安倍政権

2014年5月29日 (木)

「損得勘定で考える人であふれた社会、ポリスは滅びる」

先週に続いて安倍政権について。

前々回のブログ(5月20日)から、今、安倍総理とその取り巻きによる「静かなクーデター(仮)」が起きているのではないかということを書いた。

その後、いろいろ資料を読んでいたら、安倍政権が「憲法96条改正」をもくろんでいた当時、その動きについて、上智大学の憲法学者である高見勝利さんが次のような表現を使っていた。東京新聞(2013年4月19日)より

「改正手続き自体を変えるというのは、憲法学的には想定外で、一種のクーデター」

この時の動きが「一種のクーデター」とするなら、解釈改憲はそれ以上。まさに「クーデター」ということになってしまう。

前回のブログ(5月21日)では、その「静かなクーデター(仮)」の首謀者は、実は財界ではないかと書いた。財界が、自分たちに都合のよいように
日本の仕組みを変えようとしているという、ちょっと穿っているかもしれない見方を示した。

財界が主導するクーデター。
政治の論理より、財界の論理が強まっていくということは、打算的であり、損得勘定が優先される社会がより広まっていくということなのではないか。

損得勘定をしやすくするためには、全てが「数値」に表せた方が便利になる。TPPなどがそうである。(5月12日のブログ

でも、そんな社会が果たして長続きするのだろうか。


社会学者の宮台真司さんは、TBSラジオ『デイキャッチ』(4月25日放送)で次のように語っていた。

自発性よりも内発性の方が大切だ。つまり損得勘定よりも、内から湧いてくる力の方が必要だ。なにゆえならば…。今から2500年前のギリシャの人たちが言ったことだけれども、壁を越えられないと国や共同体が滅びるというときに、損得勘定で考える人であふれた社会、ポリスは滅びる。そうじゃなくて、損得勘定を越えた振る舞いをできる人間がどれだけいるのかということがポリスを救うんだという発想がある」


そういうことなのである。

ただし、財界人のひとり、京セラの
稲森和夫氏は、次のように言っている。(2012年5月12日のブログ

「経営は、損得で判断するのではなく、善悪で判断することが大事」


本来は、会社だって「損得勘定で考える人」であふれた場合は滅びるのだと思う。

でも。
よくよく考えてみれば、昨年の参議院選挙で自民党はとにかく「経済」だけをうたって、選挙に勝利しているのである。


その選挙を受けて、内田樹さんは次のように書いていた。朝日新聞(2013年7月23日)より

「『経済最優先』と参院選では候補者たちは誰もがそう言い立てたが、それは平たく言えば『未来の豊かさより、今の金』ということである。今ここで干上がったら、未来もくそもないというやぶれかぶれの本音である」

「古人はこのような未来を軽んじる時間意識のありようを『朝三暮四』と呼んだ」


まさに「これから財界の考え方で行く」ということを安倍総理は、選挙の時から宣言していたのである。それに国民がお墨付きを与えているのである。

消費税増税、残業ゼロ法案など、ますます財界よりの政策がすすめられていくのだろうが、2500年前のギリシアの人たちが言ったことが当てはまらないように…。

2014年5月21日 (水)

「いまの日本の政治は期末利益優先の株式会社の論理で国家を運営している。わたくしにはそうとしか見えません」

引き続き、安倍政権について。

きのうのブログ(5月20日)では、1932年に起きた5・15事件を引き合いに、今の日本で起きていることは、安倍総理とその取り巻きによる「静かなクーデター(仮)」ではないか。というような極めて個人的な意見を書いた。

そのあと改めて、精神科医の斎藤環さんの著書『ヤンキー化する日本』を読む。対談相手のひとり、日本近代史が専門の愛知県立大学教授の与那覇潤さんは、次のように語っていて驚いた。

「戦前のヤンキー政治運動といえば、青年将校でしょうが、5・15事件の三上卓が書いた『昭和維新の歌』の『財閥富を誇れども、社稷を思う心なし』っていうのが、だぶん今もヤンキーにはぐっとくる」 (P169)

やっぱり、ヤンキーとクーデターは関係が深かかったのである。

ここで出てくる「社稷」というのは、「国家」とのこと。つまり、5・15事件に参加した三上卓氏は当時、財閥を「富や金には関心あるけど、国家についてはどうでもいいと思っている」と批判しているのである。

