★考えることの大切さ

2014年11月 7日 (金)

「夢中になるのは、自分がしていることがどういう結果をもたらすことになるのか、あらかじめわかっているからではなく、何が起きるか予測がつかないからなんです」

予測社会。その18。

そろそろ、「予測社会」について終わらせたいと思っている。脈絡なくアチコチ行って、それこそ「予想外」に長い旅になってしまった。

「予測内」の反対の言葉が、おそらく「予想外」や「想定外」。

この「予想外」や「想定外」という言葉は、最近、何度も耳にしている。それだけ「予想」というものに囲まれているということだし、「予想」の通りに行かないことが多いということでもある。それをシミジミと実感したのが東日本大震災であり、原発事故だった。あれから3年半が過ぎたけど、社会はより「予測」を手に入れ、確固たる「予測社会」を作り上げる方向に行こうとしている気がする。

作家の玄侑宗久さん著書『<3・11後>忘却に抗して』より。

「分からないことに分からないまま向き合い。曖昧模糊とした現実を暗中模索で進むしかないでしょう。それは福島に限りません。いくら計画を立てて将来が見えるつもりになっていても、先のことは分からないと今回の震災でみんなが痛感したはずです」 (P200)

そして、佐藤優氏の言葉を思い出す。著書『野蛮人の図書館』より。

「答えを出さずに不安な状況に耐えることが大事だと思う。回答を急がない。不安のままぶら下がって、それに耐える力こそが『教養』だと思うんですよ」

やっぱり、教養が必要なのだ。

ジャーナリストの池上彰さん著書『池上彰の教養のススメ』より。

「ルールを守るばかりでなく、ルールを創る側に回る。そのときに必要となるのが教養です。フレームワークや、所与の条件や、ルールそのものを疑ってかかる想像力。教養はそんな力を養ってくれます。すると、あらゆる変化が『想定外』ではなくなります」 (P33)

ここでの「ルール」という言葉を「予測」という言葉に置き換えると分かりやすい。そして、教養こそが「想定外」を克服してくれる。

文化人類学者の上田紀行さん。同じく『池上彰の教養のススメ』より。

「時代はむしろ枠外の自由な『教養』を求め始めています。いくら『できる人=よい道具』となっても、枠が崩れたら、その道具自体が役立たずになってしまうかもしれないのですから」 (P79)

教養とは「考えること」なのだと思う。

それに対して「予測社会」(養老さんの言うところの「都市化した社会」)は、「考えなくてよい社会」でもある。(9月19日のブログ

どうも「教養」を育むはずの教育の現場もベクトルはその方向に向いている。


哲学者の鷲田清一さん東京新聞夕刊(9月9日)より。

「安倍内閣が推進しようとしている『教育改革』は、標準化されたトラックをさらに一元管理し、生徒たちにそこを走らせようとしているのだとおもった」

「こういう生き方もある、こんな価値観もあるというふうに、子どもに生き方の軸となるものの多様さを教師がみずからの背で示す、あるいは過去の人物に託して語る・・・。そういうふうに将来の可能性の幅を拡げるところに教育の意味はある」


「『提言』は逆に、整備された道ならうまく走れるが、不測の事態にうまく対処できずにヘたり込むばかりの、そんな子どもを育てたいかのようである」

「『想定外』の事態にどう対処するかの能力が、生き延びるためにもっとも重要だということを、わたしたちは福島の原発事故で思い知ったはずなのに」


実際の教育現場は、「予測」「ルール」通り生きる人間、考えない人間を求めているのだ。(2013年4月12日のブログ

それは親にも言える。作家の柳田邦男さん著書『シンプルに生きる』から。

「おそらく、若者なり子どもなりが危機的な状況に陥ったときに、親が対応を間違うんだと思います。非常に打算的になったり、あるいは因果関係を先に考えて、役に立つとか、いい結果が出るという予測が立てば行動したり。そうやって理屈で考えるから、ろくな答えがでないんです」 (P43)

もともと教育というものと「予測すること」とは水と油の関係なのかもしれない。

武道家の光岡英稔さんの言葉。著書『荒天の武学』より。

「『世の中は必ずこうなるはずだ』という思い込みと『相手はこう来るはずだ』という想定は相似形で、それらを覆したときにどうするかが個として問われる。この問いに向かうには、固定観念化された価値観では歯がたたない。開いている価値観がそこにはないとどうにもならない」 (P101)

開いている価値観…。まさに多様性であり、教養のこと。

作家の内田樹さんは、「教育」について次のように書いている。著書『日本の文脈』より。

 「人間が自分の限界を超えるような働きをするのは、夢中になっている時だけです。そして、夢中になるのは、自分がしていることがどういう結果をもたらすことになるのか、あらかじめわかっているからではなく、何が起きるか予測がつかないからなんです」

「何が起きるか予測がつかないけど、何かとてつもなくおもしろそうなことが起こりそうだというワクワク感にドライブされて、人間は限界を超えて能力を発揮する」 (P119)

