★歴史から学ぶこと

2015年2月17日 (火)

「人間の人生、70年とか80年。70年経つと、実感として戦争を知っている世代がいなくなる。負の遺産とか過ちを忘れてしまう。となると、また戦争を起こしてしまう」

どの新聞も『戦後70年』を考える特集を始めている。

そんな中、たまたま「70年」についてのコメントを続けて耳にしたり、読んだりしたので並べておきたい。

ジャーナリストの上杉隆さんTFM『タイムライン』(1月28日放送)での言葉。

「どの国もそうですが、戦争70年周期という考えがある。人間の人生、70年とか80年。70年経つと、実感として戦争を知っている世代がいなくなる。負の遺産とか過ちを忘れてしまう。となると、また戦争を起こしてしまう。日本も戦後70年経った。またそういう過ちに足を踏み入れつつあるのでは、という危惧がある」

作家の平川克美さんも、自身のツイッター(2月15日)で次のように書く。

「戦後70年というのは、一人の人間の一生の時間で、戦前昭和、戦中を体験として語れるものがほとんどいなくなるということだ。積極的平和主義なんていうのも、戦争を知らない日本人が、戦争について知っているかのように語り始めたところに出てきた」

歴史修正主義が跋扈する背景には、こんなこともあるのだろう。

これは、もちろん日本だけのことではない。内田樹さんは、「イスラム国(IS)」の広がりについて語っている。ラジオデイズ『はなし半分』(2015年2月号)より。

「大きな戦争があって、戦争を備忘するために国民国家を作った。そのストーリーが70年経って賞味期限が切れてきたという感じ」

「生身の身体観が持っていた恐怖心とか、痛みとか、悲しみとかいうものが、物語のエネルギーを備給してきた。それがなくなっちゃうと『こんなんウソじゃん』という話になってしまう」 (14分すぎ)

このブログでは、結局、僕たちが出来るのは「歴史から学ぶこと」「忘れないこと」しかないと、何度も何度も書いてきた。(「歴史に学ぶ・忘却」

昨日、読んでいた本に、スペインの作家で『サラエヴォ・ノート』を書いたファン・ゴイティソーロさんの言葉が載っていた。『不安の世紀から』(文庫版、著・辺見庸)より。

「日本も、ドイツも、スペインも、そしてフランスも、どこの国の国民もどの国家も多くの過ちを隠し持っています。しかしこの過ちは明るみに出さねばなりません。忘却のときは終わったのです。過ちを繰り返さないために、いまや再び過去の過ちをとり上げ、考え直さなければなりません」 (P195)

「人は常に記憶と忘却の狭間に生きているのです。しかし国家や文明の場合は忘却のなかに埋没させることを許してはいけません。歴史をとおして、教育をとおして、過去の教訓を生きつづけさせ、なにかを敵であるとしている歴史の教科書を書き換えなければなりません」 (P195)

どう頑張っても、人の寿命を70~80歳から長くすることには無理がある。

つまり、「戦争70周年期」という考え方を否定するためには、僕たちが出来るのは、ワイツゼッカーの演説を思い出すまでもなく、やはり歴史から学び、忘れないようにすることしかない。

2015年2月 1日 (日)

「外国で自分たちがどう見られているかばかりを考えるべきではない。もっと重要なのは、鏡に映る自分たちの姿に何を見いだすか、だ」

朝6時。NHKラジオのニュースが、イスラム国による人質事件について伝えているのを聴く。悲痛な結果となってしまった。

そのあと伝えられた安倍総理のコメントには、やはり何か引っ掛かりを感じた。

このあとコラムニストの小田嶋隆さんの次の言葉に深く首肯する。自身のツイッター(2月1日) より。

「テロに屈しないことと同様に大切なのは、テロに影響された発言を拡散せず、報復感情にとらわれた決断をしないことだと思います」

ジャーナリストの山口一臣さんは、安倍総理の「テロリストたちを決して許さない。テロと戦う国際社会において、日本としての責任を毅然として果たしていく」というコメントに対して、次のように書いている。自身のツイッター(2月1日)より。


「その前に、最低限、世界の地理と歴史と国際情勢を勉強して欲しい」

その通りだと思う。歴史、地理など、僕たちはとにもかくにもそれらから学ばないと前には進めない。


でも残念ながら、安倍総理の言動や、安倍政権の動きには、そうしたことが希薄である。

のうの毎日新聞(1月31日)では、ハーバード大学の歴史学者、アンドリュー・ゴードン氏が『戦後70年 日本への提言』で、そうした安倍政権の動きに対して次のように語っている。


「一人の歴史学者として懸念するのは、過去を肯定することに国の誇りを求める考え方があることだ。過去の行為を肯定すれば日本の勇気とプライドを守ることになるのか。それは臆病な考え方だ」

