言葉・言語力

2014年4月21日 (月)

「ネタ的な感動消費ではない言葉を、自ら引き受けて生きる覚悟のある人間が作品をつくり、その姿勢が読んだ人にも文字を通して伝わっていく」

エモーショナルな社会について。続きます。

前回のブログ(4月18日)では、雑誌編集者の渋谷陽一さんの、次の言葉を紹介した。雑誌『SIGHT』(2014年SPRING号)より。

「リベラルや左翼の言っていることって、全然楽しくない。エモーショナルじゃない」 P118)

エモーショナルな考え方、捉え方をするひとが社会のメインとなっているんだから、エモーショナルな表現や物語じゃないと彼らには届かない、という指摘である。

渋谷さんの指摘するリベラルや左翼の反対にいるのが、分かりやすく言えば「橋下徹」という人物なのだろう。

社会学者の中島岳志さんは、著書『世界が決壊するまえに言葉を紡ぐ』で彼について次のように語っている。

「橋下徹氏は、日教組を叩く同じ地点から電力会社を叩く。言葉は乱暴になり、罵倒が続く。それに人々の期待が集まる。みんな断言に群がる。『わかりやすさ』への渇望は、単純化への希求に変容する」

「ズバッと言ってくれる人。敵を見せてくれる人」

「シニシズムが拡大すればするほど、救世主待望論が加速する。グロテスクな言葉が人々の熱狂をあおり、世界を委縮させる。言葉が毒をもち、やせ細る」 P22)

まさに、エモーショナルな言葉や手法で、市民の期待を集めるという構図。よりエモーショナルな言葉が繰り出され、そしてエモーショナルな社会も加速する。

こうしたエモーショナルな世の中に対しての処方箋として、中嶋さんは「言葉」の大切さを説く。

「私たちは、いまこそ言葉を必要としている。言葉によって漠然たる苛立ちを客体視し、不安を凝視する必要がある。そこからはじめるしかない。人間はどこまでも言葉の動物なのだから」 P22)

我々が大切にしないといけないのは、「言葉」でしかない。エモーショナルな言葉ではなく、対象を静かに客体視する言葉。それを作家の高橋源一郎さんは「弱い言葉」という表現をしている。雑誌『SIGHT』(2014年SPRING号)より。

「文学ってすべて弱い言葉なんです。じゃあ、負けたかっていうと、長いレンジでいうと勝っているんだよね。ドストエフスキーもセルバンテスも、弱い言葉で、その時点では負けるかもしれない。他の強いと思われた言葉は時の移り変わりとともに消え去っていくんだけど、弱いと思われていた彼らの言葉が生き残る、というのが僕たちの経験則」 (P120

エモーショナルな言葉、グロテスクな言葉、その時は「強い」と思われた言葉は、やがて消えていく。消費されていく。そうじゃない「弱い言葉」が生き残るという。

文芸評論家の大澤信亮さんの次の指摘も、同じことだと思う。『世界が決壊するまえに言葉を紡ぐ』より。

「僕は『文学の力』がどういうところにあるかというと、実践的な言語使用の中にあると思っています。ネタ的な感動消費ではない言葉を、自ら引き受けて生きる覚悟のある人間が作品をつくり、その姿勢が読んだ人にも文字を通して伝わっていく。そういうものだけを僕は文学と呼びたい」 (P114)

一瞬で消えていく「感動消費」ではない言葉…。

エモーショナルの物語や言葉を発して、瞬間的にウケて、消費され、消えていくのではない、長く残る言葉を綴っていく。そういうことなんだと思う。

作家の重松清さんの次の指摘もこれに通じる。こちらも『世界が決壊するまえに言葉を紡ぐ』から。

「長く残る言葉って、やっぱり『わかりにくさ』を残していると思うんです。安易な『わかりやすさ』の誘惑にはまらない」 (P190)

次のコラムニストのえのきどいちろうさんの指摘は、実は「うどん」についてのものだけど、同じことだと思う。著書『みんなの山田うどん』より。

「一世を風靡しなかっただけに生き残れる」 (P153)

エモーショナルな社会に対して、我々は、エモーショナルな言葉で対抗するのではなく…。


弱い言葉。実践的な言葉。客観視する言葉。一見わかりにくい言葉。一世風靡しない言葉。…。

そうした長いレンジで生き残っていく言葉を見つけて綴っていかなければならないのだろう。

高橋源一郎さんは、次のようにも言う。雑誌『SIGHT』(2014年SPRING号)より。

「今は、僕の認識でいうと、文明史的転換のときだと思っているんです。これはかつてなかったことなので、政治の言葉自体が一から更新されるべきかもしれない」 (P127)

 

2014年4月18日 (金)