ここで一端、話を変える。

東京新聞(5月17日)を読んでいたら、『帝国主義はよみがえるのか?』という特集記事があった。

ウクライナ動乱などを受け、今後の世界の動向について、漫画家の小林よりのりさんは、次のように指摘。

「待っているのは力ずくの帝国主義の世界だ」

キャノングローバル戦略研究所の宮家邦彦さんは、次のように指摘している。

「それなりに安定していた国際秩序は崩れ、『帝国主義的なネオナショナリズム』が噴き出す時代になったのです」

ともに今後、帝国主義的な動きが世界に広がっていくという指摘をしている。

帝国主義。
これも個人的な考えで申し訳ないが、僕はずっと、グローバリズムというのを日本語に直すと「帝国主義」だと理解してきた。ただし、この場合の主体は「国家」ではなく「多国籍企業」。今、問題とすべきは、この多国籍企業による「帝国主義」なのではないかと思っている。

ライターの速水健朗さんは、著書『ラーメンと愛国』で次のように書いている。

「現代の『帝国』とは、軍事力による征服ではなく、多国籍企業の活動や、文化商品の流通など、国境や民族を超えたグローバルな経済の在り方を指す。これらを新しい覇権として捉える見方が、ネグリとハートの『帝国』である」 (P258)

そこで、安倍政権による「静かなクーデター(仮)」の話に戻す。

このクーデターの主犯者は、安倍総理とその取り巻きだけではない。もうひとつ財界も中心的な役割を担っていると思う。

その財界のために日本という国そのものが「株式会社化」されていると、内田樹さんは指摘している。著書『街場の憂国会議』より。

「企業経営者たちが民主制を抑制して、できればトップダウンの統治組織(彼らが帰属している株式会社と同じような組織)に改組したいと願っている理由はよくわかる。その理由はずっと合理的である。民主制を廃絶して、彼らが現に運営している組織に似せることの方が端的に『商売がしやすい』からである」 (P17)

「安倍晋三とその同盟者たちが追及しているのは(当人たちにそこまではっきりとした自覚はないと思うが)、『国民国家の株式会社化』である。国の存在理由を『経済成長』に一元化することである。国のすべてのシステムを『経済成長』に資するか否かを基準にして適否を判断し、『成長モデル』に準拠して制度を作り変えることである」 (P18)

「2014年現在、日本で今起きているのは一つの『政治的出来事』というより、むしろ政治過程そのものの液状化と呼ぶべきだと思う。政治が自重を失い、グローバル企業の経営戦略や株の値動きに連動して漂流し始めたのである」 (P16)

政治の論理によって国家が作られているのではない。財界の論理によって国家がつくりかえられているという指摘である。

長くなったけど、まだ続けます。

法人減税や雇用形態の変更はもちろん、海外への原発売り込みのための原発推進、そして武器三原則の変更など…。今、安倍政権が進めようとしている政策のほとんどは、財界のための政策が中心とも言えるのではないか。

今回の、集団的自衛権の容認についても、「財界のため」という見方をすると理解しやすい。

政治学者の中野晃一さんは、『街場の憂国会議』で次のように書いている。

「そもそも1991年の湾岸危機を契機として財界は、日本が自由に海外に自衛隊を派遣したり、制約なくアメリカ軍と共同作戦をとったりできるようにするための憲法改正の積極的な支持へと回った」 (P198)

「グローバル企業のエリートたちにとっても『ナショナリズム』企業収益を確保、増大させるための便宜的な手段として用いられているのだ」 (P198)

ナショナリズム高揚による実益ということもある。

それとグローバリズムの中、海外の支社や工場で働くものを多く抱える多国籍企業にとって、自分たちで彼らを守るよりも、自衛隊に守ってもらった方が、経営的には都合がよい、という考えもあるのではないか。そのためにも集団的自衛権は必要となる。

戦前の日本が、陸軍や海軍と財閥に導かれたように、今の日本は、財務省と財界が自分たちに都合のよい国家を作っているのでは、と考えたくなる。安倍政権は、それに乗っかっているだけということになる。

確かにうがった見方なのかもしれないが、この方が色んな事がすっきり理解できるということも確か。

作家の半藤一利さんは、著書『腰ぬけ愛国談義』で次のように指摘する。

「いまの日本の政治は期末利益優先の株式会社の論理で国家を運営している。わたくしにはそうとしか見えません。とにかく目先きの利益が大事であって、組織そのものの永続は目的ではない」 (P267)

5・15事件で三上卓氏が『昭和維新の歌』で書いた「財閥富を誇れども、社稷を思う心なし」というセリフは、82年たった現在でも当てはまる。

ただ当時の青年将校たちのクーデターは、そんな財閥を憂いて決起してのものだが、今、安倍政権による「クーデター(仮)」は、財界と結託しているという点ではまったくベクトルが逆なのであるが…。

