ジャーナリズム

2014年1月24日 (金)

「日本人は大手メディアの信頼性を重視し、誤報を許さない。一方、米国ではアカウンタビリティー(説明責任)を重視する」

話題、変わります。

田中将大投手のヤンキース入団が決まった。今年もメジャーリーグも楽しみ。待ち遠しい。

そのメジャーリーグ。そこでの初の日本人審判を目指して、3Aまで行った平林岳さんという方がいる。最近、その平林さんの著書『サムライ審判「白熱教室」』を読んでいて、野球における日米の「価値観の違い」が興味深かったので、その本の中から印象的な言葉を抜き出して、紹介してみたい。

「アメリカ野球と日本野球の一番の違いは、野球に対する価値観です。
 日本の野球は、少年野球でも高校野球でも大学でも、一番大事なのは『チームの勝利』です。
 アメリカの場合は、どちらかというとチームの勝利は二の次です。それよりも、選手が野球を楽しむ。監督も現場で野球を楽しむ。こっちのほうがもっと大事だという意識があります」 (P27)

「日本の野球は、勝利を目的にしている野球です。審判の判定にも非常にシビアです。日本のプロ野球でミスジャッジは決して許されません」 (P24)

 

「『野球を楽しむのが一番』という基準で考えると、ミスジャッジは小さなことです。選手や観客にしてみれば、審判がアウトかセーフかで迷っているようでは困ります。少々間違えたとしても、毅然とした態度をとり続ける審判のほうが『よい審判』なのです」 (P139)

「アメリカでは、事実よりも審判の判定のほうが大事だと思ってくれています。だからファンも選手も、アンパイアにミスはあるし、それが野球のゲームの一部だと認識しています。だけど日本の場合は、選手も監督もファンもミスジャッジを許しません。『間違いは間違いだ』と言われるのです」 (P26)

日本の野球(というか、スポーツ全般)において、「勝利至上主義」という考え方は強い。それは、週末に小学生の少年野球をボランティアで教えているボクにも、実感としてある。その「勝利至上主義」の弊害は、以前のブログ(2013年1月28日など)で書いた。

改めて、ベイスターズの元監督、権藤博さんの言葉を。著書『教えない教え』から。

「現代社会は『結果がすべて』という考え方に支配されてしまっている。そんな社会的風潮も人が緊張する度合を深めているような気がする。 『失敗は許されない』。そんな考えに囚われてしまったら緊張するのは当たり前だ。思考も体も柔軟性を欠いた状態では、普段の実力の半分も発揮できないに決まっている」 (P78)

審判だって、選手たちだってそう。
勝利至上主義によって間違いを恐れ、思い切ったジャッジ、プレイができなくなる。そんな野球でいいのだろうか。第一、楽しくない。

平林岳さんは、もう一つの著書『パ・リーグ審判、メジャーに挑戦す』で、次のようにも書く。

「審判の権威を高く保つのは、ファンのためです。ファンにゲームを楽しんでもらうには、試合をスムーズに進行させることが大切で、それには審判の権威を常に高く保っておくことが必要だという考えなのです」 (P27)

「日本の場合、球場の中での優先順位は選手(あるいはチームの勝敗)は最上位です。マウンドで相談をしている当事者に、お客さんを待たせているという意識はおそらくないと思います」 P48)

 

この意識は大事だと思う。確かに、日本では投手交代の時に、マウンドで時間稼ぎの相談事を平気でしている。

この指摘を興味深く読んでいたら、ジャーナリズムの世界に対しても同じ指摘があったので、それも紹介したい。

この度、ザ・ハフィントン・ポストの編集主幹になったキャスターの長野智子さん朝日新聞(1月21日)より。


「日本人と米国人ではニュースへの接し方が違います。日本人は大手メディアの信頼性を重視し、誤報を許さない。一方、米国ではアカウンタビリティー(説明責任)を重視する。間違いがあれば、誰が責任をとってどう説明して謝罪するのかに重きを置く。誤報はよくないのですが、批判に終始してニュースの本質を見失わないためには、米国のメディア・リテラシーは見習う部分があると思います

 

当たり前のことだが、別にアメリカの価値観、やり方がすべて正しいというつもりはない。ただ日本の価値観だけがすべてではないということを知っておいた方がいいということ。

審判とニュースという全く異なる世界。なのに日米における「価値観」の違いが一致していて興味深かかった。


2013年4月30日 (火)

「被災地にも、またそれ以外のところでも、『誰かが何とかしてくれる』という強い依存感覚が働いていたように思えてならないのである」

4月28日は「主権回復の日」というんだそうだ。なんだかなあ、と思っていたら、その式典で安倍総理は「万歳三唱」をしたという。さらに、なんだかなあと思ってしまう。やれやれ。

この日については、ジャーナリストの青木理さんが、TBSラジオ『荒川強啓 デイキャッチ』(4月8日)で、次のように話していたのを思い出す。


「サンフランシスコ講和条約が発効した日というのは、主権を回復した日というより、むしろ対米追従の原点なわけですよ」 

この日は、対米追従、すなわちアメリカ依存の「はじまり、はじまり~」という訳だ。 

そこで。しばらく前に、「外部規律」や「数値・数字」に必要以上に依存してしまう日本社会の「依存体質」をめぐる言葉をいろいろ並べてみた。今回は、そこにはこぼれたけど、最近、見かけた「依存体質」についての言葉、フレーズ、文章をダァーッと並べておきたい。 

まず、その「対米依存」について。ジャーナリストの船橋洋一さん著書『カウントダウン・メルトダウン』から。この本は、今年の大宅壮一ノンフィクション賞を受賞している。

「官邸政務中枢では、対米依存と対米排除の真理が同時に噴き出していた。原子炉がいよいよ制止できなくなる中で、一気に米国への依存心が高まっていくのと同時に、そうなった場合の米国の介入の重苦しさと政治的な負荷を感じ始めていた」 (P148)
 