「エモーショナルな物語でなければ対抗できないからって、こっちもエモーショナルな言葉を謳っていいんだろうか」

前回の続き。エモーショナルな世の中について。

雑誌『SIGHT』(2014年SPRING号)では、作家の高橋源一郎さんと、思想家の内田樹さんと、編集長の渋谷陽一さんとの対談が掲載されている。

渋谷陽一さんは、東日本大震災以降の衆議院選挙、参議院選挙、そして都知事選と、いずれも脱原発などを掲げたリベラル候補が敗北したことについて、次のように語っている。

「リベラルや左翼の言っていることって、全然楽しくない。エモーショナルじゃない」 P118)

「いわゆる左翼やリベラル勢力は、ポップな言葉を忘れすぎている。だから勝てない。だからそこで新しい言葉を持たない限り、敗北主義になってしまったり、アングラなものになってしまう危険性はあると思う」 P121)

「たとえば脱原発っていう言葉ひとつ言っても、幸せそうに響かないわけだよ」 P121)

今や社会のメインとなった感情や情緒で物事を考える層に、リベラル勢力は何も訴えることができていないという指摘である。エモーショナルに訴えないと、結局は彼らには届かないという見方である。

正直、この渋谷さんの抱く、焦りというか、忸怩たる思いは十分理解できる。

これに対して、高橋源一郎さんは、次のように語る。

「今の安倍政権の、愛国というエモーショナルな物語に対抗するには、当然エモーショナルな物語じゃなきゃいけないんだけど、僕はそれは危険だなと思っているところもある」

「エモーショナルな物語でなければ対抗できないからって、こっちもエモーショナルな言葉を謳っていいんだろうか」 (P125)

では、どうしたらいいのか。

エモーショナルでしかものを考えない人たちに、エモーショナルな物語や、エモーショナルな言葉以外で、どう語っていったらいいのか。

高橋さんは、次のようにも語っている。

「今安倍さんたちがやっていることは、有権者の愛国心を強めて、強い国を作るっていうことではなくて、物事をシンプルにしようっていう話なんです。『何も考えないで、俺たちの言うことをきけ』と。『国民なんだから国を愛するのがあたりまえだろ、以上、終わり!』というのが。今進行していることなんだ」

「僕らの『物事は複雑だよ』という論理は、強い言葉にならないと思うんだよね。弱い言葉を無数に集めるしかなくて、僕らは集める側に回っているということなんです」 (P128)


世の中をシンプルに従っている勢力に対して、とりあえずは「世の中は複雑だよ」と言い続けるしかない。時間がかかっても、今は力弱くても、それ以外の方法は結局はない、そんな気もする。

ただ、渋谷さんの焦る
気持ちも分かるだけに難しいのだが…。

2014年3月 6日 (木)

「周りと同じ考えで無事でいられるというのではなく、もっと自分自身で言葉を選び考え、決して他人の言葉が自分の言葉と同じと思ってはいけない」

また「言葉」について考えてみたい。

今年2月21日のブログで、石牟礼道子さんの次の言葉を紹介した。それを改めて。(森達也さん『クラウド 増殖する悪意』から)

「昔の言葉は織物のように生地目があって、触れば指先で感じることができたのに、今の言葉は包装紙のようにガサガサとうるさくて生地目がないの」 (P24)

ここで石牟礼さんは、「言葉」を「織物」に例えている。

そして、きのうドキュメンタリー映画『ドストエフスキーと愛に生きる』を観た。ドイツ在住の84歳の女性翻訳家を追った作品。そのスヴェトラーナ・ガイヤーさんは、映画の中で、ドストエフスキーの作品の翻訳について、次のように語っていた。

「汲めども尽きぬ言葉の織物。すでに訳したことがあっても、汲み尽くせない。最高の価値ある文章である証拠。それを読みとらねば」

「洗濯すると繊維は方向性を失う。糸の方向をもう一度整えなければならない。文章(テクスト)も織物(テクスティル)も同じこと」


上記の石牟礼さんの言葉と重なるようで、非常に興味深い。

そもそも生地を表す「テクスティル」と、文章を表す「テクスト」は同じラテン語の「織る」が語源ということ。一つ一つ糸が織り重なり合って生地ができるように、文学もまた一つ一つによる言葉の織物だと、スヴェトラーナは語っている。非常に良い表現だと思った。

なぜ日本という社会では、石牟礼さんが言うような「生地目のない」言葉があふれてしまうのか。

こんな指摘を見つけた。

ジャーナリストの佐々木尚俊さんは、著書『「当事者」の時代』で、日本で「曖昧な言葉」が広まる理由について次のよう書いている。

「日本には外部に対して閉ざされた共同体が非常の多い。農村や企業、さらには大学の体育会やサークル活動だって閉鎖的になりやすい。そういう閉鎖的な共同体では、わざわざ言葉をつかなくてもなんとなくの空気感で意志が伝えられるようになる」


