リベラル・自由

2014年9月 1日 (月)

「自由を担いきれないので、自分から手放してしまう人たちがいると。手放した人たちにとっては、自由を求めて抵抗している人がうっとうしい。なので、その人たちを攻撃してしまう」

最近の社会の「キナ臭さ」について。前回のブログ(8月30日)の続き。

さいたま市の俳句掲載拒否問題について、俳人の金子兜太さんは、埼玉新聞(8月17日) のインタビューで次のように語っている。

「どうしてこの句が問題なのか、ぜひ教えてほしい。結果として政治的な意味をお役人が持たせたのは、ご自身がご時世に過剰反応しただけ。作者としては当たり前の感銘を詠んだ句で、お役人に拡大解釈され、嫌な思いをしてお気の毒」

「こんな拡大解釈のようなことが、お役人だけでなく社会で行われるようになったら、『この句は政府に反対する句だから駄目』などと、一つ一つの句がつぶされる事態になりかねない。有名な俳人だけでなく、一般の人たちも萎縮して俳句を作らなくなる。俳句を作る人の日常を脅かすもので、スケールは小さいが根深い問題だ」


過剰反応、拡大解釈、忖度…、そして委縮。その結果、「俳句」が作られなくなる。

「国分寺まつり」で護憲団体「国分寺9条の会」が今年の参加を拒否されたことに対して、ドキュメンタリー映画監督の想田和弘さんは、ツイッター(8月30日)で次のようにつぶやいていた。

「刻々と、もの言えぬ社会になりつつある」

俳句だけの話でない。もの言えぬ社会がどんどん広がっていく。

どうやって広がっていくのか。それを考えさせてくれる言葉を並べてみる。

いとうせいこうさんは、東京新聞(8月15日)で次のように指摘する。

「自由を担いきれないので、自分から手放してしまう人たちがいると。手放した人たちにとっては、自由を求めて抵抗している人がうっとうしい。なので、その人たちを攻撃してしまう。そうすると、権力がやらなくても、自動的に自由を求める人たちの声がだんだん小さくなってしまう」

「下からの自粛と同時に、大きな権力に便乗するような欲望が動いて、結局はみんなで権力をつくっていく。特に自分たちが得もしないあろう人たちがそれをやって、他人の自由や良心を手放させていくことに快感を覚える時代になっちゃっている」


そうやって、息苦しい、キナ臭い空気が広がっていく。

コラムニストの小田嶋隆さんTBSラジオ『たまむすび』(8月18日放送)で次のように語っている。

「実は言論弾圧と呼ばれていることは、何かを行った人間が警察に引っ張られていくとか、業界から干されるとかいう大げさなことではない。ちょっとある特定の話題に触れると、あとあとなんとなく面倒くさい、ちょっとうっとうしいとか、そういうビミョーなところで起きている。我々が面倒くさがって、スルーしていると、結果として言論弾圧が成功していることになる」

もの言えぬ社会は、足元から…、ということである。

社会学者の森真一さん著書『どうしてこの国は「無言社会」となったのか』より。

「ほんとうはしたくないとみんなが思っているのに、『空気』を壊したりできないから、したくないと声に出せない。そしてしたくない気持ちを隠しながら、したくないことをする。こういったことは、何も若者に限ったことではない。世代に関係なく、『無言社会』日本のあちこちで起きている」 (P38)

まさに、日常社会の些細なことで、みんな言いたいことが言えなくなっている。個々の人たちの言葉が失われていく。

さらに森真一さんの指摘。

「集団が嫌いだから、集団的に行動しないのであれば、話は簡単だ。しかし、日本人の場合、集団は嫌いだが、集団から離れて行動し生活するのは困難だと考えているので、いやいやながらも集団に同調し、集団としてまとまろうとする」

「すると、集団に同調しない者に対しては厳しくなる。自分は嫌でも集団に合わせている。それなのに、どうしてあいつは合わせないんだ。ひとりだけ楽しようたって、そうはさせないぞ、と考えるわけである。『出る杭は打たれる』わけである」 (P109)

まさに同調圧力の構造。強制と忖度を無理強いする社会が完成する。(「同調圧力」

何度も紹介するが、歴史学者の加藤陽子さんの次に言葉につながってくる。毎日新聞夕刊(2013年8月22日)より。(2月13日のブログ

「この国には、いったん転がり始めたら同調圧力が強まり、歯止めが利かなくなる傾向がある」

かつて、このパターンで大きな不幸を生んだ。それを繰り返さないためにも、2つ言葉を載せておきたい。

まずは、社会学者の
宮台真司さん毎日新聞夕刊(5月2日)より。

「『
空気』つまりピア・プレッシャー(同輩集団からの圧力)自体はどの国にも見られます。むしろ大切なのはどれだけ空気に縛られずにあらがえるのか、また空気に流されて起こった悲劇を後世に伝承できるかです。その工夫がこの国には乏しい」


政治学者の宇野重規さん読売新聞(7月27日)より。

「私たちは自分自身の歴史から切り離されている。戦後とは巨大な忘却の課程であり、いまこそ、私たちは自らの過去をふりかえらなければならない」




2013年9月17日 (火)

「自由であるためには孤立しなくちゃいけない。例外にならなくてはいけないんです」

前回のブログ(9月13日)では、「水を差す」という行為についての言葉を並べてみた。山本七平さん「『空気』を排除するため、現実という名の『水』を差す」ことが必要と指摘しているにもかかわらず、実際、今の時代や社会では、この「水を差す」という行為が、排除や炎上の対象となってしまう。「水を差す」ことがやりにくくなっている中で、我々は何ができるのだろうか。今回は、そのヒントとなるような言葉を探してみた。

