★批評&批判の大切さ

2014年12月13日 (土)

「メディアが権力に介入されて押しつぶされてしまうと、我々は押しつぶされているということすら分からなくなる」

明日は選挙である。

きのうのブログ(12月12日)の続き。

「批判」「批評」が忌避されているのは、メディアの姿勢の問題でもある。

元日本テレビの放送記者、水島宏明さんの言葉。著書『内側から見たテレビ』より。

「自分が教えている大学生と会話していても、最近の若い世代は『権力を批判すること』は、してはいけないことだと受け止めがちな傾向がある。報道機関が権力の動きを批判的に捉えたり、批判したりすることは最終的に社会全体のためにもなっている、ということをぜひ覚えてほしい」 (P148)

「コンプライアンスという言葉の徹底で、表面上は世間や政治家などから『怒られない存在』(マツコ・デラックスの表現)であろうと細心の注意を払っている。番組の中身もそうだが、放送する放送局そのものもご立派な職場になった」 P206)

メディア自身も「権力批判」という役割を忘れ、さらには「自分たちへの批判」を恐れる。

だから自民党の要請に過剰に反応する。そして「批判」のない社会づくりに加担する。

自らが「批判」や「批評」を避けて、ジャーナリズムは成り立つのだろうか。

先月亡くなった俳優の高倉健さんも次のような言葉を遺している。毎日新聞(11月19日)より。

「国のやった間違いを書かないとジャーナリストはたぶんダメなんだと思いますよ」

「お金はほしいですよ。でもそればっかりでいいのっていう時がいつかきます。書いたものが誰のボディーを打って誰が泣いてくれたか。そこまでいかないと」


例えば政治学者の岡田憲治さんの指摘。著書『「踊り場」日本論』より。

「『スポーツ批評』って、つまりはスポーツを守るためにあるわけです。だから『経済の起爆剤』や『感動をありがとう』っていうスカスカしたスポーツ消費に乗っかっているだけではスポーツをまもれないんですよ」 (P229)

ここでの「スポーツ」をそのまま「政治」に変えても通じる。メディアが批判をせず、経済や景気など消費を煽るだけでは、結局、政治そのものを守れない。

しかし、テレビメディアは今回の選挙での自民党からの介入に対して忖度で応えようとした。

政治学者の中島岳志さん著書『街場の憂国会議』より。

「権力は多くの場合、直接的な介入によって行使されるのではなく、現場の勝手な忖度によって最大化する。特に、バッシングを繰り返す独断的な政治家とそれを支持する運動が結びついたとき、忖度は加速する」 P155)

「人々は存在しない抗議に怯え、自主規制を繰り返す。忖度は権力に対する批判的チェックの役割を担うメディアの内部においても誘発される」 (P159)

まさに、その通り。

政治学者の國分功一郎さんの言葉。『坂本龍一×東京新聞』(編・東京新聞編集局)より。

忖度との戦いは、言論の自由を守るための最前線である」 (P174)

内田樹さんの言葉。ツイッター(6月25日)より。

「メディアの命は批評性です。なぜ世界は今あるようにあり、それとは違うかたちを取らなかったのかを考えることです」


きのう取り上げた久米宏さんの言葉と重なる。

スノーデン氏を取材したジャーナリストのグレン・グリーンウォルドの言葉。著書『暴露』より。

「挑戦的ジャーナリズムだけが、ジャーナリストや情報提供者の頭上に政府がつくり出した恐怖の雲を振り払う力を与えてくれるのだ」 (P99)

そして
ジャーナリストの神保哲生さんは、次のように語る。ビデオニュース・ドットコム「ニュース・コメンティタリー」(12月6日配信)より。

「僕が危機感を持ったのは、これに対するメディアや世の中の反応があまりにも鈍い、というかほとんどないこと」

「メディアが権力に介入されて押しつぶされてしまうと、我々は押しつぶされているということすら分からなくなる」 (1分すぎ)

メディアが権力に怯んだまま、明日、投票日を迎える。

トマス・ジェファソンの危惧ではないが、もし本当に「メディアのない政府」が出来上がった場合、この社会は本当にどこに転がって行ってしまうのだろう。



2014年12月12日 (金)

