効率主義

2014年5月12日 (月)

「数字を残すのがプロ。数字に表せないものを表現するのもプロ。僕は数字だけにとらわれて生きたくない」

今日から、TPP(環太平洋経済連携協定)の首席会合がベトナムで行われ、来週19日からシンガポールで閣僚会合が行われるとのこと。

このTPPに関して当初、安倍政権は「まずは交渉に参加するだけ」であって、TPPそのものに参加するかどうかはそのあと決める。というような姿勢だったと思うのだが、いつのまにかメディアでは「妥結を目指す」という参加前提のトーンでの報道ばかり。交渉からの撤退は「負け」というようなニュアンスが強くなっている気がする。

そこで、このTPPについての言葉と、それにまつわる言葉をいくつか集めてみたい。

まずは、作家の田中康夫さん雑誌『ソトコト』(2013年9月号)で、TPPについて次のように語っている。

「社会や家族の人間関係や文化・伝統といった、市場で『値段をつけられないもの』は価値ゼロとみなすのが、全分野で関税化を目指すTPPの眼目」

また、雑誌『SPA!』(2014年2月4日号)では、次のように書いている。

「資本が自由に国境を越え、事業展開する国に税金を支払わぬ多国籍改め無国籍なモンスター企業が国民国家=ネーション・ステイトより上位に立って消費者=国民を差配し、社会や家族の人間関係や文化・伝統といった『市場では数値に換算できない物』は価値ゼロだと捉える金融資本主義」

どうやらTPPとは「数値」に換算できるものだけに「価値がある」とし、それ以外のものは切り捨てるということとの指摘。

しかし、社会は「数値」に換算できない物で成り立っている。当然ながら。

作家の平川克美さんは、自身のツイッター(2012年7月25日)で次のように書いていた。

「経済合理性は、やせ我慢も、貧の維持も、侘び寂びも、美も説明できない」

逆に言えば、切り捨てる側からしてみると、「数値」だけで見た方が切り捨てが容易にできるということでもある。ここでもキーワードは「効率」のようだ。

最近ドラマで話題の小説『ルーズヴェルト・ゲーム』。この小説が発行されたときに作家の池井戸潤さん雑誌『週刊ポスト』(2012年4月)で語っていた次の指摘も同じことだと思う。

「野球部なら野球部をコストという視点で捉えた時点で自動的に合理的削減対象になってしまうのだと」

スポーツやエンターテイメントの世界で、全てを「数値」だけで見て判断しても、つまらない。そして、それは社会全般でも変わらないと思う。

そのスポーツの世界からの言葉を載せておきたい。

サッカー選手の三浦知良さん著書『とまらない』から。

「数字を残すのがプロ。数字に表せないものを表現するのもプロ。僕は数字だけにとらわれて生きたくない」 P148)

イビチャ・オシム氏雑誌『ナンバー・プラス』(2014年5月号)から。

「すべてが計算でき、数値に置き換えられるのであれば、サッカーは面白くもなんともない」 (P127)

そうなのである。

最後に作家の佐藤優さんの言葉も。著書『子どもの教養の育て方』から。

「目に見えるものは世界の一部にすぎず、世の中には目に見えないけど確実に存在するものがある。やさしさとか信頼とかも含めて」 (P144)

2014年3月24日 (月)

「統御可能性からスモールさが大切だ」

前回のブログ(3月20日)は、社会学者の山下佑介さん「システムが大きすぎるのだ」という言葉を紹介した。

個々の暮らし、個々が持つ多様性を大切にしていくためには、今のシステムは大きくなりすぎているということ。

社会学者の宮台真司さんは、『週刊読書人』(2013年12月20日)のインタビューで次の言葉を述べている。

「統御可能性からスモールさが大切だ」

今回は、「小さいサイズ」を見直していく必要があるのではないか。そんな言葉を並べてみたい。

政治学者の姜尚中さん著書『日本人の度量』から。

「小さいことは素晴らしい、小さいものが美しい、ということ。私たちはやっぱり自分たちの生活を、もうちょっとダサくていいから、違う幸せのあり方を見出せるようなサイズに見直すべきではないかと」 (P22)

文化人類学者の辻真一さん著書『弱さの思想』から。

「近代的な社会の中で、『弱さ』として見なされてきたもの――巨大化、集中化、大量化、加速化、複雑化などに対する『スモール』、『スロー』、『シンプル』、 『ローカル』といった負の価値を荷ってきたもの――が元来持っているはずの『強さ』が浮かび上がってきたのではないか。この逆説的な事態――『強さの弱さ』と『弱さの強さ』――こそが、ポスト三・一一の月日のひとつの重要な特徴でなかったろうか……」 (P13)