東愛知新聞の社説(9月1日)には、こんな言葉が書かれていた。 

「大切なことは、もう一つあります。復興や再建、政策転換に取り組む時に『空気を読まない』ということです」 

「求められているのは、しっかりと自分を持ち、『考えたくないこと』でも考えるという『空気の国の習い性』からの脱出です」 

そして、作家の辺見庸さん神奈川新聞(9月8日)の『現在は戦時』と題したインタビューで、次のように語っていた。 

「日本のファシズムは、必ずしも外部権力によって強制されたものじゃなく、内発的に求めていくことに非常に顕著な特徴がある。職場の日々の仕事がスムーズに進み、どこからもクレームがかからない。みんなで静かに。自分の方からね。別に政府や行政から圧力がかかるわけじゃないのに。メディア自身がそうなっている」 

「自由であるためには孤立しなくちゃいけない。例外にならなくてはいけないんです」 

そして、詩人の荒川洋治さん朝日新聞夕刊(9月10日)で、東日本大震災後、大量に書かれた震災を主題にした詩や歌や、現代詩について、次のように語っている。 

「被災者への共感がないと誤解されかねないので、『震災詩』を批判するのは難しい。ただ、翼賛的な空気の中で詩人たちが戦争を肯定する詩を書いてしまった苦い歴史もあり、批評は大事」 

「80年以降、現実世界を否定するよりも、目の前の快楽が重視されるようになり、詩も社会性を失っていった」 

批評の欠落、目の前の快楽の優先。これは、前回紹介した「saraband」という方の、ツイッター(9月9日)での指摘と重なるように思える。そちらを、もう一度、書いてみる。 

「クリティカルな欠点を覆い隠したうえでなりたっている、多数派の多幸的な雰囲気、空気、これは、知的ではなく、感情的な論理である。比較的多数の、空気にのって楽しんでいる多数派は、それに水をさされると、感情的嫌悪感で反応してくる。『キモい、怖い、マゾ』であり、排除である」

目の前の快楽を優先する多数派が作り出す「空気」。それに対して、どうしたらいいのか。荒川洋治さんは、詩人として次のように語る。 

「世の中の一般的な論調には同化せず、詩を書く立場からしか見えないことや感じとれないことを書く」 

「詩の言葉は少数の人に深く鋭く入っていくことに意味がある。詩人がみな多数派を志向したら、表面的な心地よい言葉が愛され、深く考えて発せられた言葉が軽んじられる危険がある。ぼくは自分の詩は50人くらいに読まれれば十分と思っている。読む人が多すぎると表現の穴を見つけられるという恐怖感もあるのだけど」

辺見庸さんも、荒川洋治さんも個人的に大好きな方である。

「空気を読まない」「考えたくもないことでも考える」「孤立する」「例外になる」「一般的な論調に同化しない」「少数の人に深く鋭く入る」。こうしたフレーズは、我々が今すべきことの大切なヒントになっていると思う。


2013年5月 2日 (木)

「世界を牛耳っている勢力が怖いのは、得体のしれない有象無象がとびきり面白いことをすることだ」

今日は、「辺境」についての言葉を並べてみたい。

まずは、東京新聞について。東京新聞は、去年10月にその「原発事故取材班」が、第60回菊池寛賞を受賞しているが、最近、トンガった紙面展開が目立つ。原発問題だけでなく、待機児童や自転車の問題など、社会的な「弱者」に関わるニュースを思い切って第一面に持ってきたりもする。主要新聞の中で、なぜ東京新聞だけがトンがれるのか?そんな話を東京新聞の人にしたら、彼は「本社のある名古屋から、離れた東京に位置することが大きい」と指摘。名古屋の中日新聞社から見れば、という東京という離れた場所にあるから、いろいろ「言い訳」ができる。僕は「辺境」としての強みなのだ、と理解した。 

作家の村上龍さんと、ミュージシャンの坂本龍一さんも、対談本『村上龍と坂本龍一』の中で、次のように語っている。 

坂本 「ま、いま東京新聞やいくつかの地方新聞はがんばっていると思うけど」 

村上 「それはテレビ東京と同じで、いばってないからがんばれるんだよ」 

坂本 「うん、まさにそう思う。東京新聞も地方新聞も図体が大きくなるといろんな圧力がかかって、広告を出さないぞとかになってくる」 

村上 「そう。それにいまはマイナーな存在だから、虐げられている人の気持ちがわかるんだよね」 (P15) 

中央でなく辺境、そして、メインでなくマイナーな存在だからこそ、しがらみや圧力がなく、新しいことができる。そんな場所が「辺境」なんだと思う。 

例えば、ラジオというメディアの良さもそこにある。批評家の荻上チキさんは、TBSラジオ『デイキャッチ』(4月12日)で、次のように話している。 

「ラジオは実験場みたいな所がある。テレビに出れないお笑い芸人の実験場であるかもしれないし、論客にとってもそうかもしれない。実は次の時代に必要となるオピニオンとか、メッセージの実験場でもあったりする。そういう玉石混交の場として、ラジオ、そしてネットもこれから必要なメディアだと思う」 

ラジオは、テレビから見れば「辺境」かもしれない。でも、だからこそテレビにはない「リベラルさ」が存在していたりする。

思想家の内田樹さんは、「辺境」について次のように書く。著書『日本辺境論』から。 

「はるか遠方に『世界の中心』を擬して、その辺境として自らを位置づけることによって、コスモロジカルな心理的安定をまずは確保し、その一方で、その劣位を逆手にとって、自己都合で好き勝手なことをやる。この面従腹背に辺境民のメンタリティの際立った特徴があるのではないか、私はそんなふうに思うことがあります」 (P67) 