「ドイツ人は、自分たちの社会を批判して元気になっている。脳が最高に働き、議論を交わす喜びがあるから。そのうれしさを日本の人々にも味わってほしい」

きのうのブログ(12月11日)の続き。

先週末のラジオ番組の録音を聴いていたら、久米宏さんが自民党が出したテレビ各社に対する「公正中立」の要請文書について次のように話していた。TBSラジオ『久米宏 ラジオなんですけど』(12月6日放送)より。

「与党というのはマスコミから批判を受けて当然の立場だということが分かっていない。与党を批判しないとマスコミは存在価値がない。そもそも。与党はマスコミに批判されて当たり前だという民主主義の根本が分かっていない」

まさに正論。本当にそう思う。

もちろん日本社会で、批判や批評を嫌うのは政治家ばかりのことではない。

政治学者の國分功一郎さんが住民運動を通して、行政や自治体に対して思ったこと。TBSラジオ『セッション22』(2013年4月16日放送)より。

「提案をクレームとして受け取られる。こういうことを言われたことがない」

また國分さんは、シンポジウム『どんぐりと民主主義入門編』(2013年5月11日)でこんなことも言っている。

「政治家や行政などは、提案を受けていっしょに考えていく癖をつけないと。全部クレームに聞こえてしまっている」

他者からの意見にもっと耳を貸すべきということ。もっと言えば、政治家や行政の人には、批評や批判の中から「提言」や「問題提起」を読み解く力を身につけてほしい。

セルジオ越後さんの言葉。著書『サッカー日本代表「史上最強」のウソ』より。

「日本語には『提言』という言葉がありますよね。しかしそれがうまく響かない。提言ができない国というのは、民主主義ではないですよ。提言が批判に聞こえてしまう」 (P25)

こちらもセルジオさん。著書『日本のサッカーが世界一になるための26の提言』より。

「僕は仕事で『提言』していると思っている。批判だけでは意味がないし、褒めるだけでも意味がない。批判することと褒めること。その幅が大切だと思っているんですよ」 (P57)

次は作家の川上未映子さんの言葉。著書『あなたは赤ちゃん』で、子育てを通しての指摘である。

「女性が助けを求めても、人間扱いしてくれと叫んでも、男性や社会にとっては、それはどこまでも『クレーム』でしかないのだな。クレームとして処理されるだけで、問題提起にもなりはしないのだな。この社会を作っている男性たちの頭の中身が変わらない以上、なにも変わることなんてないのかもしれない」 (P235)

やはり政治の世界だけではない。スポーツや日常生活の中でも、外部からもたらされた「提言」や「問題提起」を、すべて「クレーム」として処理してしまう社会になってしまっている。それらを前向きに捉え、進歩のための糧にするという発想がない。悲しいことに。

だから、巨大な権力を持った安倍政権や自民党も、提言、問題提起、批評、批判、クレームを全て一緒くたにしてブロックしようとする。そのための介入についても全くテライがない。

最後に作家の多和田葉子さんの言葉。多和田さんはドイツ在住である。東京新聞(12月2日)より。

「ドイツ人は、自分たちの社会を批判して元気になっている。脳が最高に働き、議論を交わす喜びがあるから。そのうれしさを日本の人々にも味わってほしい」

これは日本社会へのとても良いエール。

2014年12月11日 (木)

「批判されることが全くなかったら、進歩などありえるはずがない。自分がいいのかどうかすら、知ることができない」

自民党は、先月20日に、在京のテレビキー局各社に対し、衆院選の報道にあたって「公平中立、公正の確保」を求める文書を送っていたという。信じられない「介入」である。

今日はこの問題について。

自民党の文書について、社会学者の宮台真司さんは次のように語っている。ビデオニュース・ドットコム「ニュース・コメンティタリー」(12月6日配信)より。

「中立性ということを口実にして、様々な政治的な介入が強要される事態になりかねない、じゃなくて既になってしまった」 (6分ごろ)

