市場原理

2013年8月 6日 (火)

「こういうのを、僕は『全米が泣いた現象』と言っているんです。人でもない『全米』が泣く訳ないじゃないですか。アメリカの一部の人が泣いただけですよ」

以前のブログ(5月22日5月28日)で、「平均値と個人は違う」という考え方を取り上げた。ロシアの生物学者、アレクセイ・ヤブロコフ博士がチェルノブイリや福島の原発事故について語った次の言葉も印象的である。

「『平均』などというものは科学的にはありえないのです」

しかし世の中は、どうも「平均」「一般」というもので物事をとらえ、ことを進めようとしている。そんな感じの言葉を今回は並べたい。

まずは映画監督の園子温さんが対談本『ナショナリズムの罠』で、次のように語っている。

「こういうのを、僕は『全米が泣いた現象』と言っているんです。人でもない『全米』が泣く訳ないじゃないですか。アメリカの一部の人が泣いただけですよ。あと『カンヌ騒然』ってやつもそうです。どんなすごい映画があろうとも、カンヌの街は騒然としませんから。極端な話、カンヌの審査員すら騒然としてなくて、審査委員長だけが『騒然』としている可能性だってあります」 P66)

「だから、全米が泣かないように。カンヌが騒然としないように、韓国や中国も『激怒』しません。お互いに、大げさに煽りあって、だまし合って、最後は日本人自身も実は全く怒ってないっていう怪しい方向に行くのも、煽って焚きつけるやつがいるからですよ」 P67)

大阪市長選で、橋下徹氏と戦った前市長の平松邦夫さんは、対談本『脱グローバル論』で橋下氏のやり方について、こんな風に語っている。

「市長時代の経験で言うと、当然ながら公務員もいろいろです。いわゆる既得権益を守ろうという職員もいれば、市民の側に立って一緒に走ろうとしている職員だっている。それを十把一絡げにして1つの色で染め上げ、上からバーンと叩くようなやり方をすると何が起きるか」 (P188)

続いて。全然分野は違うけど、サッカーを教えている池上正さん『サッカーで子どもがみるみる変わる7つの目標』で書いていた次の指摘も興味深い。

「都心でよくある中学受験は、ある中学校に魅力を感じて『ここに行きたい』と1校を受験するのではなく、偏差値の高い順番に志望校を決める子が多いのだそうです。なぜなら『落ちても公立中学に行けないから』だと言います。すべての公立中学校がそうでないのに、『学校が荒れている』といったような理由で、親が懸命に入れる私立中学を探します」 (P181)

公立学校にもいろいろあるに決まっているはずだが、「公立学校は荒れている」と一般化してしまう。ことわざ「木を見て、森を見ず」の反対の状況とでもいうべきか。個々を見ようとせずに、大くくりな「平均」「一般」で物事をとらえようとする。その方が楽なのだろう。もちろん、それがすべて悪いわけではない。でも「平均などというものはありえない」という一面を忘れるべきではないのではないか。つまりは「木も、森も見ず」な状況なのである。

最近の景気回復についても、まったく同じ状況だと思う。経済評論家の森永卓郎さんは、文化放送『ゴールデンラジオ』(7月15日)で、次のように語っていた。

「景気は全体としては良くなってきているが、一部の人だけがすごく良くなっている。平均は良い。なぜか。一部の人たちがブンブン引っ張り上げているのが今の実態」

たとえば、少し前に某放送作家の年収が50億円という話が流れた。きっと実際に手にしているお金はもっと多いんだと思う。まあ、それなりに活躍もしているのも確か。しかし反面、昔の著名な作家や放送作家も、そんなにも稼いでいたのだろかと思わなくもない。今は、勝ち組ひとりに収益が一点集中し、莫大な収益を手にできる。その一方で、きっと何かが失われている。何だろう。もしかしたら個々の多様な小さな放送作家の居場所がなくなっているかもしれない。でも、全体の放送作家の平均収入は、50億円のおかげでガツンと上がっているのかも、である。それにしても、50億円を手にして、いったい何をするんだろか。たぶん、また新たな収益システムを作り出すのに使われ、さらに一点が巨大化していく・・・。

これは、おそらく「辺境」がなくなっている構造と同じなのではないだろうか(5月2日のブログなど)。社会学者の開沼博さんは、著書『地方の論理』で次のように指摘している。

「例えば、新自由主義という言葉があります。それは、経済成長が困難になる中で、市場を活用しながらそれまであった社会のムダ・余裕を徹底的に排除する思想です」 P212)

新自由主義やグローバリズムという考えは、ムダや余裕、辺境を排除して、一転集中を生み、そして平均値を上げていくやり方なのだろう。ムダや辺境がなくなれば、自分たちの価値を揺るがすような、新たな価値観も生まれにくくなる・・・。

最後に、コラムニストの小田嶋隆さん『脱グローバル論』で語っていた言葉を書いておきたい。

「麦踏みってありますよね。あれ、麦を踏んで強くするんだと思われているけど、実は違うんで、弱い麦を踏み殺して、麦全体の強さの平均値を上げるわけですよ。それって教育現場にもある話で、どんどん厳しくすれば、弱い子はその学校から逃げちゃうとか、やめちゃうとか、極端な話、死んじゃうとかね。で、教室に残った生徒だけの平均値を取ると、『ほら成績上がっているよ』みたないことってのは、私立学校の教育なんかではあり得るわけですよ」 (P79)

2013年6月 5日 (水)

「私たちの想像力は今や完全に『経済成長』によって植民地化されてしまい、社会の問題は成長によって解決されると信じ込んでいる」

きのう、いつも使っているPCが壊れた。復旧しないと色んなメモが残っているファイルが消滅してしまう。かなりピンチ。気を取り直して、別のPCを使って書いてみる。

昨晩、サッカー日本代表が5大会連続のW杯出場を決めた。今朝、記者会見にのぞんだキャプテン長谷部誠選手は、次のように語っている。

世界で勝つためには、もっともっと成長しないといけないと痛感しているので、ワールドカップに向けて成長度を上げていきたい」

一方で、安倍総理は今日、成長戦略の第3段を発表したようだ。あっちでもこっちでも「成長!成長!」といった感じ。

そこで、せっかくなので手持ちのメモ帳に残っている。「成長」についての言葉を並べておきたい。まずは、きのうの朝日新聞夕刊(6月4日)に、フランスの経済哲学者のセルジュ・ラトゥーシュ氏がインタビューに答え、「脱成長の必要」を語っていた。

