リスク

2013年10月29日 (火)

「間違えて損をするのは怖いから、事なかれ主義で掟に従う。どうして政治家になったのかね」

今日の朝日新聞(10月29日)での「私の悪人論」という特集記事。そこに国会議員の亀井静香氏のインタビューが載っていた。興味深いコトバがあったので、それを紹介してみたい。

「今の時代、欲望だらけで、金よ、金よの利益追求が極大に達している。新自由主義なんてその最たるもんだ。政治家もその渦に巻き込まれている。そこで起きるのは事なかれ主義だ。世の中をどうにかしようという強烈な意志を持つやつなんていなくなった。大勢に順応し、自分の利益を守ろうとする。政界もそんなのばかりだ」 

「金よ、金よ」の利益追求の社会では、「事なかれ主義」が広がり、「大衆に順応」する傾向も増える。つまり、「リスク回避」の傾向が広がり、「水を差す」ことも忌避される、ということだ。政界も例外でないという。 

さらに亀井氏は、次のように話す。 

「俺は違う。人間が決めた掟にかまわない行動をする。だから悪人といわれる」 

「政治家に必要なのはね、使命感と覚悟だ。権力は、男性を女性にし女性を男性にする以外なら、なんでもできる。しかし今の政治家は覚悟がないから権力を使わない。間違えて損をするのは怖いから、事なかれ主義で掟に従う。どうして政治家になったのかね」

「掟」に従わない人間が「悪」。いうことは、今の世の中での「善人」というのは、「掟」つまり「ルール」に従う人のこととなる。まさに「ルール主義」がはびこるわけだ。(2012年5月8日 6月20日のブログ など)

亀井さんの指摘によれば、リスク回避の「事なかれ主義」と、「掟に従う」というルール主義はセットなわけだ。 

この「私の悪人論」という特集は、リレーで行われており、前回は、元検事の田中一光さんのインタビュー。その中から。(朝日新聞10月22日 

「検事や弁護士の仕事をする中で、法と自分が考える正義が衝突することがよくありました。法に従うか自分の信念に従うか。究極の選択をする時、判断基準にしたのが若いころから私のバックボーンだった『論語』でした」 

ルールである「法」と、価値観や美意識による「自分に考える正義」の衝突。これは、検事だけでなく、普段の生活や社会活動の中でもあちこちで起きる。こういう時に、盲目に「法」や「ルール」に従ってしまうことが、まさに「ルール主義」なんだと思う。ここで興味深いのは、田中さんは、「論語に照らし合わせる」という考え方。まさに「過去の英知」すなわち「歴史に学ぶ」ということ。(7月25日のブログなど) 

ちなみに。 

この「私の悪人論」。その第1回は、俳優の宇梶剛士さん。そこでも次の言葉が出てくる。(朝日新聞10月16日

「人間は理性を持ち、過去から学ぶ生き物です」

そうです。学ばなければいけない。当たり前のことです。

ちょっと前に、NHKのBS1で『オリバー・ストーンが語るアメリカ史』というシリーズ・ドキュメンタリー番組を放送されていた。その最終回(第10回)で、オリバー・ストーン監督も、次のように語りかけていた。 

「人類の歴史には戦争や死の記録だけでなく、誇りや成功、優しさ、思い出、そして文明が刻まれているのです。過去を振り返ることから未来への道は開けます」 

リスク回避社会、ルール主義社会。それを打破し、抜け出すためには、「歴史」や「過去」に学び、そして積み上げた自分なりの価値観、美意識、心情を信じるしかないということ…。こう書いてみると、本当に本当に、当たり前のことなんだと思うんだけど、どうも政治の世界をはじめ、そうはいかないのが、これまた不思議だったりする。

2013年10月24日 (木)

「神話を信じるほうが、悩まなくてすむからね。自分の頭で考え、疑い、苦しみ、戦うという主体的営みの対局に神話はある」

もうしばらく「リスク」「失敗」の続き。すいません。

きのう新たに、茨城県東海村の前村長、村上達也さんと、ビデオジャーナリストの神保哲生さんとの『東海村・村長の「脱原発」』論』という本を読んでいたら、同じような指摘があったので、それも記す。あちこちで出会う。そのくらい「リスクを避ける習性」というのは、日本社会の根深い問題ということでもある。

その村上さんが、お役所、すなわち行政の習性について次のように語っている。 

村上 「余計なことをして、パニックを起こして、そのために被害が起きると、行政側が責任を取らなければならない。それが怖い」 

神保 「たとえ人の命がかかっているような状況でも、何かをやり過ぎた結果、トラブルが起きてその責任を取らされるくらいなら何もやらないでおいたほうがいいと考えてしまう、そういうことですか」 

村上 「ええ。日本は、行政のそういう性向がきわめて強い国ですよね。官僚組織の論理が最優先にされる結果、無謬性を失うのを恐れて緊急時には何もできなという性向です」 (P52) 

ちなみに、「無謬性」とは、「間違いがない」ということ。 

本来なら、「人の命」を失う以上のリスクはないはず。でも、それよりも目先のパニック、トラブル、その責任というリスクを避けるがために、「何もしない」という選択肢を選んでしまう。 

でも、これまで何度も書いてきたが、人間社会では、必ず間違いや失敗も起きるし、リスクゼロなんて状況もありえない。それでも「無謬性」というものを信じるために用意されるのが、「安全神話」なのかもしれない。「リスクゼロ」というフィクションを信じ込ませるために、「安全神話」を作りだし、流布させる。 

