教育・子供

2014年4月15日 (火)

「日本の道徳教育というのが、村社会で、仲の良い均質な人同士の道徳を前提にしている」 

前々回のブログ(4月9日)で、平田オリザさんの提案する「国際関係」の授業は、今、安倍政権が進めようとしている「道徳教育」の授業なんかよりも全然大事なことではないか、と書いた。

それに近い指摘があったので、ぜひ紹介したい。

教育学者の尾木直樹さんは、茂木健一郎さんとの共著『「個」育て論』で次のように語っている。

「道徳教育よりもむしろ、宗教とか、哲学とか、倫理学とか、もっとアカデミックで日常の生活の中に、歴史的かつ、グローバルな視点で入っていくべきであって、『道徳』なんてどれだけ口で言っても、結局は、日本の場合、武士道精神、要するに、戦前の修身なんですよ」 (P85)

対談相手の茂木健一郎さんも次のように語る。同じく『「個」育て論』から。

「僕がすごく気になるのが、日本の道徳っていうことをいったときに、異質な人が世の中にいるときにどうするか、みたいな話って、あまり入ってこないということです。例えば、外国人の方とか、バックグラウンドが違う方とどう付き合うか、みたいなことって、日本の『道徳』の中では、ちゃんと扱われていない」 (P90)

「日本の道徳教育というのが、村社会で、仲の良い均質な人同士の道徳を前提にしている」 (P95)

今、うちの小学生の子供のクラスにも、両親が外国人という子供や、ハーフの子供が何人かいる。そんな子供に「修身」の教科書に載っている成功談を読ませても…。もちろん、ムダではないだろう。

大昔の人生訓よりも、多彩な出自を持つ今の子供たちが、各々、どんな社会で育ってきたか、どんな文化や背景を持っているのかを知り、そして、どうやって付き合っていけばいいのかを考える。そっちの方がより大切だし、優先すべきものだと思うのだが。

さらに尾木直樹さんによると、すでに「道徳教育」は他の科目にも組み込まれるとのこと。

「指導要領の通り、数学の説明文の中や問題集の中にも道徳的観点をいかしています、とか言って。そんなんで道徳性なんか、養えるわけないんです。僕から見ると、現在の道徳教育の強化路線は、管理・統制のための手段にしか見えないですね。本当に道徳心豊かな日本人を育てるのだとしたら、方法がまったく違いますもの」 (P89)

あれだけ、社会の中の多様性の重要さが叫ばれているのに、教育は全く逆の方に向いている。(2月26日のブログなど、「多様性」についてのブログ


本来、授業として「多様性」を教えることも大切だし、さらには教室という空間の「多様性」も大切となる。
茂木健一郎さんの指摘。

「そういう行き過ぎた同調化、均質化圧力が、勉強をできる子にとっても、できない子にとっても、ストレスになっている気がします。いろんな人が同じ空間をシェアすることというのが僕は大事な気がします」 (P144)

安倍総理をはじめ、政治家や経済人は、何かと「グローバル、グローバル」と口にする。なのに、日本社会は教育を手始めに、どんどん多様性から離れ、管理・統制のしやすい均質化・画一化の社会を形成していく。

さてさて、この社会は、どこへ行こうとしているのか。



2014年4月 9日 (水)

「人と人の違いがあるからこそ、世界は美しい。私がサッカーを始めたころボールは白と黒だった。今は様々な色で彩られている」

少し時間が経ったが、浦和レッズのサポータによる差別的横断幕の問題について。いろんな指摘があったが、一番、印象的だった言葉として、エスパルスのゴドビ監督が、無観客試合(3月23日)の記者会見で語ったものを載せておきたい。

「サッカーから差別をなくしていかなければならない。人と人の違いがあるからこそ、世界は美しい。私がサッカーを始めたころボールは白と黒だった。今は様々な色で彩られている」

そう。世の中には、いろんな違いがあるのである。だから、美しい。

もう一度、「違い」について書いたブログ(2月25日)と、「多様性の大切さ」について書いたブログ(2月26日)を読み返してみた。

それに追加ということで、劇作家の平田オリザさんの次の言葉も載せておきたい。著書『世界とわたりあうために』から。

「グローバリズムは、ローラーで地面をならすように世界を平らにしていく。だからこそ、私たち芸術家の仕事は、『ちょっと待ってくれ。俺たちは、まだこんなに違う』と訴えることだ」

「ただし、文化や宗教の『違い』だけを強調し、それを声高に訴えれば、それは偏狭な民族主義へと陥ってしまう。私たちがしなければならないことは、『私たちは同じものを見ているが、感じ方はこんなに違う』と語っていくことだ。少なくとも、劇作家としての私の仕事は、そこにある」 (P108)