これによって、選挙報道が減っていることは確かなようである。

最近、ジャーナリストの青木理さん著書『青木理の抵抗の視線』を読み、こんな指摘があったのも思い出した。

「知ることと考えることを奪おうとするのは、独裁政権の顕著な特徴だよね。『新聞をなくして政府を遺すべきか、政府をなくして新聞を遺すべきか、そのどちらかを選ばなければならないとしたら、私は後者を選ぶ』といったのはトマス・ジェファソンだけど、ここでいう新聞というのは新聞社という意味じゃなく、メディアとか情報とか言論・報道の自由っていうことでしょう」 (P234)

ここでも「独裁政権」という言葉が出てくる。

なぜ、安倍政権は批判されることをそんなにも恐れるのか。作家の平川克美さんの言葉。ラジオデイズ『ふたりでお茶を』(11月号)より。

「政治家なんてボロクソに言われる職業じゃない。そのことに耐えて、そのことを織り込みずみでやるべきことをやる。安倍晋三はやっぱり褒めてもらいたい人だから。褒めてもらいたいけど、そうはいかないわけ。だから褒めてくれる人だけ集めて、他はブロックしてしまう」 (48分ごろ)

上記のトマス・ジェファソン氏の言葉ではないが、批評や批判がなくてちゃんとした社会がつくれるのだろうか。そう思う。

サッカーのオシム氏の言葉を思い出す。雑誌『フットボールサミット』(第6号)より。

「批判されることが全くなかったら、進歩などありえるはずがない。自分がいいのかどうかすら、知ることができない。新聞の批評を読んで、自分が優れているとようやく分かる」

「私に言わせれば、それが進歩のための唯一の道だが、日本では批判することもされることも嫌う。誰も批判されることを喜ばないのはどこでも同じだ。誰もが愛されながら生きたいと願っている。だがそれでも、進歩のために批判を受け入れている」


ゴンこと、中山雅史さんも、著書『魂の在処』で次のように語っている。

「批判がなければ成長はない。ワールドカップのときだけではなく、ふだんから、もっとサッカーについて語り合ってもらえるようになりたい。ひとりでも多くの人に監督、コーチ、評論家になってほしい。たくさんのひとにきびしくみつめてもらうことが、日本のサッカーがよりプロフェッショナルなものになるためにもっとも重要なのだと思う」 P127)

このサッカーについての言葉は、そのまま政治についてもあてはまる。安倍総理に聴かせたい。

もうひとつ。
エジプト出身のタレント、フィフィさんの言葉。著書『おかしいことを「おかしい」と言えない日本という社会へ』より。

「実は社会に対して問題提起することすら、はばかれる社会だなんて、言論を抑えられる国よりタチが悪いじゃないですか」 (P15)

とても重い指摘だと思う。

ただ、日本社会でも「言論を抑えられる」風潮が強まっていることも確かだと思う。

2014年9月 4日 (木)

「知性を求める態度は軽蔑の対象になります。理屈をこねくり回して何もしない人間だとバカにされます」

今回からは、少し「反知性主義」というものに注目してみたい。

今のお笑いには「社会批判」「社会批評」「社会風刺」の視点がなくなっているのでは、ということを考えた。(8月29日のブログなど)

この「批評性」が失われているという風潮は、「お笑い」の世界のだけのことでない。

作家の平川克美さん著書『「消費」をやめる』を読んでいたら、今の起業家について、次のような指摘が載っていた。

「シリコンバレーを好む人たちは、アメリカ流のアグレッシブな人間像を肯定します。ビジネスの目標は、成功して富を手に入れることであり、人生の勝利者になることだというものです」

「わたしからすれば、『そこに何かが足りない』という感じが拭えません。何が足りないかと言えば、物事を批判的に捉え、徹底的に思考しようとする知性です。シリコンバレーに充満するアメリカ的起業精神には、知性が決定的に欠けていると感じていました」 (P97)

今の起業家には、「物事を批判的に捉え」る姿勢が足りないとの指摘。僕が、今の「お笑い」に対して感じた「何かが足りない」というのと、まったく同じことである。

平川克美さんの、さらなる指摘は興味深い。

「そういう場所では、知性を求める態度は軽蔑の対象になります。理屈をこねくり回して何もしない人間だとバカにされます。思索を深めてもお金にはならないからです」 P98)