「国の誇りとは、謙虚に悔い改め、過去と誠実に向き合うことで生まれるものだ」


きのう、西ドイツ元大統領のワイツゼッカー氏が亡くなった。彼は心に残る言葉をたくさん残している。

1985年5月8日、ドイツ敗戦40周年に連邦議会でした演説での言葉を。著書『荒野の40年』から。(朝日新聞2月1日より)


「過去に目を閉ざすものは、現在にも盲目になる」

「我々は若かろうが年をとっていようが、みな過去を受け入れなければならない」


そして、94年の大統領離任の際の演説での言葉。

「外国で自分たちがどう見られているかばかりを考えるべきではない。もっと重要なのは、鏡に映る自分たちの姿に何を見いだすか、だ」


また95年の東京・霞が関での講演での言葉。東京新聞(2月1日)より。

「歴史の真実に目を閉ざしてはならない」

とにもかくにも、我々は「過去」「歴史」を見つめることから逃げてはいけない。そういうことである。

ここで、一昨日(1月30日)のブログに続き、改めてサザンオールスターズの話題を持ち出したい。

年末以降、大きな騒動となった『ピースとハイライト』桑田佳祐さんが唄うこの曲では、次のような歌詞が流れてくる。


「都合のいい大義名分で争いを仕掛けて
  裸の王様が牛耳る世の中は・・・狂気
 
20世紀で懲りたはずでしょう?燻る火種が燃え上がるだけ」

「悲しい過去も愚かな行為も人間は何故に忘れてしまう?」


安倍総理のイスラム国への姿勢。そしてワイツゼッカー氏の死亡。この2つの出来事から見えてくるものが、不思議なくらい『ピースとハイライト』の歌詞に重なっている。

僕たちには失ってはいけない、葬ってはいけない、守っていかなければならない言葉がある。

 

2013年1月8日のブログ

「歴史に学ぶ」

 

 

2014年10月23日 (木)

「上九一色にはオウムはない。みごとにない。まるで揮発してしまったかのように、きれいさっぱり消滅している。削除されている」

前回のブログ(10月17日)に続いて「過去や歴史を葬り去る日本社会」について。

今週のNHK『クローズアップ現代』(10月20日放送)「公文書は誰のものか」という特集をやっていた。その番組での言葉をメモ代わりに載せておきたい。

公文書の保存の意義について。歴史学者の加藤陽子さん

「国民の信託を受けて国がさまざまな活動をやっている。その活動の記録がそもそも残されていたなかったら、国民は生きた証がなくなるわけです」

「今までそれが出来なかったということで、国家的な損失は大きかったのではないか」


学習院大学教授の保坂裕興さん

「基本的な材料の公文書が失われてしまうことになって、過去に起こったことが検証できなくなるということが起こってしまう」

東京大学教授で政治学者、牧原出さん

「日本の場合には『沈黙は金』『しゃべらない』『残さない』という組織文化があって、公文書を残しにくい。行政官というのは、自分でやってきたことは全体の部分であって、部分だから重要でないということで、残そうとしない傾向がある」

「過去に省庁が公文書を保存していた場合も、あくまでも行政の執務のためであって、国民のためという意識が薄い」

「日本がどうして決めたのかは、世界にとっても意味があるし、そして何としても次世代に対する説明責任ではないかと思う。だからこそ残す責務が私たちにはある」


ちなみに、フランス公文書管理の予算60億円という。日本の予算は、その1/3に過ぎない。

公文書についてではないけど、先ほど読み終わった本から、歴史を消去する事例をひとつ。

作家の森達也さん著書『A3』(文庫版下巻)より。オウム真理教の本拠地・上九一色村のサティアン跡を訪れての言葉。

「戦後最大で最凶の事件。当時の新聞や雑誌の見出しには、このフレーズが何度も踊っていた。仮に日本社会にとって悪夢の記憶なら、なおのことそれを抹消すべきではない」 (P247)

「上九一色にはオウムはない。みごとにない。まるで揮発してしまったかのように、きれいさっぱり消滅している。削除されている」 P248)

「こうして上書きと更新をくりかえし、最終的に残されたのは一面の草原だ。確かにサティアン群の痕跡はどこにもない。でも不自然な消滅は逆に不安を煽る。欠落した何かを想起させる」 (P250)


そういえば、巣鴨プリズンもない。陸軍参謀本部があった市ヶ谷の建物も取り壊された。海軍軍令部のあった霞が関の建物もない。

東日本大震災の遺構も、3年しかたっていないのに、次々と消えていく。

こうやって我々の目の前から「歴史」がどんどん姿を消し、何もなかったように新しい建物に取り換えられていく。

前回(10月17日)のブログでは、「歴史や過去を大切にしないと、いつのまにか歴史そのものを誰が書き換えてしまう」という話で終わった。

さきほど戦史研究家の山崎雅弘さんツイッター(10月15日)に、こんな指摘があった。

「自説に都合のいい歴史的事実だけに目を向け、不都合な歴史的事実は一切無視して、歴史解釈を歪める人間を『歴史修正主義者』と呼ぶが、その思考は麻薬的な魅力を持つ。過去の不都合な歴史的事実を『無かったこと』にする『全能感』を繰り返し味わうと、やがて現実も同様に操作できるという錯覚に陥る」



