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2014年3月26日 (水)

「そこでは「主/従」「目的/手段」の図式が反転します」

このブログでは、ここ5回ほど(3月20日のブログから)、「大きすぎるシステム」について考えている。

今は、あちこちでシステムが大きくなりすぎて、個々の暮らしがないがしろにされている。これからは、小さなサイズを見直し、「当事者」としての立場で考え、身近なところから変えていくしかないのではないか。

こんなことを考えてきた。

さきほど読み終わったのが、社会学者の宮台真司さん著書『私たちは、どこから来て、どこへ行くのか』。この本の中に、同じ状況について説明している部分があった。

今回は復習しながら、その宮台さんの文章を載せておきたい。以下の言葉は、全てこの本の中から。


「<システム>がある程度以上に広がって<生活世界>が空洞化すると、もはや「我々」がシステムを<システム>を使っているとは言えなくなります。「我々」や<生活世界>というイメージすら、<システム>の構造物、つまり内部表現だと理解するほかなくなります」 (P158)

まさに、前回のブログで紹介した村上春樹さんが指摘する「システムが我々を利用」している状態のこと。
オシム氏が言う「システムが人間の上に君臨する」状態のことである。

「そこでは「主/従」「目的/手段」の図式が反転します。学問的に言えば、それがポストモダンで、それが生じない状態がモダンです。モダン段階では「<生活表現>を生きる『我々』が<システム>を使う>と表現できますが、ポストモダン段階ではそれが難しくなるのです」 (P158)

主と従、目的と手段の逆転。これはいろいろなところで見られる。

「処方箋の話をいたします。欧州は、こうした変化が良いことか悪いことかを、ずっと議論してきました。その結果『便益の増大は良いことだが、絆の崩壊は悪いことだ、ゆえに、絆を守るために多少の便利さの犠牲は仕方ない』という話になりました」 (P166)

文学、演劇、映画など、いろんな作品でテーマとして取り上げてきたということでもある。高橋源一郎さんの指摘通り、それが文学をはじめ、クリエイティブの役割なのである。(3月25日のブログ

「こうして『<生活世界>空洞化=<システム>全域化』がもたらす副作用への処方箋として、『<システム>全域化への制約』が選択されました。80年代半ばに北イタリアのコミュニティ・ハウスから出発したスローフード運動がきっかけです」 (P166)

「ファストフードにスローフードを対置しています。つまり『早い、うまい、安い』もよいが、それによって失うものに敏感になろうという運動です。具体的には、地元商店、地元産業、地元文化、地元の絆などの複合体を作ろうというのです」 (P167)

辻真一さんが指摘するように、「大量化、加速化、複雑化」ではなく、「スモール、スロー、シンプル」を見直す、ということである。(3月24日のブログ

「システムが我々を作ったのではありません。我々がシステムを作ったのです」

 「大きすぎるシステム」。
システムの暴走については、例えばアメリカ映画の世界では『2001年宇宙の旅』をはじめ、最近では、リブートされた『ロボコップ』、『スノー・ピアス』など、ずっと映画のテーマになっている。

日本の映画やドラマでは、あまり思いつかない。

一方、村上春樹さんの小説は、人間の尊厳より「システム」が優先される社会へのとまどいをずっと描いている。だから世界中で受け入れられているのだろう。

その村上春樹さんの言葉。エルサレム賞受賞のあいさつから。『雑文集』より。

「それは『システム』と呼ばれています。そのシステムは本来は我々を獲るべきはずのものです。しかしあるきにはそれが独り立ちして我々を殺し、我々に人を殺させるのです。冷たく、効率よく、そしてシステマティックに。」 (P78)

「システムに我々を利用させていけません。システムを独り立ちさせてはなりません。システムが我々を作ったのではありません。我々がシステムを作ったのです」 (P80)

社会学者の宮台真司さんは、ビデオニュース・ドットコム(2013年10月19日放送)で「巨大化するシステム」について次のように説明していた。

「もともと都市化というのはそういうもの。
都市の利便性というのは、もともと僕たちがより幸せで便利な生活を送るために作り上げていくもの。そのうちに都市システムが巨大になると、都市システムを維持・運営していくための、ある種のコマ、リレースイッチとして各人が存在するように変わっていきます」 (パート2 20分30秒)

思想家の内田樹さんは、著書『内田樹による内田樹』で、個人とシステム(経済)の逆転について次のように書く。

「経済活動はもともと人間が社会的成熟の装置として創り出したものです。経済活動に奉仕するために人間が存在するのではありません。逆です。人間が成熟するための装置として経済活動が存在する。この順逆はどんなことがあっても取り違えてはならないと思います」 (P292)

精神科の斎藤環さん毎日新聞夕刊(2月20日)から。

「人々は自ら所有する中間集団(省庁、自治体、企業などの組織)の利益を最優先するあまり、全体的な国家の安全がなおざりになるという日本的体質の最悪の部分が、原発事故では一気にと呈したことになる」

