「政治においては『言葉がすべて』なのです」
前回までのブログでは、サッカー界だけでなく、これからの社会での「多様性」の重要性。そして、多様性の豊な世界では「対話」すなわち「言葉」のすり合わせが欠かせない、という話を転がしてきた。
今回もその流れ。政治の世界でも「多様性」と「言語技術」「対話力」とは密接な関係がある、という話から。
前回のブログ(7月19日)で、元官房長官の野中広務さんの「自民党の多様性が失われてしまった」(朝日新聞7月18日)という指摘を紹介した。
今の自民党には多様性が失われていることということは、その政治家から「言葉技術」や「対話力」が失われていることでもある。
きっと、それを安倍総理の言動は実証している。
例えば、秋田魁新報(7月11日)の社説では、安倍総理について次のように書いている。
「言葉のやりとりはしている。しかし、かみ合わない。それどころか安倍晋三首相は、質問にまともに答えようとしない場合も結構多いのである」
「違う話を持ち出してごまかそうとする。事実と異なる説明をしてでも言いくるめようとする。これでは国民の信頼はとても得られない」
「『言論の府』としておかしいのは明らかだ。手本となるべき政権や国会がろくに議論もできないようでは、民主主義の先行きは暗い」
毎日新聞(7月10日)では、特集として『質問と答えがかみ合わない「安倍語」を分析』と題した記事を載せている。その中から。
「だが、もう一つの重要な責任、国民に丁寧に説明して理解を得る義務は果たしているだろうか。国会や記者会見では、質問と首相の答えがかみ合わない場面も目立つ」
総理大臣が、対話や言葉を大事にしないで大丈夫なのだろうか…。
これまでも、このブログでは、言葉についていろいろ考えてきた。(2013年11月21日のブログ など)(「言葉・言語力」)
そこで改めて、政治と言葉についての指摘を並べてみたい。
まずは、政治学者の岡田憲治さん。著書『ええ、政治ですが、それが何か?』から。
「政治においては『言葉がすべて』なのです」 (P38)
「選択としての政治では必ずその判断が『言語化』されなければなりません。そうでなければ、それは政治にはなりません。いくら心の中で深く熱く詳細に考え抜いても、声帯を震わせるか言霊にのせなければ存在しないことにされますし、後に詳しく説明しますが、黙っていると「容認しているのだ」と利用されます。選挙のおける投票とは、候補者名や政党名を言語化して伝える、まさに政治的な行為です」 (P42)
例えば、カネや数の力学だけで動く政治の問題点も、政治から「言葉」がなくなっていくことにある、という指摘も説得力がある。
「「カネにものを言わせる」ことがよろしくない最大の理由は、『カネにものを言わせる』ことで、『ヒトに』ものを言わせる契機、動機、技能、期待、希望、慎重さ、勇気、責任、自由を失わせてしまうからです」 (P76)
「だから言うまでもなく、やはり金権政治はダメです。ダメに決まっています。カネでみんなが黙ってしまうからです。失われるのは『道徳』ではありません。『言葉』です。それがマズいと言っているのです」 (P80)
このブログで何度も考えてきたエモーショナルな言葉の問題点(4月21日のブログなど)については、次のように指摘する。
「感情にまかせた前のめりの言葉をバカげたものとわかっているのに、それを面倒だと炎上を恐れ、誤った忖度をして、何かに遠慮をして、のど元に放つべき言葉がつまっているような印象です」 (P271)
忖度や遠慮の結果、ますます「エモーショナルな言葉」「感情にまかせた前のめりの言葉」ばかりが流通してしまう。
作家の高橋源一郎さんは、次のように語る。著書『沈む日本を愛せますか?』(文庫版)から。
「困ったもんだよね。だって、政治史を読むと、政治を動かしているのは言葉なんだから」 (P30)
「つまり、政治の言葉って公の言葉ですよね。でも、我々に使えるような「公の言葉」としての政治の言葉があるだろうかって、昔から思ってた。ただ、それは政治の側に問題があるって僕は思ってたんだけど、実は、日本語が悪いんじゃないかなっていう気がしてきて(笑)」 (P28)
そして、政治の言葉を新しく作らなくてはと考える。雑誌『SIGHT』(2014年SPRING号)より。
「今は、僕の認識でいうと、文明史的転換のときだと思っているんです。これはかつてなかったことなので、政治の言葉自体が一から更新されるべきかもしれない」 (P127)
次の政治学者の白井聡さんの指摘も同じこと。ビデオニュース・ドットコム『マル激トーク・オン・ディマンド』(7月5日放送)より。
「戦後70年近く経って、民主主義という言葉は日本国民にとって本当の言葉にならなかったし、あるいは自由という言葉だったり…。例えば権利という言葉、権利という言葉が結局わかんないんだと思う。利権は分かるんだけど、権利は分からない。それから会社は分かるんだけど、社会は分からない」 (パート2 45分ごろ)
新しい政治の言葉をつくらなければいけない…。たいへんだ。
でも、そのためにすることは、結局、政治の場所で「多くの言葉を動員」することだったりする。多くの言葉を使って、対話して、すり合わせて、新しい言葉を獲得してく。
岡田憲治さんの指摘。上記の著書『ええ、政治ですが、それが何か?』より。
「自分の欲望に根ざして世界のあり方や希望を他者に伝える際に、このように風通しが悪くなり、自由にものを言うことがはばかれるようになり、そして言葉が大雑把になっているならば、そうなっている理由を考え、多くの言葉を動員して、政治のイメージを豊かにして、その原因を明らかにしなければなりません。自由にものが言える世界がなければ、人は自分と仲間の力を引き出して楽しく生きていることができないからです」 (P272)
これまで日本は、対話のための言葉があまり必要なかった。しかし日本社会も多様性からは逃れられない。だとすると我々自身で、多様な価値観を持つ人たちと対話するための、言葉を獲得していかねばならない。そういうことではないか。