「そしてこの閉鎖的共同体から派生的に生まれてきたハイコンテキストは、長い歴史の中で日本社会の多くの場所に浸透している」 (P68)

「この共同体の構成員たちは、『同じ空気感、同じコンテキストを共有している』という感覚だけに従って、強い紐帯で結ばれている」 (P72)

ハイコンテキストとローテンキスト。

この言葉について、佐々木さんは、次のように説明している。

「何かを語るときに、明瞭な口に出された言葉のやりとりだけで成り立つのがローコンテキスト。これに対して、口に出している言葉の背景にあるコンテキストまで考慮に入れないと、コミュニケーションが成り立たないのがハイコンテキストだ」

限られた社会で暮らしていけば良い時代は、言葉ではなく、空気感でやっていことも可能だったのだろう。言ってみれば、生地目がないような言葉でもやりとりできる社会。

でも、これからもそうなのだろうか。いろんな価値観を持った人が集まる多様性を持った社会、またそれこそグローバルな世界、そんな中で人と付き合っていくためには、ハイコンテキストなやり方では通用しないんだと思う。明瞭な言葉でのやりとり、織目、生地目のはっきりした言葉でのやりとりが必要とされるんだと思う。

その言葉の問題については、上記の映画『ドストエフスキーと愛に生きる』についてのトークイベント(2月21日)でも話題になっている。

まずは、作家の森達也さん。

「政治家は言葉が大切な生き物なのに、軽くなっている。言葉をあまり大切にしなくなってきている。日本人は言葉を文章として残していく、アーカイヴすることがもともと苦手だったが、戦後ますます深刻になってきている。文章に対しての緊張感がなく、しゃべり言葉によって意識が形成されているから。我々はもっと言葉を考えなければならない」

またこのイベントで、映画翻訳家の太田直子さんも次のように語る。

「言葉は人を傷つけることも出来るし、人を救うことも出来る。多くの人が一斉に同じことを言う社会は気持ち悪い。周りと同じ考えで無事でいられるというのではなく、もっと自分自身で言葉を選び考え、決して他人の言葉が自分の言葉と同じと思ってはいけない。だからこそ言葉を意識的に考え生きていければならない」

「空気感」「同調圧力」に流されて、言葉をないがしろにするのではなく、各々が、ひとつひとつ織物のように編んで言葉を紡いでいく。その言葉を持って、多様な人とコミュニケーションをとっていくということが、これまで以上に求められていく時代に入ったのではないか。

2014年2月27日 (木)

「考えることで人間は強くなる」

先週放送されたピーターバラカンさんのTFMの番組『ザ・ライフスタイル・ミュージアム』(2月21日放送)を聞いていたら、ゲストとして出演していたドラマ『あまちゃん』の主題歌で知られるミュージシャンの大友良英さんが、自分の故郷の福島について、次のように語っていた。

「僕は科学者じゃないので、放射能のことをどうにかすることはできないんですけど。こういう状況の中で人はどう生きていくかという考え方を出していくのが音楽家とか文化に携われる人の役目だと思っている。それは多分意見の違う人たちが、違うままでどううまくやっていくかという枠組みかなと思う。お祭りをやるのも、その中の大切な一つだと思っている。じゃないと本当に状況は厳しいので。ただその状況に向かっているだけだと生きていけない」

これは被災地だけではなく、今の社会前提にも当てはまることだと思う。

「同調圧力」によって社会をひとつにまとめるのではなく、多様な価値観をそれぞれ大切にしながら、お祭りや音楽などの文化、エンターテイメントを介在させることによって、その様々な人たち同士がうまくやっていくということ。きっとそれが社会なのだと思う。


それから。「同調圧力」絡みの言葉も追加しておきたい。

読売新聞(2月22日)で、編集委員の芥川喜好さんのコラム『時の余白に』を読んでいたら、次の一文で締めくくられていた。

「人がどう騒ごうが、自分で受け止め、自分で考えて、つまらなければそこから立ち去ればいい。自分は加わらない、自分はそうしない、という身の処し方もあるのです」

この言葉は、「同調圧力」に対する処し方となっていて興味深い。では、芥川さんは、上の言葉を映画『ハンナ・アーレント』から導いている。

ナチス政権のもとで、ユダヤ人虐殺の中心的人物であるアインヒマンについて、映画『ハンナ・アーレント』の中で、ハンナ・アーレントは次のように語る。

「人間であることを拒否したアイヒマンは、人間の大切な質を放棄しました。それは思考する能力です。その結果、モラルまで判断不能となりました。思考ができなくなると、平凡な人間が残虐行為に走るのです」