「私たちの想像力は今や完全に『経済成長』によって植民地化されてしまい、社会の問題は成長によって解決されると信じ込んでいる」

「日本の例が示しているのは、経済成長至上主義の社会のままで低成長になると、人が生きていくのに厳しい社会になるということ。結局、経済だけでは問題は解決しない」

これからは人口も減るし、資源も枯渇する。なのに、これまでと同じように成長を求めることはムリがあるのでは。誰でも分かりそうなものだけど。そういえば3月のIOC評価委員会の歓迎スピーチで、安倍総理「より速く~!より高く~!より強く~!」と唄っていた。なんだか時代遅れのフレーズに聞こえたのはボクだけではないと思う。

ラトゥーシュ氏は、次のようにも語っている。

「もはや私たちは問題を『知らない』のではない。ある哲学者の言葉を借りれば、『知っていることを信じようとしない』のです」

佐賀県唐津市の農民作家、山下惣一さんの言葉。朝日新聞(5月16日)から。

「経済成長するほど、農業や地方が疲弊してきたのがこれまでの歴史です。自然を相手にする農業は成長してはいけない。去年のように今年があり、今年のように来年があるのが一番いい。私たちはこれを安定といい、経済学者は停滞という」

地域エコノミストの藻谷浩介さん著書『藻谷浩介さん、経済成長がなければ僕たちは幸せになれないのでしょうか?』から。

「成長せずともトントンであればストックが維持できるかもしれません。事実、ここ20年の日本がそうです。成長せずにどんどん他国に抜かされていると言う人がいますが、実際外国に住んでみれば、いかに日本が恵まれた状態か痛感しますよね」 (P82)

安定して、ストックが維持できているのに、それを「停滞」と捉える。まさに「成長目線」。「マイナス成長」という言葉だってそう。マイナスなのに「成長」、まったく意味が分からない。

哲学者の内山節さん朝日新聞(3月13日)から。

「貨幣経済に染まった戦後的惰性なんでしょう。貨幣を増やせば生活が豊かになる、成長すれば何でも解決できるという古い意識にとらわれている人たちが、内輪で同じことを言いあっているうちに、それが真理のように思えてくる」

安倍政権の成長戦略というものを見ても「成長すれば何でも解決できる」という幻想からは抜け出せていない。

そもそも「経済成長」以外は「成長ではない」と捉えないという風潮が問題なのではないか。同じ「成長」という言葉でも、サッカーでの成長と、経済での成長は当然ながら違うものである。

では経済以外の成長とは・・・。フランスの経済学者、ダニエル・コーエン氏朝日新聞(1月18日)から。

「人間が成長のない世界に向かうとは考えにくい。しかし、今までとは本質的の異なる、理にかなった成長を、目指さざるをえない。たとえば知識の成長だったり、医療の成長だったり・・・。いずれにしても物質的ではない成長だ」

巨匠のノーム・チョムスキー氏著書『アメリカを占拠せよ!』から。

「成長とは、たとえば、よりシンプルな生き方をする。より暮らしやすいコミュニケーションを築くといたことです。そのためには努力が必要になる。ひとりでに実現するようなものではない。違ったタイプの労働も求められるのです」 (P115)

「買えるものを最大限に買うのではなく、人生にとって価値あるものを最大にすることを基盤とした生き方。それもやはり成長です。別の方向へと向かう成長なのです」 (P116)

チョムスキー氏の言葉から思い出したのが、脚本家の倉本聰さんの言葉。東京新聞(1月1日)から。

「家族で言えば、家の中に電化製品が増えてくるたびに、バラバラになった」

経済成長を追い続け、買えるものを最大限に買い続けた結果、社会も、家族も、個人もバラバラになり、空洞化していったのかもしれない。

最後に、ジャズ演奏家の菊地成孔さんの言葉を。@niftyビジネスの『プロフェッショナル・ビジネス・ピープル』(2011年4月25日)から。

「絶対的な成長があるとしたら、生物学的なものだけ。すなわち加齢です。問題は、加齢に対してアゲインストするかどうかです。若くありたいという人がたくさんいるけど、老けていくのはいいことだと僕は思ってます。だって、『老け』くらいしか成長の痕跡がないわけだから。若者からおっさんへ、おっさんからおじいさんへと徐々に変わっていく。それでいいじゃないかと」

この考え方は、非常に深いものだと思う。社会にしろ、個人にしろ、加齢、すなわち齢を重ねていく過程で、徐々に変わっていくものを受け入れ、結果として視野や関係が広がっていくことが「成長」なのではないか。決して、金銭やランキングという数値のアップだけが「成長」ではない、ということではないか。

2013年4月 3日 (水)

「経済論理に抗してでも、損を甘受してでも、絶対に守らなきゃいけない一線がある」

少し前に何回かに渡って、「ランニングコスト」に関する言葉を紹介した(12月25日のブログ )。今回は、ちゃんとまとめられるか正直分からないが、ジャーナリズムの世界での「ランニングコスト」にまつわる問題が浮かび上がってくるような言葉を並べてみたい。

メディアといえども、当然ながら「商売」という世界の中に存在する。そこで、ジャーナリズムはどういう立ち位置を取っていくべきなのか。僕自身も、ささやかながら現場で悩んだ問題である。まずは、それにまつわる言葉から。 

元共同通信の記者である、ジャーナリストの青木理さんは、著書『僕たちの時代』で、次のように語っている。 

「ジャーナリズム性をきちんと追求しようとすれば、売れるか売れないかということと同時か、時にはそれ以上に背負わなくちゃならないものがある」 (P24)

「もちろん新聞だって商売であって、僕たちは書いたものを売って飯の種にしていることは間違いないんだけれども、この稼業には別の意味もある。経済論理に抗してでも、損を甘受してでも、絶対に守らなきゃいけない一線がある」 (P25)
 