結局、個人の暮らしより、システムが優先される背景には、巨大化したシステムにぶらさがったステークホルダーたちの思惑がある。映画『スノー・ピアサー』や『ロボコップ』では、それがちゃんと描かれている。

それは、戦前の「國體護持」の時代から、ずっと続いているものなのだろう。

例えば、スポーツ。サッカーの世界でも同じ。元日本代表監督のオシムさんは、次のように指摘している。『オシムの言葉 増補版』(著・木村元彦)より。

「例えば国家のシステム、ルール、制度にしても同じだ。これしやダメだ、あれしちゃダメだと人をかんじがらめに縛るだけだろう。システムは、もっとできるはずの選手から自由を奪う。システムが選手をつくるんじゃなくて、選手がシステムを作っていくべきだと考えている」 (P139)

「大切なことは、まずどういう選手がいるか把握すること。個性を活かすシステムでなければ意味がない。システムが人間の上に君臨することは許されないのだ」 P240)

2013年5月30日のブログを読み返してみたら、ここでもほとんど同じ問題を指摘する言葉を並べていた。

2014年3月25日 (火)

「そこに当事者としての立ち位置を取り戻したものがきっと、つぎの時代をつくるのだ」

今回も続き。
「大きすぎるシステム」から「小さいもの」へ、の流れについて。

当事者。
最近、本を読んでいたら、たまたまだけど「当事者」という言葉を使った文章をいくつか見かけた。

その言葉から考えてみたい。

作家の高村薫さん
『日本人の度量』から。東日本大震災を受けての言葉。

あるいは、日本の場合は、みんなが当事者になり得ると思うのがいちばんの近道ではないでしょうか。ここだけは安全などというところは、どこにもないからです。あすは我が身と思っていれば、他人事にはならないのではないでしょうか」 (P90)

哲学者の鷲田清一さん。同じく『日本人の度量』から。

「今大切なことはデリベレーション=熟議ということではないでしょうか。みんながさっと答えを出すのでなくて、あるいは感情的に反論するのではなく、みんなが自分が当事者だと思って、政治のことも、地域社会のことも、異なる意見があって当然だから、議論を繰り返し繰り返し行って、みんなが納得して判断を行う、というのが政治においては大事なのではないでしょうか」 (P154)

そして、佐々木尚俊さんの言葉。本のタイトルにも「当事者」が入っている著書『「当事者」の時代』から。

「それでも闘いつづけるしかない。そこに当事者としての立ち位置を取り戻したものがきっと、つぎの時代をつくるのだ。これは負け戦必至だが、負け戦であっても闘うことにのみ意味がある」 (P463)

システムが大きくなりすぎて、今は、みんなが「当事者」ではなくなっているということ。

NPO法人「地域再生機構」の平野彰秀さんは、朝日新聞(2012年5月29日)で、まさにそのことを書いている。


「高度化する現代社会は巨大なシステムが複雑に絡みあい、自分の生活がどう成り立っているのか、みえなくなっています」

「私たちはシステムに自動的に組み込まれてしまうから、管理・運営への責任感や主体性は当然育まれません。平時は『誰か』に全くのお任せだし、問題が起きると『誰か』に文句をいう。文句をいって溜飲を下げたり、不安を紛らわしたりしかできない人が大多数の社会は危うい」

宮台真司さん
がよくいう次の言葉も同じことである。『原発をどうするか、みんなで決める国民投票へ向けて』から。

「〈任せて文句をいう社会〉から〈引き受けて考える社会〉へ!」 (P56)

これからは、個々が「当事者」として、引き受け、考え、熟議する。そのためにも、大きなシステムではなく、小さな共同体のようなものの中で、なるべく自分が「当事者」になれる状況を増やしていくことが必要となってくるのだろう。

さらに興味深い指摘も。文学について。

作家の高橋源一郎さん東京新聞夕刊(3月6日)から。

「すごく簡単に定義すると、文学って遠く離れたものと、今ここにあるものとを結びつける行為。物理的な距離だけじゃない。自分とは関係ないように思える死でも、自分のよく知る死と共通する部分がある。そうした寄り添う回路を新たにつくり出すことができるんです」

実は既に自分も「当事者」だったりするのである。ただ、気付いていないだけだったり、思いが至っていなかったりするだけ。

自分とは関係ないと思っているものから「共通性」をあぶり出し、自分も「当事者」だと気づかせるもの。それが文学だという指摘である。

なるほどである。

きっと文学だけでない、ジャーナリズムや、あらゆるクリエイティブも本来その役割を果たさなければいけないのだろう。

まさに「当事者」の時代には、メディアの役割もより問われる。

2014年3月24日 (月)

「私はその小ささにしか、日本の希望はないと考える」

前回の続き。
では、どういう「小さなシステム」で個々の暮らしを守っていけばいいのか。
今回は、そんな言葉を。

社会学者の宮台真司さんビデオニュース・ドットコム『Nコメ』(1月18日放送)から。

「自分の周辺からやっていくしかない。それは共同体自治をできるだけ貫徹すること、ホームベースを作り直すこと、前哨戦を作り直すこと、それらによって、感情の劣化と教養の劣化に抗い、ポピュリズムに負けないようにする。巨大システムが、今後、市場や行政が、うまく働かなくなっても、自分たちで自分たちを助けることができるような枠組みを作っていくしかない」 (1時間21分ごろ)

