橋下現象

2014年4月21日 (月)

「ネタ的な感動消費ではない言葉を、自ら引き受けて生きる覚悟のある人間が作品をつくり、その姿勢が読んだ人にも文字を通して伝わっていく」

エモーショナルな社会について。続きます。

前回のブログ(4月18日)では、雑誌編集者の渋谷陽一さんの、次の言葉を紹介した。雑誌『SIGHT』(2014年SPRING号)より。

「リベラルや左翼の言っていることって、全然楽しくない。エモーショナルじゃない」 P118)

エモーショナルな考え方、捉え方をするひとが社会のメインとなっているんだから、エモーショナルな表現や物語じゃないと彼らには届かない、という指摘である。

渋谷さんの指摘するリベラルや左翼の反対にいるのが、分かりやすく言えば「橋下徹」という人物なのだろう。

社会学者の中島岳志さんは、著書『世界が決壊するまえに言葉を紡ぐ』で彼について次のように語っている。

「橋下徹氏は、日教組を叩く同じ地点から電力会社を叩く。言葉は乱暴になり、罵倒が続く。それに人々の期待が集まる。みんな断言に群がる。『わかりやすさ』への渇望は、単純化への希求に変容する」

「ズバッと言ってくれる人。敵を見せてくれる人」

「シニシズムが拡大すればするほど、救世主待望論が加速する。グロテスクな言葉が人々の熱狂をあおり、世界を委縮させる。言葉が毒をもち、やせ細る」 P22)

まさに、エモーショナルな言葉や手法で、市民の期待を集めるという構図。よりエモーショナルな言葉が繰り出され、そしてエモーショナルな社会も加速する。

こうしたエモーショナルな世の中に対しての処方箋として、中嶋さんは「言葉」の大切さを説く。

「私たちは、いまこそ言葉を必要としている。言葉によって漠然たる苛立ちを客体視し、不安を凝視する必要がある。そこからはじめるしかない。人間はどこまでも言葉の動物なのだから」 P22)

我々が大切にしないといけないのは、「言葉」でしかない。エモーショナルな言葉ではなく、対象を静かに客体視する言葉。それを作家の高橋源一郎さんは「弱い言葉」という表現をしている。雑誌『SIGHT』(2014年SPRING号)より。

「文学ってすべて弱い言葉なんです。じゃあ、負けたかっていうと、長いレンジでいうと勝っているんだよね。ドストエフスキーもセルバンテスも、弱い言葉で、その時点では負けるかもしれない。他の強いと思われた言葉は時の移り変わりとともに消え去っていくんだけど、弱いと思われていた彼らの言葉が生き残る、というのが僕たちの経験則」 (P120

エモーショナルな言葉、グロテスクな言葉、その時は「強い」と思われた言葉は、やがて消えていく。消費されていく。そうじゃない「弱い言葉」が生き残るという。

文芸評論家の大澤信亮さんの次の指摘も、同じことだと思う。『世界が決壊するまえに言葉を紡ぐ』より。

「僕は『文学の力』がどういうところにあるかというと、実践的な言語使用の中にあると思っています。ネタ的な感動消費ではない言葉を、自ら引き受けて生きる覚悟のある人間が作品をつくり、その姿勢が読んだ人にも文字を通して伝わっていく。そういうものだけを僕は文学と呼びたい」 (P114)

一瞬で消えていく「感動消費」ではない言葉…。

エモーショナルの物語や言葉を発して、瞬間的にウケて、消費され、消えていくのではない、長く残る言葉を綴っていく。そういうことなんだと思う。

作家の重松清さんの次の指摘もこれに通じる。こちらも『世界が決壊するまえに言葉を紡ぐ』から。

「長く残る言葉って、やっぱり『わかりにくさ』を残していると思うんです。安易な『わかりやすさ』の誘惑にはまらない」 (P190)

次のコラムニストのえのきどいちろうさんの指摘は、実は「うどん」についてのものだけど、同じことだと思う。著書『みんなの山田うどん』より。

「一世を風靡しなかっただけに生き残れる」 (P153)

エモーショナルな社会に対して、我々は、エモーショナルな言葉で対抗するのではなく…。


弱い言葉。実践的な言葉。客観視する言葉。一見わかりにくい言葉。一世風靡しない言葉。…。

そうした長いレンジで生き残っていく言葉を見つけて綴っていかなければならないのだろう。

高橋源一郎さんは、次のようにも言う。雑誌『SIGHT』(2014年SPRING号)より。

「今は、僕の認識でいうと、文明史的転換のときだと思っているんです。これはかつてなかったことなので、政治の言葉自体が一から更新されるべきかもしれない」 (P127)

 

2014年3月28日 (金)

「でも、勝つことを至上の目的としてしまうような人を自分たちの代表として選びたくないからこそ、私たちは選挙を始めたはずなのです」

話題は変わります。政治と勝利至上主義について。

きのうの朝日新聞(3月27日)に、大阪市長に再選されたばかりの橋下徹氏のインタビューが掲載されていた。

「僕の意見では直接民主制が民主主義の原則だ。議会は直接民主制の補完的な役割で、直接民主制が後に控えている議会は直接民主制に送るための一つのスクリーニング(ふるい分け)機能。議会が最終判断の場ではない」