原発事故とともに、さらに対米依存が強まったという指摘は深いと思う。 

その震災について。社会学者の山下祐介さんは、著書『東北発の震災論』で、次のように書いている。

「これほどの大きな事態に対して、それでもなお、日本人には主体的な動きが現れなかった。ある種の人任せの風潮がこの震災では広くみられたように思えるのである。
 
国が何とかしてくれる。経済大国だから大丈夫。専門家が何とかしてくれる。
 
あえて強い言い方をするなら、被災地にも、またそれ以外のところでも、『誰かが何とかしてくれる』という強い依存感覚が働いていたように思えてならないのである」 (P25)


これは日本の社会風潮の深いところを衝いている指摘のように思えてならない。

続いて、ジャーナリズムに関して。ジャーナリストで高知新聞の高田昌幸さんは、自らのブログ『ニュースの現場で考えること』(2008年12月12日) で、次のように書いていた。

「日本の新聞社はたいてい、『県庁クラブ』とか、『首相官邸記者クラブ』とか、地方・中央を問わず、記者クラブに記者を張り付けている。情報の『出口』に記者を常備し、上流から流れ落ちてくる情報を掬い取り、記事を作っている。私が常々言っていることだが、簡単に言えば、『官依存』『警察依存』『大企業依存』である。『発表依存』と言い換えても良い」


「発表依存」、本当にそう思う。僕もある時、テレビのニュース番組を観ていて思ったが、それはニュース番組ではなく、「記者会見」番組ではないかということ。ただただ、様々な記者会見の様子を順番に流す。話題の事件や事象にまつわる人たちに、まず記者会見を行うことを求め、それを取材と呼び、ただ流す。これは報道番組とは呼べないのでは・・・と。 

その高田昌幸さんが、『メディアの罠』で紹介している次のエピソードも興味深い。

「前、朝日新聞の筆政(今の主筆)だった緒方竹虎は敗戦が濃厚になった時期、政府の情報局総裁に転じますが、就任後、あまりにも政府・軍部の情報統制が効きすぎていたことが気になり、『諸君はもっと自由に書いていい』という趣旨のことを発言します。すると、記者たちは緒方総裁に言うわけです。総裁、それは困ります。どこまで書いていいかを示して欲しい、と。それと似たものを今回の原発事故報道でも感じていました」 (P202)

昔も今も、「発表依存」は変わらない。まさに「自律」というものは存在せず、「他律」から抜けられない体質なのである。

同じ『メディアの罠』で、青木理さんが紹介する次の話も。

「事件などをめぐる日本のメディア報道の問題点って、量の異常な多さも問題だけど、警察や検察といった『お上』のお墨付きを得た途端に怒濤のごとき集中砲火報道が繰り広げられてしまうところにもあると思うんです。誤解をおそれずにいえば、『お上公認の血祭り対象』が出現したかのように、メディアが大はしゃぎして徹底的なパッシングを加えていく。
 
その原因はいろいろあるでしょう。何よりも大きいのは、メディアに限った話じゃありませんが、『お上依存』『お上絶対視』という日本社会の風潮もあるし、高田さんのおっしゃる通り、取材力の低下や調査報道能力の劣化もあるでしょう。そしてもう一つ、訴えられた際のリスクをおそれる自主規制です」 (P150)


「警察沙汰になるや否や、鬼の首を取ったかのように大騒ぎするというのは、あまりにみっともない話です。『のりピー報道』もそうだし、朝青龍の暴行問題もそうです。警察や検察という『お上』が動き出した途端、その尻馬にのって被疑者側を洪水報道で徹底パッシングするというのは、この国のメディアの最大病理です」 (P152)

「一見分かりやすい『悪』を見つけて徹底的にパッシングし、でもすぐに忘れてしまうんです。そして次の血祭り相手を見つけて盛り上がり、またすぐに忘れる。その繰り返しの中で、もっとも大切に論議すべき事柄が脇に追いやられてしまう」 (P295)

「頼むよ、日本のジャーナリズムよ」とでも言いたくなってくる。警察発表に頼るジャーナリズム、一方で当然というか、その警察も依存体質から抜けられない。

大沢在昌さん小説『冬芽の人』で、主人公の元女性刑事、牧しずりは、次のように考える。 

「警官になる人間の多くは、頭より体を動かすほうが好きだ。さらに自己判断を得意とせず、命令に従った行動を好む。システムに組みこまれ、その一部として動いていることに不安や疑問を抱かない」 (P188)

上から下まで、右も左も、という感じだ。あちこちで依存ばかりして、もう何が何に依存しているのかさえ分からないくらい。山本七平さんに倣って、「空気依存」とでも言ったらいいのか。

思想家の内田樹さんは、著書『日本辺境論』で、次のように書いている。

「私たちはきわめて重大な決定でさえその採否を空気に委ねる。かりに事後的に決定が誤りであったことが分かった場合にも、『とても反対できる空気ではなかった』と言い訳が口を衝いて出るし、その言い訳が『それではしかたがない』と通ってしまう」 (P45)


自律なき、「空気」依存。これこそ、すなわち「空気が支配する社会」なのかもしれない。

ランダムに、最近、目についた「依存」にまつわる言葉、文章を並べてみたが、なんだかウツウツとした気分になってきた。深い深い依存体質、どうすれば、ここに「自律」という体質が芽生えてくるのだろう。ん~。


2013年4月17日 (水)

「私は社会の眼は、発明や研究をよりよくエンカレッジする力として働くと思っています」

4月1日のブログでは、国やマスメディアが、「パニックになるから」といった理由で情報を隠ぺいする体質があることを指摘する言葉を並べた。

書籍『メディアの罠』の中にも、まったく同じ指摘があったので、それを紹介したい。ジャーナリストの神保哲生さんは、その本の中で次のように語っている。 

「つまり一般市民に本当のことなんて教えてしまったら無知な市民がパニックして大変な事になると。でも実は、いちばんパニックを起こしているのは政府でした。悪い情報を出したときに、たとえば住民が逃げようとするのは、当たり前の危険回避行動でさってそれはパニックではありません。むしろ、どうしたらいいか分からなくなり、判断が下せずに不合理な行動をとってしまう状態こそがパニックです」 

