コンプライアンス

2014年3月17日 (月)

「しかし、それもこれも、どこかできいたようなことばかりではないか」

前回のブログ(3月14日)では、「ムラと空気のガバナンス」というジャーナリストの船橋洋一さんの言葉を載せた。

その船橋洋一さん近著『原発敗戦』は非常に興味深い本だった。今回は、その中からの言葉を中心に紹介してみたい。

まずは、もう一度、船橋さんによる「村と空気のガバナンス」についての言葉を載せたい。ビデオニュース・ドットコム(3月8日放送)より。

「民間事故調で『ムラと空気のガバナンス』という言葉を打ち出した。まさに空気。異質のものを認めたくない排除しようする。だから本当の意味での議論がなかなかできない。同質的なもの、初めから結論を分かっていて落としどころが分かっていて相場観を共有している、ということ。これは、リスクという観点に絞ってみても、ここまでにしておきましょうという、みんな言わなくても以心伝心分かっちゃう」 (パート①27分ごろ)

「異論をあえて唱えることをダサい。KYなんだよ、読めないと。空気を読める奴ばかりだから、役に立たない。ムラと空気のガバナンスをやっているから、どうしても危機には弱い」 (29分ごろ)

『原発敗戦』では、その「危機には弱い」という日本の社会の問題点がいやというほど指摘されている。

「危機の際、求められる人間は空気を読むタイプではない。危機の時は優先順位を峻厳につけるしかない。こうしたときは、現実の感情の渦に巻き込まれず、専門性と理性だけを頼りに発想し、助言できる人間――空気を読むのが必ずしも得意でないタイプ――が役に立つ」 (P66)

「官僚機構は平時は、法遵守、公正、効率――実際、それが実現しているかどうかは別問題として――、ボトムアップなどを重んじる。
 
しかし、危機にあっては法律を曲げなければならないこともある。トリアージュのような優先順位を容赦なく迫られることもある。効率一本槍ではなくリダンダンシー(溜め)が必要なこともある。指揮官の更迭、チームの編成替え、損切りなどはトップダウンでやる以外はない」 (P150)

「危機の時には、このように所見、知見を明確に言い切る専門家が必要なのです。しかし、空気はまったく読めないし、読もうともしない。結局は、官邸からつまみ出されてしまう。集団を同質にしすぎてムラにすると、危機に弱くなる。日本の“国債ムラ”にもそのリスクがあると見るべきでしょう」 (P235)

これは、ビデオニュース・ドットコム(3月8日放送)でも本人が語っている。

「日常の場合だったら、平等とか公正とかいうのはとても重要です。それから法の遵守。それから効率がなければ続かない。下からきちんとあげていくという手続き、手順、これも重要です。しかし、危機の時は、ここだけは残さなければいけない、ここだけは切り捨てるという優先順位というのが決定的に重要。全部は残せない。法律の遵守もギリギリ守るにしても相当変えなければいけない。例えば効率も、一辺倒ではいけない無駄なところが意外に力を発揮したりする」 (パート①54分すぎ)

「最後は価値観なんです。つまり優先順位って価値観になる。危機の時は価値観のぶつかり合い、激しい衝突ですから。その時に誰の価値観、社会全体とか、民族全体とか、将来の時間軸とか、そういうことになってくる。どこを残すかということは。単に効率性とかいうことではなくて、価値観そのものを日頃から育てるような、共有するような場と、それを引っ張っていくような人材をつくらないといけない」 (パート②11分ごろ)

ここでの「最後は価値観」という言葉は重いと思う。

えば企業におけるコンプライアンスとは、危機対応のためのものに設けられているはず。本来は、その企業にとっての一番大事な「価値観」を決め、その理念に基づいた経営を行うことが大切なはず。

なのに実際におこなわれているのは、コンプライアンスを突きつめた結果、コントロールしやすい同質的な組織を作り、リスクを避け、異質を排除し、危機に直面しても法令順守し続け、まったく危機に向かない組織を作り上げてしまう。


まさに東京電力がそうであり、また日本という国もそうなのである。ということ。


船橋洋一さんは、次のようにも書いている。 

「危機の時、その国と国民の本当の力が試されるし、本当の姿が現れる」 (P20)

上記した船橋さんの指摘の中には、このブログで、これまで何度も取り上げていた問題がたくさんある。


「ルール」
「コンプライアンス」「コントロール」「優先順位」「価値観」「水を差す」、そして「言葉・言語力」

『原発敗戦』の中には、その「言葉」についての指摘も多い。

「もう一つ、危機の際、重要なのはリーダーの発する「言葉」である。
あの国家危機のさなか、菅は国民の心に残る言葉を一つとして発しなかった。
それによって『国民一丸』となって危機に取り組むモーメントを生み出すことができなかった」 (P68)

「『絶対』は魔語である。『絶対』という言葉を使った瞬間からそれこそ『負け』なのである」 (P108)

そして、この本の「はじめに」には、次のように書かれている。

「しかし、それもこれも、どこかできいたようなことばかりではないか」

「戦後70年になろうとしているというのに、いったい、いまの日本はあの敗戦に至った戦前の日本とどこがどう違うのだろうか」

「日本は、再び負けたのではないか」

「福島原発事故は、日本の『第二の敗戦』だった」 (P20)

そして、最後に収められている歴史家の半藤一利さんとの対談の中で、船橋さんは次のように語る。

「共通の遺産として後世に残していく。いざというときに反射的に、『あ、これはあのときの失敗に似ている』『あのときはこうして助かった』と。国民の記憶に深く刻まれるかどうかが、次の危機を乗り越えるための、よすがになるはずなのです」 (P272)


そうなのである。我々は「ムラと空気のガバナンス」を抜け出すためにすることは、「歴史から学ぶ」しかないのである。(「歴史に学ぶ」

 

2014年3月14日 (金)