2014年10月17日 (金)

「歴史を忘れた国は問題を起こします」

「予測社会」その12。ちょっと番外編な感じだけど。

今週火曜日(10月14日)、特定秘密保護法の運用基準と施行期日を定めた施行令が閣議決定された。

東京新聞(10月15日)には、次の一文があった。

「秘密指定の期間は原則三十年だが、一度指定されれば、政府の判断で永久に指定され続ける懸念もそのまま残った」

日本弁護士連盟会会長声明(10月14日)にも、次のように書かれている。

「特定秘密を最終的に公開するための確実な法制度がなく、多くの特定秘密が市民の目に触れることなく廃棄されることとなる可能性がある」

このままでは歴史事実が「特定秘密」のまま、永久に闇に葬られる可能性がある、ということ。

未来を予測で埋める「予測社会」。 

この裏には、過去や敗戦を反省検証しない「永続敗戦」があると前々回のブログ(10月9日) で書いた。

池上彰さんの言葉を改めて。毎日新聞(2013年1月1日)より。(2013年1月8日のブログ

「未来を見るためには、まず、過去を見よ。人間は、いつの時代も、同じような行動をとり、成功したり、失敗したりしています。すこし前の歴史を見ると、現代とそっくりではないかと思えるようなことがたくさんあります」

内田樹さんの「未来は現在の延長ではない」という言葉を用いていたが、反対に「少し前の歴史と現代とはそっくり」ということになる。

だから「未来予測」なんかよりも、過去や歴史を見つめることが大事になるのではないか。

こで今回も、過去や歴史についての言葉を改めて並べたい。(「歴史から学ぶ」

NHKディレクターの高木徹さん著書『国際メディア情報戦』より。

「重要文書を都合が悪くなると焼いてしまう。それは欧米諸国と比較すると顕著な日本の特徴だ」 (P3)

「アメリカでは、過去の公文書は納税者である国民のものであり、基本的には公開されるべきで、それが民主主義の根本原則だという考えが浸透している。公文書館のスタッフも自らの仕事を、民主主義を支え国民に資するものとして誇りを持っている」 (P4)

作家の保阪正康さん著書『「昭和」を点検する』より。

「日本の戦争に関する資料はほとんど残っていない。軍事裁判での戦争責任の追及を恐れたんでしょうが、次の時代に資料を残して、判断を仰ぐという国家としての姿勢がまったくなく、燃やせということを平気でやる」 (P178)

「私は基本的には政治・軍事の当事者が、自分の時代しか見ていなかったのだと思います。それは歴史に対する責任の欠如ではないか」 (P179)

作家の半藤一利さん。同じく著書『「昭和」を点検する』より。

「国家には『資料の整理保存、それはおまえの仕事だろう』と言いたいですね」 (P180)

「証拠隠滅は歴史への冒涜です」 (P182)

日本という国は、歴史を消去することを繰り返してきた。

緒方貞子さんの言葉。朝日新聞(9月17日)より。

「歴史を忘れた国は問題を起こします」

きっと、この言葉は忘れてはならない。

そして作家の葉室鱗さん。今、映画が公開されている小説『蜩ノ記』。この中で、家譜という藩の歴史書を編む主人公の戸田秋谷は次のセリフを口にする。

「家譜が作られるとは、そういうことでござる。都合好きことも悪しきことも遺され、子子孫孫に伝えられてこそ、指針となる」 (P40)

「だが、先の世では仕組みも変わるかもしれぬ。だからこそ、かように昔の事績を記しておかねばならぬ。何が正しくて何が間違っておったかを、後世の目で確かめるためにな (P46)

「御家の真を伝えてこそ、忠であるとそれがしは存じており申す。偽りで固めれば、家臣、領民の心が離れて御家はつぶれるでありましょう。嘘偽りのない家譜を書き残すことができれば、御家は必ず守られると存ずる」 (P310)

ここで出てくる「指針」という言葉。個人的には、この「指針」こそが「予測」よりも大事なのではないかと思っている。

未知なる「未来」を不安がり、それを予測で埋めて「確実な未来」を手に入れることに躍起になるよりも、歴史を見つめ過去から学び、「指針」を得る。その「指針」を支えに、「不確実な未来」を歩んでいく。こんな感じだ。

でも実際の社会には、「予測」があふれ返る。みんな過去や歴史を振り返らない。いつの間にか、誰かが過去や歴史を「美しく書き換え」ても気づかない。そんなジョージ・オーエル『1984』のような世界がやってこないことを祈る。


