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2014年3月24日 (月)

「統御可能性からスモールさが大切だ」

前回のブログ(3月20日)は、社会学者の山下佑介さん「システムが大きすぎるのだ」という言葉を紹介した。

個々の暮らし、個々が持つ多様性を大切にしていくためには、今のシステムは大きくなりすぎているということ。

社会学者の宮台真司さんは、『週刊読書人』(2013年12月20日)のインタビューで次の言葉を述べている。

「統御可能性からスモールさが大切だ」

今回は、「小さいサイズ」を見直していく必要があるのではないか。そんな言葉を並べてみたい。

政治学者の姜尚中さん著書『日本人の度量』から。

「小さいことは素晴らしい、小さいものが美しい、ということ。私たちはやっぱり自分たちの生活を、もうちょっとダサくていいから、違う幸せのあり方を見出せるようなサイズに見直すべきではないかと」 (P22)

文化人類学者の辻真一さん著書『弱さの思想』から。

「近代的な社会の中で、『弱さ』として見なされてきたもの――巨大化、集中化、大量化、加速化、複雑化などに対する『スモール』、『スロー』、『シンプル』、 『ローカル』といった負の価値を荷ってきたもの――が元来持っているはずの『強さ』が浮かび上がってきたのではないか。この逆説的な事態――『強さの弱さ』と『弱さの強さ』――こそが、ポスト三・一一の月日のひとつの重要な特徴でなかったろうか……」 (P13)


えにし屋代表の清水義晴さんは、「大きなもの」「強いもの」が有難がられていったのは、競争原理、効率化が進んだバブル期以降のことだと書いている。著書『変革は、弱いところ、小さいところ、遠いところから』から。

「日本中が拝金主義に覆われていたバブル期と、その後の不況による倒産・リストラの嵐が荒れ狂った『失われた十年』のあいだに、弱いものは負け、強いものだけが生き残ることは当然だ、という空気が私たちの社会のすみずみまで覆ってしまいました」 (P119)

そして、『変革は、弱いところ、小さいところ、遠いところから』という書名にも表れているように、次のように述べている。

「より人間らしい絆によってつながりはじめ、ほんとうに些細なこと、見落としがちなこと、しかし、じつはだれもが感じていることへの働きかけ、高くて大きなところからではなく、低くて身近なところから私たちの社会を変え始めている。そんなふうに私は思いはじめています」 (P120)

イギリスの経済学者、シューマッハ『スモール・イズ・ビューティフル』という著書があるが、「スモール」「スロー」「シンプル」という概念は、我々の生活を守っていくうえで、「必需」の考え方になっているのではないか。もう小さなシステムでしか、個々の暮らしは守っていけないのではないか。そんな気がする。

 

 

2014年2月 8日 (土)

「出来る時に出来る事を出来る人が出来る場で出来る限り」

きのうのブログ(2月7日)では、鈴木敏夫さんの「『どうにもならんことはどうにもならん』『どうにかなることは、どうにかなる』これが僕の人生訓です」という言葉をきっかけに、いろんな言葉を紹介した。それへの補足。

牧師の奥田知志さん著書『「助けて」と言える国へ』の中に、こんな言葉を見つけた。

「今の社会は『しょうがないよ』『仕方がないよ』と、なかなか言わせてもらえないでしょう。でも、それが言える社会でないといけないではないか。諦められないで、とことんやってしまって、それで病気になっている。でも、もう仕方ないよという場面も、ときにはあるのではないでしょうか。そのあたりが生きづらさにもつながっている気がします」 (P50)

たまたまだが、脳科学者の茂木健一郎さんが、今日(2月8日)のツイッターで「コントロールできることと、できないこと」と題した連続ツイートをしていた。その中から。

「一番肝心なのは、『コントロールできることと、できないこと』を識別することである。自分のコントロールできることについては、ベストを尽くす。できないことについては、偶然に任せる」

「偶有性が苦手である、という人は、自分がコントロールできないこともコントロールしようとする傾向があるように思う。だからイライラする。ストレスがたまる。パラメータとして、自分が制御できないことをなんとかしようとするのは、不良設定問題である。だから、最初からやらない」


これまで、このブログでも、何度か「コントロールすること」に関連する言葉を紹介してきた。(2013年5月9日のブログなど)

特に印象的なのは、松井秀喜さんの次の言葉だった。朝日新聞(2012年12月29日)より。(2013年1月10日のブログ
 

「自分がコントロールできることと、出来ないことを分けて、出来ないことに関心を持たないことですよ」

メジャーリーグで活躍している選手たちは、みんなそういう考え方を持っているようである。イチロー選手の言葉が、朝日新聞(2013年10月8日)に載っていた。


「自分でコントロールできないことに関心を持たない。そして、できるだけの準備をする」

そして黒田博樹さん著書『クオリティ・ピッチング』から。

「自分のコントロールできる範囲のことだけをする」

ヤンキースで活躍している(した)選手3人が、3人とも同じセリフを言っているのが興味深い。

うにもならないことはどうにもならない。すなわち、自分でコントロールできないことには関心を持たない。

反対に、どうにかなること、コントロールできることを、やるべきときにきちんとやるということなのだろう。

思想家で武道家でもある内田樹さんは、武道で大切なことについて次のように語っている。著書『能はこんなに面白い!』から。

「身体を『統御する』のではなく、むしろ『解放する』こと、これから起きることを予見したり、あるいは起きたことを定型に回収することを止めて、なすべき動きをなすべきときになすこと。それが武道的な身体運用の要諦である」 (P114)