もうひとつ宮台さんの言葉。朝日新聞(2013年6月19日)から。

「これからは小さくなるパイを分け合って幸せならなきゃいけない。『我々が住むのはこういう街だから、それじゃなく別のものが必要だ』という客観的な評価が欠かせません。これは中央の官僚にはできない。全国一律基準はリアリティーを欠く虚構です」

これからは、大きな一律の基準ではなく、個々の価値観で決めていく。

劇作家の平田オリザさん朝日新聞(2013年4月16日)より。

「個々の価値観によって緩やかにつながる出入り自由な、そして小さな共同体を幾重にも作り、ネットワークを広げていく。その小さな共同体で、小さな経済を回し、地域に誇りを持って生き、経済も少しずつ活性化していくことは、B級グルメや地域のゆるキャラの成功を見るまでもなく、その萌芽は、そこかしこに出てきているように思う。私はその小ささにしか、日本の希望はないと考える」


やはり、「小さな共同体」というのがキーワードでもある。

哲学者の内田節さんの言葉。朝日新聞(2013年3月13日)『リフレ論争の限界』より。


「若い人たちは物価も賃金も上がらないなかで、お金を使わずに生活するノウハウを持ち始めています。たとえばシェアハウスに住む人が増えている」

「お金ですべてを得る市場経済ではなく、何らかのコミュニティーにつながり、みんなで生きる経済。助け合いながら、社会的な役割を果たせるような働き方をしようという動きが強まっています」


最後に。思想家の内田樹さんの言葉を載せておきたい。自身のツイッター(2011年1月17日)に書いていたもの。

「『悪のシステム』に対抗するのは、『正しいシステム』ではなく、小さな、ローカルな、でも手触りの温かい『物語を語り継ぐ共同体』である。『物語』の破格さだけが、システムの遍在性を打ち破ることができる」

 

2013年5月 8日 (水)

「相手と自分の違うところ、相手の言動のよく理解が及ばないところは、とにかく面白がるところです」

4月25日のブログ翌26日のブログでは、「これからは価値観が異なる相手とのあいだに小さな共通項を見つけてうまくやっていくことが大事になる」「それは結婚に似ている」というような内容の言葉を並べてみた。新たに同じ指摘をみつけたので、追加として載せておきたい。

ノンフィクションライターの高橋秀実さん著書『男は邪魔!』のなかに、結婚ということについての次の言葉を見つけた。

「価値観も違って当たり前。価値を見いだす対象が異なるのかもしれないが、違うから合わせようとする。違いあっての合わせる努力ということで、それこそが愛。ひいては結婚というものではないだろうか。不自然かもしれないが、不自然だからこそ努力する甲斐があるのではないか」 (P75)
 

そして前回も取り上げた内田樹さん『「正しいオヤジ」になる方法』の中でも、次のように語っている。

「相手と自分の違うところ、相手の言動のよく理解が及ばないところは、とにかく面白がるところです。『ああ、妻はこんなことを考えていたのか!』って、驚く」
 

自分の体だってそうじゃないですか。勝手なリズムで動いて、勝手に眠くなったり、お腹が空いたりして、勝手に衰えて、勝手に病んで、勝手に死んでしまう。自分の身体でさえ意のままにならないんですから、他人においておや、です。配偶者も、そんな意のままにならない自分の体の延長みたいなものだと考えてればいいんじゃないですか」 (P124)

価値観が違い、ままならない、コントロールが効かない相手とうまくやっていく。すなわち「結婚」というものと、「社会の人間関係」との共通点は多いということ。ほんと、そう思う。

もうひとつ追加。マイケル・サンデルさん著書
『それをお金で買いますか』のなかで、次のように書いていた。

「民主主義には完璧な平等が必要なわけではないが、市民が共通の生を分かち合うことが必要なのは間違いない。大事なのは、出自や社会的立場の異なる大人たちが日常生活を送りながら出会い、ぶつかり合うことだ。なぜなら、それがたがいに折り合いをつけ、差異を受け入れることを学ぶ方法だし、共通善を尊ぶようになる方法だから」 (P284)

価値観の違う人がぶつかりあい、共通項をみつけて折り合っていく。個人的には「折り合い」という言葉は好きである。


さらに追加。活動家の湯浅誠さん著書『ヒーローを待っていても世界は変わらない』から。

「問題は処方箋です。ではどうしたらいいか、でそれぞれの意見が分かれる。私には私の意見があり、別の人には別の意見がある、それがあたりまえです。逆にそうでなければ気持ち悪い。みんなが同じ意見を持っているような社会は、自由な社会とは言えないでしょう」