そこでは知性が軽蔑の対象になっているという。知性を用いて思考することは、効率の悪いことであり、面倒なことである。そんな感じなのだろうか。

当然ながらそんな社会からは、知性の裏付け必要とされる「批評」「批判」「風刺」が疎まれ、排除されていく。それはメディアも例外ではない。(7月9日のブログ

こうした「知性」を軽蔑、排除の対象とする風潮のことを「反知性主義」と呼ぶ。

反知性主義とは何か。それにまつわる言葉を並べてみる。

批評家の東浩紀さんツイッター(6月27日)より。

「日本は徹底して反知性主義の国(頭いいひとや上品なひとをバカにする国)で、そこがいいとこでもあるからね。アニメとかニコ動とかそういう国だから栄えてるわけでね。むずかしいですよね」

佐藤優さんは、著書『「知」の読書術』で「反知性主義」についてこう定義する。

「反知性主義とは、実証性や客観性を軽視して、自分が理解したいように世界を解釈する態度のこと」 (P80)

文化放送『くにまるジャパン』(8月29日放送)では、次のように話していた。

反知性主義というのは、大学の先生でも、新聞記者でもなる。要するに、具体的で、客観的で、実証的なデータがあるのに、それらに目をつむって、自分の思い込みの物語に固執するということ。こういうことが世界に出始めている。それから『決断が重要だ』『問答無用だ。何も考えずにとにかくやれ!』 こういうのは危ない。その辺に警鐘を鳴らしたい」

朝日新聞(2月19日)では、『「反知性主義」への警鐘』という特集記事を組んでいる。

その記事によると、「反知性主義」の特徴について、アメリカの歴史学者、ホーフスタッターさんは、著書『アメリカの反知性主義』で次のように定義している。

「知的な生き方およびそれを代表するとされる人びとに対する憤りと疑惑」

まさに「知性」を面倒くさいもの、場を壊すもの、として、さらには排除していく風潮のことである。

やれやれ。これが広がっているのでる。

でもここで、もう一度、宮崎駿さんの言葉を。NHK『プロフェッショナル』(2013年11月13日)より。(7月4日のブログ

「世の中の大事なことって、たいてい面倒くさいんだよ」

知性を面倒なものとして排除した社会が、どうなるか。ちょっと考えれば、分かりそうなもの。

付け足し。

今、公開中の映画『LUCY』で、モーガン・フリーマン演じるノーマン博士は、次のように言う。

「生命の使命は、次世代に“知識”を伝えること」

この言葉からすると、反知性主義は、生きることの否定ということになってしまう。

2014年9月 3日 (水)

「本来、政治的な風刺やパロディーというものは、直接的に権力を批判できない環境の中で力を発揮し、人々に新しい見方を提供する役割を果たしてきた」

改めて「お笑い」についての言葉。前々回のブログ(8月29日)の続き。

前々回のブログで、ロシアの道化師ラザレンコの話をした。そのあと雑誌を読んでいたら、映画評論家の町山智浩さんが、ロビン・ウイリアムズさんについて「道化師」という言葉を使って次のように書いていた。雑誌『週刊文春』(9月4日号)の「言霊USA」より。

「『ティアズ・オブ・クラウン(道化師の涙)』という言葉が昔からある。悲しい人ほど笑いに救いを求め、それを人々にも与えようとするのかもしれない」 (P76)


これも「お笑い」の本質なんだと思う。

だからこそ、レイヤー(層)のある、つまり深みのある「笑い」が生まれる。またレイヤーや深みがあってこそ、その間に「批判」「批評」「風刺」というものを入れ込んだりできるのではないか。


社会学者の鈴木謙介さんの言葉。読売新聞7月28日より。

「本来、政治的な風刺やパロディーというものは、直接的に権力を批判できない環境の中で力を発揮し、人々に新しい見方を提供する役割を果たしてきた。自由な発言が認められた現在のネット環境で、広く共有されることばかりが追い求められ、批判力が失われているのだとすればそれこそ皮肉だ」