原発の「安全神話」について、東海村の前村長、村上達也さんは、次のように話している。 

「それまでは住民避難を計画すること自体、原子力の危険性を認めることになると考えられていた。原発は絶対に安全なのだから住民避難など考慮する必要はないと、本気で言われていたのです」 

「本当に、日本は恐ろしい国だと思っています。国民の生命財産より原発が大事で、しかも随所で隠蔽体質と無謬性への恐怖がある」 (P54) 

「それは、少し考えれば誰にでもわかることだった。いくら安全対策を施しても、結局は日本で原発を建設すること自体に無理がある。その無理を押し通すために、原発推進の勢力は自らも安全に対して思考停止するしかなかった。ですから、日本人が本当に反省しなければならないと私が思うのは、そういう思考停止をうながす流れ、世の中の雰囲気ができたとき、日本社会はあっという間にそれに同調してきたということですよ」 (P173) 

本来フィクションでしかない「リスクゼロ」。それを信じるために、「安全神話」をつくりだし、流布させる。そして「思考停止」して、それを同調という圧力のもとで受け入れ続ける。

ゼロリスク」というフィクションを信じる状況を、社会学者の宮台真司さんは「フィクションの繭」と表現する。宮台ブログ(2012年8月13日)から。 

「〈原発を止められない社会〉である本質的な理由は何か。〈巨大なフィクションの繭〉のせいです。例えば日本にしかない『100%原発安全神話』。そのせいで津波対策やフィルタードベントなどの追加的安全対策が、技術はあるのに採用されなかった」 

「これらが〈巨大なフィクションの繭〉の中で、何もものを見ないで出鱈目な決定を連発してきているのが、日本の政治です。これは戦前から変わっていません」


こうした「安全神話」について、作家の辺見庸さんは、『この国はどこで間違えたのか』という本の中で、次の湯に語っている。

「神話を信じるほうが、悩まなくてすむからね。自分の頭で考え、疑い、苦しみ、戦うという主体的営みの対局に神話はある。皇軍不敗神話、天皇神話もそうです。神話は、われわれの思惟、行動を非論理的に縛り、誘導する固定観念や集団的無意識、根拠ない規範にもなる。とりわけ、われわれは巨大なものや先進テクノロジー=善という『近代神話』に長くとりつかれてきた。その近代神話の頂点にあるのが原発だった」 (P285) 

結局、安全神話を信じ、リスクゼロを信じることで、安心できる。その方が、日々の生活は「楽」なのだ。きっと。でも、その神話、フィクションはいつか崩壊するのだろう。その時、巨大に増長したリスクと対面しなければならなくなるのではないのか。 

上記の『この国はどこで間違えたのか』の中で、沖縄タイムス記者の渡辺豪さんは、次のように語っている。 

「過ちは確かにあった。そして今もある。われわれが抱える問題の深刻さは、過ちに気付きながら事態を放置してきたこと。対象と向き合って転換や変革を測れない構造的な弱みにあるのではないだろうか」 (P294) 

リスク、失敗、間違い、過ち。どうすれば、それらと向き合い、共存していけるようになるのか。

最後に。テイストはぐっと変わるが、糸井重里さんの本の中にも「失敗」についての言葉があったので。著書『ぽてんしゃる。』から。

「『失敗』を求めているはずはないのですが、『失敗』を恐怖していたら、なんつーか、「悪い運命のおもうつぼ」です」 (P157)

2013年10月22日 (火)

「安心安全がそんなに大事かと思います」

ここ6回続けて「リスク」についての言葉を並べて、それについて考えている。サッカー協会の田嶋幸三さんやオシム元監督によるスポーツ界における「失敗やリスクを恐れる風潮」についての指摘を例に取り上げてから始まった。(10月10日のブログ

きのう桑田真澄さんと、ノンフィクション作家の佐山和夫さんによる『スポーツの品格』を読んでいたら次のような対話が出てきた。 

桑田 「トーナメントというシステム、『負けたら終わり』というあり方そのものを考え直していくことが必要だと思います」  

佐山 「『負けたら終わり』のトーナメントでは、一つの失敗が命取りになります。だから、日本の指導者は『失敗するな』『こういうことをしてはダメだ』ということを盛んにいいますね。つまり、禁止事項を厳密に命じるわけです。そして、選手が禁止事項を守らないと、罵声や暴力が飛び交うことになってしまう」 (P86)

甲子園の全国高校野球選手権だけでない。そういえばボクの子供が所属する少年野球チームも、トーナメント戦ばかり。

その一発勝負のトーナメントが「失敗を許さない風潮」を作っているのではという指摘である。これが以前のブログ(今年1月28日)でも紹介した「勝利至上主義」や「体罰」の問題にもつながっている。ヨーロッパやブラジルのサッカーでは、目先の「勝利至上主義」に陥りやすいということで、今では小学生レベルでは行われていないという指摘も読んだことがある。


桑田真澄さんは、さらに次のように語っている。 

「スポーツで失敗するのは当たり前です。実際のところ、失敗の連続ですよ。野球なんか特にそうです。バッターは10回のうち3回打てば3割打者で一流ですし、投手だって、すべてのボールを思ったとおりのコースに投げることなんてできません」 