2014年5月20日 (火)

「彼は戦後70年間続いてきたひとつの政体を転覆して、まったく新しい政体を作り上げようとしている」

先週金曜日(5月16日)のブログでは、その前日に行われた安倍総理による集団自衛権についての会見について取り上げた。

記者会見そのものが、「エモーショナル」で、「ポエムの朗読会」のようだったという指摘を紹介し、そこから「ヤンキー」と安倍政権との重なりを少し考えてみた。

きのう、書籍『街場の憂国会議』を読んでいたら、この本の中にも同じような指摘があった。

まずは、社会学者の中島岳志さんの指摘から。

「安倍首相の口からは、バッシングと共に『感動』というタームが頻発する」 P170)

「感動とバッシングは、コインの裏表の関係である。そして、両者は空気の構成要素として、強固な力を発揮する」 P170)

さらに同書で、コラムニストの小田嶋隆さんは次のように書いている。

「私は、安倍政権の周辺で、この『ヤンキー』風の美意識ないしは気分が、力を持ち始めている感じに、以前から、不穏な圧迫を感じている」 P74)

ヤンキー風の感動とパッシングによる「力」(同調圧力)で世の中を動かしていく…。

今朝の朝日新聞(5月20日)に載っていた、その安倍総理の私的諮問機関「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(安保法制懇)の座長代理である北岡伸一氏のインタビュー。それを読んでちょっと驚いた。懇談会に反対側の人を入れない理由について、次のように答えている。

「自分と意見の違う人を入れてどうするのか。日本のあしき平等主義だ」

しかも、次のような言葉も。

「安保法制懇に正統性がないと(新聞に)書かれるが、首相の私的懇談会だから、正統性なんてそもそもあるわけがない」

堂々と答えている…。すごい、としか言いようがない。

「正統性」もない同じ意見を持つ集団によって作られた報告書をバックにして、総理がエモーショナルな言葉で世の中を動かし、憲法改正を国民に問うでもなく、国会審議を経ることもなく、国の仕組みを変えていこうとしている。 

一体、何が起きているのだろうか。

この先週5月15日の安倍総理に記者会見について、先週土曜(5月17日)の朝日新聞の投書欄では、神奈川県に住む74歳の男性が次のように書いていた。

「私たちは、この日を『5・15事件』と位置付けて、警戒を強めなければならない」

1932年の5・15事件は、海軍の青年将校が起こしたクーデター事件である。

それから32年。ボクが勝手に考えていることだが、安倍総理が就任以来進めていることは、「彼とその取り巻きによる一種のクーデター」なのではないか。マジで。これまで積み重ねてきた民主主義や立憲主義や国際常識などをひっくり返して、自分たちが考える「理想の社会」を創ろうとしているのではないか。

そう考えないと、今起きていることが理解できない。

32年前のクーデターでは、犬養毅総理が殺害されたが、今回のクーデターは、総理が中心となって進めている。

麻生副総理が去年(2013年7月29日)に口にした言葉を思い出す。

「ナチス政権下のドイツでは、憲法は、ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わってナチス憲法に変わっていたんですよ。誰も気づかないで変わった。あの手口、学んだらどうかね」

その言葉のとおり、誰も気づかないようにして、今、安倍総理とその取り巻きによる「クーデター」が進行されているのではないか。

考えすぎだろうか。

先に紹介した『街場の憂国会議』で、思想家の内田樹さんは、次のように書く。

「安倍晋三は『保守』政治家ではない。左派が批判するような『反動』政治家でもない。『革新』政治家であり、もっと強い言葉を使って言えば、『革命』政治家である。私はそう評価している。彼は戦後70年間続いてきたひとつの政体を転覆して、まったく新しい政体を作り上げようとしている」 (P17)

2014年5月16日 (金)

「キーワードは『エモーショナル』。親しみやすさを強調し、大衆をコントロールしようとしている」

きのう夜6時、安倍総理は集団的自衛権についての記者会見を行った。

その会見について、評論家の小沢遼子さんは、今朝のTBSラジオ『スタンバイ』(5月16日放送)で次のように語っている。

「情緒的だと思った。自分が議員の時、演説は情緒的にやると受けるということが分かって、演説というものが大嫌いになった」


安全保障が専門という東京財団研究員の小原凡司さんは次のように述べていた。TBSラジオ『シャッフル』(5月15日放送)より。

「今日の会見には違和感。重要な議論が抜けて、焦点が矮小化してみえた」

「非常に感情に訴える部分が多かった」


ジャーナリストの神保哲生さんは、同じ番組で次のように指摘している。

「記者会見をテレビのコマーシャルのような扱いをしている気がする」

「時間帯も6時という時間を選んでるし、いわゆるお茶の間の普段政治にあまり関心のない、新聞の政治欄なんてほとんど読んでいない方々に、“やっぱこれは必要なんですよ。そう思うでしょ”というような感じのプレゼンテーション」