「だから異なる意見を闘わせ、意見交換や議論をする中で、お互いの意見を調整することが必要となります。夫婦や親子のような親しい関係でも、自分の意見や意向だけを一方的に主張し、『おれの言うことを聴かないおまえが悪い』と言い続けていたら合意形成に至らないことは、誰もが経験していることだと思います」 (P46)

2013年4月26日 (金)

「よく理解もできないし、共感もできない他人と、それにもかかわらず生活を共にし、支え合い、慰め合うことのできる、その能力は人間が共同体を営んでゆくときの基礎的な能力に通じていると僕は思います」

きのうのブログ(4月25日)の続き。価値観が違う人たちが、それぞれの違いを認めながらも、小さな「共通項」を見つけて交わっていく。これこそ、これからの社会で必要なこと。そんな言葉を並べた。

ただ、これは以前のブログ(2012年9月11日) に書いたが、「価値観の一致」を求める大阪市長の橋本徹氏などのやり方とは、対極にあるのだと思う。(このときのブログで、映画『かぞくのくに』の言葉を取り上げているのも興味深い) 

そもそも日本人が、価値観の違う相手と「共通項」を見つけて付き合っていくのが苦手と背景には、思想家の内田樹さん書籍『学問ノススメ』で指摘した以下のことも関係しているかもしれない。 

「テレビに慣れた今の子どもたちは、政治っていうのは、ただ自説をがなり立て、相手の非を鳴らすだけのことだと思っている。『私が正しい。お前は間違っている。じゃあ、どちらが正しいか選挙で決めよう』が政治だと思っている。でも、そうじゃないでしょう。政治というのは、もっとずっと複雑で、デリケートで、長い時間の幅の中で『落としどころ』を探るものです。勝ったほうが『総取り』するものではなく、当事者全員が『同じくらい不満足』なソリューションを見出すものでしょう。その現実をメディアを通じで学習する機会がない」 

「今の子どもたちが合意形成がヘタなのは、合意形成に至るプロセスを見たことがないからでしょう。はじめは対立していた意見がしだいに歩み寄って、ある妥協点にたどりついて、それぞれ不満顔ながらも握手するプロセスを見たことがない」 (P19) 

また劇作家の平田オリザさんの次の指摘も鋭い。毎日新聞(2012年3月8日)より。 

「日本語には対等な関係でほめるボキャブラリーがほとんどない。上から『よくやった』とか、下から『すごいですね』と持ち上げる。英語などではワンダフル、ビューティフルと対等な言葉が多いんですが、日本語には少ない。だから『頑張れ』としか言えない」

相手とすり合わせる際に、対等な関係・対話をする言葉そのものが少ないというのである。やれやれ。では、どうしたらいいのか。
 

教材作家の北川達夫さんは、『ていねいなのに伝わらない「話せばわかる」症候群』で次のように書いている。 

「相手の見解があって自分の見解がある、それが対立するとお互いが変わってくる。まさに、その変わってくるところを楽しめるか。そこを重視できるかですよね」 (P175) 

内田樹さんは、そうした行為を日々実践しているのが「結婚」だという。著書『呪いの時代』から。 

「結婚が必要とするのは、『他者と共生する力』です。よく理解もできないし、共感もできない他人と、それにもかかわらず生活を共にし、支え合い、慰め合うことのできる、その能力は人間が共同体を営んでゆくときの基礎的な能力に通じていると僕は思います」 

「自分と価値観が違い、美意識が違い、生活習慣が違う他者を許容することができない人が増えている。社会人としての成熟の指標のひとつは他者と共生できる能力、他者と協働できる能力です。この能力を開発するうえで結婚というのはきわめてすぐれた制度だと思います」 (P120) 

まったく違う場所で、著書『銃・病原菌・鉄』で話題の地理歴史学者のジャレド・ダイヤモンドさん同じことを指摘していたりして、興味深い。朝日新聞2012年1月3日『文明崩壊への警告』より。

「社会を存続させる秘訣は、結婚生活を続ける秘訣を同じ。『現実的であれ』ということです。結婚生活を続けるには、夫婦の間のあらゆる問題で合意や妥協が必要です。それと同じく、水、森林、治安、人口、外交など、次々と生じる社会問題のひとつから目をそらし、対策を怠れば、そこから社会は崩壊してしまう」 

まあ、結婚する人が減っているのも事実なんだが、僕自身について考えてみても、結婚というものを通して、かなり自分の価値観が変わっていったと思う。違う価値観と出会い、自分が、もしくは相手が少しずつ変わっていく。

結婚と同じように、お互いのコミュニケーションから、小さな「共通項」を見つけ出し、そして合意し、妥協し、支え合い、慰め合う。その繰り返しこそが、いろんな価値観を持つ人たちの集まる社会で上手にやっていくということなのだろう。その過程で、北川さんのいうように自分が変わってくことを楽しめれば…。

 

2013年4月25日 (木)