「空気を読めるやつばかりだから、役に立たない。ムラと空気のガバナンスをやっているから、どうしても危機には弱い」 

今朝(3月14日)のTBSラジオ『スタンバイ』で、森本毅郎さんが、浦和レッズのサポーターによる差別的横断幕の問題に触れて、次のように語っていた。

「熱心になって、声援も一糸乱れずに送りたいという気持ちが高ぶってくると、どうしても統制を乱す人たちはちょっとお引き取り願いたいとなる。訳が分かった人たちだけでやりたい。この気持ちが横断幕になったんだろうけど、横断幕の言葉が悪い」

「言ってみれば集団で一糸乱れずにやりたいというこの発想。個々、一人ひとりが自由に応援するとか、自由に喜ぶとかではもの足りない。これが高じると、こういう形になって、自分たちと違う人たちは全部排除と。情けない話だと僕は思いますよ」


集団。統制。一糸乱れず。そして、言葉による違う人たちの排除。これらは、今の日本の社会で、あちこちで見ることのできる構図ではないか。

同調圧力、効率化、コントロールしやすい集団、そして曖昧な言葉による「異なる価値観」の人たちの排除…。


まさに安倍政権がやろうとしている政策も含めて、この1年くらいで、急速に広まっている構図なんだと思う。

きのう聴いていたビデオニュース・ドットコム『マル激トーク・オン・ディマンド』(3月8日放送)でほとんど同じ構図について話していたのを思い出す。こちらは原発について。

ゲストとして出演していたジャーナリストの船橋洋一さんが、原発をはじめとした日本社会の問題について次の言葉で語っていた。船橋さんは、福島原発事故独立検証委員会のプログラムディレクターを務めた。

「民間事故調で『ムラと空気のガバナンス』という言葉を打ち出した。まさに空気。異質のものを認めたくない排除しようする」

「だから本当の意味での議論がなかなかできない。同質的なもの、初めから結論を分かっていて落としどころが分かっていて相場観を共有している、ということ。これは、リスクという観点に絞ってみても、ここまでにしておきましょうという、みんな言わなくても以心伝心分かっちゃう」
 (パート①27分ごろ)


「異論をあえて唱えることをダサい。KYなんだよ、読めないと。空気を読めるやつばかりだから、役に立たない。ムラと空気のガバナンスをやっているから、どうしても危機には弱い」 (パート①29分ごろ)

一糸乱れない集団。異物・異論の排除。結局、日本社会は、どこもかしこも行っても「ムラと空気のガバナンス」になってしまう。政治、原発、そして浦和のサポーターたち。

「ムラと空気のガバナンス」では、曖昧なローコンテキストの言葉が流通し、誤解や不和を広げてしまうというのは、まさに浦和サポーターがやったこと。(3月6日のブログ

上記のビデオニュース・ドットコムの番組で社会学者の宮台真司さんが語っていた次の言葉も覚えておいた方がいい。

「口火を切る。空気を破る人間が、この世界では、特に最悪な事態が起こるかもしれないときには、もっとも倫理的な振り舞いとなるということ」 (パート①6分ごろ)

何回でも書く。空気が破る。つまり、水を差すことが、もっとも「倫理的な振る舞い」となるのである。(「水を差す」

今回の浦和レッズの問題では、差別的な文字を掲げたサポーターも問題だが試合中に他のサポーターから指摘を受けたものの、何も動かなかった球団の問題もある。

これも、原発事故と重なる部分がある。上記の番組で、司会でもあるジャーリストの神保哲生さん宮台真司さんとのやりとり。

神保 「危機対応ができていないために、何が発生しているかというと。一番大事な時には非決定という、何も決めないということによる決定がなされている。で状況が流れていくということが必ず起きる」

宮台 「日本の場合は、過失不作為、みんなでやれば怖くない。明らかに過失があったんですよ。みんなが不作為なことによっておこった過失なので、責任は問えない。つまり責任はないということなる」 (パート①58分ごろ)

過失不作為。まさに「思考停止」であり、「見たくないものは見ない」「考えたくないことは考えない」問題。「集団的アインヒマン状態」ともいえる。(3月3日のブログ

2014年1月24日 (金)

「日本人は大手メディアの信頼性を重視し、誤報を許さない。一方、米国ではアカウンタビリティー(説明責任)を重視する」

話題、変わります。

田中将大投手のヤンキース入団が決まった。今年もメジャーリーグも楽しみ。待ち遠しい。

そのメジャーリーグ。そこでの初の日本人審判を目指して、3Aまで行った平林岳さんという方がいる。最近、その平林さんの著書『サムライ審判「白熱教室」』を読んでいて、野球における日米の「価値観の違い」が興味深かったので、その本の中から印象的な言葉を抜き出して、紹介してみたい。

「アメリカ野球と日本野球の一番の違いは、野球に対する価値観です。
 日本の野球は、少年野球でも高校野球でも大学でも、一番大事なのは『チームの勝利』です。
 アメリカの場合は、どちらかというとチームの勝利は二の次です。それよりも、選手が野球を楽しむ。監督も現場で野球を楽しむ。こっちのほうがもっと大事だという意識があります」 (P27)

「日本の野球は、勝利を目的にしている野球です。審判の判定にも非常にシビアです。日本のプロ野球でミスジャッジは決して許されません」 (P24)

 

「『野球を楽しむのが一番』という基準で考えると、ミスジャッジは小さなことです。選手や観客にしてみれば、審判がアウトかセーフかで迷っているようでは困ります。少々間違えたとしても、毅然とした態度をとり続ける審判のほうが『よい審判』なのです」 (P139)

「アメリカでは、事実よりも審判の判定のほうが大事だと思ってくれています。だからファンも選手も、アンパイアにミスはあるし、それが野球のゲームの一部だと認識しています。だけど日本の場合は、選手も監督もファンもミスジャッジを許しません。『間違いは間違いだ』と言われるのです」 (P26)

日本の野球(というか、スポーツ全般)において、「勝利至上主義」という考え方は強い。それは、週末に小学生の少年野球をボランティアで教えているボクにも、実感としてある。その「勝利至上主義」の弊害は、以前のブログ(2013年1月28日など)で書いた。