えにし屋代表の清水義晴さんは、「大きなもの」「強いもの」が有難がられていったのは、競争原理、効率化が進んだバブル期以降のことだと書いている。著書『変革は、弱いところ、小さいところ、遠いところから』から。

「日本中が拝金主義に覆われていたバブル期と、その後の不況による倒産・リストラの嵐が荒れ狂った『失われた十年』のあいだに、弱いものは負け、強いものだけが生き残ることは当然だ、という空気が私たちの社会のすみずみまで覆ってしまいました」 (P119)

そして、『変革は、弱いところ、小さいところ、遠いところから』という書名にも表れているように、次のように述べている。

「より人間らしい絆によってつながりはじめ、ほんとうに些細なこと、見落としがちなこと、しかし、じつはだれもが感じていることへの働きかけ、高くて大きなところからではなく、低くて身近なところから私たちの社会を変え始めている。そんなふうに私は思いはじめています」 (P120)

イギリスの経済学者、シューマッハ『スモール・イズ・ビューティフル』という著書があるが、「スモール」「スロー」「シンプル」という概念は、我々の生活を守っていくうえで、「必需」の考え方になっているのではないか。もう小さなシステムでしか、個々の暮らしは守っていけないのではないか。そんな気がする。

 

 

2014年3月20日 (木)

「そして、効率性は、多様性を犠牲することによって高められる」

3回前のブログ(3月13日)で、社会学者の山下佑介さんによる「人の暮らしより『復興』が優先されている」という言葉を紹介した。

今回は、いくつかの言葉から、この今行われている「復興」から「社会」に通じるものについて考えてみたい。

北海道大学大学院教授で政治学者の宮本太郎さん『さらさらさん』(著・大野更紗)より。

先日、私も宮城県の石巻を見てきましたけれど、沿岸部はともかく街並みだけみればかなりきれいになっている。でも、きれいなった建物の向こうで人びとが抱えている『困ったこと』をどれだけ政治が想像できているかと言えばあやしくなります。3・11以降、内部疾患と外傷を切り分ける議論が進んで、明らかに『効率化』という声が広がったと思います」 (P193)

様々な被災者の個々が持つ「困ったこと」、すなわち「暮らし」よりも、「効率化」された「復興」が優先されているということである。

僕も被災地に行くと、よく感じることだ。被災者の方々の事情は、本当にそれぞれだし、多様な「困ったこと」を抱えている。

文化人類学者の辻真一さんは、著書『弱さの思想』で、その「効率」と「多様性」について、次のように書いている。

「多様であるってことは非効率ですからね。効率性を重んじる現代社会から見ると、多様であることは弱いことなんです」 (P117)

「効率性は文明における強さの定義に欠かせないものです。そして、効率性は、多様性を犠牲することによって高められる。つまり、多様性を負かすことによって効率性は勝つ」 (P165)

それは、きっと被災地だけの問題ではない。我々の一般社会だって、

そうなのだ。緒方貞子さんが言う「多様性のある社会」(2月26日のブログ)よりも、「同調圧力」による画一化された社会が形成されていく。

どうすれば、「効率化」よりも、多様な「暮らし」が優先される社会を手に入れられるのだろうか。

もうひとつ、社会学者の山下祐介さんの言葉を載せておきたい。著書『東北発の震災論』から。

「システムが大きすぎるのだ。大きすぎる中で、中間項がなく、政治がすべての国民を大事にし、そのための決定を行おうとすることに問題があるのだ。そして政治のみでは無理だから、科学が、マスコミが、大きな経済が介入する。だがこうした大きなものによる作用の中では、一人一人の声は断片でしかなくなる。しばしば人は数字となり、モノとなる。人間の生きることの意味は逆立ちしてしまい、人は人でなくなる」

大きなシステムの中で、「まったなし」がキャッチコピーとされるような「効率性」を追求した政策がすすめられていく。そうして個々の「暮らし」が失われているのだ。


2013年7月25日 (木)

「政治システムは『よいこと』をてきぱきと進めるためにではなく、むしろ『悪いこと』が手際よく行われないように設計されるべきだという先人の知恵を私は重んじる」

もう1か月半くらい前になるが、ずっと使っていたPCが壊れた。結局、復旧できず。そこに残していた言葉のメモや原稿も消えてしまった。悲しい。バックアップをしていなかった自分が悪いんだけど。まさに様々な言葉が行方知れずになってしまった。なんとか立ち直って、ボチボチと言葉集めから始めている。