まさに、以前このブログ(4月18日)に載せた青山学院大学教授の大石泰彦さんによる安倍政権のメディア対策の指摘そのものの。そんな記者会見だった。もう一度、大石さんの指摘を載せておきたい。毎日新聞夕刊(4月10日)より。

「キーワードは『エモーショナル』。親しみやすさを強調し、大衆をコントロールしようとしている」

さらに元外交官で作家の佐藤優さんは、今朝の文化放送『くにまるジャパン』(5月16日放送)で次のように語っていた。


「きのうの記者会見は演説や会見というより、詩の朗読会、ポエムと思って聞けば理解できる。立派なことをやりたいんだと強い意欲を示したもの。小保方晴子さんの記者会見と一緒。両方ともポエムです」

「ポエムは理屈の話ではない。気合いと、心にどうしたら響くかということ。ある人の心には今回響いたんでしょう。ある人の心には響かない。詩はいいか悪いかという心の受け止め方ですから。きのうは心の時間だったなという感じ」


もう政治もポエムの世界なのである。リーダーの総理大臣が国民に対して堂々とポエムを語っているのだ。

ちなみに、佐藤さんは、安倍政権の外交についても、次のような言葉で語っていた。

「ポエム外交。心の動きだけで外交をやっている」

結局、今の日本の政治や政治家のレベルは、そんなものということなのだろう。

精神科医の斎藤環さんが、朝日新聞(2012年12月27日)で行った次の指摘を裏付けることでもある。

「自民党は右傾化しているというより、ヤンキー化しているのではないでしょうか。自民党はもはや保守政党ではなくヤンキー政党だと考えた方が、いろいろなことがクリアに見えてきます」

ヤンキー化している自民党の総裁だから、会見でポエムなのである。

斎藤環さんは、著書『ヤンキー化する日本』でこんな指摘をする。

「そう、ヤンキーはポエムが好きだ。ポエムは情感を盛り上げ、気合をもたらし、自らの正当性を信じ込ませてくれるなにものかだ。ポエムの良いところは、知識や論理とは無関係に、依拠すべき肯定的感情をもたらしてくれるところだ。同時にまた、ポエムは強力な共感装置でもある」 P38)

斎藤さんは、ヤンキーの特徴として、次のことも挙げている。

「特徴の例として、熟慮を嫌う、理屈を嫌う、反知性主義の傾向が強い」 (P89)

まさに日本の政治は、熟慮なき、知性なき、論理なき世界に入ろうとしている。それは間違いないと思う。

2014年5月12日 (月)

「数字を残すのがプロ。数字に表せないものを表現するのもプロ。僕は数字だけにとらわれて生きたくない」

今日から、TPP(環太平洋経済連携協定)の首席会合がベトナムで行われ、来週19日からシンガポールで閣僚会合が行われるとのこと。

このTPPに関して当初、安倍政権は「まずは交渉に参加するだけ」であって、TPPそのものに参加するかどうかはそのあと決める。というような姿勢だったと思うのだが、いつのまにかメディアでは「妥結を目指す」という参加前提のトーンでの報道ばかり。交渉からの撤退は「負け」というようなニュアンスが強くなっている気がする。

そこで、このTPPについての言葉と、それにまつわる言葉をいくつか集めてみたい。

まずは、作家の田中康夫さん雑誌『ソトコト』(2013年9月号)で、TPPについて次のように語っている。

「社会や家族の人間関係や文化・伝統といった、市場で『値段をつけられないもの』は価値ゼロとみなすのが、全分野で関税化を目指すTPPの眼目」

また、雑誌『SPA!』(2014年2月4日号)では、次のように書いている。

「資本が自由に国境を越え、事業展開する国に税金を支払わぬ多国籍改め無国籍なモンスター企業が国民国家=ネーション・ステイトより上位に立って消費者=国民を差配し、社会や家族の人間関係や文化・伝統といった『市場では数値に換算できない物』は価値ゼロだと捉える金融資本主義」