改めて、ベイスターズの元監督、権藤博さんの言葉を。著書『教えない教え』から。

「現代社会は『結果がすべて』という考え方に支配されてしまっている。そんな社会的風潮も人が緊張する度合を深めているような気がする。 『失敗は許されない』。そんな考えに囚われてしまったら緊張するのは当たり前だ。思考も体も柔軟性を欠いた状態では、普段の実力の半分も発揮できないに決まっている」 (P78)

審判だって、選手たちだってそう。
勝利至上主義によって間違いを恐れ、思い切ったジャッジ、プレイができなくなる。そんな野球でいいのだろうか。第一、楽しくない。

平林岳さんは、もう一つの著書『パ・リーグ審判、メジャーに挑戦す』で、次のようにも書く。

「審判の権威を高く保つのは、ファンのためです。ファンにゲームを楽しんでもらうには、試合をスムーズに進行させることが大切で、それには審判の権威を常に高く保っておくことが必要だという考えなのです」 (P27)

「日本の場合、球場の中での優先順位は選手(あるいはチームの勝敗)は最上位です。マウンドで相談をしている当事者に、お客さんを待たせているという意識はおそらくないと思います」 P48)

 

この意識は大事だと思う。確かに、日本では投手交代の時に、マウンドで時間稼ぎの相談事を平気でしている。

この指摘を興味深く読んでいたら、ジャーナリズムの世界に対しても同じ指摘があったので、それも紹介したい。

この度、ザ・ハフィントン・ポストの編集主幹になったキャスターの長野智子さん朝日新聞(1月21日)より。


「日本人と米国人ではニュースへの接し方が違います。日本人は大手メディアの信頼性を重視し、誤報を許さない。一方、米国ではアカウンタビリティー(説明責任)を重視する。間違いがあれば、誰が責任をとってどう説明して謝罪するのかに重きを置く。誤報はよくないのですが、批判に終始してニュースの本質を見失わないためには、米国のメディア・リテラシーは見習う部分があると思います

 

当たり前のことだが、別にアメリカの価値観、やり方がすべて正しいというつもりはない。ただ日本の価値観だけがすべてではないということを知っておいた方がいいということ。

審判とニュースという全く異なる世界。なのに日米における「価値観」の違いが一致していて興味深かかった。


2013年11月 1日 (金)

「でも政治家は、法を守ることに意味がある社会自体の存続のために、必要ならば法の外に出ることを辞さぬ存在でなければならない」

前回のブログ(10月29日)では、国会議員の亀井静香氏の以下のコメントを紹介した。改めて載せてみる。朝日新聞10月29日より。

「政治家に必要なのはね、使命感と覚悟だ。しかし今の政治家は覚悟がないから権力を使わない。間違えて損をするのは怖いから、事なかれ主義で掟に従う。どうして政治家になったのかね」 

最近、使命感と覚悟を持って、リスクを恐れずに実行する政治家が少なくなったとの指摘である。掟、すなわちルールに従わない政治家は「悪人」とされるとのこと。 

本当に「ルールに従わない政治家」がダメな政治家なのだろうか。その辺のことを改めて考えてみたい。

岩波書店が100周年で編集・出版した『これからどうする』という本の中に、ジャーナリストの船橋洋一さんによる以下の言葉を見つけた。
 

「官僚機構は通常、ルーティン(日常)に対応するように設計されている。ここでは、公正、法遵守、効率などの価値観が尊ばれる。ところが、危機時は、選択と集中・柔軟性、臨機応変・ルール無視、冗長性が往々にして必要となる。このモードの切り替えは政治家の最初にして最大の仕事である」 (P41) 

法・ルールを守るのが官僚で、それに対して、臨機応変に「ルール無視」が求められるのが政治家である。という指摘。

そこで
以前、紹介した社会学者の台真司さんの言葉をもう一度、並べてみたい。(2012年5月8日のブログ パート1パート2から)

宮台さんは、マックス・ウェーバーの『職業としての政治』という本に書かれていることを次のように紹介している。TBSラジオ『荒川強啓デイキャッチ』(2012年4月27日)より。

「政治家は、法律を守るべきでは必ずしもない。法律を守っていては、国民を守れない場合には法律を踏み越えろ」 

「合理的であることに意味がある社会の存続には、合理性の枠外で振る舞える存在が必要で、それが政治家だというのがウェーバーの主張でした。人が重要だということ」
 

雑誌『サイゾー』(2012年5/18号)での宮台氏の指摘もある。 

「一般市民は、命を失うことを恐れ、法を尊重しない者を糾弾します。でも政治家は、法を守ることに意味がある社会自体の存続のために、必要ならば法の外に出ることを辞さぬ存在でなければならない。法の外に出ることで社会に益する所が少なければ政治家は血祭りにあげられますが、政治家にその覚悟がなければ、社会が淘汰されます」 

マックス・ウェーバーも言っているのだ。必要ならルール・掟を乗り越えろ、と。そのリスクを背負うために、亀井氏の言う「使命感」と「覚悟」が必要とされる。 

南相馬市の桜井勝延さんの言葉も思い出す。『放射能を背負って』(著・山岡淳一郎)から。(2012年6月20日のブログ 

「現実を直視して、人間として、ふつうに、当たり前に、ということです」 

「彼らの声は、なかなか外に伝わらない。その声なき声を支えるためには法的根拠には従うし、専門家の知見も参考にする。でも現場感覚が圧倒的に重要です。机上論は、現場で通用しない。現場感覚を大切に、人間の良識、常識に従って判断をする」 (P144) 

その使命感や覚悟はどこから来るのか。現実を直視し、現場感覚を大切にし、人間の良識・常識に従うこと。決して、ルールや掟に従うことではないのである。 

もうひとつ。

スピルバーグ監督の映画『リンカーン』もそんな映画だったと思う。映画の中でのリンカーン大統領のセリフ。(2013年4月22日のブログ  

「コンパスは真北を示すことができるが、君の目的地と君との間にある障害物については何も知らせてくれない。もし君が真北を目指して、その結果、沼にはまってしまったら、君は良いことを誰にもしてあげられない」