今朝の朝日新聞(7/25)に、月イチに『論壇時評』に作家の高橋源一郎さんが文章を寄せている。その中で、公開されたばかりの映画『風立ちぬ』に触れ、次のように書いている。 

「美と技術の結晶である零戦は、世界とこの国を焼き尽くした。だが、それは戦後復興を支える技術の基礎にもなった。戦争の被害者は、同時に加害者でもあった。善きものと悪(あ)しきものを区別することはできないのである」 

「『原子力発電』は、夢の技術であると同時に、悪夢を呼び覚ます技術でもあった。そのことに気づいたとき、ぼくたちは、『零戦』も、同じ存在であったことを思い出す」
 

零戦、原子力に通じる、科学技術の二面性について書く。 

一方、おとといの朝日新聞(7/23)には、思想家の内田樹さんが、次のように書いている。 

「人々は未来における国益の達成を待つよりも、今ここで可視化された『決断の速さ』の方に高い政治的価値を置くようになったのである。『決められる政治』とか『スピード感』とか『効率化』という、政策の内容と無関係の語が政治過程でのメリットとして語られるようになったのは私の知る限りこの数年のことである」 

「チャーチルの『民主制は最悪の政治形態である。これまでに試みられてきた他のあらゆる政治形態を除けば』という皮肉な言明を私は『民主制は国を滅ぼす場合でも効率が悪い(それゆえ、効率よく国を滅ぼすことができる他の政体より望ましい)』と控えめに解釈する。政治システムは『よいこと』をてきぱきと進めるためにではなく、むしろ『悪いこと』が手際よく行われないように設計されるべきだという先人の知恵を私は重んじる」 

つまり、政策を決定・決断するのに、スピードがあり、効率の良い政治形態というのは、国そのものを滅ぼす局面が来た時にも、スピードがあり、効率が良いということなのである。つまり、滅びるときはあっという間なのである。そうした効率が良い政治形態が過去、どのようなことを導いたか。内田氏は、次のようにも書いている。 

「近代の歴史は『単一政党の政策を100%実現した政権』よりも『さまざまな政党がいずれも不満顔であるような妥協案を採択してきた政権』の方が大きな災厄をもたらさなかったと教えているからである。知られる限りの粛清や強制収容所はすべて『ある政党の綱領が100%実現された』場合に現実化した」 

怖い話だと思う。 

もうひとつ。「二面性」ということで、高橋さんと内田さんは、ともに興味深い指摘をしている。

まず、高橋さんは、次のように書く。

「なぜ、『歴史』を学ばねばならないのか。ぼくたちが不完全な、『善きものと悪しきもの』が混じり合った人間だからだ。そして、そのことを、ぼくたちがしょっちゅう忘れてしまうからだ」 

そして、内田さんは次のように書いている。 

「『経済最優先』と参院選では候補者たちは誰もがそう言い立てたが、それは平たく言えば『未来の豊かさより、今の金』ということである。今ここで干上がったら、未来もくそもないというやぶれかぶれの本音である」

ここで2人がが言っていることをまとめると、僕らは、歴史からも学ぶことをしないし、未来のことについても考えないということになる。これまで、このブログで何回か書いてきたが、とにかく頭の中には「今」のことしかない、そういうことなのだろう。(2012年4月16日2013年1月8日のブログなど) 

 

2013年2月 5日 (火)

「無駄のない社会は病んだ社会である」

1月28日のブログで、高橋秀実さん『弱くても勝てます』で紹介していた開成高校野球部の青木監督の以下のコメントを紹介した。

「『野球はやってもやらなくてもいいこと。はっきり言えばムダなんです』
 
 『とかく今の学校教育はムダをさせないで、役に立つことだけをやらせようとする。野球も役に立つということにしたいんですね。でも果たして何が子供たちの役に立つか立たないのかなんて我々にもわからないじゃないですか。社会人になればムダなことなんてできません。今こそムダなことがいっぱいできる時期なんです』」 (P87)

野球は所詮、無駄なもの。だからこそ、高校生の時期に幅を広げるためにも経験するべき、というコメントである。雑誌『OUTWARD』12月号を読んでいたら、宮城県栗原市にある、くりこま高原自然学校の代表・佐々木豊志さんの言葉が載っていた。「教育」と「無駄」との関係について、開成高校の青木監督と同じことを指摘していると思う。

「確かに体験させるというのは時間がかかります。子どもが失敗を繰り返しながら体験しないといけませんから。でも、いまは学校教育も家庭も含めて社会全体に子どもとじっくり向き合う余裕がない。物事をあまりに深く追求することがなくなってきたので、農業とか林業など早く答えがでないものに対するイメージがますます欠落していくのではないかと危惧しています」
 

