価と贈与の経済学』でも取り上げていた。岡田斗司夫さんの言葉が印象的だったので紹介したい。

「かつては有識者がいて、『この人なら信じられるんじゃないか』っていうのがあって、その人たちの話を聞いたうえで個人個人がそれらを見比べて、意思決定をするというのが近代自我の主体を立ち上げるということだった。いまは『流行りだから間違いない』『ランキングが上位だから良いに違いない』という発想」

「ぼく、『イワシ化』って呼んでるんですけども、社会がイワシ化しているんです」

「イワシって小さい魚だから、普段は巨大な群れになって泳いでいる。どこにも中心がないんだけども、うまくまとまっている。自由に泳いでいる。これは見事に、いまの日本人なのではないかと」 (P14)
 

うん。「イワシ化」とはうまい表現だと思う。ちなみに、この本の表紙は「イワシ」の写真である。最近、なにが実体なのか分からないのに、アベノミクスやらで、株価だけがダアーと上がっているは、まさに「イワシ化」現象以外の何ものでもないと思う。 

ほかで見かけた「数値・数字」に依存する風潮をめぐる言葉を書いておく。 

その内田樹さんは、著書『どんどん沈む日本をそれでも愛せますか?』の中で、こんな風に語っている。 

「子供が泳げるようになっているかどうかは、見ればだいたいわかるし、『どうだった今日は?』『おもしろかったよ』と言ってたらさ、分かるじゃない。最近なんか顔色がいいとか、ご飯よく食うとか、よく寝るとかさ、そういうのでわかるはずじゃない。 

 分からないんだよ、今の親は。級で言わないと。自分の子供の身体能力の向上さえも、インストラクターが『級が1級上がりました』って言わないとわかんないんだからさ」

もうひとつ。雑誌『ソトコト』(5月号)は、図書館特集。大阪の橋下徹氏が、知事時代に大阪国際児童文学館の廃止を決めたことに対して、作家の田中康夫さんが次のように語っている。

「数値に換算しできない部分を理解するかどうかは、まあ、人間としてのセンスの問題だね」

その田中康夫さんは、今日のTBSラジオ『デイキャッチ』(4月16日)の番組のなかで、こんなコメントもしていた。

「政治家って数字で割り切れないところを、やっぱり洞察力や直観力を持って、人のために尽くすということだと僕は思う。数字のために尽くすのではない」

あらゆる分野で、数値・数字だけでしかものを理解せず、その数字のためだけに動く風潮が強まっている。まさに数値を「イワシ」のように追う。このイワシたちはどこへ向かっていくのだろうか。

2013年3月26日 (火)

「たぶん、いちばんいけないのは、『こうすればみんな文句言わないだろうな』っていう選択だと思うんだよな」

3月21日のブログで、日本サッカー協会副会長の田嶋幸三さんが、U-17代表監督時代に、若い選手たちに感じた次のエピソードを紹介した。(『「言語技術」が日本のサッカーを変える』から)

「15~16歳の選手の場合、ゲームを止めると、次にどうするかと思いますか?
 
黙って私の目を見ることが実に多いのです。その表情は、私の言おうとしている答えを探し出そうとしているようにしか見えません。自分自身で答えを探すことよりも、私の解答を求める様子がありありと見えるのです」 (P11) 

練習中、ゲームを止めると監督顔色をうかがう選手たち。これは、僕が関わっている少年野球のチームでも、よく感じる場面である。何かあると、すぐにベンチの監督やコーチの顔色をうかがう。その背景には、なにかと「ああしろ、こうしろ」とか、「何でちゃんとできないんだ」と怒ったように指示ばかりする大人側の問題もあるのだろう。「自分自身で答えを探すことよりも、私の解答を求める様子」のことを、「忖度」というのだと思う。 

「忖度する」。正直あまり好きではない言葉である。 

今日は、この「忖度」という行為にまつわる言葉を並べてみたい。 

まずは、活動家の湯浅誠さんが著書『貧困についてとことん考えてみた』で、その「忖度文化」について書いている。 

「いったん一方向に流れ出すと、誰から言われなくても、みんながそこに配慮して働く雰囲気がありますね。忖度文化ともいあわれますが。『一つの流れができた』と多くの人が感じると、個々人がそれを所与のものとして動き出して、結果的にそれが強化されるという、妙な増幅過程です」 (P166) 

元外交官の佐藤優さんは、文化放送『くにまるジャパン』(2012年12月7日)で、「なぜ選挙で、政治家の語る言葉が響いてこないのか?」というスタジオでの問いに対する答えとして、次のように語っている。 