ここで言っている「何が起きるか予測がつかないから、夢中になり、自分の限界を超えていくこと」。これこそが社会の閉塞感に風穴をあけることにつながるのではないか。

それは「予想社会」について書いた最初のブログ(9月18日)で紹介した言葉につながる。 その後「イスラム国」で話題になった宗教学者、中田考さんの言葉。著書『一神教と国家』より。

「なぜなら、知を起動するのは、好奇心であり、未だ想像できないものへの憧憬だからです」 (P251)

この「予想社会」の流れに抗うということは、考え続けるということであり、反知性主義に抗うことでもあるのだ。

それはきっと「生きること」を取り戻すことでもある。そんなことをこの2か月、ずっと考えてきたことになる。

2014年3月27日 (木)

「私たちは、生きるテーマを見つけるために生き、そして書くのだ」 

前回の続き。
目的を忘れて、その手段を目的としてしまう。日本のあちこちで見られる習性。それについての追加の言葉。

タレントの太田光さん著書『いじめという怪物』から。

「特に中学生で教えることは、学問というものの入り口です。そこで重要なことは、答えを知ることではなくて、問いを立てること、問いを意識することだと思います。学ぶというより問うんです」 (P45)

「学校で教える算数でも国語でも理科でも社会でも、その最終目標は一緒ですよ。その学問っていうのはまさになんで人間が生きているのかという、この我々はなんで存在しているんだろうということを、いろんなところから探求している。そのいちばんの始まりが小学校の国語・算数・理科・社会にある」 (P169)

劇作家の平田オリザさん著書『演劇入門』から。

「私たちは、テーマがあって書き始めるわけではない。むしろ、テーマを見つけるために書き始めるのだ。それは、私たちの人生が、あらかじめ定められたテーマ、目標があっていきているわけではないのと似ているだろう。私たちは、生きる目的をどうにかしてつかもうとして、この茫洋としてつかみどころのない人生だろうか。私たちは、生きるテーマを見つけるために生き、そして書くのだ」 (P108)

我々は、「生きるとはどういうことか」というような見えない目標・テーマを抱えて学び続ける。その答えは見つからないかもしれない。だが見つからないからと言って、あきらめてはいけない。また安易に、目標を点数などの目先の「手段」にすり替えてもいけない。

実は、我々の目的は「答え」を知ることではない。その答えを得るために、考え、問い続ける過程こそが目的なのであろう。そして、考え、問い続けることが人生というものなのだろう。何か具体的な「形あるもの」を手に入れることが人生ではない。それこそ手段にすぎないのなのかもしれない。

もしかしたら、我々は人生というものについても「目的」と「手段」を逆転させがちなのかもしれない。

上記の2人言葉から、そんなことを考えた。



2014年3月 5日 (水)

「ならば、どんなにか辛くても目を背けず真正面から向き合い、自分で考え、自分で動くしかないじゃないか。弁解したところで、愚痴ったところで詮方ない」

ここ3回のブログでは、まずは映画『ハンナ・アーレント』から、「思考停止」「考えないこと」の罪について言及。そして日本人の持つ「見たくないことは見ない」「考えたくないことは考えない」という習性について考えてみた。

その3回のブログで紹介した以外に、そのことに近い言葉を紹介しておきたい。

アナウンサーの吉田照美さん著書『ラジオマン』から。

「日本人の一番悪いところは、『すべてが他人事』という感覚に侵されているところだと思います。自分の身に降りかかったときに初めて、事の重大さに気づき、自分の置かれている立場を知らされる。あんな大きな事故があったにもかかわらず、そういう気質が今でも直っていない。日本人特有の、水に流せないのに流してしまおう的な状況が、相変わらず続いていることの恐怖をつくづく感じます。本当は、水に流しても元通りにならないことだってあるはずなのに」 (P197)

映画監督の崔洋一さんTBSラジオ『伊集院光 ツタヤに行ってこれ借りよう』(2013年10月18日放送)での言葉。

「たぶん我々は、非常に物事や事実に関する選択能力っていうものをどこか自分で置き去りにしている風潮があると思う。現実逃避とも違う、現実の中にいるんだけど、なるべく遠ざけてちょっと顔は横に向けるというような。それでも全体は進んでいく、というような空気感がある」

見たくないものを見ない、という習性はマス・メディアにおいても同じ。本来、メディアの仕事は、見えないものを見えるようにすることなのに。

ピーター・バラカンさんJFN『学問のススメ』(2013年4月2日放送)から。

「日本の放送界は、複雑な問題だとか、ちょっと物議をかもす問題に関しては、あまりしゃべらない。報道でもタブーになっていることが多すぎる。例えば、放射能がそう。日本の電波にはほとんど出ない。この言葉が。今の日本では、それではダメです。 メディアはビクビクしないで伝えるべきことをきちんと冷静に伝える」