読んでいて、やはり違和感が強い。


イエスかノーによる首長選や住民投票など、勝者と敗者、白と黒がはっきりする選挙制度によって選ばれた者や事柄が、様々な立場の人が集まった議会で話し合って決められたことよりも優先される。どうも彼は、そういう考えのようである。

そしてその勝者は、「民意」を背景に絶対的な決定権を持つ。とも考える。

橋下徹氏は、かつての朝日新聞(2012年2月12日)で、次の言葉を残している。


「有権者が選んだ人間に決定権を与える。それが選挙だと思います」

「ある種の白紙委任なんですよ」


この考えは、総理大臣である安倍晋三氏の次の発言にも通じている。衆議院予算委員会(2014年2月4日)での憲法96条改正問題で。

「たった3分の1の国会議員が反対することで国民投票の機会を奪っている」


たった3分の1…。

選挙で少しでも多くの票を得た勝者の前では、3分の1といえども「たった」であり、意味がない。勝者のみが決定権を持つ。選挙の結果が全てなのである。

つまり、勝利至上主義。

このブログでは、以前、サッカーや野球といったスポーツなど、いろんな分野での「結果がすべて」というような「勝利至上主義」についての言葉を紹介して、それについて考えた。(2013年5月30日のブログなど)

その勝利至上主義という考え方が、政治の世界、選挙にまでどうも広がっている。

かつてスポーツの勝利至上主義を考えた際にも同じことを書いたが、もちろん選挙は勝つことが大事である。だからといって、負けたからといって、その候補者の考え方や支持者たちがまったく意味がないということにはならないはず。


その政治の世界の勝利至上主義について考えるようになったのは、先週、えにし屋代表の清水義晴さん著書『変革は、弱いところ、小さいところ、遠いところから』を読んだから。

清水さんは、かつて新潟市長選挙に立候補した知人を手伝った際の経験について、次のように書いている。

「正直言って、私だって『選挙は負けたらなんにもならない』とチラッと思わないでもありません。だれにも負けないほど、心底この候補を当選させたいという、熱意と覚悟で選挙に向かっているのですから。でも、勝つことを至上の目的としてしまうような人を自分たちの代表として選びたくないからこそ、私たちは選挙を始めたはずなのです」 (P228) 

「それに、選挙を始めると、相手の候補と戦っているような錯覚に陥りますが、じつは私たちが向かうべき相手とは、選挙民(=市民)です。べつに他の候補が『敵』なわけでもなんでもないはずです」 (P228)

「『選挙は闘いではなく、仲間作りの場にしよう。勝敗というのがあるとするなら、候補者の考えに共感する仲間を、どちらかがより多くつくったかを競いあおう』。仲間にもそれを語り、自分もまた行動で示していきたいと思っていました」 (P229)

最近、小泉時代の「刺客騒動」などもあり、すっかり選挙というのは、自分の考え方にとっての「味方」と「敵」がいて、そして勝つか負けるか、敵を倒すか倒されるか、という論法で考えるようになっていた部分は確かにある。

しかし、本来、清水さんの言うように、選挙とは「勝つこと」はあくまでも結果であり、本来、できるだけ同じ考え、志を持った人を増やしていくということだったはず。

そして選挙に勝った方にも、負けた側の支持者たちに対する責任を背負うことで、彼らとの熟議を重ねる政治が求められる。そうすれば、勝利至上主義による横暴・暴走は自制されるし、「負けた側にも意味がある」という考えにもなるのではないか。

上記の清水義晴さんの指摘は、社会学者の開沼博さんの次の言葉にも重なる。著書『フクシマの正義』より。

「今求められているのは、短絡的に作られた『敵』でも、薄っぺらい『希望』でもない。なぜ自分が、自分たちの生きる社会が、これまでのその『悪』とされるものを生み出し、温存してきてしまったのか、そして、これからいかに自分の中の『悪』と向き合うのか、冷静に真摯に考えることに他ならない。『変わる変わる詐欺』を繰り返さないために」 (P39)

このことは、政治家はもちろん、彼らを選び、支持する有権者にこそ当てはまることだと思う。

 

 

2014年1月21日 (火)

「民主主義は感情統治」

続いて、「感情」についてもう少し考えてみたい。

 

きのう(1月20日のブログ)では、エンターテイメントやクリエイティブの世界が、「感情さえ刺激すればよい」「共感が呼べればよい」という風潮を強めている、そんな言葉を紹介した。

その結果のクリエイティブ作品の劣化。そして、その「感情」自体もどんどんダメになっているという指摘がある。

社会学者の宮台真司さんTBSラジオ『デイキャッチ』(1月10日放送)で、「感情の劣化」の問題について語っている。

「感情の劣化問題。昔、日本人の多くが持っていた心の働きが劣化してしまったので、その一方で政治の劣化をもたらし、性愛の劣化をもたらし、一方で犯罪の劣化をもたらしています。犯罪がどんどんずさん化している。それは社会の劣化も示している」