これは、最近のネット上で行われているパロディーについての指摘だけど、「お笑い」全般にも、そのまま当てはまると思う。


あくまでも個人的な希望だが、「お笑い」の役割は、内輪の調停者ではなく、やはり批判力を持って、新しい見方を提供すること。そうあってほしい。

2014年1月17日 (金)

「言葉チューものは人間が一生使い続けにゃならん大事な道具でノンタ、そや少しは面倒でも、時には手間暇かけてピーカピーカに磨き上げるチューのも大切ジャノー」 

今回も「言葉」について。最近、読んだものの中で「言葉」についての印象的なフレーズを載せておきたい。

文芸評論家の加藤典洋さん著書『僕が批評家になったわけ』を読む。その中で「批評とは何か?」を説明する文章を見つけた。

「では、筆者にとって批評とは何か。とりあえず、『ことばでできた思考の身体』といっておく。だから、大事なのは、まず、『自分で考えること』である」 P3)

「批評とは、ものを考えることがことばになったものだ」 (P43)

なんだか染み入る文章である。

すなわち、「批評」とは「言葉」なのである。これは切っても切れない。

これまでこのブログでも「批評・批判」について いろいろ考えてみた。それらの言葉を改めて読み直してみると、今の社会で、「批評・批判」(山本七平さん言うとことの「水を差す」という行為も)が居場所をなくしていることと、「曖昧な言葉」(すなわちポエムの言葉)が幅を利かしていることは、同じ現象だということが分かる。

こうしたことを考えている中、朝日新聞夕刊(1月10日)を読んでいたら、芥川賞・直木賞についての特集記事が載っていた。その中でひとつのフレーズが気になった。

「批評より感想が共感を集めるソーシャルメディア時代」

今の時代は、社会を批評する作品より、みんなの共感を集める作品の方が売れたり評判になったりするということ。批評というものの価値より、

共感の価値が優先されるということでもある。

すなわち、「言葉」より「共感」。そんな時代なのである。

そのほか、印象に残った言葉を。作家・井上ひさしさんの戯曲のセリフを、こまつ座が編集した『井上ひさし「せりふ」集』から。

「言葉こそ、人間を他の動物と区別するただひとつのよりどころなんです」『日本人のへそ』より (P23)

「言葉チューものは人間が一生使い続けにゃならん大事な道具でノンタ、そや少しは面倒でも、時には手間暇かけてピーカピーカに磨き上げるチューのも大切ジャノー」 『國語元年』 (P26)

人間が人間であるために、言葉を手間暇かけて磨き上げていかないといけない。改めて。

2013年10月 7日 (月)

「日常が揺さぶられ、撹拌されなければ、生きることがたいへん過酷で困難になってしまいます」

ここ3回のブログ(9月13日から)では、「水を差す」ということについての言葉を並べてみた。もう少し追加したい。

文化放送『ゴールデンラジオ』(10月4日)
を聴いていたら、大橋巨泉さんがまさに世の中の空気に「水を差す」ような発言をしていた。

踏切で倒れたお年寄りを助け、亡くなった横浜の女性に対して、安倍総理が表彰したことに対して、巨泉さんは、「誤解を恐れずに言うと」と断ったうえで、次のようにコメントした。

「表彰するなんてとんでもない。個人的に『私は感動しました』と安倍総理がいうのはいい。 でも『亡くなった女性の命も大切な命なんです、そういうことはしないでください。お年寄りには、踏切の中でしゃがまないでください』というのが国を扱う政治家の言うべきこと」

まさに、このニュースをもてはやす世の中の雰囲気に「水を差す」コメント。ボクも、こういうコメントも必要なんだと思う。

オリンピックに対しては、東北の復興と絡めて、次のように「水を差す」。

「オリンピックが受かったって言って喜んでいる日本人ってどうかしていると思う」

この巨泉さんの発言を受けての、室井佑月さんのコメントも印象的。


「今、オリンピックのことに『ん~』と言おうものなら売国奴って言われちゃう」

「正論は言いたいんですよ。『なんだかなあ』っていう雰囲気に負けちゃう」


ここで指摘されている「正論を言えない空気」。これについては、ちゃんと受け止め考えていかないといけないと思う。

さて。
この「水を差す」、そして「空気を揺らす」という行為がなぜ必要なのか。もう一度、考えてみたい。

ちょっと関係ないように思えるかもしれないが、ここでは思想家の内田樹さんが、著書『聖地巡礼Beginning』で、村上春樹さん描く世界について語っていた言葉を印象してみたい。