「震災と原発事故で起きたことは、日本を支えていたはずのエリートこそが真っ先にパニックに陥ってしまっていた、ということだったと思います。これをエリート・パニックと言うそうですが、そこには既存のメディアも含まれています」

「『事実を明かすと国民がパニックになるから』といった言い方が、まさに市民を愚民視した自分たちが特権的な地位を享受していることを当たり前のこととして思ってしまっている霞が関官僚や大手メディアの傲りの典型的な態度だと思います。要するに市民を信用していない。しかも、その政府や大メディアの上から目線や愚民観こそが、市民の疑心暗鬼を呼んでいることに気づいていないわけです」 (P208) 

前回と取り上げたものと、まったく同じことを指摘している。さらに、『「知」の挑戦』という本の中で、朝日新聞で『プロメテウスの罠』を担当する依光隆明さんは、次のように語っている。 

「ところが現実には情報を出す本人たちがパニックになってるし、国民がパニックになることを懸念した-と細野(豪志)さん(当時、首相補佐官)があとでいうんですが-そのためにろ過された情報であるがために、結局、出てくる情報が現場の実態とは大分違った情報になってしまって、それが繰り返されることによって、大本営発表という評価につながった面もあるように思えました」 (P60) 

もうひとつ。同じ文脈だと思うものを紹介しておきたい。ピーター・バラカンさんは、著書『ラジオのこちら側から』で次のように書いている。 

「色々な国の写真家が参加する写真集を見ていて、海外のカメラマンに比べて、日本人のカメラマンには見る人に突き刺さる写真を提示することや、衝撃を与えることへのためらいがあるのでは、と感じたことがあります。憶測にすぎませんが、日本のメディア全体に、『インパクトを与えてはいけない』という抑制が(無意識に?)あり、写真や報道にその判断があらわれるのではないか、と感じるのです。しかし、現実を伝えない報道にどれだけの価値があるのか」 (P184) 

以前のブログ(2012年10月3日)で、東日本大震災で日本のメディアが「遺体」の写真を載せなかったことについて触れた。過剰な配慮や暗黙のルールを優先しすぎているという意味では、同じことだと思う。

ジャーナリストの辺見庸さんと、一橋大学教授の鵜飼哲さんの対談が、著書『国家、人間あるいは狂気についてのノート』に載っていた。そこで以下のように語られている。

辺見 「いまは集団的な死というものの凄絶さをすぐに消しますよね。被災地から帰ってきたカメラマンから苦労話を聞きました。どこを写しても手や足が写るのに、メディアはそれを丹念に消していくのだそうです。異様な世界ですよね」

鵜飼 「系統的に隠すようになったのはいつからでしょう。七〇年代半ば以降、急速に消されていった気がします。<九・一一>のときも映像には死体が一切出ませんでした。写真評論家の西井一夫さんの話では、戦争中、日本軍は日本への死体の写真をまったく出さなかったそうです。ある意味で、いまは戦争中と同じ扱いをしているということになります」 (P193)
 

3月25日のブログで紹介した作家の森達也さんの言葉ではないが、国もメディアも、そして我々も、「もっと社会を信用する」姿勢こそが、今、必要な事なんだろう。そこで今回は科学者の池内了さんが、科学について話した言葉で終わりたい。こちらも『「知」の挑戦』から。

「『デュアルユース』といういい方があります。一つのものごとに二方向の用途があるという意味です。科学とは往々にしてそういうものです。一つのものが軍事用にも民生用にもなる。毒にも薬にもなる」

「歯止めになる方法の一つとして、私はとりあえずすべてを『公表』しましょうといっているのです」

「そうすれば、完全に悪用を抑えられなくても、ある程度の抑止力にはなるでしょう。また、取り組んだ成果がよりよい方向に向かっていく推進力にもなるのではないでしょうか。私は社会の眼は、発明や研究をよりよくエンカレッジする力として働くと思っています」
 (P220~1)


物事には、常に二方向の側面がある。それを社会を信用して公表すれば、パニックの抑止力になったり、いい方向への推進力したりもする。政治、メディアにも当てはまることだと思う。


2013年4月10日 (水)

「およそ先進国といわれている国でこれほど国際情勢をきちんと扱うメディアが貧弱な国は他にはない」

前々回のブログ(4月9日)では、新聞やテレビで「事件報道の偏重」が起きていることについての言葉を紹介した。今回は、それと裏表となる現象について指摘している言葉を紹介したい。

ジャーナリストの青木理さんは、『メディアの罠』の中で、日本のメディアで国際ニュースがちゃんと扱われていないことを指摘する。 

「およそ先進国といわれている国でこれほど国際情勢をきちんと扱うメディアが貧弱な国は他にはない。これでは視座が内向きになるばっかりだし、発想が単層化しがちになるし、ひどく幼稚で馬鹿げたナショナリズムのようなものがますます蔓延る要因になってしまうと思います」 (P172) 

テレビ、新聞と各局が、海外支局をどんどん閉鎖しているのは事実である。事件報道や、芸能まがいのニュースが比重を増やす中で、国際ニュースの居場所はどんどんなくなる。おそらく「売れないニュース」ということなのだろう。青木さんの指摘を待つまでもなく、社会の意識が内々へと向かっていくと、ロクな発想は起きないことは、今の北朝鮮や、先般のオウム真理教の状況などを見れば明らか。決して、今の日本はそれらを笑っていはいられないのだと思う。 