日本の政治の世界では、経済成長や消費者要求、対アメリカ関係の前に何もできない政治家、前例や慣習、しがらみを飛び越えられない政治家、そんな政治家ばかり。われわれ有権者やマス・メディアも、掟やルール、慣習を遵守することばかりを求めるのではなく、「長い目で社会に益するかどうか」で彼らを判断・支援していくべきなのだろう。

 



 

2013年5月30日 (木)

「人間のためのシステムのはずが、いつの間にかシステムのための人間になっている。ここには明らかに転倒がある」

前々回のブログ(5月22日)前回のブログ(5月28日)では、「平均」というものにまつわる言葉を並べてみた。

特に前回では、原発事故において、個々の事情を考えることなく、「平均」というものに合わせて対応することの無意味さについての言葉も紹介した。今回は、そこから考えてみたことをうまくまとまるかどうかわからないけど、流れにまかせて並べてみたい。 

社会学者の山下祐介さんは、著書『東北発の震災論』で、次のことを書いている。

「『復興』を進める事業のためには、人の暮らしはどうなっても構わないという力学が生まれているようだ」 (P269)

こういう風に考えることはできないか。被災地では、具体的な個々の被害や暮らしぶりがあるのにも関わらず、それより、地域全体を大括して把握した、すなわち「平均」した概念による「復興」が進められているのではないか。これは前回の紹介したヤブロコフ博士の指摘とも重なる。 

この山下さんの本を読みなおしていて思ったのだが、もしかして「平均」というものは、そのまま「システム」という言葉に置き換えられるのかもしれない。「システム」というものは、平均した概念を効率よく、管理しやすく行うためにあるものだから。 

同じく『東北発の震災論』から。 

「本来、防災施設にしても、道路などのインフラにしても、みな人間のためのものだったはずだ。原子力発電所だってそうだ。人間のためのシステムのはずが、いつの間にかシステムのための人間になっている。ここには明らかに転倒がある」  (P253)

「システムが大きすぎるのだ。大きすぎる中で、中間項がなく、政治がすべての国民を大事にし、そのための決定を行おうとすることに問題があるのだ。そして政治のみでは無理だから、科学が、マスコミが、大きな経済が介入する。だがこうした大きなものによる作用の中では、一人一人の声は断片でしかなくなる。しばしば人は数字となり、モノとなる。人間の生きることの意味は逆立ちしてしまい、人は人でなくなる」 

山下さんが問題があると指摘する「政治がすべての国民を大事にし、そのための決定を行うとすること」。大事にするがうえに、「平均」「標準」「規格」「フツー」「平等」「公平」といったことばかりが優先され、そして「システム」が起動する。 

個人よりシステムが優先される世界。システムに依存する世界。まさに村上春樹さんが小説で書き続けていることでもある。 

場面は変わる。菅政権のときに内閣広報審議官として官邸に入った下村健一さんかなり以前のブログ(2011年9月7日)でも、その言葉を取り上げた。最近、出版された新著『首相官邸で働いて初めてわかったこと』にも、同じようなフレーズがあったので改めて。 

「原稿の素案を用意するたびに、『システム』という名の生き物が立ち現われて、色んな人間の口を使ってさんざんに“安全”“堅実”“没個性”な言葉に置き換えられていった日々が、一気によみがえった。そう、最後まで、敵は『システム』だったのだ。それぞれの『人』ではなく」 (P234) 

この本にも、日本政府の中枢でさえ、個々よりもシステムが優先される様が書かれていた。あまりにも巨大なシステム過ぎて、総理大臣さえも何もできなくなっているのだ。やれやれ。 

山下さんの指摘するように巨大になりすぎたシステムでは、やがて社会の事象に対応できなくなる。それが顕著に表れたのが、東日本大震災だったのである。改めて『東北発の震災論』から。

人間は無力である。この災害で我々は、我々自身であること、その自律性/主体性を失った。人間はシステムを自由には動かせない。しかも、そうしたシステムの崩壊を前にして、我々はそこから逃れるどころか、ますますこのシステムの強化へと自分たち自身を追い込みつつある」 (P251)

「我々は、普段は広域システムによって豊かに、安全に暮らしている。しかしこのシステムが解体するような危機が訪れると、システムがあまりにも大きく、複雑すぎるために、個々の人間には手に負えない事態に陥ることとなる。東日本大震災で起こったことに対して、首相も、政府も、メディアも、科学者も、みな無力だった。
 
広域システム災害に直面して我々は、システムの本質を反省し、改善するよりはむしろ、崩壊後の再建においてそのシステムをさらに強化する選択肢をとりつつあるようだ」 (P251)
 

個人よりもシステムが優先される社会。そこでは個人は、システムに依存する。依存すればするほど、個々は断片となり、孤立し、埋没していく。そしてシステムはさらに巨大化する。巨大化したシステムは、巨大な故に個々の事象に対応できなくなる。その結果、我々は、どうするか。悲しいかな更にシステムを強化しようとするのだという。 

ぐるぐる回るスパイラル。やれやれ。スパイラルのなかで、我々はどうしたらいいのか。お手上げなのか。よく分からない。 

もう一度、下村健一さん『首相官邸で働いて初めてわかったこと』から、次の言葉を引用する。 

「その“システム”を作っているのも、それに憑依されて動くのも、全ては『人』だ。喜怒哀楽を持ち、決めも迷いも、燃えも挫けも、成し遂げも間違えもする『人の束』。だからこそ、我々一般国民の働きかけが、作用する余地がある」 (P325) 

長くなってしまったが、最後にもうひとつ。こちらもかなり前だが、このブログ(2011年11月10日) で取り上げた思想家の内田樹さん著書『ONEPIECE STRONG WORDS』で書いていた言葉をもう一度。 