そして、映画のクライマックスで、アーレントは学生への講義を次の言葉で締めくくる。

「考えることで人間は強くなる」

芥川喜好さんは、この映画について次のように書いている。

「世評は知らず、この映画の主題が『言葉』であることが面白かったのです」

「言葉、すなわち思考、すなわち思考する人間」

つまり、「同調圧力」に加わらないためには、やはり「考えること」と「言葉」が重要ということなのだろう。

このブログではいろんなことがつながって、結局、同じことを繰り返し書いている。そんな気になってきた。「考える」(2012年5月8日のブログなど)「言葉」(2013年11月21日のブログ など)

 

2014年2月21日 (金)

「ツイッターでは、ここ数年、やさしいより厳しい言葉の方が受ける傾向が強まっている」

きのうの朝日新聞(2月20日)に、作家の百田尚樹さんのインタビューが載っていた。

都知事選挙で田母神候補の応援演説に立ち、他の候補について「人間のクズみたいなもの」と言ったことに対して、次のように語っている。

「言葉の表現としての反省はある。言いすぎだったなと」

一応、「言いすぎ」という認識はあるらしい。

この「クズ」発言もそうだが、最近、ネットなどで「言いすぎ」な強い言葉が氾濫しているのが気になっていた。例えば、気に入らないものがあるとする。そこで「あまり好きでない」と言えば済むのに、わざわざ「クズ」とか「クソ」とか「許せない」というような汚い言葉を投げるのである。

攻撃的な言葉、汚い言葉、尖がった言葉、相手を傷つける言葉を使うことへのハードルが低くなりすぎているのではないか。

コラムニストの小田嶋隆さんは、TBSラジオ『たまむすび』(1月7日放送)で次のように言っている。

「ツイッターでは、ここ数年、やさしいより厳しい言葉の方が受ける傾向が強まっている」

結局、「厳しい、強い言葉」を使わないと届かない、受け取ってくれないという意識でもあるのだろうか。

思想家の内田樹さん著書『街場の憂国論』で、「ネットにあふれる言説」と「攻撃的な言葉」の関係について次のように書いている。

「『誰でも言いそうなこと』を言う人の言葉づかいはしだいにぞんざいになり、感情的になり、断片的になり、攻撃的になり、支離滅裂になっていき、やがて意味不明のものになります」 (P8)

「『誰でも言いそうなこと』を語る人は、『いなくなっても替えが効く人』だということです。その人自身は『多くの人が自分と同じことを言っている』という事実を根拠にして『だから私の言うことは正しいだ』と思っています。ネットに匿名で攻撃的なことを書く人のほとんどはそういう前提に立っています」 (P10)

ネットだけの世界でない。ヘイトスピーチしかり、政治家しかりである。

敢えて具体的なフレーズはここで取り上げないが、大阪の橋本市長による「クズ」のような言葉はきりがない。

ドキュメンタリー映画監督の想田和弘さんは、雑誌『世界』(2012年7月号)で、橋下氏の言葉について次のように語っている。

「橋下氏お得意のフレーズを並べてみると、人々が社会に対して抱いている不満や懸念を掬い上げるようなものであることに気づかされます。しかもそこに、人々の(理性ではなく)感情を煽り立てる何かを感じます」

一水会の鈴木邦男さん著書『愛国者の憂鬱』から。

ヘイトスピーチのデモを受けて政治家が『日本人の中にこんなに激しい声があるのか』と思って、政治家も差別的な発言をついつい言っちゃったりする。『俺たちも過激なことを言わないと選挙に通らない』みないな感じで。日本は外国にする配慮って全然ないです」 (P192)

「僕はずっともう何十年も右翼活動をしているからわかるけども、同じ考えの人たちだけが集まっていると、どうしても言葉がより“強い”方が勝つんですよ」 (P208)

結局は、新しい「価値観」みつけ、それを共有することができないため、不安や不満の共有でしか繋がれないということなのではないか。

エコノミストの藻谷浩介さん著書『里山資本主義』から。

「はじき出されないためには、不安・不満・不信を強調しあうことで自分も仲間だとアピールするしかない。つまり擬似共同体が、不安・不満・不信を癒す場ではなく、煽りあって高めあう場として機能してしまう」

 

「安倍首相も、不安・不満・不信を解消する力量のある人物というよりは、自分と同じ目線で不安・不満・不信を共有し、自分の側に立って行動してくれる人物として人気になる」 (P253)

きのう読んでいた角田光代さん小説『私のなかの彼女』にも、こんな一文があった。悪口でしか居酒屋で盛り上がれない同僚に対しての主人公の言葉。

「今は、こんなネガティブなことでしか共有し合えないのだ」 (P39)

