体罰問題

2013年10月22日 (火)

「安心安全がそんなに大事かと思います」

ここ6回続けて「リスク」についての言葉を並べて、それについて考えている。サッカー協会の田嶋幸三さんやオシム元監督によるスポーツ界における「失敗やリスクを恐れる風潮」についての指摘を例に取り上げてから始まった。(10月10日のブログ

きのう桑田真澄さんと、ノンフィクション作家の佐山和夫さんによる『スポーツの品格』を読んでいたら次のような対話が出てきた。 

桑田 「トーナメントというシステム、『負けたら終わり』というあり方そのものを考え直していくことが必要だと思います」  

佐山 「『負けたら終わり』のトーナメントでは、一つの失敗が命取りになります。だから、日本の指導者は『失敗するな』『こういうことをしてはダメだ』ということを盛んにいいますね。つまり、禁止事項を厳密に命じるわけです。そして、選手が禁止事項を守らないと、罵声や暴力が飛び交うことになってしまう」 (P86)

甲子園の全国高校野球選手権だけでない。そういえばボクの子供が所属する少年野球チームも、トーナメント戦ばかり。

その一発勝負のトーナメントが「失敗を許さない風潮」を作っているのではという指摘である。これが以前のブログ(今年1月28日)でも紹介した「勝利至上主義」や「体罰」の問題にもつながっている。ヨーロッパやブラジルのサッカーでは、目先の「勝利至上主義」に陥りやすいということで、今では小学生レベルでは行われていないという指摘も読んだことがある。


桑田真澄さんは、さらに次のように語っている。 

「スポーツで失敗するのは当たり前です。実際のところ、失敗の連続ですよ。野球なんか特にそうです。バッターは10回のうち3回打てば3割打者で一流ですし、投手だって、すべてのボールを思ったとおりのコースに投げることなんてできません」 

「僕たちも『失敗したら負けるぞ』と教わってきましたが、でも、そうではないですよね。長年やってきて思うことは、『失敗したら負ける』のではなくて、『失敗を一つでも減らしたほうが勝てる』というのが正しい言い方です。そもそも失敗は付きものなので、最初から失敗を恐れてやっていたら、いいプレイはできませんよ」 (P87) 

まさに「ゼロリスク」なんてものはないから、失敗やリスクといかに共存して減らしていくかを考えるべきという指摘。 

これは、野球やそのほかのスポーツだけでもなく、社会一般のことにも当然ながら当てはまるんだと思う。ということは、社会そのものが失敗や負けを許されない「トーナメント」状態になっているのかもしれない。 

もうひとつ。 
その前に読んだのが、牧師の奥田知志さんと茂木健一郎さんの『「助けて」と言える国へ』という本。その中で奥田知志さんが語っていることも、「失敗」や「リスク」を恐れる日本社会のことである。

「ある意味、日本は傷つかない社会になったのです。というか、傷つくことを極端に避ける社会になってしまいました」 (P27)

「私は学びは出会いだと思うのです。人は出会いで変わります。例えば、子どもができたら子どものペースに合わせ、恋人ができたら恋人のペースに引っ張られますね。しかし、自分のペースが変えられることを極端に恐れていると誰とも出会えない。その結果無縁へと向かう。それが傷つきたくないということとも関連しています。人間は誰でも試練に遭いたくないというのが本音ですが、それがいきすぎた社会というのは、本当の意味では人と出会えない。安心安全がそんなに大事かと思います」 (P28)

「傷つく」というリスクを避けるがため、とりあえずの「安全安心」を守るため、人との出会いさえ避けてしまう。出会いのなければ、世界は広がらないし、助け合うこともできない。結局は、孤立していく。 

奥田さんも、当然ながら「リスクゼロ」を求めるのではなく、リスクとの共存を説いている。

社会というのは、“健全に傷つくための仕組み”だと私は思います。傷というものを除外して、誰も傷つかない、健全で健康で明るくて楽しいというのが『よい社会』ではないと思います。本当の社会というのは、皆が多少傷つくけれど、致命的にはならない仕組みです」 (P38)

2013年3月 7日 (木)

「『ルールを守ろう』じゃなくて、『ルールを作ろう』『ルールを変えよう』というのがスポーツマンなんですよ」

これまで「ルール」に拘泥してしまう日本社会に体質について、いろいろな言葉を紹介してきた。

例えば、2012年6月20日のブログでは、ピーター・バラカンさんが東日本大震災のときに感じた次の言葉を紹介している。

「この国は、ルールを決めておけば、絶対にそこから外れないというところがあります」

2012年10月3日のブログでは、ニューヨーク・タイムズ東京支局長のマーティン・ファクラーさんが、著書『「本当のこと」を伝えない日本の新聞』で書いていた次の言葉を掲載した。東日本大震災の直後、被災地で感じたことである。

「震災という非常事態なのだから、ルールを多少破ったとしても臨機応変に対応するべきではないか」 (P35) 

そして、さらに先、2011年11月22日のブログでは、こうした体質に対する作家の奥田英朗さんの言葉。著書『どちらとも言えません』から。

「つまりルールは必要なときに適用すればいいのであって、あとはフレキシブルに対応すればいいじゃないかという考えなのだ」

それと、脳学者の養老孟司さんの次の言葉を紹介した。

「自分の目で見て、自分の頭で考えて、ルールを曲げる。そういう感覚をもう日本人はなくしているでしょう、でも『生きている』ってそういうことじゃないですかね」

以上。「ルール」を巡るフレーズを改めて並べてみた。

先日、ネット放送局の「ビデオニュース・ドットコム」の『だから日本のスポーツは遅れている』(2月16日)を聴いていたら、スポーツ評論家の玉木正之さんは、スポーツの世界でも、日本には同じような問題が存在することを指摘している。

「スポーツの規律、および規則を作ったのは誰かというと、自分たちなんですよね。その認識が日本では欠けていて、輸入もんだから。最初から権威に従うという。春秋の交通安全週間というのがあるじゃないですか。スポーツマンがポスターに出てきて『ルールを守ろう』って出すわけですよ。これは『ルールを守ろう』じゃなくて、『ルールを作ろう』『ルールを変えよう』というのがスポーツマンなんですよ」

