★サッカーと多様性

2014年7月23日 (水)

「政治においては『言葉がすべて』なのです」

前回までのブログでは、サッカー界だけでなく、これからの社会での「多様性」の重要性。そして、多様性の豊な世界では「対話」すなわち「言葉」のすり合わせが欠かせない、という話を転がしてきた。

今回もその流れ。政治の世界でも「多様性」と「言語技術」「対話力」とは密接な関係がある、という話から。

前回のブログ(7月19日)で、元官房長官の野中広務さん「自民党の多様性が失われてしまった」(朝日新聞7月18日)という指摘を紹介した。

今の自民党には多様性が失われていることということは、その政治家から「言葉技術」や「対話力」が失われていることでもある。

きっと、それを安倍総理の言動は実証している。


例えば、秋田魁新報(7月11日)の社説では、安倍総理について次のように書いている。

「言葉のやりとりはしている。しかし、かみ合わない。それどころか安倍晋三首相は、質問にまともに答えようとしない場合も結構多いのである」

「違う話を持ち出してごまかそうとする。事実と異なる説明をしてでも言いくるめようとする。これでは国民の信頼はとても得られない」

「『言論の府』としておかしいのは明らかだ。手本となるべき政権や国会がろくに議論もできないようでは、民主主義の先行きは暗い」

毎日新聞(7月10日)
では、特集として
『質問と答えがかみ合わない「安倍語」を分析』と題した記事を載せている。その中から。

「だが、もう一つの重要な責任、国民に丁寧に説明して理解を得る義務は果たしているだろうか。国会や記者会見では、質問と首相の答えがかみ合わない場面も目立つ」

総理大臣が、対話や言葉を大事にしないで大丈夫なのだろうか…。

これまでも、このブログでは、言葉についていろいろ考えてきた。(2013年11月21日のブログ など)(「言葉・言語力」

そこで改めて、政治と言葉についての指摘を並べてみたい。

まずは、政治学者の岡田憲治さん著書『ええ、政治ですが、それが何か?』から。

「政治においては『言葉がすべて』なのです」 (P38)

「選択としての政治では必ずその判断が『言語化』されなければなりません。そうでなければ、それは政治にはなりません。いくら心の中で深く熱く詳細に考え抜いても、声帯を震わせるか言霊にのせなければ存在しないことにされますし、後に詳しく説明しますが、黙っていると「容認しているのだ」と利用されます。選挙のおける投票とは、候補者名や政党名を言語化して伝える、まさに政治的な行為です」 (P42)

例えば、カネや数の力学だけで動く政治の問題点も、政治から「言葉」がなくなっていくことにある、という指摘も説得力がある。

「「カネにものを言わせる」ことがよろしくない最大の理由は、『カネにものを言わせる』ことで、『ヒトに』ものを言わせる契機、動機、技能、期待、希望、慎重さ、勇気、責任、自由を失わせてしまうからです」 (P76)

「だから言うまでもなく、やはり金権政治はダメです。ダメに決まっています。カネでみんなが黙ってしまうからです。失われるのは『道徳』ではありません。『言葉』です。それがマズいと言っているのです」 (P80)

このブログで何度も考えてきたエモーショナルな言葉の問題点(4月21日のブログなど)については、次のように指摘する。

「感情にまかせた前のめりの言葉をバカげたものとわかっているのに、それを面倒だと炎上を恐れ、誤った忖度をして、何かに遠慮をして、のど元に放つべき言葉がつまっているような印象です」 P271)

忖度や遠慮の結果、ますます「エモーショナルな言葉」「感情にまかせた前のめりの言葉」ばかりが流通してしまう。

作家の高橋源一郎さんは、次のように語る。著書『沈む日本を愛せますか?』(文庫版)から。

「困ったもんだよね。だって、政治史を読むと、政治を動かしているのは言葉なんだから」 (P30)

「つまり、政治の言葉って公の言葉ですよね。でも、我々に使えるような「公の言葉」としての政治の言葉があるだろうかって、昔から思ってた。ただ、それは政治の側に問題があるって僕は思ってたんだけど、実は、日本語が悪いんじゃないかなっていう気がしてきて(笑)」 (P28)

そして、政治の言葉を新しく作らなくてはと考える。雑誌『SIGHT』(2014年SPRING号)より。

「今は、僕の認識でいうと、文明史的転換のときだと思っているんです。これはかつてなかったことなので、政治の言葉自体が一から更新されるべきかもしれない」 (P127)

次の政治学者の白井聡さんの指摘も同じこと。ビデオニュース・ドットコム『マル激トーク・オン・ディマンド』(7月5日放送)より。

「戦後70年近く経って、民主主義という言葉は日本国民にとって本当の言葉にならなかったし、あるいは自由という言葉だったり…。例えば権利という言葉、権利という言葉が結局わかんないんだと思う。利権は分かるんだけど、権利は分からない。それから会社は分かるんだけど、社会は分からない」 (パート2 45分ごろ)

新しい政治の言葉をつくらなければいけない…。たいへんだ。

でも、そのためにすることは、結局、政治の場所で「多くの言葉を動員」することだったりする。多くの言葉を使って、対話して、すり合わせて、新しい言葉を獲得してく。

岡田憲治さんの指摘。上記の著書『ええ、政治ですが、それが何か?』より。

「自分の欲望に根ざして世界のあり方や希望を他者に伝える際に、このように風通しが悪くなり、自由にものを言うことがはばかれるようになり、そして言葉が大雑把になっているならば、そうなっている理由を考え、多くの言葉を動員して、政治のイメージを豊かにして、その原因を明らかにしなければなりません。自由にものが言える世界がなければ、人は自分と仲間の力を引き出して楽しく生きていることができないからです」 P272)

これまで日本は、対話のための言葉があまり必要なかった。しかし日本社会も多様性からは逃れられない。だとすると我々自身で、多様な価値観を持つ人たちと対話するための、言葉を獲得していかねばならない。そういうことではないか。

2014年7月19日 (土)