「全体の代表であろうとするから。八方美人シンドローム。全体の代表は無代表なんですよ。政党というのは『パーティ』、部分なんですよ」 

全員の考えを「忖度」しようとするから、何も届いてこないということ。今の政治に関しては、世論調査や選挙を意識しすぎるという意味で、選挙に通るための有権者の意識を「忖度しすぎる」政治家ばかりになっていると言えるのかも。

元財務官僚の高橋洋一さんは、 霞が関官僚の「忖度体質」について、『アメリカに潰された政治家たち』で次のように語っている。

「政治家の対米追従路線の中で、霞が関ではアメリカのいうことを聞く官僚グループが出世していく。

彼らは自分たちの立場、利権を守るために、アメリカは何もいっていないのに『アメリカの意向』を持ち出す。とくに財政や金融に限っていうと、そうしたケースが非常に多い。

霞が関では財務省のポチができるとそれが増殖する。メディアもポチになって、ポチ体制が確立すれば、その中から出世する確率は高くなる。そうなるとさらにポチ数段が膨らんでいくという構図です」 (P187)

ポチ体質…。霞が関の体質こそ、忖度文化の極みとも言えるのかも。

教育における問題でも、同じような指摘を思想家の内田樹さんがしている。ブログ『内田樹の研究室』(2013年1月29日)から。 

「今の教育は、あまりに多くの人の要求を受け容れたせいで、『誰の要求も満たしていないもの』になったのである」 

これらの批判は、海外では、日本の家電製品が「多機能過ぎて使いにくい」という評価を受けているのと同じなのだと思う。 

さらに内田樹さんは、『内田樹の研究室』(2012年5月9日)で、こんなことも書いていた。 

「『忖度する人』にはわかりやすい外形的な特徴がある。それは『首尾一貫性がない』ということである」

強いものや、はやっているものをみて、その意向をくみ取って物事
を決めていく。結局、何がしたいかわからない政治家、何がしたいかわからない家電製品が量産されていく・・・。 

茂木健一郎さんも、JFMで配信している『ラジオ版 学問ノススメ』(2012年8月12日)で、教育界についてこんな批判を。 

「こういう風に評価されると思うと、それをやっちゃう。学校で試験を受けて点数をとると、ほめられるという文脈のなかでやっているだけ。挑戦する脳とは文脈を越える力」 

そして糸井重里さんは、『ほぼ日刊イトイ新聞』「さんまシステム」(2008年3月10日)という明石家さんまさんとの対談の中で、メディアの中でやってはいけないこととして、次のように書いている。 

「たぶん、いちばんいけないのは、『こうすればみんな文句言わないだろうな』っていう選択だと思うんだよな」 

忖度文化。まさに自分で考え、判断する「自律」より、外部の判断・基準に従う、というか汲みとる「他律」「外部規律」依存の体質のことを言うんだと思う。

 

2013年3月22日 (金)

「とくに日本人はその傾向が強くて、勝手にいろんな標識を立ててしまうわけです」

このブログでは、何度も取り上げているが、ピーター・バラカンさん「この国は、ルールを決めておけば、絶対にそこから外れないというところがあります」(2012年6月20日のブログ)など、ついつい決められたルールに拘泥してしまう日本の体質に関する言葉を紹介してきた。(2013年3月7日のブログなど)。

昨夜、作家の森達也さんとジャーナリストの上杉隆さんによる対談をまとめた『誰がこの国を壊すのか』という本を非常に興味深く読んだ。その中で、上記の「ルールに拘泥してしまう体質」にまつわる話があったので紹介してみたい。森達也さんは、かつてテレビの世界での経験を次のように語っている。

「テレビ時代に『放送禁止歌』というドキュメンタリーを作りました。誰もが放送禁止かというカテゴリーがメディア内には存在していると思い込んでいた。メディアだけじゃなくて、ミュージシャン、レコード会社、音楽業界も含めて、この社会全域といってもいいかもしれない。ところが調べてみたら、そんな規制などどこにもない。つまり自主規制と同時に、規制の主体が自分たちであることを放送業界の人たちが忘れていた」

「極めて日本的な現象だと思います。なぜ放送禁止歌ができるか、なぜこの歌は放送してはならないという標識が立てられるのか。標識がないと人々が不安になるからです。ここから先は立ち入り禁止ですよ、ここから先は足を踏み入れてはなりませんよ-そういうサインがあってはじめて、人は『ではこちら側は安全なんだ』と安心できる」
 (P112)
 