感情の劣化は、クリエイティブ作品の劣化だけにとどまらない。政治への劣化へと続いていく。

「インターネット化は民主制と両立しない。従来政治参加しなかった層がインターネット化を背景に参加できるようになった。感情の劣化がただちにインターネット上にある種の炎上現象を醸し出す。それで政治が、あるいは政治家が動かされてしまう」

 

「人々は鬱屈する。鬱屈した人々は、感情的に劣化しているので、感情の釣りで炎上させれば、社会を手当てしなくとも、政治は回る。ポピュリズムは回る。そして感情の劣化現象に適応した政治的メッセージを発しないと当選できなくなる」

完全に「劣化」のスパイラル現象である。

 

実際、政治の世界では、具体的にどんな動きが起きているか。以前書いたこのブログ(2012年7月10日のブログ) を思い出す。

そこで紹介したドキュメンタリー監督の想田和弘さんの言葉を、ここでも改めて。雑誌『世界』(2012年7月号)より

「橋下氏は、人々の『感情を統治』するためにこそ、言葉を発しているのではないか、そして、橋下氏を支持する人々は、彼の言葉を自ら進んで輪唱することによって、『感情を統治』されているのではないか」

実際に大阪市長の橋下徹氏は、かつて自身のツイッター(2012年5月10日)に、次の言葉を書いていた。

「民主主義は感情統治」

言い換えると、マインドコントロール。こわい、こわい。

2013年3月27日 (水)

「その国とか権力というのは時に暴走したり、過ちを犯す。だから憲法で縛る、というのが立憲主義の本質なんですけどね」

しばらくのあいだ、体罰問題から始まって、外部規律依存という体質にまつわる言葉の紹介が続いていた。しかし今回は、「憲法」をめぐる言葉を紹介してみたい。

一票の格差訴訟で、「憲法」に注目が集まっている。一方で、自民党がつくった改憲草案というものもある。3月11日のブログでは、社会学者の宮台真司さんによる「人権内在説」と「人権外在説」との違いの説明を紹介した。これは、自民党の改憲草案に対して述べたもので、再び「人権外在説」の方へ舵を戻そうとしていると宮台さんは批判している。 

その自民党が作った改憲草案について、東京新聞(3月2日)が特集を組んでいた。その記事の中で、伊藤塾塾長の伊藤真さんは、憲法について改めて、次のように語っている。 

「立憲主義とは、憲法で国家権力縛ること。多くの人が勘違いをしているようだが、憲法は国民の権利を制限するものではないし、法律の親分でもない」 

「草案はその立憲主義とは逆向きで、国民の権利を後退させ、義務を拡大させている。自民党の改憲草案は、人権を保護するための立憲主義を否定している」 

さらに伊藤さんは、TBSラジオ『DIG』(3月21日)の中で、自民党改憲案について次のように語っている。

「本来憲法は、繰り返しますが、国民が人権を守るために国をしばるための道具。それがまったく逆転し、国家が国民を支配し、コントロールするための道具のように実はなってしまったところがある」

「立憲主義の本質を骨抜きにしようという意図ははっきりあるように思える。ですから憲法を、国民をコントロールするための、国の側が国民を、支配というと言葉がきついかもしれませんけど、国が思うような国作りをしたい、そのためには国民にいろいろ従ってください、協力してください。私たち政治家が良い国をつくりますから、国民の皆さん、それに従ってください。この憲法に書いた義務はちゃんと守って、いっしょに良い国をつくりましょう。という発想なんです。国や権力は国民のお友達、仲間です、という発想が根底にある。もちろん、そういう面もないわけじゃないんですが、その国とか権力というのは時に暴走したり、過ちを犯す。だから憲法で縛る、というのが立憲主義の本質なんですけどね。そこを曖昧にしてしまうと、やっぱりまずいだろうなと思う」
 

その自民党の改憲草案で、焦点の一つとなっているのが「96条」。憲法改正には、衆参両院で総議員の3分の2以上の賛成で国会が発議し、国民の承認を得る必要があるが、この規定を「3分の2」から「過半数」に緩和しようとしている。これには、日本維新の会も同意しているもよう。 

維新の会の代表、橋下徹氏は、 『96条改正』について次のように語っている。読売新聞(2月28日)より。

「実行するために何が必要かと言うと、まず中身よりも、実行するための装置をきちんと作らないといけない。実行できない環境の中で、議論したって、コメンテーターのような無責任な議論に終わってしまう」 

「もう右肩上がりは望めない利害関係が複雑化した現代社会においては、政治の重要な役割は利害調整ではなく、決定することです」 

彼が言う、「決定すること」とは、「切り捨てること」と同義なのだろう。 

東大の政治学者、森政稔さんは、そう考える政治家が増えていることについて次のように指摘している。朝日新聞(2012年12月18日)より。 

「『選挙で勝てば民意は自分にあるから何でもできる』というようなかなり粗野な民主主義理解を一般化させてしまったことには、政治改革を推進した学者にも責任があると思います」 