よくよく考えてみれば、国際的には、スポーツのルールや規則なんてものは、よく変更されていたりする。スポーツそのものを巡る状況や環境が変われば、それにルールも合わせる。現状に合ったルールがなぜ必要なのか。政治学者の萱野稔人さんは、同じ番組で玉木さん相手に次のように語っている。

「スポーツの本質は、何かと言うと、ルールに従うことなんですよ。ルールに従うことによって、身体の暴力性をどうコントロールできるか、というのが元々の人類とスポーツとを考えたときの本質だと思う」


スポーツとは、身体をルールに従うようにコントロールすること。そのためには、ルールを現状に合わせておく必要がある。ということになる。

これは、スポーツの世界だけではなく、一般社会にも当然当てはまるはず。弁護士の郷原信郎さんは、著書『思考停止社会』で次のように書いている。

「近年、高度情報化の進展に伴い、社会の隅々にまで様々な情報が提供されることによって、ますます社会は多様化しています。しかも、社会の変化の速度は急激に高まっています。社会が多様になればなるほど、そして、変化が激しくなればなるほど、社会事象と法令の内容との間に乖離が生じやすくなります。

それだけに、ある時点での一定の範囲の社会事象を前提に定められた法令は、すべて社会事象に適合するものではありませんし、社会の変化に伴って、現実に発生する社会事象との間でギャップが生じています」 (P187)

社会生活を営むためのルール、すなわち法律も、ほっておけばズレが生じてくるのである。そして、次のように語る。

「明治以来日本人が百数年以上も続けてきた法令に対する『遵守』の姿勢はなかなか変わりません。法令を目にすると、ただただ拝む、ひれ伏す、そのまま守るという姿勢のために、法令を『遵守』することが目的化し、なぜそれを守らなければならないのかを考えることを諦めてしまうという『思考停止』をもらたらしているのです」 (P191)

ルールや法令を前にして、何の疑いもなくひれ伏す。そして、そのルールや法令がズレたものだったとしても、それを破った場合に下される厳しい罰則を黙って受け入れる。これは日本社会の「体質」というか、もう「病」とも言える症状なのかもしれない。案外、体罰の問題も、ここに根っこはあるのではないかと思う。

2013年3月 6日 (水)

「スポーツ指導の現場に一番足りないのは、DIVERSITY(多様性)」。

先ほどの文章への追加。さっき、今日の毎日新聞夕刊(3月6日)を読んでいたら、ラグビーの大八木淳史さんが「体罰」について語っていた。いろいろ印象的な言葉があったので追加して紹介したい。大八木さんは今は、芦屋学園中学・高校の校長先生をしているとのこと。教育者でもあるのだ。知らなかった…。

まず桜宮高校バスケ部の体罰問題について。 

「勝利至上主義が生んだ暴力であり、指導法として間違えている」 

そして、体罰問題そのものに対して、次のように語っている。

「今の体罰論争もおかしい。体罰を定義しないまま、誰もが勝手なイメージで『体罰反対』『愛ある体罰はOK』と言っている。これでは答えは出ない」 

「体罰の歴史と目的を理解しないと。体罰は明治時代以降の富国強兵に使われた。目的は強い軍隊、つまり国益。では今は? スポーツ関連の国家予算を見ればわかる」

「競技スポーツ、つまりメダル獲得プロジェクト。これも国益やないですか。富国強兵時代と一緒。国益や学校のブランド力のためのスポーツだから体罰が生まれる」
 

やはり「歴史」を理解することが大事なのである。(これは、今年1月8日のブログで紹介した言葉につながる)

そして大八木さんが「スポーツ指導の現場に一番足りないのはこれや!」と指摘するのは「DIVERSITY(多様性)」。ここで思い切り肯首してしまった。「その通り!」と叫びたい感じ。 

「まず、女性をもっと登用し、女性の視点を入れること。ナショナルチームの体罰問題を最初に訴えたのは女子柔道でしょう? それから指導者の視野を広げること。桜宮高の件でも、バスケしか知らん指導者と強豪チームを求めて入部した生徒が集まれば、価値観はバスケ一色。勝利至上主義に陥って当然。スポーツ指導者は年に1〜2カ月程度、現場を離れ、社会学や心理学など別の学問や価値観を学ぶ仕組みが必要なんです」

すがすがしささえ感じた良いインタビュー記事だった。大八木さんの指摘は、まったくもって的を射ていると思う。


「指導者に求められるのは『厳しく接する』ことではなく、『厳しさを教える』ことなのだ」

気が付いたら、あっという間に3月に。ずっと「体罰」のことばかり考えているわけではないんだけど、せっかくなので、この間に「体罰」について印象に残った言葉を並べておく。

まずは、日本体育大学の学長、谷釜了正さんが、日体大学で行ったという「反体罰宣言」について語った言葉から。朝日新聞(3月1日)から。

「熱心さが余って体罰に及んでしまったケースもないわけではないと思います。無論、熱心だから許されるのものではなく、どんな場合でもそうした行為に及んではならないと自ら律しなければなりません。そのことを私も含めて指導者が再認識するために宣言したものです」

この「反体罰宣言」、どこまで実行力を伴うか。疑念も大きいが、一応、期待したい。

次は、評論家の斎藤美奈子さんが、毎日新聞夕刊(2月14日)の 『甘い社会が見過ごす暴力』と題した文章で書いていた言葉。

「体罰はなべて暴力で『良い体罰と悪い体罰』があるわけじゃない」

作家の高村薫さんが、東京新聞夕刊(2月19日)で書いていた言葉。

「『必要な体罰もある』という日本社会特有の精神論の内実は、暴力を受ける側の思考停止と服従だけであり、それを規律や結束と言い換えて来たのは集団における権力側の詭弁にすぎない」