同じく青木さんは、TBSラジオ『DIG』(1月3日)の中では、かつての記者時代、記事を「売れる」と思って書いたことはなく、「意義がある」「やるべき」「重要だ」などの思いで書いていたと話していた。それに対して今の記者たちは、記事がネットの紙面に掲載されることもあり、アクセス数やヒット数を気にしながら書かなくてはならず、大変であるとも言っていた。 

一方で、朝日新聞の連載『プロメテウスの罠』(2012年10月16)の中で、高知新聞社の社長、宮田速雄さんのこんな言葉が取り上げられている。 

「新聞社の目的はカネではない。経営が厳しい時こそ、ジャーナリズムが試される」 

ジャーナリズムの本質的な目的は、「売れること」「カネを稼ぐこと」ではない。しかし一方で、ジャーナリズムをやっていくためには「カネ」の問題は避けて通ることができないのも事実である。 

同じくTBSラジオ『DIG』(3月19日)の放送で、ビデオジャーナリストの神保哲生さんは、次のように語っている。

「ジャーナリズムというのは、重要なことが起きれば、それを取材してもそれほど読む人がいない、視聴率が上がらないと分かっていても、重要だったら取材に行こうよ、というのが判断なんだけど。経営判断としては、それはダメですよね。回収の見込みのないものを取材リソースを投入しているようじゃ、経営者としては、その会社の単純な収益でいくと上がらないということになる。これからマスメディアがどうなるこうなることには、個人的には関心はない。新しいマーケットの中で、いかにしてジャーナリズムを生き残らせていくか」
 

今の時代、企業はお金を生み出さないものを扱っていけない、という傾向は強まっている。今後、ジャーナリズムというものの居場所はあるのだろうか。 

何度も引用するが、作家の森達也さん『誰がこの国を壊すのか』の中で、「ジャーナリズム」と、企業としての「メディア」の両立の難しさを話している。 

テレビも新聞も、それを見る人・読む人・買う人によって社員一人ひとりの生活が支えられている。それは否定できない。でも市場原理を最優先事項としたその瞬間から、メディアは民意によって造型されることを回避できなくなる。その結果、民意が求める単純化、簡略化―つまり『わかりやすさ』を表現の主眼に置くようになってしまう」 (P109)

当然、テレビや新聞などメディアには、勤める社員たちの給料や、設備や流通システムなどのコストがかかる。ランニングコストである。時代の変化とともに、必要なものも、不必要なものも出ているに違いない。経営環境が厳しくなり、ランニングコストの重荷感が増えれば増えるほど、より過剰にユーザーに受け入れられようとする。結果、ジャーナリズムの記事やコンテンツも「受け入れやすいもの」「売れるもの」、つまりは「単純化、簡略化されたもの」がますます求められるということなのだろう。

2012年6月 7日 (木)

「戦後日本人が追い求めた価値観は、経済の豊かさを求めて、人間性を排除し、出来る限り、上意下達の組織や、ロボットのように社会に忠実な人間を生み出すことに集約されたのではないか」

前回の続き。でも、もちろん「悪い仕組み」よりは「良い仕組み」の方がいい。当たり前である。仕組みを良くしながら、その仕組みを使って、目指すべき社会に向かっていくことが大切なのである。そりゃそうだ、というくらいの自明のことのはず。

 

では我々は、どんな社会を目指すべきなのか。これは重要である。たまたま、最近読んだ本に同じような指摘があったので、それをヒントとして紹介しておきます。

 

まずは、相場英雄さんの小説『震える牛』に出ててきたフレーズ。

 

「幾度となく、経済的な事由が、国民の健康上の事由に優先された。秘密主義が、情報公開の必要性に優先された。そして政府の役人は、道徳上や倫理上の意味合いではなく、財政上の、あるいは官僚的、政治的な意味合いを最重要視して行動していたようだ」

 

そして、南相馬を舞台にした『相馬看花』というドキュメンタリー映画を撮った松林要樹さんが『311を撮る』という本の中で述べていたフレーズ。

 

「大風呂敷を広げれば、戦後日本人が追い求めた価値観は、経済の豊かさを求めて、人間性を排除し、出来る限り、上意下達の組織や、ロボットのように社会に忠実な人間を生み出すことに集約されたのではないか。この震災をきっかけに戦後の日本は何を基軸に豊かさを求めたのかを問い直したい」(P101)

ともに言っていることは重なっている。

 

つまり、ボクが政治家の方々に目指して欲しい社会。ボクが目指すべき社会というのは、「経済的な事由が、国民の健康上の事由に優先されない社会」、そして「経済の豊かさを求めて、人間性が排除されない社会」なのである。もうひとつ付け加えれば、「仕組み・システムの維持よりも、人間性を大切にする社会」が実現してほしいという感じ。

何よりも人権が大事、という憲法に書いてあることだ。でも福島の原発しかり、沖縄の基地しかり、この当たり前のことが、ないがしろにされている社会が続いていることも確かなのである。

2012年1月19日 (木)

「不安のままぶら下がって、それに耐える力こそが『教養』だと思うんですよ」

モノへの執着を捨てることを推奨する『断捨離』という言葉があるらしい。コンサルタントのやましたひでこさんが推奨する考え方らしく、その著作も話題ということ。字面は、なんとなく見ていて知っていたが…。そんな意味だったとは全く知らなかった。

先日、たまりにたまった過去の新聞のコピーなどに目を通していたら、去年12月16日の東京新聞夕刊に、そのやましたひでこさんのインタビューが掲載されていた。そのインタビューの中で、東日本大震災を受けて考えたことを話していて、それが少し印象に残ったので紹介してみる。

「震災直後、被災地から遠く離れた人たちが買いだめに走る様子を見て、衝撃を受けました。スーパーに大挙して押しかけ、三日分、四日分の食料や水を買い求める人たち。こうした人たちは、一週間分、一カ月分買いだめしても不安が増幅していくのだと思います。『備蓄』と『買いだめ』は違うのに、どれだけのモノが必要か、分からなくなってしまったのではないか」