非常に興味深いコメントだと思う。誰もが絶対的な「ルール」だと思っていた「放送禁止歌」という規制。しかし、これは、「自主規制」でしかなく、「規制の主体が自分たちである」という。「とりあえずのルール」でしかなかったのだ。それを、森さんは「標識」と表現する。なるほどと深く肯いてしまう。 

さらに森さんは、次のように語っている。

「とくに日本人はその傾向が強くて、勝手にいろんな標識を立ててしまうわけです。そして自分たちで立てたにもかかわらず、それが何か一般意思のようなものが立てたと思い込んでしまう。自律を他律とすり替えてしまうわけです。つまり共同幻想です」 (P113)
 

「自律」と「他律」。はじめ自分たちの意思で、目安としての「標識」を立てる。いつの間にか、それを「絶対」のものとして、そこに「他律」、すなわち「外部規律」として依存する。これは、ピーター・バラカンさんらの指摘と全く重なってくる。 

さらに、その「外部規律」(前回のブログなど)については、メディアの世界も例外ではない。ジャーナリストの上杉隆さんも興味深い経験談を語っている。出演していた北海道文化放送の番組『U型テレビ』で、ある殺人事件で浮上していた容疑者についてのことである。 

「自分たちの取材を信じて出すのなら今出しなさい。出さないなら匿名報道にしなさいとアドバイスしたんですけど、結局、僕のその意見は無視されてしまいました。だたいま警察が発表しましたとなったら、その瞬間から実名とか彼の映像とかがダーッと出るわけです。 『U型』はもっともマシな番組だと思います。だが、そこですら『私たちはすでに逮捕前から彼の映像を取っていました』とかナレーションが語る。これはテレビだけではありません。日本の記者たちって、そういう権力依存体質が染み付いてしまっていて、自己判断能力を失ってしまっているのです。これはもう根が深すぎて、また絶望という言葉を使ってしまいます」 (P195) 

「原発問題の報道でもそうです。昨年3月14日くらいまでは、各メディアも『メルトダウン』『炉心溶融』という言葉を使っていました。それが枝野幸男官房長官が「燃料棒の一部損壊で、炉心溶融はしていない」と発表したとたん、『一部損壊』で統一されてしまった。自分達の取材より政府発表を信じるわけです」 (P84) 

上杉さんが指摘する記者クラブ体質では、判断基準や規律を「外部」すなわち「権力」に依存してしまう事例のオンパレードである。

便宜上、暫定的に設けた標識、目安、方便が、やがて絶対的なシステムとなり、それに依存してしまう我々をがんじがらめにする。本当に日本の至るところで起きていることなのだろう。上杉さんの「これはもう根が深すぎて、また絶望という言葉を使ってしまいます」というセリフが痛々しく体にしみこんでくる。

作家の阿部和重さんの次の言葉をもう一度、問いかけたい。(2012年9月3日のブログ)


「社会を成立させ円滑にするため、人はルールを決め従っている。生活習慣でも憲法でも。でも、信じているものがなくても生きられないわけではない。人間が作ったルールはすべて暫定的なものだと強調したかった」


2013年3月21日 (木)

「究極の状況下で、自らが考えて判断を下す『自己決定力』。その力を備えていない限り、世界で通用するサッカー選手になることはできない」

そろそろ他の言葉についても並べてみたいと思いつつ、「外部規律依存の体質」にまつわるような言葉を見つけると立ち止り、うろうろ考えてしまう。しばらくは、仕方ないか・・・。

今週、今や日本サッカー協会の副会長である田嶋幸三さんの書いた著書『「言語技術」が日本のサッカーを変える』を読んでいたら、興味深い話や言葉が語られていたので、それを紹介したい。 

まず、興味を引かれたのが、2006年ワールドカップのドイツ大会での話。ボクもこの大会は、取材で11試合を観ることができた。この準決勝の、イタリア対ドイツ戦のこと。イタリアチームは、選手1人退場となった時でも、ピッチにいる選手は誰もベンチを見なかったというのである。田嶋さんは、次のように書いている。

ピッチの選手が、『ベンチを見ない』。そのことは、いったい何を示しているのでしょうか?サッカーにとって、どれくらい重要な意味があるのでしょうか?
 
