★変わるということ

2016年6月18日 (土)

「未来を変えるためには、今やることをやらないといけないんだなあと」

きのうテレビを見ていたら、ラグビーの五郎丸渉選手のコマーシャルが流れてきた。その中で次の言葉を口にした。(シチズンのCM より)

「未来を変えられると人は簡単に言う。でも違う。今を変えない限り、未来は変わらない」

「今を変えろ!」


この言葉を調べてみると、もともとは元日本代表のヘッドコーチ、 ジョン・カーワン氏が五郎丸選手に言った言葉のようである。スポーツニッポン(2015年10月13日)より。

「お前が変えないといけないのは、今だ。今を変えなければ、未来は変わらない」

アナウンサーの町亞聖さんも少し前に同じことを言っていた。文化放送『ゴールデンラジオ』(2月3日放送)より。

「みんなよく『未来を変えよう』って言うじゃないですか。だけど、変えられるのは未来じゃなくて今だけなんですよね。未来を変えるためには、今やることをやらないといけないんだなあと」

最近、未来」という言葉があふれている。まもなく始まる参議院選挙のキャッチコピーでも沢山使われるのだろう。

安倍総理は、今年1月の施政演説で「未来に挑戦する国会」と言い、「未来」という言葉を多用した。(『★前のめり社会』

しかし、世間に「未来、未来…」が溢れることで、「今」よりも「未来」が大事、そんな雰囲気が生まれていないか…。

でも、未来を変えるためには、今を変えなければいけない。

作家の赤川次郎さんが、今回選挙権を手にする19歳の若い世代に向けた言葉。東京新聞(6月12日)より。

「若い世代に言っておきたい。未来は変えられるのだ」

「既得権にあぐらをかいている大人たちに『NO!』を突きつけてあわてさせる。痛快じゃないか。さあ始めよう」


そう。今の政治家たちに「Yes」と「No」を突きつける。そうやって自分たちの「今」を変え、そして「未来」を変えていく。それが選挙。

マエキタミヤコさんの言葉。著書『原発をどうするか、みんなで決める』より。

「社会は可変です。なのに、『何をいっても無駄、変わらない』と思っている人がいかに多いことか。そう思っているから社会は変わらないのです。それはもったいないし、とても悔しいことです」 (P14)

おそらく“今を変える”というのは、“今の社会を変える”ということでもである。

しかしながら、である。日本の社会は「変えること」を避ける風潮が強い。そう思う。

心理学のアドラーの研究で知られる岸見一郎さんの指摘。文化放送『ゴールデンラジオ』(5月23日放送)より。

「変わるのが怖い。変われないのではなく、変わりたくない。これまでと違う生き方を選んだら、次の瞬間に何が起きるか予測できない。今までの自分の生き方がいかに不自由で不便であっても、次に何が起きるかを予想できた方が楽だと思う人は変える気を持つことができない」

予測することで安心する社会にいると、変えることが怖くなる。でも、それだと自分が望む「未来」は手に入らない。(『★予測社会』

思い切って一度、変えてみたら、新しい世界が次々に広がってくるのかもしれない。もうひとつ岸見さんの言葉。

「違う人生を選ぼうと思ったら、本当に崖っぷちに立っている感じ。目の前の道が見えなくなっている状態。怖いんですけど、その怖さを一度は乗り切らないといけない。一歩前に進んだら、次の一歩も踏み出せる。一度も前に踏み出したことがない人は、踏み出せない。決心するしかない」

思い切って今を変えていく。それを積み重ねていくことが重要なのではないか。

おととい日米通算ヒットの記録を打ち立てたイチロー選手による言葉。(NTT東日本のCM より)

「確かな一歩の積み重ねでしか、遠くへは行けない。通信の未来も確かな今日の積み重ねでつくられていく」

もともとのイチロー選手の言葉はこちらです。『夢をつかむ イチロー262のメッセージ』より。

「ちいさいことをかさねることが、とんでもないところに行くただひとつの道」 (P74)

私たちが自ら望むような「未来」にたどり着くためには、「今」を小さく変え続けていくしかない。そう思う。

2014年6月13日 (金)

「『目の前』とちゃんと向き合って、『目の前』から解決していくことは、生物にとって、生死にかかわる切実な行動原理だということだけを強調しておきます」

きのうのブログ(6月12日)では、「変わる」「変化」にまつわる言葉を並べた。

もうひとつ、こんな言葉も。野球選手の上原浩治さん著書『覚悟の決め方』から。

「何かを『変える勇気』も必要だが、『変えない勇気』も必要なのだ」 (P32) 