まったく同じ指摘を、ピーター・バラカンさん『原発、いのち、日本人』の中でしていたので並べておきたい。

「おかしいということは、とっくに気が付いていました。テレビのニュースを見ててね、どこの国でも国内ニュースがメインになるのは仕方がないんですよね。でも、日本はあまりにも、世界で大変なことが起きているのにもかかわらず、それをまったく報道せずに、国内のスポーツの話題とか、お天気のこととかね。
 
この国には毎年台風が来ることはわかっているんだから、いちいちそれをトップニュースに持ってこなくてもいいでしょ」 (P69)
 

このピーターさんの指摘を読んだときには、すごく同意した。というか同じことを考えている人がいて、ホッとした。ボクも、よくテレビのニュース番組といわれているものを観ていて、なんで「台風やゲリラ豪雨がトップニュースなんだよ」と思っていた。 

例えば、暴風雨で1人被害者が出ることと、原発事故で1人被害者が出ることを、同じような感覚で扱ってしまう。もちろん台風ニュースがまったく重要じゃないとは言わない。でも、それは天気のコーナーを拡大して、丁寧に伝えればいいもののはず。人々の興味が多いものと、ニュース価値とは必ずしも一致しないことがあることを失念している人がニュース現場にも多い、と思ったりしていたのである。

もうひとつ。これはジャーナリズムでの話じゃないけど、劇作家の平田オリザさんが、学校教育について語っていた言葉を関連として。著書『ていねいなのに伝わらない「話せばわかる」症候群』より。

「少なくとも、中学生くらいで、『国際関係』という授業を週に一時間でもつくって、中国や韓国の人たちの文化や習慣を知識として学んでいくようにする」 (P196)


いいアイデアだと思うのだが…。これから日本の内外で生活していくなかで、様々な人種、民族とコミュニケーションをとる機会が増えることは間違いない。そういう意味でも、「国際関係」という授業として、キリスト教やらイスラム、さらには、その国の歴史などを知ることは大切なのだと思う。「内向きの視座」を外に向けるためにも。


「へそ曲がりというか、偉そうな連中を見るとつい歯向かいたくなる反骨心というか、それは記者にとって最も大切な資質ですよ」

前回のブログ(4月9日)に続き、『メディアの罠』からの言葉を並べてみたい。

4月4日のブログでも、メディアでも、ジャーナリズムを果たすことよりも、効率化、リスク管理といった企業の論理が優先される「コンプライアンス」の風潮が強まっていることに触れた。今回も、そうしたメディア企業の組織やコンプライアンスについての言葉を中心に。 

まず、ジャーナリストの青木理さんのメディアの組織についての指摘から。 

「昨今の新聞やテレビは、官僚化と硬直化が極まり、安全運転と自己規制の固まりみないになってしまっている。少しでも危ない取材はせず、波紋を呼びそうな報道には手を出さない。つまりは、良い意味でのメディア組織の『緩さ』のようなものがほとんどない」 (P198) 

一方、長く北海道新聞で記者を続け、現在は高知新聞に属する高田昌幸さんは、次のように語る。 

「過度のおびえ、過度の忖度、そして報道組織の無責任体質が、タブーを作り上げている。そんな感覚が新聞社内にはあります」 (P158) 

ジャーナリズムを追うことを忘れ、あたかも一般企業のようなコンプライアンス意識が、原発事故にまつわる報道での「惨敗」を招いたということなのかもしれない。

青木理さんの言葉から。

「しかし今回、大手と言われるメディア組織は、まさに薄っぺらなコンプライアンス意識に足を引っ張られ、原発事故現場に近づかず、会社にしても組合にしても、身動きが取れなくなってしまった」 (P240) 

高田昌幸さんは、さらに詳しく語っている。 

「原発事故のような本当の厳しいケースとなると、記者を会社公認で現地に行かせるかどうかなんて、なかなか判断できないし、判断しようとしないでしょう。30代半ばくらいのキャップ給が決めることはあり得ないし、その上のデスク級も判断できないし、判断しない。では部長?局長?社長?もしかしたら、社長ですら判断できないかもしれません。事態の大きさを考えると、一社だけでは動けないかもしれない。きっと、同業他社や政府・当局の動向を探って『うちだけが突出しないように』という思考が働く。判断の放棄です。逆に言うと、事態が大きくなればなるほど、『国難』になればなるほど、メディアは自由な判断をしなくなる。きっと、そういうことです」 (P218) 

「うちだけが突出しないように」というのは、僕が現場にいたころも、ちょくちょく上部から回ってきた言葉である。いやな言葉、空気だ。 

さらに高田さんは、次のように話す。 

「つまり『誰が責任取るか』という話ですよね。だれも責任を取ろうとしない。『会社のために』などという理屈は嘘ですよね。『会社のために』という言葉が出るときは、単にその人の自己保身の裏返しでしかない。大メディアは、自己保身の集合体になっている。メディア組織の官僚化がものすごく深化したということです」 (P240) 

まさに「官僚」という行動様式なのだろう。ちなみに本は、変わるが、元朝日新聞主筆の船橋洋一さんの近著『カウントダウン・メルトダウン』には、原発事故における霞が関官僚に対する次のような指摘があった。参考として記しておく。 

「SPEEDIを公表することによってパニックが起こった場合、責任を取らされることを官僚機構は極度に恐れた。公表によって放射線量の高い地域の住民が我先に避難殺到し、制御できなくなるリスク、二次災害が起こるリスク、試算結果が後で間違いとなるリスク、そして何より保障を求められ、訴訟されるリスクを彼らが恐れた。
 
彼らは、行動することのリスクより行動しないことのリスクを取ることを選択したのである」
 (下巻P388) 

確かに、ジャーナリズムの世界も、官僚機構も、同じ病理に蝕まれているのかもしれない。メディア組織が官僚化し、硬直化すると、当然ながら、属する記者たちも追従することになる。再び『メディアの罠』から、青木理さんの指摘である。 