女子柔道選手で、フランスでコーチをしていたという溝口紀子さんは、フランスでの指導の仕方について次のように語っている。(読売新聞2月16日)

「一対一で正座し、目を見ながら時に2時間も、選手の言うことに耳を傾ける。殴ったり『稽古をつける』方が早いかもしれないが、相手を受け止め、練習の理由をきちんと伝え、納得してもらうことが選手の成長にも必要と考えた」

ネットの放送局「ビデオニュース・ドットコム」では、『だから日本のスポーツは遅れている』 (2月15日)と題して、政治学者の萱野稔人さんと、スポーツ評論家の玉木正之さんが対談。その中で、萱野稔人さんは、自分のスポーツ経験で感じたことを次のように語っている。

「近所で遊んでいた近所の友達が先輩になっていて、決定的に作法を教わるわけですよ。先輩には挨拶をしないといけないとか。練習でも何かやると、出しゃばった真似するなとか。とにかく委縮することを徹底的に教わるんですよ。日本のスポーツの指導の一つは、委縮をたたき込もうとすること。体罰もそうだと思う」

これに対して、玉木正之さんは、次のように話す。

「スポーツっていうのはそもそも反社会的なものなんですよ。根本的に。実力主義、年上も年下も関係ないというのは一般社会の長幼の序も否定するということ。でも日本は長幼の序をスポーツの中に入れてしまう。より強固な長幼の序をつくることに走った」


最後に、プロ野球の権藤博さんの言葉を紹介したい。著書『教えない教え』の中のもの。

「厳しさとは、『この世界で生きていくことはこういう練習をして、それに耐えていかなければいけませんよ』と教えること。指導者に求められるのは『厳しく接する』ことではなく、『厳しさを教える』ことなのだ」  (P19)


別に、体罰や怒鳴りつけたりしなくても、厳しさを教えることはできる。それと当然のことだけど、厳しさを教えるのと同時に、楽しさを奪ってもいけないのである。

2013年2月13日 (水)

「究極の目的は、自由の獲得だと思っています」

体罰にまつわる言葉が続く。

今週月曜日の毎日新聞(2月11日)に掲載された『告発の真相』という特集記事の中で、柔道の山口香さんは、次のように語っていた。 

「欧州ではスポーツで何を学んでいるかといえば、自律です。やらされるとか、指導者が見ている、見ていないとかではなく、ルールは自分の中にあります。ゴルフがいい例で、スコアはセルフジャッジ。ラグビーやテニスも近くに監督はいません。自律と自立を併せ持つ人づくりにスポーツが有用とされており、それこそ成熟したスポーツと言えます」 

内田樹さんの著書『荒天の武学』を読んでいたら、次の言葉が書いてあった。上記の山口さんが指摘する「欧州の価値観」とまさに正反対である。この本の編集は、大阪の桜ノ宮高校の体罰問題の前である。 

「今の日本人が失った最たるものは、その自己規律ですね。外的な規律は、違反すると処罰されるから、恐怖ゆえに違反しない。でも、処罰への恐怖だけで規律を守っている人は、規律が利かない場面、処罰の恐れがない場面では、いきなり利己心や暴力性を噴き出してくる。これは本当にそうですね。外的規律の厳しい集団で育てられた人ほど、無秩序状態のときにでたらめな振る舞いを始める。自己規律が内面化された人は、外的な規律や処罰の有無とは無関係に、自分で決めたルールに従って行動する」 (P234)

インターネットの放送局「ビデオニュース・ドットコム」でも、『体罰は愛のムチか』(2月9日放送)と題して、社会学者の
宮台真司さんんと精神科医の斎藤環さんが対談をしている。その中の、次の会話も重なってくる。 

(宮台) 「日本の場合、共同体の暴力は必ず内に向いて、外に対しては逆にとても従順なんですよ」

(斎藤) 「体育会系の人の謙虚さは、対外的には『みなさんのおかげで』というように謙るじゃないですか。で内向きには、俺が殴ったおかげで勝てたんだというようなことを平気で言うじゃないですか。これはまさに表裏一体の問題なんだなと思う」


常に外的規律で動き、自己規律(自律)が育たない世界。これは、内田さんが説くように、部活やスポーツだけの話ではないのだろう。暴力ではないが、会社などで行われる「コンプライアンス重視」という傾向も外部規律重視ということでは同じなのではないか。また「ルールがなければ、何をやってもいい」ということでは、ホリエモンのライブドア騒動などを思い出したりもする。

出前でサッカーコーチを行っているという池上正さんは、朝日新聞(2月1日)のインタビューで、次のように語っている。

「ああしろ、こうしろと指示してばかり。従わないのは『ダメなやつ』と烙印を押す世界では、いい選手は育ちませんよ」 

さらに池上さんは「スポーツの魅力とは?」という質問に対して、次のように答えている。


「究極の目的は、自由の獲得だと思っています。最初はみんなが自由になると、たとえば私が左に動いたときに他にも左に動く人がいて、重なって不自由になります。でも、そういう不自由な経験をいっぱいすると、仲間が左に動きた瞬間に自分は右に動くことが自然にできるようになる。お互いに認め合う関係ができるわけです。本当に自由にやって勝てるほど楽しいことはない。そのためにはコーチも選手を自由にしてあげないといけません」


「自由」とは「自己規律(自律)」とセットなのかもしれない。この池上さんの「究極の目的は、自由の獲得だと思っています」というセリフは、県立浦和商業の教員、平野和弘さんの「自由を獲得するために教育はある」(2011年10月12日のブログ)というフレーズとそのまま重なる。

2013年2月 5日 (火)

「無駄のない社会は病んだ社会である」

1月28日のブログで、高橋秀実さん『弱くても勝てます』で紹介していた開成高校野球部の青木監督の以下のコメントを紹介した。

「『野球はやってもやらなくてもいいこと。はっきり言えばムダなんです』
 
 『とかく今の学校教育はムダをさせないで、役に立つことだけをやらせようとする。野球も役に立つということにしたいんですね。でも果たして何が子供たちの役に立つか立たないのかなんて我々にもわからないじゃないですか。社会人になればムダなことなんてできません。今こそムダなことがいっぱいできる時期なんです』」 (P87)