 

もうひとつ。作家の田中康夫さん雑誌『文藝』冬号に掲載された『33年後の、なんとなくクリスタル』の中にあった言葉を。

「出来る時に出来る事を出来る人が出来る場で出来る限り」 (P75)

とても、いい言葉だと思う。

2014年2月 7日 (金)

「『どうにもならんことはどうにもならん』『どうにかなることは、どうにかなる』これが僕の人生訓です」

最近、気に入っている言葉を載せておきたい。

ジブリのプロデューサー、鈴木敏夫さんの言葉。雑誌『週刊文春』(11月28日)から。

「『どうにもならんことはどうにもならん』『どうにかなることは、どうにかなる』これが僕の人生訓です」

高畑勲さんや、宮崎駿さんという巨匠とペアを組んできた人だけに説得力がある。

それに関連するような言葉も見つけたので。

元陸上選手の為末大さん著書『諦める力』から。

「人生はどれだけがんまっても『仕方ない』ことがある。でも、『仕方がある』こともいくらでも残っている。努力でどうにもならないことは確実にあって、しかしどうにもならないことがあると気づくことで「仕方がある」ことも存在すると気づけば財産になると思う。 そして、この世界すべてが『仕方ある』ことばかりで成り立っていないということは、私たち人間にとっての救いでもあると思う」 (P228)

「僕は人生において『ベストの選択』なんていうものはなくて、あるのは『ベターな選択』だけだと思う。誰が見ても『ベスト』と思われる選択肢がどこかにあるわけではなく、他と比べて自分に合う『ベター』なものを選び続けていくうちに『これでいいのだ』という納得感が生まれてくるものだと思う」 (P233)

ちなみに劇作家の平田オリザさんのセリフ。(船橋洋一さん『カウントダウン・メルトダウン』より) 

「ベストの選択は無理だと思います。できる限り公正と思われる情報を集めて、次善、三善の策を考えていくしかありません」 (P202) 

ベストの選択なんてない…。

これに囲碁の名人、井山裕太さんが語っていた次の言葉と重ねてみると興味深い。NHK『プロフェッショナル』(1月13日放送)より。

「安全な手というのは、ちょっとずつ甘い手というか。最善から少しずつ悪い、例えば100点の手から90何点、90何点の手が少しずつ積み重なっていくと、もう勝負が入れ替わってしまうような世界なので、どちらがリスクがあるというと結構難しい」

 

ベストを選ぶことにもリスクがある。ベストを求めて何も選ばないのもリスクがある。(2013年10月18日のブログ

だから、ベターな選択を選び続けて、それを常に修正していく。

次の藤原和博さんの言葉にもつながっていく。TFM『ライフスタイル・ミュージアム』(2013年7月5日放送)から。

「日本の教育というのは、正解主義、前例主義、事なかれ主義ですね。正解が必ず一個あるという前提と、前例がないとやらない、なるべく事を荒立てない。

そうじゃなくて、修正主義。まずやってみて修正していけばいいじゃないの。前例主義じゃなくて先例主義。自分が例になればいいじゃないの。さらに事なかれ主義じゃなくて、事あれ主義だと。あった方が学習効果があるし、学べるじゃないの、あるいは失敗した方が学べるじゃなかったんだっけ。そっちにふれないといけない」


正解なんてない。
前例があっても「どうにもならないことはどうにもならない」。「事あれ」の中から学ぶ。

どれもけっこう大事なキーワードだと思う。


2013年5月 9日 (木)

「他人をコンロトールしたくてしょうがないやつが多いんだよね」

昨日のブログ(5月8日)では、内田樹さんの次の言葉を紹介した。改めて。『「正しいオヤジ」になる方法』から。

「自分の体だってそうじゃないですか。勝手なリズムで動いて、勝手に眠くなったり、お腹が空いたりして、勝手に衰えて、勝手に病んで、勝手に死んでしまう。自分の身体でさえ意のままにならないんですから、他人においておや、です。配偶者も、そんな意のままにならない自分の体の延長みたいなものだと考えてればいいんじゃないですか」 (P124)

ままならない、思うようにならない、コントロールできない。自分の体さえそうなんだから・・・。ということ。 

これまで何度か「コントロール」についての言葉を紹介してきた。(1月11日のブログ など)または、一昨日のブログ(5月7日) で紹介した「リーダー論」にも通じると思う。そこで今日は、これまで目についた「コントロールすること」についての言葉を並べてみたい。 

まずは、社会学者の開沼博さん著書『漂白される社会』から。 

「いかに科学が発展し、合理的な計算が可能になろうとも、災害は発生し続け、病で人は死ぬことはある。本来、社会はコントロール不能なものであふれている。
 
しかし、それにもかかわらず、私たちはそのコントロール不能な社会の『残余』に目を向け、それがコントロール可能な方向に転じるよう、身を投じることをやめようとしない。そして、そこに接近した時に得ることができるもの(それは快感なのか、安心感なのか、征服感なのか、充足感なのかわからないが)を求め続けている」 (P202)
 

なのに・・・。早大教授で生物学者の池田清彦さんは、著書『ほんとうの復興』で次のように話している。

「他人をコンロトールしたくてしょうがないやつが多いんだよね。僕は『権力はコンロトール装置である』とずっと言ってきたんだけど、実のところなぜコントロールしたいのかはよく分からないんだ」