どうやらTPPとは「数値」に換算できるものだけに「価値がある」とし、それ以外のものは切り捨てるということとの指摘。

しかし、社会は「数値」に換算できない物で成り立っている。当然ながら。

作家の平川克美さんは、自身のツイッター(2012年7月25日)で次のように書いていた。

「経済合理性は、やせ我慢も、貧の維持も、侘び寂びも、美も説明できない」

逆に言えば、切り捨てる側からしてみると、「数値」だけで見た方が切り捨てが容易にできるということでもある。ここでもキーワードは「効率」のようだ。

最近ドラマで話題の小説『ルーズヴェルト・ゲーム』。この小説が発行されたときに作家の池井戸潤さん雑誌『週刊ポスト』(2012年4月)で語っていた次の指摘も同じことだと思う。

「野球部なら野球部をコストという視点で捉えた時点で自動的に合理的削減対象になってしまうのだと」

スポーツやエンターテイメントの世界で、全てを「数値」だけで見て判断しても、つまらない。そして、それは社会全般でも変わらないと思う。

そのスポーツの世界からの言葉を載せておきたい。

サッカー選手の三浦知良さん著書『とまらない』から。

「数字を残すのがプロ。数字に表せないものを表現するのもプロ。僕は数字だけにとらわれて生きたくない」 P148)

イビチャ・オシム氏雑誌『ナンバー・プラス』(2014年5月号)から。

「すべてが計算でき、数値に置き換えられるのであれば、サッカーは面白くもなんともない」 (P127)

そうなのである。

最後に作家の佐藤優さんの言葉も。著書『子どもの教養の育て方』から。

「目に見えるものは世界の一部にすぎず、世の中には目に見えないけど確実に存在するものがある。やさしさとか信頼とかも含めて」 (P144)

2014年4月18日 (金)

「エモーショナルな物語でなければ対抗できないからって、こっちもエモーショナルな言葉を謳っていいんだろうか」

前回の続き。エモーショナルな世の中について。

雑誌『SIGHT』(2014年SPRING号)では、作家の高橋源一郎さんと、思想家の内田樹さんと、編集長の渋谷陽一さんとの対談が掲載されている。

渋谷陽一さんは、東日本大震災以降の衆議院選挙、参議院選挙、そして都知事選と、いずれも脱原発などを掲げたリベラル候補が敗北したことについて、次のように語っている。

「リベラルや左翼の言っていることって、全然楽しくない。エモーショナルじゃない」 P118)

「いわゆる左翼やリベラル勢力は、ポップな言葉を忘れすぎている。だから勝てない。だからそこで新しい言葉を持たない限り、敗北主義になってしまったり、アングラなものになってしまう危険性はあると思う」 P121)

「たとえば脱原発っていう言葉ひとつ言っても、幸せそうに響かないわけだよ」 P121)

今や社会のメインとなった感情や情緒で物事を考える層に、リベラル勢力は何も訴えることができていないという指摘である。エモーショナルに訴えないと、結局は彼らには届かないという見方である。

正直、この渋谷さんの抱く、焦りというか、忸怩たる思いは十分理解できる。

これに対して、高橋源一郎さんは、次のように語る。

「今の安倍政権の、愛国というエモーショナルな物語に対抗するには、当然エモーショナルな物語じゃなきゃいけないんだけど、僕はそれは危険だなと思っているところもある」

「エモーショナルな物語でなければ対抗できないからって、こっちもエモーショナルな言葉を謳っていいんだろうか」 (P125)

では、どうしたらいいのか。

エモーショナルでしかものを考えない人たちに、エモーショナルな物語や、エモーショナルな言葉以外で、どう語っていったらいいのか。

高橋さんは、次のようにも語っている。

「今安倍さんたちがやっていることは、有権者の愛国心を強めて、強い国を作るっていうことではなくて、物事をシンプルにしようっていう話なんです。『何も考えないで、俺たちの言うことをきけ』と。『国民なんだから国を愛するのがあたりまえだろ、以上、終わり!』というのが。今進行していることなんだ」

「僕らの『物事は複雑だよ』という論理は、強い言葉にならないと思うんだよね。弱い言葉を無数に集めるしかなくて、僕らは集める側に回っているということなんです」 (P128)


世の中をシンプルに従っている勢力に対して、とりあえずは「世の中は複雑だよ」と言い続けるしかない。時間がかかっても、今は力弱くても、それ以外の方法は結局はない、そんな気もする。