震災後に東京をはじめ、日本中で起きた食材や生活必需品などの「買いだめ」「買占め」という現象についての感想である。

やましたさんが指摘する、この「不安心理」について、ボクなりにつらつらと考えていたら、この構造は、多くの人が「老後への備え」としてお金を貯め込むことと、全く同じではないか、と思えてきた。

老後の不安に対して、人々がため込んだ「タンス預金」。これが莫大なため、市場にお金が回らないという話はよく聞く。仕事からリタイアする老後というは、「きっとお金がかかる」「お金がないと病院にも行けない」「お金がないと自分の生活を楽しめない」なんて思って、今、お金を使わずに「老後のもしもの時」に備えて、せっせと「タンス預金」を貯め込む。

その結果、以前、ラジオで聞いた話によると、「親の遺産を受け取る人の平均年齢は、60代の後半」とのことだ。ちょっとショックだった。今や80歳を越えた高齢の親が亡くなり、それを受け取る子供も、その時点で60代の後半になっているというのだ。若い人たちに比べて、高齢者の方々の財布のヒモが堅いことは想像に難くない。つまり、日本社会に存在する「お金」のかなりの部分が、「タンス預金」から「タンス預金」へと移動しているにすぎない。お金は消費にまわることなく、ずっとタンスの中で「もしもの時」を待って額だけ増やしているのだろう。

もちろん老後に不安があるのは分かる。そのための備えも必要になる。でも、やました氏が言うように『備蓄』と『買いだめ』は違うのである。とはいっても適切なお金の『備蓄量』というのは、高齢者にとっても、若い世代にとっても難しいことも確か。そう考えてみながら、いろんな資料に目を通していたら、そうしたお金に関するコメントは、やはりとても多かった。いくつか拾ってみたい。

まずは、ライターの北尾トロさんが自ら編集する雑誌『季刊レポ』(2011年冬号)の 『1年経ったら火の車』という文章の中で、こんなつぶやきをしていた。

「金ってそんなに大事なんだろうか。たくさんの金を得たとして、その金でやりたいことがなかったら銀行口座の数字が増えたり老後の生活に多少の安心感がもたらされるだけでしょ。やりたいことのあるヤツが、やりたいことをやるための資金を手にしたときにその金は生きる。だけど、往々にしてやりたいことのあるヤツには金が回ってこないんだなコレが」(P76)

雑誌編集のお金のやりとりに苦戦する本人から出た「お金」に対する率直な思いなんだろう。

内田樹さんは、近著『呪いの時代』で、お金を貯め込むことについて、こんな文章を載せていました。

「もちろん、老後が心配とかそういうご事情の方もいると思いますけれど、老後の蓄えなら、1億も2億もいらないでしょう。一人の人が大量の貨幣を貯め込んでも、いいことなんかない」

「『自分のところにきたもの』というのは貨幣でもいいし、商品でもいいし、情報や知識や技術でもいい。とにかく自分ところで止めないで、次に回す。自分で食べたり飲んだりして使う限り、保有できる貨幣には限界がある。先ほども言いましたけれど、ある限界を超えたら、お金をいくらもっていてもそれではもう『金で金を買う』以外のことはできなくなる。そこで『金を買う』以外に使い道のないようなお金は『なくてもいい』お金だと僕は思います」
(P172)

なぜ人はお金を貯め込むのか。老後の不安以外にも、いろんな理由があるということ。雑誌『新潮45』1月号には、経済学者の小野善康さんの『「お金への執着」が経済を狂わせる』という文章が掲載されていた。

「お金の数字情報は、もっとも効率よく人びとを幸せにする。数字の桁が上がってくるだけで、巨大な可能性を手にすることができるからである」(P54)

「交換性を保持しながら、我慢して使わないことによってのみ妄想に浸れる。そのため、働いて稼いだお金が物を買うためでなく、貯めることに向けられ、モノへの需要にならない」(P55)

最初に紹介したやましたひでこさんは、震災後におきた『買いだめ』について、同じインタビューの中で次のようにも言っている。

「買いだめをした人たちの中には、『増えたら幸せ、あればあるだけ幸せ』というのは幻想だ、ということに気付いた人もいると思います」

そして内田氏も、お金の「囲い込み」について震災後、同じようなことが判明したと、雑誌『新潮45』12月号の『「宴会のできる武家屋敷」に住みたい』に書いている。           

「いままでの社会システムは基本的に市場原理で動いていました。必要なものはすべて商品の形で提供された。ですから、市民の仕事は『欲しい商品を買えるだけの金を稼ぐこと』に単純化した」


「でも、東日本大震災と福島の原発事故でわかったことは、『金さえ出せば欲しいものが買える』というのは極めて特殊な非常に豊かで安全な社会においてだけ可能なルールだったということです」

 
最後に元外務省官僚の佐藤優さんが著書『野蛮人の図書室』に書いていたフレーズを載せておく。


「もちろん資本主義社会において、失業し、賃金がまったく入ってこないならば生きていくことができない。しかし、自分の必要以上にカネを稼ぐことにどれほどの意味があるのか、よく考えてみる必要がある。少し余裕のある人が困っている人を助けるという行動をとるだけで、日本社会はだいぶ変化するはずだ。それができないのは思想に問題があるからだ」(127P)

 

基本的には、佐藤氏も内田氏と全く同じことを言っている。とはいっても、先の見えない不安にどう耐えるのか。佐藤氏は次のように書く。

 

「『どうしたらいいか?』って問いには、答えを出さずに不安な状況に耐えることが大事だと思う。
回答を急がない。不安のままぶら下がって、それに耐える力こそが『教養』だと思うんですよ」

うん。良いこと言う。「不安に耐える力こそ『教養』」。これはメモしておいた方が良いと思う。

とても文章が長くなっていましたが、我々は震災後の買いだめ状態と同じことが、お金についても起きている。お金と買いだめ、これについて改めて考えてみたりする必要があるのではないか。そんなことを考えたわけです。

 

 

2011年12月14日 (水)