この本の中で、上原投手は、野球選手としてルーティンを守っていくことの大切さ、そして難しさを説く。

「毎日同じことを淡々と、黙々とこなす―。はたから見れば、もっとも楽そうに見えるかもしれない。簡単そうに思えるかもしれない。でも、じつはこれがいちばん難しい。つくづくそう思う」 (P33)

このルーティンを守ることについては、イチロー選手も大切にしている。(2012年3月9日のブログ 

ヤンキース・バッティングコーチのケビン・ロングさんは、イチローについて次のように語っている。NHK『プロフェッショナル』(2013年12月16日放送)より。

「まるで宗教の儀式を見ているようだよ。イチローは毎日必ず6時15分にバッティングケージに来る。1分の狂いもなくね。練習が終わるのは6時19分から20分の間だ。きっちり同じ回数だけバットを振るんだ。ここれまでくるとほとんど精密機械のようだよ」

なぜ、イチロー選手はルーティンを厳格に守るのか。改めて、イチローのトレーナーを務める森本貴義さんの指摘を紹介する。著書『一流の思考法』より。

「『昨日の自分』と『今日の自分』を比較しているんです。繰り返すことで熟練し、型をつくることで修正ができます。イチロー選手が継続的に結果を出せる秘訣は『毎日同じことを同じ時間に行う』」

ルーティンを繰り返すことで、自分のひとつ型を身につける。さらにそれを繰り返すことで、修正すべき部分を見出すのである。「変えるべき部分」と「変えてはいけない部分」とを判別するということでもある。

上記の言葉は、たまたま野球選手2人のものだが、これは僕たちの生活にも当てはまることだと思う。ルーティンとは、「日常生活」という言葉に置き換えられる。

繰り返される日常生活の中で、変えなければいけない部分と変えてはいけない部分を見極める。そして変えなければいけない部分、修正すべき部分に手を付け、良い方に転がしていく。きっと世の中、社会を変えていくとは、その延長にあることなんだと思う。

次に載せる2人の方の指摘は、まさにそのことを言っている。

建築家の隈研吾さん著書『僕の場所』より。

「僕ら生物は具体的でちっぽけな身体を持っています。具体的身体があるということは、何かが『目の前』にあるということです」

「『目の前』を媒介として、世界と対等に向かい合えるわけです。サルトルが少し難しい言葉で、目の前がいかに大事であり、近くのものから解決していかなければいけないと語っています。何しろ世界には問題が多すぎるからです」


「建築とは『目の前』に対して何かを提案することです。『目の前』とちゃんと向き合って、『目の前』から解決していくことは、生物にとって、生死にかかわる切実な行動原理だということだけを強調しておきます」 (P87) 

そして、社会学者の古市憲寿さん著書『だから日本はズレている』より。

「僕たちはまず『今、ここ』にいる自分たち自身も社会の一部だということを思い出すべきだと思う。まず『今、ここ』で暮らす自分や仲間を大切にすること。自分たちが生きやすい環境を作ろうとすること。それは、結局社会を良くすることになるのだ」 (P217)

社会を変える、良くしていくということは、日常生活の中での「今、ここ」、「目の前」を見つめ、少しずつ変えていくということなのである。

もうひとつ最後に。生物学者の福岡伸一さん著書『動的平衡ダイアローグ』から。

「生物も個人も、先を見通すことはできない。できるのはせいぜい、いまあるものを利用したり、改良したりすること。そうして生き延びてゆくことなんです」 P159)

2014年6月12日 (木)

「社会は可変です。なのに、『何をいっても無駄、変わらない』と思っている人がいかに多いことか。そう思っているから社会は変わらないのです」

きのうのブログ(6月11日)では、「サッカーには世の中を変える力がある」という言葉を紹介した。

これまで、このブログでは「変える」ということについて、いろいろな言葉を紹介してきた。(2013年4月23日のブログなど)(「更新・チェンジ」)

少しストックがたまったので、改めて新しいものを並べておきたい。

まずは、フランスのアーティストのJRさんの言葉。世の中を変えるのはサッカーだけじゃない。『芸術実行犯』(著者・Chim↑Pom)より。


「アートは世界を変えます。アートは直接的に物事を変えるわけではありませんが、ものの見方を変えます。アートが変えるのは世界の見方です」 (P114) 

次は、建築家の坂口恭平さん『偽悪者』(著者・上杉隆)より。

「社会を変えようと思うなかれ。そうではなく、社会を広げるか、増やすべきなんです。どんな人もひとつだけの社会で生きようとしちゃダメなんです」 (P42)

活動家の湯浅誠さん毎日新聞(1月9日)より。

「正しいことをいくら叫んでも社会はなかなか変わらない。正しさだけでは広がりを持たない。貧困問題も脱原発も。異なる考えを持つ人にどうつながるか、どう伝えるか。私が今やりたいのはそこです」