イタリアのメンバーたちは、選手が1人欠けてしまったという場面に遭遇しても、自分たちで判断し難問を解決していく力を持っていました。そうした能力をしっかりと養ってきたからこそ、彼らはベンチに対して『指示を求めなかった』のです。つまり、『ベンチを見ない』ということは、ピッチ上で発生した出来事をどう処理していくのか、そのために分析力と判断力を発揮して、決定する『力』を持っていたということの『証』でした。 
 
究極の状況下で、自らが考えて判断を下す『自己決定力』。その力を備えていない限り、世界で通用するサッカー選手になることはできない、という事実を明確に示している-そうした出来事だと、私には思えたのでした」 (P8)
 

これに対して日本選手の特徴はどうなのか。U-17日本代表監督のときの経験を引き合いにして、次のように書いている。 

「15~16歳の選手の場合、ゲームを止めると、次にどうするかと思いますか?
 
黙って私の目を見ることが実に多いのです。その表情は、私の言おうとしている答えを探し出そうとしているようにしか見えません。自分自身で答えを探すことよりも、私の解答を求める様子がありありと見えるのです」 (P11)
 

自ら考えて判断する「自己決定力」ならぬ、ここでも反射的に、監督という「外部」に依存してしまう体質があるという。 

「ダメになる選手の典型は、小・中・高の時にずっと、『お前ら負けたら走らすぞ』と指導者におどされて、『監督が怒るから勝たなければ』『負けたら練習がきつくなる』と、それこそ悪い意味でのオートマチゼーションで刷り込まれているタイプです。そうした選手は、本当の勝負の時に力が出せない。いわゆる外的な動機付けで試合に臨んでいるからです」 (P196) 

外的な動機付け。ん~。本当に、本当に根が深い「体質」である。さらにドイツでの指導経験と比べながら、次のように考察している。

「それではなぜ、日本の子どもたちは黙ってしまうのでしょうか?監督の目を見て、指示を待っているのでしょうか?ドイツの子どもたちと、どこが違うのでしょう?
 
ミスはミスでいいのです。ミスは、必ず起こることだし、減らしていくために確認し練習するものだからです。その時は、『いやあ、僕は本当はそこにパスを出したかったんだけれど、名前を呼ばれたからこっちに出したんです、だからミスになってしまったんです』というふうに。そのようにミスの理由や原因を、ハッキリとことばでいってくれればいいわけです。ところが、日本の子どもたちはそうした表現が苦手です」

「ドイツと日本の練習風景を比べてみたとき、まずはっきりとした違いとして私の目に映ったのは、『自分の考えをことばにする表現力』でした」 (P12)
 

「海外で活躍しているスポーツ選手を見てください。日本にいた頃は、自分の意見を強く持っていて、下手したら生意気を言われてきた人も多いのではないか。サッカーだけではありません。メジャーリーグへ行った野茂英雄も、イチローも、自分の意見や方法をはっきりと持ち、制度的なものになじまないという意味で、日本ではアウトロー的な選手だった。
 
中田英寿も、自分の意見や主張をはっきりと持ち、言語化していた。海外で通用することばを持っていたのです。日本では『出る杭は打たれる』などと言いますが、海外へ行けば、自分の考えを持っていない選手、語らない選手なんて存在感ゼロ」 (P166)
 


自分で考え、判断した結果のことを、自分の言葉で語った場合には、「アウトロー的な存在」になってしまう。これが日本だったりもする。やれやれ。

ただ世界のサッカーと肩を並べていくためには、そんな体質ではダメなわけである。自分で考え判断する「自己決定力」と、それを言葉にして相手に伝える能力である「言語技術」。これを指導者たちや、若い世代に身につけさせるために、田嶋さんは「アカデミー」を整備し、そこからサッカーの底上げを図ろうとしたという。

当然ながら、こうしたことが不可欠なのは、サッカー界だけのことではないはず。ふむふむ。いろいろなことを示唆している
本だと思う。

2013年3月19日 (火)

「政治に限らず、我々の周りには人気投票やランキングであふれかえっている」

ここ数回のブログでは、自己規律ではなく、外的な規律、外部規律に依存してしまう社会体質についての言葉をツラツラと並べてきた。

そこで、ハタと思ったのが、数字・数値だけでしか判断しないというのも、外部規律依存の象徴的なことなのではないか、ということ。企業や教育、スポーツの現場にも、「時間がない」「効率化しろ」という御旗のもと、数値・数字だけで査定する傾向はますます強まっている気がする。今回は、最近チェックした「数値」を巡る言葉を並べてみたい。


まず、メディアの世界。朝日新聞(2月27日)で、文化くらし報道部の田玉恵美さんは「テレビ視聴率」について、次のように書いている。

「テレビの見方は多様になった。それなのにテレビ局はおろか、我々メディアも数字が良いの悪いのと騒ぐ。ただの『広告指標』が、実質的には番組の質に対する評価軸としても利用されている」 