「多様な『正しいこと』をすり合わせ、みんなで『正しいこと』を模索し続けなければ、破滅の道を歩んでしまうのではないか」 

おとといのブログ(7月17日)に続いて、今日も「多様性」について。

サッカーから始まった「多様性」の必要性についての考察。どこまで転がっていくのだろうか。

きのうの朝日新聞(7月18日)には、元官房長官の野中広務氏のインタビューが載っていた。今の安倍政権について、次のように語る。

「自民党の多様性が失われてしまったんです。政治改革の名のもと、選挙制度を中選挙区制から小選挙区制に変えてしまったから」

「党総裁である首相の意向に従う議員ばかりになり、党内の左右のバランスは崩れたんです」

今の日本の国民についての次の指摘にも肯く。

「日本はみんな右向け右なんです。たまには左を向けよ、と言いたい。これは島国DNAなんでしょう。結局、みんなと同じ方向を向いているほうが安心感がある」

小選挙区という選挙制度によって、与党の政治家の多様性が失われ、同僚圧力と安心感から、同じ方向に国民が流れる、ということなのだろう。

以前のブログで紹介した2人の方のコメントをもう一度、載せておく。(2月13日のブログ

作家の半藤一利さん著書『そして、メディアは日本を戦争に導いた』から。

「近代以降の歴史を見ると、どうもこの民族は他の民族よりも強くなだれ現象を起こしている」 (P92)

歴史学者の加藤陽子さん毎日新聞夕刊(2013年8月22日)より。

「この国には、いったん転がり始めたら同調圧力が強まり、歯止めが利かなくなる傾向がある」

同調圧力が強まっていき、歯止め聞かなくなる前に、進めなければいけないのが、まさに「多様性」ということだろう。

では、この「多様性」を進めていく際に、必ず必要になってくるものは何か…。それは「言葉」なのではないか。

またサッカーに話を戻す。

サッカー協会の田嶋幸三さんは、著書『「言語技術」が日本のサッカーを変える』で、ドイツで少年サッカーの試合を観たときの、日本とドイツの子供たちの違いについて、次のように書いている。


「ミスの理由や原因を、ハッキリとことばで言ってくれればいいわけです。ところが、日本の子どもたちはそうした表現が苦手です。ドイツと日本の練習風景を比べてみたとき、まずはっきりとした違いとして私の目に映ったのは、『自分の考えをことばにする表現力』でした」 (P12)

「『言語技術』は、日本のサッカーが欧米と対等に試合をしていく際、確実に獲得し、消化し、血肉化していかなければならない決定的な能力である」 (P38)

当然、多様な出自の選手がいるサッカーチームや、多様な価値観を持つ人たちが集まる社会では、今までの日本社会のように「あうんの呼吸」というコミュニケーションが成り立ちにくくなる。

ちゃんと自分の考えを口にして、言葉にして、コミュニケーションをとらないと、それこそトラブルのもととなってしまう。

田嶋さんが言う「言語技術」というのを言い換えれば、「対話能力」ということになると思う。

 きのう、日本教育大学院大学客員教授の北川達夫さん著書『苦手なあの人と対話する技術』を読んだ。北川さんは、その「対話」の必要性を説く。

「対話とは、人間がみな違うことを前提とする。違うから、わかりあえない。わかりあえないから、話すしかない。話しても、わかりあえるとは限らない。だから話し続けるしかない―これが対話なのだ」 (P120)

北川達夫さんは、著書『ていねいなのに伝わらない「話せばわかる」症候群』では、次のように語っている。

「相手の見解があって自分の見解がある、それが対立するとお互いが変わってくる。まさに、その変わってくるところを楽しめるか。そこを重視できるかですよね」 (P175)

多様性が進めば、その空間にはいろんな「違うこと」や「異なること」が隣り合わせに存在する。もともと分かりあえないから、「言葉」を使って話す。それによって、社会や自分が変わっていく。それをいかに楽しめるか、自分たちの力にしていくか。

まさに「多様性」の効用である。

「多様性」と「言葉」は、この2つはかなりかかわりの深いキーワードなのである。

野中広務氏の指摘する政治家についても、安倍総理が「正しい」と掲げることに、みな従ってしまうのではなく、本来は、それぞれが「正しい」と考える政策・考え方をぶつけ合い、話し合っていくことが必要になのある。それが日本社会の雪崩現象を防ぐことにつながっていく。

北川達夫さんは、上記の著書『苦手なあの人と対話する技術』で、次のように書いている。

「多様な『正しいこと』をすり合わせ、みんなで『正しいこと』を模索し続けなければ、破滅の道を歩んでしまうのではないか」 (P30)

2014年7月17日 (木)

「ドイツにとって移民国家への転換は、外国人を『リスクとコストと考える文化』から『ドイツに貢献する歓迎すべき人々と考える文化』への転換でした」

ここまで何回かにわたって、日本サッカーと日本社会とを重ねるように、「多様性を進めること」の必要性について考えてきた。(7月3日のブログ以降)

きのうの夜、読んでいた本にも「多様性」についての指摘があったので、前回のブログ(7月16日) の追加として読んでほしい。

きのうのブログでは、古代ローマは、異質なものを求めて、豊かな社会を作り上げた、という話をした。

経済学者の野口悠紀雄さんも次のように指摘する。新著『変わった世界 変わらない日本』より。

「エイミー・チェア『最強国の条件』は、世界をリードする最強国の条件は『寛容性』だという。これは、異なる人種や多様な宗教・文化を許容することだ。古代ペルシア帝国の時代から、世界を支配する国や社会は、寛容政策を採用することで勃興した。ところが、不寛容が次第に頭をもたげる。そして、排他主義に陥り、衰退し、滅亡する」  (P187)

例えば、現代のアメリカだって、異なる民族や文化に寛容だから「最強国」になれたのである。

もちろん日本が今後、「最強国」になる必要はないのかもしれないが、ただ「豊かな社会」としてやっていくためには、「寛容性」が必要となってくるということ。

そして、異質なものを許容して取り入れていかないと、社会の閉塞感はますます強くなる。

「資本と人材を海外から導入することによって、旧システムの核心を破壊することを考えるべきだ。海外からのものは、異質だから破壊者にもなりうるのである」 (P278)