「統御できるもので勝負して、統御できないものは切り捨てる」

先週の朝日新聞朝刊に脚本家の倉本聰さんのインタビューが掲載されていた。『TPP 北の国から考える』というタイトルが打たれていて、最近のグローバル化の動きなどに倉本さんが考えていることを述べた内容となっている。

倉本さんは、TPPの議論について「土に触れたことない人たち」たち、つまり都市で生活している人たちだけで進められているということを語ったうえで、次のように述べる。

「農林漁業は統御できない自然を相手にするところから始まっている。工業は、すべてを統御できるという考え方に立っている。この違いはでかいですよ。統御できるもので勝負して、統御できないものは切り捨てる。そういう考え方が、TPPの最大の問題点だと思えるんです」

さらには経済中心の世の中について、次のようにも述べる。

「自然を統御できるなんて、思い上がりですよ。なぜ、経済って、こんなに偉くなっちゃったんですかね。日本は確かに経済大国になった。でも、日本というスーパーカーに付け忘れた装置が二つあると思う。ブレーキとバックギアですよ。みんながブレーキをかけることを恐れ、バックは絶対しないと考えている。前年比プラス、前年比プラスと、ひたすらゴールのないマラソンを突き進んでいる」

ここでいう「なぜ、経済って、こんなに偉くなっちゃったんですかね」というフレーズも印象的である。前回書いた自動車事情で、ボクがいつも自動車について考えているのは、まさにこの感じ。「なぜ、自動車って、こんなにえらくなっちゃったんですかね」。自動車イコール経済活動なのである。

さて冒頭でも取り上げた「統御できるもので勝負して、統御できないものは切り捨てる」というフレーズ。これは、TPPのだけのことではない。社会のアチコチの現場で、グローバル化の風潮に追い立てられるように、「制御できなことは切り捨てる」という風潮が広がっているのだと思う。

最近の事例で言えば、大阪の橋下徹市長。単純化した自分の方針・考えを表明して、それに外れたものは切り捨ている。コントロールできる人たちだけで、物事を迅速化して進めようとしている。反対意見を言ったりして、その流れを邪魔するような輩は排除するか、沈黙させる。

これは、ボクが追い出された前の組織でもまったく同じだった。ある日、その世界には素人のトップが降って降りてきて、自分の考えのもとで企業運営を進めようとする。その世界に前からいた者たちが、良かれと思って、トップに対して違う視点を提案したり、異を唱えたりする。すると、そのトップは、自分がコントロール・統御するには手間や時間がかかりそうな、そういう人たちを即座に排除する行動に出たのである。

本来、「組織に大事なのは多様性」と言われていたと思う。多様な意見や考え方が持つ人が集まり、できるだけ多様な視点やアイデアがトップに挙げられる。トップはそれを集約したうえで、長期的・短期的に優れていると思われる判断を下す。それを繰り返すことで、組織は揺れ動く社会の中で居場所をみつけ、生き残っていく。そうした仕組みが強い組織には不可欠だと思っていたのだが…。統御・コントロールできないものを排除すれば、当然、多様性というのは担保できない。組織の厚みや重層性は失われる。

もし「統御できないもの」を次々に切り捨てていくとすると、最後は「人間」や「自然」を切り捨てざるを得なくなっていくのではないか。やはり倉本さんが言うように「自然」というもの、その中のひとつである「人間」というものを「統御」できると思うことは、おこがましいことなんだと思う。そもそも「自然」や「人間」は統御できる存在ではないのである。

先日、こんなこともあった。今の属する組織で、いろいろ問題を起こす従業員への対策が話し合われた。心の病気になる人や問題行動を起こす人が増えていることを受けてのものである。その話し合いのメンバーの一人が「採用の時にコントロールできないような人物は見極め、はじくことができないのか」と言って、ボクはとても驚いたのである。そんなことがわかるわけないし、そもそも人間というものを、どう考えているのか、いつ自分がそうなるかわからないではないか。そう思ったものだ。

それで、いろいろ思い出したフレーズをいくつか、書いておきたい。

作家の村上龍さんは、コラム集『寂しい国の殺人』という本で、当時世の中を騒がせていた「14歳による殺人」を受けて、次のように書いていた。

「もともと人間は壊れているものです。それを有史以来、さまざまなもので覆い隠し、繕ってきた。その代表は家族と法律だ。理念や芸術や宗教などというものもある。それが機能していない。何が十四歳の少年に向かわせたではなく、彼の実行を阻止できなかったのは何か、ということだと思う」

先日、亡くなった落語家の立川談志さんは、生前、次のように語っていた。

「酒は人間をダメにするものではない。人間はダメなもので、それをわからせてくれるのが、酒だ」

両者は、小説や落語というフィクションを作り出す立場である。クリエーターとしての立場から、「人間は壊れているもの」「人間はダメなもの」と言い切っているのがとても印象的で、手帳の片隅にメモしておいたのである。

「人間は壊れているもの」だからこそ、我々は、有史以来、家族、宗教、芸術、国会などなど、必死になって色んなものを生み出し、ここまでなんとかやっているのである。有史以来、人間というのは統御できるものではない、という考えのもと、社会システムそのものを設計し続けてきたのである。たぶん。

去年10月24日の朝日新聞には、エコノミストの水野和夫さんが次のように書いていた。

「『世界は病院である』とは、鈴木忠志氏の演劇に貫徹するテーマだ。代表作の一つ『リア王』の演出ノートに『世界あるいは地球上は病院で、その中に人間は住んでいるのではないか。私は、この視点から多くの舞台を作り出してきた』」

「経済学でも人間は合理的に行動するものだと信じ、挙句のはてに『100年に一度』の金融危機を招き、若年層に高失業率という犠牲を強いてしまった」

つまり、ここに出てくる鈴木さんは「人間は、もともと病人なのである」としてとらえている。そんな人間を「病人」ではなく、「合理的に行動するもの」すなわち「統御・コントロールできるもの」ととらえた結果、起きたのがリーマンショックなどの経済危機だったのではないか、と水野氏は指摘している。だけど我々は、こうした経験から全く学ぶことなく、さらにさらに「合理的」「統御できる」ものばかりを追い続けている。この風潮の先に、どんなことが待っているのか。