社会学者の古市憲寿さん著書『社会の抜け道』より。

「社会は革命的には変わらないってことだと思うんです。何か新しいシステムを導入するとか、新しい政治家が登場するとか、強大な敵を倒すとか、そんなことで社会は変えられない。社会はちょっとずつしか変わらない。だけど、『新しい何か』が登場して、ダメなものを一掃してくれるっていう革命の願望や欲望には、なかなか抗えないも事実ですよね」 (P245)

社会はなかなか変わらない…。でも、変えることはできるし、変わることはあるのだと思う。

そんな言葉。マエキタミヤコさん『原発をどうするか、みんなで決める』より。 

「社会は可変です。なのに、『何をいっても無駄、変わらない』と思っている人がいかに多いことか。そう思っているから社会は変わらないのです。それはもったいないし、とても悔しいことです」 (P14)

ただ、こんな言葉もある。 

イビチャ・オシム氏雑誌『ナンバー・プラス』(2014年5月号)より。

「変化のためだけの変化ならば何の意味もない。何かを変えたいということを示すためだけに変化をしても、それは変革とはいわない」 (P122) 

こちらも、オシム氏の言葉。朝日新聞(2013年8月26日)より。

「私が思うに、あなた方はあまりに早く考えを変えすぎる。誰かがいいプレーをしていると判断したら、即座に同じようにやろうとする。しかし終始変え続けることはできないし、常に前進を試みるだけでなく、ときには一歩退くことも必要だ」

オシム氏の言葉をもうひとつ。『オシム 勝つ日本』(著・田村修一)より。

「変化を起こすためには、人と違った考え方をしなければならない」 (P329)

こんな指摘も。茂木健一郎さん。『1984フクシマに生まれて』(著者・開沼博&大野更紗) より。

「既得権を持っている方々に変える気がない時には、物事は変わりません」 (P265)

精神科の斎藤環さんは、今の日本は「ヤンキー」たちが中心になっていると指摘しているが、著書『ヤンキー化する日本』の中に、こんな指摘がある。

「彼らは、けっして『社会を変えよう』とはいわないし『社会が変わる』とも実は信じていない。彼らの夢をポエム風にまとめるとこうなる。『世界は変わらない。変えられるのは自分だけ』と」 (P30)

そうだとすると、「ヤンキー」たちの意識が変わらない限り、社会や世の中は変わらないことにもなる。

最後に、ホテルについての言葉。 元リッツ・カールトンのホテルマン、高野登さんの言葉。BS日テレ『久米書店』より。

ホテルとは、変化に対応できることが第一条件だが、その次があって、変化を自分からつくり出していけるホテルしか残れない。新しい動きを、新しい価値とかをつくり出していくホテルしか、これから残れない。新しい変化をつくり出すっていうのは、結局考える社員がどれだけいるのか、ということにかかってくる」

上記の言葉の「ホテル」は、そのまま「社会」と入れ替えられるような気もする。結局、「変わる」ためには、「考えること」が必要となる。

以上。また「変わる」「変化」についての言葉のストックがたまったら紹介します。



2013年8月29日 (木)

「完璧は求めず、とにかくやってみて、ダメなら直せばいいさ」

きのう紹介した作家の島田雅彦さんのインタビューを、もう一度、取り上げてみたい。

「会社の業績悪化や家族の病気など、人にはいや応なく別のニッチを探さなければならない場面がでてきます。どう対応できるか、自分をどう更新できるかで、その人の生き方が分かれると思う。この覚悟を持っているかどうかは大きい。東日本大震災を意識ました」 (毎日新聞夕刊8月13日) 

きのうは、「ニッチ」という言葉に注目してみた。今日は、そのあとに出てくる「更新」という言葉に注目してきたい。 

このブログでも、これまで、これから必要なのは「“変えること”よりも、絶え間なく“更新”を繰り返すこと」というようなことを書いてきた。(2011年11月24日のブログなど 

先の読めない未知なことが続く、世の中では、自分だけでなく、企業や家族など他者の事情で息詰まったり、これまでに居場所がなくなってしまうことも起きうる。しかし、そんな中でも生きてくためには、自分を少しずつ合わせていくしかないのだろう。それを「更新」という言葉をつかった。 

