数値・数字

2013年4月18日 (木)

「数字や論理が、人間を置き去りにしながら、勝手に一方的に、しかもきわめて重要な決定を固めていく」

前々回のブログ(4月16日)では、数値や数字でしか「世界」や「社会」を理解できす、さらにその数値・数字のためだけに「イワシ」のように動くという言葉を紹介した。

社会学者の山下祐介さん著書『東北発の震災論』を読んでいたら、数値や数字を通してしか、「社会」を捉えることができない風潮と、それによって問題の本質が忘れられていくことについても鋭く指摘されていた。 

「少子高齢化は本来、家族の問題だが、それが全体の数値に置き換えられて様々に論じられている。さらにそれが就業人口に関わって問題視されると、必要な労働者の数だけが問題なら、子どもが生まれなくても外国人を入れればよい、という話になってしまう。ここではもはや利用可能な数とだけしか人間は認識されなくなってしまっているようだ」

「人間のための統治が、いつの間にか統治のための人間に切りかわる。人の生を尊重するあまり、統治は人をモノ化し、数値化し、非人間化する。
 
この論理こそ、我々がこの震災の中で、随所に見てきたものである」 (P266)

本来、目安でしかない数値・数字だったはずが、それさえ満たせば全てが解決するという勘違いに陥ってしまうのだ。これは、3月22日のブログで紹介した森達也さんの「暫定的に設けた標識に対して、絶対的なものとして依存してしまう」とする風潮と重なる。 

この本の中で、山下さんは、次のような指摘もしている。 

「我々の手元にあるリスク論はほとんどすべてが確率論だ。この奇妙さに敏感になるべきだ。数値で置き換えられると、一見科学的で客観的で人間にとってあらがえない真実のように見える」

科学の名の下に、数字や論理が、人間を置き去りにしながら、勝手に一方的に、しかもきわめて重要な決定を固めていく。それも当人たちではなく別の誰かが、かつ善意で、だが十分に考えつくされたわけでもなく、しかもしばしばかたちだけは民主的に」 (P268~9)

その結果、震災では次のような対応が行われる。

「『復興』を進める事業のためには、人の暮らしはどうなっても構わないという力学が生まれているようだ」 (P269) 

数値・数字、そして確率を追い求めていった結果、「人間」を置き去りにする。これは、「効率」を追い求める社会風潮にも当てはまる。山下さんは、著書『限界集落の真実』では、次のように書いている。

「一見、絶対的真理のように見える効率性の論理も、どこかで危ういものを持っていることに気づく必要がある。思考実験を色々と繰り返してみるとよい。効率性/経済性を、現時点での経済性ということだけで考えていけば、高齢者は無駄だし、子供も不要となる。しかしそのような社会は長く存続できない。子供や高齢者のいない社会などないからである。とすると、この問いは、どこか根元のところで間違っているのである」 (P136)


数値・数字、さらには効率を追い求め、それに絶対的に依存してしまう。数値・数字を追い続ける「イワシ」たちには、自分たちの「姿」は見えていないということなのだろうか。

2013年4月16日 (火)

「ぼく、『イワシ化』って呼んでるんですけども、社会がイワシ化しているんです」

外部規律に依存しがちな体質と、ランキングや世論調査など数値・数字だけで判断するのとは同じなのではないか、という言葉を、3月19日のブログでは並べた。

そんな周りにあふれる数値や流行に振り回される風潮について、内田樹さんと岡田斗司夫さんの対談による本『評価と贈与の経済学』でも取り上げていた。岡田斗司夫さんの言葉が印象的だったので紹介したい。

「かつては有識者がいて、『この人なら信じられるんじゃないか』っていうのがあって、その人たちの話を聞いたうえで個人個人がそれらを見比べて、意思決定をするというのが近代自我の主体を立ち上げるということだった。いまは『流行りだから間違いない』『ランキングが上位だから良いに違いない』という発想」

「ぼく、『イワシ化』って呼んでるんですけども、社会がイワシ化しているんです」

「イワシって小さい魚だから、普段は巨大な群れになって泳いでいる。どこにも中心がないんだけども、うまくまとまっている。自由に泳いでいる。これは見事に、いまの日本人なのではないかと」 (P14)
 