「心配なのは、これほどの大きな天災が起こると、他人をコンロトールしたい欲望の強い人間が、これを機にさらにコントロールしようとするのではないかということ」 (P167)

マイケル・サンデル氏は、著書『日本で正義の話をしよう』で次のように書く。

「親であるということは、根本的に予測不可能な何かにかかわっている。もしかすると、この予測不可能性を受け入れることが、人間にとって重要な資質なのではないだろうか」

「もしかすると、親であるということは、あるがままに受け入れるという美徳を教えてくれるのかもしれない」
 

先日の「結婚」の例といい、「家族」というものには、いろいろ縮図のように詰まっている。

経営学者の野田一夫さんは、毎日新聞夕刊(2012年4月27日)で次のように書いている。

「人生は思うようにいかない。しかし、今に見ていろ、の気持ちがあれば何とかなる」

作家の平川克美さん著書『俺に似たひと』から。

「手紙には、ほんの数行、綺麗な文字が並んでいた。『どうにもならないことがたくさんあるけれど、なんとかなる、どうにかなる』、それはおそらく彼女の素直な気持ちの表出だったのだろう」 (P218)


脳学者の養老孟司さん著書『庭は手入れをするもんだ』から。

「自然の中で暮らしていれば、『ああすればこうなる』はないのです。地震も台風も防ぎようがない。都会人は人間が意識的につくり出したもの以外はどんどん遠ざけ、自然に苦手意識をもつようになり、その結果、死をもないようになったのだと思います」 (P55) 

最後に、茂木健一郎さんの言葉。著書『生命と偶有性』から。 

「『偶有性』とは何か-。それは私たちの生が容易には予測できないものであるということである」 (P7) 

「偶有性の海に飛び込め!そうして、力の限り、泳いでみよ!」 (P10)


 

2013年5月 7日 (火)

「勝手なことをする人が少なすぎますよね。いま世の中はどんどん窮屈になっていますが、従順になりすぎて自分で首を絞めているところもあると思います」

前回のブログ(5月2日)では、世の中から「辺境」が奪われていることについての言葉を並べた。最後に紹介した翻訳家の池田香代子さんの言葉をもう一度、紹介する。雑誌『世界』(2012年7月号)から。

「世界を牛耳っている勢力が怖いのは、得体のしれない有象無象がとびきり面白いことをすることだ」 

だからこそ、今のリーダーたちや既得権益者は、自分たちを脅かす新しい価値観が生まれてくる「辺境」というものを奪っていくのかもしれない。今回は、そんな時代の「リーダー」についての言葉を並べてみたい。 

元外務官僚の孫崎享さんは、著書『日本の「情報と外交」』で、次のように書く。

「一見矛盾しているようであるが、独裁政権は国際的危機に直面すればするほど、国内的に強くなる。戦争という非常事態にあって政権に反対するのは非国民だとして、政治的反対派を強権で弾圧していく。経済が厳しくなると、食料の配給ですら、指導者に忠実な人間は食べ物がもらえる。他方、批判勢力は餓えるということで、指導者の勢力を拡大するのに使える」 (P38)
 

北朝鮮の新しいリーダーしかり、オウム真理教の麻原彰晃氏しかり。独裁的なリーダーたちは、危機感をあおり、求心力を高めようとする。それは、昨今の日本のリーダーや企業のトップも同じような気がする。例えば、経済危機が叫ばれる中で、出てきたアベノミクス。政策に賛同し、従うものだけが、景気回復のおこぼれを手にできる。

一方で、企業でも自由に社員を解雇できるようにしたり、ホワイトカラーエグゼンプションといった新しい制度が、経営者の論理を補完するように導入されていく。
 

経済評論家の森永卓郎さんは、文化放送『大竹まこと ゴールデンラジオ』(4月8日)で次のように話していた。

「実力主義じゃないんです。ボスにこびへつらったやつだけが生き残る社会になる。結局、ボスの命令に忠実で地獄の底まで働いて、全部おべんちゃらで通す奴だけが生き残っていく。実力社会になるんではなくて、うまく立ち回った人が勝つ社会。勝ち組にうまく乗っかっていく人が生き残っていく社会になる」

その結果、誰も言いたいことの言えない社会ができあがってくる。どこの新聞だか失念しているが、日立就職差別裁判元原告の朴鐘碩(パク・チョンソク)さんの言葉が、僕のメモ帖には残っていた。 

「日本の企業社会では、ものを言わない、言えない雰囲気があります。利潤と効率を求め、職場の和を重んじるあまり、言いたいことも言えずに抑圧されて生きている。ものが言えなくなっている日本の状況と民族差別は深くつながっている」 

「私は、おかしいと思うことに対して黙るか黙らないか、人間らしく生きるとはどういうことか、人間として生き方が問われていると思った。自分は黙らない生き方をしたいと開き直ったんです」
 

思想家の内田樹さんの次の指摘は、学校における「いじめ」についてのものだが、政治や企業の独裁的なリーダーと、その下で働く政治家や社員の関係と、まったく同根だと思う。雑誌『新潮45』(5月号)から。 

「今の学校におけるいじめは倫理的に自己評価の低い子どもたちと倫理的に破壊された子どもたちを組織的に生み出す仕掛けになっています。そういう子どもたちは本当に弱いのです。どんな理不尽な要求であっても、大声でどなりつけられると崩れるように屈服してしまう。自尊感情がないから。たぶん損得で動くことはできるでしょう。人の顔色をうかがうことはできるでしょう。世の中の風向きを読んで、『大勢に順応する』ことならできるでしょう。でも、抵抗に耐えてプライドを維持することはできないから、自分が『正しい』と思っていることでも、上位者やマジョリティが強く反対すれば、たちまち撤回してしまう」 (P132) 