では、我々は、どうしたらいいのか。前向きというか、処方箋の言葉も載せておきたい。

きのうも紹介した東愛知新聞の社説(9月1日)から。


「求められているのは、しっかりと自分を持ち、『考えたくないこと』でも考えるという『空気の国の習い性』からの脱出です。そうでないとわれわれの国や地域は如是閑の言う『いかさま』になってしまいます」

 

ちなみに、如是閑とは、長谷川如是閑さん。戦前のジャーナリストである。

そして、もうひとつ。作家の田中康夫さん雑誌『文藝』冬号に掲載された小説『33年後のなんとなく、クリスタル』から。

「目を開けても閉じていても、哀しいときも苦しいときも、そして嬉しいときも愉しいときも、一分一秒、時は常に変わらず。過ぎていくのだ。ならば、どんなにか辛くても目を背けず真正面から向き合い、自分で考え、自分で動くしかないじゃないか。弁解したところで、愚痴ったところで詮方ない」 (P93)

2014年3月 4日 (火)

「考えたくないことは考えない、考えなくてもなんとかなるだろう。これが空気の国の習い性だ」

きのうのブログ(3月3日)では、最後に畑村洋太郎さんの次の言葉を紹介した。岩波書店編集『これからどうする』から。

「東日本大震災の津波と原発事故で私たちが学んだ最大のことがらは、“人は見たくないものは見ない、考えたくないことは考えない”という特性を持っているため、敢えて“見たくないことも見る、考えたくないことも考える”ようにしなければ同じ愚を繰り返すことになる、ということではないだろうか」 (P349)

政府の事故調査・検証委員会委員長を務めた経験からの言葉である。

 

今朝の読売新聞(3月4日)にも、その畑村洋太郎さんのインタビューが載っていた。事故から3年、政府や東京電力を強く批判している。

「報告書に『見ないものは見えない。見たいものが見える』など、事故で得た知見を書いたが、ほとんど改善されていない」

「どんなに考え、調べても、自分たちには考えが至らない領域がある。まずそれを認めることだ」


あれだけ大きな事故を起こしても、「見えないものは見えない」。この習性をただすことなく、もう3年が過ぎようとしている。

エッセイストの阿川佐和子さんインタビュー集『阿川佐和子の世界一受けたい授業』で次のように語っている。

「この対談で半藤一利さんにお話を伺いしたとき、『日本人は、起きてほしくないことには、起きないだろうと思ってしまう。先の大戦でも、ソ連は絶対に参戦しないと思い込んでいた』とおっしゃっていたんですけど、たしかに大事な判断をするときに、楽観的になる癖があるのかなと」 (P85)

3年前から変わらないのではない。先の大戦から、ずっと変われていないのである。

作家の荒俣宏さん著書『すごい人のすごい話』から。

「ぼくは、現代の日本人は楽しいことばかり追い求めて、その代償として重いものを背負うことを避けているように見えるんです。例えば、かつて日本が戦争をやったという事実も、きちんと背負うべきだった。でも、そういうことは重いから、できるだけ考えたくない。『背負う』を別の言葉でいうと『あきらめる』。どこであきらめがつくかという問題じゃないですか」 (P314)

去年9月1日の東愛知新聞の社説には、作家の笠井潔さんを引き合いに次のように書かれている。

「『最悪の事態を想定しての必要な準備ができず、危機管理能力を致命的に欠いているのは、日米戦争から福島原発事故にいたるまで、空気が支配する日本社会の宿命的な病理』だ、と作家の笠井潔さんが指摘しています」

「笠井さんは『考えたくないことは考えない、考えなくてもなんとかなるだろう。これが空気の国の習い性だ』と指弾します。場の空気に流される習性からの脱却が大切です。これは国づくり、地域づくりにも言えることなのです」


見たくないものを見ず。考えたくないことは考えず。背負うことを避け、あきらめることを避け、そうやって70年余り、そういう「思考停止」の習性でやってきた。そこで、「第2の敗戦」という人もいる「3・11」を迎えることになった。

 

ドキュメンタリー映画監督の想田和弘さん東京新聞(2013年9月11日)では、次のように語っている。

「放射能汚染や人びとの苦しみを『なかったこと』にしないと、五輪の昂揚感も経済利益も台無しになる。招致の成功で、多数派には原発事故をないものにする強い動機が生まれた」

最初の東京オリンピックは結果として、「第1の敗戦」を「なかったこと」にすることに貢献し、今度の東京オリンピックは、「第2の敗戦」である3・11を「なかったこと」にすることに貢献するのだろうか。

2014年3月 3日 (月)

「敢えて“見たくないことも見る、考えたくないことも考える”ようにしなければ同じ愚を繰り返すことになる、ということではないだろうか」

前回のブログ(2月27日)でも取り上げたが、映画『ハンナ・アーレント』の中で、アーレントは「考えることを拒否した人間は、残虐行為に走る」と語っていた。

この映画については、作家の高橋源一郎氏も、朝日新聞(2013年11月29日)の『論壇時評』で書いている。

「アーレントは、アイヒマン裁判を傍聴し、彼の罪は『考えない』ことにあると結論づけた。彼は虐殺を知りながら、それが自分の仕事であるからと、それ以上のことを考えようとはしなかった。そこでは、『考えない』ことこそが罪なのである」

