自転車

2011年12月 9日 (金)

「いろんな乗り物を平等に扱うべきだよ」

先週土曜日(12/3)のTBSラジオの番組『鈴木おさむ 考えるラジオ』。テーマが自転車についてだったので、録音で全編を聴いた。

内容としては、最近、自転車の利用者が増えていて、その事故も急増しているので、このまま自転車を野放図にしていていいものかというもの。賛否両論を取り上げているものの、ライセンス制度を導入するなど、自転車にも新しいルールや規制が必要という、これまでの自転車論の域を出るもではなかった。

正確のために記しておくと、自転車事故は増えているわけではない。ここ数年は微かだが減っている。ただ、自動車事故の方が大きく減っているため、全体の事故に占める自転車事故の割合が増加している。これが現状なはずである。

自転車乗りの立場としてゲスト出演していた玉袋筋太郎さんの「いろんな乗り物を平等に扱うべきだよ」というフレーズが印象的だったので、冒頭に取り上げた。まったくその通りだと思う。自動車の理屈を中心にものごとを考えても、話は先に進まない。歩行者、自転車なども平等に取り上げ、規制や罰則の方も設けるなら「弱者優先」の意識を確認したうえで、平等に行うべきなんだと思う。

結局、テレビやラジオで、マナーについて話し合う場合は、それぞれのひどいマナー違反の例を列挙して、「やはり、お互いに新たな規制が必要である」という結論に落ち着くのがパターンなのである。お互いの悪いところを言い合っても、増えるのは規制やルールばかり。本当に良い結果にはならない。

番組を聴いていて、弁護士の郷原信郎さんの著書『思考停止社会』に書いてあった指摘を思い出した。

「『社会的規範』というのは、社会の中で人々がその価値を認め合って、大切に守っていこうという基本的合意ができているルールです」

「『社会的規範』がその本来の機能を果たすためには、それを無条件に守ることを強制する『遵守』の関係ではなく、『ルールとしてお互いに尊重する』という関係が必要なのです。『社会的規範』に関しては、『遵守』のような上命下服の世界ではなく、人間同士が、そして組織が、フラットな関係であることが必要なのです」

玉袋さんのいう「平等」という言葉が、ここでは「フラットな関係」を置き換えられている。

せっかくなので改めてボクの「道路」の考えについて書いておきたい。

今一度、「道路は誰のものか?」についてちゃんと考え直す必要があるというのがボクの考え方。先日も、ここに書いたが、日本社会では、高度成長期以降、道路という場所は完全に自動車のものということになってしまった。車の数が増え、車が経済を支え、車の税金で道路を整備したことが背景にあるのだろう。その一方で、ヨーロッパを中心とした社会では、道路は市民のものなのである。

改めて、朝日新聞(10/20)に掲載されていた津田塾大学准教授の萱野稔人さんの言葉を引用する。

「そもそも街頭は誰のものか。日本では、車のものですが、ヨーロッパでは人間のものです。~中略~ 街頭とは、人々が自然発生的に集まり、意思表示をする公共空間です」

日本だって、ボクの小さい頃、30~40年前なんかでも、幹線道路以外の道は、子供たちの遊び場でもあった。路地で走り回り、落書きをし、野球だってした。時々、車が通るとよけ、また遊びを再開する。車も当然、徐行してくれた。数年前、田舎に帰った時、聞いたのは、今は、路地でも車がスピードを落とさないため、とても危ないので、子供には道路では遊ぶなと言っているということ。近くに公園もないので、結局、子供たちは家の中で遊ぶ傾向が強くなるとのことだった。

「道路は誰のものなのか?」道路という公共の場所は、本来、歩く人のものでもあり、自転車に乗る人のものでもあり、自動車に乗る人のものでもあり、そこで遊ぶ人のものでもあり、デモをする人のものでもあり、露店などものを売る人のものでもあり、大道芸を披露する人のものでもあり、近くに住む人のものでもあり、もしかしたら、そこに住むホームレスの人のものでもあるかもしれない。そう考えると、これまでの日本のように自動車が「これはオレの場所だから、どきな。オレたちに迷惑をかけるじゃないよ」という風にみえた状況は、特別なことだったのである。