「この世界の無数のものの中には『どんな選択肢をとっても存在しているはずのもの』と『あのとき別の道をたどっていたら存在していないはずのもの』があることになる。そうやって類別すると世界の風景が一変するでしょう」 (P205)

「どんなことがあっても存在し続けるべきものと、わずかな手違いで消え去ってしまうものを識別する能力というのは、今を生きる上で死活的に重要なものだと思うんです。その能力のことを『壁抜け』というんじゃないかと思うんです」 (P206)

つまり、どんな世界でも存在し続ける「リアルなもの」と、少し世界が変われば「消え去ってしまうもの」の識別が大事だということ。ここから連想したのだが、なぜ「水を差す」のか、「空気を揺らす」のか。例え、水を差されたとしても、存在し続けるものと、水を差しただけで消えてしまうものとを、識別するために、その行為は必要なのではないか。 ということである。

さらに上記の本では、対談相手である僧侶の釈徹宗さんが語っていた次の言葉も印象深かった。

「我々は倦まず弛まず、苦しい日常を這いずりまわりながら、何とか生き抜いていかねばなりません。しかし、そのためにはときどき日常が揺さぶられ、撹拌されなければ、生きることがたいへん過酷で困難になってしまいます」 (P296)

とても深い。

いつの間にか自分の周りに広がり、固定されている日常や空気というもの。これを「水を差す」「空気を揺らす」ことで時々、変えていかないと、自分の居場所がどんどん息苦しくなっていく、ということなのではないか。 

2013年9月25日 (水)

「五輪は権力者にとってはいいツール。ほとんどの不満を脇によけてしまう」

少し時間がたったが、もう少しだけ、前々回のブログ(9月13日)に続いて「水を差す」ということに関する言葉・論評を載せておきたい。

デザイナーでライターの、高橋ヨシキさんは、朝日新聞(9月21日)で次のように述べている。 

「今、東京でのオリンピック開催を批判すると非国民扱いです。ムラ祭りでみんな気持ちよくなっているんだから邪魔するな、邪魔すると村八分だぞと。もちろんそんなこと、言語化されませんよ。言葉じゃなくて空気で人を動かす」 

言葉でなく、空気で動かす・・・。 

そして次のようにも述べる。 

「何にでも『国民的』をつけたがるのも、その一環です。AKB48は『国民的アイドル』、宮崎駿監督作品『国民的アニメ』」 

「『国民的』にみんなが無批判に乗っかっていく風潮と、そんなヌルい状況を揺さぶるような表現を『過激だ』といって排除したがる風潮はコインの裏表で、それを支えているのは、本や映画を、『泣いた』『笑った』ではなく、『泣けた』『笑えた』と評するタイプの人たちです」
 

国民的な盛り上がりには、「水を差す」ことさえ許されなくなってくる。

どこからもクレームがつかないことが最優先された、大人の鑑賞に堪えない『お子様ランチ』のような作品だらけになってしまいました。表現の質が下がれば観客のリテラシーが下がり、それがさらなる質の低下を招く。お子様ランチを求める観客と、お子様ランチさえ出しておけば大丈夫とあぐらをかく作り手。そのレベルの低い共犯関係が社会にも染みだしてきた結果が、いまの『国民的』ムラ社会なのでしょう」 