「違いばかりを強調せず、共通項をたくさん探しながら『普遍』を探って行きたいと思っています」

前にも少し触れたが、スピルバーグ監督の映画『リンカーン』を観た。崇高な目的を実現するためには、あの手この手を使うという、キレイごとだけでないリンカーンの政治手腕を淡々と描いている。これぞ政治、これぞ議会、これぞ民主主義という感じだった。印象に残ったシーンは多いが、そのひとつが、価値観の違う政治家かたちとの間に小さな「共通点」を見つけ、味方に引き込んでいくというやり方。そのシーンで、うまく「言葉」は拾えなかったけど。

そこで、価値観が違う相手と「共通点」「共通項」を探っていく、ということで、思い出した言葉を並べていってみたい。 

まずは、こちらから。先月末に代官山蔦屋で、映画監督のヤン・ヨンヒさんが、ジャーナリストの木村元彦さんと映画『かぞくのくに』についてのトークショー(3月30日)を行った。そこでヤンさんは、会場の人からの「日本と海外で、映画を観た人の反応に違いはあるか?」という質問に、次の感じで答えていた。 

「海外の人たちの反応で印象的だったのは、映画の中に自分たちのとの共通点を見つけてくれ、そこから話してくれること」 

自らのブログ『ヤンヨンヒの気まぐれ日記』(2011年4月9日)のコメントへのアンサーとして、もう少し詳しく書いていた。 

「ほんと、家族って一つ一つ違いますが、とても共通点があって不思議ですね。海外の映画祭でも肌の色に関係なく『ヤンさんと私の父親はそっくり!』とか言われました。違いばかりを強調せず、共通項をたくさん探しながら『普遍』を探って行きたいと思っています」 

右翼として知られる鈴木邦男さん文化放送『大竹まこと ゴールデンラジオ』(4月8日)に出演したとき、次のように語っていた。

「右と左の対立があるんじゃなくて、話し合える人と話し合えない人の違いがあるんだと思う。同じ右翼だって、かえって距離感がないと危ない。俺とおまえは同じはずだ、100%。なのに、こここが違うのは許せない。逆に労働組合とか左翼の人たちから呼ばれると、全く違うはずだ、でも1%でも合っていると、いいこと言うじゃないかと。最初から距離感があるから。人間関係は家族でもそうだけど、距離感があった方がいいのでは」
 

劇作家の平田オリザさんは、『ていねいなのに伝わらない「話せばわかる」症候群』の中でのように語る。 

「これからの日本社会は、協調性(価値観を一つにまとめる能力)がいらないとは言わないけれど、それよりも社交性(異なる価値観をそのままに、知らない人同士がどうにかうまくやっていく能力)が必要だ」 (P218)

教材作家の北川達夫さんも、著著『フィンランド流 伝える力が身につく本』で、端的に言っている。

「現代に必要とされているコミュニケーションとは、第一に他人との違いを認め、そのうえで『同じもの』を探していく作業だからです」


映画『舟を編む』での、松田龍平さん演じる馬締光也くんと、渡辺美佐子さん演じる大家のタケおばあさんとの会話。 


馬締
 「自分には他人の気持ちがわからない」


タケ 「他人の気持ちがわからないなんて当たり前じゃないか。だからこそ言葉を使って喋らなくちゃ」 

この会話でも、「『他人の気持ちがわからない』といって、コミュニケーションを立つのではなく、だからこそ言葉を使って『共通点』を探し出し、交わっていくしかない」というようにも取れる。 

価値観が違う人たちが、それぞれの違いを認めながらも、「共通項」を見つけ、そこで対話し、なんとかうまく付き合っていく。これこそが、これから求められていくことなのだろう。

2013年3月11日 (月)

「処罰への恐怖だけで規律を守っている人は、規律が利かない場面、処罰の恐れがない場面では、いきなり利己心や暴力性を噴き出してくる」

先日のブログ(2月13日)でも紹介したが、著書『荒天の武学』の中で、思想家の内田樹さんは、次のように語っている。

「今の日本人が失った最たるものは、その自己規律ですね。外的な規律は、違反すると処罰されるから、恐怖ゆえに違反しない」 

「自己規律が内面化された人は、外的な規律や処罰の有無とは無関係に、自分で決めたルールに従って行動する」 (P234) 

日本人は、「自己規律」を失い、「外的規律」に従う風潮がある、という指摘である。この指摘もまた、前回(3月7日)のブログに書いた「ルールや法令をやみくもに遵守する」という問題と、基本的には同じ構造である。 

活動家の湯浅誠さんの著書『貧困についてとことん考えてみた』には、こんな言葉もあった。 

「一律が好きだというのは、やはり、自分に自信がない。自分自身の判断基準を持っていないということじゃないんでしょうか」 (P166) 

日本社会の特徴としてよく指摘される「一律」、「空気を読む」というのも、すなわち「外部規律」に従うことである。まさに一律に「外部規律」に従ってしまうと、社会が一気に同じ方向に流れるという現象が生まれる。そうやって日本はかつて戦争に突入したのである。 