うん。「イワシ化」とはうまい表現だと思う。ちなみに、この本の表紙は「イワシ」の写真である。最近、なにが実体なのか分からないのに、アベノミクスやらで、株価だけがダアーと上がっているは、まさに「イワシ化」現象以外の何ものでもないと思う。 

ほかで見かけた「数値・数字」に依存する風潮をめぐる言葉を書いておく。 

その内田樹さんは、著書『どんどん沈む日本をそれでも愛せますか?』の中で、こんな風に語っている。 

「子供が泳げるようになっているかどうかは、見ればだいたいわかるし、『どうだった今日は?』『おもしろかったよ』と言ってたらさ、分かるじゃない。最近なんか顔色がいいとか、ご飯よく食うとか、よく寝るとかさ、そういうのでわかるはずじゃない。 

 分からないんだよ、今の親は。級で言わないと。自分の子供の身体能力の向上さえも、インストラクターが『級が1級上がりました』って言わないとわかんないんだからさ」

もうひとつ。雑誌『ソトコト』(5月号)は、図書館特集。大阪の橋下徹氏が、知事時代に大阪国際児童文学館の廃止を決めたことに対して、作家の田中康夫さんが次のように語っている。

「数値に換算しできない部分を理解するかどうかは、まあ、人間としてのセンスの問題だね」

その田中康夫さんは、今日のTBSラジオ『デイキャッチ』(4月16日)の番組のなかで、こんなコメントもしていた。

「政治家って数字で割り切れないところを、やっぱり洞察力や直観力を持って、人のために尽くすということだと僕は思う。数字のために尽くすのではない」

あらゆる分野で、数値・数字だけでしかものを理解せず、その数字のためだけに動く風潮が強まっている。まさに数値を「イワシ」のように追う。このイワシたちはどこへ向かっていくのだろうか。

2013年3月19日 (火)

「政治に限らず、我々の周りには人気投票やランキングであふれかえっている」

ここ数回のブログでは、自己規律ではなく、外的な規律、外部規律に依存してしまう社会体質についての言葉をツラツラと並べてきた。

そこで、ハタと思ったのが、数字・数値だけでしか判断しないというのも、外部規律依存の象徴的なことなのではないか、ということ。企業や教育、スポーツの現場にも、「時間がない」「効率化しろ」という御旗のもと、数値・数字だけで査定する傾向はますます強まっている気がする。今回は、最近チェックした「数値」を巡る言葉を並べてみたい。


まず、メディアの世界。朝日新聞(2月27日)で、文化くらし報道部の田玉恵美さんは「テレビ視聴率」について、次のように書いている。

「テレビの見方は多様になった。それなのにテレビ局はおろか、我々メディアも数字が良いの悪いのと騒ぐ。ただの『広告指標』が、実質的には番組の質に対する評価軸としても利用されている」 

広告のためのひとつの目安のような数字が、そのまま全ての「評価軸」なってしまう。

2008年のことだけど、 NHK『クローズアップ現代』(6月4日)では「ランキング依存が止まらない~出版不況の裏側~」という放送を行った。ランキングでしか本を選べない今の読者の傾向と同時に、ランキング上位に入っていない本は、すぐに返品するという書店側の状況も報告されていた。自分の興味、目利きで本を選ぶのではなく、「ランキング」という外部データに頼る。「ランキング依存」というのも、まさに「数値・数字」依存の代表選手なのだろう。

そういう意味では、政治報道ではやっている「世論調査」も、ランキングのひとつと呼べなくないか。


ちょっと前だけど、
雑誌『サイゾー』(2009年4月22号)では、共同通信政治部の柿崎明二さん『「世論調査依存症」が生み出す衆愚政治』という記事を書いていた。政治家は、世論調査による数字によってでしか、次の総裁候補や政策を選べなくなっている。いうような内容だったと思う。
 

また同じころ、『ビデオニュース・ドットコム』(2009年7月4日)でも、『世論という名の魔物とのつきあい方』というテーマを扱っていた。国民のほうも、選挙の前の世論調査でしか、候補者を選べなくなっていることなどを話していたと思う。出演していた宮台真司氏のホームページには、こんな言葉が残っている。 