野球は所詮、無駄なもの。だからこそ、高校生の時期に幅を広げるためにも経験するべき、というコメントである。雑誌『OUTWARD』12月号を読んでいたら、宮城県栗原市にある、くりこま高原自然学校の代表・佐々木豊志さんの言葉が載っていた。「教育」と「無駄」との関係について、開成高校の青木監督と同じことを指摘していると思う。

「確かに体験させるというのは時間がかかります。子どもが失敗を繰り返しながら体験しないといけませんから。でも、いまは学校教育も家庭も含めて社会全体に子どもとじっくり向き合う余裕がない。物事をあまりに深く追求することがなくなってきたので、農業とか林業など早く答えがでないものに対するイメージがますます欠落していくのではないかと危惧しています」
 

ということで、今回は「無駄」にまつわるフレーズを並べてみたい。「無駄」についての言及の裏には、必ず「効率化」が付いて回っているのが興味深い。

まずは、棋士の羽生善治さん。著書『直観力』で次のように語っている。 

「無駄を排除して高効率を求めたとしても、リスクを誘発する可能性がゼロにはならない。むしろ、即効性を求めた手法が知らず知らずのうちに大きなリスクを増幅させているケースもある。無駄と思えるランダムな試みを取り入れることによって『過ぎたるは猶及ばざるがごとし』を回避できるのではないかと考えている」 (P41)

東京大学の経済学者、玄田有史さん東京新聞(1月1日)の倉本聰さんとの対談で、次のように語っていた。 

「世の中に『遊び』みないなものも減ってきている気がする。効率は大事だが、大切な無駄もあるような気がする。『遊び』は意味があるかないか分からないから遊びなのです。その中でふと出会うものが『希望』のような気がする」

開成高校の青木監督は「役に立つか立たないか分からない」と語っているように、玄田さんは「意味があるかないか分からない」と語る。その中で出会うものが「希望」という指摘は面白い。

ノンフィクション作家の柳田邦男さんは、東日本大震災をめぐる原発事故を受けて、『<3・11>忘却に抗して』で次の言葉を語っている。ただ、このフレーズは、そのまま子供への教育にも当てはまるのではないか。

「効率化という目標の前では『前提条件がもし崩れたら』という発想は排除され、次善の策も『ありえないこと』として削られる。それでは災害は防げない。どんな組織・システムも遊びや余剰部分があってこそ安全を保てるのです」 (P30)

効率化を追い求め過ぎて、無駄なもの、すなわち遊びが減っている社会。却って余分なリスクやコストを招き入れ、その裏で大切なものを失っている。


ここで改めて、1月28日のブログでも紹介した平田オリザさんの言葉を載せておく。著書『芸術立国論』から。

「芸術家は、基本的にはいつもブラブラしているように見え、経済生活の表層にとっては無駄な存在だろう。しかし、それは同時に、共同体にとって、どうしても必要不可欠な存在なのだ。無駄のない社会は病んだ社会である。すなわち、芸術家のいない社会は病んだ社会だ」 (P43)


2013年2月 1日 (金)

「でも私たちが意外と簡単にできるのは、人の言うことを聞かないということです」

体罰問題が広がっている。この問題について、ちゃんとした考え方を持っている人の意見を読んだりすると安心する。案外というか、当然というか、社会の中にはちゃんとした考えを持った人は多いのに、世の大勢が「体罰黙認」となってしまうのは、どうしてだろうか。そんな「社会の体質」は、どうやったら変えていけるのか。先の選挙で、反原発という考えの方が過半数を超えていたにも関わらず、唯一原発容認だった自民党が圧勝したという悲しい結果をも思い出す。どうすれば、我々は「社会の体質」を変えていけるのだろうか。ぶつぶつ…。

野球の松井秀喜選手のコメントをきっかけに、「コントロールできること」と「コントロールできないこと」について考えたりした。(1月10日のブログ)。それからも、「コントロール」「制御」「支配」など言葉には、とても敏感になって拾い集めている。 

体罰に関しては、コラムニストの小田嶋隆さんが、『日経ビジネスオンライン』で連載している 『小田嶋隆のア・ピース・オブ・警句(1月18日)』で次のように語っていた。

「体罰は、単なる物理的な暴力ではない。より本質的には、威圧と罰則で人間をコントロールしようとする思想の顕現として、子供たちの前に現れるものだ」
 

さらに小田嶋さんは、体罰問題が起きた大阪の桜宮高校に対する橋下市長の手法にも、同じ問題を見てとる。TBSラジオ『たまむすび』(1月16日放送)から。

「大阪市の橋本市長が今回の件について無期限活動停止と、来季の入試を差し止めみたいなことを要請するというようなことを言っている。これは方向としては体罰と一緒で、一罰百戒じゃないですけど、何か間違いがあった時や失敗があった時に、ちょっと大きめの罰を与えることで現場をコントロールしようとするということは発想としては体罰と一緒だと思う。だから自分は体罰を容認してきたけど間違っていたなんて言って、ちょっとシオらしいことを言ってましたけど、発想の根本ではアメとムチで人をコントロールしようとか、支配と服従、あるいは圧迫と制圧みたいな関係で人間関係をみているという点では変わっていないんじゃないかと思う」


元ベイスターズ監督の権藤博さんがが著書『教えない教え』で、子供たちを安易にコントロールしようとする指導者たちに厳しい言葉を投げかけている。

「高校野球にしてもリトル・リーグにしても“勝つ”ことだけを唯一の目標にしてしまって“戦うの楽しさ”というものを教えていない。指導者のほとんどが『勝ちたいんだったら俺の言う通りにしろ。勝つためにはこれをやっておけばいい』という一方的な教え方になってしまっている。 これではスポーツの“楽しさ”や“面白さ”は子供たちに決して伝わらない。できない子はなぜできないのか一緒に考え、分かるまで何度も教えてやる、とことん付き合う。そういったことのできる指導者は残念ながら少数派なのである」 (P124)