理不尽な要求に屈服してしまうことになれた子どもたちが、そのまま「大勢に順応する」ことに長けた大人になっていく。 

元ベイスターズ監督の権藤博氏。彼による野球についての次の指摘も、まさに重なる。著書『教えない教え』から。 

「日本の教育は上に行くための教育であって『上に行って何をすべきか』という教育を怠ってきた。 いや、怠ってきたと言うより、日本社会を牛耳ってきた権力者たちが教育そのものをそういう方向へ持って行ったのだ。自分の意思を持たず、機械のように働く人間を増やすことで日本社会は発展してきた」 (P123) 

以前のブログ(2012年6月7日) で紹介した言葉とも重なる。 「上に行って何をするべきか」を考えずに、トップに立ったリーダーがすることは、とにかく求心力を得るために危機感と閉塞感をあおること。そんな気がするし、そんな社会、組織が強く、面白みがあるとは到底思えない。 

コラムニストの小田嶋隆さんが、ツイッター(2012年2月14日)に書いていたコメント。

「忠誠度の低いメンバーを排除すれば強い組織ができると思うのは早計で、実際には逆サイドに走る選手のいないサッカーチームみたいなどうにもならないものが出現する。そういうチームは行進に向いていても、試合では決して勝てない」 


きっと勝てないだけではなく、ゲーム自体面白くないと思う。もちろん行進など見てても面白かろうはずがない。

「強いリーダー」を求める風潮と、「辺境」を排除する風潮は、表裏一体なのだと思う。リーダーたちが危機感と閉塞感をあおればあおるほど、実は危機感や閉塞感は増幅している気がする。


そんな社会は、やがてどこへたどり着くのか。ちょっと思いだす指摘がある。元オウム真理教信者の上祐史浩氏は、近著『オウム事件 17年目の告白』で、麻原彰晃氏がやろうとしたことについて次のように語っている。

「『預言とは計画なんだ』麻原は力を込めてそう言ったことを、私はよく覚えている」 (P155)

「麻原は、地下鉄サリン事件の前に、『戦いか破滅か』と題するビジオを弟子たちに作らせた。実態は、変わらないと破滅するというのは被害妄想であり、戦ったからこそ破滅したのだ」 (P155)

この「戦ったからこそ破滅したのだ」という言葉は重いと思う。

話を戻す。では上記のようなリーダーや社会にしないため、「辺境」を守るため、僕たちができることはないのか。以前のブログ(2月1日)で紹介した「素人の乱」の松本哉さんの言葉を、最後にもう一度紹介しておきたい。雑誌『世界』(2012年7月号)から。(実は、最初に紹介した池田香代子さんとの対談)。

「勝手なことをする人が少なすぎますよね。いま世の中はどんどん窮屈になっていますが、従順になりすぎて自分で首を絞めているところもあると思います」

「私たちが意外と簡単にできるのは、人の言うことを聞かないということです。強力な指導者の言うこと、軍国主義でもファシズムでも、どれだけ言うことを聞かないか。言われたことを右から左に流して、ケロッとしていられる状況をどれだけつくっていけるか」


 

2013年2月 1日 (金)

「でも私たちが意外と簡単にできるのは、人の言うことを聞かないということです」

体罰問題が広がっている。この問題について、ちゃんとした考え方を持っている人の意見を読んだりすると安心する。案外というか、当然というか、社会の中にはちゃんとした考えを持った人は多いのに、世の大勢が「体罰黙認」となってしまうのは、どうしてだろうか。そんな「社会の体質」は、どうやったら変えていけるのか。先の選挙で、反原発という考えの方が過半数を超えていたにも関わらず、唯一原発容認だった自民党が圧勝したという悲しい結果をも思い出す。どうすれば、我々は「社会の体質」を変えていけるのだろうか。ぶつぶつ…。

野球の松井秀喜選手のコメントをきっかけに、「コントロールできること」と「コントロールできないこと」について考えたりした。(1月10日のブログ)。それからも、「コントロール」「制御」「支配」など言葉には、とても敏感になって拾い集めている。 

体罰に関しては、コラムニストの小田嶋隆さんが、『日経ビジネスオンライン』で連載している 『小田嶋隆のア・ピース・オブ・警句(1月18日)』で次のように語っていた。

「体罰は、単なる物理的な暴力ではない。より本質的には、威圧と罰則で人間をコントロールしようとする思想の顕現として、子供たちの前に現れるものだ」
 

さらに小田嶋さんは、体罰問題が起きた大阪の桜宮高校に対する橋下市長の手法にも、同じ問題を見てとる。TBSラジオ『たまむすび』(1月16日放送)から。

「大阪市の橋本市長が今回の件について無期限活動停止と、来季の入試を差し止めみたいなことを要請するというようなことを言っている。これは方向としては体罰と一緒で、一罰百戒じゃないですけど、何か間違いがあった時や失敗があった時に、ちょっと大きめの罰を与えることで現場をコントロールしようとするということは発想としては体罰と一緒だと思う。だから自分は体罰を容認してきたけど間違っていたなんて言って、ちょっとシオらしいことを言ってましたけど、発想の根本ではアメとムチで人をコントロールしようとか、支配と服従、あるいは圧迫と制圧みたいな関係で人間関係をみているという点では変わっていないんじゃないかと思う」