もうひとつ。

とても大切じゃないかと思う、平田オリザさんの次の提案も載せておきたい。著書『ていねいなのに伝わらない「話せばわかる」症候群』から。

「少なくとも、中学生くらいで「国際関係」という授業を週に一時間でもつくって、中国や韓国の人たちの文化や背景を知識として学んでいくようにする」 (P196)

「国際関係」という授業をつくっては、という提案である。今、安倍政権が進めている「道徳教育」なんかも、こっちを導入すべきだと思う。

学校で、それぞれの宗教の考え方や価値観について教えることは難しいのかもしれない。しかし、世界にはどんな宗教があり、どのくらいの信者がいて、それぞれ、どんな習慣や禁忌を持っているかは教えられると思う。どんな国の人が、どんな宗教の人が例えば何を大切にして、何を嫌がるのか。つまり「違い」について、我々は知っておいた方がいいと思う。


2014年3月27日 (木)

「私たちは、生きるテーマを見つけるために生き、そして書くのだ」 

前回の続き。
目的を忘れて、その手段を目的としてしまう。日本のあちこちで見られる習性。それについての追加の言葉。

タレントの太田光さん著書『いじめという怪物』から。

「特に中学生で教えることは、学問というものの入り口です。そこで重要なことは、答えを知ることではなくて、問いを立てること、問いを意識することだと思います。学ぶというより問うんです」 (P45)

「学校で教える算数でも国語でも理科でも社会でも、その最終目標は一緒ですよ。その学問っていうのはまさになんで人間が生きているのかという、この我々はなんで存在しているんだろうということを、いろんなところから探求している。そのいちばんの始まりが小学校の国語・算数・理科・社会にある」 (P169)

劇作家の平田オリザさん著書『演劇入門』から。

「私たちは、テーマがあって書き始めるわけではない。むしろ、テーマを見つけるために書き始めるのだ。それは、私たちの人生が、あらかじめ定められたテーマ、目標があっていきているわけではないのと似ているだろう。私たちは、生きる目的をどうにかしてつかもうとして、この茫洋としてつかみどころのない人生だろうか。私たちは、生きるテーマを見つけるために生き、そして書くのだ」 (P108)

我々は、「生きるとはどういうことか」というような見えない目標・テーマを抱えて学び続ける。その答えは見つからないかもしれない。だが見つからないからと言って、あきらめてはいけない。また安易に、目標を点数などの目先の「手段」にすり替えてもいけない。

実は、我々の目的は「答え」を知ることではない。その答えを得るために、考え、問い続ける過程こそが目的なのであろう。そして、考え、問い続けることが人生というものなのだろう。何か具体的な「形あるもの」を手に入れることが人生ではない。それこそ手段にすぎないのなのかもしれない。

もしかしたら、我々は人生というものについても「目的」と「手段」を逆転させがちなのかもしれない。

上記の2人言葉から、そんなことを考えた。



2014年2月14日 (金)

「『助け合い』と『同調圧力』の狭間で、周囲とのコミュニケーションを楽しみながら雪かきしました」

きのうのブログ(2月13日)で、「同調圧力」についての言葉を紹介してみた。今日も、そのほかの「同調圧力」周りの言葉を並べてみたい。

先週の土曜日、大雪が降った。ボクも、土曜日と日曜日に合計3時間くらい子供と一緒に雪かきをした。その雪かきについて、特定非営利活動法人「育て上げネット」の工藤啓さんが、育て上げネットマガジン(2月12日号)で文章を書いていて、興味深く読んだ。その中から。

「3時間程度でしたが、『助け合い』と『同調圧力』の狭間で、周囲とのコミュニケーションを楽しみながら雪かきしました」

「お宅はしないの?」という近所からの無言の同調圧力。それに押されて雪かきをする。その結果、得られる助け合いの感覚。この「狭間」「バランス」こそがパブリック、すなわち「公」というのものかもしれない。ただ日本には、自律的な助け合いより、同調圧力の方が強くなる傾向があるのが気になる。

コラムニストの堀井憲一郎さん著書『やさしさをまとった殲滅の時代』から。

その場にいるみんなが同じ意見になることが大事な社会では、目立つことによって利益を得ることが難しいために、個性よりも同調を強要してくる。その社会の中の教育機関だけが、個性を伸ばすことができるはずはない。社会構成員の本音を言えば、そんな教育をやられてはたまらない」 (P12)

教育とは社会の縮図の場所である。だから教育の現場でも、当然のように子供には「同調圧力」に従うことを求める。

哲学者の小川仁志さん著書『「道徳」を疑え!』で、次のように述べる。

「いま行われている道徳教育の実態は、ある意味で価値観の押しつけにすぎないからです。別の言い方をすれば、あらかじめ『正しい』とされる答えを身につけさせることに終始しているのですから」 (P3)