今度の話は体罰問題とはまったく関係ない。サッカーのJリーグに、名古屋グランパスというチームがある。3シーズン前に優勝、翌シーズンは準優勝という結果を残した後の昨シーズンは、7位と惨敗した。その惨敗という結果について、チームキャプテンの楢崎正剛選手は、雑誌『GRUN』(1月号)で次のように語っていた。

「もっと自分たちで支配したり、もっとうまくコントロールできるんじゃないかとか。結局そういうものを追い求めすぎて、自滅していました」 

毎年のように優勝争いを経験し、チームや選手たちに自信もつく。いつのまにか、ゲームを自分たちで完璧に支配・コントロールできるのではと思い込む。その結果、何かを失い、何かができなくなり、やがて隘路に入って自滅していく。ある意味、かつて右肩上がりを続けてきた日本で、その後、起きている社会現象を象徴している言葉のように思える。 

全てをコントロールしようとする考え方。それはどこから来ているのか。生物学者の福岡伸一さんは、著書『せいめいのはなし』でこんなふうに話している。 

メカニズムさえコントロールできれば、世界のすべてがコントロールできるという錯覚の果てに今の文明の問題があるのだと思います。でも、それはまったく違う。文明というのは、人間が自分の外部に作り出した秩序で、機械的な世界観です。人間を豊かにし、便利にし、雇用やお金を生み出すものだったはずなんですが、自然はそんなものではない」 (P98) 

解剖学者の養老孟司さんは、著書『庭は手入れをするもんだ』で、次のように語っている。 

「自然の中で暮らしていれば、『ああすればこうなる』はないのです。地震も台風も防ぎようがない。都会人は人間が意識的につくり出したもの以外はどんどん遠ざけ、自然に苦手意識をもつようになり、その結果、死をも見ないようになったのだと思います」 (P55

養老さんが昔から指摘する「ああすればこうなる」という風潮こそ、まさに福岡さんの言う「すべてをコントロールできる錯覚」のことである。そうやって気づきあげたのが都会である。養老さんは、そのためには、都会から離れ、「花鳥風月」に囲まれた自然の中で過ごす時間を持つことを勧めている。

将棋の羽生善治氏は、自分の思い通りにいかない状況、コントールできない状況こそ理想だと話す。著書『直観力』から。 

「自分が想定した、その通りでは面白くない。自分自身思う通りにならないのが理想だ。
  計画通りだとか、自分の構想通りだとか、ビジョン通りだとかいうことよりも、それを変えた意外性だとか偶然性、アクシデント、そういうあれこれの混濁したものを、併せ呑みながらてくてくと歩んでいくのが一番いいかたちなのではないかと思っている。
 
変っていく、変化し続ける自分を納得しながら楽しむ」 (P208)
 

まったくもって大人だ。以前のブログ(2012年3月8日)で、「たくみにゆらぐ」ことのできる人こそ、「成熟した大人だ」という言葉を紹介したことがある。羽生さんの「変わっていく、変化し続ける自分を納得しながら楽しむ」というのは、まさにそれである。 

我々が、羽生さんのように「変わっていく、変化し続ける自分を納得しながら楽しむ」ように過ごしたとしても、なかなか全てをコントロールしたがる都会の「社会の体質」は変わらないのだろう。というか、その傾向はますます強まったりしている。では、我々はそんな社会に対しては、どうすればいいのか。 

「素人の乱」で知られる松本哉さんは、雑誌『世界』(2012年7月号)で次のように話している。 

「勝手なことをする人が少なすぎますよね。いま世の中はどんどん窮屈になっていますが、従順になりすぎて自分で首を絞めているところもあると思います」 

「異質なものを統制しようとすることが社会の末端まで行き届く前に、こっちがどれだけ勝手なことのできるコミュニティをつくれるかが重要だと思います」

そこで松本さんは、「勝手なことをできるコミュニティ」として、高円寺を地盤にして、リサイクルショップやデモを展開する。ちなみに、同じ対談の中で語っていた次のフレーズも非常に興味深いので紹介したい。 

「法律や政治にコミットしていくのはハードルの高いことで、選挙で悪人以外に投票するくらいしか、普通はできません。でも私たちが意外と簡単にできるのは、人の言うことを聞かないということです。強力な指導者の言うこと、軍国主義でもファシズムでも、どれだけ言うことを聞かないか。言われたことを右から左に流して、ケロッとしていられる状況をどれだけつくっていけるか」

この
松本さんの「人の言うことを聞かないこと」という言葉。これは案外、芯を食っている気がするのだが。どうだろうか。

2013年1月28日 (月)

「現代社会は『結果がすべて』という考え方に支配されてしまっている。そんな社会的風潮も人が緊張する度合を深めているような気がする」

相変わらず、大阪の桜宮高校から端を発した今回の体罰問題に関する周囲の人たちの言説を追っている。1月12日のブログで、元プロ野球選手の桑田真澄さんが朝日新聞のインタビューに答えていたコメントを紹介したが、今度は昨日の読売新聞(1月27日)の『体罰考』というコーナーに、彼のインタビューが掲載されていた。彼は、こう語っている。

「体罰を生む背景は勝利至上主義であると思います。アマチュアスポーツでは本来誰もが、子供を育てる、選手を育てるという“育成”を目的にしているのにもかかわらず、目の前の試合に勝つために、指導者は手段を選ばなくなってしまうのです」 

勝利至上主義。確かに、このフレーズも、いろんな文章でよく見かける。また「結果がすべての世界だから」とか、「スポーツは結果がすべて」というような言い回しも、よく目にする。

ボクは、この「結果がすべて」という言い回しが、よく分からない。スポーツの世界だから当然、結果は大事である。もちろん大きな要素である。それは大前提として抑えておく。でも、である。「結果がすべて」ということは、それ以外は「ゼロ」。そんなことはあるわけはない。ちょっと考えてみることもなく、間違っている、はずである。なのに「結果がすべて」というような安易なフレーズがこれだけ流通しているのだろうか。 

