「人間の人生、70年とか80年。70年経つと、実感として戦争を知っている世代がいなくなる。負の遺産とか過ちを忘れてしまう。となると、また戦争を起こしてしまう」
どの新聞も『戦後70年』を考える特集を始めている。
そんな中、たまたま「70年」についてのコメントを続けて耳にしたり、読んだりしたので並べておきたい。
ジャーナリストの上杉隆さん。TFM『タイムライン』(1月28日放送)での言葉。
「どの国もそうですが、戦争70年周期という考えがある。人間の人生、70年とか80年。70年経つと、実感として戦争を知っている世代がいなくなる。負の遺産とか過ちを忘れてしまう。となると、また戦争を起こしてしまう。日本も戦後70年経った。またそういう過ちに足を踏み入れつつあるのでは、という危惧がある」
作家の平川克美さんも、自身のツイッター(2月15日)で次のように書く。
「戦後70年というのは、一人の人間の一生の時間で、戦前昭和、戦中を体験として語れるものがほとんどいなくなるということだ。積極的平和主義なんていうのも、戦争を知らない日本人が、戦争について知っているかのように語り始めたところに出てきた」
歴史修正主義が跋扈する背景には、こんなこともあるのだろう。
これは、もちろん日本だけのことではない。内田樹さんは、「イスラム国(IS)」の広がりについて語っている。ラジオデイズ『はなし半分』(2015年2月号)より。
「大きな戦争があって、戦争を備忘するために国民国家を作った。そのストーリーが70年経って賞味期限が切れてきたという感じ」
「生身の身体観が持っていた恐怖心とか、痛みとか、悲しみとかいうものが、物語のエネルギーを備給してきた。それがなくなっちゃうと『こんなんウソじゃん』という話になってしまう」 (14分すぎ)
このブログでは、結局、僕たちが出来るのは「歴史から学ぶこと」「忘れないこと」しかないと、何度も何度も書いてきた。(「歴史に学ぶ・忘却」)
昨日、読んでいた本に、スペインの作家で『サラエヴォ・ノート』を書いたファン・ゴイティソーロさんの言葉が載っていた。『不安の世紀から』(文庫版、著・辺見庸)より。
「日本も、ドイツも、スペインも、そしてフランスも、どこの国の国民もどの国家も多くの過ちを隠し持っています。しかしこの過ちは明るみに出さねばなりません。忘却のときは終わったのです。過ちを繰り返さないために、いまや再び過去の過ちをとり上げ、考え直さなければなりません」 (P195)
「人は常に記憶と忘却の狭間に生きているのです。しかし国家や文明の場合は忘却のなかに埋没させることを許してはいけません。歴史をとおして、教育をとおして、過去の教訓を生きつづけさせ、なにかを敵であるとしている歴史の教科書を書き換えなければなりません」 (P195)
どう頑張っても、人の寿命を70~80歳から長くすることには無理がある。
つまり、「戦争70周年期」という考え方を否定するためには、僕たちが出来るのは、ワイツゼッカーの演説を思い出すまでもなく、やはり歴史から学び、忘れないようにすることしかない。