「誰かが正しいといったから正しいと思い込む、あるいは誰かが決まりだといったから守るようにするなどというのが道徳の目的ではないはず」 (P151)

 

これは道徳教育だけの話ではない。日本の教育の根本的な問題でもある。それについては以前のブログでも書いた。(2013年3月13日のブログ

ちなみに思想家の内田樹さんも、次のように書く。ツイッター(2013年12月31日)より。

「高校生においては相互の同調圧力が高すぎて、自分の中に発生した『それをまだまわりの誰も口にしたことのない考想や感情』をていねいに対話的に研ぎ出して、言語化する努力がほとんどされていない」

まさに社会の縮図。

「同調圧力」について、コラムニストの小田嶋隆さんは、NHK『クローズアップ現代』(1月14日放送)で、同調について次のように説明していた。

「連帯というのはお互い心を合わせることだけど、同調というのは『イヤなことは言うなよ!』とか『乱すな、言うことを聴け!』ということ」

また作家の高橋源一郎さんは、ツイッター(2013年12月19日)で興味深い言葉を書いている。

「弱い人間を責めること、力を誇示しようとすること、力で押しつけようとすること、それにも関わらず、なぜか「愛(国心)」を要求すること。それはどれもDVの加害者の特徴です」


ちょっと視点は変わるが、僕は個人的に、東日本大震災以降、もてはやされた「絆」という言葉が何だか好きになれない。ここにも何だか居心地の悪い「同調圧力」のような感覚を受けてしまうから。同じようなことを書いている人もいる。


まずは、映画監督の園子温さん著書『けもの道を笑って歩け』から。

「近年ブームの『絆』という言葉も、非常に息苦しいなあと思います。互いに絆を感じるだけならまだましも、つながらない人間はバカだと言わんばかりの“絆の連係プレー”が横行している。ひとりで居たい人間をそっと支えてあげるのも絆です」 (P22)

そして実業家の辛淑玉さん岩波書店編『これからどうする』から。

「この社会が『絆』とよぶものほど胡散臭いものはない。イジメ、体罰、事故隠し、原発マフィア、記者クラブ、男社会。これらの背後にあるのは、自らの力で考えることを放棄し、互いにもたれあって責任の所在を曖昧にし、自分たちの利益だけに執着し、異質な『他者』を排除する、閉ざされた『ムラ共同体』ではないか。そして、そんな自立できない共同体のしがらみと軛を『絆』と呼んでいるだけではないのか」 (P614)


2013年5月28日 (火)

「ぼくはね、平等や公平って、どういう意味なんだろうと考えるんです」

前回のブログ(5月22日)、「平均」というものについての言葉を並べた。
その中で、藻谷浩介さんの「平均値と個人は違う」という言葉はお気に入りである。「平均」で表せる具体的な人はいなくて、個人個人はそれぞれ別々の事情を抱えているということである。 

今週、ビデオニュースドットコム『Nコメ』(5月25日)を聴いていたら、その藻谷さんの指摘と同じような指摘があったので書いておきたい。先週(5月21日)、日本外国特派員協会での記者会見で、ロシアの生物学者、アレクセイ・ヤブロコフ博士がチェルノブイリや福島の原発事故に関して、次のように語っている。

「『平均実行線量』とは何か。これは広範囲に使われている概念ですが、個々人の本当の被線量を反映してません。それは例えば『平均体温』と同じように、あくまでも『平均』に過ぎないのです」

「『平均』などというものは科学的にはありえないのです」
 

このヤブロコフ博士の指摘について、社会学者の宮台真司さんは、次のように説明している。 

「今回の災害の場合には、システマティックに管理された場所にいるわけではないので、どこをどういう経路で逃げたかは分からない。特に初期の3日くらいは、通常の千倍以上の放射能があるところを逃げ回る中で、各個人がまったく別の体験をしているはずで、それを平均することに全く意味はないんだということ」 

ジャーナリストの神保哲生さんは、次のように説明する。 

「個人のリスクを特定する必要がある。運わるく、仮に1000人に3人でも、100人に3人でもいいけど、その3人になった場合に自分がしなきゃいけないことと、そうじゃない場合は違う。平均して0・3%だから大丈夫というのは・・・。ある人にとっては200%かもしれない、ある人にとってはゼロに近いかもしれない。平均すると0・3%、それが意味がない。その数字に混乱させられている」 

個々の事情をみることなく、現場を平均値という枠に押し込めて、政策、対応を行うことにどれだけ意味があるのだろうか、ということである。これは前回も触れたが、教育や地域政策においても全く同じことが行われている。 

