現世利益

2013年1月 8日 (火)

「とくに歴史の忘却というのは、いまやほとんど社会的強制に等しいと思うね」

先週、『希望の国』や『ヒミズ』を撮った映画監督の園子温さんの著書『非道に生きる』を読んでいて、印象的なコメントがあったので掲載したい。

「被災したスタッフの荒れ果てた実家や親せきの家を映像に収めたりもしました。そこで僕が聞いたのは想像していたのとまったく違う言葉でした。『片付けられてしまう前に記録を残してもらってよかった』。さらに1年後に同じ場所で聞いたのは『“いまだに津波の映像を流したりすると、思い出すからやめてほしい”という人たちは忘れても大丈夫な人たちだ』という意見でした」 P124)

園監督は、震災直後に被災地で映画を撮ったことについて、「非常にセンシティブな態度をとる人が多かったのも事実です」と書く。だけど、実際に撮ってみて次のように感じたという。

「自分が住んでいた愛する土地を記録に残しておきたいし、人々の記憶にも留めてもらいたい。被災された方がそう思うのは自然でないか」 (P124)

以前のブログ(12年7月6日)で、「震災の遺構を残すことの是非」について取り上げた。その時、自分がツラツラ思っていたことを、園監督が実際に現場で感じていたので、印象に残ったのかもしれない。

一方、震災の記憶や遺構をなるべく早くなくしたいという風潮に対して、石巻出身の作家・辺見庸さんは、震災について書いた著書『明日なき今日』で、次のようなコメントを載せている。

「とくに歴史の忘却というのは、いまやほとんど社会的強制に等しいと思うね。忘れてはならない歴史を忘れようとするし、忘れまいとする者を抹殺する」 (P70)

また内田樹さんは、年末に発行された
雑誌『AERA』(12/3号)のコラムで、次のように書く。


「現在のことがすべてである。過去のことは考えない。そういう『現在主義者』たちがこの国ではなぜか、『現実主義者』と呼ばれる」

辺見さんや内田さんの厳しい指摘の一方で、「忘却」の危険さについては、色んな人のコトバを拾うことが出来る。ジャーナリストの池上彰さんは、元日の新聞(毎日新聞13年1月1日)にこんなコトバを書いていた。

「未来を見るためには、まず、過去を見よ。人間は、いつの時代も、同じような行動をとり、成功したり、失敗したりしています。すこし前の歴史を見ると、現代とそっくりではないかと思えるようなことがたくさんあります」


去年、映画『J・エドガー』が公開された時、監督の
クリント・イーストウッド氏は、朝日新聞のインタビュー(12年1月27日夕刊)に対して、次のように語っていた。


「人類は過去から多くを学ばない。だが、歴史に注意を払わなければ、繰り返すことになる」

更に遡って、西ドイツのヴァイツゼッカー大統領が、1985年5月8日、ドイツ敗戦40周年に連邦議会でした演説の中の名言をも思い出す。『荒野の40年』から。

「過去に目を閉ざすものは、現在にも盲目になる」


そんな過去の名言に逆らうように、「忘却」を社会的強制として進める現代。過去を忘却した先に、どんな未来がくるのだろうか。

これに対して、フリーターとして知られる
赤木智弘さんが、安部総理が連呼した「日本を、取り戻す」というフレーズについて語ったコトバが思い出される。(毎日新聞12年12月13日夕刊 

「安倍さんは、あったかもしれない日本を取り戻したい。失われた10年、20年を取り戻す。時間を巻き戻したい、と言っているように聞こえます。
未来志向ではなく、美しい過去だけを見ているような印象さえ受ける」

もしかしたら。忘れてはいけない「過去」が忘却された場所には、ありもしなかった「美しい過去」が作り出されていくのかもしれない

2012年8月29日 (水)

「目先の勝利だけに目を奪われることなく、子供の成長を長い目で見られるかどうかだ」

きのうの少年野球の続きの話である。


きのうも紹介した雑誌『サッカー批評』(57号)の『子供がサッカーを嫌いになる日』には、ベンチで怒鳴ってばかりいる指導者のことが書かれている。しかし、こうした指導者の裏側には、結果ばかりを求める親の問題があることも指摘されている。あまりにも勝敗や数字ばかりにこだわり、一喜一憂する親たちの追及を受けた結果として、指導者も子供のことを考えるよりも結果を追い求めてしまうようなのである。