「僕たちも『失敗したら負けるぞ』と教わってきましたが、でも、そうではないですよね。長年やってきて思うことは、『失敗したら負ける』のではなくて、『失敗を一つでも減らしたほうが勝てる』というのが正しい言い方です。そもそも失敗は付きものなので、最初から失敗を恐れてやっていたら、いいプレイはできませんよ」 (P87) 

まさに「ゼロリスク」なんてものはないから、失敗やリスクといかに共存して減らしていくかを考えるべきという指摘。 

これは、野球やそのほかのスポーツだけでもなく、社会一般のことにも当然ながら当てはまるんだと思う。ということは、社会そのものが失敗や負けを許されない「トーナメント」状態になっているのかもしれない。 

もうひとつ。 
その前に読んだのが、牧師の奥田知志さんと茂木健一郎さんの『「助けて」と言える国へ』という本。その中で奥田知志さんが語っていることも、「失敗」や「リスク」を恐れる日本社会のことである。

「ある意味、日本は傷つかない社会になったのです。というか、傷つくことを極端に避ける社会になってしまいました」 (P27)

「私は学びは出会いだと思うのです。人は出会いで変わります。例えば、子どもができたら子どものペースに合わせ、恋人ができたら恋人のペースに引っ張られますね。しかし、自分のペースが変えられることを極端に恐れていると誰とも出会えない。その結果無縁へと向かう。それが傷つきたくないということとも関連しています。人間は誰でも試練に遭いたくないというのが本音ですが、それがいきすぎた社会というのは、本当の意味では人と出会えない。安心安全がそんなに大事かと思います」 (P28)

「傷つく」というリスクを避けるがため、とりあえずの「安全安心」を守るため、人との出会いさえ避けてしまう。出会いのなければ、世界は広がらないし、助け合うこともできない。結局は、孤立していく。 

奥田さんも、当然ながら「リスクゼロ」を求めるのではなく、リスクとの共存を説いている。

社会というのは、“健全に傷つくための仕組み”だと私は思います。傷というものを除外して、誰も傷つかない、健全で健康で明るくて楽しいというのが『よい社会』ではないと思います。本当の社会というのは、皆が多少傷つくけれど、致命的にはならない仕組みです」 (P38)

2013年10月21日 (月)

「優先順位はその人の価値観で決まる。国がとり組む優先順位はその国の人々の価値観の反映だ」

「リスク」を前にして動けなくなってしまう傾向。これは結局、選ぶことができないことでもある。ということについて、ここ数日のブログで書いてきた。

この流れで、ボクが思っていることは「優先順位」を付けることの大切さである。社会の中の価値観が広がり、多様になり、それによって選択肢が増えていくことはとても良いことだと思う。その動きを止めていけない。

しかしその一方で、誰にも一日24時間しかないわけだし、場所も制限される。つまり、存在するモノの中から、全てを選ぶことはできない。そこで重要になってくるのが「優先順位」というやつだと思う。何から選ぶのか、何を捨て、あきらめるのか。それを判断するためにも、自分なりの価値観、美意識、状況などに合わせた「優先順位」を日頃から考えておくことが大切だと思う。そうでないと、目の前の数値やランキングに依存する体質になってしまうんだと思う。
 

ちょっと前、その「優先順位」についての語っている言葉を見つけたので、載せておきたい。 

カウンセラーの海原純子さんが、毎日新聞9月8日で書いていた文章から。 

「優先順位はその人の価値観で決まる。国がとり組む優先順位はその国の人々の価値観の反映だ。汚染水問題を最優先と考える人は少ないのだろうか。早く対策を、と叫びたくなる」

どうも日本の政治的には、いろんな政策に対して「優先順位」を付けることができていないよう。 

こちらはダイブ前の新聞記事から。当時、米日経済協議会副会長のチャールズ・レイク氏は、日経新聞2011年1月9日で次のように語っている。 

「日本の通商政策について、各国の目には、国家として政策の優先順位がないと映ります。経産省、外務省、農林省が独自の立場で国際交渉に臨み、大臣が3人同席しないと話ができない。これではいったいだれが日本の代表か分かりません」 

この指摘を読むと、現在行われているTPP交渉も思いやられる。 

さらに作家の村上龍さんも、メールマガジン『JMM』2011年1月18日で次のように書く。

「菅内閣に実行力が不足している一因は、山積みの諸問題に優先順位をつけらないことです。政治家に限らず、物事を「決断・実行」するためには、優先順位を決めることが求められます」 

素人ながら当時の民主党政権の失敗については、この「優先順位」を付けられないことがすべての根源だったのではと思う。例えば、マニフェストで約束した「高速道路無料化」や「高校無償化」などを、すぐに財源がないからと取り下げた。本来、取り下げる必要はなかった。「今は財源がないから、優先順位が高いものから手を付ける。もし状況が許せば、将来、それに取り組む」と言えば、「嘘つき」呼ばわりはされなかったのではないか。 

生活面での「優先順位」でいえば、日頃から、自分なりの価値観や美意識を大事にしていることが大切である。また社会や生活の中には、先人の知恵として優先順位をつけやすい仕組みがあちこちに組み込まれていたりもする。そんな話を、養老孟司さん福岡伸一さんがしている。『せいめいのはなし』から。 

福岡 「選択できないと、はたらけなくなっちゃうわけだ。どちらへ行けばいいのかわらかないから、混乱してストップしてしまう」 

養老 「いちばん身近な例でいつも感じているのは右利きと左利きですよ。利き手というのは、いざというときにないと困るんですね。わかりやすくいえば、利き足がないといざというときに逃げるのにうさぎ跳びになっちゃう」 (P148)