上記の言葉は、前回のブログ(9月17日)で、詩人の荒川洋治さんが述べた次の言葉とほとんど重なる。改めて。 

「詩人がみな多数派を志向したら、表面的な心地よい言葉が愛され、深く考えて発せられた言葉が軽んじられる危険がある」 

詩の「お子様ランチ」化…。

続いて、作家の奥田英朗さん。奥田さんには、前回の東京五輪を題材にした小説『オリンピックの身代金』がある。東京新聞夕刊(9月19日)から。
 

「国がかじ取りをする時には、必ず振り落とされ、見捨てられる人が出てくる。64年に関して言えば、底辺の労働者であり、地方だった」 

「だが、社会全体で『五輪に水を差すな』という雰囲気があり、問題にならなかった。五輪は権力者にとってはいいツール。ほとんどの不満を脇によけてしまう」

「水を差すな」という空気が出来上がることによって、一番喜ぶのは、権力者なのだろう。この構図は、以前のブログ(5月7日)で書いた「権力者・リーダーは、辺境を排除しようとする」ということと殆ど重なっているような気がする。

2013年9月17日 (火)

「自由であるためには孤立しなくちゃいけない。例外にならなくてはいけないんです」

前回のブログ(9月13日)では、「水を差す」という行為についての言葉を並べてみた。山本七平さん「『空気』を排除するため、現実という名の『水』を差す」ことが必要と指摘しているにもかかわらず、実際、今の時代や社会では、この「水を差す」という行為が、排除や炎上の対象となってしまう。「水を差す」ことがやりにくくなっている中で、我々は何ができるのだろうか。今回は、そのヒントとなるような言葉を探してみた。

東愛知新聞の社説(9月1日)には、こんな言葉が書かれていた。 

「大切なことは、もう一つあります。復興や再建、政策転換に取り組む時に『空気を読まない』ということです」 

「求められているのは、しっかりと自分を持ち、『考えたくないこと』でも考えるという『空気の国の習い性』からの脱出です」 

そして、作家の辺見庸さん神奈川新聞(9月8日)の『現在は戦時』と題したインタビューで、次のように語っていた。 

「日本のファシズムは、必ずしも外部権力によって強制されたものじゃなく、内発的に求めていくことに非常に顕著な特徴がある。職場の日々の仕事がスムーズに進み、どこからもクレームがかからない。みんなで静かに。自分の方からね。別に政府や行政から圧力がかかるわけじゃないのに。メディア自身がそうなっている」 

「自由であるためには孤立しなくちゃいけない。例外にならなくてはいけないんです」 

そして、詩人の荒川洋治さん朝日新聞夕刊(9月10日)で、東日本大震災後、大量に書かれた震災を主題にした詩や歌や、現代詩について、次のように語っている。 

「被災者への共感がないと誤解されかねないので、『震災詩』を批判するのは難しい。ただ、翼賛的な空気の中で詩人たちが戦争を肯定する詩を書いてしまった苦い歴史もあり、批評は大事」 

「80年以降、現実世界を否定するよりも、目の前の快楽が重視されるようになり、詩も社会性を失っていった」 

批評の欠落、目の前の快楽の優先。これは、前回紹介した「saraband」という方の、ツイッター(9月9日)での指摘と重なるように思える。そちらを、もう一度、書いてみる。 

「クリティカルな欠点を覆い隠したうえでなりたっている、多数派の多幸的な雰囲気、空気、これは、知的ではなく、感情的な論理である。比較的多数の、空気にのって楽しんでいる多数派は、それに水をさされると、感情的嫌悪感で反応してくる。『キモい、怖い、マゾ』であり、排除である」

目の前の快楽を優先する多数派が作り出す「空気」。それに対して、どうしたらいいのか。荒川洋治さんは、詩人として次のように語る。 

「世の中の一般的な論調には同化せず、詩を書く立場からしか見えないことや感じとれないことを書く」 

「詩の言葉は少数の人に深く鋭く入っていくことに意味がある。詩人がみな多数派を志向したら、表面的な心地よい言葉が愛され、深く考えて発せられた言葉が軽んじられる危険がある。ぼくは自分の詩は50人くらいに読まれれば十分と思っている。読む人が多すぎると表現の穴を見つけられるという恐怖感もあるのだけど」

辺見庸さんも、荒川洋治さんも個人的に大好きな方である。

「空気を読まない」「考えたくもないことでも考える」「孤立する」「例外になる」「一般的な論調に同化しない」「少数の人に深く鋭く入る」。こうしたフレーズは、我々が今すべきことの大切なヒントになっていると思う。