学者ではないが、弁護士でもある伊藤真さんは、TBSラジオ『DIG』で、「選挙に勝てば民意は自分にあるから何でもできる」というような状況、多数決での決定によって、少数を切り捨てざるをえない民主主義の性質について、次のように語っている。 

「ときに民主主義と立憲主義はぶつかりあって緊張関係にあるもの。民主主義だからいいじゃないというわけにはいかない。例え民主主義に基づく私たちが決めた政治でも、多数者による政治でも、守らなくてはいけないこと、やってはいけないことある。ということで歯止めをかけるのが立憲民主主義なんです。ところが、政治家でも『民主主義は大切だ』という人はいっぱいいる。政党の名前でも『民主』がついた政党はいっぱいありますよね。『立憲主義が大切だ』という政治家はほとんどいないし、戦後、『立憲』がついた大きな政党はひとつもない」 

ナチスドイツ、戦前の日本政府、そして最近では、大量破壊兵器によるイラク戦争などなど。歴史上、多数派が間違えることはたくさんある。当たり前のことである。特に、前回のブログ(3月26日)で書いたように、日本社会は「忖度文化」がしみこんでいて、一律に流されやすい体質を持っている。そうした多数による暴走を防ぐためにあるのが憲法。この際、伊藤さんの説く「立憲主義の必要性」を改めて考えてみる必要はあると思う。 


 

2013年1月12日 (土)

「一回どこかで関係ないよって離れないといけないのかなと思っています」

大阪市立高校の17歳のバスケットボール部主将が自殺した問題について新聞やネットの記事を読み込んでいる。今朝の朝日新聞(1月12日)に載っていた元プロ野球選手の桑田真澄さんのインタビューが、やはり心に残った。

私は、体罰は必要ないと考えています。『絶対に仕返しをされない』という上下関係の構図で起きるのが体罰です。監督が采配ミスをして選手に殴られますか? スポーツで最も恥ずべき卑怯な行為です」

「指導者が怠けている証拠でもあります。暴力で脅して子どもを思い通りに動かそうとするのは、最も安易な方法」 

この「暴力で脅して子どもを思い通りに動かそうとする」という指摘は、前回のブログ(1月11日)に書いた「政治家の方々は、すべてをコントロールできると考えているのではないか」ということに通じているように思える。 

少し話は飛ぶが、その政治家である大阪市のトップ、橋下徹市長は、知事時代(2008年10月26日)には、口で言って聞かないと手を出さないとしょうがない」と発言するなど、かつて体罰を容認している。 

その橋下氏は、今回の事件では、市長としては、「こんな重大問題を教育委員に任せておけない」「市教委がどれだけ神経質になって調査したのかをしっかり調べていく」と発言して、市教育委員会の対応を厳しく批判している。いまのところ体罰そのものを否定するのではなく、あくまでも市教育委員会という仕組みの問題という考え方のようである。「仕組みが悪い」と言って、彼が何でも仕組み・システムのせいにしがちなことについては、以前のブログ(2012年6月7日)に書いたことがある。 

と、書いたところで、ラジオのニュースを聴いていたら、今日、橋下市長は、これまでの「体罰容認」について、「認識が甘かった。反省している」「教育専門家らの意見を聞き、スポーツ指導で手を上げるのは前近代的で全く意味がないと思った」と語ったとのこと。正直、「今更」と思わなくもない。少なくとも、容認してきたこの4年間、今回の事件を含め、体罰をめぐる不幸な事件はいくつか起きているはず。それについての自らの責任については、ちゃんとコトバにして欲しいと思う。 

話は、戻る。最初に書いた桑田真澄さんは、以前にも朝日新聞(2010年7月24日) で、体罰についてインタビューに答えている。 その時は、次のフレーズが印象に残った。 

「理不尽な体罰を繰り返す指導者や先輩がいるチームだったら、他のチームに移ることも考えて下さい。我慢することよりも、自分の身体と精神を守ることの方が大切です」

今回自殺した17歳の少年も、親に「部員の信頼を失うので『キャプテンを辞めたい』とは言えない」と言っていたように、主将を辞められなかったり、チームを移れない様々な理由があったに違いない。高校生なりに、人間関係や立場、親に心配かけたくないなど色んな事情を抱えている。でも自殺という「死」を選ぶくらいなら、そういう選択肢もあるのに、とは思くはない。なぜ、最悪の選択肢を選びとってしまうのか。

ランニングコストというのは、お金のことだけでない。人間関係とか色んな事情を、生きるための「コスト」として抱え込み、それによって自分の選択肢を狭めてしまう。それは、年末のブログ(2012年12月25日)で触れたサラリーマンの姿にも重なる。 

上記の桑田さんの他のチームに移ることも考えて下さい」というフレーズを読んだとき、思い出したコトバがいくつかある。まずは、自殺対策支援センター「ライフリンク」代表の清水康之さんが、毎日新聞(2012年9月6日)で「いじめ」について語っていたコトバである。 