ただ改めて紹介するが、脳学者の養老孟司さんは、次のようにも言っている。日経ビジネスオンライン(2012年2月10日)から。(2012年3月8日のブログ 

「一気に更新しようというのではなく、『だましだまし』やるという姿勢は大事なことだよ」

今日は、そんな「更新」という考えにつながるような言葉を改めて紹介してみたい。 

まずは、きのうの朝日新聞(8月28日)に掲載されたイビチャ・オシムさんのインタビューから。 

「私が思うに、あなた方はあまりに早く考えを変えすぎる。誰かがいいプレーをしていると判断したら、即座に同じようにやろうとする。しかし終始変え続けることはできないし、常に前進を試みるだけでなく、ときには一歩退くことも必要だ」 

劇作家の鴻上尚史さん著書『コミュニケイションのレッスン』から。 

「人間は一瞬では変わりません。特に、身体が変わるには時間がかかります。けれど、その時間が、その人本来の時間なのです」 (P284) 

また社会学者の中島岳志さんは、著書『「リベラル保守」宣言』で、少しずつ変えていくこと本来の保守のやり方だと書いていた。

「例えば、優れた老舗は、過去や現状に対する頑迷な固執を捨て、伝統に依拠した斬進的改良を進めていきます。もちろん同じモノを作り続けることは重要です。しかし、時に新しい試みを取り入れ、時代の変化に対応することも重要です」 

「このチャレンジは、新しいものに見えて、まったくの新しいものではありません。表層的な新しさの深部には、歴史的に積み重ねてきた技法が潜んでいます。先代から受け継いできた無形の伝統が内在しているからこそ、新しい挑戦が可能になるのです」 (P38) 

今年亡くなった精神科医のなだいなださん東京新聞夕刊(6月10日)に紹介されていた言葉も載せておきたい。

「完璧は求めず、とにかくやってみて、ダメなら直せばいいさ」 

なださんの「とりあえず主義」には、心から共感する。まずは、とりあえずやってみて、少しずつ「更新」していく。 

上記に紹介したブログ(2012年3月8日)でも紹介しているが、藤原和博さんの言う「修正主義」もまったく同じことなんだと思う。

「(今の教育界や、日本全体を覆っている)正解主義は『修正主義』に。つまり『こうするのが正しい』とたった一つの正解があると信じ込む正解主義から、とにかくやってみてから修正していけばいいという考え方に転換する」毎日新聞夕刊2012年2月29日より

自分でスペース・隙間を見つめ、そこでとりあえずやってみる。そして少しずつ更新・修正を加え、繰り返しながら、新しいルールを見つけていく。やはり、そんな姿勢が必要な気がする。

 

2013年8月28日 (水)

「会社の業績悪化や家族の病気など、人にはいや応なく別のニッチを探さなければならない場面がでてきます」

少し前の毎日新聞夕刊(8月13日)に、作家の島田雅彦さんのインタビュー記事が載っていた。新刊『ニッチを探して』の出版に際してのもの。まだ本の方は読んでいないけど、印象的なフレーズがあったので紹介しておきたい。

「会社の業績悪化や家族の病気など、人にはいや応なく別のニッチを探さなければならない場面がでてきます。どう対応できるか、自分をどう更新できるかで、その人の生き方が分かれると思う。この覚悟を持っているかどうかは大きい。東日本大震災を意識しました」 

生きていくうえでは、突然予想外の出来事が起きる。今までの自分の居場所が失われ、新たな居場所を見つけなければならない時が来る。ということだろう。 

ちなみに小説のタイトルにも入っている「ニッチ」。辞書で調べてみると「隙間」という意味。

「隙間」という言葉で思い出す話がある。建築家の坂口恭平さん著書『一坪遺産』で紹介していたエピソードで、東京駅で靴磨きを続ける男性についての話。少々長いけど、紹介したい。 

「そんな変化を続けている場所でムラタさんは今日も路上で靴磨きをやっている。 

『都市開発進んでますけど、大丈夫ですかね?』と僕が聞くと、『その時はまた必ずどこかに隙間が見つかるんだよ。そうやって今まで来たからね』。

 
どんな所でも隙間があるという確信なんてものを、今どれくらいの人が持っているのだろうか。いつの間にか僕は、かつてあって、自由に出入りこんで遊べた空地のような土地なんて無くなってしまったと思い込んでいた。こんな都市のド真ん中ではなおさら無理だと。

 
しかし、ムラタさんは全く逆の考え方で生きている。彼を見ながら、もしかしたら都市は視点さえ変えれば隙間だらけなのかもしれないと僕も思うようになった。使う人によって空間はどんな姿にでもなるのである」 (P72)