「日本のメディア企業は、所属している記者をスポイルしてしまう。徹底して型枠に嵌め込み、そこからはみ出ようとする人間を許さないような組織になってしまっているからです」 (P76)

「記者のスタイルも思考形式も定型化されていってしまっているように思うんです。職場である会社には、同じような学歴や同じような家庭環境で育った人たちが集まっていて、同じようなルートで記者として成長していきますから、同じような価値観に染まっている。そこに若干のエリート意識があって、同じ組織にいるという安心感が蔓延する中で仕事をしていると、本当に物事を深く考えなくなる」 (P80)
 

「へそ曲がりというか、偉そうな連中を見るとつい歯向かいたくなる反骨心というか、それは記者にとって最も大切な資質ですよ。しかし、大半の組織記者は、高田さんや僕のようにへそ曲がりじゃない。特に最近は、良くも悪くもまじめで従順なんです」  (P107)

メディアの規模の違いこそあれ、ボクも現場で同じようなことを感じ、呆れ、疲れ、その組織を出ることを選んだ。できればスポイルされる前に、と願って。ジャーナリズムの現場でも、コンプライアンスの徹底に何の疑問も持たず、その完全実行に使命を感じる人間がいるのは確か。どんどん増えている。そして今の時代は、そうした人間の方が、メディア企業の中では確実に出世する。悲しいことに。

やれやれ。ジャーナリズムの将来に光明を感じさせてくれる言葉を集めたいのだけど…。

2013年4月 9日 (火)

「俗っぽい事件まで、何やらものすごく大層な事件化のように仕立て上げてしまう。これは日本メディアの一つの病理です」

ここ3回(4月3日のブログから)では、メディアが抱えるランニングコスト、それがジャーナリズムの居場所を狭め、そして世の中で進んでいく「単純化・簡略化」を後押ししている、という指摘の言葉を並べてみた。

この週末に、3人のジャーナリストによる著書『メディアの罠』を読んでいたら、もっと詳しく話し合われていた。そこからの言葉も並べておきたい。この本は、ジャーナリストの青木理さん、高知新聞の高田昌幸さん、ビデオジャーナリストの神保哲生さんによる対談を中心にまとめられたもの。 

まずは、メディアが抱える「ランニングコスト」について。青木理さんの指摘から。

「誤解を恐れずにいえば、新聞記者なんて所詮はブン屋といわれ、本来は蔑まされているような職業だったのに、給料をもらい過ぎなんです。いや、かつては所詮ブン屋だからこそ、せめて給料くらいは高くしなくちゃという側面もあったのかもしれないんだけど、最近のブン屋は社会的地位もプライドも高い上に給料まで高くなってしまっている」 (P32)
 

「もう一つは部数です。800万部、1000万部なんていうお化けみたいな巨大部数を持つ新聞、これは明らかに大衆紙でしょう。大衆紙だからこそ、いわゆる事件報道を極度に偏重する。俗っぽい事件まで、何やらものすごく大層な事件化のように仕立て上げてしまう。これは日本メディアの一つの病理です」 (P33) 

神保哲生さんは、今のメディア企業に対して、次のように指摘する。 

「あまりにも特殊な環境の下で超のつく高コスト構造ができてしまい、試験管の中でしか食えないビジネスモデルになってしまった旧メディアは、インターネットに参入しようとすると、稼げないマーケットでのシェアを増やすばかりで、稼げるシェアがどんどん喰われていく」 (P21) 

高田昌幸さんによる新聞社の「体質」についての言葉も興味深い。 

「日本の新聞社は部数だけでなく、博覧会やらスポーツ大会やら何やら報道業務とは直接関係ない事業を多数抱え込んでしまった。組織が大きくなりすぎると、その組織維持が目的になる。保守化、官僚化の始まりですね。それが極まった。独創的な判断や行動は、官僚的組織には邪魔ものですが、一方では、パターン化された行動を重宝するようになります。融通が利かないし、決断も遅くて鈍い。そういうマイナス面が原発事故報道では、すべて出てしまったように思います」 (P304) 

社員記者たちの人件費、巨大な発行部数などなど、高コスト構造を抱え込む。結果として、硬直化した取材が増えるだけでなく、「事件報道の偏重」が起きてくるということなのだろう。 

高田昌幸さんの言葉から。

「事件報道が年々、過大、過剰になってきたように思います」 (P140)

「画一化とセンセーショナルな傾向が強まってきました。それはとくに、北朝鮮報道や大事件・大事故報道において顕著です。みんなが報道するから、うちも報道する。その代わり他社より少しだけ派手に行こう、みたいな感じですね」 (P44)

青木理さんも、紙面の変質を指摘する。 

「取材力の低下なのか、そもそも取材をしなくなっているのか。新聞で言えば、読み応えのある長期の連載記事なども、かつてより随分と減ってしまったように思います。逆に一つ一つの記事が極端に短くなり、単純で表層的な分かりやすさばかりが優先される」 (P84) 

そんな中、ネットへの比重をより増やすジャーナリズム。そこでは「売れる記事」が求められていく。高田昌幸さんの指摘から。 

「ネットのアクセス・ランキングを見ると、アサヒ・コムにしても読売オンラインにしても、三面記事的なものが上位に並びますよね。ヤフー・ニュースのランキングは典型的です。ネットへの移行が進み、伝送路をネットに依存する度合いが増すと、その傾向はますます強まるでしょう。『記者も売れる記事を書かないといけない』と言われるけど、本当にそれを最優先していいんですか、というのが最大の問題です。私はそこにも危機感がある」 (P173) 

青木理さんも次のように語っている。 

「僕が通信社の記者として働いていた時は、この記事が売れるとか、売れないとか、一片たりとも考えなかった。部数や視聴率という数字が如実にあらわれる雑誌やテレビと、宅配制度で支えられた新聞業界のそこは圧倒的な差異だったでしょう」 (P182)