経済が右肩下がりになり、車の数も減り、移動手段の多様性が広がった今こそ、改めて「道路は誰のものか?」を考え直して、新しいルール作りをする良いタイミングなんだと思う。

例えば…。幹線道路などは、当然、車が優先されてしかるべき。代わりに、街なかの道路や路地などは自動車の通行を色んな条件に合わせて規制することで、ほかの人たちと共存を図るべきなのではないか。ある道路は、自転車専用道にスペースを譲る。歩行者のためにスピードの規制を強める。また路面電車に場所を譲ったりもする。土曜日や日曜日には、歩行者天国にして、歩行者や大道芸人たちに場所を譲る。また時間によって都心への進入を規制するロードプライシングという制度の導入だってありなのかもしれない。

こういう話をしている時、「よく日本の道路はせまいから仕方がない。共存なんて無理」という意見が聴かれる。でも道路が狭いのは、日本だけではない。世界中の都市は、おおむね街なかの道路は狭い。ヨーロッパの旧市街地の道路なんて、日本以上に狭い所もたくさんある。だからこそ、いろんなルールを共有しながら、全体でシェアができるようにして、社会を流れるようにデザインしているのである。決して、車だけが優先されることはない。

また僕としては、ラジオの番組でも取り上げられていた自転車のライセンス制度をすべて否定しない。状況次第では、導入してもよいと思う。ただ自転車のライセンス制度を導入している国など、ほかにはないことも理解した方が良い。日本人だけが特別に自転車のマネーが悪いとは考えにくい。日本が特別にその制度を導入せざるを得ないとしたら、その背景には、他の国より自動車が優先されている道路事情があるから、という理解も必要でないかとも思う。

その前に、今まで道路を「車のモノ」として、自動車による利用を最優先してきた意識を一度、ゼロにして、改めて、いろんな利用者たちと平等に振り分ける作業をしてはいかがだろうか。利益や痛み両面を、それぞれに平等に振り分けるのである。場所や時間、流れを整理して、規制することは規制して、みんなとの共生・共存をはかる。そういう時期に来ているのだと思う。

でも、この作業が必要なのは道路だけではないのだろう。まさにこうした作業をいろんな場所に広め、これまで経済優先だったルールやシステムを改めて刷新していくことが、これからの「公共の場」では必要になっているのだと思う。

2011年10月20日 (木)

「そもそも街頭は誰のものか。日本では車のものですが、ヨーロッパでは人間のものです」

今朝(10月20日)の朝日新聞の朝刊が『街に出る人たち』というタイトルの特集を組んでいて、最近のデモについて、3人の方のコメントを掲載していた。

冒頭のフレーズは、そのうちの1人津田塾大学准教授の萱野稔人さんのもの。

まず萱野さんは、デモについてのヨーロッパと日本の違いについて語る。日本については、日本人そのものがデモそのものに消極的なのではなく、警察による過剰な規制・管理によって、一般の人が参加しにくくなっていると指摘する。それに対して、ヨーロッパでは、その警察が車を閉め出し、道全体をデモに開放するため、通りかかった人が簡単に参加することができる、とのこと。

確かに、ボクも6月に行われた「脱原発」のデモに参加して思ったのは、警察に時間やタイミングを徹底的に管理され、デモの列も車道の右隅に押しやられている感じで非常に窮屈なものだった。確かにテレビなどでみるヨーロッパとかのデモは、パレードみたいだったりする。

続いて萱野さんは、デモの状況に続いて、公共空間としての「街頭」について言及する。

「そもそも街頭は誰のものか。日本では、車のものですが、ヨーロッパでは人間のものです。~中略~ 街頭とは、人々が自然発生的に集まり、意思表示をする公共空間です」

この指摘が、ボクの中でスーと居場所を見つけた感じだった。

話は飛ぶかもしれないが、きのう(10月19日)の毎日新聞の朝刊は「自転車走行“歩道は禁止”厳格運用」という記事を掲載した。第一面のトップ記事だということもあり、何人かの知人に、このニュースについて、どう思うかのコメントを求められた。