2014年3月17日 (月)

「しかし、それもこれも、どこかできいたようなことばかりではないか」

前回のブログ(3月14日)では、「ムラと空気のガバナンス」というジャーナリストの船橋洋一さんの言葉を載せた。

その船橋洋一さん近著『原発敗戦』は非常に興味深い本だった。今回は、その中からの言葉を中心に紹介してみたい。

まずは、もう一度、船橋さんによる「村と空気のガバナンス」についての言葉を載せたい。ビデオニュース・ドットコム(3月8日放送)より。

「民間事故調で『ムラと空気のガバナンス』という言葉を打ち出した。まさに空気。異質のものを認めたくない排除しようする。だから本当の意味での議論がなかなかできない。同質的なもの、初めから結論を分かっていて落としどころが分かっていて相場観を共有している、ということ。これは、リスクという観点に絞ってみても、ここまでにしておきましょうという、みんな言わなくても以心伝心分かっちゃう」 (パート①27分ごろ)

「異論をあえて唱えることをダサい。KYなんだよ、読めないと。空気を読める奴ばかりだから、役に立たない。ムラと空気のガバナンスをやっているから、どうしても危機には弱い」 (29分ごろ)

『原発敗戦』では、その「危機には弱い」という日本の社会の問題点がいやというほど指摘されている。

「危機の際、求められる人間は空気を読むタイプではない。危機の時は優先順位を峻厳につけるしかない。こうしたときは、現実の感情の渦に巻き込まれず、専門性と理性だけを頼りに発想し、助言できる人間――空気を読むのが必ずしも得意でないタイプ――が役に立つ」 (P66)

「官僚機構は平時は、法遵守、公正、効率――実際、それが実現しているかどうかは別問題として――、ボトムアップなどを重んじる。
 
しかし、危機にあっては法律を曲げなければならないこともある。トリアージュのような優先順位を容赦なく迫られることもある。効率一本槍ではなくリダンダンシー(溜め)が必要なこともある。指揮官の更迭、チームの編成替え、損切りなどはトップダウンでやる以外はない」 (P150)

「危機の時には、このように所見、知見を明確に言い切る専門家が必要なのです。しかし、空気はまったく読めないし、読もうともしない。結局は、官邸からつまみ出されてしまう。集団を同質にしすぎてムラにすると、危機に弱くなる。日本の“国債ムラ”にもそのリスクがあると見るべきでしょう」 (P235)

これは、ビデオニュース・ドットコム(3月8日放送)でも本人が語っている。

「日常の場合だったら、平等とか公正とかいうのはとても重要です。それから法の遵守。それから効率がなければ続かない。下からきちんとあげていくという手続き、手順、これも重要です。しかし、危機の時は、ここだけは残さなければいけない、ここだけは切り捨てるという優先順位というのが決定的に重要。全部は残せない。法律の遵守もギリギリ守るにしても相当変えなければいけない。例えば効率も、一辺倒ではいけない無駄なところが意外に力を発揮したりする」 (パート①54分すぎ)

「最後は価値観なんです。つまり優先順位って価値観になる。危機の時は価値観のぶつかり合い、激しい衝突ですから。その時に誰の価値観、社会全体とか、民族全体とか、将来の時間軸とか、そういうことになってくる。どこを残すかということは。単に効率性とかいうことではなくて、価値観そのものを日頃から育てるような、共有するような場と、それを引っ張っていくような人材をつくらないといけない」 (パート②11分ごろ)

ここでの「最後は価値観」という言葉は重いと思う。

えば企業におけるコンプライアンスとは、危機対応のためのものに設けられているはず。本来は、その企業にとっての一番大事な「価値観」を決め、その理念に基づいた経営を行うことが大切なはず。

なのに実際におこなわれているのは、コンプライアンスを突きつめた結果、コントロールしやすい同質的な組織を作り、リスクを避け、異質を排除し、危機に直面しても法令順守し続け、まったく危機に向かない組織を作り上げてしまう。


まさに東京電力がそうであり、また日本という国もそうなのである。ということ。


船橋洋一さんは、次のようにも書いている。 

「危機の時、その国と国民の本当の力が試されるし、本当の姿が現れる」 (P20)

上記した船橋さんの指摘の中には、このブログで、これまで何度も取り上げていた問題がたくさんある。


「ルール」
「コンプライアンス」「コントロール」「優先順位」「価値観」「水を差す」、そして「言葉・言語力」

『原発敗戦』の中には、その「言葉」についての指摘も多い。

「もう一つ、危機の際、重要なのはリーダーの発する「言葉」である。
あの国家危機のさなか、菅は国民の心に残る言葉を一つとして発しなかった。
それによって『国民一丸』となって危機に取り組むモーメントを生み出すことができなかった」 (P68)

「『絶対』は魔語である。『絶対』という言葉を使った瞬間からそれこそ『負け』なのである」 (P108)