元ベイスターズ監督の権藤博さんがが著書『教えない教え』で、子供たちを安易にコントロールしようとする指導者たちに厳しい言葉を投げかけている。

「高校野球にしてもリトル・リーグにしても“勝つ”ことだけを唯一の目標にしてしまって“戦うの楽しさ”というものを教えていない。指導者のほとんどが『勝ちたいんだったら俺の言う通りにしろ。勝つためにはこれをやっておけばいい』という一方的な教え方になってしまっている。 これではスポーツの“楽しさ”や“面白さ”は子供たちに決して伝わらない。できない子はなぜできないのか一緒に考え、分かるまで何度も教えてやる、とことん付き合う。そういったことのできる指導者は残念ながら少数派なのである」 (P124)


今度の話は体罰問題とはまったく関係ない。サッカーのJリーグに、名古屋グランパスというチームがある。3シーズン前に優勝、翌シーズンは準優勝という結果を残した後の昨シーズンは、7位と惨敗した。その惨敗という結果について、チームキャプテンの楢崎正剛選手は、雑誌『GRUN』(1月号)で次のように語っていた。

「もっと自分たちで支配したり、もっとうまくコントロールできるんじゃないかとか。結局そういうものを追い求めすぎて、自滅していました」 

毎年のように優勝争いを経験し、チームや選手たちに自信もつく。いつのまにか、ゲームを自分たちで完璧に支配・コントロールできるのではと思い込む。その結果、何かを失い、何かができなくなり、やがて隘路に入って自滅していく。ある意味、かつて右肩上がりを続けてきた日本で、その後、起きている社会現象を象徴している言葉のように思える。 

全てをコントロールしようとする考え方。それはどこから来ているのか。生物学者の福岡伸一さんは、著書『せいめいのはなし』でこんなふうに話している。 

メカニズムさえコントロールできれば、世界のすべてがコントロールできるという錯覚の果てに今の文明の問題があるのだと思います。でも、それはまったく違う。文明というのは、人間が自分の外部に作り出した秩序で、機械的な世界観です。人間を豊かにし、便利にし、雇用やお金を生み出すものだったはずなんですが、自然はそんなものではない」 (P98) 

解剖学者の養老孟司さんは、著書『庭は手入れをするもんだ』で、次のように語っている。 

「自然の中で暮らしていれば、『ああすればこうなる』はないのです。地震も台風も防ぎようがない。都会人は人間が意識的につくり出したもの以外はどんどん遠ざけ、自然に苦手意識をもつようになり、その結果、死をも見ないようになったのだと思います」 (P55

養老さんが昔から指摘する「ああすればこうなる」という風潮こそ、まさに福岡さんの言う「すべてをコントロールできる錯覚」のことである。そうやって気づきあげたのが都会である。養老さんは、そのためには、都会から離れ、「花鳥風月」に囲まれた自然の中で過ごす時間を持つことを勧めている。

将棋の羽生善治氏は、自分の思い通りにいかない状況、コントールできない状況こそ理想だと話す。著書『直観力』から。 

「自分が想定した、その通りでは面白くない。自分自身思う通りにならないのが理想だ。
  計画通りだとか、自分の構想通りだとか、ビジョン通りだとかいうことよりも、それを変えた意外性だとか偶然性、アクシデント、そういうあれこれの混濁したものを、併せ呑みながらてくてくと歩んでいくのが一番いいかたちなのではないかと思っている。
 
変っていく、変化し続ける自分を納得しながら楽しむ」 (P208)
 

まったくもって大人だ。以前のブログ(2012年3月8日)で、「たくみにゆらぐ」ことのできる人こそ、「成熟した大人だ」という言葉を紹介したことがある。羽生さんの「変わっていく、変化し続ける自分を納得しながら楽しむ」というのは、まさにそれである。 

我々が、羽生さんのように「変わっていく、変化し続ける自分を納得しながら楽しむ」ように過ごしたとしても、なかなか全てをコントロールしたがる都会の「社会の体質」は変わらないのだろう。というか、その傾向はますます強まったりしている。では、我々はそんな社会に対しては、どうすればいいのか。 

「素人の乱」で知られる松本哉さんは、雑誌『世界』(2012年7月号)で次のように話している。 

「勝手なことをする人が少なすぎますよね。いま世の中はどんどん窮屈になっていますが、従順になりすぎて自分で首を絞めているところもあると思います」 

「異質なものを統制しようとすることが社会の末端まで行き届く前に、こっちがどれだけ勝手なことのできるコミュニティをつくれるかが重要だと思います」

そこで松本さんは、「勝手なことをできるコミュニティ」として、高円寺を地盤にして、リサイクルショップやデモを展開する。ちなみに、同じ対談の中で語っていた次のフレーズも非常に興味深いので紹介したい。 

「法律や政治にコミットしていくのはハードルの高いことで、選挙で悪人以外に投票するくらいしか、普通はできません。でも私たちが意外と簡単にできるのは、人の言うことを聞かないということです。強力な指導者の言うこと、軍国主義でもファシズムでも、どれだけ言うことを聞かないか。言われたことを右から左に流して、ケロッとしていられる状況をどれだけつくっていけるか」

この
松本さんの「人の言うことを聞かないこと」という言葉。これは案外、芯を食っている気がするのだが。どうだろうか。

2013年1月11日 (金)