ただ、渋谷さんの焦る
気持ちも分かるだけに難しいのだが…。

「感情のレベルとか情緒のレベルで考えている人も社会にはいっぱいいる、そっちがメインなんじゃないか、と」

以前のブログ(1月21日)で、橋下徹・大阪市長の次の言葉を紹介した。(感情」 

「民主主義は感情統治」

人びとの感情を操ることによって政治を動かす。

それに近い指摘を先日、読んだ。青山学院大学教授の大石泰彦さんは、安倍政権のメディア対策について、次のように指摘している。毎日新聞夕刊(4月10日)より。

「キーワードは『エモーショナル』。親しみやすさを強調し、大衆をコントロールしようとしている」

安倍政権の支持率が相変わらず、50%を超えていることを考えると、そのエモーショナル・コントロール、すなわち感情統治は成功しているとも言えるのではないか。言い換えれば、政治によるマインド・コントロールである。

こうした政治家によるエモーショナル・コントロールが効果を発する背景には、次のようなことがあるのかもしれない。社会学者の開沼博さん雑誌『SIGHT』(2014年SPRING号)より。

「要は『自分はものを考えている』っていう自覚を持っている人は論理で考えていくけども、感情のレベルとか情緒のレベルで考えている人も社会にはいっぱいいる、そっちがメインなんじゃないか、と」 (P72)

そうなのだろう。今は、論理で考えるより、感情や情緒で考える人の方が社会の主体になっている。悲しいことに、これが現実なのである。

だからこそ、曖昧な輪郭の言葉や、ポエムのような言葉が流通している。2013年11月21日のブログ 2014年1月16日のブログ

また、こちらも以前のブログ(1月22日)でも紹介したが、精神科医の名越康文さんの次の指摘にも通じる。MBSラジオ『辺境ラジオ』(2014年12月29日放送)より。

「ちゃんと自分の頭で理解したいと思うんだけど、今のところ『理解したい』というのが、『感情的に理解することが正しい』となってしまっている。自分でも感情的に判断しているのか、ちゃんと落ち着いて判断しているのかの区別がつかない人が一番多い」

結局、今の世の中、「感情」や「情緒」で回っていたり、動いたりしているのである。

やれやれ。

結局、こうした社会では、いったい誰が得をしてるのだろうか。そして、こうした社会は、どこへ向かっていくのだろうか。

2014年3月28日 (金)

「でも、勝つことを至上の目的としてしまうような人を自分たちの代表として選びたくないからこそ、私たちは選挙を始めたはずなのです」

話題は変わります。政治と勝利至上主義について。

きのうの朝日新聞(3月27日)に、大阪市長に再選されたばかりの橋下徹氏のインタビューが掲載されていた。

「僕の意見では直接民主制が民主主義の原則だ。議会は直接民主制の補完的な役割で、直接民主制が後に控えている議会は直接民主制に送るための一つのスクリーニング(ふるい分け)機能。議会が最終判断の場ではない」

読んでいて、やはり違和感が強い。


イエスかノーによる首長選や住民投票など、勝者と敗者、白と黒がはっきりする選挙制度によって選ばれた者や事柄が、様々な立場の人が集まった議会で話し合って決められたことよりも優先される。どうも彼は、そういう考えのようである。

そしてその勝者は、「民意」を背景に絶対的な決定権を持つ。とも考える。

橋下徹氏は、かつての朝日新聞(2012年2月12日)で、次の言葉を残している。


「有権者が選んだ人間に決定権を与える。それが選挙だと思います」

「ある種の白紙委任なんですよ」


この考えは、総理大臣である安倍晋三氏の次の発言にも通じている。衆議院予算委員会(2014年2月4日)での憲法96条改正問題で。

「たった3分の1の国会議員が反対することで国民投票の機会を奪っている」


たった3分の1…。

選挙で少しでも多くの票を得た勝者の前では、3分の1といえども「たった」であり、意味がない。勝者のみが決定権を持つ。選挙の結果が全てなのである。

つまり、勝利至上主義。

このブログでは、以前、サッカーや野球といったスポーツなど、いろんな分野での「結果がすべて」というような「勝利至上主義」についての言葉を紹介して、それについて考えた。(2013年5月30日のブログなど)

その勝利至上主義という考え方が、政治の世界、選挙にまでどうも広がっている。

かつてスポーツの勝利至上主義を考えた際にも同じことを書いたが、もちろん選挙は勝つことが大事である。だからといって、負けたからといって、その候補者の考え方や支持者たちがまったく意味がないということにはならないはず。


その政治の世界の勝利至上主義について考えるようになったのは、先週、えにし屋代表の清水義晴さん著書『変革は、弱いところ、小さいところ、遠いところから』を読んだから。

清水さんは、かつて新潟市長選挙に立候補した知人を手伝った際の経験について、次のように書いている。

「正直言って、私だって『選挙は負けたらなんにもならない』とチラッと思わないでもありません。だれにも負けないほど、心底この候補を当選させたいという、熱意と覚悟で選挙に向かっているのですから。でも、勝つことを至上の目的としてしまうような人を自分たちの代表として選びたくないからこそ、私たちは選挙を始めたはずなのです」 (P228) 