「いじめを受けている子は、仕組みから出てしまえば、いじめは成立しないと知ってほしい。まず退避して、どう生きるかは後で考えてもいい。教室も日本もちっぽけなものだ」

正確には「いじめ」と「体罰」が違うのかもしれない。しかし今、自分が身を置く「仕組み」の外に出てみると、新しい世界が見えてくるというのも、ひとつの真理なのかも。 

同じような文脈で、建築家の坂口恭平さんは、朝日新聞(2013年1月10日)で次のように語っている。 

「社会を変えるためには1回はずれなきゃいけないんですよ。でもみんな円がないと怖いという妄想にとらわれすぎている」

ちなみに、ここに出ていくる「円」とは、お金のこと。お金や今の立場を失うことを恐れるのではなく、思い切って外に出てみることで環境を変え、そして身軽になって、社会を変える。ライフスタイルの「断捨離」である。

さらに作家の高橋源一郎さんは、雑誌『文学界』(2012年3月号)に、こんなコトバを残している。 

「結局のところ僕たちが生きている世界の中で何かがうまく回っていないのは、思うに1回他人として遠ざけたうえで選びとることをしていないからじゃないか。考えてみると、そこに行きあたる気がするんですね。 

 だからこれからは特に、どうやって何を選びとるのかが大きな課題になってくると思いますが、そのためには一回どこかで関係ないよって離れないといけないのかなと思っています」

大阪の体罰問題の記事を読んでいて、桑田さんのインタビューから連想して思い出したコトバをざっと並べてみた。桑田真澄さん、清水康之さん、坂口恭平さん、高橋源一郎さんのコメントは、どこかつながっているというか、同じことを言っているように思える。 

体罰、いじめ、閉塞感、変わらぬ社会…。そうした今、目の前に存在する問題は、きっと同根なんだと思う。「仕組みが悪い」と言って、その場にとどまる。何とかなる、と我慢を続けた結果、気がつくと「死」という最悪の選択肢を選ばざるを得ない状況に追い込まれている。だったら、その前に思い切って、その仕組み・システムから飛び出してみる。外に出て、離れてみれば、背負っていた複雑なランニングコスト(重荷)から自由になれるかもしれない。そして、そのシンプルな身軽な状態で、改めて自分の道を選びとってみれば、少なくとも最悪の選択肢を選ぶことは避けられる。そんな感じではないだろうか。

2012年11月 1日 (木)

「この新しい時代には、『バラバラな人間が、価値観はバラバラなままで、どうにかしてうまくやっていく能力』が求められている」

前回(10/18)のブログでは、これからは「強いリーダーシップより、フォローシップ」が必要になるのではないか、ということを社会学者の小熊英二さんの「鍋の世界」の話を引用しながら紹介した。

今週、劇作家の平田オリザさんの新刊『わかりあえないことから』を読んでいたら、同じようなことが書かれていたので紹介したい。


「開き直って、私は政治家は小粒でもいいのではないかと思う」


「他方、政治家に強いリーダーシップを求める声が根強いことも承知はしている。2012年の大阪府知事・市長選の選挙結果はまさにそのあらわれだろう。強いリーダーシップが、私たちを本当に、未来永劫幸せにしてくれるのなら、それもいい。しかし、そこには当然リスクもあるだろう。しかもそれは、原発事故並みに取り返しのつかに大きなリスクだ」

「民主主義が権力の暴走を止めるためのシステムだとするなら、小粒かもしれないが、市民一人ひとりとの『対話』を重視する政治家を生みだす小選挙区制というシステムは、成熟社会にとっては、存外悪い制度ではない。熱しやすく冷めやすい民族の特性を考えるなら、議院内閣制もまた、さして悪い制度だとは思えない」  (P126)


いろいろ批判の多い「小選挙区」について、平田さんは、「対話」を繰り返す、あたかも「鍋の世界」のようにしていけばメリットも大きいと説く。社会学者の宮台真司さんが実施している「コンセンサス会議」というのも、これに近い考え方なんだと思う。


また平田さんは、「対話」と「強いリーダー」との関係について、次のようにも書いている。


「冗長性が高く、面倒で、時間のかかる『対話』の言葉の生成は、当然のように置き去りにされた。強いリーダーシップを持った犠牲者にとっては、『対話』は無駄であり、また脅威でさえあるからだ」


「そうして強い国家、強い軍隊はできたかもしれないが、その結果、異なる価値観や文化を摺りあわせる知的体力が国民の間に醸成されることはなく、やがてそれがファシズムの台頭を招いた」 
(P128)
 


これについては、以前(7/10)のブログでも書いている。また、そのあとのブログ(9/11)では、橋本市長が好む「価値観の一致」という言葉に違和感を持つと書いたが、まさに、「価値観の一致」を急ぐと、それがファシズムが台頭する土壌を促すということなのだろう。その「価値観の一致」について、平田さんは今回の著書で次のようにも書いている。