少しだけ話は飛ぶかもしれないが、「人権」というものについて、先日、「ビデオニュース・ドットコム」の『ニュースコメンタリ』(2月23日)で、社会学者の宮台真司さんが、次のように説明していた。 

「公共の秩序をどう理解するかというときに、人権内在説(社会内在説)という立場と、人権外在説(社会外在説)的な立場と言うのがある。前者が連合国的、後者が枢軸国的」 

その「人材内在説」について、宮台さんは次のように説明する。 

「前者はお互い人権は持っている、お互いの人権がバッティングし両立不可能なときに、どうするか。片側だけが人権を主張することが許されない。人権の両立可能性の問題に照準化する。もうひとつ重要な問題は、お互いが人権を実現、有効利用するのに必要なプラットホーム、コモンズですよね、そうしたものも公共の秩序にあたるわけ。これは国家が提示するものではなく、僕らが市民社会を営む上で、場の存在とか、インフラの存在とか、メディアの存在とか、そうしたものが必要だと思えば、それが潰されてしまうことも実は公の秩序への侵害なんだと考える」 

これに対して、「人権外在説」については次のように説明している。 

「人権外在説という立場というのが、まったくそれとは違っていて、市民社会で人々はなにをどう考えていようが、それとは関係なしに、良き秩序という観念が存在していて、良き秩序という観念を提示するのは統治権力。だから市民社会、人権という概念の外側から良き秩序という概念が覆いかぶさるかように入ってきて、それが人々を規制できるんだという考え方」 

この話も非常に興味深く聴いた。これも人権をめぐる「自己規律」と「外部規律」の話なのである。同じ構造だ。統治権力が定める人権、すなわち外部が定める人権(外部規律)に個人は従え、というのが戦前の日本を含めた枢軸国の考え方で、それを連合国が駆逐して、世界標準となったという。 

最近の政治の状況、自民党の憲法改正案などをみていると、またしても戦前の「人権外在説」に戻ろうとしているのではと考えたくなってくる。体罰問題から、憲法問題まで。もはや「外部規律」から脱せない日本社会の「病」は、そうとう深刻な根深いもののように感じられる。 

では、なぜ外部規律に依存してしまう状態が心配なのか。 武道家の光岡英稔さん『荒天の武学』で、次のように語っていた。

「戒律を『守らなくてはいけないもの』というふうに自分の外に置いて、求めるものにしてしまうと問題です。自己責任ではなく、ルールに従わないといけないものになってしまう。そのルールを守っているから『書かれていないことには従わないでいい』という甘えをつくってしまう」 (P234) 

この本の中で、内田樹さんも次のように語る。 

「処罰への恐怖だけで規律を守っている人は、規律が利かない場面、処罰の恐れがない場面では、いきなり利己心や暴力性を噴き出してくる。これは本当にそうですね。外的規律の厳しい集団で育てられた人ほど、無秩序状態のときにでたらめな振る舞いを始める。自己規律が内面化された人は、外的な規律や処罰の有無とは無関係に、自分で決めたルールに従って行動する」 (P234) 

ホリエモンの事件を思い出した。法・ルールが整備されていない部分では何をやってもいいという考え方。結局、外部規律に依存するからこそ、ときに「暴走」を生む。そういってもいいのかもしれない。

2013年1月15日 (火)

「日本はエレベーターのメンテナンス価格がものすごく高いんです」

日本社会が内包するランニングコストが、「移動」などなど、我々の生活の幅を狭めているのでは、という話を、年末のブログ(2012年12月25日)で書いた。そのランニングコスト構造の象徴的な話を思い出したので掲載したい。

建築家の隈研吾さん『日本人はどう住まうべきか』という養老孟司さんとの対談本の中で、日本の高層住宅の住まいの設計の幅のなさ、画一性について語っていた。 

「日本はエレベーターのメンテナンス価格がものすごく高いんです。だから高層の集合住宅の場合、エレベーターはたったの1か所で、その脇がダーッと長い廊下であって住戸が並ぶスタイルが日本では基本的になっちゃった。あれは、世界ではすごく異常な配置構造なんですよ。 

 日本はエレベーター1基あたりに対する戸数を多くすることで、1戸あたりのランニングコストを減らせるようにマンションのプランを作ります。
 日本の長屋方式だと、外の景色は開かれることなく一方向にしか間口がなくて、廊下側は格子付きの刑務所スタイル。後は全部隣の住戸の壁になってしまう。そういう方式の中で、日本ではエレベーター会社がメンテで儲けているんですね」 (P104)

エレベーターのランニングコストが住まいのスタイルまで規定する。しばりつける。部屋の間取りの多様性を奪うだけでなく、景色を楽しむことも押しのけられ、我々は、壁に囲まれた「刑務所スタイル」に住むことになる。そんな部屋では窓も少なく、風通しだって限定される。その結果、当然、エアコンが必需品となる。そして電気量もどんどん増えていき、生活のランニングコストそのものも膨れ上がっていく 