「それに、選挙を始めると、相手の候補と戦っているような錯覚に陥りますが、じつは私たちが向かうべき相手とは、選挙民(=市民)です。べつに他の候補が『敵』なわけでもなんでもないはずです」 (P228)

「『選挙は闘いではなく、仲間作りの場にしよう。勝敗というのがあるとするなら、候補者の考えに共感する仲間を、どちらかがより多くつくったかを競いあおう』。仲間にもそれを語り、自分もまた行動で示していきたいと思っていました」 (P229)

最近、小泉時代の「刺客騒動」などもあり、すっかり選挙というのは、自分の考え方にとっての「味方」と「敵」がいて、そして勝つか負けるか、敵を倒すか倒されるか、という論法で考えるようになっていた部分は確かにある。

しかし、本来、清水さんの言うように、選挙とは「勝つこと」はあくまでも結果であり、本来、できるだけ同じ考え、志を持った人を増やしていくということだったはず。

そして選挙に勝った方にも、負けた側の支持者たちに対する責任を背負うことで、彼らとの熟議を重ねる政治が求められる。そうすれば、勝利至上主義による横暴・暴走は自制されるし、「負けた側にも意味がある」という考えにもなるのではないか。

上記の清水義晴さんの指摘は、社会学者の開沼博さんの次の言葉にも重なる。著書『フクシマの正義』より。

「今求められているのは、短絡的に作られた『敵』でも、薄っぺらい『希望』でもない。なぜ自分が、自分たちの生きる社会が、これまでのその『悪』とされるものを生み出し、温存してきてしまったのか、そして、これからいかに自分の中の『悪』と向き合うのか、冷静に真摯に考えることに他ならない。『変わる変わる詐欺』を繰り返さないために」 (P39)

このことは、政治家はもちろん、彼らを選び、支持する有権者にこそ当てはまることだと思う。

 

 

2013年12月 7日 (土)

「自分たち政治家が国民を幸せにしてあげる、だから黙ってついてこい、というわけです」

特定秘密保護法案が成立した。一応、今回も前回(12月6日のブログ)からの続き。

録音していた文化放送『ゴールデンラジオ』(11月26日)を聴いていたら、元産経新聞記者の山際澄夫さんが、次のようなことを話していた。 

「僕らにも秘密がある。まして国家をや、ということ。われわれ個人にも企業にも秘密がある。国家にも秘密がたくさんある」 

「知る権利も大事だけど、国家あっての知る権利なんですよ。国家の安心とか安全とかが守られて初めて…。情報がどんどんもれるような国では安全も安心もないんですよ」
 

でも、である。
やはり国家の秘密と、個人の秘密は違うと思う。個人の秘密は当然、個人のもの。かたや国家の秘密も、本来は市民のもの。それを一時的に国家に預けているにすぎない。いつかは持ち主である市民にオープンにすることが大事なのだし、国家や官僚の恣意的な運用は避ける仕組みをつくらなければならない。
 

それに「国家の安全」が、個人の「人権」の上にあるというのも変な話だと思う。極端なはなし、「人権」が自然と守られているなら、「国家」なんていらない。手段として「国家」があった方が、「人権」が守りやすいので、「国家」が存在するに過ぎないんだと思う。 

以前のブログ(3月28日)で紹介した高市早苗氏の「国家と国民は一体でしょ」というセリフにもかなりの違和感を持ったり、気持ち悪さを感じりしたが、今回の発言は“一体”どころか、「国民」より「国家」の方が上に存在しているのである。本来の位置関係と逆転している。 

最近、読んだ石原慎太郎氏著書『新・堕落論』には、そんな言葉があふれていた。 

「国が衰え傾くということは、私の、私たちの人生が衰え傾くということです。それを願わぬなら、国と表裏一体の己のためにこそ、国について想い、考えなくてはならないのです」 

「国家が荒廃して沈むということは、自分の人生が荒廃して沈むということに他ならない。一蓮托生というのはまさにその事です。国家が在って私が在り、私が在ってこそ国家が在る」 (P216) 

あくまでも「国家と国民は一体」。行間には「国家の方が大事」というニオイがぷんぷんする。個人的には「ほんとかよ」っていうのが正直な感想。 

この「国民」「市民」は「国家」に従属すると考え方については、弁護士の伊藤真さん新著『憲法問題』でも触れられている。自民党が提案している憲法改憲草案が、「天賦人権説を否定している」としたうえで、次のように述べている。