 

サッカーライターの鈴木康浩さんは、次のように書いている。

 

「ジュニア世代に指導者に大事なことは、目先の勝利だけに目を奪われることなく、子供の成長を長い目で見られるかどうかだ。子供が将来プロになる、ならないに関係なく、サッカーから学んだことを武器に、たくましく社会を生き抜ける人間に育てられるか、どうかが、育成に携わる指導者の本当の勝負ではないだろうか」

 

親や指導者が「目先の勝利だけ」に目を奪われた結果として、子供がロボットのようになり、成長を阻害しているというのだ。もっと「長い目」で見守ることが必要という当たり前の話でもある。

 

「目先の勝利」。目先のことばかりに踊り、長い目で物事をみられないのは、少年スポーツの世界だけではなく、政治を含めた今の日本社会での強い風潮なのであろう。その辺の言葉を並べてみたい。

 

社会学者の宮台真司さんは、対談集『増税は誰のためか』の中で、政治家について次のように話している。

 

「政治家は、選挙を考えますよね。短期・長期を分離して考えた時、『長期的にはいいけれど、短期的には苦しむ』という選択肢よりも、『長期的には苦しむけれど、短期的にはいい』という選択肢を提示したほうが、票はとれますよね。『長期的に渡って利益になるサスティナブル(持続可能)な戦略は何なのか』ということではなくて、『選挙に通るための政策は何か』という方向にバイアスがかかることが多いのではないでしょうか」(P154)

 

こうした短期的な結果を求める風潮については、以前の当ブログ(4/24)でも書いている。こうした風潮は、どこから来るのだろうか。思想家の内田樹さんは、ツイッター(7/25)で次のように書いている。

 

「政権を委ねてから成果が出るまでのタイムラグ(ものによっては5年10年またねばなりません)が耐えられない。レジでお金を出したら、『お品物は5年後に配達されます』と言われた買い物客のようなフラストレーションを感じます。『すぐに結果を出せ』という定型句は『お客さま』の苛立ちなのです」

 

この指摘から考えると、どうも日本国民総「お客さま」現象が起きているようである。

 

きのうも取り上げた湯浅誠さんの『ヒーローを待っていても世界は変わらない』にも、こんな指摘がある。

 

「十全に機能していないから一気に取り替えてしまおう、バッサリやってしまおうという心理には、焦りを感じます。それは一つひとつ積み上げながら改善していくことを『待ってられない』という焦りです。注文したときに感じる消費者の焦り、不具合が生じたら手直しをするより、買い換えた方が手っ取り早いという消費社会の焦りに通じるものです」

 

「そこに飛躍が生まれます。一商品とは異なる政治・社会システムを、一商品と同じ見方で見る飛躍、そこで翻弄される人々の生命と暮らしを軽視する飛躍です。私はそれを『ガラガラポン欲求』と読んできました。待てない消費者心理とても言うべきものです」(P66)

 

このブログにも、何回か書いてきたと思うが、すっかり隅々まで行き渡った「消費社会」に根付く「消費者心理」。全てのものを「消費活動」と同じに捉える風潮は、相当やっかいなものになっている気がする。

2012年7月 7日 (土)

「自分より相手を幸せにする人が、最後は一番幸せになるのだ」

さらにさらに追加分その③。

先日の文章(7/3)には、宮台真司さんの「他人を幸せにする人間だけが幸せになる」というコメントを紹介した。それにからんだ言葉も見つかったので、こちらも追加して載せておきたい。

 

フェラリーなどのデザイナーを務め、今は地元山形を拠点などに活躍する奥山清行さんというデザイナーがいる。その奥山さんの書籍『ムーンショット デザイン幸福論』に彼のデザインに関する話しながら、こんなフレーズをみつけた。

 

「自分が仕事する上で大事にしているのは『自分より相手の方が幸せになる』ということ。幸せという言葉が大げさなら『自分よりも相手の方が得るものが多い』と言い換えてもいい。これは僕らの仕事の最大の前提条件だ


「目先の損得にこだわり、相手に得をさせるのがマイナスだと考えている人は、瞬間的には恵まれることもあるかもしれないが、長期的には必ず損をする。自分より相手を幸せにする人が、最後は一番幸せになるのだ

 

まさに宮台さんのいいたことと全く持って重なっている。

さらに平川克美さんの『移行期的混乱』という本にも興味深いフレーズであったので紹介したい。

 