まさに、新たなニッチを探して生き延びている人の具体的なエピソードである。「都市は視点さえ変えれば隙間だらけなのかもしれない」という言葉にも勇気づけられる。 

さらに、ドキュメンタリー映画を撮っている想田和弘さんも、毎日新聞夕刊(6月16日)のインタビュー記事で次のように語っていた。 

「主流から外れたときに、すき間を探すことが大事だ」 

ニッチを探す。隙間を探す。これまで僕は、サッカー用語から「スペースを探す」「スペースを埋める」という言い方を使ってきた。かなり以前のブログ(2012年5月8日)で、「ルール(規則)主義から原則主義へ」というフレーズを、「ルールを守ることから、スペースを埋めることへ」という言葉に言い換えたことがある。

そういえば、作家の平野啓一郎さん『空白を満たしなさい』というタイトルの小説があったが、この「空白」という言葉も同じニュアンスなのではないか。 

その「ルールを守ることから、スペースを埋めることへ」といことをシミジミと感じたのは、何度か通った東日本大震災の被災地である。非常事態の被災地では、空いている「スペース」を自分で見つけ、そのスペースをひとつひとつ埋めていかないと社会が起動しない。そこでは、これまでのルールや規則はもう役に立たない。現状に合わせて、ルールを変えたり、新しいルールを作っていく必要があるのである。 

これも以前のブログ(2013年3月7日)で書いたことと重なる。 

きっと同じことは、きっと日本の社会全体にも当てはまるのではないか。これまで右肩上がりが続いてきた社会では、何よりも「ルールや規則を守ること」が尊重されてきたように思う。しかし、これからの先が見えない社会では、きっと今までのルールが適応できない。現状とズレてしまったルールを守り続けることより、ズレによって発生したスペースや隙間を自分なりに埋めることが重要になってくるのではないか。
 

話はサッカーに移る。ただサッカーコーチをしている池上正さんが指摘していることも同じなのだと思う。コーチの言うことを聴いているだけでは選手は伸びない。自分でやるべきこと、スペースを見つけ、そこを埋める新しいプレイをクリエイティブしていくべきなのである。著書『サッカーで子どもをぐんぐん伸ばす11の方法』より。

「子どもが困ったときに大人の顔を見るという状況が、日本では非常に多い気がしてなりません。 

特に、スポーツというものは、練習したような場面がいつも実戦で出てくるわけではありません。その都度、その都度、本当に微妙なのですが、違う状況がいっぱい出てきます。すると、言われたとおりの練習をやってきただけの子どもたちはそういう状況に対応できません」 (P90)

「『コーチの言うことを聞いてその通りにやる子よりも、コーチに反抗して全然言うことをきかない選手を育てたい』という方もいます。そういうコーチは自分の経験でわかっているわけです。自分たちの言うことを聞く子よりも、言うことをきかないこの方があとで伸びていくということを」 (P92) 

「ある時、オシム監督は言いました。 

『ヨーロッパの選手は、コーチが右だ!と言ったら、知らん顔して左へ行くよ』
周りになんと言われようが「おれの判断では左だ」と主張するのがヨーロッパの選手だといいます。
 
『日本人は右へ行けと言われたら、みんな右に行くね』

日本人の従順さは、監督にとって不可解であるとともに残念そうでした」 (P98)

もうひとつ。異なる分野から。ノンフィクションライターの立石康則さん著書『パナソニック・ショック』から。

「経営は日々、未知との遭遇である。マニュアルにないことばかりが起きるのが現実である。その現実と向き合い、自分の頭で考え絞り出した答えをぶつけながら、間違えば修正しながら正しい答えを見つけ出す作業でもある。つまり、経験は暗黙知の世界なのである。だから、それを幸之助はしばしば『カン』という言葉で言い表している」 (P179)


先の読めない時代。未知なる時代。今までのルール・規則・マニュアルに背いたとしても、自分で考え、やるべきことや場所をみつける。やはり時代は「ルールを守ることから、スペースを埋めることへ」という流れなんだと思う。

 

2013年4月23日 (火)

「何も変えずにおくために、人々は全てを変えたがる」

今日の朝日新聞夕刊(4月23日)では、『なぜ今 憲法96条改正論?』と題する特集が組まれていた。この記事の中では、社会学者の小熊英二さんによる次の言葉を載せている。

「何かを変えたいという以上のことはないだろう」


「具体的には変わらないけれど、何かを変えた気分は共有できるもの」 

「でも、96条を変えれば閉塞感が解消できるとは思えないし、『3年ごとに憲法を変える国』になれば社会は今より不安定になる」
 

まずは何かを変えることで、閉塞感を打開しようとする。ということなのだろうか。

そこで、これまでメモった「変わる」にまつわる言葉を、ざっと見て気がついたものだけでも並べてみようと思う。 

思想家の内田樹さんは、雑誌『SIGHT』(1月号)で、今の政治について揶揄を込め、次のように語っている。

これまでなら保守と革新が対立軸だったんだけども、今の政党は全部『変化』だからさ。自民党が一番過激に体制の変換を求めているんだよ」 (P123) 