「政治に限らず、我々の周りには人気投票やランキングであふれかえっている。そうしたものに振り回されないで生きるためには、我々は何を支えに、どのような視座で『人気』というものを考えればいいのだろうか」 

さて、最近の言葉に戻る。その政治の世界について。作家のあさのあつこさんが、毎日新聞(2012年12月16日)で次のように語っている。 

「今度の選挙で異口同音に発せられる『強い国』『日本の立て直し』というフレーズ。その強さを立て直すという方向も実に分かり易い。経済力、軍事力、GNP、GNE。ほとんどが数字で表すことができる。彼らの言う『強い国』とは、そういうものなのだ。全てが借り物のにおいがする」

数字でしか「国のかたち」や「国の目指す方向」、もしかしたら「美しい国」というものさえも表現できなくなっているということなのかも・・・。

もうひとつ政治について。 江戸研究の田中優子さんと、文化人類学者の辻信一さんによる共著『降りる思想』から。

田中 「それが松下政経塾の発想なんだと思うんですよ。政治と経済がくっついていて、経済のために政治があるという考え。すべてを数字で計算し合理化していく。政治家は、じつは全員新自由主義者か、と() 

  「そういう意味では、原発のコストにしてもそうですが、コスト・パフォーマンスとか、費用対効果という言葉がすごく使われるでしょう。まるで、それさえ言えばなんでも説明できる、魔法の小槌みたいに。これが問題の根本かもしれないですね」 (P34)

しばらく追っていた体罰がらみの言葉。スポーツライターの小林信也さんが、読売新聞(2月14日)の『指導と体罰』という特集で語っていた。指導者やメディアに対する批評である。

「スピードや筋力など、目に見える数字や動きばかりに目を奪われる風潮も強い。スポーツの原点は自分との戦いだ。人間を動かす原動力は筋力ではなく、心だ

思想家の内田樹さんは、あちこちで目にする「数値目標」というものについて、著書『合気道とラグビーを貫くもの』で次のように話している。


「数値目標というのはいけないですね。百害あって一利なしだと思う。でも、それはもういまや日本全国、企業でも学校でも、どこでもそうなってしまっている。数値目標を掲げて、数値目標を達成できたかどうかで努力を評価するということをやっている。
 
数値目標なんて完全に査定する側の都合で設定されたものですからね。数値が出るものは査定できる。数値が出ないものは査定できない。それだけのことです。それは査定する側の目に数値的でない努力や外形的にはみえにくい変化を感知する能力がなくなっているということにすぎません」 (P128)
 

視聴率と同じ構造である。査定する側のひとつの目安でしかない「数値・数字」という外部データが、やがて「スタンダード」「外部規律」のように崇めたてられる。そして、その「数値・数字」だけに社会全体が振り回されてしまっているような気がする。

2012年2月15日 (水)

「損得ではなく善悪で判断せよ」

ここ数日のツイッターに印象的な「つぶやき」があったので、それを紹介してみたい。

きのう(2/14)のことだけど、偶然見かけた馬場正博さんという方のつぶやきの中に、こんな文章を見つけた。

「稲盛氏は経営は損得ではなく、善悪と言っている。きれいごとのようだが、数字だけで複雑で巨大な組織をまとめ上げることは難しいし、できても脆い。理念でまとまった組織は強い。原因か結果かわからないが、衰退企業は理念がない。理念のない数字だけの組織は泥棒みたいな社員ばかりが増える」

ここでの稲盛氏は、京セラの創業者の稲盛和夫氏のこと。現在は、確か日本航空の会長さんをやっているはず。その稲盛氏が、経営というものは「損得」で考えるのではなく、「善悪」すなわち「理念」で行わないと、結局は衰退するというようなことを言っているとのこと。

調べてみると、去年10月に中国の上海で行った地元の経営者向けの講演会で、「正しい経営判断を導くためには損得ではなく善悪で判断せよ」と、自説を説いている。

ボク自身、最近、「何でもかんでも損得ばかりだなあ」と思うことが多かったので、この稲盛氏のコメントは突き刺さった。本当に、「損得」で物事を考える風潮が跋扈していると思う。メディアという存在のボク自身の会社でも、本来「理念」や「善悪」や「社会的責任」で考えなければいけないことまで、悲しいことに「損得」、つまり「金銭的にプラスか、どうか」「もうかるか、どうか」という経営が行われてしまっている。一応、メディアなのに…。