ということで、今回は「無駄」にまつわるフレーズを並べてみたい。「無駄」についての言及の裏には、必ず「効率化」が付いて回っているのが興味深い。

まずは、棋士の羽生善治さん。著書『直観力』で次のように語っている。 

「無駄を排除して高効率を求めたとしても、リスクを誘発する可能性がゼロにはならない。むしろ、即効性を求めた手法が知らず知らずのうちに大きなリスクを増幅させているケースもある。無駄と思えるランダムな試みを取り入れることによって『過ぎたるは猶及ばざるがごとし』を回避できるのではないかと考えている」 (P41)

東京大学の経済学者、玄田有史さん東京新聞(1月1日)の倉本聰さんとの対談で、次のように語っていた。 

「世の中に『遊び』みないなものも減ってきている気がする。効率は大事だが、大切な無駄もあるような気がする。『遊び』は意味があるかないか分からないから遊びなのです。その中でふと出会うものが『希望』のような気がする」

開成高校の青木監督は「役に立つか立たないか分からない」と語っているように、玄田さんは「意味があるかないか分からない」と語る。その中で出会うものが「希望」という指摘は面白い。

ノンフィクション作家の柳田邦男さんは、東日本大震災をめぐる原発事故を受けて、『<3・11>忘却に抗して』で次の言葉を語っている。ただ、このフレーズは、そのまま子供への教育にも当てはまるのではないか。

「効率化という目標の前では『前提条件がもし崩れたら』という発想は排除され、次善の策も『ありえないこと』として削られる。それでは災害は防げない。どんな組織・システムも遊びや余剰部分があってこそ安全を保てるのです」 (P30)

効率化を追い求め過ぎて、無駄なもの、すなわち遊びが減っている社会。却って余分なリスクやコストを招き入れ、その裏で大切なものを失っている。


ここで改めて、1月28日のブログでも紹介した平田オリザさんの言葉を載せておく。著書『芸術立国論』から。

「芸術家は、基本的にはいつもブラブラしているように見え、経済生活の表層にとっては無駄な存在だろう。しかし、それは同時に、共同体にとって、どうしても必要不可欠な存在なのだ。無駄のない社会は病んだ社会である。すなわち、芸術家のいない社会は病んだ社会だ」 (P43)


2013年1月11日 (金)

「人間はそんな完全な存在ではなく、初歩的なミスを犯すし、失敗もする。全く予期できない想定外の何かが起こるのです」

前回(1月10日)のブログでは、松井秀喜選手の自分がコントロールできることと、出来ないことを分けて、出来ないことに関心を持たないことですよ」という考え方について書いた。

いきなり話は変わる。最近の新聞で、安倍政権がやりたがっている「インフレ目標」とか、「TPP参加」とか、「憲法改正」とかについて読んでいると、どうも政治家の方々は、金融市場や国際市場、そして人の心まで「コントロールできるもの」と踏んでいるのはなないかと思えてくる。「原発推進」の考え方だって、そうだ。人知を結集すれば、コントロールできないものがあるはずはない、そんな考え方。

本当に、そうなのだろうか。例えば、毎日新聞夕刊編集部が編纂した書籍『<3・11後>忘却に抗して』を読んでいたら、知識人たちの以下のコトバが目に付いた。 

経済学者の佐伯啓思さんは、この本の中で、福島の原発事故について次のように書いている。 

「近代主義の誤りの一つは、人間の理性的な能力に過度な信頼を置いたことです。人間は理性的に進歩していけば、自然、社会、システムを合理的にコントロールできると考えた。しかし、人間はそんな完全な存在ではなく、初歩的なミスを犯すし、失敗もする。全く予期できない想定外の何かが起こるのです」 P203) 

また作家の玄侑宗久さんは、東日本震災後の我々の心構えとして、次のように書く。 

「分からないことに分からないまま向き合い、曖昧模糊とした現実を暗中模索で進むしかないでしょう。それは福島に限りません。いくら計画を立てて将来が見えるつもりになっていても、先のことは分からないと今回の震災で皆が痛感したはずです」 P200) 

しかし、政治の世界では、上にも書いたが、より全てに対して「コントロールしよう」という動きが強まっている気がする。そんな風潮については、以前のブログ(2011年12月14日)で、脚本家の倉本聰さんのTPPに関する次のコトバを紹介している。(朝日新聞2011年12月9日 