「日本人に要求されているコミュニケーション能力の質が、いま、大きく変わりつつあるのだと思う。いままでは、遠くで誰かが決めていることを何となく理解する能力、空気を読むといった能力、あるいは集団論でいえば、『心を一つに』『一致団結』といった『価値観をひとつにする方向のコミュニケーション能力』が求められてきた」


しかし、もう日本人はバラバラなのだ。さらに、日本のこの狭い国に住むのは、決して日本文化を前提とした人びとだけではない。だから、この新しい時代には、『バラバラな人間が、価値観はバラバラなままで、どうにかしてうまくやっていく能力』が求められている。私はこれを、『協調性から社交性へ』と呼んできた」

 これからは、「価値観を一致」させることよりも、「バラバラな価値観」を持つ人たちがそれでもうまくやっていく能力が必要になっていく。まさに「鍋の世界」なんだと思う。

2012年10月18日 (木)

「鍋の特徴は、みんなが参加して作ることです」

何だかバタバタしている。そんな中、少しずつ、溜まった新聞や雑誌のコピーを読み進めている。

朝日新聞(9/14)で、「私たちは繋がり始めたのか」と題する特集記事で若手の批評家である濱野智史さんがインタビューに答えていた。

「価値観やライフスタイルが多様化している現代では、ひとつの思想の下に大勢が集うのはほぼ不可能です。ソーシャルメディアに媒介された運動は小さな環の集積だから、むしろリーダーがいない方が、主義主張の違いを超えて、多くの人々がひとつの場所に集まることができる」

「いま世の中を動かすために求められているのは、思想を唱え、人々を力強く導くリーダーシップではない。現に多くの人が集まるというフォロワーシップです」

 「今の政治に欠けているのも、フォロワーシップですよ。リーダーシップがないからみんながついていかないんじゃなくて、みんながついていかないからリーダーシップになってないのです」

その一方で、例えば大阪の橋下市長をめぐる現象をみていると、依然「強いリーダー」の出現を求める社会の風潮は強いように思える。

その風潮について、活動家の湯浅誠さんは、著書『ヒーローを待っていても世界は変わらない』の中で、次のように述べている。

「台頭しているのが『強いリーダーシップ』待望論、『決断できる政治』への期待感でしょう。これは一言でいうと、利害調整の拒否という心性を表しています」 (P24)

「『強いリーダーシップ』を発揮してくれるヒーローを待ち望む心理は、きわめて面倒くさくて、うんざりして、そのうえ疲れる民主主義というシステムを、私たちが引き受けきれなくなってきている証ではないかと、私は感じています」 (P68)

前述した濱野さんがいう「価値観やライフスタイルが多様化している現代では、ひとつの思想の下に大勢が集うのはほぼ不可能」な世界。そんな世界での「強いリーダーシップ」とは、多様化する価値観とライフスタイルの間で発生する「利害調整を拒否」することでもある。すなわち「きわめて面倒くさくて、うんざりして、そのうえ疲れる民主主義というシステム」を放棄することになると湯浅さんは指摘しているのである。

「リーダーシップより、フォローシップ」という世界。社会学者の小熊英二さんが著書『世界を変えるには』に書いてある次のような感じに近いのではないだろうか。

「鍋の特徴は、みんなが参加して作ることです。そこで共同作業をやり、対話しているうちに、『われわれ』意識が生まれます。みんなで作るのですから、料理に失敗しても、誰も文句を言いません。また鍋のいいところは、不満が少ないだけではなく、コストが安いことです。

 そこで幹事がやるべきことは、みんなが作る場を設定することです。ただし鍋は、あまり多人数では作れません」 (P68)

また濱野さんは、先の朝日新聞のインタビューで、現在の政治について次のように話している。

要するに、楽しいことが少なすぎるんですよ。ルールやゴールが複雑でわかりづらく、誰もが手ごたえややりがいを感じられる仕組みになっていない。祭と政。『まつりごと』をもう一度取り戻すべきです。今の政治は、みんなで盛り上がって決めたという祭り性を失っている」

精神科医のきたやまおさむさんは、著書『帰れないヨッパライたちへ』で次のように書いている。

 

「政治家も官僚も経営者も、そして科学者までも、失言といった基本的なテストばかり受けさせられて、『あいつはこんなにくだらない失言をした』『こんな失態を見せた』という部分だけで揚げ足取り、足の引っ張り合いをされて、追及を受けてしまいます。そこで、決定的に忘れられているのは、その人がすぐれた内容を発言しているか、日本にとって大事なことを考えているかです。人物評価が日本や組織にとっていかにプラスになるかではなく、人前で失敗したか、保持すべきものを露出したかどうかでなされてしまうのです」 (P103)

複雑になりすぎて、マイナス面ばかり目を向けるから、政治の世界が楽しくなくなっているということになる。まあ政治の世界だけじゃないだろうけど。

まとめると、多様な価値観、ライフスタイルの中での利害調整が比較的しやすいシンプルな組織を作って、プラス面に目を向けながら、楽しい共同作業を続け、フォローシップを強化していくことが求められるということか。まさに「鍋」の世界である。