「残る方途は、たぶん一つしかありません。ルフィたちもそれを戦略として採用します。それは、システムの中にあるのだけど、システムの中の異物として、システム内部にとどまるということです」 

僕なりに解釈するとこうなる。システムは、管理・効率を強め、巨大化していく。「平均」を押しつけながら。先日のブログ(5月2日など)でも書いたが、その過程で失われていくのが「辺境」ではないか。巨大なシステムを外部から変えるのはもはや難しい。だったら個々がシステムのなかにとどまり、そこで異物・異端の存在として「辺境」をつくっていくことしかない。そういうことではないだろうか。


2013年5月 7日 (火)

「勝手なことをする人が少なすぎますよね。いま世の中はどんどん窮屈になっていますが、従順になりすぎて自分で首を絞めているところもあると思います」

前回のブログ(5月2日)では、世の中から「辺境」が奪われていることについての言葉を並べた。最後に紹介した翻訳家の池田香代子さんの言葉をもう一度、紹介する。雑誌『世界』(2012年7月号)から。

「世界を牛耳っている勢力が怖いのは、得体のしれない有象無象がとびきり面白いことをすることだ」 

だからこそ、今のリーダーたちや既得権益者は、自分たちを脅かす新しい価値観が生まれてくる「辺境」というものを奪っていくのかもしれない。今回は、そんな時代の「リーダー」についての言葉を並べてみたい。 

元外務官僚の孫崎享さんは、著書『日本の「情報と外交」』で、次のように書く。

「一見矛盾しているようであるが、独裁政権は国際的危機に直面すればするほど、国内的に強くなる。戦争という非常事態にあって政権に反対するのは非国民だとして、政治的反対派を強権で弾圧していく。経済が厳しくなると、食料の配給ですら、指導者に忠実な人間は食べ物がもらえる。他方、批判勢力は餓えるということで、指導者の勢力を拡大するのに使える」 (P38)
 

北朝鮮の新しいリーダーしかり、オウム真理教の麻原彰晃氏しかり。独裁的なリーダーたちは、危機感をあおり、求心力を高めようとする。それは、昨今の日本のリーダーや企業のトップも同じような気がする。例えば、経済危機が叫ばれる中で、出てきたアベノミクス。政策に賛同し、従うものだけが、景気回復のおこぼれを手にできる。

一方で、企業でも自由に社員を解雇できるようにしたり、ホワイトカラーエグゼンプションといった新しい制度が、経営者の論理を補完するように導入されていく。
 

経済評論家の森永卓郎さんは、文化放送『大竹まこと ゴールデンラジオ』(4月8日)で次のように話していた。

「実力主義じゃないんです。ボスにこびへつらったやつだけが生き残る社会になる。結局、ボスの命令に忠実で地獄の底まで働いて、全部おべんちゃらで通す奴だけが生き残っていく。実力社会になるんではなくて、うまく立ち回った人が勝つ社会。勝ち組にうまく乗っかっていく人が生き残っていく社会になる」

その結果、誰も言いたいことの言えない社会ができあがってくる。どこの新聞だか失念しているが、日立就職差別裁判元原告の朴鐘碩(パク・チョンソク)さんの言葉が、僕のメモ帖には残っていた。 

「日本の企業社会では、ものを言わない、言えない雰囲気があります。利潤と効率を求め、職場の和を重んじるあまり、言いたいことも言えずに抑圧されて生きている。ものが言えなくなっている日本の状況と民族差別は深くつながっている」 

「私は、おかしいと思うことに対して黙るか黙らないか、人間らしく生きるとはどういうことか、人間として生き方が問われていると思った。自分は黙らない生き方をしたいと開き直ったんです」
 

思想家の内田樹さんの次の指摘は、学校における「いじめ」についてのものだが、政治や企業の独裁的なリーダーと、その下で働く政治家や社員の関係と、まったく同根だと思う。雑誌『新潮45』(5月号)から。 

「今の学校におけるいじめは倫理的に自己評価の低い子どもたちと倫理的に破壊された子どもたちを組織的に生み出す仕掛けになっています。そういう子どもたちは本当に弱いのです。どんな理不尽な要求であっても、大声でどなりつけられると崩れるように屈服してしまう。自尊感情がないから。たぶん損得で動くことはできるでしょう。人の顔色をうかがうことはできるでしょう。世の中の風向きを読んで、『大勢に順応する』ことならできるでしょう。でも、抵抗に耐えてプライドを維持することはできないから、自分が『正しい』と思っていることでも、上位者やマジョリティが強く反対すれば、たちまち撤回してしまう」 (P132) 

理不尽な要求に屈服してしまうことになれた子どもたちが、そのまま「大勢に順応する」ことに長けた大人になっていく。 

元ベイスターズ監督の権藤博氏。彼による野球についての次の指摘も、まさに重なる。著書『教えない教え』から。 

「日本の教育は上に行くための教育であって『上に行って何をすべきか』という教育を怠ってきた。 いや、怠ってきたと言うより、日本社会を牛耳ってきた権力者たちが教育そのものをそういう方向へ持って行ったのだ。自分の意思を持たず、機械のように働く人間を増やすことで日本社会は発展してきた」 (P123) 

以前のブログ(2012年6月7日) で紹介した言葉とも重なる。 「上に行って何をするべきか」を考えずに、トップに立ったリーダーがすることは、とにかく求心力を得るために危機感と閉塞感をあおること。そんな気がするし、そんな社会、組織が強く、面白みがあるとは到底思えない。 

コラムニストの小田嶋隆さんが、ツイッター(2012年2月14日)に書いていたコメント。

「忠誠度の低いメンバーを排除すれば強い組織ができると思うのは早計で、実際には逆サイドに走る選手のいないサッカーチームみたいなどうにもならないものが出現する。そういうチームは行進に向いていても、試合では決して勝てない」 