そんなことツラツラ考えていたら、この週末に読んだ権藤博さん『教えない教え』という本に、その「結果がすべて」に触れていた部分があった。権藤さんは、元ベイスターズの監督で、去年はドラゴンズの投手コーチを務めた。 

「現代社会は『結果がすべて』という考え方に支配されてしまっている。そんな社会的風潮も人が緊張する度合を深めているような気がする。 

『失敗は許されない』。そんな考えに囚われてしまったら緊張するのは当たり前だ。思考も体も柔軟性を欠いた状態では、普段の実力の半分も発揮できないに決まっている」 (P78)

「高校野球にしてもリトル・リーグにしても“勝つ”ことだけを唯一の目標にしてしまって“戦うの楽しさ”というものを教えていない。指導者のほとんどが『勝ちたいんだったら俺の言う通りにしろ。勝つためにはこれをやっておけばいい』という一方的な教え方になってしまっている。 これではスポーツの“楽しさ”や“面白さ”は子供たちに決して伝わらない」 (P124)

緊張する度合を深め、コーチなどの目を気にしながら、伸びるべき者ものびないし、楽しべきものも楽しめない。「あったりまえだ~」とでも言いたくなる。 

こちらも、たまたまだが、録音でTBSラジオ『伊集院光の週末ツタヤに行ってこれ借りよう』(1月4日放送)という番組を聴いていたら、タレントのテリー伊東さんが、次のセリフをつぶやいていた。 

「俺たち結果勝負なんですよね。俺たち自分で決められない。結果、数字じゃないですか」 

テリーさんが言いたいのは、「テレビは結果がすべて。視聴率という数字がすべて」ということだと思う。インタビュアーの伊集院さんも、この部分には「そうですよね」と当然のように受けていた。テレビの世界については、ボクも知らない世界ではない。おそらくスポーツの世界以上に「結果がすべて」という考え方が強固なのではないか。 

なぜなのだろうか。色んな要素はあると思うが、ひとつは「結果がすべて」「数字がすべて」と堂々と口にする人は、おそらく結果を出した人なんだと思う。メディアでテレビのことを話している人なんてのも、結果を出した人、成功した人がほとんどなのである。また彼らが「結果がすべて」と言い切った場合、なかなかそれ以外の人が「そうではない」とは言いにくくなる。結果、大きな声やたくさん声を出した人の考え方が、いつの間にか「正しい」として流通している部分もあると思う。 

テレビの世界だって、もちろん結果は重要。だけど、それがすべてではないはずである。結果は出なかったものにも当然ながら素晴らしい番組はあるはずだし、チャレンジの部分で価値ある番組も多いはずである。少なくとも、そうした番組にも語るべき要素はたくさんあるはず。だけど「結果がすべて」「視聴率がすべて」という一言で、それらを切り捨ててしまう。思考停止。だからテレビの世界にまっとうな「テレビ批評」というものが確立されないのではないか。 

権藤さんが指摘するように、スポーツだけでなく、政治、企業といった社会全般を「結果がすべて」という考え方が支配している背景には、テレビの影響が大きいのではと思う。少し短絡的な考え方かもしれない、というのは重々、承知の上だけど。 

スポーツの世界に話を戻したい。では、スポーツの世界が「結果がすべて」「勝利至上主義」から脱却するのは可能なのか。 

毎日新聞(1月27日)の『スポーツと体罰』という特集企画で、東京女子体育大教授の阿江美恵子さは、次のように語っている。 

「周囲の目も大切だ。指導者は試合結果で評価される部分が大きいと思う。しかし成績だけではなく、そこに至る過程を評価する目をもたなくては、スポーツ界から体罰を一掃できないと考えている」 

結果や成績だけでなく過程を評価する目。これこそ、まさにテレビ界が育てられていない「批評」という部分ではなかろうか。

そんな中、ノンフィクションライターの高橋秀実さんが書いた著書『弱くても勝てます』という本の中に興味深い話がたくさん紹介されていた。この本は、超進学校で知られる開成高校の野球部を取材して書いた本である。 

開成高校の野球部は、週1回の練習ながら、画期的かつ効果的な練習方法や取り組み方で野球に取り組む。その中で自らの体や頭の中を研鑽し、高める。東東京大会でベスト16という結果も出す。読んでいて感じたのは、なにもよりも創意工夫や理屈を考えることが楽しそうなことである。

その開成高校野球部青木監督は、野球について次のように語る。 

「『野球はやってもやらなくてもいいこと。はっきり言えばムダなんです』 

 『とかく今の学校教育はムダをさせないで、役に立つことだけをやらせようとする。野球も役に立つということにしたいんですね。でも果たして何が子供たちの役に立つか立たないのかなんて我々にもわからないじゃないですか。社会人になればムダなことなんてできません。今こそムダなことがいっぱいできる時期なんです』」 (P87)

さらに青木監督は、野球というゲームについても「じゃんけんと同じです」としたうえで、次のようにも語る。 

「『勝ったからエラいわけじゃないし、負けたからダメじゃない。だからこそ思い切り勝負ができる。とにかく勝ちに行こうぜ!と。負けたら負けたでしょうがないんです。もともとムダなんですから。じゃんけんに教育的意義があるなら、勝ちにこだわることなんか下品とかいわれたりするんですが、ゲームだと割り切ればこだわっても罪はないと思いますよ」 (P87) 

「思い切り勝負ができる」。これが大事だと。権藤さんが指摘した「思考も体も柔軟性を欠いた状態」とは、間逆の状態の選手たちがここにはいた。 

しかしながら「ムダ」とは言いすぎではないか。でも世界は違うが、平田オリザさんさんは著書『芸術立国論』で、次のように書いている。 

「芸術家は、基本的にはいつも“ブラブラしている”ように見え、経済生活の表層にとっては無駄な存在だろう。しかし、それは同時に、共同体にとって、どうしても必要不可欠な存在なのだ。無駄のない社会は病んだ社会である。すなわち、芸術家のいない社会は病んだ社会だ」 (P43) 