「農林漁業は統御できない自然を相手にするところから始まっている。工業は、すべてを統御できるという考え方に立っている。この違いはでかいですよ。統御できるもので勝負して、統御できないものは切り捨てる。そういう考え方が、TPPの最大の問題点だと思えるんです」 

 もしもの政治家の方々(もちろん全員ではないです)のように、すべてをコントロールできる、と考えていった場合、どうなっていくのだろうか。きっと、それでも想定外が生まれたり、コントロールできない異端はやがて生まれていく。その先には、隠ぺいや排除(切り捨て)というものにつながって行かざるをえないんどえはないか。そんな危惧を持つ。だって、それは、記事書き換え問題にみられる中国共産党の動きがまさにそうだから。 

結局、必要なのは松井秀喜選手のように、最初から「自分がコントロールできることと、出来ないことを分けて」考える謙虚な態度なのではと思う。

2012年8月31日 (金)

「ブンダン主義-。それは、ありとあらゆることを切り離して考えようとする悪癖である」

前回で取り上げた「批評がない」というのは、スポーツ界だけのことなのだろうか。セルジオ越後さんと『ラジオデイズ』で対談していたコラムニストの小田嶋隆さんは、こういう。

 

「日本の論壇とか、文壇だとか、壇というのが形成されると、インサイダーしか批評できなくなる。アウトサイダーは排除してしまって批評が成立しなくなるというのは構造的にある」

 

「原子力村と一緒ですよ。お互い仲間だから痛いことを言い合うのはよそうよ、みたいな空気がだんだん形成されていってしまって。悪気はないんだけど」

 

いわゆる「セクショナリズム」「タテ割り」というやつ。自分のテリトリー外に対しては口を出したり、出させなかったりした上で、自分たちは「仲良しクラブ」で過ごす。

 

この「セクショナリズム」について、脳学者の養老孟司さんは、『日本のリアル』という本の中で次のように述べている。

 

「日本は専門家が幅をきかせる国です。専門家は、人に口出しさせないことで自分の存在意義を確認しようとします。学者は自分の専門領域を守ることで、自分の地位を守ろうとしているんです。だからボクは『学界』と呼ばずに、意地悪く『業界』と呼ぶんですが」(P109)


他の「業界」の人には口を出させないで自分の地位を守る。そこでは「権威」として君臨する。まさに小田嶋さんが指摘していた「原子力村」の構造である。そんな「業界」では、メディアといえども第三者の者からの「批評」「批判」を受け入れることはない。

 

出版社「ミシマ社」を経営する三嶋邦弘さんは、著書『計画と無計画のあいだ』で、そうした風潮を「ブンダン主義」と読んでいた。カタカナで書くのは、「文壇」と「分断」を掛けているからだと思われる。

 

「ブンダン主義-。それは、ありとあらゆることを切り離して考えようとする悪癖である、その内輪の論理(組織内論理)を絶対として、外部との連携を積極的におこなわず、内部完結してしまうことに一点の疑問も抱かない。悪しき習性を指す。要は、隣の出来事は『われ関せず』の一点張り」(P199)

 

なぜ、そんなことになるのか。

 

「少しでもかかわれば、自分たちの『効率』が落ちてしまう。その分仕事が増えたり、めんどくさいことが起こる確率が上がったりする。だから、最初からかかわらない。たとえ、その仕事がどんなに『面白い』ものであっても(面白いものであればあるほど、無我夢中になってやるので、当然、がくっと落ちるのものです)」(P199)

「このブンダン主義は、全体の熱を下げるにとどまらない。ひとたびこの悪しきイデオロギーに冒された個人は、自身はおろか組織の本来の役割も簡単に忘れてしまう。自分やっている『おかしさ』に何の疑問ももたなくなる」(P200)

 

三嶋さんの指摘は、あくまでも彼がいる出版業界での経験を基に語ったものではあるが、恐ろしいほど「原子力村」の問題への指摘としても成り立つ。つまり「効率」や「金儲け」を追及してきた日本社会の遍く場所で、こうしたことが起きているということなのではないか。

 

「効率主義とブンダン主義によって生まれた『(結果としての)非効率』は、感覚なき人たちをも出現させているのだ。熱量を下げることに対し、きわめて無自覚な人たちを」(P201)

 

スポーツ界という「業界」の人たちは、厳しく批判されることで「業界」が盛り下がり、自分たちのウワマエが減ることを恐れている。しかしながら内輪の専門家だけがはびこり、ブンダン主義が席巻すれば「非効率」が進み、自分たちの「業界」が地盤沈下していく、ということに気付いていないのだろうか。ここでも「まずは、目先!」という考え方が優先されているのか。