「天賦人権説の否定から見えてくるのは、国の主人公は為政者であり、国民はその庇護のもとに暮らせばいいという発想です。自分たち政治家が国民を幸せにしてあげる、だから黙ってついてこい、というわけです」

「改憲案をつくった自民党は、市民一人ひとりが自立した個人を考えて行動することを望んでいません。むしろ為政者に従属して生きることが国民の幸せだと考えているのです」 (P83)

これは、前々回のブログ(12月2日)に紹介した政治学者の岡田憲治さんの指摘とまったくもって重なる。

国家や政治家に「黙ってついて」いっても、たぶん「国民」「市民」を守ってくれる保証はないと思う。

ジャーナリストの吉田敏浩さん毎日新聞夕刊(11月7日)で述べていた次の言葉。この中の「軍隊」「軍」という文字を、そのまま「国家」という文字に入れ替えることができると思う。

「軍隊は住民を守らない。軍は軍そのものを最優先させる。そして、国民の目と耳と口をふさいで戦争や軍隊への批判を抑える。これは戦争への道なのです」

もうひとつ。東海村の前村長、村上達也さん『東海村・村長の「脱原発」論』で語っていた次のセリフ。

「本当に、日本は恐ろしい国だと思っています。国民の生命財産より原発が大事で、しかも随所で隠蔽体質と無謬性への恐怖がある」 (P54)

この中の「原発」という言葉を「国家」に入れ替えて読んでみても成り立つのでは。そんな気がする。

戦争が終わって、68年も経つのに、「なによりもまずは國體護持」という考え方やシステムのようなものは全く変わっていないのだろう。だから、どれだけ国民からの反対があっても、自分たちに都合のよい特定秘密保護法案を成立させてしまうのである。


2013年12月 6日 (金)

「問題は情報が誰のものであるかという点にある」

きょう、文化放送『くにまるジャパン』(12月6日)を聴いていたら、特定秘密保護法案について、作家の佐藤優さんが次の言葉をつぶやいた。

「情報は国民のものなんです。原則、開示。出来ないものは、説明責任がある」 

そうなのである。
情報というのは、あくまでも国民(市民)のものであって、それを自分たちに選んだ政治家に便宜的に委託して、取り扱ってもらっているだけにすぎない。さらに言えば、官僚は、その情報をもとに政治家が作った法律・ルール(立法)に従って、政策を進める(行政)だけの立場なのである。情報というのは、政治家のものでも、官僚のものでもない。あくまでも国民のものなのである。

だからこそ、完全に情報を国民から奪ったり、永遠に隠してしまえるような今回の法案には違和感を感じてしまうのだと思う。 

以前、ラジオで図書館協会の常世田良さんが話していたことを思い出す。ネットに同じような話があったので紹介しておきたい。(2008年11月26日シンポジウム「障害者の情報アクセシビリティと著作権」より) 

「図書館というのは本を貸すところだと考えていらっしゃる方がいるのですけれども、それは手段であって、図書館の本来の目的は、やはり知識や情報、人類の知恵というようなものを人々が共有することだと思うのです」 

「ヨーロッパの市民革命があったとき、彼らは土地と権利を取り戻したと、私たちは授業で習いますが、私は、それに加えて、恐らく『情報』を取り戻したんだと思うのです。つまり、いつ種をまいたら作物ができるかというような情報を、特権階級が占有していたからこそ大衆は支配されていたので、それを取り戻したからこそ、西洋の市民革命が成就したのだと思っています」 

ということでいえば、今、日本で起きていることは、市民革命で「王族」という特権階級から取り戻した「情報」を、市民の手元から「官僚」という特権階級に手渡してしまうということになるのではないか。 

作家の半藤一利さんは、毎日新聞11月13日の「特定秘密保護法案に言いたい」という特集で次のように話していた。 

「日本は情報の大切さに思いが至らない。どんどん捨ててしまう」 

ジャーナリストの田中良紹さんも、自身のブログ『国会探検』(2013年9月19日)の「機密情報は誰のものか」で次のように書いている。 

「問題は情報が誰のものであるかという点にある。そこをあいまいにされると欧米を真似たつもりで欧米と逆の仕組みを作る事になる」 

「機密情報が誰のものかを考えると、税金で雇われた官僚が税金を使って集めたのだから納税者に帰属すると考えられる」
 

今回の特定秘密保護法案も、情報公開が進まないのも、外交文書が破棄されてしまうのも、日本では「情報が誰のものか」という問題があいまいにされているからなんだと思う。もう一度、市民革命に戻って歴史を学び、確認する必要があるのではないだろうか。



 

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