スポーツ選手だって、ある意味、芸術家なのである。きっと当たり前とされる社会の常識や考え方を変えるためには、芸術やスポーツ、アートなどが大事なのではないか。それを通して「批評する目」を育てる。そのためにも「無駄な存在」が必要なのである。

その一方で、本来はクリエイティブを駆使して、「結果がすべて」という風潮を打破すべき立場にあるテレビというメディアが、反対にそれを助長する立場にいることは思っている以上に罪が大きいのかもしれない。
 

とはいえ開成高校野球部員たちも、この後は東大をはじめとした有名大学に入るだろう。もしかしたら、東大野球部で桑田真澄コーチに教わっている選手もいるのかもしれない。そのあとは官僚や大企業に勤める人もいるのだろう。こんな野球を経験した彼らが、社会でどんな立ち位置を取るのか、そっちにも興味がある。

2013年1月18日 (金)

「追い込み型指導でそこそこ戦えるチームに導けるほど、私たちの国のスポーツ水準は低いのだ。この現実から出発しないといけない」

前々回のブログ(1月12日)に、体罰についての桑田真澄さんのコトバを拾ったが、そのあとも新聞やラジオ、ネットで「体罰」を巡る色んな人のコトバを追いかけながら、グルグル考えたりしている。 

個人的なことだけど、先週末のこと。ボクの子供が参加する少年野球でも、OBやコーチたちが「体罰」について話題に。子供たちの前で「我々のころの体罰は、もっとすごかった」という各々の自慢話が展開され、「追い込まなきゃ、伸びないんだよ」「体罰と言うからいけない。気合を入れると言えばいい」などのコトバが出ていた。 

それを聴いていたボクは正直、「なんて前近代的な考え方なんだ」と頭を抱えた。心の底から呆れた。反論はいくらでも浮かんだ。「もう時代が違う」「追い込むことが必要なら、暴力じゃない手法を駆使するべき」「百歩譲って仮に体罰が必要と本当に思うなら、堂々と親や見学の人たちの前で殴ればいい」「そんなことしたら、少子化の時代、チームは成り立たなくなる」などなど。でも、ああいう空気の場所で異を唱えるには、どう切り出せばいいのだろう。どうやったら、こういう指導者たちの考えを変えていくことができるのか。彼らに対抗するコトバの難しさも実感した。

そうした中、TBSラジオ『デイキャッチ』(1月11日放送)の録音を聴いていたら、社会学者の宮台真司さんが次のように語っていた。ちなみに彼は少林寺拳法部出身。 

「年長の世代は、過去の思い出を持っているんですよ。昔は当たり前だったし、文句言わなかったじゃないかと。で自分もむしろそれをアリとして受け止めていたという記憶がある。今は文脈が違っちゃっているんですよ。昔の条件がないので昔の見方で今を見たら大間違い」 

思想家の内田樹さんは、 ツイッター(1月16日)で次のように書いていた。ちなみに彼は合気道の師範。

「体罰によって、あるいは心理的な抑圧によって短期的に心身を追い込んで『ブレークスルー』をもたらすというのは頭の悪いスポーツ指導者の常套手段であり、その有効性を信じている人間が日本には何十万人もおり、私はそういう人間が嫌いである。ほとんど憎んでいる」

そして、野球選手の桑田真澄さんに続いて、ラグビーの平尾剛さんのコトバも非常に説得力を持つ。彼のツイッター(1月16日)から。

「体罰や罵倒によるスポーツ指導には一定の効果がある。短期間のうちに効率よく競技力は向上する。これは間違いない。だが、競技力の向上と引き換えに失うものは限りなく大きい。自制心や胆力を育むもとになる「身体感受性」は、限りなく鈍ることだけは忘れてはならない」

「選手の自主性は、きっかけを与えつつじっと待つことでしか開花しないと僕は思う」
 

「僕たちスポーツ指導者は、選手を兵士に仕立て上げてはならない。追い込み型指導でそこそこ戦えるチームに導けるほど、私たちの国のスポーツ水準は低いのだ。この現実から出発しないといけない。ホンモノの競技力は、然るべき人間的資質を涵養しておかないと決して身につかないものだと思う」 

うんうん。非常に説得力がある。今日、たまたま『ルーパー』という映画を観てきたのだが、体罰を肯定し、実行する彼らこそ、この「ルーパー(繰り返す者たち)」という呼び方がふさわしい。そんな気もする。 

ただ今回は「体罰」がクローズアップしているが、そもそもの問題は、子供たちを委縮させ、追い込むという指導方法が大手を振っているということにあるのではないか。追い込むことで、平尾さんが言う「選手を兵士に仕立てあげ」るというやり方。そうした指導方法については、以前のブログ(2012年8月28日)に書いたことがある。その時の、千葉ジュニアサッカースクール「ソラ」で教える山口武史さんのコトバも、もう一度掲載しておく。 雑誌『サッカー批評』57号より)

「昔からベンチで怒鳴って子供をロボットのように扱う指導者はいましたが、今は専門用語を使っているだけで根本的なことは何も変わっていないんです。『今のタイミングで出さないとダメじゃないか!』なんて強制されても、子供が判断する選択肢はいくらでもあるのに・・・。よく見ていると指示するタイミングもズレているから戦術的にも間違っているんです。子供は何が正しいのかが分からなくて、まったく理解ができずに大人の顔色を気にしてプレーしている。楽しいわけがない。そういう環境の中で、子供はだんだん自信をなくして目が死んでいくんです」 

スポーツ指導者の方々は、平尾さんの指摘する「追い込み型指導でそこそこ戦えるチームに導けるほど、私たちの国のスポーツ水準は低いのだ。この現実から出発しないといけない」というコトバを胸に刻んだ方がいいと思う。「追い込み型指導」ではなく、多様な指導で、スポーツ水準そのものを上げていく必要があるのだろう。まあ、それは政治家や企業のトップ、そして親など、日本の大人全般に言えることなんだろうけど。