まず、なぜ彼らがボクに感想を聞いてきたかというと、ボクが自転車乗りだから。それ以上でもそれ以下でもない。ボクは、3年前の10月に子供が自転車に乗れるようになったのをきっかけに、ボクも自転車を買い、それからというもの、通勤をはじめ、ほとんどの移動を自転車で行うようになったのである。この3年で走行距離は1万キロを超え、長年、所有していた自動車も手放した。毎朝、自宅から会社まで行く前に、皇居をグルリと1周走るのが何よりの楽しみでもある。

もともと交通ルールでは、自転車は車道を走るものとされている。しかし高度成長期以降、日本のせまい車道に車があふれ、また日本独特のママチャリなる自転車の進化・普及によって、日本では、いつのまにか、自転車も歩道を走ってよいものとされてきた。その結果、自動車に乗る人たちの多くが、自転車とは歩道を走るものと思っているのではないか。

最近、環境問題への意識の高まりや、震災以降の交通への対策から、自転車乗りがあまりに増え、歩道での歩行者と自転車の事故があまりに増えたため、警察は「自転車は車道」というルールを厳格にしようと動き出したということである。

ボク自身は、この警察の動きについて大歓迎である。肩身の狭い思いをすることなく、堂々と車道を走りたいし、これをきっかけに自転車道の整備も進んでほしい。

そもそも、このニュースを自転車に乗る立場の人にコメントを求めてくる、という人は「自動車乗り」の方々なのである。今回は、例外なくそうであった。「自転車で車道を走って、恐くないの?危険じゃないの?自転車乗りにとって、それでいいの?」という感じで聞いてくる。「恐い」も「危険」も、ボクはいつも車道を走行しているし、恐さはいつもある。その「恐い」や「危険」という要素は、どちらかというと、自転車に起因するものではなく、車道で共存しなければいけない自動車に起因するもの、という気がする。今回の警察の方針転換は、自転車への影響よりも、自動車への影響が大きいのである。車道に自転車があふれるようになれば、自動車乗りも、これまでのように我が物顔で車道を走れなくなる、場合によってはスピードを落とし、自転車の走行を注意する必要が出てくるに違いない。

そのことを自動車乗りの方々に指摘しても、まったくピンと来ていない。きっと心の中では「なんで、我々の場所にテメーラが割り込んでくるんだよ」と思っているに違いない。

そこで出てくるのが「道路は誰のものなのか」という問いである。

「街頭は、人間のもの」なのである。車のものではない。まずは、歩行者が優先され(歩行者の安全が守られ)、次に自転車が優先され、最後に自動車の居場所を作る。というのが本来の道路の「システム」を設計するうえでの正しい順番のはずである。これが日本では、経済優先のためか、順序が逆になっている。もう一度、システムを再設計して、この順序を逆に戻す必要がある。

すなわち「街頭は人間のもの」という前提を取り戻す時期に来ているのではないか。 例えば、ドイツのフランクフルトなんかでは街の中心部に、自転車専用道路や路面電車を整備したり、車の進入の制限を行ったりするなど、自動車に規制をかけ、いろんな手段の人たちが利用できるようにしている。同じ自動車大国とみられているドイツに、自動車への規制ができて、なぜ日本にできないのか。この差はなんなのか?

翻って、デモの話に戻す。つまりは日本の警察にも、「街頭は車のもの」というシステムが完全に刷り込まれているということなのだろう。だから、人が歩くデモは道路を不当に占拠し、「車の邪魔をする行為」「経済活動の邪魔をする行為」と考える。車両による経済活動を守るため、一所懸命にその邪魔をするデモを規制・管理をしようとしているのだろう。

そもそも、日本には明治時代まで、公園というものはなかったという。街道や路地が子どもをはじめとした人々の遊び場でもあったのだ。ボクの小さいころも、路地でよく遊んだ気がする。でも今は時に路地をスピードを落とさず走行する自動車が危険ということで、親も道路で遊ぶことを子どもには厳しく言い聞かせる。当然の状況だ。でも幹線から奥に入ったような小さい路地などでは、もっど子どもが遊んでいてもいいような気もする。

そろそろ、日本でも「街頭」の本来の存在理由を問い直し、そこを自分たちの公共空間として、自動車から取り戻し、いろいろ活用するべき時期に来ているのではと思う。

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