利き手もそうだが、レディ・ファースト、弱者優先などの考え方もそういうことだと思う。考えることなく、そうすることで社会がスムーズに動くし、居心地がよくなる。だから、こういうものは大切にしなければいけないのだと思う。

自分なりの「優先順位」というもこそが、その人の価値観や美意識とイコールなんだと思う。それは、政治家や国家でも同じことなんだろう。きっと。

2013年10月18日 (金)

「日本人が陥りがちなこと。それは『選択肢があるのに選択をためらい。先延ばしにし、いつまでも選択はしない』という態度だ」

きのうのブログ(10月17日)の最後で、誰かが「人生は、選択の連続である」ということを言ったと書いたが、それに近い言葉を見つけたので載せておきたい。

解剖学者の養老孟司さんが、毎日新聞(2011年1月11日)の書評欄で『選択の科学』(著・シーナ・アイエンガー)について取り上げている。その中に次のように書いている。 

「だれでも選択する。商品の場合には当然だし、結婚でもそうであろう。人生の大事はどのような選択をするかでしばし決められる」 

確かに言われるまでもなく、人生の中で「選択」が重要となることはしばしばある。選ばなければならないし、選んだものが常に正しい、安心という保証はない。

そこで今日は、そんな「選択」についての言葉を並べてみたい。
 

デザイナーの奥山清行さんは、著書『ムーンショットデザイン幸福論』で次のように書いている。 

「日本人が陥りがちなこと。それは『選択肢があるのに選択をためらい。先延ばしにし、いつまでも選択はしない』という態度だ」 

ついでに、前回も紹介した建築家の隈研吾さんの言葉をもう一度。毎日新聞6月16日から。

選ぶことは、諦めること。思い切りよく締める潔さが日本人にかけている」 

ともに、日本人は「選択」そのものが苦手になってきているという指摘である。 

さらに、毎日新聞の特集記事『イマジン』(6月7日)の中で、こんな文章を見つけた。 

「物があふれ、なんでも選べるようになった日本。その中で、私たちは、人生を、暮らしを、社会を自由に選んでいるのだろうか」 

「人と異なる選択をして“外す”ことを怖がる人たちは、ランキング情報や、口コミなどに頼る。これにより、選択の同質化が進む」
 

どんどん選択肢が増えていく現代社会。すると選ぶこと、すなわち捨てることに疲れてくる。その結果、ランキングや他人の選択に乗って選ぶという方法が横行する。これは「ランキング依存」や「数値依存」という傾向とも重なっている。(3月19日のブログ)。「イワシ化」という表現もあった。(4月16日のブログ) 

では、どうすれば「選択」に強くなれるか。続いて、そのヒントになるような言葉を並べていきたい。

養老孟司さんは、先ほどの『選択の科学』の書評欄で次のように書いている。 

「商品の品揃えが多すぎると、売り上げが激減するという。二十四種類の商品をそろえた場合と、六種類の場合を比較して、購入率に六倍の違いがあることを見出した」 

「人間の情報能力に関係する。せいぜい五から九くらいの種類のものしか、われわれは記憶して処理できないのである」
 

ライターの金子由紀子さんは、著書『40才からのシンプルな暮らし』で次のように書く。 

「モノを減らすことで、自分にとって大切なものとそうでないものが、はっきり見えてくるという効用があります。そうすると、やるべきこととやらなくていいことも、自然と見えてくるのです」 

モノが増え、選択肢が増えていくことは豊かな社会の一面であることは間違いない。でも、いくら選択肢が多くても選べなければ、もともこうもない。前回のブログの中での言葉とも通じるが、豊かな選択肢を前にして、自分の価値観に従い、そこから捨てる、見切るなど、断捨離を行うことは、すなわち選びやすくするための準備でもある。 

棋士の羽生善治さんも、著書『羽生善治の思考』で次のようにも書いている。 

「たくさんの選択肢のなかから選ぶと、間違いなく後悔する。3つくらいのなかから選ぶのは後悔しないのに、10も20もあるなかから選ぶと、絶対に後悔することになる。ただ、そういうものだと思っていれば、それほど悩んだり、後悔することは少ない」 

ちょっと飛ぶが、国の混乱を避けるため、選挙での政党の数を制限している国(?)もあるというのを読んで興味深く感じた。 

ノンフィクションライターの高野秀行さん著書『謎の独立国家ソマリランド』から。ソマリランドの選挙制度について。 

「まず、政党の数は三つに限定されている。もし政党の数をかぎらないと、ちいさな分分分家くらいのレベルまで氏族レベルで人々が政党を作ってしまうことが目に見えているからだという。たった三つしかなければ、氏族間で協力する必要がある。では、どうやって政党を三つに絞るかというと、これが選挙なのである。人(議員)を選ぶ前に『党』を選ぶ選挙があるのだ。憲法ではこの政党選挙を十年に一度行うと明記されている」 (P463) 

「ソマリランドの憲法では『政党は三つまで』と定められている。そして十年に一度、その三つの政党を決める選挙が行われる。ベスト3から漏れた政党は消滅し、政治家は三つの政党のどれかに入党することになる。なぜそんなことをするのか。それはまず氏族同士で固まるのを防ぐため。もうひとつは政党が乱立すると単純に国民が混乱するから」 (P494) 

