対米従属

2013年4月30日 (火)

「被災地にも、またそれ以外のところでも、『誰かが何とかしてくれる』という強い依存感覚が働いていたように思えてならないのである」

4月28日は「主権回復の日」というんだそうだ。なんだかなあ、と思っていたら、その式典で安倍総理は「万歳三唱」をしたという。さらに、なんだかなあと思ってしまう。やれやれ。

この日については、ジャーナリストの青木理さんが、TBSラジオ『荒川強啓 デイキャッチ』(4月8日)で、次のように話していたのを思い出す。


「サンフランシスコ講和条約が発効した日というのは、主権を回復した日というより、むしろ対米追従の原点なわけですよ」 

この日は、対米追従、すなわちアメリカ依存の「はじまり、はじまり~」という訳だ。 

そこで。しばらく前に、「外部規律」や「数値・数字」に必要以上に依存してしまう日本社会の「依存体質」をめぐる言葉をいろいろ並べてみた。今回は、そこにはこぼれたけど、最近、見かけた「依存体質」についての言葉、フレーズ、文章をダァーッと並べておきたい。 

まず、その「対米依存」について。ジャーナリストの船橋洋一さん著書『カウントダウン・メルトダウン』から。この本は、今年の大宅壮一ノンフィクション賞を受賞している。

「官邸政務中枢では、対米依存と対米排除の真理が同時に噴き出していた。原子炉がいよいよ制止できなくなる中で、一気に米国への依存心が高まっていくのと同時に、そうなった場合の米国の介入の重苦しさと政治的な負荷を感じ始めていた」 (P148)
 

原発事故とともに、さらに対米依存が強まったという指摘は深いと思う。 

その震災について。社会学者の山下祐介さんは、著書『東北発の震災論』で、次のように書いている。

「これほどの大きな事態に対して、それでもなお、日本人には主体的な動きが現れなかった。ある種の人任せの風潮がこの震災では広くみられたように思えるのである。
 
国が何とかしてくれる。経済大国だから大丈夫。専門家が何とかしてくれる。
 
あえて強い言い方をするなら、被災地にも、またそれ以外のところでも、『誰かが何とかしてくれる』という強い依存感覚が働いていたように思えてならないのである」 (P25)


これは日本の社会風潮の深いところを衝いている指摘のように思えてならない。

続いて、ジャーナリズムに関して。ジャーナリストで高知新聞の高田昌幸さんは、自らのブログ『ニュースの現場で考えること』(2008年12月12日) で、次のように書いていた。

「日本の新聞社はたいてい、『県庁クラブ』とか、『首相官邸記者クラブ』とか、地方・中央を問わず、記者クラブに記者を張り付けている。情報の『出口』に記者を常備し、上流から流れ落ちてくる情報を掬い取り、記事を作っている。私が常々言っていることだが、簡単に言えば、『官依存』『警察依存』『大企業依存』である。『発表依存』と言い換えても良い」


「発表依存」、本当にそう思う。僕もある時、テレビのニュース番組を観ていて思ったが、それはニュース番組ではなく、「記者会見」番組ではないかということ。ただただ、様々な記者会見の様子を順番に流す。話題の事件や事象にまつわる人たちに、まず記者会見を行うことを求め、それを取材と呼び、ただ流す。これは報道番組とは呼べないのでは・・・と。 

その高田昌幸さんが、『メディアの罠』で紹介している次のエピソードも興味深い。

「前、朝日新聞の筆政(今の主筆)だった緒方竹虎は敗戦が濃厚になった時期、政府の情報局総裁に転じますが、就任後、あまりにも政府・軍部の情報統制が効きすぎていたことが気になり、『諸君はもっと自由に書いていい』という趣旨のことを発言します。すると、記者たちは緒方総裁に言うわけです。総裁、それは困ります。どこまで書いていいかを示して欲しい、と。それと似たものを今回の原発事故報道でも感じていました」 (P202)

昔も今も、「発表依存」は変わらない。まさに「自律」というものは存在せず、「他律」から抜けられない体質なのである。

同じ『メディアの罠』で、青木理さんが紹介する次の話も。

「事件などをめぐる日本のメディア報道の問題点って、量の異常な多さも問題だけど、警察や検察といった『お上』のお墨付きを得た途端に怒濤のごとき集中砲火報道が繰り広げられてしまうところにもあると思うんです。誤解をおそれずにいえば、『お上公認の血祭り対象』が出現したかのように、メディアが大はしゃぎして徹底的なパッシングを加えていく。
 
その原因はいろいろあるでしょう。何よりも大きいのは、メディアに限った話じゃありませんが、『お上依存』『お上絶対視』という日本社会の風潮もあるし、高田さんのおっしゃる通り、取材力の低下や調査報道能力の劣化もあるでしょう。そしてもう一つ、訴えられた際のリスクをおそれる自主規制です」 (P150)