「もっとも重要なのは、ここで述べたように、日本国内においても、さまざまな国の人々と共同で仕事を進めることだ。『規制緩和が必要』としばしば言われるのだが、もっとも重要な規則緩和は、外国人労働者に対して門戸を開くことである」 (P279)

しかし、日本では「異質なものを排除」という風潮は、ますます強まっている。(3月14日のブログ など)

野口悠紀雄さんも次のように指摘する。

「日本人が外国人を拒否するのは、『異質なものを排除したい』という感情があるからだ。『外国人であること、異質であること』だけの理由で拒否する。こうしたクセノフォビア(外国人恐怖症)的国民感情を変えることが必要だ」 (P278)

「大組織病におかされた大企業は、リスクをとらない状態が続いた。大企業の経営者は、これまでの事業を変えようとしない。変えれば、企業の中で自らの地位が脅かされるからだ」 (P118) 

「しかし、それに対しては、多くの人が反対する。人材開国は、もっとも重要であるにもかかわらず、実現が困難な成長戦略だ。そうした戦略を採用できるか否かが、日本の将来を決めるだろう」 (P279)

結局、日本社会自体が「抵抗勢力」なのである。未来や将来より、今の地位…。そして、このまま沈んでいく。(2013年5月7日のブログ)

今朝の朝日新聞(7月17日)に、W杯ブラジルで優勝したドイツの元連邦議会議長であるリタ・ジュスムートさんインタビューが載っていた。どうやってドイツは多様な移民を受け入れ「移民国家」を作り上げたか…。このインタビューの中から、日本のヒントとなる言葉を抽出しておきたい。

「大切なのは『寛容』より『リスペクト』(敬意)。『ここにいても構わないが、最終的に“あなたたち”は“私たち”と違う』ではだめなのです」

「答えはひとつ。彼らがいることでプラスと思えることに目を向けましょう」

「ドイツにとって移民国家への転換は、外国人を『リスクとコストと考える文化』から『ドイツに貢献する歓迎すべき人々と考える文化』への転換でした」

ちなみに、ジュスムートさんは、日本社会の移民受け入れについては「待ったなし」と答えている。

きのうのイビチャ・オシム氏の指摘もそうだが、ドイツはこうやって「多民族社会」を作り上げた。その結果としてのW杯での優勝なのである。この社会とサッカーはかなり密接に関連していると思う。

日本にも、そういう社会を作ることは可能なのだろうか。

でも、何度も書くが、多様性に寛容な社会を作らないと、「豊かな社会」「強い社会」も手にできなければ、世界に対して「強いサッカー」だって、「強い文化」だって発信できない。国のリーダーが、表面だけの「強い国家」を謳ったところで虚しいだけとなる。


また今の日本のように、効率性ばかりを求め、「不寛容」「排他主義」な政策を続けていけば、野口悠紀雄さんの最初の言葉のように「滅亡」「衰退」が現実のものとなってしまう。



2014年7月16日 (水)

「多元的な環境がいい男を作るんです」

改めて。サッカーのW杯ブラジル大会は、ドイツが4度目の優勝を果たして終わった。

今大会でのドイツ・チームの強さについては、様々なメディアが分析している。ここでは「多様性」についての言葉をピックアップしてみたい。

元日本代表監督のイビチャ・オシム氏スポニチアネックス(7月15日)に今大会の総括を載せている。

「今回のドイツは『多民族性』がある。東欧系やトルコ系、アフリカ系の選手が入り、従来のドイツにはなかった要素が加わる。ある意味でドイツ人以上にドイツ人らしく成長し、ドイツ代表の新しい姿を象徴している。このような多民族性は差別が強い社会では不可能だ。ドイツの移民政策が安定し、社会が成熟して可能になった」

朝日新聞デジタル(7月15日)では、河野正樹記者吉田純哉記者の連名で記事を書いている。その中から。

「異なる文化的背景、身体的特徴を備えた移民の子どもたちが入ることで、ドイツ持ち前の粘り強さに、これまでになかった個性が加わった」

「東西統一と、その後の移民との融合。14年W杯は、社会の変化をも力にした新生ドイツの勝利だった」


こうした記事を読むと、やはりサッカーの強さはその国の社会と連動していることが分かる。(6月11日ブログ

優勝したドイツのメルケル首相は、初戦のポルトガル戦を現地で応援した時、次のように語っている。ヤフーニュース(7月9日)より。

「サッカーのドイツ代表チームは私たちの国のロールモデル。エジル選手が国のヒーローとして祝福されることは素晴らしいことよ」

また、98年のフランス優勝以来、多民族・多様性の受け入れに舵を切り、その融合・寛容性を積極的に進めてきたチームがW杯を制したり、活躍している。やはり今のサッカーの強さと「多様性」は無関係ではない。(7月7日のブログなど)

そんな多様性の大切さは、歴史からもみてとれる。
自分たちの文化に、異なるものからの刺激を取り入れることで、新しい価値観を生んだり、閉塞感を破ることの必要性は、今の時代ことだけではない。

歴史上でも、かなり豊かで活気があったという「古代ローマ時代」。その時代の男たちについてのマンガ『テルマエ・ロマエ』を描く漫画家のヤマザキマリさんの話も興味深かった。日テレBS『久米書店』(7月6日放送)より。

「古代ローマ人は、色んな属種の、色んな考え方の、色んな生き方の、色んな宗教の、人たちをどんどん包括してく。全く自分たちと違う考え方や生き方をしているということに対して、ひるむんじゃなくて、好奇心でそれを求めていくという考え方の方が強かった」

「自分たちが今まで知らなかったことだから、それは無いものにしようとか、それいらないと排除するのではない。取り込もうという意識の方が強かった。そういう間口の広い感じの男性は自分の周りにはいない」

「変わっているものほど、自分を刺激してくれて、変わっているものほど、良い触発を自分にくれるもの、ととらえていた」

ヤマザキさんは、このことを今の日本社会、日本人には足りない要素として語っている。

「今の日本人は、『あるある』という感覚を求めたり、自分の身の覚えのあるものを正当化してくれることを求める。そうじゃなくて、違うものを出してみたところで、何も起きやしないから、という大胆不敵な展開力を見てみたい」