このブログでは、年末から何回か「言葉」について書いてきた。(2013年11月21日のブログなど

曖昧な輪郭な言葉に、汚い攻撃的な言葉…。とにかく言葉が荒れている。

最近知った『苦海浄土』で知られる石牟礼道子さんの言葉を紹介したい。(森達也『クラウド 増殖する悪意』から)

「昔の言葉は織物のように生地目があって、触れば指先で感じることができたのに、今の言葉は包装紙のようにガサガサとうるさくて生地目がないの」 P24)

2014年1月23日 (木)

「今やこの国全体の、私たち日本人の平和ボケ、飽食ボケに次いで、言葉ボケに陥りかけているという不安を持っている」

一応、「言葉」についての続きです。

毎日新聞の岩見隆夫さんが、今月18日に亡くなった。

個人的に仕事でとてもお世話になった人であり、心の底から尊敬する人だった。何軒も飲み歩いたり、自宅に呼ばれ飲み続けたりした。とにかく酒が強く、飲んでいるときの笑顔がとにかくチャーミングだった。

各紙に載っていた岩見さんに関する記事を読む。毎日新聞(1月19日)の「評伝」の欄に、次の一文があった。

「作家の丸谷才一さん(故人)は、岩見さんの仕事についてこう語っていた。『政治と言葉という明確な主題があり、常によい文章を書く』」

岩見さんは、確かにいろんな場所で、政治の世界における「言葉」の大切さについて語っていた。それが欠落することへの危惧も述べていた。

雑誌『中央公論』(2月号)に、岩見さんの『日本の「せっかち」を叱る』という文章が載っている。そこでも、「言葉」について書いている。

「うまく整理して器用にしゃべるために用意する『答弁言葉』と人格をこめる『言葉』は大きく異なるのだが、どうも安倍さんはそのあたりの違いに疎いようだ。まあ、言葉に鋭敏でない首相というのは過去にもたくさんいて、それ自体はそんなに残念なことでもないのだが」 (P130)

 

言葉に疎い総理大臣…。
だから、曖昧な言葉が次々に生まれてくるのだろう。


そして岩見さんは、シアターネットTVというところで『週刊 岩見隆夫』という番組もやっていて、その2011年3月4日の放送では、まさに「言葉」について話している。

「私は今や『言葉の力』という問題は日本全体の重要なテーマになっていると思う。先に述べた菅総理の言葉にもそういう危うさがある。今やこの国全体の、私たち日本人の平和ボケ、飽食ボケに次いで、言葉ボケに陥りかけているという不安を非常に持っている」 (7分30秒ごろ)

言葉ボケ。岩見さんの口からきくと、本当に重い。そしてこの問題提起を忘れてはいけないのだと思う。

上記の『中央公論』の中から、もうひとつ。

「二十一世紀のキーワードは『せっかち』である。せっかちはよろしくない。反せっかちのススメである。こんな難しい時代である。急ぐことはないぞ、と僕は政界、官界、マスコミに言いたいのである」 (P135)

 

そう。

「ちゃんとした言葉」を手に入れるためには、それなりの「時間」が必要なんだと思う。じっくり自分の内面を見つめ、言葉選びに時間をかける。そうすることで、「ちゃんとした言葉」が生まれてくるのだろう。

 

効率を求め、とにかく急ぐことと、言葉を大切にすること。この2つは両立しない。トレードオフの関係に違いない。

 

岩見隆夫さんの「反せっかち」のススメ。これも忘れずにいたい。

2014年1月22日 (水)

「尊厳が最も重大な価値。尊厳っていうのは何なんですか、と尋ねられた時に、子供たちが誰も答えられない。この教育的悲惨さを何とかしないとならない」

前回のブログを書いた後に、少し追加で考えたことがあるので、もう少しだけ。

「感情」について、そのあと思い出したのが、「イワシ化」という言葉(2013年4月16日のブログ )。今思うと、まさに人々が感情で行動している様子を表している表現である。

なのでもう一度、その岡田斗司夫さんの言葉を載せておきたい。著書『評価と贈与の経済学』から。

「ぼく、『イワシ化』って呼んでるんですけども、社会がイワシ化しているんです」

「イワシって小さい魚だから、普段は巨大な群れになって泳いでいる。どこにも中心がないんだけども、うまくまとまっている。自由に泳いでいる。これは見事に、いまの日本人なのではないかと」 (P14)

その
前回のブログは、「感情統治」に絡め取られないためには、感情で行動するのではなく、自分の中に起きる「違和感」を見つめ、それを相手に伝えるためにちゃんと「言葉」にしていくことが大事と書いた。

では「違和感」とは。

イワシ化することなく、そんな流れに「違和感」を感じるためには、何が必要か。

おそらく「違和感」を持つためには、ベースに自分なりの「価値観」を持っていることが大切なんだと思う。「美意識」と言ってもいいのかもしれない。自分なりの「価値観」「美意識」があるから、それと外れた流れや行動には「違和感」を感じるのだろうから。