玉石混交の場としての「辺境」。好き勝手なことができるから、新しい価値観や、将来の中心を担うべき存在が生まれてきたりするのだろう。

建築家の隈研吾さんは、著書『建築家、走る』に、こんな言葉を載せている。 

21世紀の建築をリードするのは、中心でなく辺境です。中央に迎合しない辺境の心意気が、21世紀の建築をリードしていくのです」 (P154) 

ただ、この「辺境」とも呼べる場所や空間が、いま日本の社会から急速に失われているのも確か。 

社会学者の開沼博さん。最近出した著書『漂白される社会』で、「周縁的な存在」という言葉を使って次のように書いている。 

法や制度、慣習、社会的な規範とは、まったく異なる原理の中で生きる人々や集団。そこに存在する何らかの特権を軸に、一見すると傍流であり、また低俗でもあるようでいて、人々の魂を揺るがすような文化や社会現象を生き生きと作り続けている人や場所が、現代社会にも存在してはいないか。そして、それこそ、本書で追求すべき『周縁的な存在』なのではないか」 (P16) 

ここで言う「周縁的な存在」とは、まさに「辺境」のことであろう。 そして次のように書く。 

「現代社会とは漂白される社会だ。『漂白』とは、『周縁的な存在』が隔離・固定化、不可視化され、『周縁的な存在』が本来持っていた、社会に影響を及ぼし変動を引き起こす性質が失われていくことを示す。これは、物質的なことに限ることなく、精神的なものにも至る。それは、これまで社会あった『色』が失われていこうとする社会であるとも言える」 (P400)

さらに、開沼博さんは、TBSラジオ『たまむすび』(4月26日)で、この本で書きたかったことについて、次のように語っている。

「こういう猥雑なものとか、社会を周辺、端っこの方にありそうなものというのが、実は社会を面白くしている。社会を良い意味で喚起していると思う。そういう喚起する機能が、喚起する役割がどんどん抑え込まれているんじゃないの。つまんなくなっているんじゃないの。ということが言いたかった」 

では、なぜ「辺境」がなくなっていくのか。埼玉大学大学院教授の水野和夫さんは、 ビデオニュース・ドットコム『「経済成長」という呪縛からの解放』(2月22日)で、次のように話している。

「帝国の定義は国境線を画定しないことですので、常に辺境をあいまいにしておく。そうすると今のグローバリゼイションはなにが起きたかというと、技術革新で地球を全部覆い尽くして、ついに辺境がなくなった。フロンティアが失われたということ」
 

翻訳家の池田香代子さんの次の指摘も紹介したい。雑誌『世界』(2012年7月号)から。 


「世界を牛耳っている勢力が怖いのは、得体のしれない有象無象がとびきり面白いことをすることだ」
 

逆に言えば、現在のリーダーや、現在の価値観を守りたい勢力は、玉石混交で、好き勝手やって、新しい価値観が生まれてくる場所である「辺境」をできるだけ、社会の中から奪っていきたいと考えるに違いない。 

だからこそ、我々はなんとかして「辺境」的な場所や空間、存在を守っていき、そして新たに作っていかなければならないのだと思う。



2013年2月13日 (水)

「究極の目的は、自由の獲得だと思っています」

体罰にまつわる言葉が続く。

今週月曜日の毎日新聞(2月11日)に掲載された『告発の真相』という特集記事の中で、柔道の山口香さんは、次のように語っていた。 

「欧州ではスポーツで何を学んでいるかといえば、自律です。やらされるとか、指導者が見ている、見ていないとかではなく、ルールは自分の中にあります。ゴルフがいい例で、スコアはセルフジャッジ。ラグビーやテニスも近くに監督はいません。自律と自立を併せ持つ人づくりにスポーツが有用とされており、それこそ成熟したスポーツと言えます」 

内田樹さんの著書『荒天の武学』を読んでいたら、次の言葉が書いてあった。上記の山口さんが指摘する「欧州の価値観」とまさに正反対である。この本の編集は、大阪の桜ノ宮高校の体罰問題の前である。 

「今の日本人が失った最たるものは、その自己規律ですね。外的な規律は、違反すると処罰されるから、恐怖ゆえに違反しない。でも、処罰への恐怖だけで規律を守っている人は、規律が利かない場面、処罰の恐れがない場面では、いきなり利己心や暴力性を噴き出してくる。これは本当にそうですね。外的規律の厳しい集団で育てられた人ほど、無秩序状態のときにでたらめな振る舞いを始める。自己規律が内面化された人は、外的な規律や処罰の有無とは無関係に、自分で決めたルールに従って行動する」 (P234)

インターネットの放送局「ビデオニュース・ドットコム」でも、『体罰は愛のムチか』(2月9日放送)と題して、社会学者の
宮台真司さんんと精神科医の斎藤環さんが対談をしている。その中の、次の会話も重なってくる。 

(宮台) 「日本の場合、共同体の暴力は必ず内に向いて、外に対しては逆にとても従順なんですよ」

(斎藤) 「体育会系の人の謙虚さは、対外的には『みなさんのおかげで』というように謙るじゃないですか。で内向きには、俺が殴ったおかげで勝てたんだというようなことを平気で言うじゃないですか。これはまさに表裏一体の問題なんだなと思う」


常に外的規律で動き、自己規律(自律)が育たない世界。これは、内田さんが説くように、部活やスポーツだけの話ではないのだろう。暴力ではないが、会社などで行われる「コンプライアンス重視」という傾向も外部規律重視ということでは同じなのではないか。また「ルールがなければ、何をやってもいい」ということでは、ホリエモンのライブドア騒動などを思い出したりもする。