もちろん日本の選挙に、この方法をいきなり導入するわけにはいかないのだろうが、生活の中で、常に選択肢を減らしていく工夫・訓練をしていくことは可能なのではないだろうか。最後に、こちらもヒントになる言葉。船橋洋一さん『カウントダウン・メルトダウン』に紹介されていた、当時、内閣参与だった劇作家の平田オリザさんの言葉。 

「ベストの選択は無理だと思います。できる限り公正と思われる情報を集めて、次善、三善の策を考えていくしかありません」 (P202)

ベストの選択をしようとするから選択できなくなっていく。リスクゼロではないにしろ、ベターと思われるものを選び、そのあとは「だましだまし」修正を加えていくという風に考えることができれば、少しは楽に「選択」できるようになりそうな気がする。


2013年10月17日 (木)

「なにかを決めることにはなにか断つ覚悟が必要だし、それがなければその決断はいい方向に進まないだろう」

前々回(10月15日)前回(10月16日)は、「リスク」についての言葉を並べた。そこで入れなかった言葉をまず紹介したい。

政策研究大学院大学客員教授の小松正之さんは、雑誌『中央公論』11月号で、次のように書いている。 

「決断するためには、知識を集め、思考することが必要になる。ひとつの答えや主張を導くということは、それだけ他の可能性を捨てるというリスクを取ることだ」 (P44) 

棋士の羽生善治さんは、著書『羽生善治の思考』で次のように書く。 

「積極的にリスクを負うことは、未来のリスクを最小限にすること。決断とリスクはワンセット。本当のリスクとは、決断を下した後にともなうリスクではなく、決断を下すべき時に束の間のリスクを恐れ、逃げてしまうこと。怖いと思っても、恐れず前に進んでいく気持ちは次の勝利への大切な姿勢だと思います」 

ともに「リスク」についての含蓄ある言葉。それと同時に「決断」というフレーズも出てくるところが興味深い。もしかしたら「決断」と「リスク」というのはセットかもしれないと思って、そんな言葉を今日は並べてみたい。 

まず、メジャーリーグ。ヤンキースで活躍する黒田博樹さんは、まさに『決めて断つ』というタイトルの著書で、次のように書いている。 

「なにかを決めることにはなにか断つ覚悟が必要だし、それがなければその決断はいい方向に進まないだろう」 (P13) 

さらに次のように書いている。 

「思うに、ひとつの道を選ぶには徹底的に考え抜くことが必要だ。それが正解とは限らないわけだが、それでも自分で決めた以上、『あれだけ考えたのだから、これが正解だ』 

と思わなければやっていられなくなる。いや、むしろ自分の選んだ道が『正解』となるように自分で努力することが大切なのではないかと思う」 (P165)

上記した羽生善治さんは、著書『直観力』では、次のように書いている。

「対局中に、自分の調子を測るバロメーターがある。それは、たくさん記憶できているとか計算ができるとか、パッと新しい手がひらめるとかいったことではない。そうではなく、『見切る』ことができるかどうかだ。迷宮に入り込むことなく、『見切って』選択できるか、決断することができるかが、自分の調子を測るのにわかりやすいバロメーターになる」 (P27)

続いて、建築家の隈研吾さんが、毎日新聞6月16日で語っていた言葉。

「選ぶことは、諦めること。思い切りよく締める潔さが日本人にかけている」 

次のコラムニストの小田嶋隆さんの言葉も、どこか通じるものがあるような。朝日新聞10月8日から。 

「人生を途中からやり直そうとするなら、まず何かを捨てることです。捨てた結果、その空白に強制的に何かが入ってくる。その『何か』がいいか悪いかは、また別の問題ですけれど」 

断つこと、諦めること、捨てること、見切ること。これこそが、決断すること、選び取ることであるという。「リスクゼロ」の選択肢なんて、そうそうあるものじゃない。我々は、そんな選択ばかり待っているから、なかなか前に進めなくなっているのかもしれない。 

その意味で、活動家の湯浅誠さんが、TBSラジオ『ゴールデンラジオ』(7月23日)に「選挙」「投票」について語っていた次の言葉もどこか重なっているのではと思う。 

「われわれ、自分の好みのものを選ぶことに慣れている。それが普通になっているので、なかなか自分に100パーセント合致するものはどこもないけど、じゃあ、そのなかでどれがより悪くないかなって選ぶ、という習慣がなかなかない。そうすると、気に入ったものがないという形でどこにも入れないとなる」 

「どうしても自分に合ったものを選ぶ、気に入ったものを選ぶというのが、マーケット」
 

「勝負事はそう。将棋とか、いい手ばかり選んでられない。局面ではより悪くない手を刺さなくてはいけない。そこで致命的な手を刺さないことによって結果的に勝つ。野球もそう。100球投げて、100球ベストの球を投げられるわけはない。そういう風に考えられると、ショッピング的、カタログ的な発想にすると、どこにも入れるところはないとなる。いかに社会をより悪くしない、より少しでも欠点を少なくする方を選ぶという発想もできるんじゃないのかな」
 

リスクゼロの選択を待つのでなく、決断をして、より悪くない選択肢を選ぶ。こういう考え方が大切なのではないか。当然、そこには「リスク」は伴うだろう。でも、その「リスク」と上手に共存していくというのが人生なのではないか。そう思えてくる。 

最後に、羽生善治さん著書『羽生善治の思考』に書いてあった次の言葉を載せておきたい。 

「自分が選んだものに対して責任を取りつつ自信を持つことが大事なのではないだろうか」

そういえば「人生は、選択の連続である」ということを言っていた人もいた。誰か思い出せないけど。

2013年10月16日 (水)