「リベラルという言葉は英和辞典で見ると、『自由な』という意味は四番目にしか出てこないの。一番目は『気前がいい』なんですよ。二番目の意味が『たっぷりある』、三番目が『寛容である』と。その四番目に『自由主義の』とか『自由な』って出てくる

 

「『人にふるまっていやる自分こそが自由だ』っていうような広々としたものだったんだと思います」

 

ということである。「人を幸せにする人間」は幸せでもあり、リベラルでもあるのである。

 

2012年7月 3日 (火)

「他人を幸せにする人間だけが幸せになるんです」

 先月のことになるが、6月8日のTBSラジオ『荒川強啓デイキャッチ』を聞いていたら、レギュラーコメンテーターの社会学者・宮台真司さんが、日本の教育の問題点について語っていた。印象的だったので、その一部を紹介したい。


「子供たちに幸せになれって教えるでしょ。で、そのために他人を競争で蹴落として幸せになれ。他人を蹴落として上昇は出来るけど、そのようなことで幸せになれるかどうかは、倫理の問題。結論から言えばムリですよ。あえて短く言うと、他人を幸せにする人間だけが幸せになるんです」

「子供供たちには、今のように「自分が幸せになれ」というのではなく、「他人を幸せにする人間になれ」と教えるべきだと説く。さらに次にように語っていた。


「“どうしたら、他人を幸せにできるのか”あるいは、“本当の幸いとは何なのか?”ってことを徹底的に考える力を持った人間以外には幸せになれるはずがないんですよ」


ちょっと印象的なフレーズだったので、メモをしておいたら、先週の雑誌『AERA』(7/2号)の『日本人が見たブータン』という特集記事に全く同じようなフレーズが載っていた。そちらも紹介しておく。去年まで川崎市で小学校の教諭をしていて、今年1年間、海外青年協力隊としてブータンの小学校で教師としている仁田明宏さんの次のコメントである。


「今年3月、日本の教え子から卒業文集が送られてきました。その中に『3億円あったら、どうする?』というコーナーがあり、みんなが答えを書いています。その半分くらいが『貯金する』でした。今の日本の現状を映しているのでしょうが、あまりに夢がない答えです」


実はボクも10年くらい前、居酒屋トークで知人たちと『1億円手に入ったらどうするか?』で盛り上がったことがある。その時は、みんな社会人という立場で話していたわけだが、結局、「貯金する」「家のローンにまわす」「車を買う」といった小学生と似たような答えしか出なかった。「海外旅行するにも休みがないし・・・」という感じで、日本という社会は案外お金の使い道がないところなんだなあと思った記憶がある。


さて、それではブータンの子供たちはなんと応えているのか。仁田さんのコメントの続きである。


「ブータンの子どもたちに授業で『すごくたくさんお金があったらどうする?』と尋ねてみました。すると、大半の子が『貧しい人にあげる』『親にあげる』など、自分以外の人を幸せに使うと答えました」


「同じ子どもたちに『幸せですか』とも聞いてみました。ほとんどが『幸せです』と答えたのですが、理由は『家族と一緒にいられるから』『食べ物が毎日食べられるから』『学校に行けるから』。日本では当たり前と思われることばかりです」


さすがブータン、『GNH・国民総幸福量』の国である。まさに宮台さんの言う「他人を幸せにする人間が幸せになる」という考えがそのまま子供たちにも浸透している感じである。


また同じ特集記事の中で、ブータンで首相フェローとして働きていた御手洗瑞子さんのコメントも紹介されていた。以前(4/6)は、彼女の書籍『ブータン、これでいいのか』に載っていた同じのようなフレーズを紹介しているが、改めて今回のコメントも紹介したい。


「ブータンの人たちの肯定力は『割り切り力』でもあるように感じます。そもそも『人間の力ではどうにもできない』と思っている範囲が、日本人よりずっと大きいのではないでしょうか。自然の力、運や縁なども含めて、『まあ、なるようになるよ』というスタンスです」


「またブータンの人は、自分自身をそのまま肯定し、根本の、人としての自分に自信と誇りを持てているように思います。なので、どんな状況でも堂々としていられる」


同じ時(4/6)に藤原和博さんのフレーズとして取り上げたのが日本社会に蔓延する『現世利益の宗教』。何とかして、すぐに良い結果を手にしたいという考えが日本には強すぎるということなのだ。その『現世利益』を追い求めすぎる風潮が、結局、日本人から自分に対する「肯定力」を奪っているということなのだろう。