本来からいえば、我々は「統御しにくいもの」を切り捨ているのではなく、「統御しにくいもの」「コントロールできないもの」「壊れたもの」「ダメなもの」「病気のもの」と、どうやって折り合いながら継続的に共存していくのか、その社会システムの設計について頭を絞るのが先決なのではないだろうか。

2011年12月 2日 (金)

「若い人たちは、民主主義と市場原理を同じひとつの社会システムだと考えているのかもしれない。それらは、似ているようでいて、まるで違う」

ここ2回、大阪W選挙の結果を受けてのフレーズをとりあげてきたけど、今回もそんな感じ。コラムニストの小田嶋隆さんが日経ビジネスオンラインで連載している『ア・ピース・オブ・警句』に、今日(12/2)、『大阪の「維新」とまどろっこしい民主主義』と題した文章が掲載され、とても興味深かったので、その中のフレーズをとりあげたい。きのうの平川克美さんの指摘とも重なる部分も多い。

小田嶋氏は、まず、最近のニューストピックである「オリンパス問題、TPP、暴対法、大阪での選挙結果、自転車の車道通行問題、各種のコンプライアンス関連事案」には、「グレーゾーンに対する寛容さの欠如」が通奏低音としてあるとしたうえで、次のように述べる。

「われわれの社会は、白と黒との境界領域にある、「不明瞭さ」や「不効率」や「ルーズさ」に対して、鷹揚に構える余裕を失っており、他方、グローバリズムに取り込まれたローカルな組織に独特な、無力感に苛まれているのだ」

今までグレーゾーンとしてやってきた慣習、「日本的」とも、「なあなあ」とも、「曖昧」ともいえるような慣習について、白黒つけなければならないという風潮が強まっている」ということなのだろう。ボクは、これまで、そうしたグレーゾーンこそ「パブリックな意識」「公共的な意識」が問われる場だと思ってきた。ということでは、日本から「公共の場」、私のモノでも、あなたのものでもない場所がなくなってきたということでもあるのだろう。

続いて小田嶋氏は、「民主主義」について、こう書く。

「民主主義は、元来、まだるっこしいものだ。デモクラシーは、意思決定のプロセスに多様な民意を反映させるべく、徐々に洗練を加えてきたシステムで、そうである以上、原理的に、効率やスピードよりも、慎重さと安全に重心を置いているからだ」

その「まだるっこさ」を我慢できない社会やリーダーが希求するのが、「効率」であり、「スピード」であり、さらには「変わること」「改革」なのだろう。

「でも、私は、『維新』なり『改革』が、そんなに簡単に結実するとは思っていない。正直に申し上げれば、非常に悲観的な観測を抱いている。民主主義の政体に果断さや効率を求めるのは、そもそも無いものねだりだ。逆に言えば、それら(スピードと効率)は、民主主義自体の死と引き換えにでないと、手に入れることができない」

では、どうしたらいいのか。小田嶋氏は次のように述べる。

「民主主義は、そもそも『豊かさ』の結果であって、原因ではない。つまり、民主主義は豊かさをもたらすわけではないのだ。それがもたらすのは、まだるっこしい公正さと、非効率な安全と、一種官僚的なセーフティーネットで、言い方を変えるなら、市民社会に公正さと安全をもたらすためには、相応の時間と忍耐が必要だということになる。結局のところ、われわれは、全員が少しずつ我慢するという方法でしか、公正な社会を実現することはできないのだ」

きのうも書いたように、我々は「耐える」「我慢する」しかないということらしい。「複雑さ」「あいまいさ」「不完全さ」そして、「まどろっこしさ」といったものに対して。

そして、冒頭に挙げた興味深いフレーズが書かれている。

「若い人たちは、民主主義と市場原理を同じひとつの社会システムだと考えているのかもしれない。それらは、似ているようでいて、まるで違う。ある場面では正反対だ」

この指摘は目から鱗だった。そう。ボクもどこかで「民主主義」と「市場原理」というのは同じ構造を持っていると思っていた時期がある。その違いについて突き詰めては、考えてはこなかった。

「民主主義の多数決原理は、市場原理における淘汰の過程とよく似ているように見える。が、民主主義は、少数意見を排除するシステムではない。むしろ、少数意見を反映する機構をその内部に持っていないと機能しないようにできている。だからこそそれは効率とは縁遠いのだ」

きのう平川氏は、民主主義が「最悪の結果」を招くことがあるからこそ、担保として「少数意見の尊重」が必要と指摘していた。それを小田嶋氏は「少数意見を反映しないと機能しないようにできている」という言い方をしている。ふむふむ。

こうした民主主義についての「負」の側面について、経済学者の佐伯啓思さんも、きのう(12/1)の朝日新聞のインタビューについて危惧を語っていた。

「日本人は、民意がストレートに政治に反映すればするほどいい民主主義だと思ってきた。その理解そのものが間違っていたんじゃないか」

「国民の政治意識の高まりを伴わないまま、民意の反映を優先しすぎたために、非常に情緒的でイメージ先行型の民主主義ができてしまった」

「最悪の結果」「衆愚政治」を招きかねない民主主義。それに市場と同じように「民意」というものを反映させてしまっているのが、日本の現状なのではないか、ということなのではないか。

佐伯氏は、次のように語る。

「まず民主主義の理解を変える。民主主義は不安定で危険をはらんでいることを前提に、どうすれば民主主義をなんとか維持していけるかを考えなくてはならない」

2日連続で、「民主主義」というシステムについてのフレーズを紹介することになってしまった。民主主義というとても大きな「システム」も、戦後60年が経ち「澱」のようなものがたまっているのかもしれない。そして我々の付き合い方、依存の仕方、更新の仕方を含め、どう対処しているかが求められている時期に来ているということなのだろうか。

2011年11月28日 (月)

「人々が閉塞感を感じていない場所はもう世界のどこにもないと思います」

ボクと全く同じ生年月日の橋下徹氏が率いる大阪維新の会が大阪のダブル選挙で圧勝した。橋下氏が市長選挙中に強く訴えたフレーズに「この選挙は変えるのか、変えないのか二者択一」というのがある。ここ数年の選挙で必ずキーワードとなるのが、この「変える」という言葉だと思う。