多様性に寛容になるということは、自分に自信があるということでもある。自分に自信がない社会、組織ほど、異なるものを排除しようとする。

「『ロマンティック』とは、『劇的に生きる』こと。あと何があっても動じない。全部それを取り込んでいこう。『自分は大丈夫』という筋の通った自分自身に対する自信を感じさせる時代でもある」

番組の最後の方で、こんな言葉を紹介していた。

「多元的な環境がいい男を作るんです」

ここの「男」には、「サッカー選手」だけでなく、いろんな立場の人に当てはめられる。



2014年7月14日 (月)

「どうも日本人は、そういうミスやリスクのある要素を排除したいと考える傾向があるようだ。サッカーに限らず、人生においても、そういう傾向があるように思える」 

前々回のブログ(7月9日)と、前回のブログ(7月10日)では、日本サッカーについて「負け」を正面からみつめ、「負けることのタフさ」を身につける必要性について書いた。

そのあと、イビチャ・オシム氏新刊『信じよ!』を読んでいたら、それに関連する指摘があった。

「しかし、彼らは、ゴールを前にすると落ち着きを失った。これまでの習慣が、そうさせたのだ。当時、日本の選手が抱えるメンタリティの問題の一つは、強豪チームとのビッグゲームを前にすると、まず『負けないためにはどうすればいいか』という思考を持つことだった。自らを過小評価して、試合に勝つことを考えず、先に負けることを恐れるのだ」 (P130)

つまり、日本サッカーチームは「負け」をあまりに嫌うがため、常に「どうすれば負けないか」を考えてしまうという。さらに、次の指摘も興味深い。

「そして、いざ試合が始まり、実は相手チームが、それほど自分たちを上回ったテクニックやスピードや組織力、個人技を持っているわけでもなく、互角の試合ができていることに気づくと、今度は、その状況に驚き、対応できず、実力を発揮できない」 (P130)

予定と違った状況、すなわち「想定外」に弱いということ。

「歯車が、わずかにかみ合わないときもある。スピーディーでダイレクトなプレーをしようとすると、必ずミスが起きる。どうも日本人は、そういうミスやリスクのある要素を排除したいと考える傾向があるようだ。サッカーに限らず、人生においても、そういう傾向があるように思える」 (P185)

結局、その国のサッカーには、ミスやリスクを極端に嫌うという国民的性格が出てしまうということなのだろう。

例えば野球も。桑田真澄さんは次のように語っている。著書『スポーツの品格』より。(2013年10月22日のブログ

「スポーツで失敗するのは当たり前です。実際のところ、失敗の連続ですよ。野球なんか特にそうです。バッターは10回のうち3回打てば3割打者で一流ですし、投手だって、すべてのボールを思ったとおりのコースに投げることなんてできません」


「僕たちも『失敗したら負けるぞ』と教わってきましたが、でも、そうではないですよね。長年やってきて思うことは、『失敗したら負ける』のではなくて、『失敗を一つでも減らしたほうが勝てる』というのが正しい言い方です。そもそも失敗は付きものなので、最初から失敗を恐れてやっていたら、いいプレイはできませんよ」 (P87)

常に「負けないこと」を第一に考え、もし負けた場合は、それから目を逸らそうとする。

どうすれば、この体質を変えることができるのか。それについて少し考えてみたい。

まず、スポーツライターの杉山茂樹さんの言葉を。著書『日本サッカー向上委員会』より。

「ぼくがこれからの日本サッカー界に訴えたいのは、『もっと勝利を』ではなく『もっと楽しく』ということ」 (P184)

野球の中日ドラゴンズのGM落合博満さんの言葉。著書『采配』より。

「大切なのは勝ち負けよりも勝利へのプロセス。そのプロセスが人生というものなのだろう」 (P95)

2人とも同じことを言っているんだと思う。
「勝つこと」「負けること」を考えて硬直するよりも、そのプロセスをいかに「楽しく」できるか。


先のほどのイビチャ・オシム氏著書『信じよ!』。こんな指摘も載っている。

「私は日本に滞在して間、日本の社会には、主役は男性で、女性が脇役として陰から支えることが素晴らしいとされる特殊な美徳があるように感じた。そして主役であるはずの男性は、仕事と金にとらわれすぎているようにも思えた。仕事をして稼ぎ、また仕事をして……という仕事を中心に生活が回り、そのサイクルに心身ともに疲弊して、人生を楽しんだり、自分を表現する余裕もチャンスもないように映った。だが、女性のほうは、家庭を守り、子どもを育て、仕事もして、実際には社会を支えながら、自己表現できる本物の人生を歩んでいるように見えた」 (P196)

日本の男性は、仕事(すなわち、勝ち負け)ばかりにとらわれるあまり、楽しむプロセスを忘れている、という指摘。一方で、女性の方は「社会を支え」ながら、「本物の人生」を歩んでいる…。

その前の杉山さんと落合さんの言葉と重ねると興味深い。


少し前のブログ(6月27日)では、次の言葉を紹介した。スウェーデン出身で日本在住の武道家、ウルリカ柚井さんの指摘。著書『武道の教えでいい子が育つ!』から。

「今の日本のように、生活実感のない男性が社会を動かしている限り、なかなか『女性にとって働きやすく、子育てをしやすい社会』を実現するのは難しいのではないでしょうか」 (P150)

ここでは、これからは、生活実感のある政治家でないと、社会をよくすることはできないという指摘である。

最後に。
かつて日本の女子リーグでも活躍したノルウェーのサッカー選手、リンダ・メダレンさんの言葉を。『蹴る群れ』(著・木村元彦 文庫版)より。


「日本協会の理事に、女性は何人いますか?ノルウェーは副会長も含む8人中3人が女性です。24時間女子のことを考えている人を、せめて一人は入れないといけない」 (P249)

これは、日本の女子サッカーについての改革の提言だが、日本のサッカー界全体の改革のためにも必要なことに思える。これからは、ピッチの選手たちの多様性とともに、組織全体の多様性を進める。生活実感のある女性の登用は、まずその第一歩となる。