また、ブータンの人の持つ『まあ、なんとかなるよ』というスタンスは、その前(3/8)に紹介した、同じく藤原和博さんの次のフレーズにも通じる。改めて書いておきたい(毎日新聞2/29夕刊)。


「正解主義は、修正主義に。『こうするのが正しい』とたった一つの正解があると信じ込む正解主義から、とにかくやってみてから修正していけばいいという考え方に転換する」


国民の幸福度の高い国、ブータン。その一方で幸福度の低い国、日本。いろいろ両国を比べてみると本当に興味深い。

 

2012年4月24日 (火)

「短期的には苦しくとも価値を創造していこうというのが日本にはない」

フランスの経済学者、ジャック・アタリ氏による今週の毎日新聞朝刊(4/22)のコラム『時代の風』を読んだ。日本の最大の弱点は総理が短期間で替わりすぎることという指摘をした上で。次のように述べている。

「資源の乏しい日本がバイオテクノロジーやロボット技術、ナノテクノロジーで世界一の座に上り詰めたのは、かつて長期的なビジョンを持っていたからだ。しかし、日本は短期的な利益を目指すようになりつつある」

「日本は長期的な視点で物事を考えなければならない」

ここ数年のように、総理がわずか1年くらいという短期間でクルクル替わっていては、長期的な取り組みが出来ない。これが日本の凋落の原因の一つだ、という指摘である。

短期的な視点、すなわち近視眼的な風潮がハビこっているというのは、アタリ氏が指摘する政治の世界だけではない。最近たびたび引用させてもらっているが、建築家の隈研吾さんは、日経ビジネスオンライン(2/2)で次のようなコメントをしている。

「長期的な視点は、今の日本で最も欠落しているものです。例えば、選挙で当選した参議院議員が任期中に考えるのは、次の選挙のことでしょう。それって長くて6年です。それと、役人のポジションは、ほとんど2~3年で替わっていきます。もし長く考える役人がいても、せいぜい自分の定年まで。しかも彼らの実質的な定年はだいたい50歳ぐらいですから、どんなに長く考えたとしても20年くらいなんです。それ以上長い時間軸で考えている人って、日本の中枢にほとんどいないんじゃないかな」

特に隈さんがメイン・フィールドとする建築業界については。こんな興味深い指摘も。

「日本の行政システムが1年間で予算を消化しなきゃならないから、今の時代の建築に関わるすべてのことは、全部1年単位になっています。その年度の予算というのを前提にして、建物の規模が決まってくるから、『国家百年の計』で建築を考えている人なんて誰もいないですよ。当然、建物の設計もその年度で終わらなきゃいけない、ということになっています」

政治の世界、そして役人の世界が近視眼的になることによって、実際、建築にも大きな影響が出ている。同じようなコメントは、思想家の内田樹さんもしていたのを見つけた。去年12月25日に毎日放送で放送された『辺境ラジオ』というラジオ番組の中でのコメント。

「ビジネスマンって結局、四半期で考えているんだよね。四半期の決算のことでね。三ヶ月単位くらいでしか考えていないの。今期のもし業績が悪化したら、もうその次はないんだ。今は、三ヶ月間生き延びるしかないんだ・・・。政治家は、次の選挙・・・」

ビジネスの世界における物事のスパンが、どんどん短くなっているということは、ボク自身にも強い実感がある。かつてボクが働いていたラジオの世界でも、20年弱くらい前は、その番組が定着して、さらに結果を出すためには「4年くらい」は掛かると言われていた。その間、現場では修正を繰り返しながら、番組を大事に育てていく。やがてやってくるブレークスルーを信じて。経営など幹部たちは、時々は口を出すが、2~4年くらいは「待ってくれた」のである。それが、どんどん短くなっていく。今ではラジオの世界でも、1年我慢してくれればいい方なのではないか。1~2年経って、結果が出ないと番組が変えらてしまう。かたやテレビの世界なんて、1クルー、3ヶ月単位で番組がクルクルと変わっていく。またスタッフなど人事面の異動でも、もう1~2ヶ月単位でクルクルかわってしまう。とにかく「待てない」のである。

どんどん日本が近視眼的な社会になっているということなのだろう。短い期間の損得だけで物事を考えることを「打算的」とも言う。打算的な手当をしか行えない社会というのは、果たして何を失っていくのであろう。