ボクは、どうも選挙中に「チェンジ!」だの、「変革!」だの、「変える!」を連呼する政治家をうさんくさい目でみるようになっている。

だって物事は、そんなにすぐには変わらない。人間だって、すぐには変わらない。社会システムだって、すぐには変わらない。定着までには、それなりの時間が必要。やはり「更新」とか、「掃除」を繰り返すことによって少しずつしか変わらないというのが、ボクの考えだったりする。

また橋下氏が選挙演説で口にしていた「新しい枠組み作りに挑戦しようではありませんか!」という言い回し。最近の民主党の若い政治家なんかもよく使う言い回しなんだけど、気になって仕方ない。結局、こうした人たちは新しい「枠組み作り」「システム作り」には大いに関心を寄せる。しかし、新しい「枠組み」を作ったあと、どんな生活や生き方などを語ることはない。すなわち「システム作り」にしか関心がないのでは思えてくるのである。

「変革!」を訴えたリーダーは、何をするか。まず既成の概念を否定する。そして壊す。だけど、壊したからと言って、新しいシステムがすぐに定着するわけはない。結果、空白が生まれる。すぐに好転しない状況に周囲は徐々に「イライラ」してくる。そんなパターンの繰り返しのような気がする。

漫画家のしりあがり寿さんが、その辺の「気分」を今日のツイッターに書いていた。

「生活や商売がうまくいかない→お上に期待→お上期待裏切る→さらにうまくいかない→さらにお上に期待→そうそう簡単にはいかなくてさらにうまくいかない→さらにお上に期待して政権変える→期待に応えようと無理してうまくいかない→状況悪化、お上に期待するしかなくなる→なんだかよくわからなくなる」

ボクが務める企業の中でも、「変革」を訴えるトップはいろんな部署で頻出している。大体、同じパターンだ。シャレのような話になるが、結局、全体を変えられないトップは、次に「お金の重要さ」を訴えてくる。とりあえずお金を稼いで、状況を好転させようとする。つまり「チェンジ」とは、「変革」ではなくて、「小銭」の意味だったのか、と半分冗談のような気持ちでボクは受け止めたりする。

大阪市長選で、橋下氏の対抗馬である、平松氏を支持していた内田樹氏は、きょうのツイッターで、選挙を受けて次のように書いている。

「『とにかく変化を』と強く要請する制度は、確かに存在します。市場です。市場は人々の嗜好の変化、欲望の変化、毀誉褒貶のジェットコースター的変遷から利益を得るように構造化されているからです」

なるほど。誰が「変化」を求めているかと思ったら、それは「市場」だったのか。確かに、そうかもしれない。市場では、株価やモノの流行り廃りの上下動が激しいほど、「サトイ」とされている人たちは利ザヤを稼ぐことができるのだ。市場に紐付けられた人は、社会が均衡したり、バランスがとれた状況になるより、不安定で激動していた方が、儲かるチャンスが増えるということなのだろう。

国際政治学者の姜尚中氏は、雑誌『中央公論』12月号の『孤独と不安に耐え、外の世界へ一歩を踏み出そう』という文章の中で次のように書いている。

「市場は社会のなかに埋め込まれているのであって、社会が市場のなかに埋め込まれているのではありません」

世の中のリーダーやそれを支持する人たちが「変えること」「変革」「チェンジ」を口にすればするほど、姜氏が危惧するように「社会」と「市場」の立場が逆転していくのではないか。やれやれ。

さて、先ほどの内田氏のツイッターには、もう一つ印象的なつぶやきがあったので、それも書いておく。

「人々が閉塞感を感じていない場所はもう世界のどこにもないと思います(NYや上海の一隅にはいるかもしれませんが)。ただそれは「社会が経済成長過程にあるときにしか開放感を感じられない」という特異な歴史的な「病」の徴候のように僕には思われます」

それこそ「変化」「変動」の上下動の中ではなく、「均衡」や「バランス」が取れた状況の中でも「開放感」が得られる社会システムや我々の認識が必要ということなのだろう。

「経済的な停滞というのは、メディアがヒステリックに語るような退嬰的な現象であるのではなく、『市場への抵抗』のあらわれではないかという気がします。もうモノはいらない。消費にも欲望を感じない。神経症的な経済競争にも興味がない。自然と調和した穏やかな暮らしがしたい。そういう人たちがバブルのときのような狂騒的な消費活動がまたはじまることにうんざりして、ささやかな抵抗を試みている」

ふむふむ。まさにボクがそうなのである。この指摘は、深く納得できる。

2011年9月29日 (木)

「破壊ははるかに簡単です。創造する手間の百分の一で状況を一変させることができる」

雑誌『サンデー毎日』(10月9日号)が『大阪府知事 橋下独裁ハシズム』と題した特集記事を書いている。

大阪で府知事と市長のダブル選挙を仕掛けて、自らの「大阪都構想」に突き進んでいる橋下府知事。5月には「君が代起立斉唱条例」を可決し、さらに今月、大阪府議会に「教育基本条例」を提出。また「大阪都構想」への賛否によって市の幹部の人事査定も考える。などなど。こうした手法、この雑誌では「ハシズム(橋下主義)」を呼んでいるが、それについて、佐藤優さん、内田樹さん。西川のりおさんのコメントを紹介している。

冒頭のフレーズは、内田樹さんの中から抜粋したもの。橋下知事の独裁が支持を受ける理由について、内田氏は、「全能感や爽快感を求める人は必ず『ぶっ壊せ』というようになる」とも述べる。

また内田氏は、この『ぶっ壊せ』という手法について、8月30日のブログでは、「日本近代史を徴する限り、「みんな壊せ」というようなことを口走った政治運動はすべて「大失敗」に帰着した」と書いている。これに続き、「日本の社会制度の中にはまるで機能不全のものもあるし、そこそこ機能しているものもあるし、ずいぶん順調に機能しているものもある。その『仕分け』が重要である。だが、その基準をほとんどの人は『採算』で量ろうとする。『採算がとれるもの』はよいもので、『採算がとれないもの』は廃絶すべきだというふうに考える」とも書いている。このフレーズも、橋下氏への批判、さらには今の企業で行われている「経営改革」と称するものへの批判となる。