出前でサッカーコーチを行っているという池上正さんは、朝日新聞(2月1日)のインタビューで、次のように語っている。

「ああしろ、こうしろと指示してばかり。従わないのは『ダメなやつ』と烙印を押す世界では、いい選手は育ちませんよ」 

さらに池上さんは「スポーツの魅力とは?」という質問に対して、次のように答えている。


「究極の目的は、自由の獲得だと思っています。最初はみんなが自由になると、たとえば私が左に動いたときに他にも左に動く人がいて、重なって不自由になります。でも、そういう不自由な経験をいっぱいすると、仲間が左に動きた瞬間に自分は右に動くことが自然にできるようになる。お互いに認め合う関係ができるわけです。本当に自由にやって勝てるほど楽しいことはない。そのためにはコーチも選手を自由にしてあげないといけません」


「自由」とは「自己規律(自律)」とセットなのかもしれない。この池上さんの「究極の目的は、自由の獲得だと思っています」というセリフは、県立浦和商業の教員、平野和弘さんの「自由を獲得するために教育はある」(2011年10月12日のブログ)というフレーズとそのまま重なる。

2013年1月12日 (土)

「一回どこかで関係ないよって離れないといけないのかなと思っています」

大阪市立高校の17歳のバスケットボール部主将が自殺した問題について新聞やネットの記事を読み込んでいる。今朝の朝日新聞(1月12日)に載っていた元プロ野球選手の桑田真澄さんのインタビューが、やはり心に残った。

私は、体罰は必要ないと考えています。『絶対に仕返しをされない』という上下関係の構図で起きるのが体罰です。監督が采配ミスをして選手に殴られますか? スポーツで最も恥ずべき卑怯な行為です」

「指導者が怠けている証拠でもあります。暴力で脅して子どもを思い通りに動かそうとするのは、最も安易な方法」 

この「暴力で脅して子どもを思い通りに動かそうとする」という指摘は、前回のブログ(1月11日)に書いた「政治家の方々は、すべてをコントロールできると考えているのではないか」ということに通じているように思える。 

少し話は飛ぶが、その政治家である大阪市のトップ、橋下徹市長は、知事時代(2008年10月26日)には、口で言って聞かないと手を出さないとしょうがない」と発言するなど、かつて体罰を容認している。 

その橋下氏は、今回の事件では、市長としては、「こんな重大問題を教育委員に任せておけない」「市教委がどれだけ神経質になって調査したのかをしっかり調べていく」と発言して、市教育委員会の対応を厳しく批判している。いまのところ体罰そのものを否定するのではなく、あくまでも市教育委員会という仕組みの問題という考え方のようである。「仕組みが悪い」と言って、彼が何でも仕組み・システムのせいにしがちなことについては、以前のブログ(2012年6月7日)に書いたことがある。 

と、書いたところで、ラジオのニュースを聴いていたら、今日、橋下市長は、これまでの「体罰容認」について、「認識が甘かった。反省している」「教育専門家らの意見を聞き、スポーツ指導で手を上げるのは前近代的で全く意味がないと思った」と語ったとのこと。正直、「今更」と思わなくもない。少なくとも、容認してきたこの4年間、今回の事件を含め、体罰をめぐる不幸な事件はいくつか起きているはず。それについての自らの責任については、ちゃんとコトバにして欲しいと思う。 

話は、戻る。最初に書いた桑田真澄さんは、以前にも朝日新聞(2010年7月24日) で、体罰についてインタビューに答えている。 その時は、次のフレーズが印象に残った。 

「理不尽な体罰を繰り返す指導者や先輩がいるチームだったら、他のチームに移ることも考えて下さい。我慢することよりも、自分の身体と精神を守ることの方が大切です」

今回自殺した17歳の少年も、親に「部員の信頼を失うので『キャプテンを辞めたい』とは言えない」と言っていたように、主将を辞められなかったり、チームを移れない様々な理由があったに違いない。高校生なりに、人間関係や立場、親に心配かけたくないなど色んな事情を抱えている。でも自殺という「死」を選ぶくらいなら、そういう選択肢もあるのに、とは思くはない。なぜ、最悪の選択肢を選びとってしまうのか。

ランニングコストというのは、お金のことだけでない。人間関係とか色んな事情を、生きるための「コスト」として抱え込み、それによって自分の選択肢を狭めてしまう。それは、年末のブログ(2012年12月25日)で触れたサラリーマンの姿にも重なる。 

上記の桑田さんの他のチームに移ることも考えて下さい」というフレーズを読んだとき、思い出したコトバがいくつかある。まずは、自殺対策支援センター「ライフリンク」代表の清水康之さんが、毎日新聞(2012年9月6日)で「いじめ」について語っていたコトバである。 

「いじめを受けている子は、仕組みから出てしまえば、いじめは成立しないと知ってほしい。まず退避して、どう生きるかは後で考えてもいい。教室も日本もちっぽけなものだ」

正確には「いじめ」と「体罰」が違うのかもしれない。しかし今、自分が身を置く「仕組み」の外に出てみると、新しい世界が見えてくるというのも、ひとつの真理なのかも。 

同じような文脈で、建築家の坂口恭平さんは、朝日新聞(2013年1月10日)で次のように語っている。 

「社会を変えるためには1回はずれなきゃいけないんですよ。でもみんな円がないと怖いという妄想にとらわれすぎている」

ちなみに、ここに出ていくる「円」とは、お金のこと。お金や今の立場を失うことを恐れるのではなく、思い切って外に出てみることで環境を変え、そして身軽になって、社会を変える。ライフスタイルの「断捨離」である。