まずは、変える。変革、チェンジ、それでもだめなら、リアルチェンジ。海の向こうを含め、政治では、とにかく「変える」「変化」ばやりなのである。 

社会学者の開沼博さんは、著書『フクシマの正義』で、次のように語る。 

「今求められているのは、短絡的に作られた『敵』でも、薄っぺらい『希望』でもない。なぜ自分が、自分たちの生きる社会が、これまでその『悪』とされるものを生み出し温存してきてしまったのか、そして、これからいかに自分の中の『悪』と向き合うのか、冷静に考えることに他ならない。『変わる変わる詐欺』を繰り返さないために」 (P39) 

ここでの「悪」と、上記の「閉塞感」は繋がっている。それを排除するために「変わる」を連呼するが、そんなことではなくならない。だから「変わる変わる詐欺」なんだろう。ちなみに、この開沼さんの本の副題は「“日本の変わらなさ”との闘い」。「変わる、変わる」と連呼しながらも、結局、震災や原発事故が起きても、政権交代が起きても、その実は何も変わっていない、ということなのだろう。

フランス文学者の蓮見重彦さんの指摘を思い出す。雑誌『中央公論』(2011年1月号)から。

「私は『何も変えずにおくために、人々は全てを変えたがる』というウォーラステインの言葉を思い出しました」


分野は移る。棋士の羽生善治さんは、著書『直観力』で次のように書いている。 

「『変革が大事』『変化を求める』といったことが喧伝される。
しかし、いきなり大転換してしまったら、たいていはうまくいかない。時間をかけ少しずつ、少しずつ歩幅を変えていきながら、たとえばそれが二年三年という時間を経たときに、全然違うかたち、違うものになっているというのが、一番スムーズでリスクも少ないではないかと思うのだ。大変革は必要ではない」 (P189)

当然、将棋の世界での話だが、ほかにも通じる指摘。かなり説得力がある。 

それから連想した言葉。作家の大野更紗さん書籍『増税は誰のためか』から。 

「はっきり言って、社会の改良のプロセスは、斬新的なものであって、一発逆転はできません。地味ですし、労力も手間もかかります。しかしその丁寧な徒労の積み重ねこそが、これからの日本社会が本気でやらねばならないことであることは、確かです」 (P237) 

先日、紹介した建築家の隈研吾さんの指摘も思い出す。(4月15日のブログ)古くなったら、一気に立て替えるコンクリート建築ではなく、少しずつちょこちょこ手直しする木造建築のやり方。家を建て替えれば、生活のすべてがバラ色に変わるわけではないのである。当たり前だ。 

もうひとつ。活動家の湯浅誠さんが、2010年に内閣府参与を辞職した際に残した言葉を記しておく。 『内閣府参与辞職にともなう経緯説明と意見表明』から。

「現実はどこにいようと『隅(コーナー)のないオセロ』なのだと思います。一気にどんとひっくり返せるような魔法はなく、一個ずつ地道に反転させていくしかない。現在、私はそう思っています」

 

2013年4月15日 (月)

「現場でやってみて、まずいと分かったら、すぐに直せるシステムじゃなきゃいけないんと思うんです」

前々回のブログ(4月11日)では、「忘却」「忘れる」にまつわることばを並べた。この週末、たまたま建築家の隈研吾さん著書『建築家、走る』を読んでいたら、「忘れる」についての言葉があったので、それも追加として載せておきたい。

「東日本大震災後、『これからどういう建築を建てたいか』ということを、いろいろなインタビューで聞かれました。僕が建てたいのは『死』というものを思い出させてくれる建築のことです」

「関東大震災以前の、日本の木造の街は『死』と共存していました。なぜなら木の建築は、生物は必ず死ぬものだ、ということを教えてくれるからです。変色し、腐っていく木を見ながら、ああ自分もこうやって死ぬんだな、とゆっくり感じることができる」

「一方、コンクリートや鉄でできたピカピカの建築を見ていると、生物が死ぬこと、自分が巣にことを忘れてしまいます。20世紀のアメリカ人は、ディズニーランドのような、死を忘れさせてくれる建築で都市を埋め尽くそうとしました。日本人もそれを真似て、死と近くにいた日本の街も、今やすっかり死から遠くなってしまいました」
 

「死を忘れるとは、自然を恐れなくなることと同じ意味です。死を忘れ、自然を恐れなくなると、どんなにあぶない海際にでも、平気でコンクリートや鉄の建築を立てるようになる。原発がどんなに増えても、気にならなくなります」 (P172)