きっと勝てないだけではなく、ゲーム自体面白くないと思う。もちろん行進など見てても面白かろうはずがない。

「強いリーダー」を求める風潮と、「辺境」を排除する風潮は、表裏一体なのだと思う。リーダーたちが危機感と閉塞感をあおればあおるほど、実は危機感や閉塞感は増幅している気がする。


そんな社会は、やがてどこへたどり着くのか。ちょっと思いだす指摘がある。元オウム真理教信者の上祐史浩氏は、近著『オウム事件 17年目の告白』で、麻原彰晃氏がやろうとしたことについて次のように語っている。

「『預言とは計画なんだ』麻原は力を込めてそう言ったことを、私はよく覚えている」 (P155)

「麻原は、地下鉄サリン事件の前に、『戦いか破滅か』と題するビジオを弟子たちに作らせた。実態は、変わらないと破滅するというのは被害妄想であり、戦ったからこそ破滅したのだ」 (P155)

この「戦ったからこそ破滅したのだ」という言葉は重いと思う。

話を戻す。では上記のようなリーダーや社会にしないため、「辺境」を守るため、僕たちができることはないのか。以前のブログ(2月1日)で紹介した「素人の乱」の松本哉さんの言葉を、最後にもう一度紹介しておきたい。雑誌『世界』(2012年7月号)から。(実は、最初に紹介した池田香代子さんとの対談)。

「勝手なことをする人が少なすぎますよね。いま世の中はどんどん窮屈になっていますが、従順になりすぎて自分で首を絞めているところもあると思います」

「私たちが意外と簡単にできるのは、人の言うことを聞かないということです。強力な指導者の言うこと、軍国主義でもファシズムでも、どれだけ言うことを聞かないか。言われたことを右から左に流して、ケロッとしていられる状況をどれだけつくっていけるか」


 

2013年4月22日 (月)

「枠をいちいち怖れることはないけれど、枠を壊すことを恐れてもならない。人が自由になるためにはそれが何より大事になります」

これまで「ルール」をめぐるエピソードを何回か取り上げた。昨年6月12日のブログでは、東日本大震災直後の非常時においても、既存のルールに囚われ、従ってしまう具体的な例を紹介した。

そんな例をもうひとつ。朝日新聞で連載が続いている『プロメテウスの罠』。それが書籍化された朝日新聞特別報道部『プロメテウスの罠4』を読んでいたら、震災対応での個人情報の問題を取り上げていた。 

南相馬市にある社会福祉協議会の高野和子さんは、震災直後、市内の障害者の居場所や避難先を確認しようとして、市に問い合わせても、個人情報保護法を盾にして「いえません」との回答だったという。それについて高野さんは、次のように語っている。 

「混乱の中では個人情報保護なんていっていられないはずなのに、命にかかわることだってあると思う。何とかしなければならないことなのに、忙しいのでうやむやさにされている」 (P35) 

そんな中、南相馬市の健康福祉部長、西村武義さんは、市としての判断の前に、障害者の個人情報を支援者に開示することを決断する。西村さんは、部下に面と向かって次のように言われたという。 

「部長のやっていることは、条例違反です。意義はあると思いますが、すぐに中止すべきです」 (P37) 

障害者団体が組織する日本障害フォーラムの幹事会議長の藤井克徳さんも、次のように語る。 

「ほかの市町村ではほとんど情報開示が進まなかった。こんな極限状態で、個人情報を悪用することなど考えられないのに」 (P39) 

そうした「お役所」の対応について、弁護士の岡本正さんは、次のように指摘する。 

「何か不祥事が起きたときの責任ばかり考えている。これでは住民の命を救えない」 (P49) 

ここでも、もしもの「ミス」を恐れ、住民の命よりも、ルールを守ること、何事もないことが優先される。何事もないといって、それは自分の立場に限ったもので、その陰では命という、「何事にも変えられないもの」が犠牲になっている。 

以前(2012年9月3日のブログ)に紹介したことがあるが、映画『ダークナイト ライジング』では、ゴッサムシティの市警のゴードン本部長が新人警官に対して、次のように語っていた。

「法が武器にならずに枷となって、悪人を裁くことができない悔しさ。いずれわかる時がくる」 

まさに個人情報保護の場合は、法(ルール)が枷となって、「悪人を裁くことができない」ではなく「住民の命を救うことができない」という状況になっていたのである。この映画では、ジョゼフ・ゴードン=レヴィット演じる新人警官は、最後に本部長の考えに理解を示した。南相馬市の西村部長を問い詰めたという部下も、事態のあとにはそうなっていてほしい。 

村上春樹さん新刊『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』では、主人公の多崎つくるに対して、友人の灰田文紹は次のように語っている。 

「どんなことにも必ず枠というものがあります。思考についても同じです。枠をいちいち怖れることはないけれど、枠を壊すことを恐れてもならない。人が自由になるためにはそれが何より大事になります。枠に対する敬意と憎悪。人生における重要なものごとというのは常に二義的なものです」 (P68) 

このセリフの枠というのも、ルールに置き換えられるだろう。まさに、ルールそのものに対して敬意と憎悪の両面を持っていて、そして非常時に必要があれば、そのルールを壊すことも大切なことなんだと思う。

最後にもうひとつ。この週末に公開されたスピルバーグ監督映画『リンカーン』。その中で、ダニエル・デイ=ルイス演じるリンカーン大統領は、次のように語っていた。

「コンパスは真北を示すことができるが、君の目的地と君との間にある障害物については何も知らせてくれない。もし君が真北を目指して、その結果、沼にはまってしまったら、君は良いことを誰にもしてあげられない」

こちらも深いセリフ。
コンパスはあくまでも目安・指針なのである。当然、現場での判断が大事になる。

少し話はずれるが、この映画は「これぞ政治、これぞ議会、これぞ民主主義」という内容。ぜひ「憲法96条改正」を唱える政治家の方々に観てほしい。3分の2を越えるための努力が詰まっている。憲法を改正するなら、このくらい駆け引きして改正すべき。その前に、まずなくすべきは、「枠」「枷」そのものの党議拘束だろうけど。

 

2013年4月 4日 (木)