さらに作家の高橋源一郎さんは、雑誌『文学界』(2012年3月号)に、こんなコトバを残している。 

「結局のところ僕たちが生きている世界の中で何かがうまく回っていないのは、思うに1回他人として遠ざけたうえで選びとることをしていないからじゃないか。考えてみると、そこに行きあたる気がするんですね。 

 だからこれからは特に、どうやって何を選びとるのかが大きな課題になってくると思いますが、そのためには一回どこかで関係ないよって離れないといけないのかなと思っています」

大阪の体罰問題の記事を読んでいて、桑田さんのインタビューから連想して思い出したコトバをざっと並べてみた。桑田真澄さん、清水康之さん、坂口恭平さん、高橋源一郎さんのコメントは、どこかつながっているというか、同じことを言っているように思える。 

体罰、いじめ、閉塞感、変わらぬ社会…。そうした今、目の前に存在する問題は、きっと同根なんだと思う。「仕組みが悪い」と言って、その場にとどまる。何とかなる、と我慢を続けた結果、気がつくと「死」という最悪の選択肢を選ばざるを得ない状況に追い込まれている。だったら、その前に思い切って、その仕組み・システムから飛び出してみる。外に出て、離れてみれば、背負っていた複雑なランニングコスト(重荷)から自由になれるかもしれない。そして、そのシンプルな身軽な状態で、改めて自分の道を選びとってみれば、少なくとも最悪の選択肢を選ぶことは避けられる。そんな感じではないだろうか。

2012年12月25日 (火)

「移動費がネックになっている。移動を起こしにくい社会構造になっている」

前回のブログ(12/22)では、色んな大人の事情によってコストがかさんだ結果、気が付いたらチケット代が高価なものとなり、結局、それが観客数減の一因になっているのではないか、という話を書いた。

実は関連しているのではないのか、と連想したことがある。かつて自分がいた職場で、同僚が「お金がない」と口にするのをたまに聞いたりする。彼らもそれなりの給料をもらっていたはずだし、単純に考えて、そんなことはないのでは、と思ったものだ。よくよく聞いてみると、そういう人たちは、住宅ローンを抱え、子供は私立の学校なんかに通い、さらに塾にも通い、そして車の維持費やら生命保険の支払いやら何やらで、毎月、かなり「ランニングコスト」を抱えた生活をしているようである。その結果、家族旅行を我慢したり、わずかな小遣いで我慢したりしている。自分たちで「自由」に使えるお金は殆どない状態なのである。ボクも含めて、日本のサラリーマンなんて、「まるでランニングコストのために働いているようだ」と思ったりしていたものだ。

全く同じような指摘が、建築家・坂口恭平さんの著書『独立国家のつくりかた』に書いてあった。

「35年ローンを組んで、大きな借金を背負って、おかげで働きゃいけなくて、それによって会社、銀行がちゃんと運営できて、『万歳、経済発展!』というのはどこかおかしいような気がする。そんな単純な話じゃないんだよと人は僕にいうのだが、ではどのような複雑なシステムなんですかと聞いても、誰も答えてくれない。つまり、わかっていないのだ。 

 わからないことは、考えて答えを出さなくてはいけない。簡単なことだ。もっと物事を単純に考える癖を身につけよう。そうしないと社会の複雑さには対応できない」 (P31)

サラリーマンが、自分たちのランニングコストのために日々、働き、そのコストによって、社会が回っている。そんな今の社会のシステムについて、坂口さんは批判をしているのである。その結果、我々が失ったものは何なのか。 

多くのランニングコストを抱えたサラリーマンは、仮に会社の方針とぶつかったりしても、当然、会社を辞めるという選択肢などごくごく小さいものになるに違いない。日々のローンや子供の学費が払えなくなる。同様に、多くのランニングコストを抱えた社会は、その数多くの既得権者のため、その社会のスタイルを容易に変えることはできなくなる。まさに原発依存から抜けられない問題の構図が、そうである。 

坂口さんは、こんな指摘もしている。

「この国は移動費が高い。新幹線なんて馬鹿みたいな値段がするし、飛行機のチケットも国内で乗るよりも海外に行ったほうが安い。移動費がネックになっている。移動を起こしにくい社会構造になっている。僕はこれも今の社会の日本の労働環境とリンクしているように感じる」 (P206) 

本当にそう思う。新幹線だけでない、JRや地方の私鉄の運賃の高さに驚くことは多い。ボクノ知り合いは、ゆりかもめの運賃に降参してお台場から再引っ越しをした。鉄道以外でも、ガソリン代も高速料金も日本は以上に高いと思う。そうやって、国内の移動費が高くなっている結果、我々は、移動さえ、「自由」にできない社会で生活していることになっている。これは、野球少年たちが、気軽にプロ野球を観に行く「自由」がないのと通じる。 

我々は、実は、かなり「自由」のない社会に生きてしまっているのではないか。 

確かに、デフレによって安い物は安い。しかし鉄道の運賃、ガソリンの価格、高速道路代、電気代、家賃、映画の入場料、コンサートやスポーツ観戦のチケット代など、国際的にみても日本では割高というものはたくさんある。安部政権になって、インフレ目標導入した場合、これらも更に値上がりしてしまうのだろうか。 

いつの間にか、ボクたち自身や、社会そのものをガンジガラメにしている「ランニングコスト」。もう一度、それによって失っているものにも目を向ける必要があると思う。 

ランニングコストが少ない社会とは、どういう社会なのか。作家の高橋源一郎さんは、内田樹さんとの対談集『どんどん沈む日本をそれでも愛せますか?』で、訪れた山口県の祝島について、次のように語っていた。 