2013年1月12日 (土)

「一回どこかで関係ないよって離れないといけないのかなと思っています」

大阪市立高校の17歳のバスケットボール部主将が自殺した問題について新聞やネットの記事を読み込んでいる。今朝の朝日新聞(1月12日)に載っていた元プロ野球選手の桑田真澄さんのインタビューが、やはり心に残った。

私は、体罰は必要ないと考えています。『絶対に仕返しをされない』という上下関係の構図で起きるのが体罰です。監督が采配ミスをして選手に殴られますか? スポーツで最も恥ずべき卑怯な行為です」

「指導者が怠けている証拠でもあります。暴力で脅して子どもを思い通りに動かそうとするのは、最も安易な方法」 

この「暴力で脅して子どもを思い通りに動かそうとする」という指摘は、前回のブログ(1月11日)に書いた「政治家の方々は、すべてをコントロールできると考えているのではないか」ということに通じているように思える。 

少し話は飛ぶが、その政治家である大阪市のトップ、橋下徹市長は、知事時代(2008年10月26日)には、口で言って聞かないと手を出さないとしょうがない」と発言するなど、かつて体罰を容認している。 

その橋下氏は、今回の事件では、市長としては、「こんな重大問題を教育委員に任せておけない」「市教委がどれだけ神経質になって調査したのかをしっかり調べていく」と発言して、市教育委員会の対応を厳しく批判している。いまのところ体罰そのものを否定するのではなく、あくまでも市教育委員会という仕組みの問題という考え方のようである。「仕組みが悪い」と言って、彼が何でも仕組み・システムのせいにしがちなことについては、以前のブログ(2012年6月7日)に書いたことがある。 

と、書いたところで、ラジオのニュースを聴いていたら、今日、橋下市長は、これまでの「体罰容認」について、「認識が甘かった。反省している」「教育専門家らの意見を聞き、スポーツ指導で手を上げるのは前近代的で全く意味がないと思った」と語ったとのこと。正直、「今更」と思わなくもない。少なくとも、容認してきたこの4年間、今回の事件を含め、体罰をめぐる不幸な事件はいくつか起きているはず。それについての自らの責任については、ちゃんとコトバにして欲しいと思う。 

話は、戻る。最初に書いた桑田真澄さんは、以前にも朝日新聞(2010年7月24日) で、体罰についてインタビューに答えている。 その時は、次のフレーズが印象に残った。 

「理不尽な体罰を繰り返す指導者や先輩がいるチームだったら、他のチームに移ることも考えて下さい。我慢することよりも、自分の身体と精神を守ることの方が大切です」

今回自殺した17歳の少年も、親に「部員の信頼を失うので『キャプテンを辞めたい』とは言えない」と言っていたように、主将を辞められなかったり、チームを移れない様々な理由があったに違いない。高校生なりに、人間関係や立場、親に心配かけたくないなど色んな事情を抱えている。でも自殺という「死」を選ぶくらいなら、そういう選択肢もあるのに、とは思くはない。なぜ、最悪の選択肢を選びとってしまうのか。

ランニングコストというのは、お金のことだけでない。人間関係とか色んな事情を、生きるための「コスト」として抱え込み、それによって自分の選択肢を狭めてしまう。それは、年末のブログ(2012年12月25日)で触れたサラリーマンの姿にも重なる。 

上記の桑田さんの他のチームに移ることも考えて下さい」というフレーズを読んだとき、思い出したコトバがいくつかある。まずは、自殺対策支援センター「ライフリンク」代表の清水康之さんが、毎日新聞(2012年9月6日)で「いじめ」について語っていたコトバである。 

「いじめを受けている子は、仕組みから出てしまえば、いじめは成立しないと知ってほしい。まず退避して、どう生きるかは後で考えてもいい。教室も日本もちっぽけなものだ」

正確には「いじめ」と「体罰」が違うのかもしれない。しかし今、自分が身を置く「仕組み」の外に出てみると、新しい世界が見えてくるというのも、ひとつの真理なのかも。 

同じような文脈で、建築家の坂口恭平さんは、朝日新聞(2013年1月10日)で次のように語っている。 

「社会を変えるためには1回はずれなきゃいけないんですよ。でもみんな円がないと怖いという妄想にとらわれすぎている」

ちなみに、ここに出ていくる「円」とは、お金のこと。お金や今の立場を失うことを恐れるのではなく、思い切って外に出てみることで環境を変え、そして身軽になって、社会を変える。ライフスタイルの「断捨離」である。

さらに作家の高橋源一郎さんは、雑誌『文学界』(2012年3月号)に、こんなコトバを残している。 

「結局のところ僕たちが生きている世界の中で何かがうまく回っていないのは、思うに1回他人として遠ざけたうえで選びとることをしていないからじゃないか。考えてみると、そこに行きあたる気がするんですね。 

 だからこれからは特に、どうやって何を選びとるのかが大きな課題になってくると思いますが、そのためには一回どこかで関係ないよって離れないといけないのかなと思っています」

大阪の体罰問題の記事を読んでいて、桑田さんのインタビューから連想して思い出したコトバをざっと並べてみた。桑田真澄さん、清水康之さん、坂口恭平さん、高橋源一郎さんのコメントは、どこかつながっているというか、同じことを言っているように思える。 

体罰、いじめ、閉塞感、変わらぬ社会…。そうした今、目の前に存在する問題は、きっと同根なんだと思う。「仕組みが悪い」と言って、その場にとどまる。何とかなる、と我慢を続けた結果、気がつくと「死」という最悪の選択肢を選ばざるを得ない状況に追い込まれている。だったら、その前に思い切って、その仕組み・システムから飛び出してみる。外に出て、離れてみれば、背負っていた複雑なランニングコスト(重荷)から自由になれるかもしれない。そして、そのシンプルな身軽な状態で、改めて自分の道を選びとってみれば、少なくとも最悪の選択肢を選ぶことは避けられる。そんな感じではないだろうか。

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