「警察沙汰になるや否や、鬼の首を取ったかのように大騒ぎするというのは、あまりにみっともない話です。『のりピー報道』もそうだし、朝青龍の暴行問題もそうです。警察や検察という『お上』が動き出した途端、その尻馬にのって被疑者側を洪水報道で徹底パッシングするというのは、この国のメディアの最大病理です」 (P152)

「一見分かりやすい『悪』を見つけて徹底的にパッシングし、でもすぐに忘れてしまうんです。そして次の血祭り相手を見つけて盛り上がり、またすぐに忘れる。その繰り返しの中で、もっとも大切に論議すべき事柄が脇に追いやられてしまう」 (P295)

「頼むよ、日本のジャーナリズムよ」とでも言いたくなってくる。警察発表に頼るジャーナリズム、一方で当然というか、その警察も依存体質から抜けられない。

大沢在昌さん小説『冬芽の人』で、主人公の元女性刑事、牧しずりは、次のように考える。 

「警官になる人間の多くは、頭より体を動かすほうが好きだ。さらに自己判断を得意とせず、命令に従った行動を好む。システムに組みこまれ、その一部として動いていることに不安や疑問を抱かない」 (P188)

上から下まで、右も左も、という感じだ。あちこちで依存ばかりして、もう何が何に依存しているのかさえ分からないくらい。山本七平さんに倣って、「空気依存」とでも言ったらいいのか。

思想家の内田樹さんは、著書『日本辺境論』で、次のように書いている。

「私たちはきわめて重大な決定でさえその採否を空気に委ねる。かりに事後的に決定が誤りであったことが分かった場合にも、『とても反対できる空気ではなかった』と言い訳が口を衝いて出るし、その言い訳が『それではしかたがない』と通ってしまう」 (P45)


自律なき、「空気」依存。これこそ、すなわち「空気が支配する社会」なのかもしれない。

ランダムに、最近、目についた「依存」にまつわる言葉、文章を並べてみたが、なんだかウツウツとした気分になってきた。深い深い依存体質、どうすれば、ここに「自律」という体質が芽生えてくるのだろう。ん~。


2013年3月 7日 (木)

「日本は、アメリカのように『やっぱりそのルールはやめよう』とはいきません」

今日も先ほどのブログへの追加。雑誌『中央公論』(3月号)を読んでいたら、大リーグのマリナーズなどで活躍した元野球投手の長谷川滋利さんが『「ルールを変えない」という勇気も必要だ』という文章を寄せていた。せっかくなので、この文章の言葉も紹介しておきたい。長谷川さんは、現役を引退した今もアメリカ在住で、もう17年目になるとのこと。

「ルールというものに対する感覚は、アメリカと日本とでかなり違います。アメリカは、そのほうが効率がいいと思ったら、新しいルールをすぐに作る。そのかわり、うまくいかなければ、すぐに改める。場合によっては元に戻すこともある。良い面も悪い面もありますが、柔軟であることは確かです」 (P107) 

柔軟にルールを変えていくアメリカ。これは、先の文章で玉木正之さんが言う「スポーツマンに大事なのは、ルールを変える、ルールを作ること」というのと重なる。 

一方で、日本はどうなのか。長谷川さんは、日本については次のように書く。 

「それに比べて、日本はルールを作るのに時間をかけますし、一度ルールを作ったらそれに縛られがちです。もとに戻すのはとても難しい」 (P107) 

やはり、という感じの指摘である。 ただし長谷川さんの提言は、次のように続いている。 

「日本は、アメリカのように『やっぱりそのルールはやめよう』とはいきません。僕は日本には『ルールを変えない勇気』があってもいいと思います。野球とベースボールが違うスポーツであるように、柔道とJUDOを別の協議にしてもいいのです」 (P110) 

一見すると、「ルールを変えない勇気」と言っているので、玉木さんが指摘する「ルールを変える」「ルールを作る」とは反しているように思えるが、実は長谷川さんの指摘は奥が深い。

ストライクとボールのカウント、ビデオ判定の導入など、アメリカが導入したものはすぐに導入したがるのが日本野球。でも日本では、アメリカと違って一度導入してしまったものは、もう2度と変えられることはなくなる。たとえ、向こうの国で、その後、改められたとしても。だったら、「野球とベースボール」、「柔道とJUDO」と競技の質が外国と違ってしまってもいいから、独自の判断によるルールでいいのではないか。何もアメリカが変えたからといって、そこで日本も変える必要はないのではないのか。というのが長谷川さんの指摘なのである。

この指摘の背景には、「一度決めたルールは変えられない」ということと、「アメリカ従属」という二つの日本の「病」が重なっているのである。

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