そして、この「考えない」ということを日本人にも突きつける。

わたしたちは、原子力発電の意味について、あるいは、高齢化や人口減少について考えていただろうか。そこになにか問題があることに薄々気づきながら、日々の暮らしに目を奪われ、それがどんな未来に繋(つな)がるのかを『考えない』でいたのではないだろうか。だとするなら、わたしたちもまた『凡庸な悪』の担い手のひとりなのかもしれないのだ」

我々も気づきながら「考えない」。すなわち「思考停止」に陥っているのである。

 

作家の村上龍氏は、著書『賢者は幸福でなく信頼を選ぶ。』で次のように書いている。

「多くの人が『思考停止』に陥っている。シリアスな現実から目をそらし、希望的観測をまじえて将来を予測し、考えることから逃げる。その方法、生き方は、とても楽だ」

「わたしたちは、それについて考えることが面倒で苦痛なとき、とりあえず精神が楽になる道を選ぶ傾向がある。表面的なことだけが語られ、都合の悪い事実は覆い隠され、そこから学ばなければいけない過去の出来事については、できるだけ早く忘れようとする」 P201)

考えることを拒否する。思考停止に陥る。村上氏は、そういう生き方は「楽だ」とする。だから、「同調圧力」にただただ、流されていってしまうのであろう。

われわれは、アインヒマンの「凡庸な悪」を笑ってはいられない。

韓国人監ポン・ジュノが撮った公開中の映画『スノー・ピアサー』。この中で、主人公の男、カーティスはクライマックスで、次のように語る。

「俺たちがずっと壁だと思っていたのは実は扉だ」

そこに外に通じる「扉」があるのに、それを見ないふりして、ただの「壁」だと勝手に思い込む。扉がないことを理由に、期限切れのシステムから飛び出さずに、いつまでも、目の前のシステムに居続ける。

この映画は、「國體護持」から抜け出せない人々を描いた力強い「寓話」でもある。

 

見たくないものを、なかったことにする。この傾向は、日本人には特に強いようだ。

社会学者の宮台真司さんビデオニュース・ドットコム『Nコメ』(2013年11月2日放送)では、まさにそのままの言葉を口にしている。

「日本国民によく目立つ傾向。見たいところしか見ない。見たくないところは見ないというより無かったことにする」 (1時間46分50秒ごろ)

その次の回の放送でも、こう述べている。ビデオニュース・ドットコム『ニュース・コメンタリー』(2013年11月9日放送)より。

「小室直樹先生は、日本人の悪い癖は『神頼み』だといっていました。要するに見たくないものは見ないというのと同じ。神に頼むだけ、つまり何もしない。見たくないものは見ないのと同じ機能。つまり実際に起こりうる事態について、事前に分析をしてそれだけの備えを整えておくということをしないで進むことを正当化する」 (58分30秒ごろ)

こうした日本人の体質が、もっとも顕著に表れてしまったのが、原発問題でもある。

「失敗学」を研究し、東日本大震災の原発事故を受け、政府の事故調査・検証委員会委員長を務めた畑村洋太郎さんは、岩波書店編集『これからどうする』で、次のように書いている。

「東日本大震災の津波と原発事故で私たちが学んだ最大のことがらは、“人は見たくないものは見ない、考えたくないことは考えない”という特性を持っているため、敢えて“見たくないことも見る、考えたくないことも考える”ようにしなければ同じ愚を繰り返すことになる、ということではないだろうか」 (P349)

 

見たくないものは見ない。すなわち思考停止。そして同調圧力に巻かれていく。

この連鎖から抜けるためには、畑村さんの言う「敢えて”見たくないこともみる、考えたくないことも考える”」。ここから始めるしかないのかもしれない。

2014年2月27日 (木)

「考えることで人間は強くなる」

先週放送されたピーターバラカンさんのTFMの番組『ザ・ライフスタイル・ミュージアム』(2月21日放送)を聞いていたら、ゲストとして出演していたドラマ『あまちゃん』の主題歌で知られるミュージシャンの大友良英さんが、自分の故郷の福島について、次のように語っていた。

「僕は科学者じゃないので、放射能のことをどうにかすることはできないんですけど。こういう状況の中で人はどう生きていくかという考え方を出していくのが音楽家とか文化に携われる人の役目だと思っている。それは多分意見の違う人たちが、違うままでどううまくやっていくかという枠組みかなと思う。お祭りをやるのも、その中の大切な一つだと思っている。じゃないと本当に状況は厳しいので。ただその状況に向かっているだけだと生きていけない」