今回も、乙武洋匡さんの言葉を引用する。今度は、小説『ありがとう3組』から。 

「ぼくはね、平等や公平って、どういう意味なんだろうと考えるんです。三十人の子どもに、一律同じサイズのTシャツを配ることが平等なのか。それとも体の大きな子にはLサイズを、小さな子にはSサイズをといったように、一人ひとりの体に合ったTシャツを配ることが平等なのか。これまでぼくらがやってきた教育って、きっと前者だった気がするんですよね」

発達障害の児童に向き合う桃井康隆という教師の言葉である。

「平等」、「公平」という言葉を使っているが、そのまま「平均」と置き換えることができると思う。いろんな場面で「平均値」だけを考えて対応することは、結局、楽なんだろう。だけど、そんな対応に意味はあるのだろうか。もっと「平均」というものについても、桃井先生のように「どういう意味なんだろう?」と揺れて考えながら、個々に目を向け、向き合っていくべきなのだろう。個々より平均が優先される状況は、ツマラナイと思う。

2013年5月22日 (水)

「僕には、平均化されない、とがった存在でありたいという思いがある」

一昨日の朝日新聞(5月21日)に、サッカー選手のカズこと、三浦和良さんのインタビューが掲載されていた。その中の次の部分が印象的だった。

「僕には、平均化されない、とがった存在でありたいという思いがある」


「平均化されない」という美意識はけっこう大事じゃないかなと思う。

そのあと、乙武洋匡さん著書『自分を愛する力』を読んでいたら、そこでも「平均」という言葉が出てきた。乙武さんが、教師として生徒とどう対するかについて書いた部分から、


「むずかしいことはわかっている。それでも、僕らが『平均』や『標準』というモノサシを捨て、その子なりの特性や発育のペースを尊重してあげることができたら-きっと、幸せな子供が増えていくと思うのだ」 (P48)

そして、小説
『だいじょうぶ3組』では、次のような会話が登場する。乙武さんらしき教師の赤尾慎之介と、介助員の白石優作のやりとり。

赤尾 「どうせ、スタートラインからフツーじゃないんだ。だから、オレの教師生活、フツーをものさしにするのはやめようと思って。子どものためになるのか、ならないのか。それを第一に考えていこうと思ってさ」

白石 「でもね、学校というところは、なによりもそのフツーを重視する場所なんだ。それは教育委員会というところで働いてみて、よくわかった」
 (P28)


ここで言う「フツーのものさし」というものが「平均」というやつだと思う。フツーってなんだよとも思うが、要は「平均」のことなのだ。日本の学校教育について、内田樹さん著書『荒天の武学』で次のように書いている。

「日本の学校教育は、おそらく世界でも類をみないほど強い規格化、標準化圧を子どもたちにかけている。それによって大量の『代替可能-個体別不能』の工業製品のような労働者をつくり出すことをわが国の教育行政は久しく国策として遂行してきた」 (P10)

その状況について、乙武洋匡さんも、次のように書いている。『自分を愛する力』から。


「さらに僕が驚かされたのは、その大人の都合でつくられたストライクゾーンのなかに、なかば力ずくで子どもたちをはめこもうとする教師が少なくなかったこと」 (P130)

「無理やり引きずられ、ストライクゾーンに放り込まれようとする子どもたち。それでも、そのゾーンになじめず、苦悩する子どもたち。そんな彼らにこそ、『だいじょうぶだよ』と声をかけ、彼らの存在を受けとめ、そこに自己肯定感をはぐくんでいくのは僕の役目だと考えていた」 (P131)


フツー、平均化、規格化、標準化・・・、そんな枠に押し込める教育を続けていては、カズや乙武さんのような個性はめったに生まれてこないのではないか。

地域エコノミストの藻谷浩介さんが、著書『藻谷浩介さん、経済成長がなければ僕たちは幸せになれないのでしょうか?』で語っている次の指摘も地域復興についての話ながら、上記のことに通じると思う。

「『平均値と個人は違う』と言う点についても、『個人ではなくマクロの話なんだ』ということになるんです。その背景には、すべては平均値に向かって収斂するものだという思いこみがありそうです」 (P83)


結局、平均に収斂されてしまう個人や地域は埋没して、反対に生き残るのが難しくなる。本来、平均値はひとつの目安しかなく、平均値と個々は違うのである。そもそも平均値なんてフィクションで、そんな個人はいないのである。きっと。

なのに平均値に収斂してしまう日本の風潮は、暫定的なルールや規則に依存、服従してしまう風潮とどこか繋がっているような気がする。とにかく枠が好きなのだ。


2013年4月12日 (金)