「結局、何にお金がかかるっていったら、医療とか、そういうこと。それにはあんまりお金がかかんないだよ。祝島では。お金がかかるシステムにしているから、貧困はまずいってことになる。だったら、お金がかからないシステムをつくった方が合理的だっていう話になるでしょ?そういう意味では祝島の人たち、極めて合理的なんだよね。だから、知恵がある、っていうこと」 (P241) 

祝島では、原発反対運動によって、地域コミュニティーをはぐくんだ結果、医療費などがかからなくなり、その結果、例え「貧困」であってでも「自由」に生活できる環境があるというのだ。これが示唆することは大きい。都会のサラリーマンは、全くの反対を行っている。将来の「貧困」を恐れ、ますます「ランニングコスト」がかかる生活を強い、結果、「自由」を失う。きっと、そんな生活は「合理的」ではないのである。

2012年12月22日 (土)

「もっと野球ファンが球場に足を運べる料金設定にする必要がある」

ネットでプロ野球、中日ドラゴンズの山井大介投手が今週の水曜日(12/19)に行った契約更改のあとの会見のコメントを読んで、いろいろ思うことがあったので、そのことについて書いてみたい。

まず山井大介投手は、交渉の場で球団と語った内容について次のように語っていた。

「チケット代をもう少し抑えた方がいいんじゃないかと話をしました。家族4人で交通費や食事も入れると4万円ぐらい。ちょっとした旅行ですよ」

ボクも、年に何回か、子供をプロ野球観戦に連れて行くことがあるので、この意見には大きく肯首する。

最近、プロ野球にしろ、Jリーグにしろ、観客数が伸びないという指摘をよく耳にする。そして「もっと魅力的な試合内容の試合を増やさない」と言う声が多い。本当に問題は野球内容だけだろうか。メジャーリーガーが増えたからだろうか。ドラゴンズの前監督の落合博満氏は、十二分の実績を残していたにも関わらず、「ファンサービスが足りない」ということを一因にされ監督をクビになった。後任には、選手たちにファンサービスを全面に押し出すことを求めた高木守道氏が就任した。ファンサービスを充実させ、終盤までジャイアンツと優勝争いを繰り広げたが、結局、ドラゴンズの今シーズンの観客数は減っている。

もちろんスポーツの世界である。シーズンの結果やファンサービスも重要である。が、その一方で、チケットの高額さをもっと指摘してもいいのでは、とずっと思ってきた。

例えば、レギュラーシーズンの東京ドーム。立見席なら大人1000円、小中学生500円。でも子供を連れて行って、立ち見とはいかない。外野席は2000円、3階席だと2300円だが、小さい子供には遠すぎて、よく見えない。なのであまり試合に集中できない。ちゃんと近くで見せようと思うと、少なくともA指定になる。チケット料金は、5200円(S指定5900円)。立見席以外に、子供料金設定はない。

ちなみに今日の新聞に、3月に日本で行われるWBC予選の福岡ドームのチケット代が掲載されていた。一番高い席で、1万4000円。なんと最も安い外野席でも4000円。内野のS指定が1万円、A指定で8000円である。高い。驚くほど高い。実は、先月、福岡ドームで開催された日本対キューバの親善試合でも、ほぼこれに近い値段設定がされていた。その結果、当日の観客席は、1万7468人にとどまり、かなりの空席が目立った。たぶん本番では観客席は埋まるだろう。でも、高すぎないか。山井投手のコメントじゃないが、今や格安チケットを使えば、海外にだって行けそうな値段である。

さらに家族で野球に行った場合は、人数分の入場料だけではすまない。ビールは600~800円するし、カレーも800円、弁当だって1000円くらいする。このデフレ時代に、とびきり美味なわけでもないカレーに800円を払うというのは、野球場か、スキー場くらいではないだろうか。財布の紐が堅くなるのも当然である。コンビニだとビール100円、弁当400円で買えるわけだから、みんな持ち込むことになる。

国際的に見て「高い!」と言われる映画ですら通常料金で、大人1800円、子供1000円。それで2時間楽しめる。ツタヤでも行けば、2時間楽しめる映画が、今や100円で借りられる。そんな中、やはり、子供で5000円オーバーの価格設定はあり得ないと思う。実生活でも、本当なら少年野球の練習終わりに、その子供たちを何人か、東京ドームに野球観戦にでも連れて行ってやりたいと思ったりもするが、この値段だとそうもいかない。入場料、交通費、弁当代、飲み物代、そしてお土産などを買ったら、総額はどのくらいになるのだろう。野球人気がジリヒンなのは、こんな所にも理由があると思う。


実際に野球界の中からも、高すぎる入場料金については疑問の声が出ているようである。楽天イーグルスのオーナー代行、井上智治氏は、WBCの入場料金について、次のように語っている。(11/19)


「もっと野球ファンが球場に足を運べる料金設定にする必要がある。サムライを応援してもらうことが大切だから」

素人考えで思うのは、どうせなら、できるだけ安い料金設定にして、なるべく多くの客を集め、大声援の前で選手をプレーしてもらった方が、選手たちも気持ちいいし、実力も伸びるのではないか。特に、子供の場合は、今、スタジアムに通い、生観戦ならではの野球の魅力を知れば、この先、数十年に渡って野球界を支えてくれるわけだし、その子供の中から新たなヒーローも生まれてくるに違いない。