「でも企業ジャーナリズムにとってケース・バイ・ケースは、組織論理と齟齬を起こします」

前回のブログ(4月3日)では、メディアにとって、企業としての立場とジャーナリズム、その両立が難しい時代に入ったという内容の言葉を並べた。その続き。

メディアが、企業として抱えるランニングコストの割合が増えていくなか、ジャーナリズムは、どのように生き残っていくべきなのか。TBSラジオに『DIG』(3月19日)では、元毎日新聞の河内孝さんが、例として朝日新聞の抱えるランニングコストを具体的に説明しながら、「デジタル革命」をどう乗り越えていくかについて話していた。(この番組『DIG』は先週で放送自体が終了してしまった)。 

「朝日新聞って今、社員だいたい4000人台で、3000億円くらいの売り上げ。で、ウェブ、ネット新聞に完全に切り替えると、紙がいらない、印刷工場がいらない、流通網がいらないでしょう。販売店いらない。それで、社員だって、朝日新聞4000人の中で、記者っていうのは、たぶん1600~700人。そのうち300人は管理職だからいらない。本当に駆け回っているのは、12~1300人さ。1200人だったら、人件費で言うと3000億円かせぐ必要ないんだよ。で、ウェブでやった時にどうなるかという計算をして、どうやってそこまでシフトしているか、ということを少なくとも朝日新聞は考えている」 

つまり、これだけ紙の新聞というのが手間と時間をかけて作っている。その一方、アメリカではどのようにして、ジャーナリズムが新たな居場所をつくり出しているかも話している。 

「アメリカって壊して作っていくのが上手じゃない。なぜそういうことが可能かというと、いろんな理由があるんだけど、やはりアメリカのジャーナリストの給料の安さがあると思う。平均して3万ドルくらいですから、日本円でいうと300~400万円。もちろんスター記者は何千万とっていますが、平均的には300~400万円。ダブルインカムですからやっていける。ヨーロッパも同じ。日本みたいに某新聞などは、1千万円とかよりいいわけですから、社会変化に応じてどれだけ自分の身の丈を。そのくらいの革命をやらないと、このデジタル革命は乗り切れない」 

アメリカでは元々、ジャーナリストや記者たちのランニングコストが低いため、新しいメディアも作りやすいという指摘である。すなわち自分たちジャーナリストとしての居場所、活躍の場所を、時代の変化に合わせて新たに作っていく。

という意味でも、日本のメディアは、今後、自分たちのランニングコストにぶら下がっている、人たち、関係者、ステークホルダーをどう整理できるかが生き残りのカギだったりするのだろう。
 

ただ、メディアが抱える問題は、当然ながらランニングコストの削減だけではない。もうひとつコンプライアンスという流れに、どう向き合っていくかも大きな問題だと思う。 

森達也さんは、『誰がこの国を壊すのか』の中で、次のようにも語っている。 

正解などない。現場では誰もが悩みながら、自分自身の答えを探すしかない。ジャーナリズムはそんな領域です。常にケース・バイ・ケースです。でも企業ジャーナリズムにとってケース・バイ・ケースは、組織論理と齟齬を起こします。効率も悪いしマニュアル化もできない。リスク軽減も難しい。だからこそ葛藤や煩悶を回避する。現場で悩まなくなる。マニュアルと求め始める。こうして横並び報道が行われる。それはやっぱり、ジャーナリズムではなくてメディアです」 (P196) 

最近の企業が持つ、ケース・バイ・ケースを許さない風潮。管理責任というやつ。効率化、リスク管理・・・、そうした現代的な企業論理、すなわちコンプライアンスを突き詰めていくと、ジャーナリズムは、「いらないもの」になっていかざるをえないのではないか。 

もうひとつ。北海道警察の裏金問題を、キャンペーンをはって追及した北海道新聞、その調査報道を引っ張った高田昌幸さんが、その舞台について書きとめた著書『真実』。その中で、高田さんが、2~3年目の若手記者から浮きあげられたというエピソードも印象的だった。

「先輩たちの裏金報道はすごいと思いました。入社前でしたが、あこがれました。でも今はちょっと違うんです。自分は調査報道をやりたいとは思いません。

 だって社内では調査報道をやろうという雰囲気、全然ないじゃないですか。あんな危ないものは手を出すな、みたいな気分が充満しているじゃないですか。社内では、調査報道なんて、まったく評価されていないじゃないですか」 (P251)

メディアの企業としての立場。ランニングコストとコンプライアンス、こうした問題にちゃんと向き合って考えていかないと、前回のコメントで神保哲生さんが危惧するように、ジャーナリズムが生き残っていけなくなるのかもしれない。

2013年3月 7日 (木)

「『ルールを守ろう』じゃなくて、『ルールを作ろう』『ルールを変えよう』というのがスポーツマンなんですよ」

これまで「ルール」に拘泥してしまう日本社会に体質について、いろいろな言葉を紹介してきた。

例えば、2012年6月20日のブログでは、ピーター・バラカンさんが東日本大震災のときに感じた次の言葉を紹介している。

「この国は、ルールを決めておけば、絶対にそこから外れないというところがあります」

2012年10月3日のブログでは、ニューヨーク・タイムズ東京支局長のマーティン・ファクラーさんが、著書『「本当のこと」を伝えない日本の新聞』で書いていた次の言葉を掲載した。東日本大震災の直後、被災地で感じたことである。

「震災という非常事態なのだから、ルールを多少破ったとしても臨機応変に対応するべきではないか」 (P35) 

そして、さらに先、2011年11月22日のブログでは、こうした体質に対する作家の奥田英朗さんの言葉。著書『どちらとも言えません』から。

「つまりルールは必要なときに適用すればいいのであって、あとはフレキシブルに対応すればいいじゃないかという考えなのだ」

それと、脳学者の養老孟司さんの次の言葉を紹介した。

「自分の目で見て、自分の頭で考えて、ルールを曲げる。そういう感覚をもう日本人はなくしているでしょう、でも『生きている』ってそういうことじゃないですかね」

以上。「ルール」を巡るフレーズを改めて並べてみた。

先日、ネット放送局の「ビデオニュース・ドットコム」の『だから日本のスポーツは遅れている』(2月16日)を聴いていたら、スポーツ評論家の玉木正之さんは、スポーツの世界でも、日本には同じような問題が存在することを指摘している。