「今、気になっているのは、みんなが『考える』より『思う』でことを決めるようになったことだ」

一昨日の東京新聞(4月10日)に、愛媛県に住む中学2年生の鷲野天音さんが母親に話した言葉が紹介されていた。 

「お母さん知っとるか。中学というとこは物を考えない人間をつくるとこやで」


この鷲野くんは、小5の時に、自分で「原発反対」の署名を、親戚や知人から集め、愛媛県議会に提出したという過去を持つ。これは、原発事故前の2009年のことだというから驚く。 

そして今日の朝日新聞(4月12日)に載っていた沖縄の輿儀香歩さん(18才)。高校時代に出場したダンスフェスティバルで「基地問題」をテーマにした時、審査員から「高校生にしては重いテーマ」と言われたという。そのときの思いが書かれていた。 

「高校生なら考えなくていいの?もやもやした感じが残った」 

中学生や高校生は考えなくてもいい、というのはどういうことなのだろうか。果たして考えないのは彼らだけなのか。ということで、今回は「考える」ということについての言葉をざっと並べてみようと思う。 

作家の池澤夏樹さん朝日新聞夕刊(1月8日)から。

「今、気になっているのは、みんなが『考える』より『思う』でことを決めるようになったことだ。五分間の論理的な思考より一秒の好悪の判断」

「システムがそれを束ねて増殖させる。『思い』に自信がつき、『考え』を排除する。時には多くの人が手近に敵を見つけて叩くというゲームに熱中する」

建築家の坂口恭平さん著書『独立国家のつくりかた』から。

「『考える』とは何か?これはつまり『どう生きのびるか』の対策を練ることである。『生きるとはどういことか』を内省し、外部の環境を把握し、考察することである。匿名化したシステムではこの『考える』という行為が削除される。考えなくても生きていけると思わせておいて、実は考えを削除されている」 (P43)
 

政治学者の中島岳志さんの言葉。毎日新聞夕刊(2012年2月17日)から。

「ツイッター社会というのか、何か起きたら瞬間的に反応して、気の利いたことを言う。すると、リツィートがいっぱい発信される。ところが、そうした言葉も1週間後にはもう古くなってしまう。断片的熱狂のような状態。もう少し立ち止まって考えなければいけないことが、いろいろあるはずです」

神戸大学教授で医師の、岩田健太郎さんの言葉。『有事対応コミュニケーション力』から。

「即答する人だけがテレビに出るようになるんです。テレビうけする人って、けっきょくそういう人たちなんですね」 (P61)


考えることを排除する傾向がますます強まる世の中。それでも、きっと考えなければならない。そんな言葉を。

作家の村上龍さん著書『自由とは、選び取ること』から。

「生き延びるためには、経済力や体力、人的ネットワークなど、いろいろなものが必要だが、もっと大切なものは何だろうか。
 

ミもフタもない答えだが、『考えること』だと思う。自分はどうすれば生き延びることができるのか、考える。考えたところで何も生まれないかもしれないし、何も変わらないかもしれない。だが、現代では考えることなくぼんやりと幸福到来を待つことほど、危険なことはない」 (P187)

作家の高橋源一郎さん著書『「あの日」からぼくが考えてきた「正しさ」について』から。

「ここで『出口』を見つけるためには、学校で教わったことはなにも役に立たない。自分で考えるしかない。『気配』を感じられるようにするしかないんだ。たぶん、その『出口』は、いまはよく見えないところにあるんだから」(明治学院大学の卒業生に送った言葉)

脳学者の養老孟司さん『絵になる子育てなんかない』から。

「人は何のために生きているのか。昔から繰り返し問われてきましたね。しかし、この『問い』は意味をなさない。あなたが現在、ここでこうして生きているのが『答え』なんですから。
 
であるなら、本当の『問い』は何か。そうして私がいまここでこうしているんだろう-これが『問い』です。このように、『答え』から出発して疑問を探すのが『考える』ということなんです」 (P119)

前回に続き、立教大学総長の吉岡知哉さんの言葉でしめたい。これまでも何度か紹介しているが、2011年度の大学院学位授与式での式辞から。
 

「大学の存在根拠とはなにか。一言で言えばそれは、『考えること』ではないかと思います。大学とは考えるところである。もう少し丁寧に言うと、人間社会が大学の存在を認めてきたのは、大学が物事を徹底的に考えるところであるからだと思うのです」 

「既存の価値や思考方法自体を疑い、それを変え、時には壊していくことが『考える』ということであるならば、考えるためには既存の価値や思考方法に拘束されていてはならない」 

「ところが、東日本大震災とその後の原発事故は、大学がそのような『考える』という本来の役割を果たしていないし、これまでも果たしてこなかったことを白日のもとに明らかにしてしまった」 