短期的な損得で、簡単に人の配置や番組を変えてしまう経営者。金銭的な損得で、簡単に番組を降りてしまう出演者。年収などのお金の損得で、簡単に会社を渡り歩く社員たち。などなど。

みんな安心したいからなのだろうか。よくわかんないけど。確かに「損得」を基準にして、得できる選択をした場合、一時的な「安心」はできる。それが、まさに「得した」という気分なのだろう。でも他の部分で失っていることは多かったりしないだろうか。昨今の学生の会社選び、結婚相手選び、子供たちの受験競争などを見ていても、昔ながらの「損得」で行われていて、案外、大事なものが見失われていたりするんじゃないかなあなんて考えたりしてしまう。

もちろんボク自身も、ものを選択するときには「損得」については考えることがないといえばウソとなる。できるだけ「得」をする選択をすることが、賢いという意識はある。でも、そんな選択ばかりでは、結局、虚しさだけが澱のように残っていくのである。キレイごとなのかもしれないけど。

先週2/10のツイッターには、岡田嘉成さんという方の、こんなつぶやきも偶然に見つけた。

「『競争』ということをしきりに言う。競走というより切磋琢磨ということを否定はしないけど、競争することは目的ではない。これはあくまで前進のための手段。どこかの国が『自由競争』とかいうけど、国民が不幸になる競争や自由なら御免こうむりたい」

さきの馬場さんのツイートと、岡田さんのツイートにはつながるものがある気がする。いくら会社が「得」をして、競争に勝ち得ても、長い目でみて、社会がマイナスになったり、属する社員にマイナスになっているのなら、それは長続きはしない。向かうべき「理念」があるからこそ、切磋琢磨を乗り越え、前進できるのである。やはりキレイごとと言われてしまうだろうか。

医師で、神戸大学教授の岩田健太郎さんは、『有事対応コミュニケーション』という本の中で語っていた、こんな言葉を思い出した。

「効率やカネが要らないといっているのではない。それ『だけ』が勝ちの主軸で、人命と安全と平気でトレードオフにしてしまおうという根性が問題なのである」

このセリフをマネるなら、こうなる。

「損得を考えることや、競争することが要らないといっているのではない。それ『だけ』が勝ちの主軸で、理念や善悪と平気でトレードオフしてしまおうという根性が問題なのである」

2012年1月19日 (木)

「不安のままぶら下がって、それに耐える力こそが『教養』だと思うんですよ」

モノへの執着を捨てることを推奨する『断捨離』という言葉があるらしい。コンサルタントのやましたひでこさんが推奨する考え方らしく、その著作も話題ということ。字面は、なんとなく見ていて知っていたが…。そんな意味だったとは全く知らなかった。

先日、たまりにたまった過去の新聞のコピーなどに目を通していたら、去年12月16日の東京新聞夕刊に、そのやましたひでこさんのインタビューが掲載されていた。そのインタビューの中で、東日本大震災を受けて考えたことを話していて、それが少し印象に残ったので紹介してみる。

「震災直後、被災地から遠く離れた人たちが買いだめに走る様子を見て、衝撃を受けました。スーパーに大挙して押しかけ、三日分、四日分の食料や水を買い求める人たち。こうした人たちは、一週間分、一カ月分買いだめしても不安が増幅していくのだと思います。『備蓄』と『買いだめ』は違うのに、どれだけのモノが必要か、分からなくなってしまったのではないか」

震災後に東京をはじめ、日本中で起きた食材や生活必需品などの「買いだめ」「買占め」という現象についての感想である。

やましたさんが指摘する、この「不安心理」について、ボクなりにつらつらと考えていたら、この構造は、多くの人が「老後への備え」としてお金を貯め込むことと、全く同じではないか、と思えてきた。

老後の不安に対して、人々がため込んだ「タンス預金」。これが莫大なため、市場にお金が回らないという話はよく聞く。仕事からリタイアする老後というは、「きっとお金がかかる」「お金がないと病院にも行けない」「お金がないと自分の生活を楽しめない」なんて思って、今、お金を使わずに「老後のもしもの時」に備えて、せっせと「タンス預金」を貯め込む。