W杯ブラジル大会は、ドイツが24年ぶりに優勝した。ドイツは、統一後、
サッカー界はもちろん、社会全体としても多様性を受け入れながら、問題と取り組んできた国である。

そのドイツのリーダーは、女性であるメルケル首相。試合後の彼女の喜ぶ姿も印象的だった。ちなみに準優勝したアルゼンチンも女性大統領である。



2014年7月 8日 (火)

「多様性のもたらすダイナミズムが評価できるようにならないと日本は埋没してしまうと危惧する」

もう少し「多様性」についての話を転がしてみたい。きのうのブログ(7月7日)に続いて。

多様性と向き合い、それを進めていかないと、日本のサッカーも、日本社会も「強く」なれないという話だった。

やはり、ここでもう一度、国際政治学者の緒方貞子さんの言葉も改めて載せておきたい。岩波書店編『これからどうする』から。(2月26日のブログ

「日本はまず足元を固めることから始めなくてはなりません。そのために何が必要か。逆説的に聞こえるかもしれませんが、世界は多様性に基づく場所だということを真に受けとめ、自らも多様性を備えた社会にしていくことだと思います」 (P5)

「日本社会が自信を取り戻し、再び前進するためには、世界の多様な文化や価値観、政治や社会に目を開き、そこから多くを学びとるとともに、国内でも多様性を涵養してくことが必要です。そのことが日本に活力を与え、閉塞感を打開することにつながるのです。そこにこそ、これからの日本の進むべき道はあるのです」 (P6)

まさに日本サッカーに対する提言として、読むべき言葉だと思う。

さらに雑誌『文藝春秋』(7月号)に、こんな言葉が載っていた。大和証券グループの田代恵子さんが『東京に足りないものは』と題して書いている文章から。田代さんは、これまで東京以外に、シンガポール、ロンドン、ニューヨークという都市に住んだ経験を持つ。

「東京に住んでいると異なる文化で育った人間を理解しようとする努力、また逆に理解してもらうための伝える力が鍛えられない。他方、三都市には多様性から生まれるエネルギー、異文化を許容する優しさが日常生活に浸透している」


「多様性のもたらすダイナミズムが評価できるようにならないと日本は埋没してしまうと危惧する」 (P88)

この指摘も、そのまま日本サッカーについてもあてはまる。

当然だが、この「多様性」の問題は、「システム・組織」との問題とも直結している。

従来のムラ的な「システム・組織」は、多様な「個」が存在する「面倒くささ」を排除しようとする。多様性が存在していては、効率的なコントロールがきかなくなるという「ムラ」の論理。(「システム・組織」「コントロール」

文化人類学者の辻真一さんの言葉を改めて。著書『弱さの思想』より。(3月20日のブログ

「多様であるってことは非効率ですからね。効率性を重んじる現代社会から見ると、多様であることは弱いことなんです」 (P117)

「効率性は文明における強さの定義に欠かせないものです。そして、効率性は、多様性を犠牲することによって高められる。つまり、多様性を負かすことによって効率性は勝つ」 (P165)

我々が「個」よりも「システム・組織」を優先するムラ社会を続けている限り、多様性のある「強い」社会、「強い」サッカーは展開できない、ということなのかもしれない。

もうひとつ。ジャーナリストの木村元彦さんの言葉も。著書『蹴る群れ』(文庫版)から。

「東西冷戦が終結し、世界が一つの巨大な価値観に支配されようとしている。“あの大国”に抗うには、スポーツ選手はあまりに無力だ。けれど、メジャースポーツで唯一、米国スタンダードでないこのサッカーという競技の選手たちは、自らのプレーで愛する祖国の存在感を見せつけることができる」 (P10)

やはり、日本社会に対して、日本のサッカーにできることは多いと思う。サッカーと社会とが一緒に強くなっていけばいい、というかそれしかないと思う。その可能性に、大いに期待したい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2014年7月 7日 (月)

「政治的な立場を超えて、サッカーで人々が一つになっていると実感できる瞬間があるのは、大きな喜びだ。それがスポーツの力なんだと思う」

サッカーでの「多様性」についての話を、今回も。おとといのブログ(7月5日)の続き。

日本のサッカー界は社会に率先して「多様性」に取り組む必要がある、という話を前回のブログでは書いた。そのあと、読売新聞(7月6日)を読んでいたら、興味深い記事が載っていた。

編集委員の川島健司さんが署名入りで書いている『Bird’s view』というコラム。この日は、サッカーのスイスチームについて書いている。スイスは、ヨーロッパ予選を1位で通過し、今大会でも決勝トーナメントに進出した強豪チームである。

「強さの一つの源となっているのが、驚くほど多彩な選手の出自」

今回のスイス代表チームは、代表選手23人のうち、半分以上が移民かスイス生まれでも両親が外国人ということ。

「スイスの人たちも、移民がさらに増えていくような今回の代表チームの構成を見て、多様性を持った集団が一つにまとまった時の強さを感じたのかもしれない」

「政治的な立場を超えて、サッカーで人々が一つになっていると実感できる瞬間があるのは、大きな喜びだ。それがスポーツの力なんだと思う」


スイスチームついて調べてみた。
 

オットマー・ヒッツフェルト監督は、今回のチームについて次のように語っている。インターネットサイト「swissinfo.ch」(6月26日) より。

「トルコ移民のインレルをキャプテンにしたのは、外国にルーツを持つ選手に重要な役割を与えたかったからだ。この多様性は今のスイスをよく表しており、スイスの寛容の証でもある」

続いて、スイス・サッカー協会のペーター・ジリエロン会長の発言。

「スイスでは、外国人受け入れの道具としてサッカーほど重要な役割を果たしてきたものはない。過去数十年間、移民たちは何よりもこのスポーツをしながら、スイスとスイス人の中に溶け込んでいった」

まさに、サッカーの強さの裏には、社会と向き合いことが密接に関係している。そんな発言である。

もちろんサッカーだけの話ではない。

例えば、野球のWBC前大会で活躍したのがオランダ・チーム。バレンティン選手やアンドリュー・ジョンソン選手のふるさとがオランダ領キュラソー。ここが名選手を多く生んでいるのも「多様性」と関係しているということ。(スポーツライターの中島大輔さんの記事