放映権料や人件費、維持費、警備費など、いろんな事情があっての入場料設定なのだろう。だけど、こうした色んな事情がつもりにつもった結果、ファン層の先細りを招いているのではないか。ただ同じような問題は、球団経営にも起きている。プロ野球の経営評論家という坂井保之さんの、こんなコメントが雑誌『新潮45』(5月号)に載っていたのを思い出した。

「野球界を取り巻く環境の厳しさに、もう一つ昔より、うんと経費がかかり出したこともある。主として管理コストもそうだが、人件費がある」

選手の人件費はもちろん、いろんな事情でコストが上がり、首がまわらなくなる。結局、こちらも膨大な「ランニング・コスト」が球団経営を不自由にして、圧迫しているということになる。ドラゴンズの落合監督も、勝ち続けた結果、監督やコーチの人件費が上がり続けたことが、首脳陣交代の要因の一つとも指摘されている。サッカーでは、イギリスのマンチェスター・ユナイテッドのファーガソン監督は四半世紀も監督を続けているのに。きっと日本における、ランニングコストを生むシステムや認識が特別なのではないかなどと勘繰りたくなる。

こちらは映画の世界の話ではあるが、映画料金について、映画ジャーナリストの斉藤守彦さんが著書『映画館の入場料金は、なぜ1800円なのか?』で次のように指摘している。

「映画産業からも、何かにつけて自分たちの利益を優先するという不動産業的考え方が非常に強く感じられる。いわゆる『企業利益』『業界利益』を何より重視し、時にそれが『消費者利益』を踏みにじってまで優先されるのが、現在の映画産業においても、そのまま見られるのである」 (P201)

スポーツ界も同じような状況にあるのではないか。これまでは右肩上がりの時代、増長するコストをうまく消化して来れたのだろう。そんな時代が終われば、それは身の丈以上のコストとなる。しかし「企業利益」「業界利益」など、色んな「大人の事情」を優先していけば、結局そんなランニングコストが、業界自体の不自由さや硬直化を招き、そしてファンを蚊帳の外に追い出し、その世界そのものをやせ細らせていく。きっとスポーツや映画などのエンターテイメントの世界だけではなく、他の業界や分野にも共通する日本が抱える大きな問題なのではないかと思うのだが。

 

2012年12月18日 (火)

「自由とは自分の感覚がよく利くという状態をさすのだ」

久々にアップした勢いで、もうひとつオマケとして追加する。

前回の文章には入らなかったが、「ミシマ社」という出版社を経営する三島邦弘さんは、著書『計画と無計画のあいだ』の中で、「自由」という言葉を使って、こんな風に書いている。

「いうならば、自由とは自分の感覚がよく利くという状態をさすのだ。逆にいうと、感覚が働く範囲内においては自由でいることができる」 (P246)

「自由」というのは、「自分の感覚がよく利くという状態」のこと。これを読んで、まっさきに思い出したのが、前々回(12/7 )に紹介したピエール瀧さんのコトバである。もう一度、掲載する。

「俺は基本的に自分ことをたいしたことないヤツだと考えている。本来は地元の静岡で適当な会社に入って、結婚し、老いて死んでいくはずだったというかさ。だから、これから先の自分の身に起こることは全部ボーナスで、それはデビューしたことも含めてね。だからこそ、仕事を楽しむべきだし、あぶく銭も使った方がいい。そう考えると緊張というものがなくなるし、アンテナの感度も良くなる」 

「緊張というものがなくなるし、アンテナの感度も良くなる」という感覚。これは、三島さんのいう所の「自分の感覚がよく利くという状態」と通じるものなのではないだろうか。

ああ見えても、きっといろいろ感覚的に考えているだろうピエール瀧さん。これから先、当然起きてくるプラスなことも、マイナスなこともそのまま受け止めながら進んでいく、という「寛大さ」「気前のよさ」「自由さ」。これも、ひとつの「リベラルな境地だ」と思ったりもする。

 

 

「立場が異なっていても、自由に発言したり、共存できる社会、それがリベラルな社会だと私は思います」

選挙が終わった。今回の結果には、当然ながら色んな思いがあるが、個人的に一番強いのが「国会からリベラル勢力が消えた」ということである。自民党では、加藤紘一氏などが落選し、リベラルとか、ハト派と呼ばれる政治家がほとんどいなくなった。社民党は、今や2席のみ。日本未来の党も、わずかに9席。わかりやすくリベラルな政策を掲げていた新党日本も消えた。本来は、中道・リベラルな立ち位置だった公明党も、タカ派自民に擦り寄らざるをえないのだろう。

永田町の国会議事堂が、マッチョとも呼べるタカ派色、一色に染まってしまった、といっても過言ではない状況である。安部氏や石原氏などが「保守」なのかどうかは、また別の機会に個人的な思いを書いてみたいが、とにかく「リベラル」と呼べるような政治家が見当たらなくなった。

ということもあり、「リベラル」や「自由」についてツラツラ考えたりしていた。なので、今回は、自分のメモの中にあった「リベラル」「自由」についての発言をズラリと並べてみたいと思う。過去に紹介したコトバもいくつかあるが、それらを並べることで、自分なりに何かが見えてくればなあと思う。

そもそも、として、「リベラル」は、どういう定義なのだろうか。

以前(7/7)でも紹介したが平川克美氏は、その著書『移行期的混乱』で「リベラル」という言葉について、次のように書いている。

「リベラルという言葉は英和辞典で見ると、『自由な』という意味は四番目にしか出てこないの。一番目は『気前がいい』なんですよ。二番目の意味が『たっぷりある』、三番目の意味が『寛容である』ってでてくる。四番目に『自由主義の』とか、『自由な』って出てくる」