その結果、以前、ラジオで聞いた話によると、「親の遺産を受け取る人の平均年齢は、60代の後半」とのことだ。ちょっとショックだった。今や80歳を越えた高齢の親が亡くなり、それを受け取る子供も、その時点で60代の後半になっているというのだ。若い人たちに比べて、高齢者の方々の財布のヒモが堅いことは想像に難くない。つまり、日本社会に存在する「お金」のかなりの部分が、「タンス預金」から「タンス預金」へと移動しているにすぎない。お金は消費にまわることなく、ずっとタンスの中で「もしもの時」を待って額だけ増やしているのだろう。

もちろん老後に不安があるのは分かる。そのための備えも必要になる。でも、やました氏が言うように『備蓄』と『買いだめ』は違うのである。とはいっても適切なお金の『備蓄量』というのは、高齢者にとっても、若い世代にとっても難しいことも確か。そう考えてみながら、いろんな資料に目を通していたら、そうしたお金に関するコメントは、やはりとても多かった。いくつか拾ってみたい。

まずは、ライターの北尾トロさんが自ら編集する雑誌『季刊レポ』(2011年冬号)の 『1年経ったら火の車』という文章の中で、こんなつぶやきをしていた。

「金ってそんなに大事なんだろうか。たくさんの金を得たとして、その金でやりたいことがなかったら銀行口座の数字が増えたり老後の生活に多少の安心感がもたらされるだけでしょ。やりたいことのあるヤツが、やりたいことをやるための資金を手にしたときにその金は生きる。だけど、往々にしてやりたいことのあるヤツには金が回ってこないんだなコレが」(P76)

雑誌編集のお金のやりとりに苦戦する本人から出た「お金」に対する率直な思いなんだろう。

内田樹さんは、近著『呪いの時代』で、お金を貯め込むことについて、こんな文章を載せていました。

「もちろん、老後が心配とかそういうご事情の方もいると思いますけれど、老後の蓄えなら、1億も2億もいらないでしょう。一人の人が大量の貨幣を貯め込んでも、いいことなんかない」

「『自分のところにきたもの』というのは貨幣でもいいし、商品でもいいし、情報や知識や技術でもいい。とにかく自分ところで止めないで、次に回す。自分で食べたり飲んだりして使う限り、保有できる貨幣には限界がある。先ほども言いましたけれど、ある限界を超えたら、お金をいくらもっていてもそれではもう『金で金を買う』以外のことはできなくなる。そこで『金を買う』以外に使い道のないようなお金は『なくてもいい』お金だと僕は思います」
(P172)

なぜ人はお金を貯め込むのか。老後の不安以外にも、いろんな理由があるということ。雑誌『新潮45』1月号には、経済学者の小野善康さんの『「お金への執着」が経済を狂わせる』という文章が掲載されていた。

「お金の数字情報は、もっとも効率よく人びとを幸せにする。数字の桁が上がってくるだけで、巨大な可能性を手にすることができるからである」(P54)

「交換性を保持しながら、我慢して使わないことによってのみ妄想に浸れる。そのため、働いて稼いだお金が物を買うためでなく、貯めることに向けられ、モノへの需要にならない」(P55)

最初に紹介したやましたひでこさんは、震災後におきた『買いだめ』について、同じインタビューの中で次のようにも言っている。

「買いだめをした人たちの中には、『増えたら幸せ、あればあるだけ幸せ』というのは幻想だ、ということに気付いた人もいると思います」

そして内田氏も、お金の「囲い込み」について震災後、同じようなことが判明したと、雑誌『新潮45』12月号の『「宴会のできる武家屋敷」に住みたい』に書いている。           

「いままでの社会システムは基本的に市場原理で動いていました。必要なものはすべて商品の形で提供された。ですから、市民の仕事は『欲しい商品を買えるだけの金を稼ぐこと』に単純化した」


「でも、東日本大震災と福島の原発事故でわかったことは、『金さえ出せば欲しいものが買える』というのは極めて特殊な非常に豊かで安全な社会においてだけ可能なルールだったということです」