 

しかし、この「価値観」というものが、社会ではあまり重要視されていない。また教育の世界で、「価値観」の大切さを教えることもない。社会学者の宮台真司さんのそんな指摘があったので、それを追加として紹介しておきたい。ビデオニュース・ドットコム『Nコメ』(12月14日)から。

「日本の政治評価の物差しが、便利・快適、安心・安全だけで、尊厳と幸福じゃない。つまり価値の部分が出てこない。政治的な要求として「価値」が出てこない。政治に「価値」を要求しないという問題」 (1時間17分ごろ)

「尊厳が最も重大な価値。尊厳っていうのは何なんですか、と尋ねられた時に、子供たちが誰も答えられない。この教育的悲惨さを何とかしないとならない」 (1時間21分ごろ)

 

この2つの言葉だけでは足りないかもしれないが、「価値観」とは「尊厳」と「幸福」について自分なりに考え続けること。「生きるとは何か?」「幸福とは何か?」「自分とは何か?」ということについて考えることなんだと思う。

そんなことを裏付ける言葉がまた見つかったら、紹介していきたい。

「やっぱり言葉以外のことを伝えるために言葉で書いているのでしょう」

きのうラジオを何気なく聴いていたら、エコノミストの吉崎達彦さんが次の言葉だけが耳に入ってきた。文化放送『くにまるジャパン』(1月21日放送)より。

「最近のビジネスのキーワード。ものづくりから感動を売る仕事へ」

職人や高い技術でちゃんと作られたものより、感動さるものが売れる時代になっている、ということ。当然というか、ビジネスの世界でも「感情を刺激すること」が優先されている。

既存の価値観を疑い、新しい価値観を見出す、という「批評」より、「感情さえ刺激すればよい」「共感が呼べればよい」という風潮に対して、ボクたちはどう対処していけばいいのか。今回は、そんなことを考えてみたい。

精神科医の名越康文さんが、MBSラジオ『辺境ラジオ』(12月29日放送)で、次のように話していた。

「ちゃんと自分の頭で理解したいと思うんだけど、今のところ『理解したい』というのが、『感情的に理解することが正しい』となってしまっている。自分でも感情的に判断しているのか、ちゃんと落ち着いて判断しているのかの区別がつかない人が一番多い」

名越さんは、「感情的に理解すること」と「ちゃんと判断すること」は別のことだとしている。そして今や、ものごとを判断する価値基準について、「感情」以外の指針がなくなってしまったとする。

「自分がもっと違う指針を持ちたいと思うようになっている。ところが何の指針で判断するのかが、日本人にはない」


「ところが日本には大きいのはやはり宗教がないというのがあるので、何を判断基準にするかというと結局、感情しかない。それに代わる指標を持つことは絶対にこのままではできない。そこを真剣に考えなければならない。では、何の軸で選ぶのかということ」


人々が感情的に動くと、世の中は荒れてくる。社会学者の宮台真司さんは、ビデオニュース・ドットコム『マル激トーク・オン・ディマンド』(1月4日)で、次のように語る。

「入れ替え可能問題。感情の働きもそう。誰でも反応するように反応することは浅ましい。入れ替え可能であり、別の可能性はないかについて考えるできない思考停止状態。そういう状態を脱することができるか」 (パート2 20分ごろ)

思想家の内田樹さん著書『街場の憂国論』で書く次の文章も、宮台さんの指摘と同じことだと思う。

「『誰でも言いそうなこと』を言う人の言葉づかいはしだいにぞんざいになり、感情的になり、断片的になり、攻撃的になり、支離滅裂になっていき、やがて意味不明のものになります」 (P8)

「『誰でも言いそうなこと』を語る人は、『いなくなっても替えが効く人』だということです。その人自身は『多くの人が自分と同じことを言っている』という事実を根拠にして『だから私の言うことは正しいだ』と思っています。ネットに匿名で攻撃的なことを書く人のほとんどはそういう前提に立っています」 (P10)

感情が優先される世の中は、「入れ替え可能な言葉」があふれ、荒れていくということだろう。そして、「民主主義は感情統治」というような政治家が現れ(きのうのブログ)、マインドコントロールに絡めとられていく。

我々は、どうすればいいのか。次の内田樹さんの言葉の中にヒントがあるような気がする。上記の名越康文さんの言葉を受けて語ったもの。MBSラジオ『辺境ラジオ』(12月29日放送)より。