以前、このブログで、我々の生活は、社会の埋め込まれたランニングコストのため、野球観戦の自由(2012年12月22日のブログ)、さらには、個人の移動の自由(2012年12月25日ブログ)や住まいの間取りの自由(1月15日ブログ)が奪われている、というような言葉を紹介してきた。

まったくジャーナリズムも、同じ構造なのである。抱えるランニングコストのために、取材の自由や紙面の自由が奪われる。さらには、我々が「単純化していない社会」に住む自由も奪われているのかもしれない。
 

やれやれ。『武士の家計簿』について書いたブログ(1月31日)を思い出す。その本で指摘されていたのは「武士がランニングコスト過多から自由になるためにも明治維新は必要だった」ということ。さて、今のジャーナリズムが、ランニングコスト過多から抜け出すためには、どこから手を付けていくべきなのか。

この『メディアの罠』には、まだまだ興味深い指摘があったので、追って掲載してみたい。

2013年4月 5日 (金)

「単純化した言葉の中には、必ずごまかしと飛躍が存在する」

前々回のブログ(4月3日)で紹介した森達也さんの言葉を改めて。著書『誰がこの国を壊すのか』から。

テレビも新聞も、それを見る人・読む人・買う人によって社員一人ひとりの生活が支えられている。それは否定できない。でも市場原理を最優先事項としたその瞬間から、メディアは民意によって造型されることを回避できなくなる。その結果、民意が求める単純化、簡略化-つまり『わかりやすさ』を表現の主眼に置くようになってしまう」 (P109) 

メディアは生き残るため、市場原理を受け入れて、紙面・記事の単純化、簡略化を進める。つまりは、メディアが自分の巨大なランニングコストを温存しようとすればするほど、世の中そのものの単純化、簡略化の後押ししていってしまう、ということになる。 

そこで、今回は、世の中で進む「単純化」「簡略化」に対する言葉を、ずらりと並べてみたい。 

北海道大学大学院准教授の中島岳志さん毎日新聞夕刊(2012年2月17日)から。 

「人間はすごく複雑だから、それをできる限り多くの人が使える言語の形で丁寧に書くこと、これが分かりやすさだと思う。ところが、メディア、特にテレビでは『Aか、Bか』みたいな二者択一言語になっている。あれは分かりやすさじゃなくて単純化です」 

同じく中島さんは、著書『秋葉原事件 加藤智大の軌跡』では、次のように語る。

「そのような人間が構成する社会を、そう簡単に単純化して語ることなんてできない。単純化した言葉の中には、必ずごまかしと飛躍が存在する」
 

思想家の内田樹さん雑誌『AERA』(2012年12月17日号)から。 

「メディアは『ニューズ』で商売している。『今日は昨日と同じく平和な一日でした。よかったね』では、飯が食えない。あちらもこちらも全システムが機能不全をきたしており、早急な制度改革が断行されねば国家崩壊の危機は目前……というタイプの話をメディアが好むのは、ほんとうにそう思っているからでなく、そうである方が部数が伸び、視聴率が上がるからである」 

同じく内田さん。こちらは、雑誌『新潮45』(2012年5月号)から。 

「現に私たちの社会における政治家、ヒーローたちは『“悪”に対する過剰な攻撃性』によって、高いポピュラリティを獲得しています。『語りが穏やかである』とか、『考えが深い』とか、『忍耐強く説得を試みている』といったことを政治家の美質に数える習慣を、メディアはほぼ完全に放棄しました。そのような文言を久しくメディアで見聞したことがありません。メディアを徴する限り、今政治家に求められているのは、何よりも『スピード感』であり、『わかりやすさ』であり、『思い切りのよさ』のようです」 

ジャーナリストの辺見庸さん著書『水の透視画法』から。 

「うちつづく月刊誌の休刊決定とは、活字媒体のおわりのはじまりであるとともに、資本の運動へのメディア側によるいまだかつてなく従順な投降でもある。『売れないものは悪いもの』『売れれば良いもの』という世の中の狂れ心と暴力に闘わずして屈したのである」 

森達也さんは、朝日新聞(2012年1月26日)では、次のように語っている。 

「正義と悪。敵と味方。黒と白や右と左。そして被害と加害。前提を二項対立にしたほうが、確かに思考は楽だ。でも、それは現実ではない。この世界はもっと複雑で多面的だ」 

社会運動家の湯浅誠さん毎日新聞(2012年3月30日)から。 

「橋下さんが出てくる前、小泉純一郎政権のころから、複雑さは複雑であること自体が悪であり、シンプルで分かりやすいことは善である、という判断基準の強まりを感じます。複雑さの中身は問題とされない」 

作家の藤本義一さん『<3・11後>忘却に抗して』から。 

「政治にはあきらめしかない。だから、大阪市長になった橋下徹さんみたいのが出てくる。それなりに喝采を浴びてね。でも、彼は単純、明快がとりえでしょ。それでは社会は変わらないな。もっと深い思いの種があって、十年は土の中で育てて、それからじんわり芽を出していく。人の社会の大事な過程をはしょると、事態はかえってよどみ、濁っていくんと違いますかね」 (P191) 

世の中で進む単純化、簡略化。メディアは、自ら持つランニングコストを切り落として行かない限り、この風潮の片棒を担いで行くことになる。

2013年4月 4日 (木)

「でも企業ジャーナリズムにとってケース・バイ・ケースは、組織論理と齟齬を起こします」

前回のブログ(4月3日)では、メディアにとって、企業としての立場とジャーナリズム、その両立が難しい時代に入ったという内容の言葉を並べた。その続き。

メディアが、企業として抱えるランニングコストの割合が増えていくなか、ジャーナリズムは、どのように生き残っていくべきなのか。TBSラジオに『DIG』(3月19日)では、元毎日新聞の河内孝さんが、例として朝日新聞の抱えるランニングコストを具体的に説明しながら、「デジタル革命」をどう乗り越えていくかについて話していた。(この番組『DIG』は先週で放送自体が終了してしまった)。 

