「日本人は大手メディアの信頼性を重視し、誤報を許さない。一方、米国ではアカウンタビリティー(説明責任)を重視する」
話題、変わります。
田中将大投手のヤンキース入団が決まった。今年もメジャーリーグも楽しみ。待ち遠しい。
そのメジャーリーグ。そこでの初の日本人審判を目指して、3Aまで行った平林岳さんという方がいる。最近、その平林さんの著書『サムライ審判「白熱教室」』を読んでいて、野球における日米の「価値観の違い」が興味深かったので、その本の中から印象的な言葉を抜き出して、紹介してみたい。
「アメリカ野球と日本野球の一番の違いは、野球に対する価値観です。
日本の野球は、少年野球でも高校野球でも大学でも、一番大事なのは『チームの勝利』です。
アメリカの場合は、どちらかというとチームの勝利は二の次です。それよりも、選手が野球を楽しむ。監督も現場で野球を楽しむ。こっちのほうがもっと大事だという意識があります」 (P27)
「日本の野球は、勝利を目的にしている野球です。審判の判定にも非常にシビアです。日本のプロ野球でミスジャッジは決して許されません」 (P24)
「『野球を楽しむのが一番』という基準で考えると、ミスジャッジは小さなことです。選手や観客にしてみれば、審判がアウトかセーフかで迷っているようでは困ります。少々間違えたとしても、毅然とした態度をとり続ける審判のほうが『よい審判』なのです」 (P139)
「アメリカでは、事実よりも審判の判定のほうが大事だと思ってくれています。だからファンも選手も、アンパイアにミスはあるし、それが野球のゲームの一部だと認識しています。だけど日本の場合は、選手も監督もファンもミスジャッジを許しません。『間違いは間違いだ』と言われるのです」 (P26)
日本の野球(というか、スポーツ全般)において、「勝利至上主義」という考え方は強い。それは、週末に小学生の少年野球をボランティアで教えているボクにも、実感としてある。その「勝利至上主義」の弊害は、以前のブログ(2013年1月28日など)で書いた。
改めて、ベイスターズの元監督、権藤博さんの言葉を。著書『教えない教え』から。
「現代社会は『結果がすべて』という考え方に支配されてしまっている。そんな社会的風潮も人が緊張する度合を深めているような気がする。
『失敗は許されない』。そんな考えに囚われてしまったら緊張するのは当たり前だ。思考も体も柔軟性を欠いた状態では、普段の実力の半分も発揮できないに決まっている」 (P78)
審判だって、選手たちだってそう。勝利至上主義によって間違いを恐れ、思い切ったジャッジ、プレイができなくなる。そんな野球でいいのだろうか。第一、楽しくない。
平林岳さんは、もう一つの著書『パ・リーグ審判、メジャーに挑戦す』で、次のようにも書く。
「審判の権威を高く保つのは、ファンのためです。ファンにゲームを楽しんでもらうには、試合をスムーズに進行させることが大切で、それには審判の権威を常に高く保っておくことが必要だという考えなのです」 (P27)
「日本の場合、球場の中での優先順位は選手(あるいはチームの勝敗)は最上位です。マウンドで相談をしている当事者に、お客さんを待たせているという意識はおそらくないと思います」 (P48)
この意識は大事だと思う。確かに、日本では投手交代の時に、マウンドで時間稼ぎの相談事を平気でしている。
この指摘を興味深く読んでいたら、ジャーナリズムの世界に対しても同じ指摘があったので、それも紹介したい。
この度、ザ・ハフィントン・ポストの編集主幹になったキャスターの長野智子さん。朝日新聞(1月21日)より。
「日本人と米国人ではニュースへの接し方が違います。日本人は大手メディアの信頼性を重視し、誤報を許さない。一方、米国ではアカウンタビリティー(説明責任)を重視する。間違いがあれば、誰が責任をとってどう説明して謝罪するのかに重きを置く。誤報はよくないのですが、批判に終始してニュースの本質を見失わないためには、米国のメディア・リテラシーは見習う部分があると思います」
当たり前のことだが、別にアメリカの価値観、やり方がすべて正しいというつもりはない。ただ日本の価値観だけがすべてではないということを知っておいた方がいいということ。
審判とニュースという全く異なる世界。なのに日米における「価値観」の違いが一致していて興味深かかった。