広告のためのひとつの目安のような数字が、そのまま全ての「評価軸」なってしまう。

2008年のことだけど、 NHK『クローズアップ現代』(6月4日)では「ランキング依存が止まらない~出版不況の裏側~」という放送を行った。ランキングでしか本を選べない今の読者の傾向と同時に、ランキング上位に入っていない本は、すぐに返品するという書店側の状況も報告されていた。自分の興味、目利きで本を選ぶのではなく、「ランキング」という外部データに頼る。「ランキング依存」というのも、まさに「数値・数字」依存の代表選手なのだろう。

そういう意味では、政治報道ではやっている「世論調査」も、ランキングのひとつと呼べなくないか。


ちょっと前だけど、
雑誌『サイゾー』(2009年4月22号)では、共同通信政治部の柿崎明二さん『「世論調査依存症」が生み出す衆愚政治』という記事を書いていた。政治家は、世論調査による数字によってでしか、次の総裁候補や政策を選べなくなっている。いうような内容だったと思う。
 

また同じころ、『ビデオニュース・ドットコム』(2009年7月4日)でも、『世論という名の魔物とのつきあい方』というテーマを扱っていた。国民のほうも、選挙の前の世論調査でしか、候補者を選べなくなっていることなどを話していたと思う。出演していた宮台真司氏のホームページには、こんな言葉が残っている。 

「政治に限らず、我々の周りには人気投票やランキングであふれかえっている。そうしたものに振り回されないで生きるためには、我々は何を支えに、どのような視座で『人気』というものを考えればいいのだろうか」 

さて、最近の言葉に戻る。その政治の世界について。作家のあさのあつこさんが、毎日新聞(2012年12月16日)で次のように語っている。 

「今度の選挙で異口同音に発せられる『強い国』『日本の立て直し』というフレーズ。その強さを立て直すという方向も実に分かり易い。経済力、軍事力、GNP、GNE。ほとんどが数字で表すことができる。彼らの言う『強い国』とは、そういうものなのだ。全てが借り物のにおいがする」

数字でしか「国のかたち」や「国の目指す方向」、もしかしたら「美しい国」というものさえも表現できなくなっているということなのかも・・・。

もうひとつ政治について。 江戸研究の田中優子さんと、文化人類学者の辻信一さんによる共著『降りる思想』から。

田中 「それが松下政経塾の発想なんだと思うんですよ。政治と経済がくっついていて、経済のために政治があるという考え。すべてを数字で計算し合理化していく。政治家は、じつは全員新自由主義者か、と() 

  「そういう意味では、原発のコストにしてもそうですが、コスト・パフォーマンスとか、費用対効果という言葉がすごく使われるでしょう。まるで、それさえ言えばなんでも説明できる、魔法の小槌みたいに。これが問題の根本かもしれないですね」 (P34)

しばらく追っていた体罰がらみの言葉。スポーツライターの小林信也さんが、読売新聞(2月14日)の『指導と体罰』という特集で語っていた。指導者やメディアに対する批評である。

「スピードや筋力など、目に見える数字や動きばかりに目を奪われる風潮も強い。スポーツの原点は自分との戦いだ。人間を動かす原動力は筋力ではなく、心だ

思想家の内田樹さんは、あちこちで目にする「数値目標」というものについて、著書『合気道とラグビーを貫くもの』で次のように話している。


「数値目標というのはいけないですね。百害あって一利なしだと思う。でも、それはもういまや日本全国、企業でも学校でも、どこでもそうなってしまっている。数値目標を掲げて、数値目標を達成できたかどうかで努力を評価するということをやっている。
 
数値目標なんて完全に査定する側の都合で設定されたものですからね。数値が出るものは査定できる。数値が出ないものは査定できない。それだけのことです。それは査定する側の目に数値的でない努力や外形的にはみえにくい変化を感知する能力がなくなっているということにすぎません」 (P128)
 

視聴率と同じ構造である。査定する側のひとつの目安でしかない「数値・数字」という外部データが、やがて「スタンダード」「外部規律」のように崇めたてられる。そして、その「数値・数字」だけに社会全体が振り回されてしまっているような気がする。

2013年3月13日 (水)

「わたしは『だめだと言われたからだめなんだ』と思う子どもを育ててはいけないと思っているんです」

ここ数回のブログでは、日本という社会の、一度決めたルールに拘泥してしまう体質や、外部規律に依存してしまう体質についてのツラツラ考えながら言葉を並べてきた。

どうしたら、こんな体質を変えられるのだろうか。正直、ちょっとお手上げな感じもあるけど、とどのつまりは、教育から変えていくしかないんじゃないかなと思ったりもする。教育現場で「ルールは社会の変化にあわせて変えていかなければならない」とか、「外部規律より、自己規律で考える」というようなことを子供たちの体質にしみこませていく。それしかないんじゃないのかな~と。