「リスクゼロを求めて焦り、かえってリスクと共生できずに不安要因を増大させてしまっている」

きのうのブログ(10月15日)に続いて、「リスク」について。それにまつわる文章がいくつか見つかったので、ずらりと並べてみる。

まずは、ノンフィクションライターの武田徹さんと、作家の川上弘美さんが、ジブリの『風の谷のナウシカ』を取り上げて書いている文章があったので、それから。 

武田徹さん著書『原発論議はなぜ不毛なのか』から。 

「ナウシカが墓所で述べた通り、『清浄と汚濁こそが生命』なのだ。青き清浄の地がナウシカたちを寄せ付けなかったことは象徴的であり、リスクゼロの空間とは生命活動自体を拒絶する場所なのだ。私たちが既にリスクに汚れていることを自覚し、汚れを引き受ける覚悟を伴わずには私たちの社会は立ちゆかない」 (P150) 

続いて川上弘美さん、『ジブリの教科書1 風の谷のナウシカ』から。 

「生きていれば、まったく害をなさずにいられるわけがない。完全に正しいものなんて、あり得ない。なのに自分のなした過ちを『なすはずがなかったことなのに』と悩むのは、傲慢で自己過信なことなのだと思う。今ではそれがちょっとわかる。マチガイノナイ人間ハ、イマセン」 (P226) 

武田徹さん、著書『殺して忘れる社会』では、「リスク」について次のようにも書く。 

「『リスクをあえて取る』という考え方は日本ではなじみにくいようだ。日本語で「リスク」は危険一般を単にカタカナ読みしただけなものなので『リスクは避けるべきだ』と直結してしまう。リスクゼロを求めて焦り、かえってリスクと共生できずに不安要因を増大させてしまっている」 

統計物理学者で大阪大学教授の菊池誠さんによる「リスク」の説明も分かりやすい。朝日新聞2012年2月29日から。

「リスクというのは『危険度』。『あるかないか』じゃなくて、程度の問題なんです」

程度の問題ということは、そもそも「ゼロリスク」という概念そのものがフィクションなのかもしれない。

続いていて、東海テレビの阿武野勝彦さん著書『戸塚ヨットスクールは、いま』から、現代の風潮について。 

「リスクに過敏になる余り、責任を他者に負わせ、安全圏からモノを投げつける個人主義が、より人間関係を乾いたものへと押しやっている」 

リスクを避け、リスクゼロを追い求める風潮。これが我々の社会を息苦しくしている。 

次は、サッカー界から。まずはライターの海江田哲朗さん。サッカー取材でチームや選手といった取材対象から感じることを次のように書いている。雑誌『サッカー批評』61号から。 

「とにかく、失点しないことが第一。全然せめてない。そういった逃げ腰の姿勢は全体ににじみ出ており、どれほど周囲のエネルギーを注いでいるのか気が付いていない」 (P58) 

そして、イビチャ・オシム氏著書『考えよ!』から。 

「『リスクを負わない者は勝利を手にすることができない』が私の原則論である」 (P144) 

同じくオシム氏雑誌『ナンバー・プラス』(2010年10月号)では、次のように話している。 

「リスクを冒さずに負けた時、日本はすべてを失うということを。単に試合を失うだけではない。これまでに築き上げてきた実績や名誉、信頼、さらには子供達の将来、日本サッカーの未来をも失うことになる。リスクを冒さなければ、勝っても後に何も残らない。逆に負けた時には、ダメージがとてつもなく大きい。誰もがそこをよく考えるべきだ」 

続いて、棋士の羽生善治さん今年2月5日のブログでも、紹介した次の言葉。著書『直観力』 から。

「無駄を排除して高効率を求めたとしても、リスクを誘発する可能性がゼロにはならない。むしろ、即効性を求めた手法が知らず知らずのうちに大きなリスクを増幅させているケースもある。無駄と思えるランダムな試みを取り入れることによって『過ぎたるは猶及ばざるがごとし』を回避できるのではないかと考えている」 (P41) 

てっとりばやく目の前のリスクを避け、フィクションのような「リスクゼロ」を追い求めた結果、かえって大きなリスクを招き、大切なものを失ってしまう。そんな感じだろうか。 

では、リスクとどう上手に付き合って生きていくか。前回、紹介した小松正之さん「いざというときにリスクを取る自信と能力をつけるために、我々は学び続けねばならない」という言葉もそうだが、上記のそれぞれの言葉にヒントがある気がする。 

最後に医師で神戸大教授の岩田健太郎さんの食品についての次の言葉も、きっと他のことにも当てはめることができるのでは。著書『「ゼロリスク社会」の罠』から。

「食品リスクを回避する秘訣は単純で、いろいろなものをバランスよく食べることに尽きます。危険な食品を口にする可能性は常にゼロではありませんが、いろいろな食品を少し打つ食べていれば、悪い食品にあたって時のダメージを最小限に抑えられます」 (P116)
 

2013年10月15日 (火)