人の住み心地や、社会の安全性より、ランニングコストで稼ぐ企業の存在を優先する。どこかで聴いたことある構図のような気がする。 

日本の電力使用量を減らすためには、そもそもこうした住宅の構造から変える必要があると思うのだが・・・。必ず、いろんな方向に窓を設置する部屋を作らせ、風通しをよくする。その結果、冷房の使用を減らさせる。そうすれば、電気使用量だって減り、原発の依存率も減る。そのための、規制や建築環境の整備を進めた方がよいのではと、素人ながら思う。 

ちなみに我が家は、窓の箇所が多く、風通しも良いため、ここ数年、エアコンを使ったことがない。自然の風と、扇風機と、あとは我慢である。風通しの良い構造の部屋に感謝したい。 

以前、知り合いに、この隈さんの話をした。すると、その知人のマンションでも、エレベーターのメンテナンス費が問題となったことがあるそうだ。契約していた会社に、まず「見積もりを出せ」というと、その時点で、メンテ費は3分の2にすると言ってきた。しかし見積もりを出させ、他社と比べたうえで、エレベーター管理会社を変えたところ、メンテ代は、年間800万円も安くなったということ。100戸のマンションで、800万円は大きい。その分、居住者たちのランニングコストとして圧し掛かっていたのである。 

その知人の話で、もうひとつ興味深かった話も。それまでマンション内で配る「瓦版」のような新聞も同じ会社に委託して作っていた。その時から、そのフォーマットを自分たちで作成し、自分たちで新聞を作ることにしたところ、当然、その費用も浮くことになった。さらに予想外のことも起きた。住居者の勇士たちが集まり、記事や文章を書きだしたところ、マンションの集まりの参加率が上がっていったということだ。たいへん興味深い。 

ランニングコストを下げることで、我々にとって住みよい環境を作る。理想のパターンだと思う。 

建築、テナント、住居のランニングコストを減らす方法について、同じ隈研吾さんの本の中に載っていた。養老孟司さんとの対談である。ちょっと長いけど、引用させていただく。 

 「汐留にあるような大きなビルを建てた場合、サラリーマン的な考え方では、すべてのテナントからきちんと家賃をとらなきゃいけないわけです。でも、そうやって計算を積み上げると、家賃が高くなって、なかなか普通の店が入店できなくなる。入店できたとしても、長期的に商売できるということは少なくて、短期的に成り立てばいいようなショールームやアンテナショップがほとんど。汐留を歩けば分かりますよ。この場に根付いて長く商売するのではなく、何年か後には撤退するような店しかないわけです。それでは楽しく歩ける街ができるわけがないですよね」

養老「二度と行く気にならないよ」 


隈 「アメリカでは超高層ビルの足元に花屋さんがよくあるんです。家賃をものすごく安く抑えて、1階に入ってきてもらうわけです。つまり、花屋さんは植木、並木と同じなんだ、という考え方ですね。並木から家賃をとるやルはいないだろうということで(笑)」 

養老「確実に花を飾ってくれて、しかも自分でメンテナンスをしてくれるんでしょう。そんなにいい並木はないよね」 

 「要するに人間付き緑ですよね。で、アメリカ人はコーヒーショップも同じように考えるんです。コーヒーショップは街に楽しい雰囲気を作ってくれるんだから、家賃を取っちゃダメだ、と」 (P86) 

自分たちの生活を縛り付けているランニングコストを減らして、それでも「快適さ」を保つヒントが、知人の「瓦版」の話と、くまさんと養老さんの「花屋」の話の中にあるような気がする。

2011年12月 9日 (金)

「いろんな乗り物を平等に扱うべきだよ」

先週土曜日(12/3)のTBSラジオの番組『鈴木おさむ 考えるラジオ』。テーマが自転車についてだったので、録音で全編を聴いた。

内容としては、最近、自転車の利用者が増えていて、その事故も急増しているので、このまま自転車を野放図にしていていいものかというもの。賛否両論を取り上げているものの、ライセンス制度を導入するなど、自転車にも新しいルールや規制が必要という、これまでの自転車論の域を出るもではなかった。

正確のために記しておくと、自転車事故は増えているわけではない。ここ数年は微かだが減っている。ただ、自動車事故の方が大きく減っているため、全体の事故に占める自転車事故の割合が増加している。これが現状なはずである。

自転車乗りの立場としてゲスト出演していた玉袋筋太郎さんの「いろんな乗り物を平等に扱うべきだよ」というフレーズが印象的だったので、冒頭に取り上げた。まったくその通りだと思う。自動車の理屈を中心にものごとを考えても、話は先に進まない。歩行者、自転車なども平等に取り上げ、規制や罰則の方も設けるなら「弱者優先」の意識を確認したうえで、平等に行うべきなんだと思う。

結局、テレビやラジオで、マナーについて話し合う場合は、それぞれのひどいマナー違反の例を列挙して、「やはり、お互いに新たな規制が必要である」という結論に落ち着くのがパターンなのである。お互いの悪いところを言い合っても、増えるのは規制やルールばかり。本当に良い結果にはならない。