社会学者の宮台真司さんが、去年12月7日に東京・恵比寿で行ったトークイベントで、彼が話した言葉を記したメモが残っていたので、そのコトバを紹介してみる。

「ドイツでは原発を止めることで電気代が高くなるマイナスを負いながら価値を発信している。短期的には苦しくとも価値を創造していこうというのが日本にはない」

「価値を共有することを私たちはないがしろにしすぎている」

短期的には苦しい状況があっても、それを長期的に乗り越えることで、社会の中に新しい価値が生まれることがあるという指摘である。残念ながら、今の近視眼的な日本社会では、こうしたことは出来ないことになる。つまり、現在の近視眼的で、打算的な風潮が強まれば強まるほど、社会の中で「価値が共有されること」がないがしろにされ、ますます「価値の分断」が進んでいくということになるのだろうか。

2012年4月 6日 (金)

「努力したのであれば、すぐに何らかの結果が欲しいのが日本人ではないでしょうか」

先日、御手洗瑞子さんの『ブータン、これでいいのだ』という本を読んだ。御手洗さんは、ブータンで1年間政府職員として働いた経験を持つ。去年若き国王が来日したり、「国民総幸福(GNH)」なんてもので最近、何かと取り上げることのおおいブータン王国。御手洗さんが、働きながら見たその国の様子が書いてあって非常に興味深かった。

 

ブータンの良さというと、この本を読むまでは、どこか貧しい国の「清貧」の良さに違いないと思ったりしていた。しかし、実際は違う。インドと中国という2つの大国に挟まれた小国としての「リアリズム」のなか、国民は生活している。携帯電話もあれば、i-Padなどもあり決して貧しいわけではない。チベット仏教の精神を大事にしながら、おおらかに生活している。

 

「日々ブータンで仕事をし、またこの土地に暮らしていて感じるのは、そもそもブータンの人々は『人間の力では(また自分の力では)がんばってみてもどうにもできない』と思っている範囲が、日本人である私たち以上に大きいのではないかということ。自然の力という意味だけでなく、運や縁、運命なども含めて、『まあ、なるようになるよ』というスタンスが強いように感じます」(P182)

 

「輪廻転生を信じ、いつもうっすらと来世を意識し、老後には毎日来世のために祈る。ブータンの人にとって、『今の人生』のとらえ方が、私たち日本人とは違うのだろうなと感じます。『現世が全て』と考えていたら、人生が思い通りにいかない時、もう取り返しがつかない気がして、つらくなる。反対に『現世がすべてではない』と信じれば、多少うまくいかにこと、思い通りにいかないことがあっても、『うーん、まぁいっか。次の人生がうまくいくといいな』と割り切れる」(P210)

 

先日亡くなった評論家の吉本隆明さんの『吉本隆明が語る親鸞』という本に、親鸞の持つ「来世」「他力本願」の考えが興味深く書かれていたが、その親鸞の思想とブータンの仏教が、みごとにつながっている感じなのだ。

 

翻って、そのかつて親鸞という思想家を生んだ日本という国では、どうなのか。たまたまだが、全くブータンとは対極となるような状況を、藤原和博さんが著書『坂の上の坂』の中で指摘していて、非常に興味深い。

 

「キリスト教をはじめ、なぜ世界の宗教が日本に浸透しなかったのか。ひとつの仮説があります。それは、日本人が現世御利益を求めてしまうからです。すぐに結果を求めてしまう。『天国では幸せになれる』などと言われてもピンと来ない。努力したのであれば、すぐに何かの結果が欲しいのが日本人ではないでしょうか」(P80)

 

藤原氏は、日本では「現世御利益」という宗教が信じられているとも言っています。

「では、現世御利益の宗教とは、具体的にはどんな教義を持つものでしょうか。日本を席巻したのは、『頑張る教』だったのではないかと思います。例えば、勉強して頑張れば、いい学校や大学に入れ、いい会社の社員になって、課長くらいなればみな車や家が買える。要するに『いい子』を貫いて生きれば、きっと幸福は待っている、ということ」(P80)

ブータンや親鸞の思想とは、まさに対極ともいえる状況が日本にはあるよう。短絡的に「結果、結果」という現世御利益を求め過ぎていることが、今の日本の閉塞感につながっているのでは、とブータンの人たちの生活を知ると思えてくる。

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