「いざというときにリスクを取る自信と能力をつけるために、我々は学び続けねばならない」

前回のブログ(10月10日)の「失敗」「リスク」に関する言葉に続いて、「リスク」について書いてみたい。

話はいきなり飛ぶが、
TPPに関するニュースを読んでいると、日本の外交能力についての疑念が浮かぶ。

以前、ラジオで元フィンランド外交官の北川達夫さんが、もてはやされるフィンランドの教育についての話を思い出す。北川さんによると、フィンランドはヨーロッパの各国から 

「フィンランドはEUで何も発言しない」とバカにされ、外交交渉力を身につけるために教育改革が行ったということ。日本も教育レベルからの改革が必要なのではないか。

その外交について、雑誌『中央公論』(11月号)で、政策研究大学院大学客員教授の小松正之さんが「国際社会で外国人を言い負かす方法」と題する文章を書いて、外交交渉とリスクをからめていた。 

「日本人は国際競争が下手だと言われるが、私が思うに原因は語学力のみにあるのではない。もっと深い所にある。『語学力の不足』に加え、『語るべき内容がない』ことと『リスクを取ろうとしない姿勢』のせいだ」 (P44) 

どうやら外交能力にも「リスクを取ろうとしない姿勢」が関係しているようだ。 

さらに小松さんは、次のように書いている。 

「リスクを負わないと『組織は動かない』と言うと、外国人にはすんなり伝わるのだが、日本人は違う」 (P44) 

「これまで話してきたことのすべての根底には、現代の日本人のリスクを取らない姿勢がある。リスクを取るということは、『リスクを取らないことで被るリスク』を小さくするということだ。リスクを取るためには、自分の好奇心を大切にすることだ。好奇心がないと、人間は年齢とともに萎縮してしまう。知識を得ることで自分の世界を広げることができるかどうか。これがリスクを取れる人間とそうでない人間を分ける」 (P45) 

では、どうすればいいのか。最後にこう書いている。 

「私たちができることがあるとすれば、ひたすら愚直に学び続けると言うことだけだ。教養と学びに終わりはない。いざというときにリスクを取る自信と能力をつけるために、我々は学び続けねばならない」 (P45) 

この姿勢については、以前のブログ2012年1月12日)で紹介した佐藤優さんの言葉を思い出す。改めて著書『野蛮人の図書室』から。

「『どうしたらいいか?』って問いには、答えを出さずに不安な状況に耐えることが大事だと思う。回答を急がない。不安のままぶら下がって、それに耐える力こそが『教養』だと思うんですよ」

もうひとつ。これは「リスク」と関係ないが、さきほど名前を挙げた北川達夫さんが、2010年5月19日の講演 で次のように述べている。 

「たとえば、国連の事務次長として、数々の国際紛争を仲裁されてきた明石康さん。 明石さんは、欧米の『強力でグローバル・リーダー的な仲裁者』とは異なり、決して『自分が絶対に正しい」』という姿勢はとらなかったといいます。その姿勢が高く評価され、多くの国際紛争において紛争当事者たちから 『明石さんに仲裁者になってほしい』との声が上がったといいます」 

自分は正しいという姿勢はとらない。これは、5月15日のブログ で紹介した作家の高橋源一郎さんの言葉のほか、「正しさ」について紹介した言葉に重なる。ここでは高橋さんの改めて紹介しておきたい。読売新聞(2012年3月6日)から。

「『本当の正しさ』を突き詰めていくと、人は狭量になり、寛容さを失っていきます」

2013年10月10日 (木)

「ただ誰も試したことがないだけなのだ。一度試してみれば分かる。不可能なことなんて何一つない」

久々に「水を差す」から離れてみたい。
これまで「失敗」についてのコメントをいろいろ紹介してきた。


今年3月25日のブログでは、サッカー協会の田嶋幸三さん著書『「言語技術」が日本のサッカーを変える』から。 

「サッカーは失敗のスポーツ。ですから、失敗の出来る体験は、とても大切なのです。思考錯誤で何度も何度も失敗するからクリエイティビティが生まれてくる。日本選手たちにクリエイティビティが足りないとすれば、ひとつの答えを求めすぎる結果、失敗を怖れてトライしないからではないでしょうか」 (P197) 

続いて、2月25日のブログ  

雑誌『OUTWARD』(2012年12月号)から。宮城県栗原市にある、くりこま高原自然学校の代表・佐々木豊志さんの言葉。 

「確かに体験させるというのは時間がかかります。子どもが失敗を繰り返しながら体験しないといけませんから。でも、いまは学校教育も家庭も含めて社会全体に子どもとじっくり向き合う余裕がない。物事をあまりに深く追求することがなくなってきたので、農業とか林業など早く答えがでないものに対するイメージがますます欠落していくのではないかと危惧しています」 

さらにイビツァ・オシムさんも、著書『考えよ!』では、次のように書いている。 

「結局、サッカーであろうと人生の他の分野であろうと、誰もが多くのリスクは負わないのだ。現在では、誰も必要以上のリスクは負わない。そこが私にとって日本人の理解しがたい部分である。なにしろ銀行員でさえリスクを負わないのだから」 (P162) 

そして、こうも言う。 

「リスクを負わないものは勝利を手にすることができない、が私の原則論である」 (P144) 

オシムの言う日本人の理解しがたい部分。必要以上に「失敗を恐れる」「リスクを負わない」ということ。きっと、これと同じ体質を指摘しているという文章に出くわしたので、それを紹介したい。 

建築家の坂口恭平さん著書『モバイルハウス 三万円で家をつくる』から。 

「日本という国はなんだか規則がきつくて自由ではないという印象がある。実際はそんなことないのではないかと僕は思っている。ただ誰も試したことがないだけなのだ。一度試してみれば分かる。不可能なことなんて何一つない。どんなこともできる」 (P105) 