前々回のブログで触れた中島岳志さんやいとうせいこうさんの言葉とも重なる。もしかしたら、今行われている東日本大震災の復興事業というのは、大がかりなプロジェクトとして進められているが、それは急いで「死」を封じ込めようとしているもののかもしれない。 

社会学者の山下祐介さん著書『東北発の震災論』で、書いていた次の言葉を思い出す。 

「『復興』を進める事業のためには、人の暮らしはどうなっても構わないという力学が生まれているようだ」 (P269) 

本来、「人の暮らし」と「死」とは切っても切れないものなのだろう。 

もうひとつ。ちょっと前の毎日新聞夕刊(3月14日)で、隈研吾さんは次のように語っていたのも思い出す。 

「木造って、いったん建てた後でも自分たちの暮らしの変化に合わせて壁の位置を変更したり、絶えずちょこちょこ手直しできるでしょ。あの発想、やり方がいい。一方コンクリート建築は改造が困難で壊すのに大変な労力がいる」

これからの時代は頭の中で考えた抽象的なものではなく、現場でやってみて、まずいと分かったら、すぐに直せるシステムじゃなきゃいけないんと思うんです」
 

このブログの最初の頃は、システムについて考えさせてくれる言葉や文章をよく並べていた(2011年11月24日など)。既存のシステムについては、一気に変えることよりも、少しずつ手直ししうる「更新」する作業の方が大切じゃないかという指摘をしたつもり。上記の隈さんの言葉は、それにも通じる。

2012年7月 7日 (土)

「システムを変えることで個人が変わる時代は終わっている」

さらに追加分その②

先月の初め(6/7)の文章では、大阪市の橋下市長の「仕組みがわるい」というコメントを引いて、「仕組みさえかえることだけに興味を持ち、その仕組みで何をするかを考えない政治家が多いのではないか」というような内容についても長々と書いた。

 

その内容に関することで、以前読んだ村上龍氏の『寂しい国の殺人』という本にあったフレーズを追加として載せておきたい。

 

「『これからの日本をどう変えていけばいいのか』などと言っている人を私は信用しない。そんなたわけたことを言う前に、まずお前が変われ、といつも思う。システムを変えることで個人が変わる時代は終わっている」

改めて書いておく。システムを変えたとしても、個人、そして社会が自動的に変わるわけではないのである。

2012年6月 7日 (木)

「とにかく仕組みが悪い」

きのう上方落語協会の会長である桂三枝さんが、大阪市長の橋本徹氏を表敬訪問しえて、その話の中で、文楽への補助金削減について、やんわりと批判したということがニュースに載っていた。

この橋下市長は、今年の4月に文楽を視察し、こんなコメントをツイッターに載せている。(4/17)

 

「僕は僕の感覚で、『今のままの公演だったら、二度と見に来ない』と言った。それの何が悪い?客が公演をどう評するか、客に自由があるのが芸事の公演だ。僕は今の仕組みのままでは文楽は絶対に根付かないし、振興しないと思った。とにかく仕組みが悪い」

 

ここでは、文楽の問題については敢えてスルーするが、ボクが注目したいのは「とにかく仕組みが悪い」というフレーズである。

 

最近、「仕組みを変える」というニュアンスを口にする政治家は多い。期待される政治家ほど、口にしている気もする。

 

でも所詮、仕組みは目的達成のための「方便」でしかない。大切なのは「目的」そのものである。当たり前のこと。そもそも仕組みを変えても、それが未来永劫、良い仕組みであることなどありえない。常に状況は変わる。その都度、仕組みをいぢることばかりしていると、やがて「いぢる」ことが目的となり、何のための仕組みなのかを忘れるのが人間の常ではないだろうか。養老先生が言うところの「システム問題」というやつ。

 

政治家の発する「仕組み」というコトバに違和感を持った初めは、1年半ほど前に新聞を読んでいたときのこと。当時、「仕分けの女王」なんて呼ばれていた蓮舫・行政刷新担当大臣の次のようなコメントが載っていた。(朝日新聞2010年10月30日)

 

「この国の仕組みを変えられるのよ。こんな楽しいことはないじゃない」

 

少しだけ彼女を直接、知っているのだが、このコトバは、非常に彼女らしいと思った。目の前にある、問題ある仕組みを変えることには非常に興味を持つ。ただ、その仕組みを変えて、どんな社会を作るのか。どんな社会を作るために、その仕組みを変えるのか。その時の新聞記事には、そんなことは全く書かれていなかった。

 

彼女は、目の前に与えられる課題をクリアするのは得意なのだろう。例えば、選挙。しかし選挙で大量得票した結果、期待される政治家として、どんな社会を作っていきたいのか。「ママフェスト」というキャッチコピーは耳に届いたが、彼女の訴えるコトバから、「どんな社会を作りたいのか」ということは聞こえてこなかった。