「『人に振る舞ってやる自分こそが自由だ』っていうような広々としたものだったんだと思います」

ちなみに、今ボクの手元にある辞書『新明解 国語辞典 第四版』(三省堂)には、「リベラル」について、次のように書いてある。

「①自由・(寛大)な様子 ②自由主義的」

英和辞典『COMPREHENSIVE』(旺文社)では、「liberal」について、

「①気前の良い ②公平な、寛大な ③たくさんの ④自由主義の ⑤教養的な ⑥自由な」

調べてみて、改めて「リベラル」の意味の広さに驚かされる。

法学者の小室直樹さんの著書『人にはなぜ教育が必要なのか』には、こんな記述があった。

「イギリスでは、自由とは巨大なリヴァイアサン(絶対権力)のような国家権力から人民の権利を守るのだということが徹底していました。それがアメリカに伝わったわけですが、その意識が日本人に全くない。日本においては、自由というと『放埓』という意味になるわけです」

様々なものを押し付けてくる「絶対権力」から、自分たちの権利を守ること考えが「リベラル」の根底にはあるということになるのだろう。

茂木健一郎氏は、その著書『心と脳に効く名言』の中で、こんな風に述べている。

「人生の命題は一つしかない。いかに『自由』になるかということ。それはつまり、どのようにして『無限』を確保するか、ということ」

ここで茂木氏が、使っている「自由」とは、まさに「放埓」の意味ではなく、「気前のいい」「寛大な」「たくさんの」といった意味を持つ「リベラル」という考え方のことではないかと思う。

その茂木氏は、昨日のツイッター(12/17)での『それぞれの現場で、それぞれのことを』と題する連続ツイートで、「保守主義」について、次のように書いていた。

「保守主義とは、人間はそう簡単には変わらないという認識から出発する。領土問題で言えば、日本は自分たちの主張を堂々と述べるけれども、相手国(例えば中国)もまた、自分たちの週中尾を変えることは期待できない、という認識から出発するのが、保守主義というものだと思います」

「人間はそう簡単に変わらないという認識から出発する」。これは保守主義についての分かりやす解説だと思う。

では、これに対して「リベラル」という考え方は、どういうものなのか。

これについては、まずは今年5月にも紹介したが、立教大学総長の吉岡智哉さんが大学院の卒業式(3/24)で述べたコトバを紹介したい。

「既存の価値や思考方法を疑い、それを変え、時には壊していくことが『考える』ということであるならば、考えるためには既存の価値や思考方法に拘束されてはならない」

「『考える』という営みは、既存の社会が認める勝ちの前提や枠組み自体を疑うという点において、本質的に反時代的、反社会的な行為です」

吉岡さんは、この式辞の中では「考える」ことについて述べているのだが、「リベラル」という概念にもそのまま当てはまるのではないかと思われる。そして同じ式辞の中で、次のようにも述べている。

「大学が自由であり得たのは、『考える』という営みのためには自由がなければならないことをだれもが認めていたからに他ならない。大学の自由とは『考える自由』のことなのです」

リベラルという概念と、考える行為は表裏一体、セットなのではないか。「考えるためには自由がなければいけない。自由があるためには、考え続けなければいけない」。そういうことなのではないか。つまり「自由に考える」ためには、寛大でなければならないし、気前がよくないといけないし、多様性がなければならないし、教養的でなければならない。そんな感じでは。

あまり、まとまりはないかもしれないが、「リベラル」と「自由」についてのコトバを並べてみた。

最後に、これも以前(3/1)紹介した言葉だが、経済学者の伊東光晴さんが、毎日新聞夕刊(1/31)で語っていたコトバを載せておきたい。

「スターリン時代のソ連やナチスドイツのように、反対者を許さない異常な社会を作ってはいけません。たとえ、立場が異なっていても、自由に発言したり、共存できる社会、それがリベラルな社会だと私は思います」

2012年7月 7日 (土)

「自分より相手を幸せにする人が、最後は一番幸せになるのだ」

さらにさらに追加分その③。

先日の文章(7/3)には、宮台真司さんの「他人を幸せにする人間だけが幸せになる」というコメントを紹介した。それにからんだ言葉も見つかったので、こちらも追加して載せておきたい。

 

フェラリーなどのデザイナーを務め、今は地元山形を拠点などに活躍する奥山清行さんというデザイナーがいる。その奥山さんの書籍『ムーンショット デザイン幸福論』に彼のデザインに関する話しながら、こんなフレーズをみつけた。

 

「自分が仕事する上で大事にしているのは『自分より相手の方が幸せになる』ということ。幸せという言葉が大げさなら『自分よりも相手の方が得るものが多い』と言い換えてもいい。これは僕らの仕事の最大の前提条件だ


「目先の損得にこだわり、相手に得をさせるのがマイナスだと考えている人は、瞬間的には恵まれることもあるかもしれないが、長期的には必ず損をする。自分より相手を幸せにする人が、最後は一番幸せになるのだ

 

まさに宮台さんのいいたことと全く持って重なっている。

さらに平川克美さんの『移行期的混乱』という本にも興味深いフレーズであったので紹介したい。

 

「リベラルという言葉は英和辞典で見ると、『自由な』という意味は四番目にしか出てこないの。一番目は『気前がいい』なんですよ。二番目の意味が『たっぷりある』、三番目が『寛容である』と。その四番目に『自由主義の』とか『自由な』って出てくる

 

「『人にふるまっていやる自分こそが自由だ』っていうような広々としたものだったんだと思います」

 

ということである。「人を幸せにする人間」は幸せでもあり、リベラルでもあるのである。

 

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