「スポーツの規律、および規則を作ったのは誰かというと、自分たちなんですよね。その認識が日本では欠けていて、輸入もんだから。最初から権威に従うという。春秋の交通安全週間というのがあるじゃないですか。スポーツマンがポスターに出てきて『ルールを守ろう』って出すわけですよ。これは『ルールを守ろう』じゃなくて、『ルールを作ろう』『ルールを変えよう』というのがスポーツマンなんですよ」

よくよく考えてみれば、国際的には、スポーツのルールや規則なんてものは、よく変更されていたりする。スポーツそのものを巡る状況や環境が変われば、それにルールも合わせる。現状に合ったルールがなぜ必要なのか。政治学者の萱野稔人さんは、同じ番組で玉木さん相手に次のように語っている。

「スポーツの本質は、何かと言うと、ルールに従うことなんですよ。ルールに従うことによって、身体の暴力性をどうコントロールできるか、というのが元々の人類とスポーツとを考えたときの本質だと思う」


スポーツとは、身体をルールに従うようにコントロールすること。そのためには、ルールを現状に合わせておく必要がある。ということになる。

これは、スポーツの世界だけではなく、一般社会にも当然当てはまるはず。弁護士の郷原信郎さんは、著書『思考停止社会』で次のように書いている。

「近年、高度情報化の進展に伴い、社会の隅々にまで様々な情報が提供されることによって、ますます社会は多様化しています。しかも、社会の変化の速度は急激に高まっています。社会が多様になればなるほど、そして、変化が激しくなればなるほど、社会事象と法令の内容との間に乖離が生じやすくなります。

それだけに、ある時点での一定の範囲の社会事象を前提に定められた法令は、すべて社会事象に適合するものではありませんし、社会の変化に伴って、現実に発生する社会事象との間でギャップが生じています」 (P187)

社会生活を営むためのルール、すなわち法律も、ほっておけばズレが生じてくるのである。そして、次のように語る。

「明治以来日本人が百数年以上も続けてきた法令に対する『遵守』の姿勢はなかなか変わりません。法令を目にすると、ただただ拝む、ひれ伏す、そのまま守るという姿勢のために、法令を『遵守』することが目的化し、なぜそれを守らなければならないのかを考えることを諦めてしまうという『思考停止』をもらたらしているのです」 (P191)

ルールや法令を前にして、何の疑いもなくひれ伏す。そして、そのルールや法令がズレたものだったとしても、それを破った場合に下される厳しい罰則を黙って受け入れる。これは日本社会の「体質」というか、もう「病」とも言える症状なのかもしれない。案外、体罰の問題も、ここに根っこはあるのではないかと思う。

2012年12月20日 (木)

「根拠のない自信を持つことが大事。そしてそれを裏付ける努力をすること」

先日、TOKYO-FMが、勤労感謝の日(11/23)に『未来授業~明日の日本人たちへ』という特別番組を放送していたのが、その録音を聴いていて、司会役の茂木健一郎さんのコトバがもっとも印象に残ったので、まずはそれを載せておきたい。

「根拠のない自信を持つことが大事。そしてそれを裏付ける努力をすること」 

今は「コンプライアンス」という概念が幅をきかせ、ちょっとした失敗がネットではたたかれ続けるなど、「失敗を許されない」という風潮が強い。そんな中でも「チャレンジが大事」というメッセージを込めてのコトバだった。 

そんなコトバをメモの中で探してみたので、並べておきたい。

最近、映画『希望の国』を制作した映画監督の園子温さんは、毎日新聞夕刊(10/12)で、次のように語っている。 

「そこから一歩踏み出し、映像や文章にすること。どんなに稚拙で未熟な表現になろうと一歩を踏み出すこと。一歩がなければ二歩目はない。僕は一歩を踏み出すことこそが誠実なのだと思います」 

後進国を支援したいという思いで、バングラディッシュに単身乗り込み、「マザーハウス」というバッグブランドを立ち上げた山口絵理子さんは、著書『自分思考』で、次のように語っている。 

「曖昧な『できると思うんですよね』だったからこそ、動いてみようと思った。100パーセントの確信がそこにあったら、もしかしたら動かなかったと思う。
 
大事なのは『本能的に、直感的に、感じた気持ち』。ちゃんと分析できているわけじゃないけど、動物的に、といったほうがいいかもしれない。私はそうした直感みたいなものを人より多く持っているような気がする」

サッカー選手、田中マルクス闘莉王は、著書『大和魂』で次のように話している。 

PKは、蹴った人だからこそ外すんだ。蹴らないと一生外さないんだ」 

そして、建築家の坂口恭平は、毎日新聞(9/26)でこんな考え方を披露していた。 

「みんな、いろんなことを試さなすぎるんじゃないかな。例えは悪いけど、家賃はどこまで滞納できるか。大学を出て、東京の高円寺に住んでいた時に試したら、3カ月目に大家さんが来ました」 

とにかくやってみなければわからない。まずルールに従ってしまうより、自分で試して、自分で原則を見つけないと新しい世界は見えてこない。「ルール主義より、原則主義」 「朱子学より、陽明学」 ということなのではないか。

でも、一方で政治の世界では、次のようなことを口にする政治家がもてはやされているからやっかいなのである。大阪市長の橋下徹氏が、新しい職員の入庁式(4/2)で語ったコトバを忘れないように記しておく。 

「民主国家で、人が人に命令を出すなんて、公権力を持った皆さんにしかできない。大阪市民は皆さんの命令にみんな従う。だから命令に立つ側は、しっかりルールを守らないと、誰も命令を聞いてくれない」

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