「『考える』という営みは既存の社会が認める価値の前提や枠組み自体を疑うという点において、本質的に反時代的・反社会的な行為です」
 

「皆さんがどのような途に進まれるにしても、ひとつ確実なことがあります。それは皆さんが、『徹底的に考える』という営為において、自分が社会的な『異物』であることを選び取った存在だということです。どうか、『徹底的に考える』という営みをこれからも続けてください。そして、同時代との齟齬を大切にしてください」 

学ぶ場所ということでは大学も中学校、高校も変わらないはず。最初に紹介した鷲野くんの言葉と、吉岡総長の言葉のあいだに、きっと日本のいろんな「現実」が落ちている。


2013年3月13日 (水)

「わたしは『だめだと言われたからだめなんだ』と思う子どもを育ててはいけないと思っているんです」

ここ数回のブログでは、日本という社会の、一度決めたルールに拘泥してしまう体質や、外部規律に依存してしまう体質についてのツラツラ考えながら言葉を並べてきた。

どうしたら、こんな体質を変えられるのだろうか。正直、ちょっとお手上げな感じもあるけど、とどのつまりは、教育から変えていくしかないんじゃないかなと思ったりもする。教育現場で「ルールは社会の変化にあわせて変えていかなければならない」とか、「外部規律より、自己規律で考える」というようなことを子供たちの体質にしみこませていく。それしかないんじゃないのかな~と。

そんなことも考えながら、たまたまフィンランドの元外交官で、現在は教材作家として教科書作成などに携わる北川達夫さんと、劇作家の平田オリザさんによる共著
『ていねいなのに伝わらない「話せばわかる」症候群』という本を読んでいた。この本の中にも、やはり子供たちに対しても、外から規律を押し付けてしまうような教育現場の状況が指摘されていた。北川達夫さんは、次のように語っている。

「フィンランドから日本に帰ってきて、日本の教育現場に入ってみてびっくりしたものの一つに、読書指導があります。それは、先生たちが選んだ本を子どもたちに『いい本として』読ませているということです。先生たちが一生懸命、いままでの知識と経験を駆使していい本を選ぶ、社会的評価が高い本を選ぶ、それはもちろんいいです。でも、私たちは、『それを読んで、いいか悪いか、好きか嫌いかを決めるのは子どもたちだ』という教育哲学が徹底している国にいたものですから、いい本だという、教師側の価値観、評価をいっしょに子どもたちに与えていることにものすごく驚かされました」 (P22)

そして、北川さんは、次のようにも指摘する。

「そこに、規範意識といいますか、教える側の『教室での表現というものはこうあるべきである』『子どもは元気で、はつらつとした存在であるべきである』という、表現観、価値観が強く入り込んでいるのかもしれないですね」 (P122)

さらにフィンランドの教育を引き合いに、日本の教育の問題点を次のように語っている

「ご推察の通り、あれにはあらかじめ決められた答えはないんです。話し合っているなかで、『ここまで言われたら自分だったら許せない』『この程度ならば許せる』というラインを子どもたちがそれぞれ決めていくんですね。
 そういう葛藤のある、いま平田さんが言われた『うそを言うことと、おおげさに言うこと』や、同じく国語教科書のなかに出てくる、『いじめられることと、からかうこと』など、境界線の引き方が個人や社会によって大きく異なってくるような問題が意図的に立てられているんです。それは、話し合いでみんなの意見を聞くことによって他人の価値判断を知ると同時に、自分で価値判断をしていく学力が子どもたちに必要だという考えに基づいているんですね。
 ここで大事なことは、もし修身のような旧来の道徳教育だと、その境界を大人がきっちり決めて、『これはうそつきですよ』と上から教え込むことになるということです」 (P17)

これに続いて、平田オリザさんも次のように指摘している。

「日本の国語教育は、一面で戦前の修身の代用品みたいにされてきたという歴史があって、どうしても、道徳的な読み取り、あるいは、規範的なことばの学習という傾向を、いまもずっと抱えています。読解力といっても、それが実は、社会の道徳観やその先生の価値観をくみとることだったりする。
 いま、『読解力』とか『考える力』とか『話しあう力』をほんとうに求めていくのであれば、教える側が持っている権力を放棄するような覚悟をしないと、学校の先生がまず、規制の価値観や道徳観の教え込みに対して敏感にならないとだめだと思うんです」 (P18)

やはり日本の外部規律に対する依存体質の始まりは、想っていた以上に根深いのかもしれない。

なのに、我が国の政府が立ち上げた「教育再生実行会議」というものあって、その会議は先月26日に、「道徳の教科化」などを含めた提言を取りまとめ、安倍晋三首相に手渡している。「道徳の教科化」。さすがに「修身」という言葉こそ使っていないが、もう「外部規律の押しつけ」のニオイがプンプンと漂ってくる。やれやれ。

