「とくに歴史の忘却というのは、いまやほとんど社会的強制に等しいと思うね」
先週、『希望の国』や『ヒミズ』を撮った映画監督の園子温さんの著書『非道に生きる』を読んでいて、印象的なコメントがあったので掲載したい。
「被災したスタッフの荒れ果てた実家や親せきの家を映像に収めたりもしました。そこで僕が聞いたのは想像していたのとまったく違う言葉でした。『片付けられてしまう前に記録を残してもらってよかった』。さらに1年後に同じ場所で聞いたのは『“いまだに津波の映像を流したりすると、思い出すからやめてほしい”という人たちは忘れても大丈夫な人たちだ』という意見でした」 (P124)
園監督は、震災直後に被災地で映画を撮ったことについて、「非常にセンシティブな態度をとる人が多かったのも事実です」と書く。だけど、実際に撮ってみて次のように感じたという。
「自分が住んでいた愛する土地を記録に残しておきたいし、人々の記憶にも留めてもらいたい。被災された方がそう思うのは自然でないか」 (P124)
以前のブログ(12年7月6日)で、「震災の遺構を残すことの是非」について取り上げた。その時、自分がツラツラ思っていたことを、園監督が実際に現場で感じていたので、印象に残ったのかもしれない。
一方、震災の記憶や遺構をなるべく早くなくしたいという風潮に対して、石巻出身の作家・辺見庸さんは、震災について書いた著書『明日なき今日』で、次のようなコメントを載せている。
「とくに歴史の忘却というのは、いまやほとんど社会的強制に等しいと思うね。忘れてはならない歴史を忘れようとするし、忘れまいとする者を抹殺する」 (P70)
また内田樹さんは、年末に発行された雑誌『AERA』(12/3号)のコラムで、次のように書く。
「現在のことがすべてである。過去のことは考えない。そういう『現在主義者』たちがこの国ではなぜか、『現実主義者』と呼ばれる」
辺見さんや内田さんの厳しい指摘の一方で、「忘却」の危険さについては、色んな人のコトバを拾うことが出来る。ジャーナリストの池上彰さんは、元日の新聞(毎日新聞13年1月1日)にこんなコトバを書いていた。
「未来を見るためには、まず、過去を見よ。人間は、いつの時代も、同じような行動をとり、成功したり、失敗したりしています。すこし前の歴史を見ると、現代とそっくりではないかと思えるようなことがたくさんあります」
去年、映画『J・エドガー』が公開された時、監督のクリント・イーストウッド氏は、朝日新聞のインタビュー(12年1月27日夕刊)に対して、次のように語っていた。
「人類は過去から多くを学ばない。だが、歴史に注意を払わなければ、繰り返すことになる」
更に遡って、西ドイツのヴァイツゼッカー大統領が、1985年5月8日、ドイツ敗戦40周年に連邦議会でした演説の中の名言をも思い出す。『荒野の40年』から。
「過去に目を閉ざすものは、現在にも盲目になる」
そんな過去の名言に逆らうように、「忘却」を社会的強制として進める現代。過去を忘却した先に、どんな未来がくるのだろうか。
これに対して、フリーターとして知られる赤木智弘さんが、安部総理が連呼した「日本を、取り戻す」というフレーズについて語ったコトバが思い出される。(毎日新聞12年12月13日夕刊)
「安倍さんは、あったかもしれない日本を取り戻したい。失われた10年、20年を取り戻す。時間を巻き戻したい、と言っているように聞こえます。未来志向ではなく、美しい過去だけを見ているような印象さえ受ける」
もしかしたら。忘れてはいけない「過去」が忘却された場所には、ありもしなかった「美しい過去」が作り出されていくのかもしれない。