忖度・自粛

2014年9月 1日 (月)

「自由を担いきれないので、自分から手放してしまう人たちがいると。手放した人たちにとっては、自由を求めて抵抗している人がうっとうしい。なので、その人たちを攻撃してしまう」

最近の社会の「キナ臭さ」について。前回のブログ(8月30日)の続き。

さいたま市の俳句掲載拒否問題について、俳人の金子兜太さんは、埼玉新聞(8月17日) のインタビューで次のように語っている。

「どうしてこの句が問題なのか、ぜひ教えてほしい。結果として政治的な意味をお役人が持たせたのは、ご自身がご時世に過剰反応しただけ。作者としては当たり前の感銘を詠んだ句で、お役人に拡大解釈され、嫌な思いをしてお気の毒」

「こんな拡大解釈のようなことが、お役人だけでなく社会で行われるようになったら、『この句は政府に反対する句だから駄目』などと、一つ一つの句がつぶされる事態になりかねない。有名な俳人だけでなく、一般の人たちも萎縮して俳句を作らなくなる。俳句を作る人の日常を脅かすもので、スケールは小さいが根深い問題だ」


過剰反応、拡大解釈、忖度…、そして委縮。その結果、「俳句」が作られなくなる。

「国分寺まつり」で護憲団体「国分寺9条の会」が今年の参加を拒否されたことに対して、ドキュメンタリー映画監督の想田和弘さんは、ツイッター(8月30日)で次のようにつぶやいていた。

「刻々と、もの言えぬ社会になりつつある」

俳句だけの話でない。もの言えぬ社会がどんどん広がっていく。

どうやって広がっていくのか。それを考えさせてくれる言葉を並べてみる。

いとうせいこうさんは、東京新聞(8月15日)で次のように指摘する。

「自由を担いきれないので、自分から手放してしまう人たちがいると。手放した人たちにとっては、自由を求めて抵抗している人がうっとうしい。なので、その人たちを攻撃してしまう。そうすると、権力がやらなくても、自動的に自由を求める人たちの声がだんだん小さくなってしまう」

「下からの自粛と同時に、大きな権力に便乗するような欲望が動いて、結局はみんなで権力をつくっていく。特に自分たちが得もしないあろう人たちがそれをやって、他人の自由や良心を手放させていくことに快感を覚える時代になっちゃっている」


そうやって、息苦しい、キナ臭い空気が広がっていく。

コラムニストの小田嶋隆さんTBSラジオ『たまむすび』(8月18日放送)で次のように語っている。

「実は言論弾圧と呼ばれていることは、何かを行った人間が警察に引っ張られていくとか、業界から干されるとかいう大げさなことではない。ちょっとある特定の話題に触れると、あとあとなんとなく面倒くさい、ちょっとうっとうしいとか、そういうビミョーなところで起きている。我々が面倒くさがって、スルーしていると、結果として言論弾圧が成功していることになる」

もの言えぬ社会は、足元から…、ということである。

社会学者の森真一さん著書『どうしてこの国は「無言社会」となったのか』より。

「ほんとうはしたくないとみんなが思っているのに、『空気』を壊したりできないから、したくないと声に出せない。そしてしたくない気持ちを隠しながら、したくないことをする。こういったことは、何も若者に限ったことではない。世代に関係なく、『無言社会』日本のあちこちで起きている」 (P38)

まさに、日常社会の些細なことで、みんな言いたいことが言えなくなっている。個々の人たちの言葉が失われていく。

さらに森真一さんの指摘。

「集団が嫌いだから、集団的に行動しないのであれば、話は簡単だ。しかし、日本人の場合、集団は嫌いだが、集団から離れて行動し生活するのは困難だと考えているので、いやいやながらも集団に同調し、集団としてまとまろうとする」

「すると、集団に同調しない者に対しては厳しくなる。自分は嫌でも集団に合わせている。それなのに、どうしてあいつは合わせないんだ。ひとりだけ楽しようたって、そうはさせないぞ、と考えるわけである。『出る杭は打たれる』わけである」 (P109)

まさに同調圧力の構造。強制と忖度を無理強いする社会が完成する。(「同調圧力」

何度も紹介するが、歴史学者の加藤陽子さんの次に言葉につながってくる。毎日新聞夕刊(2013年8月22日)より。(2月13日のブログ

「この国には、いったん転がり始めたら同調圧力が強まり、歯止めが利かなくなる傾向がある」

かつて、このパターンで大きな不幸を生んだ。それを繰り返さないためにも、2つ言葉を載せておきたい。

まずは、社会学者の
宮台真司さん毎日新聞夕刊(5月2日)より。

「『
空気』つまりピア・プレッシャー(同輩集団からの圧力)自体はどの国にも見られます。むしろ大切なのはどれだけ空気に縛られずにあらがえるのか、また空気に流されて起こった悲劇を後世に伝承できるかです。その工夫がこの国には乏しい」


政治学者の宇野重規さん読売新聞(7月27日)より。

「私たちは自分自身の歴史から切り離されている。戦後とは巨大な忘却の課程であり、いまこそ、私たちは自らの過去をふりかえらなければならない」




2013年3月26日 (火)

「たぶん、いちばんいけないのは、『こうすればみんな文句言わないだろうな』っていう選択だと思うんだよな」

3月21日のブログで、日本サッカー協会副会長の田嶋幸三さんが、U-17代表監督時代に、若い選手たちに感じた次のエピソードを紹介した。(『「言語技術」が日本のサッカーを変える』から)

「15~16歳の選手の場合、ゲームを止めると、次にどうするかと思いますか?
 