これは被災地だけではなく、今の社会前提にも当てはまることだと思う。

「同調圧力」によって社会をひとつにまとめるのではなく、多様な価値観をそれぞれ大切にしながら、お祭りや音楽などの文化、エンターテイメントを介在させることによって、その様々な人たち同士がうまくやっていくということ。きっとそれが社会なのだと思う。


それから。「同調圧力」絡みの言葉も追加しておきたい。

読売新聞(2月22日)で、編集委員の芥川喜好さんのコラム『時の余白に』を読んでいたら、次の一文で締めくくられていた。

「人がどう騒ごうが、自分で受け止め、自分で考えて、つまらなければそこから立ち去ればいい。自分は加わらない、自分はそうしない、という身の処し方もあるのです」

この言葉は、「同調圧力」に対する処し方となっていて興味深い。では、芥川さんは、上の言葉を映画『ハンナ・アーレント』から導いている。

ナチス政権のもとで、ユダヤ人虐殺の中心的人物であるアインヒマンについて、映画『ハンナ・アーレント』の中で、ハンナ・アーレントは次のように語る。

「人間であることを拒否したアイヒマンは、人間の大切な質を放棄しました。それは思考する能力です。その結果、モラルまで判断不能となりました。思考ができなくなると、平凡な人間が残虐行為に走るのです」

そして、映画のクライマックスで、アーレントは学生への講義を次の言葉で締めくくる。

「考えることで人間は強くなる」

芥川喜好さんは、この映画について次のように書いている。

「世評は知らず、この映画の主題が『言葉』であることが面白かったのです」

「言葉、すなわち思考、すなわち思考する人間」

つまり、「同調圧力」に加わらないためには、やはり「考えること」と「言葉」が重要ということなのだろう。

このブログではいろんなことがつながって、結局、同じことを繰り返し書いている。そんな気になってきた。「考える」(2012年5月8日のブログなど)「言葉」(2013年11月21日のブログ など)

 

2013年12月 2日 (月)

「覚悟を失い、信頼を失い、友を失い、言葉を失ったものたちは、もはや自分の頭でものを考えることができなくなる」

前回のブログ(11月21日)に続き、政治の世界であふれる「曖昧な言葉」の問題について。

自民党の石破茂幹事長の発言が問題になっている。今回の発言でも、石破氏が使った「テロ行為」という言葉が気になる。彼はこの「テロ行為」という言葉を、本来の定義とは違った、拡大解釈ともいえる輪郭の曖昧な言葉として使っている。 

そして、いま懸案の特定秘密保護法案。内田樹さんのブログ『内田樹の研究室』(12月1日) を読んでいたら、この法案の中での「テロリズム」の規定について取り上げていた。

「テロリズム(政治上その他の主義主張に基づき、国家若しくは他人にこれを強要し、又は社会に不安若しくは恐怖を与える目的で人を殺傷し、又は重要な施設その他の物を破壊するための活動をいう)」(第12条)

そして
内田樹さんは、この定義について次のように指摘する。

「この条文の日本語は、誰が読んでも、『強要』と『殺傷』と『破壊』という三つの行為が『テロリズム』に認定されているという以外に解釈のしようがない」 

まさに言葉の輪郭が、曖昧にされ、さりげなく拡大解釈されていくことに危惧を投げかける。ブログの最後を次の言葉でしめくくっている。 

「このように法案文言に滑り込まされた『普通名詞』の定義のうちにこそこの法案の本質が露呈している」 

言葉の定義、すなわち言葉そのものが曖昧に恣意的に使われていく。

それから、最近耳にした輪郭の曖昧な言葉を、もうひとつ思い出した。「積極的平和主義」。本当によくわからない言葉である。


沖縄タイムスは、その社説(9月29日)で、この言葉について次のように書いている。 

「積極的平和主義という言葉は、口当たりのいいスローガンではあるが、中身はあいまいではっきりしない。護憲の立場に立つ平和主義を消極的平和主義だと批判し、具体的な行動を起こすことが重要だと安倍政権は指摘するが、何をもって積極的だと考えるのか、あやふやだ」 

あいまいで、あやふやな言葉が、そのまま政治の世界で大きな顔をして流通していく。 

先週聴いていた、文化放送の『ゴールデンラジオ』(11月27日)でも、経済学者の金子勝さんが、こうした言葉の問題に触れていた。 

「第3者機関を首相がチェックするとか、何を言っているのかと思う。一事が万事、言っていることが国語になっていない」 

そう。政治家の言葉が「国語になっていない」のである。 

それから特定秘密保護法案について語っていた金子さんの言葉も印象的だった。

「ほとんど窒息状態の社会になってしまう。風通しが悪い社会がうまくいったためしない。だいたい失敗する。誰も批判しないから、いったん悪くなったら誰も方向性を是正できないから」 