2012年8月30日 (木)

「同じ考えを持つものしか『国民』になれない国は『ロボットの国』だけだ」

きょうの朝日新聞(8/30)の朝刊に『論壇時事』というコーナーがあり、作家の高橋源一郎さんが『新しいデモ 変える楽しみ社会は変わる』と題する文章を書いていて非常に興味深い。

 

先日、テレビ朝日『報道ステーション』に出演した際のコメントに対して、あとから罵倒と否定の言葉をたくさんもらったことを受け、こう書いてあるのが印象的だった。

 

「国家と国民は同じ声を持つ必要はない。そんな義務もない。誰でも『国民』である前に『人間』なのだ。そして『人間』はみんな違う考えを持っている。同じ考えを持つものしか『国民』になれない国は『ロボットの国』(ロボットに失礼だが)だけだというのが、ぼくにとっての『ふつう』の感覚だ」

 

ここでも「ロボット」という言葉が出てきたので、思わずメモしてしまった。

 

おととい、このブログ(8/28)に「選手をロボットのように扱う指導者が多い」というジュニアサッカー指導者の言葉を紹介したばかり。その結果、子供たちの「目は死んでしまい」、まさに「ロボット」のようになる。その時、最後に6/24のブログで紹介したドキュメンタリー監督の松林要樹さんの言葉と重なっていて怖い、というふうに書いた。

 

今回は、「ロボットつながり」ということで、その時に紹介した松林さんが『3・11を撮る』という本の中で書いていた文章をもう再度、紹介したい。

 

「大風呂敷を広げれば、戦後日本人が追い求めた価値観は、経済の豊かさを求めて、人間性を排除し、出来る限り、上意下達の組織や、ロボットのように社会に忠実な人間を生み出すことに集約されたのではないか。この震災をきっかけに戦後の日本は何を基軸に豊かさを求めたのかを問い直したい」(P101)

 

高橋さんと松林さんの言葉を受けるなら、これまで我々は、経済の豊かさを求めた結果、人間性を排して、「ロボットの国」のような世界を生きてきたのであろう。そうであるなら、これからは、みんなが違う考え方をもって生きることのできる、もっと言えば子供たちがそれぞれの価値観を持って野球のできる、そんな「人間の国」に少しでも近づいていくことを祈るし、自分も何とか力を尽くしたい。そう思うのだが。

2012年8月28日 (火)

「その元気を生むのは、『数字や結果にとらわれてないところ』だと僕は思う」

子供の夏休みが終わった。色んなイベントに付き合っていたら、あっという間に夏休みが終わった感じ。しばらくご無沙汰してしまった文章もどんどん書いていきたいと思う。

うちの子供は、今年から地元の少年野球に参加している。毎週末、練習や試合に臨んでいる。特別うまいわけではないが、仲間との野球を楽しんでいるようだ。

度々、その試合を見学していて、気付いていたことがある。そのひとつが、コーチや親といった大人たちによる、子供たちへの不思議な態度のことである。ベンチにいるコーチや親は、ゲーム中の選手たちに色んな指示や指摘をする。まあ、そうだろう。でも、その内容があまりに「マイナス」な指示ばかりで正直、驚いてしまったのである。「何でそんなボールを打つんだ!」「リードが足りない!」「もっと飛び込め!」など、子供ができないことを立て続けに大きな声で指摘していく。時には怒気を含んだような声で。選手たちを励まし前向きな気持ちにさせたり、リラックスさせたりするような意図はあまり感じられない。とにかくできなかったこと、失敗したことを指摘し続けるのである。何かあるとベンチをおびえた目で見ている選手が何人もいた。少なくとも、その瞬間は野球をやっていて楽しそうではない。

ボク自身は、子供の頃の公園での野球と社会人になってからの草野球くらいしか野球経験はない。ちゃんとした野球の世界では、「マイナスの指示」は昔からの常識なのかもしれない。でも練習中ならいざ知らず、試合中に子供を萎縮させてしまっては逆効果なのでは。

実はボクが先日、参加させられた少年野球の審判の講習会でも、そうだった。こっちは初体験で素人。ルールや用語を覚えるのだけで必死なボクのような者に対して、「教師役」の先輩審判たちは、出来ていないことについての指摘を次々と容赦なく投げかけてくる。

「できたことを褒めるより、できないことをとにかく叱る」。これが、子供たちの試合、審判の講習会と両方に共通することだと思った。ボクが子供なら、野球を続けたくなくなるかもしれない。正直、そうも思った。