そんなことも考えながら、たまたまフィンランドの元外交官で、現在は教材作家として教科書作成などに携わる北川達夫さんと、劇作家の平田オリザさんによる共著
『ていねいなのに伝わらない「話せばわかる」症候群』という本を読んでいた。この本の中にも、やはり子供たちに対しても、外から規律を押し付けてしまうような教育現場の状況が指摘されていた。北川達夫さんは、次のように語っている。

「フィンランドから日本に帰ってきて、日本の教育現場に入ってみてびっくりしたものの一つに、読書指導があります。それは、先生たちが選んだ本を子どもたちに『いい本として』読ませているということです。先生たちが一生懸命、いままでの知識と経験を駆使していい本を選ぶ、社会的評価が高い本を選ぶ、それはもちろんいいです。でも、私たちは、『それを読んで、いいか悪いか、好きか嫌いかを決めるのは子どもたちだ』という教育哲学が徹底している国にいたものですから、いい本だという、教師側の価値観、評価をいっしょに子どもたちに与えていることにものすごく驚かされました」 (P22)

そして、北川さんは、次のようにも指摘する。

「そこに、規範意識といいますか、教える側の『教室での表現というものはこうあるべきである』『子どもは元気で、はつらつとした存在であるべきである』という、表現観、価値観が強く入り込んでいるのかもしれないですね」 (P122)

さらにフィンランドの教育を引き合いに、日本の教育の問題点を次のように語っている

「ご推察の通り、あれにはあらかじめ決められた答えはないんです。話し合っているなかで、『ここまで言われたら自分だったら許せない』『この程度ならば許せる』というラインを子どもたちがそれぞれ決めていくんですね。
 そういう葛藤のある、いま平田さんが言われた『うそを言うことと、おおげさに言うこと』や、同じく国語教科書のなかに出てくる、『いじめられることと、からかうこと』など、境界線の引き方が個人や社会によって大きく異なってくるような問題が意図的に立てられているんです。それは、話し合いでみんなの意見を聞くことによって他人の価値判断を知ると同時に、自分で価値判断をしていく学力が子どもたちに必要だという考えに基づいているんですね。
 ここで大事なことは、もし修身のような旧来の道徳教育だと、その境界を大人がきっちり決めて、『これはうそつきですよ』と上から教え込むことになるということです」 (P17)

これに続いて、平田オリザさんも次のように指摘している。

「日本の国語教育は、一面で戦前の修身の代用品みたいにされてきたという歴史があって、どうしても、道徳的な読み取り、あるいは、規範的なことばの学習という傾向を、いまもずっと抱えています。読解力といっても、それが実は、社会の道徳観やその先生の価値観をくみとることだったりする。
 いま、『読解力』とか『考える力』とか『話しあう力』をほんとうに求めていくのであれば、教える側が持っている権力を放棄するような覚悟をしないと、学校の先生がまず、規制の価値観や道徳観の教え込みに対して敏感にならないとだめだと思うんです」 (P18)

やはり日本の外部規律に対する依存体質の始まりは、想っていた以上に根深いのかもしれない。

なのに、我が国の政府が立ち上げた「教育再生実行会議」というものあって、その会議は先月26日に、「道徳の教科化」などを含めた提言を取りまとめ、安倍晋三首相に手渡している。「道徳の教科化」。さすがに「修身」という言葉こそ使っていないが、もう「外部規律の押しつけ」のニオイがプンプンと漂ってくる。やれやれ。

では、日本でもどういう教育を行っていけばいいのか、
北川達夫さんの提言を紹介してみたい。

「家庭教育でも、学校教育にしても、子どもには『だめなことはだめだ』と厳しく教え込むべきだという意見や要請がありますが、わたしは『だめだと言われたからだめなんだ』と思う子どもを育ててはいけないと思っているんです」 (P35)

「相手の見解があって自分の見解がある、それが対立するとお互いが変わってくる。まさに、その変わってくるところを楽しめるか。そこを重視できるかですよね」 (P175)

一方、
平田オリザさんのの提言は、次のようになる。

「対話の場を作るには、そういう、答えが一つじゃない、あるいは、すぐに答えを決めない授業を増やしていかないとだめでしょう。それは学校の先生たちにとっては大変な事なんだと思います。やっぱり答えが一つで、そしてその一つの答えを先生がふところにかくしておいて、最後にぱっと見せるというほうが、子どもたちをコントロールしやすい、楽な授業なんですよね」 (P51)