この言葉からは、以前、紹介したオシムさんの言葉を思い出す。雑誌『フットボールサミット』(第6号)より。(2012年8月31日のブログ 

「批判されることが全くなかったら、進歩などありえるはずがない。自分がいいのかどうかすら、知ることができない」 

その特定秘密保護法案については、専修大学の政治学者、岡田憲治さんが、今日のブログ『大人の政治読本&愛おしき学生に告ぐ』(12月2日)での次の指摘も印象的だった。

「自分の頭でものを考え続けるためには、それに意味があると確信するためには、考えるための材料が世界に開かれていなければならない。ものを考えるための『言葉』、『出来事の有様』、『人の考え』、『冷徹な事実』、『不都合や失望を生む事実』が、我々に開かれていなければならない」 

「我々は自分の頭でものを考えるための大切な条件を手にすることができず、自分の頭ではなく、人の言いなりとなってものを考える可能性が高まり、己の自信の無さがつのることで、だんだんと縮こまった心を持つようになる。そして、やがて自分たちのした決定に信頼を置くことができなくなる。当然自分たちの決めごとに対する『覚悟』を失う」 

こちらも、「考えること」についての言葉を並べたときのブログを思い出す。(2013年4月12日のブログ  

金子さんの言う「窒息状態の社会」「風通しの悪い社会」。そこでは、人がものを考えることをしなくなり、そして誰も批判ということもしなくなる。今、政治の世界が「無意識」に目指している社会は、そんな社会なのだろう。 

岡田憲治さんは、上記のブログで次のように締めくくっている。 

「覚悟を失い、信頼を失い、友を失い、言葉を失ったものたちは、もはや自分の頭でものを考えることができなくなる。自分の頭でものを考えられなくなる人間が多数を占めた時、我々は民主政治を継続する必然を失う。それは真の暗黒である」 

正しい輪郭の言葉を持つこと、手に入れること。それと「考えること」は、きっと切り離せないものなんだと思う。 

政治の世界であふれる「曖昧な言葉」。それと特定秘密保護法案や、今回の石破発言など。いずれの問題からも、危うくて不気味な「通奏低音」が聞こえてくる気がするのだが。

2013年4月12日 (金)

「今、気になっているのは、みんなが『考える』より『思う』でことを決めるようになったことだ」

一昨日の東京新聞(4月10日)に、愛媛県に住む中学2年生の鷲野天音さんが母親に話した言葉が紹介されていた。 

「お母さん知っとるか。中学というとこは物を考えない人間をつくるとこやで」


この鷲野くんは、小5の時に、自分で「原発反対」の署名を、親戚や知人から集め、愛媛県議会に提出したという過去を持つ。これは、原発事故前の2009年のことだというから驚く。 

そして今日の朝日新聞(4月12日)に載っていた沖縄の輿儀香歩さん(18才)。高校時代に出場したダンスフェスティバルで「基地問題」をテーマにした時、審査員から「高校生にしては重いテーマ」と言われたという。そのときの思いが書かれていた。 

「高校生なら考えなくていいの?もやもやした感じが残った」 

中学生や高校生は考えなくてもいい、というのはどういうことなのだろうか。果たして考えないのは彼らだけなのか。ということで、今回は「考える」ということについての言葉をざっと並べてみようと思う。 

作家の池澤夏樹さん朝日新聞夕刊(1月8日)から。

「今、気になっているのは、みんなが『考える』より『思う』でことを決めるようになったことだ。五分間の論理的な思考より一秒の好悪の判断」

「システムがそれを束ねて増殖させる。『思い』に自信がつき、『考え』を排除する。時には多くの人が手近に敵を見つけて叩くというゲームに熱中する」

建築家の坂口恭平さん著書『独立国家のつくりかた』から。

「『考える』とは何か?これはつまり『どう生きのびるか』の対策を練ることである。『生きるとはどういことか』を内省し、外部の環境を把握し、考察することである。匿名化したシステムではこの『考える』という行為が削除される。考えなくても生きていけると思わせておいて、実は考えを削除されている」 (P43)
 

政治学者の中島岳志さんの言葉。毎日新聞夕刊(2012年2月17日)から。

「ツイッター社会というのか、何か起きたら瞬間的に反応して、気の利いたことを言う。すると、リツィートがいっぱい発信される。ところが、そうした言葉も1週間後にはもう古くなってしまう。断片的熱狂のような状態。もう少し立ち止まって考えなければいけないことが、いろいろあるはずです」

神戸大学教授で医師の、岩田健太郎さんの言葉。『有事対応コミュニケーション力』から。

「即答する人だけがテレビに出るようになるんです。テレビうけする人って、けっきょくそういう人たちなんですね」 (P61)


考えることを排除する傾向がますます強まる世の中。それでも、きっと考えなければならない。そんな言葉を。

作家の村上龍さん著書『自由とは、選び取ること』から。

「生き延びるためには、経済力や体力、人的ネットワークなど、いろいろなものが必要だが、もっと大切なものは何だろうか。
 

ミもフタもない答えだが、『考えること』だと思う。自分はどうすれば生き延びることができるのか、考える。考えたところで何も生まれないかもしれないし、何も変わらないかもしれない。だが、現代では考えることなくぼんやりと幸福到来を待つことほど、危険なことはない」 (P187)