そんなことを考えていたら、競技は違うけど、『サッカー批評』(57号)に似たような指摘をする文章があったのを思い出した。それは、サッカーライターの鈴木康浩さんが書いた『子供がサッカーを嫌いになる日』という記事。その中には、こんな言葉が紹介されていた。

「昔からベンチで怒鳴って子供をロボットのように扱う指導者はいました」

「子供は何が正しいのかが分からなくて、まったく理解ができずに大人の顔色を気にしてプレーしている。楽しいわけがない

そうやって、サッカーを楽しめなくなった子供たちが多いという。

「子どもたちにはふざけさせてあげる」

「練習する上では非効率なんだけど、普段の状況を考えれば、この子供たちの成長を考えれば、そういう会話も必要」

子供が成長したり、次のステージに上がっていくためには、非効率であっても「ふざけること」も必要という。

スポーツをやる意義には、「勝負の結果」以外にもいろんな要素がある。楽しむこと。上手になっていくこと。仲間との交流などなど。

もちろん「勝つこと」も大事だが、それだけでは悲しい。なのに、周りの大人たちは「勝負の結果」ばかりを求めがちになる。子供が、その世界で伸びていくためには、時には「ふざけること」だって必要なのだ。

スポーツとは別の世界だけど、この記事を読んでいてつながった文章があったので紹介したい。東京・自由が丘で「ミシマ社」という出版社をやっている三嶋邦弘さん。その著書『計画と無計画のあいだ』で、こんなことを書いていた。

「会社をやっていれば、いいときもあれば悪いときも当然のごとくある。その悪くなったとき、全員がドヨーンとした顔で『ああ、ああぁ・・・』と地の底から響いてくるようなため息をついていては、チームの士気は下がる一方であろう。そんなときこそ、『元気』が必要とされる。元気は元気なときよりも、元気じゃないとき、真に必要なものなのだ。そして、その元気を生むのは、『数字や結果にとらわれてないところ』だと僕は思う。いってみれば、『遊び』の部分だ」(P120)

そのまま、少年野球やサッカーにも通じるコメントだと思う。スポーツの世界も、どんなに練習して努力しても結果が良いときも悪いときもある。失敗した時こそ、「元気」になる指示やコメントが必要なのだ。それなのに「マイナスの言葉」ばかり履いていては、チームの士気は下がる一方であろう。

「ふざけること」や「遊び」の部分がないと、我々は成長できないということ。これは、更に飛躍すれば社会そのものにも通じることのようだ。こんな文章もあった。日本在住の政治学者C.ダグラス・ラミスによる『経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか』には、こんな文章が載っていた。

「アリストテレスが書いていたことですが、民主主義の必要条件は社会に余暇、自由時間があるということです。余暇がなければ、民主主義は成り立たないと。人が集まって議論したり、話し合ったり、政治に参加するには時間が掛かる。そういう暇がなければ政治はできないのです。政治以外にも人は余暇で文化を作ったり、芸術を作ったり、哲学をしたりする、とアリストテレスは言いました。けれども政治的に言うと、そういう勤務時間以外の時間があって初めて、人が集まり、自由な公の領域を作ることができる、そういう考え方だった」(P188)

社会のなかで民主主義を進めていくためにも、「余暇」や「自由時間」が必要なのである。

全く同じことを、活動家の湯浅誠さんも『ヒーローを待っていても世界は変わらない』で指摘していて興味深い。

「私は最近、こう考えるようになりました。民主主義とは、高尚な理念の問題というよりはむしろ物質的な問題であり、その深まり具合は、時間と空間をそのためにどれくらい確保できるか、というきわめて即物的なことに比例するのではないか」

「私たちの社会が抱えている問題はそれぞれ複雑で、一つひとつちゃんと考えようとすれば、ものすごく時間がかかります。一番簡単なのは、レッテルを貼ってしまうことです。一度レッテルを貼ってしまえば、それ以上考える必要がない」(P85)

少年野球の話から、ついつい飛躍してしまったが、スポーツだろうと、ビジネスだろうと、民主主義だろうと、「遊び」が必要ということなのだ。「遊び」や「自由な時間」によって、ストックを増やしたり、自分の本来の立ち位置を確認したりする。そうしたいと社会の中の市民の目が死んでしまうのではないか。日本社会の閉塞感は、このあたりに起因しているのではないか。

少年野球に話を戻せば、湯浅さんが指摘するように野球の世界だって複雑な世界であるはず。マイナスなことだけに目を向け、レッテルを貼るのではなく、それぞれの大人が考えて、選手たちが「自立」していくことを支えることが大事なのではないだろうか。