「これからの日本社会は、協調性(価値観を一つにまとめる能力)がいらないとは言わないけれど、それよりも社交性(異なる価値観をそのままに、知らない人同士がどうにかうまくやっていく能力)が必要だ」 (P218)

平田さんの、「答えがひとつしかないことを教える授業」の背景には、その方が先生たちが「子供たちをコントロールしやすい」という理由があるという指摘。これにはドキッとした。

今年1月11日のブログや、2月1日のブログでは、「全てをコントロールしたがる大人たち」について書いている。結局、学校の教師も、そうだったのである。だけど「体罰問題」でも指摘したことだと思うが、子供は、そもそもその全てをコントロールできるものではないし、コントロールしてもいけないものなのではないか。それなのに「子供をコントロールしやすい教育」を追い求めてきた結果、「外部規律」に依存する体質が生まれてしまっている。そんな側面が今の教育現場にあるのも否定できないのでは、と思う。

しかし、こうした状況に「逆巻き」をかけるような安倍政権による「教育改革(再生)」の行く末が、怖いと想うのは少し考えすぎなのだろうか。

 

2013年3月12日 (火)

「私たちはコシヒカリとその偽物を区別することができなかった。もはや私たちは、自らの感覚ではなく、DNAという外部情報によってしか判断を下せなくなってしまっている」

前回のブログ(3月11日)で、「外部規律」につい従ってしまう日本社会の「体質」についてまとめた。その体質は、実はこんな分野でも現れているというのを紹介したい。

サッカーの世界。かつて世界各国のチームで活躍して、現在は川崎フロンターレで活躍する稲本潤一選手は、雑誌『フットボールサミット』(第9回)の中のインタビューで、次のように語っていた。 

「確かに、日本のほうが組織的な約束事だらけだったり、ここはこうしようというのは多いですね。それは、Jリーグに復帰してからも感じるし、欧州でもそういうところはあるけど、僕がいたチームはあまり戦術にハメ込む感じはなかったから。アイツが行ったからここはカバーするとかいうのも、基本的には個人の判断に基づいていました」 (P119) 

いまは、京都サンガでGMを務める祖母井秀隆さんは、サンガとJリーグの問題点について雑誌『サッカー批評』(No.60)で、次のように語っている。 

「指示待ちじゃないけど、もっともっとこう自分達でゲームを構築していかなきゃいけない。それはサンガだけの課題じゃなくてJリーグ全体の課題やと思いますけどね。即効劇みたいに自分達でパッパッパとこうね。そういうものは少なかったかな」

ともに
選手たちの「決まりごと」「指示」に従う傾向を指摘する。ただ「外部規律」に従うのは、選手だけではない。メディアもしかり。サッカージャーナリストの杉山茂樹さんの次の指摘も興味深い。著書『日本サッカー MF論』から。 

「『イタリアの大手スポーツ紙、ガゼッタ・デッロ・スポルトは、インテルの長友選手に4・5という低い評価を下しました』。その記事を書いた記者は、長友のプレイをいったいどう思ったのか。まずそれを述べるのが物事の筋だ。自分の意見を一切述べず、すなわち自分の手は一切汚さず、他人の評価だけを伝える姿勢には、狡さを覚えずにはいられない」 (P184) 

自分の中の基準で物事を見ない、語らない。そしてあくまでも外部に従ったり、従わせたりする体質、風潮はこんなところにも出ているのである。 

スポーツではなく、日本の食の、コメについて指摘する次の言葉も興味深い。生物遺伝学を専門とする佐藤陽一郎さんの著書『コシヒカリより美味しい米』から。 

「日本人は、少なくともコメについて『味音痴』になってきていると思う。それはある種の食の貧しさからきているし、またコメの品種の違いがなくなってきているからでもある」 

「私たちはコシヒカリとその偽物を区別することができなかった。もはや私たちは、自らの感覚ではなく、DNAという外部情報によってしか判断を下せなくなってしまっている」 

「『外部情報によってしか判断を下せない』という状況は。もうだいぶ前からのものである。高い物が売れる、という実に奇妙な現象がそれだ」

「外部情報」、すなわち「外部規律」にしか従えない状況を端的に表している。市場自体も一律化し、判断が難しくなっているうえ、多様性が失われた結果、違いを味わい判断する能力そのものも失われているのである。

当然ながら、こうした指摘が当てはまってしまうのは、食やスポーツの世界だけではないはずである。

2013年3月11日 (月)