作家の高橋源一郎さん著書『「あの日」からぼくが考えてきた「正しさ」について』から。

「ここで『出口』を見つけるためには、学校で教わったことはなにも役に立たない。自分で考えるしかない。『気配』を感じられるようにするしかないんだ。たぶん、その『出口』は、いまはよく見えないところにあるんだから」(明治学院大学の卒業生に送った言葉)

脳学者の養老孟司さん『絵になる子育てなんかない』から。

「人は何のために生きているのか。昔から繰り返し問われてきましたね。しかし、この『問い』は意味をなさない。あなたが現在、ここでこうして生きているのが『答え』なんですから。
 
であるなら、本当の『問い』は何か。そうして私がいまここでこうしているんだろう-これが『問い』です。このように、『答え』から出発して疑問を探すのが『考える』ということなんです」 (P119)

前回に続き、立教大学総長の吉岡知哉さんの言葉でしめたい。これまでも何度か紹介しているが、2011年度の大学院学位授与式での式辞から。
 

「大学の存在根拠とはなにか。一言で言えばそれは、『考えること』ではないかと思います。大学とは考えるところである。もう少し丁寧に言うと、人間社会が大学の存在を認めてきたのは、大学が物事を徹底的に考えるところであるからだと思うのです」 

「既存の価値や思考方法自体を疑い、それを変え、時には壊していくことが『考える』ということであるならば、考えるためには既存の価値や思考方法に拘束されていてはならない」 

「ところが、東日本大震災とその後の原発事故は、大学がそのような『考える』という本来の役割を果たしていないし、これまでも果たしてこなかったことを白日のもとに明らかにしてしまった」 

「『考える』という営みは既存の社会が認める価値の前提や枠組み自体を疑うという点において、本質的に反時代的・反社会的な行為です」
 

「皆さんがどのような途に進まれるにしても、ひとつ確実なことがあります。それは皆さんが、『徹底的に考える』という営為において、自分が社会的な『異物』であることを選び取った存在だということです。どうか、『徹底的に考える』という営みをこれからも続けてください。そして、同時代との齟齬を大切にしてください」 

学ぶ場所ということでは大学も中学校、高校も変わらないはず。最初に紹介した鷲野くんの言葉と、吉岡総長の言葉のあいだに、きっと日本のいろんな「現実」が落ちている。


2012年12月18日 (火)

「立場が異なっていても、自由に発言したり、共存できる社会、それがリベラルな社会だと私は思います」

選挙が終わった。今回の結果には、当然ながら色んな思いがあるが、個人的に一番強いのが「国会からリベラル勢力が消えた」ということである。自民党では、加藤紘一氏などが落選し、リベラルとか、ハト派と呼ばれる政治家がほとんどいなくなった。社民党は、今や2席のみ。日本未来の党も、わずかに9席。わかりやすくリベラルな政策を掲げていた新党日本も消えた。本来は、中道・リベラルな立ち位置だった公明党も、タカ派自民に擦り寄らざるをえないのだろう。

永田町の国会議事堂が、マッチョとも呼べるタカ派色、一色に染まってしまった、といっても過言ではない状況である。安部氏や石原氏などが「保守」なのかどうかは、また別の機会に個人的な思いを書いてみたいが、とにかく「リベラル」と呼べるような政治家が見当たらなくなった。

ということもあり、「リベラル」や「自由」についてツラツラ考えたりしていた。なので、今回は、自分のメモの中にあった「リベラル」「自由」についての発言をズラリと並べてみたいと思う。過去に紹介したコトバもいくつかあるが、それらを並べることで、自分なりに何かが見えてくればなあと思う。

そもそも、として、「リベラル」は、どういう定義なのだろうか。

以前(7/7)でも紹介したが平川克美氏は、その著書『移行期的混乱』で「リベラル」という言葉について、次のように書いている。

「リベラルという言葉は英和辞典で見ると、『自由な』という意味は四番目にしか出てこないの。一番目は『気前がいい』なんですよ。二番目の意味が『たっぷりある』、三番目の意味が『寛容である』ってでてくる。四番目に『自由主義の』とか、『自由な』って出てくる」

「『人に振る舞ってやる自分こそが自由だ』っていうような広々としたものだったんだと思います」

ちなみに、今ボクの手元にある辞書『新明解 国語辞典 第四版』(三省堂)には、「リベラル」について、次のように書いてある。

「①自由・(寛大)な様子 ②自由主義的」

英和辞典『COMPREHENSIVE』(旺文社)では、「liberal」について、

「①気前の良い ②公平な、寛大な ③たくさんの ④自由主義の ⑤教養的な ⑥自由な」

調べてみて、改めて「リベラル」の意味の広さに驚かされる。

法学者の小室直樹さんの著書『人にはなぜ教育が必要なのか』には、こんな記述があった。

「イギリスでは、自由とは巨大なリヴァイアサン(絶対権力)のような国家権力から人民の権利を守るのだということが徹底していました。それがアメリカに伝わったわけですが、その意識が日本人に全くない。日本においては、自由というと『放埓』という意味になるわけです」