2012年9月11日 (火)

「基本的な価値観は一致している」

最近、「価値観」という言葉が、政治の世界でとても流通している気がする。この言葉を特に好きなのが、大阪の橋下徹市長だと思う。

 

先日、維新の会の公開討論会が行われ、橋下氏は、討論会に参加した国会議員や首長らに対して、次のようなコメントを述べている。

 

「基本的な価値観は一致している。一つのグループとしてしっかりまとまれるのではないか」

「価値観を確認し合う話し合いができたのは大きな意味がある」

 

討論会についてのコメントで橋下氏は、何度か「価値観」という言葉を使っている。ただ傍観者として見ていると、参加している政治家とお互いの価値観を確認しているというより、橋本氏の持つ価値観にただ従っているだけのようにしか見えなかったりもする。

 

参加していた東国原英夫氏も「維新の価値観に賛成」と「価値観」という言葉を使って話している。

橋下氏は、今年5/19の記者会見で「リバティおおさか」という施設の補助金廃止に絡んで、次のような話をしている。

 

「価値観と価値観がぶつかったときにどれを採用するか。税の使い方、価値観と価値観がぶつかったとき、どれを採用するか、どの税を使い方として、どの価値観を採用するかの決定権は僕にあります」

 

もし価値観と価値観がぶつかった場合、どこかで誰かが決めないと当然、物事は前に進まない。それは理解できる。だからと言って、自らは選挙で選ばれた者であるとはいえ、上から価値観を押し付けるようなことを続けていることには個人的には違和感を持ってしまう。

 

やはり価値観と価値観がぶつかった場合、まず必要なのはすり合わせの作業だし、その時間ではないだろうか。

ただ、いろいろ読んだり調べてみても、橋本氏にとって「価値観」が具体的に何を指すのかよく分からないのだ。「船中八策」というものは示したが、それは政策であって価値観ではない。依然「こういう社会が理想」というビジョンは全く伝わってこない。よく口にする「とにかく今の体制や意識を変える」というのが、彼の「価値観」だとことなのだろうか。でも、そんなもの大抵の人は持っているのではないか。それは「価値観」というより「感情」というべきものの気もする。

 

以前(7/10)に指摘したように、彼にとって「価値観が一致する」というのは「感情を一致する」という感じなのかもしれない。「感情の一致」は、「価値観の一致」よりも簡単だし、理屈も分かりやすい。でもそうだとすると、過去の歴史が示すように、感情主導で政治を行う場合の危惧は彼にあったりするのだろうか。


話は変わるが、先日、映画『かぞくのくに』を観た。日本に住む在日の家族と、北朝鮮に渡った息子を描いたとても良い作品だった。

 

その中で、主人公のソンホは、妹のリエに向かって、北朝鮮という国についてこんなセリフを吐く。

 

「決定は常にあの国では絶対」
「あの国に理由なんて何の意味もない」
「考えずにただ従うだけだ、考えると頭おかしくなる」
「考えるとしたらどう生き抜くか、だけ」
「あとは思考停止。楽だぞ~!思考停止」

 

家族より国が、個人の命より組織(國體)が優先される国。きっと個人が勝手に価値観を持つことなど許されず、国が持つ価値観の押し付けに従うだけ。個人と組織が価値観をすり合わせの作業など当然のごとく認められないのだろう。

 

以前(5/8)で紹介した立教大学総長の吉岡智哉さんが卒業式で語った言葉を思い出す。

「『考える』という営みは既存の社会が認める価値の前提や枠組み自体を疑うという点において、本質的に反時代的・反社会的行為です」

 

「反社会的行為」である以上、北朝鮮ではソンホが言うように「考えずにただ従うだけだ」ということになる

 

でも、この映画は日本社会にも突き刺さる。多様な価値観に不寛容になっているというのは、日本の企業でも同じこと。「利潤を追うことが良いこと」という価値観に突っ走り、それ以外の価値観を認めない。「儲かる部署は良い部署で、兼ねぬかかる部署は悪い部署」社員に従うことだけを求め、考えることを認めない。その時間は「無駄」とさえ言う。結局、大阪市で行われていることも同じことだと思う。

 

2012年7月10日 (火)

「彼は、『民主主義は国民のコンセンサスを得るための制度なのだが、そのコンセンサスは、論理や科学的正しさではなく、感情によって成し遂げられるものだ』と言っているのです」

先週木曜日(7/5)の朝日新聞に、劇作家の平田オリザさんのインタビュー『ひとりごと国会』が載っていた。政治家の言葉について、内閣官房参与を3年務め、鳩山元総理のスピーチライターもしていた平田さんに聞くというもの。

その中で「対話」と「会話」の違いについて述べた上で、なぜ日本に対話が根付かなかったのかを次のように書いている。

「近代化以前の日本は、極端に人口流動性の低い社会でした。狭く閉じたムラ社会では、知り合い同士でいかにうまくやっていくかだけを考えればいいから、同化を促す『会話』のための言葉が発達し、違いを見つけてすり合わせる『対話』の言葉は生まれてきませんでした」