「朝日新聞って今、社員だいたい4000人台で、3000億円くらいの売り上げ。で、ウェブ、ネット新聞に完全に切り替えると、紙がいらない、印刷工場がいらない、流通網がいらないでしょう。販売店いらない。それで、社員だって、朝日新聞4000人の中で、記者っていうのは、たぶん1600~700人。そのうち300人は管理職だからいらない。本当に駆け回っているのは、12~1300人さ。1200人だったら、人件費で言うと3000億円かせぐ必要ないんだよ。で、ウェブでやった時にどうなるかという計算をして、どうやってそこまでシフトしているか、ということを少なくとも朝日新聞は考えている」 

つまり、これだけ紙の新聞というのが手間と時間をかけて作っている。その一方、アメリカではどのようにして、ジャーナリズムが新たな居場所をつくり出しているかも話している。 

「アメリカって壊して作っていくのが上手じゃない。なぜそういうことが可能かというと、いろんな理由があるんだけど、やはりアメリカのジャーナリストの給料の安さがあると思う。平均して3万ドルくらいですから、日本円でいうと300~400万円。もちろんスター記者は何千万とっていますが、平均的には300~400万円。ダブルインカムですからやっていける。ヨーロッパも同じ。日本みたいに某新聞などは、1千万円とかよりいいわけですから、社会変化に応じてどれだけ自分の身の丈を。そのくらいの革命をやらないと、このデジタル革命は乗り切れない」 

アメリカでは元々、ジャーナリストや記者たちのランニングコストが低いため、新しいメディアも作りやすいという指摘である。すなわち自分たちジャーナリストとしての居場所、活躍の場所を、時代の変化に合わせて新たに作っていく。

という意味でも、日本のメディアは、今後、自分たちのランニングコストにぶら下がっている、人たち、関係者、ステークホルダーをどう整理できるかが生き残りのカギだったりするのだろう。
 

ただ、メディアが抱える問題は、当然ながらランニングコストの削減だけではない。もうひとつコンプライアンスという流れに、どう向き合っていくかも大きな問題だと思う。 

森達也さんは、『誰がこの国を壊すのか』の中で、次のようにも語っている。 

正解などない。現場では誰もが悩みながら、自分自身の答えを探すしかない。ジャーナリズムはそんな領域です。常にケース・バイ・ケースです。でも企業ジャーナリズムにとってケース・バイ・ケースは、組織論理と齟齬を起こします。効率も悪いしマニュアル化もできない。リスク軽減も難しい。だからこそ葛藤や煩悶を回避する。現場で悩まなくなる。マニュアルと求め始める。こうして横並び報道が行われる。それはやっぱり、ジャーナリズムではなくてメディアです」 (P196) 

最近の企業が持つ、ケース・バイ・ケースを許さない風潮。管理責任というやつ。効率化、リスク管理・・・、そうした現代的な企業論理、すなわちコンプライアンスを突き詰めていくと、ジャーナリズムは、「いらないもの」になっていかざるをえないのではないか。 

もうひとつ。北海道警察の裏金問題を、キャンペーンをはって追及した北海道新聞、その調査報道を引っ張った高田昌幸さんが、その舞台について書きとめた著書『真実』。その中で、高田さんが、2~3年目の若手記者から浮きあげられたというエピソードも印象的だった。

「先輩たちの裏金報道はすごいと思いました。入社前でしたが、あこがれました。でも今はちょっと違うんです。自分は調査報道をやりたいとは思いません。

 だって社内では調査報道をやろうという雰囲気、全然ないじゃないですか。あんな危ないものは手を出すな、みたいな気分が充満しているじゃないですか。社内では、調査報道なんて、まったく評価されていないじゃないですか」 (P251)

メディアの企業としての立場。ランニングコストとコンプライアンス、こうした問題にちゃんと向き合って考えていかないと、前回のコメントで神保哲生さんが危惧するように、ジャーナリズムが生き残っていけなくなるのかもしれない。

2013年4月 3日 (水)

「経済論理に抗してでも、損を甘受してでも、絶対に守らなきゃいけない一線がある」

少し前に何回かに渡って、「ランニングコスト」に関する言葉を紹介した(12月25日のブログ )。今回は、ちゃんとまとめられるか正直分からないが、ジャーナリズムの世界での「ランニングコスト」にまつわる問題が浮かび上がってくるような言葉を並べてみたい。

メディアといえども、当然ながら「商売」という世界の中に存在する。そこで、ジャーナリズムはどういう立ち位置を取っていくべきなのか。僕自身も、ささやかながら現場で悩んだ問題である。まずは、それにまつわる言葉から。 

元共同通信の記者である、ジャーナリストの青木理さんは、著書『僕たちの時代』で、次のように語っている。 

「ジャーナリズム性をきちんと追求しようとすれば、売れるか売れないかということと同時か、時にはそれ以上に背負わなくちゃならないものがある」 (P24)

「もちろん新聞だって商売であって、僕たちは書いたものを売って飯の種にしていることは間違いないんだけれども、この稼業には別の意味もある。経済論理に抗してでも、損を甘受してでも、絶対に守らなきゃいけない一線がある」 (P25)
 

同じく青木さんは、TBSラジオ『DIG』(1月3日)の中では、かつての記者時代、記事を「売れる」と思って書いたことはなく、「意義がある」「やるべき」「重要だ」などの思いで書いていたと話していた。それに対して今の記者たちは、記事がネットの紙面に掲載されることもあり、アクセス数やヒット数を気にしながら書かなくてはならず、大変であるとも言っていた。 