「カミュが言っている『反抗』とは何か。これは『反抗』ではない。元の言葉は、どっちかというと『嫌な感じ』『ちょっとムッとする』『ちょっと気持ち悪い』ということ。『理屈はあっているけど、言いすぎじゃない』『筋は通っているけど、言いすぎでしょ』。ある限度や節度を越えたときに『嫌な感じ』が自分はする。その『嫌な感じ』をベースにして哲学体系、倫理を構築しようとした。普通は、価値あるもの、信義であったり、善であったりするものを確固たる基盤にして、哲学や倫理の基盤を構築するわけだけど。自分の中で発生する『それ我慢できない』『むかつき』とか、身体的に生物としておかしいのではないかという感覚が彼にはある」

「むかつき」「我慢できない」、言い換えれば、「違和感」ということなのではないか。自分が時間をかけて身につけた価値観やリテラシーに照らして、内部から湧き上がる「違和感」。これを自分の判断基準にするということなのである。

実際に、カミュがいた時代のフランスのレジスタンスは、それをもとに連帯し、ファシズムと戦ったという。

「ナチスに対するフランスのレジスタンス。俺は『これが我慢できない』という我慢できない感を彼らが共有していた。頭にくる、怒り、とは違う」

「最終的に人間が大きな決断する時には、プラスのイメージに向かって『ああいう理想社会を作りましょう』『みんな、このイメージで、綱領で統一しましょう』『いいですか、反対の人でていけ』というのではなく、『オレ、どうしてもこのシステム我慢できないんだけど』『オレも!』というもの」

ふむふむ。

ただ、思うに「違和感」というのも、「感情」の一つであることは確かである。きっと大事なのは、自分の内部に芽生えた「違和感」に向き合うこと。そしてその、まだ言葉にならない「違和感」を、ちゃんと「輪郭のある言葉」にして相手に伝えていく。ということなのではいか。

作家の小川洋子さん毎日新聞(1月13日)に、そのままのことを書いていた。自分の小説に対しての姿勢だけど、これは小説以外のことにも当てはまると思う。

「小説も言葉でしか表現できないけども書いていない所で、何を伝えるか。辞書にないような意味合いまでを伝えたい、あるいは想像させたいと思う。そのための言葉選びをする。ということは、やっぱり言葉以外のことを伝えるために言葉で書いているのでしょう」

繰り返す。やはり「言葉」なのだと思う。


2014年1月21日 (火)

「民主主義は感情統治」

続いて、「感情」についてもう少し考えてみたい。

 

きのう(1月20日のブログ)では、エンターテイメントやクリエイティブの世界が、「感情さえ刺激すればよい」「共感が呼べればよい」という風潮を強めている、そんな言葉を紹介した。

その結果のクリエイティブ作品の劣化。そして、その「感情」自体もどんどんダメになっているという指摘がある。

社会学者の宮台真司さんTBSラジオ『デイキャッチ』(1月10日放送)で、「感情の劣化」の問題について語っている。

「感情の劣化問題。昔、日本人の多くが持っていた心の働きが劣化してしまったので、その一方で政治の劣化をもたらし、性愛の劣化をもたらし、一方で犯罪の劣化をもたらしています。犯罪がどんどんずさん化している。それは社会の劣化も示している」

感情の劣化は、クリエイティブ作品の劣化だけにとどまらない。政治への劣化へと続いていく。

「インターネット化は民主制と両立しない。従来政治参加しなかった層がインターネット化を背景に参加できるようになった。感情の劣化がただちにインターネット上にある種の炎上現象を醸し出す。それで政治が、あるいは政治家が動かされてしまう」

 

「人々は鬱屈する。鬱屈した人々は、感情的に劣化しているので、感情の釣りで炎上させれば、社会を手当てしなくとも、政治は回る。ポピュリズムは回る。そして感情の劣化現象に適応した政治的メッセージを発しないと当選できなくなる」

完全に「劣化」のスパイラル現象である。

 

実際、政治の世界では、具体的にどんな動きが起きているか。以前書いたこのブログ(2012年7月10日のブログ) を思い出す。

そこで紹介したドキュメンタリー監督の想田和弘さんの言葉を、ここでも改めて。雑誌『世界』(2012年7月号)より

「橋下氏は、人々の『感情を統治』するためにこそ、言葉を発しているのではないか、そして、橋下氏を支持する人々は、彼の言葉を自ら進んで輪唱することによって、『感情を統治』されているのではないか」

実際に大阪市長の橋下徹氏は、かつて自身のツイッター(2012年5月10日)に、次の言葉を書いていた。

「民主主義は感情統治」

言い換えると、マインドコントロール。こわい、こわい。

2014年1月20日 (月)

「なんか『前衛』を再構築しなければいけないという気がしている。今、文化といっても、まさに前衛みたいな感覚がない」

前回のブログ(1月17日)では、今は「『共感』が優先される時代」について考えてみた。

 