そして、日本のサッカー。

ここ数回のブログで言葉を紹介した人たち。田中マルクス闘莉王選手イビチャ・オシム氏セルジオ越後さん李国秀さん、この4人は、いずれも日本サッカーと深くかかわった人たちだし、また多様な文化的背景を持った人たちという共通点もある。

当然のことだが、もう何十年も前から日本サッカーの「多様性」は始まっている。それは、一般社会とかわらない。

しかし一方で、最近になって逆の動き、つまり多様性を排除する動きが強まっているのも確か。それが表に現れたのが浦和レッズのサポーターが起こした「横断幕問題」だった。

もう一度、エスパルスのゴドビ監督が、無観客試合のあとの記者会見(3月23日)で語ったものを載せておきたい。(4月9日のブログ

「サッカーから差別をなくしていかなければならない。人と人の違いがあるからこそ、世界は美しい。私がサッカーを始めたころボールは白と黒だった。今は様々な色で彩られている」

その通りだと思う。

ただ多様性を進めていく中で、覚えておいた方がよい指摘もある。上記のサイト「swissinfo.ch」(6月26日)の記事から、ローザンヌ大学のスポーツ社会学者、ファビアン・オール氏の指摘。

「多文化的なチームが勝利を収めると、皆『多様性』を誉め称える。しかし、失敗したり成績がぱっとしなかったり論争になったりすれば、『違い』の方が再びクローズアップされる」

ちゃんと負の面と向き合いながら、それを乗り越えていかないといけない。

多様性から逃げるのではなく、プラスとマイナスの両面と向き合っていかないと、我々のサッカーも、社会も「強く」なれないということだと思う。


最後に、今回のW杯ブラジル大会で、ブラジルのルセフ大統領が述べた言葉を載せておきたい。東京新聞(7月6日)より。

「W杯は人種差別に対抗する力になる」

今大会は、人種差別根絶がテーマになっている。差別の根絶のためには、当然、多様性に寛容にならなければならない。





2014年7月 5日 (土)

「偶然の出会いや異質なものとの衝突から、新しいものが生まれていくものだ」

もう少し、今後の日本サッカーの課題について言葉を転がしてみたい。基本的に、きのうのブログ(7月4日)の続き。

元ヴェルディ総監督の李国秀さんは、今後の日本サッカーの課題として、読売新聞(6月27日)で次の言葉を載せている。

「うまく、賢く、速くて強い。そして社会性を備えた日本代表を生み出すための土台作りには、指導者の広い視野と高い志が不可欠だ」

朝日新聞編集委員の潮智史さんは、雑誌『AERA』(7月7日号)で次のように書いている。

「戦術も技術も大切だが、世界の価値観はもっと幅広い。いってみれば、チームの戦い方も選手の資質や能力も、日本のサッカーの間口は狭すぎる」 (P71)

サッカー解説者のセルジオ越後さん日刊スポーツ(6月26日)より。

「戦術や技術とかだけじゃなく、文化も含めての話なんだ」

この上記3人のコメントから読み取れるのも、今後の日本サッカーに必要となってくるのは、サッカーの戦術や技術だけではないということ。「社会性」であり、「価値観」であり、「文化」が問われている、という指摘。大きく肯首したい。

では、一体、日本チームがサッカーを通して表現したり、世界に訴えたりすべき、社会の価値観とは何なのか。何をしていけばいいのか。

今日の朝日新聞(7月5日)には、W杯を現地視察したというJリーグの村井満チェアマンのインタビューが載っている。ざっと目についたコメントを挙げてみる。

「想定しない事象が起きたときに、柔軟に対応できる力の重要性を感じた」

「日本では多くの場合、過去に成功した知恵を、どう伝えるかということが中心になる。答えを持っている側が上に立ち、下に伝えるというスタイルで、コミュニケーションが一方通行になりがちだ」

「偶然の出会いや異質なものとの衝突から、新しいものが生まれていくものだ」


「先生から教えを請う『教室』や『習い事』の場ではなく、子どもだけでワイワイやれる『遊び場』を、Jリーグが提供していけばいいと思う」

日本サッカー界の今後の課題についての言葉だが、例えば、原発事故から見えてきた課題にもそのまま当てはめることができるのでは、と思える。

きのうのブログ(7月4日)で触れたこととも重なるが、結局は「多様性」をいかに受け入れていくか、なんだと思う。サッカーの世界にも、今まで以上に多様性をどんどん取り入れることで、異質な文化や背景、考えを持つ選手や人びとと出会い、衝突し、折り合い、共存して、そこから新しい価値観や力が生まれてくる。

村井チェアマンの言うように、「偶然の出会いや異質なものとの衝突」を生み、「新しいものが生まれていく」。それを続けていけば、上記の潮智史氏が指摘するように、日本サッカーの「間口」が広くなっていく。

それを「面倒くさいこと」として、自分にとって異質なもの、邪魔なものとして排除していては、その世界は何も変わらないだろうし、何も新しいものは生まれてこない。

何度も書くが、日本サッカーの世界だけではなく、日本社会にもそのまま当てはまる課題である。

サッカー以外の様々な分野で
同じ問題を抱えているのは間違いない。例えば、お笑いの世界。佐藤義和さんが指摘する言葉は、日本サッカーへの指摘と完全に重なる著書『バラエティ番組がなくなる日』より。(5月13日のブログ

「今どきのお笑いタレントたちは、とても頭がよく、社会性もある。ネタの完成度も高く、整っている。現在の視聴者にどのようなものが受けるかを研究した上で、正しい計算をしている。どんな舞台に立たせても、一定の笑いをとり、客を満足させることができるのだ」 (P123)

「その一方で、時代を変えていこうとする気概、気負いのようなものはまったくない。ないことが悪いとは思わないが、新しい時代をつくっていくための武器としての破壊力もあまり感じられない」  (P128)