早急に結果を求めるリーダーは、上記の『採算がとれるもの』『採算がとれないもの』を簡単に見分けるシステムを導入しようとする。今回の『サンデー毎日』で、内田氏は以下のように書く。「橋本氏は、教育現場を上位下達的なシステムに変えて、教育を規格化し、点数や進学率などの数値的な成果に基づいて格付けすることを目指している」。こうやってシステムがどんどん増えていくのである。

様々な組織や企業が、この「採算がとれるものがよいもの」「採算がとれないものは悪いもの」という基準を効率よく分別できるシステムを導入し始めていることは間違いない。また、それは個人の判断基準もむしばんでいる。「儲かる作品はよいもの」「儲からない作品はわるいもの」、「儲かる番組はよいもの」「儲からない番組はわるいもの」などのように。さらには「食べ物の味」や「人の価値」、内田氏の指摘する「教育」ももちろんそうだが、そういった本来、数値に置き換えられないものまで、「採算」という基準で分けられているのではないか。

もう一点。佐藤優氏のコメント「彼はバラバラになった一人一人の無力感を無意識で結集している。『橋下なるもの』といかに戦っていくかのが問われています」も印象深い。ボクの会社にも、類似の『橋下なるもの』は存在する。つまり我々は、アチコチで跋扈する「○○なるもの」との戦い方について、いろいろ考え、身に着けていかなければいけないのであろう。

今回の記事を読んでもっとも驚いたことは、ボクと橋下徹氏は、同じ年の同じ日に生まれているということ。全く知らなかった。

2011年8月30日 (火)

「いったん楽な方へ行っちまったら、ばかばかしくてモノ作りなんてやってられなくなっちまう」

このブログは、別に「システム」についてだけを書くつもりはなかった。ただ最近、そんなことを考える機会が多かったので、出だしから「システム」についての記述が多くなってしまった。もともとは、日常生活の中で拾った気になったコトバと、そこから考えたことをツラツラ書こうと始めたに過ぎない。例え、その時はまとまりがなくても。

直木賞を受賞した池井戸潤さんの『下町ロケット』を読んだ。元ロケット研究者の下町の町工場の経営者が、ライバル企業や大手企業を相手に、自分たちの「立ち位置」を確認しながら、その存在を認めさせていく話。深みのある展開を避け、安心して読み進められるような構成になっている。ところどころで、「仕事とは何か?」を考えさせてくれるところがよい。

冒頭の言葉は、従業員に対して「仕事とは」について語る経営者の言葉。前後も紹介すると、こんな感じになる。

「知的ビジネスでもうけるのは確かに簡単だけれども、本来それはうちの仕事じゃない。ウチの特許は、あくまで自分たちの製品に活かすために開発してきたはずだろう。いったん楽な方へ行っちまったら、ばかばかしくてモノ作りなんてやってられなくなっちまう」。

これからは特許の契約料でうまみを得ていきましょうという若い従業員に対して、経営者が説得するときにつぶやいたフレーズ。

最近、同じようなフレーズを読んだことをすぐに思い出した。それは『ナタリー』というサイトに掲載されていた山下達郎さんのインタビューで読んだもの。そちらは、以下の通り。

「曲を書くっていうのは結構骨身を削る作業なので、ピアノの前でウーンって唸って苦しんで。僕なんてナマケモノで意志が弱いから、そんなときにふと『CMやっちゃおうかな』ってなっちゃうと思うんですよ。そうなったらもう曲なんて書けなくなる。だから僕はそういうことをしないようにしてきた。もっと曲を書きたいから」

うん。まったく同じことを言っている。この2つのフレーズだけでも、コピーして、うちの本社の経営者たちに読ませてあげたい。というか読むべきだよなあ。メディアの持つ「社会的責任」を忘れて、不動産とか副業とかで儲けることばかり考えている経営者さんに。

もうひとつ。佃製作所の経営者が「仕事」についてつぶやいたフレーズをご紹介。

「俺はな、仕事っていうのは、二階建ての家みたいなもんだと思う。一階部分は、飯を食うためだ。必要な金を稼ぎ、生活していくために働く。だけど、それだけじゃあ窮屈だ。だから、仕事には夢がなきゃならないと思う。それが二階部分だ。夢だけ追っかけても飯は食っていけないし、飯だけ食えても夢がなきゃつまらない」

まあ、「夢がなきゃ」というとありふれたフレーズでもある。でもホント、その通りなんだ。ボクだって、別にお金をもらうためだけに働いているわけじゃない。その向こうに「ナニカ」を見ながら働いている。第一、放送局というある意味、いろんな人々に「夢を見てもらう」ための番組を作る仕事をしている。はずなのである。だけど、実際の現場は、最近はキュウキュウと締め付けれ、働く本人たちが夢を見たり、語ったりできないような有様だったりする。こまったもんだ。

この小説の中で、主役となる町工場の佃製作所の従業員たちを、大手企業の帝国重工の社員が問い詰めるシーンが出てくる。「営業赤字じゃ話にならないんだよ」とかいうセリフは、けっして他人事には思えなかった。ほんと。ボクが前までいた部署(会社)の、本社から降りてきた某社長は、本当にそのままのセリフを吐いた。目の前で。ボクがいた職場が、れまで、どんなに技術や品質を持ってクオリティの高いコンテンツを作り、それなりの結果を出していたものの、「赤字では意味がないんだ」と収支の結果だけど見て、それいがいも全部否定したのである。そして、全てを自分の思うように変えようとしている。つまり、本業以外のことで儲けようとしているわけである。

悲しいことにボクのいた組織は、佃製作所のような展開にはならなかった。もちろん、ボクの力不足もあったんだけど。ボクらの現場にだって「佃品質」に劣らぬ「品質」はあったともうけど、現場スタッフに「佃プライド」のようなプライドがないのが残念だった。みんな疲れすぎていた。残念、無念。

すっかりグチとなってしまった。やれやれ。

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