「そこでは「主/従」「目的/手段」の図式が反転します」
このブログでは、ここ5回ほど(3月20日のブログから)、「大きすぎるシステム」について考えている。
今は、あちこちでシステムが大きくなりすぎて、個々の暮らしがないがしろにされている。これからは、小さなサイズを見直し、「当事者」としての立場で考え、身近なところから変えていくしかないのではないか。
こんなことを考えてきた。
さきほど読み終わったのが、社会学者の宮台真司さんの著書『私たちは、どこから来て、どこへ行くのか』。この本の中に、同じ状況について説明している部分があった。
今回は復習しながら、その宮台さんの文章を載せておきたい。以下の言葉は、全てこの本の中から。
「<システム>がある程度以上に広がって<生活世界>が空洞化すると、もはや「我々」がシステムを<システム>を使っているとは言えなくなります。「我々」や<生活世界>というイメージすら、<システム>の構造物、つまり内部表現だと理解するほかなくなります」 (P158)
まさに、前回のブログで紹介した村上春樹さんが指摘する「システムが我々を利用」している状態のこと。
オシム氏が言う「システムが人間の上に君臨する」状態のことである。
「そこでは「主/従」「目的/手段」の図式が反転します。学問的に言えば、それがポストモダンで、それが生じない状態がモダンです。モダン段階では「<生活表現>を生きる『我々』が<システム>を使う>と表現できますが、ポストモダン段階ではそれが難しくなるのです」 (P158)
主と従、目的と手段の逆転。これはいろいろなところで見られる。
「処方箋の話をいたします。欧州は、こうした変化が良いことか悪いことかを、ずっと議論してきました。その結果『便益の増大は良いことだが、絆の崩壊は悪いことだ、ゆえに、絆を守るために多少の便利さの犠牲は仕方ない』という話になりました」 (P166)
文学、演劇、映画など、いろんな作品でテーマとして取り上げてきたということでもある。高橋源一郎さんの指摘通り、それが文学をはじめ、クリエイティブの役割なのである。(3月25日のブログ )
「こうして『<生活世界>空洞化=<システム>全域化』がもたらす副作用への処方箋として、『<システム>全域化への制約』が選択されました。80年代半ばに北イタリアのコミュニティ・ハウスから出発したスローフード運動がきっかけです」 (P166)
「ファストフードにスローフードを対置しています。つまり『早い、うまい、安い』もよいが、それによって失うものに敏感になろうという運動です。具体的には、地元商店、地元産業、地元文化、地元の絆などの複合体を作ろうというのです」 (P167)
辻真一さんが指摘するように、「大量化、加速化、複雑化」ではなく、「スモール、スロー、シンプル」を見直す、ということである。(3月24日のブログ)