「処罰への恐怖だけで規律を守っている人は、規律が利かない場面、処罰の恐れがない場面では、いきなり利己心や暴力性を噴き出してくる」

先日のブログ(2月13日)でも紹介したが、著書『荒天の武学』の中で、思想家の内田樹さんは、次のように語っている。

「今の日本人が失った最たるものは、その自己規律ですね。外的な規律は、違反すると処罰されるから、恐怖ゆえに違反しない」 

「自己規律が内面化された人は、外的な規律や処罰の有無とは無関係に、自分で決めたルールに従って行動する」 (P234) 

日本人は、「自己規律」を失い、「外的規律」に従う風潮がある、という指摘である。この指摘もまた、前回(3月7日)のブログに書いた「ルールや法令をやみくもに遵守する」という問題と、基本的には同じ構造である。 

活動家の湯浅誠さんの著書『貧困についてとことん考えてみた』には、こんな言葉もあった。 

「一律が好きだというのは、やはり、自分に自信がない。自分自身の判断基準を持っていないということじゃないんでしょうか」 (P166) 

日本社会の特徴としてよく指摘される「一律」、「空気を読む」というのも、すなわち「外部規律」に従うことである。まさに一律に「外部規律」に従ってしまうと、社会が一気に同じ方向に流れるという現象が生まれる。そうやって日本はかつて戦争に突入したのである。 

少しだけ話は飛ぶかもしれないが、「人権」というものについて、先日、「ビデオニュース・ドットコム」の『ニュースコメンタリ』(2月23日)で、社会学者の宮台真司さんが、次のように説明していた。 

「公共の秩序をどう理解するかというときに、人権内在説(社会内在説)という立場と、人権外在説(社会外在説)的な立場と言うのがある。前者が連合国的、後者が枢軸国的」 

その「人材内在説」について、宮台さんは次のように説明する。 

「前者はお互い人権は持っている、お互いの人権がバッティングし両立不可能なときに、どうするか。片側だけが人権を主張することが許されない。人権の両立可能性の問題に照準化する。もうひとつ重要な問題は、お互いが人権を実現、有効利用するのに必要なプラットホーム、コモンズですよね、そうしたものも公共の秩序にあたるわけ。これは国家が提示するものではなく、僕らが市民社会を営む上で、場の存在とか、インフラの存在とか、メディアの存在とか、そうしたものが必要だと思えば、それが潰されてしまうことも実は公の秩序への侵害なんだと考える」 

これに対して、「人権外在説」については次のように説明している。 

「人権外在説という立場というのが、まったくそれとは違っていて、市民社会で人々はなにをどう考えていようが、それとは関係なしに、良き秩序という観念が存在していて、良き秩序という観念を提示するのは統治権力。だから市民社会、人権という概念の外側から良き秩序という概念が覆いかぶさるかように入ってきて、それが人々を規制できるんだという考え方」 

この話も非常に興味深く聴いた。これも人権をめぐる「自己規律」と「外部規律」の話なのである。同じ構造だ。統治権力が定める人権、すなわち外部が定める人権(外部規律)に個人は従え、というのが戦前の日本を含めた枢軸国の考え方で、それを連合国が駆逐して、世界標準となったという。 

最近の政治の状況、自民党の憲法改正案などをみていると、またしても戦前の「人権外在説」に戻ろうとしているのではと考えたくなってくる。体罰問題から、憲法問題まで。もはや「外部規律」から脱せない日本社会の「病」は、そうとう深刻な根深いもののように感じられる。 

では、なぜ外部規律に依存してしまう状態が心配なのか。 武道家の光岡英稔さん『荒天の武学』で、次のように語っていた。

「戒律を『守らなくてはいけないもの』というふうに自分の外に置いて、求めるものにしてしまうと問題です。自己責任ではなく、ルールに従わないといけないものになってしまう。そのルールを守っているから『書かれていないことには従わないでいい』という甘えをつくってしまう」 (P234) 

この本の中で、内田樹さんも次のように語る。 

「処罰への恐怖だけで規律を守っている人は、規律が利かない場面、処罰の恐れがない場面では、いきなり利己心や暴力性を噴き出してくる。これは本当にそうですね。外的規律の厳しい集団で育てられた人ほど、無秩序状態のときにでたらめな振る舞いを始める。自己規律が内面化された人は、外的な規律や処罰の有無とは無関係に、自分で決めたルールに従って行動する」 (P234) 

ホリエモンの事件を思い出した。法・ルールが整備されていない部分では何をやってもいいという考え方。結局、外部規律に依存するからこそ、ときに「暴走」を生む。そういってもいいのかもしれない。

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