では、日本でもどういう教育を行っていけばいいのか、
北川達夫さんの提言を紹介してみたい。

「家庭教育でも、学校教育にしても、子どもには『だめなことはだめだ』と厳しく教え込むべきだという意見や要請がありますが、わたしは『だめだと言われたからだめなんだ』と思う子どもを育ててはいけないと思っているんです」 (P35)

「相手の見解があって自分の見解がある、それが対立するとお互いが変わってくる。まさに、その変わってくるところを楽しめるか。そこを重視できるかですよね」 (P175)

一方、
平田オリザさんのの提言は、次のようになる。

「対話の場を作るには、そういう、答えが一つじゃない、あるいは、すぐに答えを決めない授業を増やしていかないとだめでしょう。それは学校の先生たちにとっては大変な事なんだと思います。やっぱり答えが一つで、そしてその一つの答えを先生がふところにかくしておいて、最後にぱっと見せるというほうが、子どもたちをコントロールしやすい、楽な授業なんですよね」 (P51)

「これからの日本社会は、協調性(価値観を一つにまとめる能力)がいらないとは言わないけれど、それよりも社交性(異なる価値観をそのままに、知らない人同士がどうにかうまくやっていく能力)が必要だ」 (P218)

平田さんの、「答えがひとつしかないことを教える授業」の背景には、その方が先生たちが「子供たちをコントロールしやすい」という理由があるという指摘。これにはドキッとした。

今年1月11日のブログや、2月1日のブログでは、「全てをコントロールしたがる大人たち」について書いている。結局、学校の教師も、そうだったのである。だけど「体罰問題」でも指摘したことだと思うが、子供は、そもそもその全てをコントロールできるものではないし、コントロールしてもいけないものなのではないか。それなのに「子供をコントロールしやすい教育」を追い求めてきた結果、「外部規律」に依存する体質が生まれてしまっている。そんな側面が今の教育現場にあるのも否定できないのでは、と思う。

しかし、こうした状況に「逆巻き」をかけるような安倍政権による「教育改革(再生)」の行く末が、怖いと想うのは少し考えすぎなのだろうか。

 

2013年3月 6日 (水)

「指導者に求められるのは『厳しく接する』ことではなく、『厳しさを教える』ことなのだ」

気が付いたら、あっという間に3月に。ずっと「体罰」のことばかり考えているわけではないんだけど、せっかくなので、この間に「体罰」について印象に残った言葉を並べておく。

まずは、日本体育大学の学長、谷釜了正さんが、日体大学で行ったという「反体罰宣言」について語った言葉から。朝日新聞(3月1日)から。

「熱心さが余って体罰に及んでしまったケースもないわけではないと思います。無論、熱心だから許されるのものではなく、どんな場合でもそうした行為に及んではならないと自ら律しなければなりません。そのことを私も含めて指導者が再認識するために宣言したものです」

この「反体罰宣言」、どこまで実行力を伴うか。疑念も大きいが、一応、期待したい。

次は、評論家の斎藤美奈子さんが、毎日新聞夕刊(2月14日)の 『甘い社会が見過ごす暴力』と題した文章で書いていた言葉。

「体罰はなべて暴力で『良い体罰と悪い体罰』があるわけじゃない」

作家の高村薫さんが、東京新聞夕刊(2月19日)で書いていた言葉。

「『必要な体罰もある』という日本社会特有の精神論の内実は、暴力を受ける側の思考停止と服従だけであり、それを規律や結束と言い換えて来たのは集団における権力側の詭弁にすぎない」

女子柔道選手で、フランスでコーチをしていたという溝口紀子さんは、フランスでの指導の仕方について次のように語っている。(読売新聞2月16日)

「一対一で正座し、目を見ながら時に2時間も、選手の言うことに耳を傾ける。殴ったり『稽古をつける』方が早いかもしれないが、相手を受け止め、練習の理由をきちんと伝え、納得してもらうことが選手の成長にも必要と考えた」

ネットの放送局「ビデオニュース・ドットコム」では、『だから日本のスポーツは遅れている』 (2月15日)と題して、政治学者の萱野稔人さんと、スポーツ評論家の玉木正之さんが対談。その中で、萱野稔人さんは、自分のスポーツ経験で感じたことを次のように語っている。

「近所で遊んでいた近所の友達が先輩になっていて、決定的に作法を教わるわけですよ。先輩には挨拶をしないといけないとか。練習でも何かやると、出しゃばった真似するなとか。とにかく委縮することを徹底的に教わるんですよ。日本のスポーツの指導の一つは、委縮をたたき込もうとすること。体罰もそうだと思う」