技術はあるが、破壊力がない…。サッカーもお笑いも同じ。

もちろん
サッカー界が変われば、そのまま社会が変わるわけではないだろう。しかし日本のサッカー界が、サッカー選手が、われわれサポーターが、社会に率先して「多様性」に取り組むことによって、「社会性」を身につけたサッカーが可能になり、それをピッチでアピールしていくことで、やがて社会をも少しは変えられるのでは、と思うし、そう思いたい。

2014年7月 4日 (金)

「世の中の大事なことって、たいてい面倒くさいんだよ」

前回のブログ(7月3日)に続いて、今回もW杯について。

以前のブログ(6月11日)にも書いたけど、
 
サッカーというものには、社会を変えたりする力や社会に風穴を開ける力がある。


イビチャ・オシム氏は、雑誌『Number』(7月9日号)で、ブラジル大会での日本代表について語っている。その中で、サッカーと社会のつながりについて次のように触れている。

「サッカーで爆発するのは国民全体が爆発するのと同じだ。たんなるスポーツに限らない。政治や経済など、他の分野に与える影響も小さくなく、国全体にその影響は及ぶ」

「サッカーの成績が良ければ、日本全体が良くなっていく。国民が明るい希望を抱き、生活が楽しくなっていく。そんな風になれる機会を、あなた方は逃してしまった」 (P49)

こうした「サッカーを通じて、社会を良い方向に変えてやる」という意識が、代表選手やチームにはもちろん、サポーター、メディアにあれば、もう少し世界が注目するサッカーを日本代表がピッチで展開できたのではないか。そう思ったりする。 

例えば、
グループリーグで敗退してしまったが、ボスニア・ヘルツェゴビナ。この国は、今回、W杯初出場を決め、そして初勝利を手にしている。このボスニアのエースであるエディン・ジェコ選手の言葉は印象深い。NHKスペシャル『民族共存へのキックオフ~“オシムの国”のW杯~』(6月22日放送)より。

「僕たちは民族や名前なんて関係ないことをみんなに示したんだ。それはみんなが一つになれるという証しだ。離れ離れではなく民族を超えて一つになることが僕たちを成功に導くんだ」

かたや日本代表。
サッカーと社会との関係で、個人的に残念だったがある。それは、名古屋グランパスの田中マルクス闘莉王選手の選考をめぐること。

僕を含めて多くの人が代表入りを望んだと思われる闘莉王選手。彼はなぜ選ばれなかったのか。

その闘莉王選手のインタビューが、雑誌『Number』(6月25日号)に載っていて興味深かった。

「よく『ビックマウス』みたいなことを言われたからね。そうやって変な奴に見られがちなのは、今に始まったことじゃない」

「例えば、自分はDFとはいえ、守ってばかりじゃなくて結局的に攻めに出る。それに対して『DFなのに自分勝手だな』と言われることが結構ある」


「自分がルールからはみ出るような選手に見られがちなことは、僕自身が一番よく理解している。でも、僕の性格を知っている人間は、そんなことなんて言わない。僕のことをちゃんと知らないでいろいろ言うのは、価値がないことなんだよ」


「俺たちはプロだよ。意見を言うのは当たり前。それがおかしいことと捉えられるのなら、日本のサッカーもまだ成長しないといけないよ。自分の考えを主張することは、別に監督に反対しているわけじゃない」


「別に俺は監督に反抗なんてしていないんだよ。チームにプラスを生み出すために、自分の意見を言っているだけだから」


「全部イメージの世界で、俺は語られていた。雑誌やテレビを見てもね」
 

この闘莉王選手の話に出てくるフレーズ。
「変な奴」、「自分勝手」、「ルールからはみ出る」、「意見を言う」、「自分の考えを主張する」…。


これらのフレーズを一言にまとめるとと、きっと「面倒くさい奴」。彼は、そういうイメージを持たれていることを正直に告白している。

闘莉王選手を代表選考から外した本当の理由は、ザッケローニ監督が語らないと分からない。(ぜひ語ってほしいし、総括として語るべきだと思う)。でも、やはり「面倒くさい奴」は排除しようということだったのではないか。個人的には、そう思う。

上記の闘莉王選手が口にしたフレーズは、

まさに、日本的な「ムラ社会」や「システム・組織」が最も嫌う要素であるからである。

また、さらに問題だと思うのは、彼にチャンスを与え、自分の「目の前」で確認しようとしなったこと。

前回の南アフリカ大会で監督をつとめた岡田武史氏は、次のように語っている。WOWOW『田中マルクス闘莉王 2つの祖国』より。

「最初、代表に入れるかどうかで迷った。それは外から見ていると、ものすごくわがままに見えた。でも1回呼んでみようと。呼んでみて話したりしてみると、決して彼はわがままじゃないことが分かった」

実際は「わがまま」ではなかった…。

イメージだけで「面倒くさい奴」と決めつけ、ハナから排除し、内輪集団の予定調和の関係を存続させる。まさに日本がお得意の「ムラ社会」の論理が垣間見えて、「いやな感じ」がするのである。


政治学者の白井聡さんの指摘が重なる。雑誌『SIGHT』(2014年夏号)より。

「結局もう、あらゆる政治経済、学問などの既得権益を持つエリートたちの、自分たちの世界を壊すこと、壊されること、これに対する恐怖心が強いんでしょうね」 (P104)

「我々の世界を壊すようなことを考える奴はいてはならないんだ、という形で排除してしまう。それでは組織として劣化していくのは当然です。そういう意味での劣化はもう、どの領域でもどんどん進行してきたんじゃないですか」 (P105)


前回のブログ(7月3日)のブログで書いた久米宏さんの指摘を思い出してほしい。

「ケタ外れの人だとか、規格外の人とか、悪魔みたいとか…、そういうのがいないと、本当に強いチームができない。そのチームには、ケタ違いの選手が1人か2人くらいいる。これどうしようもないという選手が…」

闘莉王選手を、もしイメージだけで「面倒くさい奴」と排除していたなら、そんなチームには、きっと「桁外れの人」とか「規格外の人」とかの選手が、日本代表として選ばれるはずはないのである。

ムラ社会、コンプライアンス、効率主義…。そうした「面倒くさいこと」を排除する今の日本の風潮・体質に風穴を開けるためにも、まずは日本サッカーが「面倒くさい奴」と共存して、そして結果を出してほしかった。