そして、この本の「はじめに」には、次のように書かれている。

「しかし、それもこれも、どこかできいたようなことばかりではないか」

「戦後70年になろうとしているというのに、いったい、いまの日本はあの敗戦に至った戦前の日本とどこがどう違うのだろうか」

「日本は、再び負けたのではないか」

「福島原発事故は、日本の『第二の敗戦』だった」 (P20)

そして、最後に収められている歴史家の半藤一利さんとの対談の中で、船橋さんは次のように語る。

「共通の遺産として後世に残していく。いざというときに反射的に、『あ、これはあのときの失敗に似ている』『あのときはこうして助かった』と。国民の記憶に深く刻まれるかどうかが、次の危機を乗り越えるための、よすがになるはずなのです」 (P272)


そうなのである。我々は「ムラと空気のガバナンス」を抜け出すためにすることは、「歴史から学ぶ」しかないのである。(「歴史に学ぶ」

 

2014年3月13日 (木)

「わたしたちはこの種の熱狂が、必ずしもわたしたちに幸福な未来を約束してこなかった歴史に学びたいと思う。そして、圧倒的な祝祭気分に、あえて水を差しておきたいと思う」

一昨日の3・11は、何度も通っている気仙沼で迎えた。2時46分、市内にサイレンが1分間鳴り響き、海岸に向かって黙とうした。

その後、ボランティア受入部のリーダーMさんが、黙とうのあとに行った言葉が残った。

「あの震災が起きた3年前に思っていた3年後がこの姿なのか、という疑念は正直ある」

被災地に行くと、どうしても社会学者の山下祐介さんの次の言葉を思い出す。著書『東北発の震災論』から。

「『復興』を進める事業のためには、人の暮らしはどうなっても構わないという力学が生まれているようだ」 (P269)

3年がたった。ガレキはなくなった。しかし、その後に広がる更地がそのままにされているのを見るたびに、ガレキと共にいろんなことを「なかったこと」にしたいのではという疑念はぬぐえない。

3月4日のブログの最後のところで、1964年開催の初回の東京五輪は太平洋戦争の「敗戦」を、2020年開催予定の第2回目の東京五輪は3・11の「第2の敗戦」を「なかったこと」にすることに貢献するのかもしれない。ということを記述した。

作家の平川克美さんは、著書『街場の五輪論』で次のように語っている。

「東京は今回を含めて三度開催候補地となっている。
最初のオリンピック招致が決定する少し前の1923年、東京は関東大震災に見舞われ、首都はほとんど壊滅状態であった。その二年後の1925年、治安維持法が国会を通過し、国民の政治活動が制限される」

「この、震災という自然の災厄からオリンピックを挟んで、太平洋戦争へ至る歴史を見ていると、この度のオリンピック招致に相前後する歴史状況との符号にお何処かされる」 (P174)

ここで言う1回目の東京五輪とは、1940年に予定されていたのに戦争によって中止になったオリンピックのこと。

平川さんは、関東大震災の2年後に治安維持法が成立したことと、東日本大震災の2年後に特定秘密保護法が成立。そのあと五輪へ向かっていくことなど重なっていることが多いことへの危惧を語っている。

「もうじき、建設のラッシュがはじまり、いやがおうでもオリンピックに向けての熱狂の空気が支配的になるだろう。しかし、わたしたちはこの種の熱狂が、必ずしもわたしたちに幸福な未来を約束してこなかった歴史に学びたいと思う。そして、圧倒的な祝祭気分に、あえて水を差しておきたいと思う」 (P183)

このブログでは、何度も書いてきたが、僕たちは歴史から学ぶしかないのだと思う。(2013年1月8日のブログ)(「歴史に学ぶ」

震災遺構の問題も同じなのではないだろうか。「なかったこと」にしないためにも、時間をかけて残していった方がいいと個人的には思う。(2012年7月6日のブログ

作家の半藤一利さんの言葉も載せておきたい。著書『そして、メディアは日本を戦争に導いた』から。

「昭和13年ぐらいで国家体制の整備統一と強化は、大体けりがついていた。その打ち上げが昭和15年の紀元2600年のお祭り。ああいう大きなお祭りをやるということは、後ろに意図があるんですよね。国家行事には裏があると常にそう思わなければならないんだよね」 (P158)

改めて書く。2020年、東京五輪という大きなお祭りがやってくる。

2014年3月 4日 (火)

「考えたくないことは考えない、考えなくてもなんとかなるだろう。これが空気の国の習い性だ」

きのうのブログ(3月3日)では、最後に畑村洋太郎さんの次の言葉を紹介した。岩波書店編集『これからどうする』から。

「東日本大震災の津波と原発事故で私たちが学んだ最大のことがらは、“人は見たくないものは見ない、考えたくないことは考えない”という特性を持っているため、敢えて“見たくないことも見る、考えたくないことも考える”ようにしなければ同じ愚を繰り返すことになる、ということではないだろうか」 (P349)