「人間はそんな完全な存在ではなく、初歩的なミスを犯すし、失敗もする。全く予期できない想定外の何かが起こるのです」

前回(1月10日)のブログでは、松井秀喜選手の自分がコントロールできることと、出来ないことを分けて、出来ないことに関心を持たないことですよ」という考え方について書いた。

いきなり話は変わる。最近の新聞で、安倍政権がやりたがっている「インフレ目標」とか、「TPP参加」とか、「憲法改正」とかについて読んでいると、どうも政治家の方々は、金融市場や国際市場、そして人の心まで「コントロールできるもの」と踏んでいるのはなないかと思えてくる。「原発推進」の考え方だって、そうだ。人知を結集すれば、コントロールできないものがあるはずはない、そんな考え方。

本当に、そうなのだろうか。例えば、毎日新聞夕刊編集部が編纂した書籍『<3・11後>忘却に抗して』を読んでいたら、知識人たちの以下のコトバが目に付いた。 

経済学者の佐伯啓思さんは、この本の中で、福島の原発事故について次のように書いている。 

「近代主義の誤りの一つは、人間の理性的な能力に過度な信頼を置いたことです。人間は理性的に進歩していけば、自然、社会、システムを合理的にコントロールできると考えた。しかし、人間はそんな完全な存在ではなく、初歩的なミスを犯すし、失敗もする。全く予期できない想定外の何かが起こるのです」 P203) 

また作家の玄侑宗久さんは、東日本震災後の我々の心構えとして、次のように書く。 

「分からないことに分からないまま向き合い、曖昧模糊とした現実を暗中模索で進むしかないでしょう。それは福島に限りません。いくら計画を立てて将来が見えるつもりになっていても、先のことは分からないと今回の震災で皆が痛感したはずです」 P200) 

しかし、政治の世界では、上にも書いたが、より全てに対して「コントロールしよう」という動きが強まっている気がする。そんな風潮については、以前のブログ(2011年12月14日)で、脚本家の倉本聰さんのTPPに関する次のコトバを紹介している。(朝日新聞2011年12月9日 

「農林漁業は統御できない自然を相手にするところから始まっている。工業は、すべてを統御できるという考え方に立っている。この違いはでかいですよ。統御できるもので勝負して、統御できないものは切り捨てる。そういう考え方が、TPPの最大の問題点だと思えるんです」 

 もしもの政治家の方々(もちろん全員ではないです)のように、すべてをコントロールできる、と考えていった場合、どうなっていくのだろうか。きっと、それでも想定外が生まれたり、コントロールできない異端はやがて生まれていく。その先には、隠ぺいや排除(切り捨て)というものにつながって行かざるをえないんどえはないか。そんな危惧を持つ。だって、それは、記事書き換え問題にみられる中国共産党の動きがまさにそうだから。 

結局、必要なのは松井秀喜選手のように、最初から「自分がコントロールできることと、出来ないことを分けて」考える謙虚な態度なのではと思う。

2013年1月10日 (木)

「自分がコントロールできることとできないことを分けて考えなければいけません」

昨年末に、野球の松井秀喜選手が引退を表明した。その引退について扱っていた朝日新聞(2012年12月29日)の記事の中で紹介されていた彼のこんなコメントを興味深く読んだ。

「自分がコントロールできることと、出来ないことを分けて、出来ないことに関心を持たないことですよ」 

そのコラムでは、その例のひとつとして、マスメディアに何かを書かれることは、自分ではコントロールできるものではないので、そうしたことには関心そのものを持たないようにしているということが書かれていた。ちょっと興味を持ったフレーズだったので、それから松井選手の本を読んでみて、それに関連するフレーズを拾ってみた。 

2010年、ヤンキースを去るタイミングで出版した著書『信念を貫く』には、次のように書いている。 

「自分がコントロールできることとできないことを分けて考えなければいけません。そして、コントロールできることについては、結果につなげるべく努力をします」 

「例えば、打席に入ってからは自分でコントロールできます。相手投手のどういうボールを待って、どう仕留めていくか。それは基本的に僕自身に決定権があります。いいバッティングができるよう、心も体もコントロールすべく努力できます。 

 でも、試合に出る、出ないを判断するのは監督であり、コーチです。僕に決定権はありませんから、これはもう仕方がないことです。割り切るしかありません」 (P56)

また左手を骨折した後の2007年に出版した著書『不動心』の中でも、いくつか「コントロール」という言葉を見つけることができる。 

「コントロールできないものに気を病むのではなく、できることを精一杯やろう」 (P78) 

「絶対にコントロール不能なもの。それは人の心です。人の気持ちをコントロールしようとするほど、無意味なことはありません。例えば高い地位にいれば、色々な人に命令することができます。多くの人は命令に従うでしょう。しかし、行動で従ったからといって、気持ちまで従っているかどうかは分かりません。人の心はコントロールできないと思います。でも、コントロールはできずとも、動かすことはできるのではないかと思っています」 (P78) 

「例えば、スタンドからのブーイングがあります。観客が試合を見てどう思うかはコントロールできません。 

 しかし、彼らの心を動かすことはできます。全力でプレーをし、結果を残していれば、ブーイングは拍手に変わります。また逆に、もしも手を抜いてプレーしたら、拍手がブーイングに変わります」 P79)

さらに面白いのは、松井選手が野球についてだけでなく、「恋愛」についても、そうした考えを当てはめて語っていたりする。 

「恋愛においてもいつものように、自分で解決できることとできないことを分けて考えるようにしています。つまり、自分が考えたり何かをしたりすることで解決できる可能性があるのかどうかを区別するのです」 