「共感」。

今の社会では、まずは「感情に訴えること」が優先されているのではないか。曖昧でフワッとした「ポエムの言葉」がありがたがれる様子(1月16日のブログ)などからも、「感情」というものが必要以上にチヤホヤされ、「共感」や「感情」によって今の社会が形作られているのではとも思う。

今回は改めて、クリエイティブの世界と「共感」「感情」の関係について考えてみたい。

まずは、批評家の東浩紀さんの指摘。ビデオニュースドットコム『マル激トーク・オン・ディマンド』(1月4日)で次のように話している。

「例えば、小説であれば今の時代のリアルをうまい具合にくみ取ったみたいな、みんなが共感できるみたいな小説になる。エンターテイメントと純文学とか違いが全然なくなっている」

「昔は人を傷つけようが何だろうが『こういうことをやるのが文学だ』『こういうことをやるのが芸術だ』というものがあった。そういう軸を取り戻さないとダメだと。それが政治的前衛ともつながっていく」 (パート2 29分ごろ)

「日本って。知識人の責任というのがない。テレビ知識人というのは、大衆がなんとく無意識に思っていることを言葉にして、共感をできるというだけ。彼らは何も導かない」 (パート2 33分ごろ)

続いて、
デザイナーでライターの、高橋ヨシキさん朝日新聞(9月25日)から。(2013年9月25日のブログ でも紹介)

「どこからもクレームがつかないことが最優先された、大人の鑑賞に堪えない『お子様ランチ』のような作品だらけになってしまいました。表現の質が下がれば観客のリテラシーが下がり、それがさらなる質の低下を招く。お子様ランチを求める観客と、お子様ランチさえ出しておけば大丈夫とあぐらをかく作り手。そのレベルの低い共犯関係が社会にも染みだしてきた結果が、いまの『国民的』ムラ社会なのでしょう」

そんなヌルい状況を揺さぶるような表現を『過激だ』といって排除したがる風潮はコインの裏表で、それを支えているのは、本や映画を、『泣いた』『笑った』ではなく、『泣けた』『笑えた』と評するタイプの人たちです」 

一方、上記の東浩紀さんの対談相手、社会学者・宮台真司さんは、次のように語る。ビデオニュースドットコム『マル激トーク・オン・ディマンド』(1月4日)より。

「お涙ちょうだい映画を見に来るやつらにとっては、お涙ちょうだいであれば何でもいい。どのネタでもいい。そのような感情の働き方は、人を阿呆にするからよくない。喜怒哀楽を刺激するものだったら何でもいいの?という問題なんです。感情を刺激するウエルメイドの映画が増えている」 (パート20分ごろ)

ライターの速水由紀子さんは、映画監督の園子温さんについて書いたノンフィクション『悪魔のDNA』で、今の映画の観客について次のように書いている。

「観客は自分がどんな面白がり方をすればいいかはっきりしないと劇場に行かない。すっきりする。泣ける。エロい。笑える」 (P108)

「1800円払うのだから気分が爽快になる映画が見たい、という気持ちもわかる。そういう映画がヒットするのは自然の摂理だ」 (P110)

 

分かりやすく感情に訴えてくる映画ばかりがヒットする。この裏には、せっかく「1800円払っているのだから」という映画料金の高さも影響しているという。(2012年12月22日のブログ に関連)

こうやって色んな要素が相まって、「共感」を優先した作品ばかりが世の中にあふれるようになっている。ほかの価値観は見向きもされなくなる。批判精神にあふれ、新しい価値観、世界観を開拓し、広げようという作品は駆逐されてしまう。

上記した東浩紀さんは、こうも述べている。(ビデオニュース・ドットコムより)

「なんか『前衛』を再構築しなければいけないという気がしている。今、文化といっても、まさに前衛みたいな感覚がない」

ここで指摘する「前衛」とは、今の社会、作品に満足せずに、新しい価値観を試すこと。すなわち、そんな「前衛」の作品には、今の社会への批評精神が何よりも大事となる。

先日、映画館でキューブリック監督の『2001年宇宙の旅』を改めて観た。その「前衛」ぶりには心底驚かされた。45年前の作品とは思えない新しさがあり、この映画が他の映画にどれだけの影響を与え、その世界を豊かにしてきたのだろうと思う。


以前、このブログで「辺境」がなくなっていることについて書いたが、この「前衛」がないことも同根の問題だと思う。(2013年5月20日のブログ など)

上記したデザイナ-の高橋ヨシキさんは、同じ記事の中(朝日新聞9月21日)の中で、こんな言葉も口にしている。

「言葉じゃなくて空気で人を動かす」

このセリフは、エンターテイメント、クリエイティブの世界だけの話ではない。我々は、かつて「空気」によって過ちを犯してきたことを思う出した方がよい。(2013年9月13日のブログ

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