政府の事故調査・検証委員会委員長を務めた経験からの言葉である。

 

今朝の読売新聞(3月4日)にも、その畑村洋太郎さんのインタビューが載っていた。事故から3年、政府や東京電力を強く批判している。

「報告書に『見ないものは見えない。見たいものが見える』など、事故で得た知見を書いたが、ほとんど改善されていない」

「どんなに考え、調べても、自分たちには考えが至らない領域がある。まずそれを認めることだ」


あれだけ大きな事故を起こしても、「見えないものは見えない」。この習性をただすことなく、もう3年が過ぎようとしている。

エッセイストの阿川佐和子さんインタビュー集『阿川佐和子の世界一受けたい授業』で次のように語っている。

「この対談で半藤一利さんにお話を伺いしたとき、『日本人は、起きてほしくないことには、起きないだろうと思ってしまう。先の大戦でも、ソ連は絶対に参戦しないと思い込んでいた』とおっしゃっていたんですけど、たしかに大事な判断をするときに、楽観的になる癖があるのかなと」 (P85)

3年前から変わらないのではない。先の大戦から、ずっと変われていないのである。

作家の荒俣宏さん著書『すごい人のすごい話』から。

「ぼくは、現代の日本人は楽しいことばかり追い求めて、その代償として重いものを背負うことを避けているように見えるんです。例えば、かつて日本が戦争をやったという事実も、きちんと背負うべきだった。でも、そういうことは重いから、できるだけ考えたくない。『背負う』を別の言葉でいうと『あきらめる』。どこであきらめがつくかという問題じゃないですか」 (P314)

去年9月1日の東愛知新聞の社説には、作家の笠井潔さんを引き合いに次のように書かれている。

「『最悪の事態を想定しての必要な準備ができず、危機管理能力を致命的に欠いているのは、日米戦争から福島原発事故にいたるまで、空気が支配する日本社会の宿命的な病理』だ、と作家の笠井潔さんが指摘しています」

「笠井さんは『考えたくないことは考えない、考えなくてもなんとかなるだろう。これが空気の国の習い性だ』と指弾します。場の空気に流される習性からの脱却が大切です。これは国づくり、地域づくりにも言えることなのです」


見たくないものを見ず。考えたくないことは考えず。背負うことを避け、あきらめることを避け、そうやって70年余り、そういう「思考停止」の習性でやってきた。そこで、「第2の敗戦」という人もいる「3・11」を迎えることになった。

 

ドキュメンタリー映画監督の想田和弘さん東京新聞(2013年9月11日)では、次のように語っている。

「放射能汚染や人びとの苦しみを『なかったこと』にしないと、五輪の昂揚感も経済利益も台無しになる。招致の成功で、多数派には原発事故をないものにする強い動機が生まれた」

最初の東京オリンピックは結果として、「第1の敗戦」を「なかったこと」にすることに貢献し、今度の東京オリンピックは、「第2の敗戦」である3・11を「なかったこと」にすることに貢献するのだろうか。

2013年10月29日 (火)

「間違えて損をするのは怖いから、事なかれ主義で掟に従う。どうして政治家になったのかね」

今日の朝日新聞(10月29日)での「私の悪人論」という特集記事。そこに国会議員の亀井静香氏のインタビューが載っていた。興味深いコトバがあったので、それを紹介してみたい。

「今の時代、欲望だらけで、金よ、金よの利益追求が極大に達している。新自由主義なんてその最たるもんだ。政治家もその渦に巻き込まれている。そこで起きるのは事なかれ主義だ。世の中をどうにかしようという強烈な意志を持つやつなんていなくなった。大勢に順応し、自分の利益を守ろうとする。政界もそんなのばかりだ」 

「金よ、金よ」の利益追求の社会では、「事なかれ主義」が広がり、「大衆に順応」する傾向も増える。つまり、「リスク回避」の傾向が広がり、「水を差す」ことも忌避される、ということだ。政界も例外でないという。 

さらに亀井氏は、次のように話す。 

「俺は違う。人間が決めた掟にかまわない行動をする。だから悪人といわれる」 

「政治家に必要なのはね、使命感と覚悟だ。権力は、男性を女性にし女性を男性にする以外なら、なんでもできる。しかし今の政治家は覚悟がないから権力を使わない。間違えて損をするのは怖いから、事なかれ主義で掟に従う。どうして政治家になったのかね」

「掟」に従わない人間が「悪」。いうことは、今の世の中での「善人」というのは、「掟」つまり「ルール」に従う人のこととなる。まさに「ルール主義」がはびこるわけだ。(2012年5月8日 6月20日のブログ など)