 
最後に元外務省官僚の佐藤優さんが著書『野蛮人の図書室』に書いていたフレーズを載せておく。


「もちろん資本主義社会において、失業し、賃金がまったく入ってこないならば生きていくことができない。しかし、自分の必要以上にカネを稼ぐことにどれほどの意味があるのか、よく考えてみる必要がある。少し余裕のある人が困っている人を助けるという行動をとるだけで、日本社会はだいぶ変化するはずだ。それができないのは思想に問題があるからだ」(127P)

 

基本的には、佐藤氏も内田氏と全く同じことを言っている。とはいっても、先の見えない不安にどう耐えるのか。佐藤氏は次のように書く。

 

「『どうしたらいいか?』って問いには、答えを出さずに不安な状況に耐えることが大事だと思う。
回答を急がない。不安のままぶら下がって、それに耐える力こそが『教養』だと思うんですよ」

うん。良いこと言う。「不安に耐える力こそ『教養』」。これはメモしておいた方が良いと思う。

とても文章が長くなっていましたが、我々は震災後の買いだめ状態と同じことが、お金についても起きている。お金と買いだめ、これについて改めて考えてみたりする必要があるのではないか。そんなことを考えたわけです。

 

 

2011年9月29日 (木)

「破壊ははるかに簡単です。創造する手間の百分の一で状況を一変させることができる」

雑誌『サンデー毎日』(10月9日号)が『大阪府知事 橋下独裁ハシズム』と題した特集記事を書いている。

大阪で府知事と市長のダブル選挙を仕掛けて、自らの「大阪都構想」に突き進んでいる橋下府知事。5月には「君が代起立斉唱条例」を可決し、さらに今月、大阪府議会に「教育基本条例」を提出。また「大阪都構想」への賛否によって市の幹部の人事査定も考える。などなど。こうした手法、この雑誌では「ハシズム(橋下主義)」を呼んでいるが、それについて、佐藤優さん、内田樹さん。西川のりおさんのコメントを紹介している。

冒頭のフレーズは、内田樹さんの中から抜粋したもの。橋下知事の独裁が支持を受ける理由について、内田氏は、「全能感や爽快感を求める人は必ず『ぶっ壊せ』というようになる」とも述べる。

また内田氏は、この『ぶっ壊せ』という手法について、8月30日のブログでは、「日本近代史を徴する限り、「みんな壊せ」というようなことを口走った政治運動はすべて「大失敗」に帰着した」と書いている。これに続き、「日本の社会制度の中にはまるで機能不全のものもあるし、そこそこ機能しているものもあるし、ずいぶん順調に機能しているものもある。その『仕分け』が重要である。だが、その基準をほとんどの人は『採算』で量ろうとする。『採算がとれるもの』はよいもので、『採算がとれないもの』は廃絶すべきだというふうに考える」とも書いている。このフレーズも、橋下氏への批判、さらには今の企業で行われている「経営改革」と称するものへの批判となる。

早急に結果を求めるリーダーは、上記の『採算がとれるもの』『採算がとれないもの』を簡単に見分けるシステムを導入しようとする。今回の『サンデー毎日』で、内田氏は以下のように書く。「橋本氏は、教育現場を上位下達的なシステムに変えて、教育を規格化し、点数や進学率などの数値的な成果に基づいて格付けすることを目指している」。こうやってシステムがどんどん増えていくのである。

様々な組織や企業が、この「採算がとれるものがよいもの」「採算がとれないものは悪いもの」という基準を効率よく分別できるシステムを導入し始めていることは間違いない。また、それは個人の判断基準もむしばんでいる。「儲かる作品はよいもの」「儲からない作品はわるいもの」、「儲かる番組はよいもの」「儲からない番組はわるいもの」などのように。さらには「食べ物の味」や「人の価値」、内田氏の指摘する「教育」ももちろんそうだが、そういった本来、数値に置き換えられないものまで、「採算」という基準で分けられているのではないか。

もう一点。佐藤優氏のコメント「彼はバラバラになった一人一人の無力感を無意識で結集している。『橋下なるもの』といかに戦っていくかのが問われています」も印象深い。ボクの会社にも、類似の『橋下なるもの』は存在する。つまり我々は、アチコチで跋扈する「○○なるもの」との戦い方について、いろいろ考え、身に着けていかなければいけないのであろう。

今回の記事を読んでもっとも驚いたことは、ボクと橋下徹氏は、同じ年の同じ日に生まれているということ。全く知らなかった。

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