「近代日本語は、フランス語や英語が150年から200年かけて行った言語の近代化、国語の統一という難事業を40~50年でやってしまった。すごいことです。ただ当然、積み残しや取りこぼしがでてくる。日本だけではありません。ドイツ、イタリアも日本とほぼ同じ頃、地方政府を統一し、近代化を急ぎます。そうすると、対話は余計なんですよ。面倒くさいから。僕は、それが、ドイツ、イタリアのファシズムや、日本の超国家主義の台頭を許したと思っています。対話は民主主義の大前提です」

平田さんは、野田総理の「言葉」から、政治と言葉について語っているが、ちょうど雑誌『世界』7月号では、大阪の橋下市長の特集が組まれていて、その中で映像作家の想田和弘さんが、橋下市長の言葉と政治との関連について語っている。

「橋下氏は、人々の『感情を統治』するためにこそ、言葉を発しているのではないか、そして、橋下氏を支持する人々は、彼の言葉を自ら進んで輪唱することによって、『感情を統治』されているのではないか」

さらに、橋下氏がツイッターで「民主主義は感情統治」とコメントしていたのを受けて、想田氏は、次のように語っている。

「僕はこのつぶやきにこそ、橋下氏が考える政治のイメージが集約されているように思えます。つまり彼は、『民主主義は国民のコンセンサスを得るための制度なのだが、そのコンセンサスは、論理や科学的正しさではなく、感情によって成し遂げられるものだ』と言っているのです」

実に興味深い指摘だと思う。ふつう政治家というのは、論理や科学的正しさを言葉でもって説明し、時間をかけて、市民とコンセンサスをとっていく。コンセンサスをとる過程において、大きな役割を果たすのが、対話であるはず。しかし、橋下氏は違う。対話より、「感情の統治」を重要と考えている。彼にとってのコンセンサスとは、感情的な言葉を投げ、その「感情の一致」のみによって得るものなのである。その結果、時間が省くことができて、スピードある政治が出来るというわけ。

以前読んだ『リスクに背を向ける日本人』という本の中で対談していたハーバード大学社会部長でライシャワー日本研究所教授の、メアリー・L・ブリントンさんも、日本人一般についてだが、こんなことを話していた。

「コミュニケーションが大切だと日本人はよく言いますが、日本人のいうコミュニケーションとは、『感情』に重きを置きすぎているんじゃないでしょうか。いわゆる『心を通わせる』ことがコミュニケーションなんだと」

「しかし、もう一つ必要なのは、『自分の意図や能力を相手にちゃんと伝えるためのコミュニケーション『スキル』です。アメリカ人は子どもの頃から、言葉を使って自分の『意図』を伝える訓練を受けています」

平田オリザさんが指摘するように、日本、ドイツ、イタリアが、近代化を急ぐ中、「対話」を面倒なもの、余計なものとしていたのと同様、橋下氏は、対話によるコンセンサスより、感情の一致によるコンセンサスの方を優先させているということになる。さらに日本人全般に当てはまることでもあるようだ。

政治家が「対話」によるコンセンサスを軽視する風潮、そんな時代にわれわれはどうすればいいのか。平田オリザ氏と、想田和弘氏の両者の考えをひいておきたい。

まずは、平田氏は次のように言う。

「日本は今、成長社会から成熟社会に移行し、富ではなく、負の分かち合いの時代に入りました。国会の体力が緩やかに衰退していく中、何を大事にして、何を諦めるのか。価値観をすり合わせながら、今後の方向性について国民的な合意を形成していかなければなりません。対話が切実に求められています」

そして想田氏は次のように言う。

「まず手始めに、紋切り型ではない、豊かでみずみずしい、新たな言葉を紡いでいかなくてはなりません。守るべき諸価値を、先人の言葉に頼らず、われわれの言葉で編み直していくのです。それは必然的に、『人権』や『民主主義』といった、この国ではしばらく当然視されてきた価値そのものの価値を問い直し、再定義する仕事にもなるでしょう」

それでも我々がすべきことは、対話を繰り返すことによって、新しい言葉をつくり、新しい価値観をつくってコンセンサスをとっていく。それしかないということなのだろう。

2012年7月 7日 (土)

「システムを変えることで個人が変わる時代は終わっている」

さらに追加分その②

先月の初め(6/7)の文章では、大阪市の橋下市長の「仕組みがわるい」というコメントを引いて、「仕組みさえかえることだけに興味を持ち、その仕組みで何をするかを考えない政治家が多いのではないか」というような内容についても長々と書いた。

 

その内容に関することで、以前読んだ村上龍氏の『寂しい国の殺人』という本にあったフレーズを追加として載せておきたい。

 

「『これからの日本をどう変えていけばいいのか』などと言っている人を私は信用しない。そんなたわけたことを言う前に、まずお前が変われ、といつも思う。システムを変えることで個人が変わる時代は終わっている」

改めて書いておく。システムを変えたとしても、個人、そして社会が自動的に変わるわけではないのである。

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