これに対して、玉木正之さんは、次のように話す。

「スポーツっていうのはそもそも反社会的なものなんですよ。根本的に。実力主義、年上も年下も関係ないというのは一般社会の長幼の序も否定するということ。でも日本は長幼の序をスポーツの中に入れてしまう。より強固な長幼の序をつくることに走った」


最後に、プロ野球の権藤博さんの言葉を紹介したい。著書『教えない教え』の中のもの。

「厳しさとは、『この世界で生きていくことはこういう練習をして、それに耐えていかなければいけませんよ』と教えること。指導者に求められるのは『厳しく接する』ことではなく、『厳しさを教える』ことなのだ」  (P19)


別に、体罰や怒鳴りつけたりしなくても、厳しさを教えることはできる。それと当然のことだけど、厳しさを教えるのと同時に、楽しさを奪ってもいけないのである。

2013年2月 5日 (火)

「無駄のない社会は病んだ社会である」

1月28日のブログで、高橋秀実さん『弱くても勝てます』で紹介していた開成高校野球部の青木監督の以下のコメントを紹介した。

「『野球はやってもやらなくてもいいこと。はっきり言えばムダなんです』
 
 『とかく今の学校教育はムダをさせないで、役に立つことだけをやらせようとする。野球も役に立つということにしたいんですね。でも果たして何が子供たちの役に立つか立たないのかなんて我々にもわからないじゃないですか。社会人になればムダなことなんてできません。今こそムダなことがいっぱいできる時期なんです』」 (P87)

野球は所詮、無駄なもの。だからこそ、高校生の時期に幅を広げるためにも経験するべき、というコメントである。雑誌『OUTWARD』12月号を読んでいたら、宮城県栗原市にある、くりこま高原自然学校の代表・佐々木豊志さんの言葉が載っていた。「教育」と「無駄」との関係について、開成高校の青木監督と同じことを指摘していると思う。

「確かに体験させるというのは時間がかかります。子どもが失敗を繰り返しながら体験しないといけませんから。でも、いまは学校教育も家庭も含めて社会全体に子どもとじっくり向き合う余裕がない。物事をあまりに深く追求することがなくなってきたので、農業とか林業など早く答えがでないものに対するイメージがますます欠落していくのではないかと危惧しています」
 

ということで、今回は「無駄」にまつわるフレーズを並べてみたい。「無駄」についての言及の裏には、必ず「効率化」が付いて回っているのが興味深い。

まずは、棋士の羽生善治さん。著書『直観力』で次のように語っている。 

「無駄を排除して高効率を求めたとしても、リスクを誘発する可能性がゼロにはならない。むしろ、即効性を求めた手法が知らず知らずのうちに大きなリスクを増幅させているケースもある。無駄と思えるランダムな試みを取り入れることによって『過ぎたるは猶及ばざるがごとし』を回避できるのではないかと考えている」 (P41)

東京大学の経済学者、玄田有史さん東京新聞(1月1日)の倉本聰さんとの対談で、次のように語っていた。 

「世の中に『遊び』みないなものも減ってきている気がする。効率は大事だが、大切な無駄もあるような気がする。『遊び』は意味があるかないか分からないから遊びなのです。その中でふと出会うものが『希望』のような気がする」

開成高校の青木監督は「役に立つか立たないか分からない」と語っているように、玄田さんは「意味があるかないか分からない」と語る。その中で出会うものが「希望」という指摘は面白い。

ノンフィクション作家の柳田邦男さんは、東日本大震災をめぐる原発事故を受けて、『<3・11>忘却に抗して』で次の言葉を語っている。ただ、このフレーズは、そのまま子供への教育にも当てはまるのではないか。

「効率化という目標の前では『前提条件がもし崩れたら』という発想は排除され、次善の策も『ありえないこと』として削られる。それでは災害は防げない。どんな組織・システムも遊びや余剰部分があってこそ安全を保てるのです」 (P30)

効率化を追い求め過ぎて、無駄なもの、すなわち遊びが減っている社会。却って余分なリスクやコストを招き入れ、その裏で大切なものを失っている。


ここで改めて、1月28日のブログでも紹介した平田オリザさんの言葉を載せておく。著書『芸術立国論』から。

「芸術家は、基本的にはいつもブラブラしているように見え、経済生活の表層にとっては無駄な存在だろう。しかし、それは同時に、共同体にとって、どうしても必要不可欠な存在なのだ。無駄のない社会は病んだ社会である。すなわち、芸術家のいない社会は病んだ社会だ」 (P43)


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