黙って私の目を見ることが実に多いのです。その表情は、私の言おうとしている答えを探し出そうとしているようにしか見えません。自分自身で答えを探すことよりも、私の解答を求める様子がありありと見えるのです」 (P11) 

練習中、ゲームを止めると監督顔色をうかがう選手たち。これは、僕が関わっている少年野球のチームでも、よく感じる場面である。何かあると、すぐにベンチの監督やコーチの顔色をうかがう。その背景には、なにかと「ああしろ、こうしろ」とか、「何でちゃんとできないんだ」と怒ったように指示ばかりする大人側の問題もあるのだろう。「自分自身で答えを探すことよりも、私の解答を求める様子」のことを、「忖度」というのだと思う。 

「忖度する」。正直あまり好きではない言葉である。 

今日は、この「忖度」という行為にまつわる言葉を並べてみたい。 

まずは、活動家の湯浅誠さんが著書『貧困についてとことん考えてみた』で、その「忖度文化」について書いている。 

「いったん一方向に流れ出すと、誰から言われなくても、みんながそこに配慮して働く雰囲気がありますね。忖度文化ともいあわれますが。『一つの流れができた』と多くの人が感じると、個々人がそれを所与のものとして動き出して、結果的にそれが強化されるという、妙な増幅過程です」 (P166) 

元外交官の佐藤優さんは、文化放送『くにまるジャパン』(2012年12月7日)で、「なぜ選挙で、政治家の語る言葉が響いてこないのか?」というスタジオでの問いに対する答えとして、次のように語っている。 

「全体の代表であろうとするから。八方美人シンドローム。全体の代表は無代表なんですよ。政党というのは『パーティ』、部分なんですよ」 

全員の考えを「忖度」しようとするから、何も届いてこないということ。今の政治に関しては、世論調査や選挙を意識しすぎるという意味で、選挙に通るための有権者の意識を「忖度しすぎる」政治家ばかりになっていると言えるのかも。

元財務官僚の高橋洋一さんは、 霞が関官僚の「忖度体質」について、『アメリカに潰された政治家たち』で次のように語っている。

「政治家の対米追従路線の中で、霞が関ではアメリカのいうことを聞く官僚グループが出世していく。

彼らは自分たちの立場、利権を守るために、アメリカは何もいっていないのに『アメリカの意向』を持ち出す。とくに財政や金融に限っていうと、そうしたケースが非常に多い。

霞が関では財務省のポチができるとそれが増殖する。メディアもポチになって、ポチ体制が確立すれば、その中から出世する確率は高くなる。そうなるとさらにポチ数段が膨らんでいくという構図です」 (P187)

ポチ体質…。霞が関の体質こそ、忖度文化の極みとも言えるのかも。

教育における問題でも、同じような指摘を思想家の内田樹さんがしている。ブログ『内田樹の研究室』(2013年1月29日)から。 

「今の教育は、あまりに多くの人の要求を受け容れたせいで、『誰の要求も満たしていないもの』になったのである」 

これらの批判は、海外では、日本の家電製品が「多機能過ぎて使いにくい」という評価を受けているのと同じなのだと思う。 

さらに内田樹さんは、『内田樹の研究室』(2012年5月9日)で、こんなことも書いていた。 

「『忖度する人』にはわかりやすい外形的な特徴がある。それは『首尾一貫性がない』ということである」

強いものや、はやっているものをみて、その意向をくみ取って物事
を決めていく。結局、何がしたいかわからない政治家、何がしたいかわからない家電製品が量産されていく・・・。 

茂木健一郎さんも、JFMで配信している『ラジオ版 学問ノススメ』(2012年8月12日)で、教育界についてこんな批判を。 

「こういう風に評価されると思うと、それをやっちゃう。学校で試験を受けて点数をとると、ほめられるという文脈のなかでやっているだけ。挑戦する脳とは文脈を越える力」 

そして糸井重里さんは、『ほぼ日刊イトイ新聞』「さんまシステム」(2008年3月10日)という明石家さんまさんとの対談の中で、メディアの中でやってはいけないこととして、次のように書いている。 

「たぶん、いちばんいけないのは、『こうすればみんな文句言わないだろうな』っていう選択だと思うんだよな」 

忖度文化。まさに自分で考え、判断する「自律」より、外部の判断・基準に従う、というか汲みとる「他律」「外部規律」依存の体質のことを言うんだと思う。

 

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