 

精神科医の斉藤環氏は、大阪の文楽問題を受けて、橋下氏に対するこんなコメントを毎日新聞にしていた。

 

「橋下氏さんは、目の前にある課題を変えるという『短期的な正当性』の主張ばかりで、政治家に求められる理念をじっくり語ったり、将来あるべき社会の姿を議論するということがない」

 

つまり目の前の「仕組みを変えること」には興味あるけど、「将来あるべき社会」を考えることはしない。そう意味で蓮舫氏は似ていると思う。

 

長くなるが、他の政治家にしても同じではないか。

 

先日、吉田修一さんの小説『太陽は動かない』を読んでいたら、その中で登場人物の国会議員と秘書のこんなセリフが書かれていた。

 

民主党代議士の五十嵐拓(1回生)のセリフ


「私は、日本という国を良くしたいと思って政治家を志しました。一人でも多くの国民に幸せになって欲しい。この気持ちに嘘はありません。しかし国を良くするには議員たちが官僚たちを動かす必要がある。そして、そのためには金がいる。そして私自身が強くなりたい。そのためにも金がいる。私は強くそう感じています」
(P185)

 

その代議士が心変わりしたとき、その秘書、丹田康祐のセリフ


「あんたなら、良い政治家になれますよ。でも、もう分かったじゃないですか?この何年かの間、一緒にやってきて思い知らされたじゃないですか。良い政治家なんてなんの役にも立ったないんですよ!力のある政治家が国を動かせるんだ!」

 

まあ分かりやすいセリフである。でも、こう思っている政治家は実際に多いと思う。国を変える力を得るため、「金」や「有権者」の数を集める仕組みづくりに躍起になる。やがて、その仕組みづくりが目的化して、その仕組みさえ手当てしていれば、いいという状況に陥っていく。

 

でも、本当に「金」があれば、政治家は自分が思う方向へ国を動かすことが出来るのか。金を持ち、そしてトップに立った鳩山由起夫氏は、どうだったか。では、金を集め、選挙に強い小沢一郎氏は、どうか?おそらく小沢氏も、鳩山氏も、「どういう社会を作りたいか」をちゃんと持っていたはず。ただ最近の彼らを見ていると、政治が動く中、自分の影響力をキープすることを目的化してしまっているのではないだろうか。素人ながら、そう思うのである。

我々は、ここ十数年で、小選挙区導入や、政権交代による二大政党など、政治の世界だけでも、大きく仕組みを変えてきた。仕組みを変えた結果として、政治の世界は良い方向に変わったのだろうか。我々の社会は・・・。現段階では、小選挙区導入や二大政党など仕組みを変えたことは良しとしよう。何度も書くが、大事なのは、その変えた仕組みによって、どんな社会をつくっていくかなのである。

2012年5月 8日 (火)

「『考える』という営みは既存の社会が認める価値の前提や枠組み自体を疑うという点において、本質的に反時代的・反社会的な行為です」

前の回で「法律を踏み越えなければならない場合がある」という話題について、つらつら文章を並べてみたけど、去年の3月、立教大学大学院の卒業式で 卒業生に向けて総長の吉岡智哉さんが語ったコトバにも通じる部分があるので、その一部も記しておきたい。

「既存の価値や思考方法を疑い、それを変え、時には壊していくことが『考える』ということであるならば、考えるためには既存の価値や思考方法に拘束されてはならない。つまり、大学が自由であり得たのは、『考える』という営みのためには自由がなければならないことをだれもが認めていたからに他ならない。大学の『自由』とは『考える自由』のことなのです」

「『考える』という営みは既存の社会が認める価値の前提や枠組み自体を疑うという点において、本質的に反時代的・反社会的な行為です」

さらに、

「皆さんが、『徹底的に考える』という営為において、自分が『社会的な異物』であることを選び取った存在だということです」

「考える」ということには、今の前提・枠組み、すなわち法律をも含むルールや規則そのものなどを疑うことを含んでいる、ということなのである。我々の社会や市民を存続させていくために、今の枠組みを疑うことが必要ということである。

前回引用した社会学者の宮台真司さんは、以下のようにも語っている。

合理的であることに意味がある社会の存続には、合理性の枠外で振る舞える存在が必要で、それが政治家だというのがウェーバーの主張でした。人が重要だということ」

つまり、政治家だろうが何だろうが、自分たちの社会を存続させ、人々を守っていくためには、社会の枠組みや前提を変え、踏み越えていく必要がある。そのためには『社会的な異物』となって『徹底的に考える』ことを続けなければいけないということなのであろう。

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