亀井さんの指摘によれば、リスク回避の「事なかれ主義」と、「掟に従う」というルール主義はセットなわけだ。 

この「私の悪人論」という特集は、リレーで行われており、前回は、元検事の田中一光さんのインタビュー。その中から。(朝日新聞10月22日 

「検事や弁護士の仕事をする中で、法と自分が考える正義が衝突することがよくありました。法に従うか自分の信念に従うか。究極の選択をする時、判断基準にしたのが若いころから私のバックボーンだった『論語』でした」 

ルールである「法」と、価値観や美意識による「自分に考える正義」の衝突。これは、検事だけでなく、普段の生活や社会活動の中でもあちこちで起きる。こういう時に、盲目に「法」や「ルール」に従ってしまうことが、まさに「ルール主義」なんだと思う。ここで興味深いのは、田中さんは、「論語に照らし合わせる」という考え方。まさに「過去の英知」すなわち「歴史に学ぶ」ということ。(7月25日のブログなど) 

ちなみに。 

この「私の悪人論」。その第1回は、俳優の宇梶剛士さん。そこでも次の言葉が出てくる。(朝日新聞10月16日

「人間は理性を持ち、過去から学ぶ生き物です」

そうです。学ばなければいけない。当たり前のことです。

ちょっと前に、NHKのBS1で『オリバー・ストーンが語るアメリカ史』というシリーズ・ドキュメンタリー番組を放送されていた。その最終回(第10回)で、オリバー・ストーン監督も、次のように語りかけていた。 

「人類の歴史には戦争や死の記録だけでなく、誇りや成功、優しさ、思い出、そして文明が刻まれているのです。過去を振り返ることから未来への道は開けます」 

リスク回避社会、ルール主義社会。それを打破し、抜け出すためには、「歴史」や「過去」に学び、そして積み上げた自分なりの価値観、美意識、心情を信じるしかないということ…。こう書いてみると、本当に本当に、当たり前のことなんだと思うんだけど、どうも政治の世界をはじめ、そうはいかないのが、これまた不思議だったりする。

2013年9月13日 (金)

「『空気』を排除するため、現実という名の『水』を差す」 

先週の日曜日、2020年オリンピックの東京開催が決まった。そのあと、「水を差す」という言葉をちょくちょく見かけ、とても気になった。そのいくつかを書いてみたい。

共産党の参議院議員、小池晃氏ツイッター(9月8日)から。 

「ニコ生で原発についての首相プレゼンを批判したら『五輪に水を差すな』というコメントが」 

思想家の内田樹氏ツイッター(9月10日)から。 

「つづいて目白で朝日新聞のインタビュー。『五輪開催について』。『水を差すようなことを言う人』を探してウチダのもとにいらしたそうです。なかなかいないんです」 

朝日新聞デジタル版(9月12日)で、コラムニストの小田嶋隆さん。こちらは「水を差す」ではなく「水をかける」という表現を使っている。 

「なぜ水をかけるんだっていう同調圧力がある。反論しにくくならないか心配してます」

個人的に、この「水を差す」という行為や言葉について考えたことがある。

 ボクはメディアというものが持つ役割は「水を差す」ことなのではないかと思って働いてきた。同じような表現として個人的には「空気を揺らす」と言ったりもした。

水を差し続けることで空気を揺らす。揺れることによって、そこから落ちてくるものを掬い上げる。これがメディアが基本的にやるべきものだと思っていた。 

小田嶋隆さんも、TBSラジオ『たまむすび』(9月11日)で、次のように話している。 

「(コラムニストとういうのは)本当は、空気を読めとか、同調しろとかいうものに対してザブザブ水をかける係ですね」 

そうそう、そんな感じ。のはず。

しかし、ここ数年来、「水を差す」という行為は、メディア的にも、社会的にも、企業的にも、個人的にも本当に難しくなった。というか、許されなくなった。と思う。 

その雰囲気をsarabande」という方が、ツイッター(9月9日)で次のように表現していた。

「クリティカルな欠点を覆い隠したうえでなりたっている、多数派の多幸的な雰囲気、空気、これは、知的ではなく、感情的な論理である。比較的多数の、空気にのって楽しんでいる多数派は、それに水をさされると、感情的嫌悪感で反応してくる。『キモい、怖い、マゾ』であり、排除である」

今や、「水を差す」ものは、「キモい、怖い、マゾ」という感情的嫌悪の存在なのである。そんな行為は、排除か、炎上の対象としかみられないのではないか。

もう一度思い出した方が良い言葉がある。かつて山本七平氏は、名著『「空気」の研究』で次のように書いている。

「『空気』とはまことに絶対権をもった妖怪である」 (文庫版P19) 

「もし日本が、再び破滅へと突入していくなら、それを突入させていくものは戦艦大和の場合の如く『空気』であり、破滅の後にもし名目的責任者がその理由を問われたら、同じように『あのときは、ああせざると得なかった』と答えるであろうと思う」 (P20)