2013年9月13日 (金)

「『空気』を排除するため、現実という名の『水』を差す」 

先週の日曜日、2020年オリンピックの東京開催が決まった。そのあと、「水を差す」という言葉をちょくちょく見かけ、とても気になった。そのいくつかを書いてみたい。

共産党の参議院議員、小池晃氏ツイッター(9月8日)から。 

「ニコ生で原発についての首相プレゼンを批判したら『五輪に水を差すな』というコメントが」 

思想家の内田樹氏ツイッター(9月10日)から。 

「つづいて目白で朝日新聞のインタビュー。『五輪開催について』。『水を差すようなことを言う人』を探してウチダのもとにいらしたそうです。なかなかいないんです」 

朝日新聞デジタル版(9月12日)で、コラムニストの小田嶋隆さん。こちらは「水を差す」ではなく「水をかける」という表現を使っている。 

「なぜ水をかけるんだっていう同調圧力がある。反論しにくくならないか心配してます」

個人的に、この「水を差す」という行為や言葉について考えたことがある。

 ボクはメディアというものが持つ役割は「水を差す」ことなのではないかと思って働いてきた。同じような表現として個人的には「空気を揺らす」と言ったりもした。

水を差し続けることで空気を揺らす。揺れることによって、そこから落ちてくるものを掬い上げる。これがメディアが基本的にやるべきものだと思っていた。 

小田嶋隆さんも、TBSラジオ『たまむすび』(9月11日)で、次のように話している。 

「(コラムニストとういうのは)本当は、空気を読めとか、同調しろとかいうものに対してザブザブ水をかける係ですね」 

そうそう、そんな感じ。のはず。

しかし、ここ数年来、「水を差す」という行為は、メディア的にも、社会的にも、企業的にも、個人的にも本当に難しくなった。というか、許されなくなった。と思う。 

その雰囲気をsarabande」という方が、ツイッター(9月9日)で次のように表現していた。

「クリティカルな欠点を覆い隠したうえでなりたっている、多数派の多幸的な雰囲気、空気、これは、知的ではなく、感情的な論理である。比較的多数の、空気にのって楽しんでいる多数派は、それに水をさされると、感情的嫌悪感で反応してくる。『キモい、怖い、マゾ』であり、排除である」

今や、「水を差す」ものは、「キモい、怖い、マゾ」という感情的嫌悪の存在なのである。そんな行為は、排除か、炎上の対象としかみられないのではないか。

もう一度思い出した方が良い言葉がある。かつて山本七平氏は、名著『「空気」の研究』で次のように書いている。

「『空気』とはまことに絶対権をもった妖怪である」 (文庫版P19) 

「もし日本が、再び破滅へと突入していくなら、それを突入させていくものは戦艦大和の場合の如く『空気』であり、破滅の後にもし名目的責任者がその理由を問われたら、同じように『あのときは、ああせざると得なかった』と答えるであろうと思う」 (P20)

山本氏は、上の『「空気」の研究』に続いて、『「水=通常性」の研究』という文章も書いている。その文章から。 

「『空気』を排除するため、現実という名の『水』を差す」 (P129)

「先日、日銀を退職した先輩によると、太平洋戦争の前にすでに日本は『先立つもの』がなかったそうである。また石油という『先立つもの』もなかった。だがだれもそれを口にしなかった。差す『水』はあった。だが差せなかったわけで、ここで“空気”が全体を拘束する。従って『全体空気拘束主義者』は『水を差す者』を罵言で沈黙させるのがふつうである」 (P92)

やはり「空気」というものに支配されないためには、「水」という現実を差す必要があるのだろう。

なのに。今の社会でも、「水を差す」ものは、『キモい、怖い、マゾ』となり、排除されてしまう。

となると、日本社会は山本七平氏の言うように「再び破滅へと突入」となってしまうのか。悲観論ばかりでは、本当にやれやれという気持ちになる。では、われわれはどうしたらいいのか。まだまだ考える時間は残されていると思うのだが。




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