オシム氏がいうように、サッカーには、そうした社会に風穴を開ける力があると思うし、新しい価値観を社会に示すことができると思う。 

最後に。 

サッカーではないが、アニメ監督の宮崎駿さんが、映画作りについて語ったコメントを載せておきたい。NHK『プロフェッショナル』(2013年11月13日)より。

「面倒くさいっていう自分の気持ちとの戦いなんだよ。何が面倒くさいって究極に面倒くさいよね。『面倒くさかったらやめれば?』『うるせえな』ってことになる。世の中の大事なことって、たいてい面倒くさいんだよ。面倒くさくないとこで生きていると面倒くさいのはうらやましいなと思うんです」 

クリエイティブ、イノベーションなど、社会に新しい価値観を示すものは、「面倒くさいこと」の積み重ねの末に生まれるものではないか。

今の日本社会のように、「面倒くさいこと」を排除、遠ざけることを続けている限り、きっと社会は良い方向に変わることはできない。そして、「大事なこと」を失っていく。

W杯と闘莉王選手の選考を通して考えたことをまとめてみた。

2014年7月 3日 (木)

「やっぱり日本選手って、なんとなく平準化されていて、みんなが“いい人”で、鼻つまみ者がいないうというか」

W杯ブラジル大会の日本代表について。

今回の日本チームの「惨敗」について、久米宏さんがラジオ番組でこんなことを話していた。TBSラジオ『ラジオなんですけど』(6月28日放送)より。

「日本代表は、ザッケローニ監督を含めて“いい人”すぎないか、というのが実感。ケタ外れの人だとか、規格外の人とか、悪魔みたいとか…、そういうのがいないと、本当に強いチームができない。そのチームには、ケタ違いの選手が1人か2人くらいいる。これどうしようもないという選手が…」

「やっぱり日本選手って、なんとなく平準化されていて、みんなが“いい人”で、鼻つまみ者がいないうというか。いた方がいいというのではなくて。チームの輪を乱すようなものが2~3人いないんじゃないかなって。極論ですよ」

「でも、都議会のやじは別だけど…」

最後のコメントにも、笑ったけど。主題は、日本サッカーについて。

いい人すぎる…。平準化されている…。

まず思い出したのが、キング・カズこと、三浦知良さんの言葉。朝日新聞(2013年5月21日)より。(2013年5月22日のブログ

 
「僕には、平均化されない、とがった存在でありたいという思いがある」

元ヴェルディ総監督の李国秀さんの次の指摘も思い浮かべた、読売新聞(6月20日)より。

「私が印象深かったのは、惜しいシュートが外れた時のギリシャの選手の顔付きだ。ものすごい形相だった。日本には、シュートを外しても淡々としていた選手がいた。気力の差を感じた」

こういう気力の差は、どこから来るのだろうか。個人のモチベーションの問題なのか、日本社会の問題なのか。

久米宏さんの「“いい人”すぎる」という指摘。これは、サッカー選手だけのことではない。内田樹さんの次の指摘と重ねて読むと興味深い。著書『街場の共同体論』より。

 
「階層上位の人たちって、僕もたまに個人的に知り合う機会がありますけれど、立場を超えて、だいたい基本的に『いい人』なんですよ。自己主張が控えめで、礼儀正しくて、穏やかで、ユーモアのセンスがあって。当たり前ですよね。自分の帰属する共同体の中で、周りの人たちに気を遣いながら、なるべく嫌われないようにやってきて、今日の地位を得たわけですから」 (P234)

これは、世襲の政治家について語ったもの。彼ら政治家も「いい人」らしい。

世襲とは、代々受け継がれてきた「システム・組織」を引き受け、それを存続させること。だから、そんな政治家たちには、世の中はもちろん、自分の属する「システム・組織」を何とか変えてやろうという「気力」は当然ながら感じられない。


さらに田樹さんは、こんな指摘もしている。

 
「現代日本の成功者たちって、ほとんど『自己決定してない』人たちなんです。自分を殺し、決められたキャリアパスを粛々とたどり、周囲の期待に応え続けることで、成功したんです。彼らの成功の秘訣は、自己利益や『自分らしさ』を追求したことではなくて、ある政治共同体の中で自分が果たすべき役割を演じたことです。そういう人たちが成功する。そういう人たちしか成功できないというのが、この社会の仕組みなんです」 (P233)

自己決定しない…。サッカーでは、「決定力不足」と批判されることの多い日本人選手。それと重なる。

また「自分らしさ」を追求したことがない人たちが、成功者としてのさばる日本社会…。そういう仕組みを我々の社会は持っているのである。

サッカー解説者のセルジオ越後さん日刊スポーツ(6月26日)より。 

「『自分たちのサッカーを』とよく言われていたけど、実力の違いがあるから、自分たちのサッカーができないのが現実でしょ。今回の3試合の日本代表がやっていたサッカーが、日本のサッカーなんだ。これがいまの実力なんだということを認識しないといけない。それができなければ、4年後も8年後もW杯で勝つことはできないよ」

自分たちのサッカー。確かに今大会で、よく耳にした言葉である。

でも結局、我々がまずやらなければいけないのは、サッカーやスポーツのときだけでなく、一般社会の日常生活の中で、「自己決定をすること」「自分らしさを追求すること」を繰り返していくということなのではないだろうか。

「自己決定をすること」
「自分らしさを追求すること」というちょっとポエムっぽい言葉に聞こえるかもしれないが、要は「システム・組織」に、自分という「個」を埋没させないということ。(
「システム・組織」

ここで、イビチャ・オシム氏の指摘も並べておきたい。『オシム 勝つ日本』(著・田村修一)より。

日本人は監督や主人、政治家たちの言葉を常に待っている。彼らに口答えしないし、指示を仰ぐことに慣れている。サッカーも同じ。相手に対して反応するだけだ。つまりアクションではなくリアクション。自分から仕掛けるのではなく、相手のアクションを待つ。ときにうまく対応できずに、しばしばゲームを失う」 (P357)

日本サッカーの惨敗。
これは我々の社会全体が抱えている問題と通じているのだと思う。

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