「試す。とにかく試す。徹底的に考えて試す。試すと、固まったシステムはくすぐったがる」 P178) 

「この過程で一番強く感じたことは、『試せば大抵うまくいく』ということである」 (P179) 

当然であるが、チャレンジしたり、試したりしないと、失敗もしないかわりに、オシムの指摘するように「勝利も手にできない」、田嶋さんの指摘するように「クリエイティビティも生まれてこない」。 

なぜ試さないのか。坂口恭平さんは、次のように書いている。 

「人間は忙しすぎて、試す時間を失ってしまっている。これが国家がどうしようもなくなっても成立してしまう理由だ。みんな実践する時間がないのだ。それよりも飯を食べるために、家を確保するためにだけ、働かなくてはいけない。これは本当に変える必要がある」 P185) 

その「時間」について。上記に紹介した佐々木さんも触れている。
 

さらに、フランスの経済哲学者、セルジュ・ラトゥーシュさんは、毎日新聞夕刊(10月7日)で次のように書いている。

「時間を取り戻し、治療するためにも、今すぐに脱成長社会を構築しなければなりません」 

「さまざまな距離を縮小し、生活を地域に根差し、スローな生活を再評価する。労働時間を削減し、製品の耐用年数を伸ばし」 

「私たちは速度への執着から解放され、時間と生活の奪還へと向かわなければなりません」 

時間と生活の奪還。それが「試すこと」「失敗を恐れないこと」につながっている。

もっと言えば、坂口さんの書く「試す。とにかく試す。徹底的に考えて試す。試すと、固まったシステムはくすぐったがる」というフレーズは、「水を差す」ということにも通じている気がする。



2013年4月 1日 (月)

「国民を判断力のない子どものように扱って、愚弄しているにすぎない」

「憲法」についての言葉から、「国家」についての言葉を,、前回のブログ(3月28日)では紹介した。少し内容的には変るが「国家」と「国民」に関わる話を、もうひとう紹介したい。

朝日新聞の元主筆で、日本再建イニシアティブ理事長の船橋洋一さんは、東京新聞(3月24日)で原発事故における国の対応について次のように批判している。 

「国は起こり得る原発のリスクを透明にし、国民の前に見せるべきなのに、まだ隠そうとしている。出せばパニックになるというが、それは自らがパニックになるだけの話だ。国民を判断力のない子どものように扱って、愚弄しているにすぎない」

船橋さんによる「国家は国民を愚弄している」という指摘は重いと思う。 

同じような指摘が、『誰がこの国を壊すのか』での森達也さん上杉隆さんの対談でのやりとににもある。それは以下の通り。 

上杉 「細野豪志大臣が言っていましたし、枝野幸男さんも最後に認めましたけど、事故直後の段階ではとても事実を言うことができなかったと。あそこで発表したらパニックになったからと言う。だから、政府とマスコミだけが知っていればいいのだと。それはとんでもない選民意識です。それと、国民には冷静な判断ができないと思い込んでいる。衆愚という意識があるのですよ。驕りですよね、政治とメディアの」

森  「レベッカ・ソルニットはその著書『災害ユートピア』で、災害や事件があったときにパニックになるのは現場の人々ではなく、むしろメディアや政府中枢部などエリート層であると指摘しています。現場でパニックが起きるのではないかと、彼らはパニックを起こすのです」

上杉 「今回の原発事故でパニックになったのは政府なのです。さらにメディアがパニックを撹拌した」 (P93~94)

ジャーナリストの辺見庸さんは、沖縄タイムズがまとめた『この国はどこで間違えたのか』で、メディアがパニックを避けようとしていた状況を、次のように語っている、

「複数の在京メディア関係者から実際に聞いた話で、福島第一原発の事故のときに当初からメルトダウンが起きたことは分かっていたと。でもメルトダウンという衝撃的な用語を使わせない空気が社内にあった。で、メルトダウンという言葉の使用をみんなで避けたと。それがしばらく続いた」 (P263)

僕自身、震災発生当時は、メディアの一端にいた。そこでも、パニックを起こさないための、同調圧力は確かに感じた。ニュース原稿を書くにも、パニックにつながらないように注意に注意を重ねた感じだ。でも・・・。ある人に正直に吐露したことがある。「我々に必要なのは、パニックを受け容れ、それと向き合うことではないか」と。おそらく明治維新にしろ、敗戦直後にしろ、日本はある種の大きなパニックに襲われたのだと思う。そのパニックの中で向き合い、新しい価値観、新しい社会をつくり出していったのではないか。

無論、避けられるパニックは避けるべきである。ただし必要以上にパニックを避けることだけに労力をかけるのも違うだろうし、また回避と先送りも違う。

今回の大震災と原発事故の場合、政府もメディアも「国民はパニックを向き合うことはできない」と勝手に判断して、パニックの要素、すなわち「事実」を必要以上に隠した。それによって、我々は、自分たちのシステムを「更新」すべきチャンスもタイミングも逸してしまったという側面もあるのではないか。しかも隠したり、先送りしたりしたパニックの要素。それは細分化して、個々の中に澱のように溜まっていって、あちこちの末端では「破たん」が起きているのではないか。地域社会の破たんや、個人における心の病気などとして…。

必要以上に「パニック」や「リスク」というものを避けたがる風潮や体質についても、またの機会にいろいろ考えてみたいと思う。

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