様々なものを押し付けてくる「絶対権力」から、自分たちの権利を守ること考えが「リベラル」の根底にはあるということになるのだろう。

茂木健一郎氏は、その著書『心と脳に効く名言』の中で、こんな風に述べている。

「人生の命題は一つしかない。いかに『自由』になるかということ。それはつまり、どのようにして『無限』を確保するか、ということ」

ここで茂木氏が、使っている「自由」とは、まさに「放埓」の意味ではなく、「気前のいい」「寛大な」「たくさんの」といった意味を持つ「リベラル」という考え方のことではないかと思う。

その茂木氏は、昨日のツイッター(12/17)での『それぞれの現場で、それぞれのことを』と題する連続ツイートで、「保守主義」について、次のように書いていた。

「保守主義とは、人間はそう簡単には変わらないという認識から出発する。領土問題で言えば、日本は自分たちの主張を堂々と述べるけれども、相手国(例えば中国)もまた、自分たちの週中尾を変えることは期待できない、という認識から出発するのが、保守主義というものだと思います」

「人間はそう簡単に変わらないという認識から出発する」。これは保守主義についての分かりやす解説だと思う。

では、これに対して「リベラル」という考え方は、どういうものなのか。

これについては、まずは今年5月にも紹介したが、立教大学総長の吉岡智哉さんが大学院の卒業式(3/24)で述べたコトバを紹介したい。

「既存の価値や思考方法を疑い、それを変え、時には壊していくことが『考える』ということであるならば、考えるためには既存の価値や思考方法に拘束されてはならない」

「『考える』という営みは、既存の社会が認める勝ちの前提や枠組み自体を疑うという点において、本質的に反時代的、反社会的な行為です」

吉岡さんは、この式辞の中では「考える」ことについて述べているのだが、「リベラル」という概念にもそのまま当てはまるのではないかと思われる。そして同じ式辞の中で、次のようにも述べている。

「大学が自由であり得たのは、『考える』という営みのためには自由がなければならないことをだれもが認めていたからに他ならない。大学の自由とは『考える自由』のことなのです」

リベラルという概念と、考える行為は表裏一体、セットなのではないか。「考えるためには自由がなければいけない。自由があるためには、考え続けなければいけない」。そういうことなのではないか。つまり「自由に考える」ためには、寛大でなければならないし、気前がよくないといけないし、多様性がなければならないし、教養的でなければならない。そんな感じでは。

あまり、まとまりはないかもしれないが、「リベラル」と「自由」についてのコトバを並べてみた。

最後に、これも以前(3/1)紹介した言葉だが、経済学者の伊東光晴さんが、毎日新聞夕刊(1/31)で語っていたコトバを載せておきたい。

「スターリン時代のソ連やナチスドイツのように、反対者を許さない異常な社会を作ってはいけません。たとえ、立場が異なっていても、自由に発言したり、共存できる社会、それがリベラルな社会だと私は思います」

2012年12月 7日 (金)

「これから先の自分の身に起こることは全部ボーナス」

何だか相も変わらずバタバタ。よく理由は分からないが、気が付いたら師走だったりする。コトバはいろいろ溜まっていっているのだが、まとめる時間がないというか、つながっていく余裕がないというか・・・。これじゃあいかん、ということで最近、気にいったコトバをひとつ紹介しておきたい。


電気グルーヴの
ピエール瀧さん
『ピエール瀧の23区23時』という本に書かれていたコトバ。散歩中に訪れた学生寮で若い子に勢いで語っていたものだが、とても印象的だったので。


「俺は基本的に自分のことをたいしたことないヤツだと考えている。本来は地元の静岡で適当な会社に入って、結婚し、老いて死んでいくはずだったというかさ。だから、これから先の自分の身に起こることは全部ボーナスで、それはデビューしたことも含めてね。だからこそ、仕事を楽しむべきだし、あぶく銭も使った方がいい。そう考えると緊張というものがなくなるし、アンテナの感度も良くなる」
 (P200)

もうひとつ。印象深かったコメントを。

「ほぼ日刊イトイ新聞」のアーカイブに『さんまシステム』と題した糸井重里さんと明石家さんまさんの対談があって、その中で語っていた明石家さんまさんの話。


「師匠に『掃除はどうしたら楽しいか考えろ』って言われたんですけど。そこでしたねぇ。あの、掃除なんて楽しくなるわけがないんですよ。ところが『楽しくなることを考えてることは楽しい』ってところにね、18才のときに気づかせていただいたのが非常に助かりましたね」

ともに含蓄のあるいいトークだとジミジミ思った。

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