「なんとかなるものであれば、解決しようと知恵も絞りますが、自分の力でどうにもならないものについては、あれこれ考えません。そうしたことをくよくよ考えるのは時間と労力の無駄だし、精神的にもあまりよいことではないと思うのです」 P169) 

コントロールできるものと、できないものをはっきり分け、できるものに対して徹底的に考え、努力する。その結果として、周囲の人の心を「コントロールする」のではなく、「動かす」。そして、そのことを書いている本の名前が『不動心』というのも興味深かったりする。

別にジャイアンツファンではないが、松井選手が監督としての「不動心」をグランドで見せてくれる日を楽しみに待ちたい。

2012年8月28日 (火)

「その元気を生むのは、『数字や結果にとらわれてないところ』だと僕は思う」

子供の夏休みが終わった。色んなイベントに付き合っていたら、あっという間に夏休みが終わった感じ。しばらくご無沙汰してしまった文章もどんどん書いていきたいと思う。

うちの子供は、今年から地元の少年野球に参加している。毎週末、練習や試合に臨んでいる。特別うまいわけではないが、仲間との野球を楽しんでいるようだ。

度々、その試合を見学していて、気付いていたことがある。そのひとつが、コーチや親といった大人たちによる、子供たちへの不思議な態度のことである。ベンチにいるコーチや親は、ゲーム中の選手たちに色んな指示や指摘をする。まあ、そうだろう。でも、その内容があまりに「マイナス」な指示ばかりで正直、驚いてしまったのである。「何でそんなボールを打つんだ!」「リードが足りない!」「もっと飛び込め!」など、子供ができないことを立て続けに大きな声で指摘していく。時には怒気を含んだような声で。選手たちを励まし前向きな気持ちにさせたり、リラックスさせたりするような意図はあまり感じられない。とにかくできなかったこと、失敗したことを指摘し続けるのである。何かあるとベンチをおびえた目で見ている選手が何人もいた。少なくとも、その瞬間は野球をやっていて楽しそうではない。

ボク自身は、子供の頃の公園での野球と社会人になってからの草野球くらいしか野球経験はない。ちゃんとした野球の世界では、「マイナスの指示」は昔からの常識なのかもしれない。でも練習中ならいざ知らず、試合中に子供を萎縮させてしまっては逆効果なのでは。

実はボクが先日、参加させられた少年野球の審判の講習会でも、そうだった。こっちは初体験で素人。ルールや用語を覚えるのだけで必死なボクのような者に対して、「教師役」の先輩審判たちは、出来ていないことについての指摘を次々と容赦なく投げかけてくる。

「できたことを褒めるより、できないことをとにかく叱る」。これが、子供たちの試合、審判の講習会と両方に共通することだと思った。ボクが子供なら、野球を続けたくなくなるかもしれない。正直、そうも思った。

そんなことを考えていたら、競技は違うけど、『サッカー批評』(57号)に似たような指摘をする文章があったのを思い出した。それは、サッカーライターの鈴木康浩さんが書いた『子供がサッカーを嫌いになる日』という記事。その中には、こんな言葉が紹介されていた。

「昔からベンチで怒鳴って子供をロボットのように扱う指導者はいました」

「子供は何が正しいのかが分からなくて、まったく理解ができずに大人の顔色を気にしてプレーしている。楽しいわけがない

そうやって、サッカーを楽しめなくなった子供たちが多いという。

「子どもたちにはふざけさせてあげる」

「練習する上では非効率なんだけど、普段の状況を考えれば、この子供たちの成長を考えれば、そういう会話も必要」

子供が成長したり、次のステージに上がっていくためには、非効率であっても「ふざけること」も必要という。

スポーツをやる意義には、「勝負の結果」以外にもいろんな要素がある。楽しむこと。上手になっていくこと。仲間との交流などなど。

もちろん「勝つこと」も大事だが、それだけでは悲しい。なのに、周りの大人たちは「勝負の結果」ばかりを求めがちになる。子供が、その世界で伸びていくためには、時には「ふざけること」だって必要なのだ。

スポーツとは別の世界だけど、この記事を読んでいてつながった文章があったので紹介したい。東京・自由が丘で「ミシマ社」という出版社をやっている三嶋邦弘さん。その著書『計画と無計画のあいだ』で、こんなことを書いていた。

「会社をやっていれば、いいときもあれば悪いときも当然のごとくある。その悪くなったとき、全員がドヨーンとした顔で『ああ、ああぁ・・・』と地の底から響いてくるようなため息をついていては、チームの士気は下がる一方であろう。そんなときこそ、『元気』が必要とされる。元気は元気なときよりも、元気じゃないとき、真に必要なものなのだ。そして、その元気を生むのは、『数字や結果にとらわれてないところ』だと僕は思う。いってみれば、『遊び』の部分だ」(P120)

そのまま、少年野球やサッカーにも通じるコメントだと思う。スポーツの世界も、どんなに練習して努力しても結果が良いときも悪いときもある。失敗した時こそ、「元気」になる指示やコメントが必要なのだ。それなのに「マイナスの言葉」ばかり履いていては、チームの士気は下がる一方であろう。

「ふざけること」や「遊び」の部分がないと、我々は成長できないということ。これは、更に飛躍すれば社会そのものにも通じることのようだ。こんな文章もあった。日本在住の政治学者C.ダグラス・ラミスによる『経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか』には、こんな文章が載っていた。