 

2012年4月 9日 (月)

「ぼくはいま、『5%は仕方ない』と決めてやっているんですね」

現在、企業やお役所など日本のあちこちの組織の中で、連呼されている言葉が「スピードをあげろ」や「リスクをなくせ」と言うフレーズではないかと思う。

組織をシンプルにして効率化をはかり、お金の流れや人の動きなどのムダを徹底してなくしていくことで物事のスピード化を図る。またコンプライアンスの意識を高めてルール厳守を徹底して、さらにシステムによる管理を強化することで、不慮のミスが発生しない環境をつくり、リスク・ゼロを実現しようとする。

しかし思うのだが、現在のやり方によって「スピード化」と「ミス・ゼロ」というものは両立し得るのだろうか。ここ1年くらい、ずっとそのことが気になっていた。

去年のことになるが、食品安全委員会でBSE対策を担当した北里大学教授の吉川泰弘さんは、当時、日本政府が検討して、進めていたBSE対策について、朝日新聞(12/30)で次のように語っていた。

「ゼロリスクは本来ありえないのに、膨大なコストが投じられた。リスクとうまく付き合うすべを国民が考えなくなってしまった」

国民があまりに求める完璧な「ゼロリスク」に、どれだけ予算や時間がかけられているのか、という指摘である。ダイオキシン、PCB、口蹄疫など、次々と食品にまつわるリスクが次々に、それに対する異常なまでの対策に予算や時間がとらわれ、しかしながら、そうした問題はすぐに忘れられていくとも言う。

また当然ながら「ゼロリスクは本来ありえない」という指摘も重要だと思う。人間が生きている自然に「ゼロリスク」なんてありえないだろうし、自然から乖離された空間が存在したとしても、人間も自然の一部なわけだから、当然、人間が関わった問題で「ゼロリスク」なんてものもあり得ないということになる。

では、どうしたらいいのか?先日読んだ早稲田大学大学院の西條剛央さんの『人を助けるすんごい仕組み』という本の中に、ほぼ日刊イトイ新聞編集長の糸井重里さんとの対談が紹介されていて、そこに興味深い部分があったので紹介したい。

西條 「ぼくはいま、『5%は仕方ない』と決めてやっているんですね」

糸井 「5%・・・」

西條 「どんなことをしても批判する人はいますし、失敗する可能性もある。だからつねに完璧を目指すのではなく、『5%は大目に見よう』と」

糸井 「なるほど」

西條 「これをゼロに近づけようとすると、リスク管理に膨大なエネルギーを割くことになって、とたんにパフォーマンスが下がるんです」

糸井 「へぇ・・・」

西條 「だから、最後の5%にはこだわらず、あまり厳密に考えすぎずに95%のところで、どんどん迅速にやっていくんです。なにしろスピードが勝負ですから」(P183)

この西條さんのコメントは、彼が関わった東日本大震災での復興ボランティア活動について話されたもの。対策のスピードが要求されるなか、「リスク」とどう向き合うかについて語ったもので非常に興味深い。

先の吉川さんと、西條さんは全く同じことを指摘しているのである。「リスク・ゼロ」と「スピード化」というのは全く両立しないということ。

現在とにかくもてはやされている「コンプライアンス」。ルールをちゃんと守るようにすれば、「リスク・ゼロ」や「ミス・ゼロ」が実現できる発想なんだと思うのだが、これについては、先日読んだ『日本人はどう住まうべきか?』という対談本の中で、脳学者の養老孟司さんが、建築家の隈研吾さん相手に語っていたことが興味深かった。

「現場にいる人は、機能的じゃないととても困るんです。建築も現場を抱えているから、よくお分かりになるでしょう。現場というのはルールで動かない。適当にごまかす方が早いし、スムーズにいく。解剖なんか典型的にそうです。解剖の手順をいくら厳しく規定したって、死体は一個一個違うんだから、ルール通りになっていかない」(P73)

この養老さんの指摘は、コンプラを強化すれば「リスクやミスのない現場」が生まれるという考え方とまっこうから対立している。物事をスムーズに進めるためには「適当にごまかす」ことも必要という指摘は、吉川さんや西條さんの指摘とも重なっている。

まあ経営陣といった組織のリーダーたちは、口が裂けても「適当にごまかせ」なんて言うことができないんだろう。だけど、その一方で、本当はあり得ないはずの「リスク・ゼロ」の状況を常に要求している経営意識や社会風潮について、改めて考え直す必要がある。そのために莫大なコストやエネルギーが浪費されているわけだから。

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