一方で、朝日新聞の連載『プロメテウスの罠』(2012年10月16)の中で、高知新聞社の社長、宮田速雄さんのこんな言葉が取り上げられている。 

「新聞社の目的はカネではない。経営が厳しい時こそ、ジャーナリズムが試される」 

ジャーナリズムの本質的な目的は、「売れること」「カネを稼ぐこと」ではない。しかし一方で、ジャーナリズムをやっていくためには「カネ」の問題は避けて通ることができないのも事実である。 

同じくTBSラジオ『DIG』(3月19日)の放送で、ビデオジャーナリストの神保哲生さんは、次のように語っている。

「ジャーナリズムというのは、重要なことが起きれば、それを取材してもそれほど読む人がいない、視聴率が上がらないと分かっていても、重要だったら取材に行こうよ、というのが判断なんだけど。経営判断としては、それはダメですよね。回収の見込みのないものを取材リソースを投入しているようじゃ、経営者としては、その会社の単純な収益でいくと上がらないということになる。これからマスメディアがどうなるこうなることには、個人的には関心はない。新しいマーケットの中で、いかにしてジャーナリズムを生き残らせていくか」
 

今の時代、企業はお金を生み出さないものを扱っていけない、という傾向は強まっている。今後、ジャーナリズムというものの居場所はあるのだろうか。 

何度も引用するが、作家の森達也さん『誰がこの国を壊すのか』の中で、「ジャーナリズム」と、企業としての「メディア」の両立の難しさを話している。 

テレビも新聞も、それを見る人・読む人・買う人によって社員一人ひとりの生活が支えられている。それは否定できない。でも市場原理を最優先事項としたその瞬間から、メディアは民意によって造型されることを回避できなくなる。その結果、民意が求める単純化、簡略化―つまり『わかりやすさ』を表現の主眼に置くようになってしまう」 (P109)

当然、テレビや新聞などメディアには、勤める社員たちの給料や、設備や流通システムなどのコストがかかる。ランニングコストである。時代の変化とともに、必要なものも、不必要なものも出ているに違いない。経営環境が厳しくなり、ランニングコストの重荷感が増えれば増えるほど、より過剰にユーザーに受け入れられようとする。結果、ジャーナリズムの記事やコンテンツも「受け入れやすいもの」「売れるもの」、つまりは「単純化、簡略化されたもの」がますます求められるということなのだろう。

2013年4月 1日 (月)

「国民を判断力のない子どものように扱って、愚弄しているにすぎない」

「憲法」についての言葉から、「国家」についての言葉を,、前回のブログ(3月28日)では紹介した。少し内容的には変るが「国家」と「国民」に関わる話を、もうひとう紹介したい。

朝日新聞の元主筆で、日本再建イニシアティブ理事長の船橋洋一さんは、東京新聞(3月24日)で原発事故における国の対応について次のように批判している。 

「国は起こり得る原発のリスクを透明にし、国民の前に見せるべきなのに、まだ隠そうとしている。出せばパニックになるというが、それは自らがパニックになるだけの話だ。国民を判断力のない子どものように扱って、愚弄しているにすぎない」

船橋さんによる「国家は国民を愚弄している」という指摘は重いと思う。 

同じような指摘が、『誰がこの国を壊すのか』での森達也さん上杉隆さんの対談でのやりとににもある。それは以下の通り。 

上杉 「細野豪志大臣が言っていましたし、枝野幸男さんも最後に認めましたけど、事故直後の段階ではとても事実を言うことができなかったと。あそこで発表したらパニックになったからと言う。だから、政府とマスコミだけが知っていればいいのだと。それはとんでもない選民意識です。それと、国民には冷静な判断ができないと思い込んでいる。衆愚という意識があるのですよ。驕りですよね、政治とメディアの」

森  「レベッカ・ソルニットはその著書『災害ユートピア』で、災害や事件があったときにパニックになるのは現場の人々ではなく、むしろメディアや政府中枢部などエリート層であると指摘しています。現場でパニックが起きるのではないかと、彼らはパニックを起こすのです」

上杉 「今回の原発事故でパニックになったのは政府なのです。さらにメディアがパニックを撹拌した」 (P93~94)

ジャーナリストの辺見庸さんは、沖縄タイムズがまとめた『この国はどこで間違えたのか』で、メディアがパニックを避けようとしていた状況を、次のように語っている、

「複数の在京メディア関係者から実際に聞いた話で、福島第一原発の事故のときに当初からメルトダウンが起きたことは分かっていたと。でもメルトダウンという衝撃的な用語を使わせない空気が社内にあった。で、メルトダウンという言葉の使用をみんなで避けたと。それがしばらく続いた」 (P263)

僕自身、震災発生当時は、メディアの一端にいた。そこでも、パニックを起こさないための、同調圧力は確かに感じた。ニュース原稿を書くにも、パニックにつながらないように注意に注意を重ねた感じだ。でも・・・。ある人に正直に吐露したことがある。「我々に必要なのは、パニックを受け容れ、それと向き合うことではないか」と。おそらく明治維新にしろ、敗戦直後にしろ、日本はある種の大きなパニックに襲われたのだと思う。そのパニックの中で向き合い、新しい価値観、新しい社会をつくり出していったのではないか。

無論、避けられるパニックは避けるべきである。ただし必要以上にパニックを避けることだけに労力をかけるのも違うだろうし、また回避と先送りも違う。

今回の大震災と原発事故の場合、政府もメディアも「国民はパニックを向き合うことはできない」と勝手に判断して、パニックの要素、すなわち「事実」を必要以上に隠した。それによって、我々は、自分たちのシステムを「更新」すべきチャンスもタイミングも逸してしまったという側面もあるのではないか。しかも隠したり、先送りしたりしたパニックの要素。それは細分化して、個々の中に澱のように溜まっていって、あちこちの末端では「破たん」が起きているのではないか。地域社会の破たんや、個人における心の病気などとして…。

必要以上に「パニック」や「リスク」というものを避けたがる風潮や体質についても、またの機会にいろいろ考えてみたいと思う。

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