番組を聴いていて、弁護士の郷原信郎さんの著書『思考停止社会』に書いてあった指摘を思い出した。

「『社会的規範』というのは、社会の中で人々がその価値を認め合って、大切に守っていこうという基本的合意ができているルールです」

「『社会的規範』がその本来の機能を果たすためには、それを無条件に守ることを強制する『遵守』の関係ではなく、『ルールとしてお互いに尊重する』という関係が必要なのです。『社会的規範』に関しては、『遵守』のような上命下服の世界ではなく、人間同士が、そして組織が、フラットな関係であることが必要なのです」

玉袋さんのいう「平等」という言葉が、ここでは「フラットな関係」を置き換えられている。

せっかくなので改めてボクの「道路」の考えについて書いておきたい。

今一度、「道路は誰のものか?」についてちゃんと考え直す必要があるというのがボクの考え方。先日も、ここに書いたが、日本社会では、高度成長期以降、道路という場所は完全に自動車のものということになってしまった。車の数が増え、車が経済を支え、車の税金で道路を整備したことが背景にあるのだろう。その一方で、ヨーロッパを中心とした社会では、道路は市民のものなのである。

改めて、朝日新聞(10/20)に掲載されていた津田塾大学准教授の萱野稔人さんの言葉を引用する。

「そもそも街頭は誰のものか。日本では、車のものですが、ヨーロッパでは人間のものです。~中略~ 街頭とは、人々が自然発生的に集まり、意思表示をする公共空間です」

日本だって、ボクの小さい頃、30~40年前なんかでも、幹線道路以外の道は、子供たちの遊び場でもあった。路地で走り回り、落書きをし、野球だってした。時々、車が通るとよけ、また遊びを再開する。車も当然、徐行してくれた。数年前、田舎に帰った時、聞いたのは、今は、路地でも車がスピードを落とさないため、とても危ないので、子供には道路では遊ぶなと言っているということ。近くに公園もないので、結局、子供たちは家の中で遊ぶ傾向が強くなるとのことだった。

「道路は誰のものなのか?」道路という公共の場所は、本来、歩く人のものでもあり、自転車に乗る人のものでもあり、自動車に乗る人のものでもあり、そこで遊ぶ人のものでもあり、デモをする人のものでもあり、露店などものを売る人のものでもあり、大道芸を披露する人のものでもあり、近くに住む人のものでもあり、もしかしたら、そこに住むホームレスの人のものでもあるかもしれない。そう考えると、これまでの日本のように自動車が「これはオレの場所だから、どきな。オレたちに迷惑をかけるじゃないよ」という風にみえた状況は、特別なことだったのである。

経済が右肩下がりになり、車の数も減り、移動手段の多様性が広がった今こそ、改めて「道路は誰のものか?」を考え直して、新しいルール作りをする良いタイミングなんだと思う。

例えば…。幹線道路などは、当然、車が優先されてしかるべき。代わりに、街なかの道路や路地などは自動車の通行を色んな条件に合わせて規制することで、ほかの人たちと共存を図るべきなのではないか。ある道路は、自転車専用道にスペースを譲る。歩行者のためにスピードの規制を強める。また路面電車に場所を譲ったりもする。土曜日や日曜日には、歩行者天国にして、歩行者や大道芸人たちに場所を譲る。また時間によって都心への進入を規制するロードプライシングという制度の導入だってありなのかもしれない。

こういう話をしている時、「よく日本の道路はせまいから仕方がない。共存なんて無理」という意見が聴かれる。でも道路が狭いのは、日本だけではない。世界中の都市は、おおむね街なかの道路は狭い。ヨーロッパの旧市街地の道路なんて、日本以上に狭い所もたくさんある。だからこそ、いろんなルールを共有しながら、全体でシェアができるようにして、社会を流れるようにデザインしているのである。決して、車だけが優先されることはない。

また僕としては、ラジオの番組でも取り上げられていた自転車のライセンス制度をすべて否定しない。状況次第では、導入してもよいと思う。ただ自転車のライセンス制度を導入している国など、ほかにはないことも理解した方が良い。日本人だけが特別に自転車のマネーが悪いとは考えにくい。日本が特別にその制度を導入せざるを得ないとしたら、その背景には、他の国より自動車が優先されている道路事情があるから、という理解も必要でないかとも思う。

その前に、今まで道路を「車のモノ」として、自動車による利用を最優先してきた意識を一度、ゼロにして、改めて、いろんな利用者たちと平等に振り分ける作業をしてはいかがだろうか。利益や痛み両面を、それぞれに平等に振り分けるのである。場所や時間、流れを整理して、規制することは規制して、みんなとの共生・共存をはかる。そういう時期に来ているのだと思う。

でも、この作業が必要なのは道路だけではないのだろう。まさにこうした作業をいろんな場所に広め、これまで経済優先だったルールやシステムを改めて刷新していくことが、これからの「公共の場」では必要になっているのだと思う。

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