山本氏は、上の『「空気」の研究』に続いて、『「水=通常性」の研究』という文章も書いている。その文章から。 

「『空気』を排除するため、現実という名の『水』を差す」 (P129)

「先日、日銀を退職した先輩によると、太平洋戦争の前にすでに日本は『先立つもの』がなかったそうである。また石油という『先立つもの』もなかった。だがだれもそれを口にしなかった。差す『水』はあった。だが差せなかったわけで、ここで“空気”が全体を拘束する。従って『全体空気拘束主義者』は『水を差す者』を罵言で沈黙させるのがふつうである」 (P92)

やはり「空気」というものに支配されないためには、「水」という現実を差す必要があるのだろう。

なのに。今の社会でも、「水を差す」ものは、『キモい、怖い、マゾ』となり、排除されてしまう。

となると、日本社会は山本七平氏の言うように「再び破滅へと突入」となってしまうのか。悲観論ばかりでは、本当にやれやれという気持ちになる。では、われわれはどうしたらいいのか。まだまだ考える時間は残されていると思うのだが。




2013年7月25日 (木)

「政治システムは『よいこと』をてきぱきと進めるためにではなく、むしろ『悪いこと』が手際よく行われないように設計されるべきだという先人の知恵を私は重んじる」

もう1か月半くらい前になるが、ずっと使っていたPCが壊れた。結局、復旧できず。そこに残していた言葉のメモや原稿も消えてしまった。悲しい。バックアップをしていなかった自分が悪いんだけど。まさに様々な言葉が行方知れずになってしまった。なんとか立ち直って、ボチボチと言葉集めから始めている。

今朝の朝日新聞(7/25)に、月イチに『論壇時評』に作家の高橋源一郎さんが文章を寄せている。その中で、公開されたばかりの映画『風立ちぬ』に触れ、次のように書いている。 

「美と技術の結晶である零戦は、世界とこの国を焼き尽くした。だが、それは戦後復興を支える技術の基礎にもなった。戦争の被害者は、同時に加害者でもあった。善きものと悪(あ)しきものを区別することはできないのである」 

「『原子力発電』は、夢の技術であると同時に、悪夢を呼び覚ます技術でもあった。そのことに気づいたとき、ぼくたちは、『零戦』も、同じ存在であったことを思い出す」
 

零戦、原子力に通じる、科学技術の二面性について書く。 

一方、おとといの朝日新聞(7/23)には、思想家の内田樹さんが、次のように書いている。 

「人々は未来における国益の達成を待つよりも、今ここで可視化された『決断の速さ』の方に高い政治的価値を置くようになったのである。『決められる政治』とか『スピード感』とか『効率化』という、政策の内容と無関係の語が政治過程でのメリットとして語られるようになったのは私の知る限りこの数年のことである」 

「チャーチルの『民主制は最悪の政治形態である。これまでに試みられてきた他のあらゆる政治形態を除けば』という皮肉な言明を私は『民主制は国を滅ぼす場合でも効率が悪い(それゆえ、効率よく国を滅ぼすことができる他の政体より望ましい)』と控えめに解釈する。政治システムは『よいこと』をてきぱきと進めるためにではなく、むしろ『悪いこと』が手際よく行われないように設計されるべきだという先人の知恵を私は重んじる」 

つまり、政策を決定・決断するのに、スピードがあり、効率の良い政治形態というのは、国そのものを滅ぼす局面が来た時にも、スピードがあり、効率が良いということなのである。つまり、滅びるときはあっという間なのである。そうした効率が良い政治形態が過去、どのようなことを導いたか。内田氏は、次のようにも書いている。 

「近代の歴史は『単一政党の政策を100%実現した政権』よりも『さまざまな政党がいずれも不満顔であるような妥協案を採択してきた政権』の方が大きな災厄をもたらさなかったと教えているからである。知られる限りの粛清や強制収容所はすべて『ある政党の綱領が100%実現された』場合に現実化した」 

怖い話だと思う。 

もうひとつ。「二面性」ということで、高橋さんと内田さんは、ともに興味深い指摘をしている。

まず、高橋さんは、次のように書く。

「なぜ、『歴史』を学ばねばならないのか。ぼくたちが不完全な、『善きものと悪しきもの』が混じり合った人間だからだ。そして、そのことを、ぼくたちがしょっちゅう忘れてしまうからだ」 

そして、内田さんは次のように書いている。 

「『経済最優先』と参院選では候補者たちは誰もがそう言い立てたが、それは平たく言えば『未来の豊かさより、今の金』ということである。今ここで干上がったら、未来もくそもないというやぶれかぶれの本音である」

ここで2人がが言っていることをまとめると、僕らは、歴史からも学ぶことをしないし、未来のことについても考えないということになる。これまで、このブログで何回か書いてきたが、とにかく頭の中には「今」のことしかない、そういうことなのだろう。(2012年4月16日2013年1月8日のブログなど) 

 

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