「アリストテレスが書いていたことですが、民主主義の必要条件は社会に余暇、自由時間があるということです。余暇がなければ、民主主義は成り立たないと。人が集まって議論したり、話し合ったり、政治に参加するには時間が掛かる。そういう暇がなければ政治はできないのです。政治以外にも人は余暇で文化を作ったり、芸術を作ったり、哲学をしたりする、とアリストテレスは言いました。けれども政治的に言うと、そういう勤務時間以外の時間があって初めて、人が集まり、自由な公の領域を作ることができる、そういう考え方だった」(P188)

社会のなかで民主主義を進めていくためにも、「余暇」や「自由時間」が必要なのである。

全く同じことを、活動家の湯浅誠さんも『ヒーローを待っていても世界は変わらない』で指摘していて興味深い。

「私は最近、こう考えるようになりました。民主主義とは、高尚な理念の問題というよりはむしろ物質的な問題であり、その深まり具合は、時間と空間をそのためにどれくらい確保できるか、というきわめて即物的なことに比例するのではないか」

「私たちの社会が抱えている問題はそれぞれ複雑で、一つひとつちゃんと考えようとすれば、ものすごく時間がかかります。一番簡単なのは、レッテルを貼ってしまうことです。一度レッテルを貼ってしまえば、それ以上考える必要がない」(P85)

少年野球の話から、ついつい飛躍してしまったが、スポーツだろうと、ビジネスだろうと、民主主義だろうと、「遊び」が必要ということなのだ。「遊び」や「自由な時間」によって、ストックを増やしたり、自分の本来の立ち位置を確認したりする。そうしたいと社会の中の市民の目が死んでしまうのではないか。日本社会の閉塞感は、このあたりに起因しているのではないか。

少年野球に話を戻せば、湯浅さんが指摘するように野球の世界だって複雑な世界であるはず。マイナスなことだけに目を向け、レッテルを貼るのではなく、それぞれの大人が考えて、選手たちが「自立」していくことを支えることが大事なのではないだろうか。

 

2012年4月 6日 (金)

「努力したのであれば、すぐに何らかの結果が欲しいのが日本人ではないでしょうか」

先日、御手洗瑞子さんの『ブータン、これでいいのだ』という本を読んだ。御手洗さんは、ブータンで1年間政府職員として働いた経験を持つ。去年若き国王が来日したり、「国民総幸福(GNH)」なんてもので最近、何かと取り上げることのおおいブータン王国。御手洗さんが、働きながら見たその国の様子が書いてあって非常に興味深かった。

 

ブータンの良さというと、この本を読むまでは、どこか貧しい国の「清貧」の良さに違いないと思ったりしていた。しかし、実際は違う。インドと中国という2つの大国に挟まれた小国としての「リアリズム」のなか、国民は生活している。携帯電話もあれば、i-Padなどもあり決して貧しいわけではない。チベット仏教の精神を大事にしながら、おおらかに生活している。

 

「日々ブータンで仕事をし、またこの土地に暮らしていて感じるのは、そもそもブータンの人々は『人間の力では(また自分の力では)がんばってみてもどうにもできない』と思っている範囲が、日本人である私たち以上に大きいのではないかということ。自然の力という意味だけでなく、運や縁、運命なども含めて、『まあ、なるようになるよ』というスタンスが強いように感じます」(P182)

 

「輪廻転生を信じ、いつもうっすらと来世を意識し、老後には毎日来世のために祈る。ブータンの人にとって、『今の人生』のとらえ方が、私たち日本人とは違うのだろうなと感じます。『現世が全て』と考えていたら、人生が思い通りにいかない時、もう取り返しがつかない気がして、つらくなる。反対に『現世がすべてではない』と信じれば、多少うまくいかにこと、思い通りにいかないことがあっても、『うーん、まぁいっか。次の人生がうまくいくといいな』と割り切れる」(P210)

 

先日亡くなった評論家の吉本隆明さんの『吉本隆明が語る親鸞』という本に、親鸞の持つ「来世」「他力本願」の考えが興味深く書かれていたが、その親鸞の思想とブータンの仏教が、みごとにつながっている感じなのだ。

 

翻って、そのかつて親鸞という思想家を生んだ日本という国では、どうなのか。たまたまだが、全くブータンとは対極となるような状況を、藤原和博さんが著書『坂の上の坂』の中で指摘していて、非常に興味深い。

 

「キリスト教をはじめ、なぜ世界の宗教が日本に浸透しなかったのか。ひとつの仮説があります。それは、日本人が現世御利益を求めてしまうからです。すぐに結果を求めてしまう。『天国では幸せになれる』などと言われてもピンと来ない。努力したのであれば、すぐに何かの結果が欲しいのが日本人ではないでしょうか」(P80)

 

藤原氏は、日本では「現世御利益」という宗教が信じられているとも言っています。

「では、現世御利益の宗教とは、具体的にはどんな教義を持つものでしょうか。日本を席巻したのは、『頑張る教』だったのではないかと思います。例えば、勉強して頑張れば、いい学校や大学に入れ、いい会社の社員になって、課長くらいなればみな車や家が買える。要するに『いい子』を貫いて生きれば、きっと幸福は待っている、ということ」(P80)

ブータンや親鸞の思想とは、まさに対極ともいえる状況が日本にはあるよう。短絡的に「結果、結果」という現世御利益を求め過ぎていることが、今の日本の閉塞感につながっているのでは、とブータンの人たちの生活を知ると思えてくる。

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