民主主義

2013年3月27日 (水)

「その国とか権力というのは時に暴走したり、過ちを犯す。だから憲法で縛る、というのが立憲主義の本質なんですけどね」

しばらくのあいだ、体罰問題から始まって、外部規律依存という体質にまつわる言葉の紹介が続いていた。しかし今回は、「憲法」をめぐる言葉を紹介してみたい。

一票の格差訴訟で、「憲法」に注目が集まっている。一方で、自民党がつくった改憲草案というものもある。3月11日のブログでは、社会学者の宮台真司さんによる「人権内在説」と「人権外在説」との違いの説明を紹介した。これは、自民党の改憲草案に対して述べたもので、再び「人権外在説」の方へ舵を戻そうとしていると宮台さんは批判している。 

その自民党が作った改憲草案について、東京新聞(3月2日)が特集を組んでいた。その記事の中で、伊藤塾塾長の伊藤真さんは、憲法について改めて、次のように語っている。 

「立憲主義とは、憲法で国家権力縛ること。多くの人が勘違いをしているようだが、憲法は国民の権利を制限するものではないし、法律の親分でもない」 

「草案はその立憲主義とは逆向きで、国民の権利を後退させ、義務を拡大させている。自民党の改憲草案は、人権を保護するための立憲主義を否定している」 

さらに伊藤さんは、TBSラジオ『DIG』(3月21日)の中で、自民党改憲案について次のように語っている。

「本来憲法は、繰り返しますが、国民が人権を守るために国をしばるための道具。それがまったく逆転し、国家が国民を支配し、コントロールするための道具のように実はなってしまったところがある」

「立憲主義の本質を骨抜きにしようという意図ははっきりあるように思える。ですから憲法を、国民をコントロールするための、国の側が国民を、支配というと言葉がきついかもしれませんけど、国が思うような国作りをしたい、そのためには国民にいろいろ従ってください、協力してください。私たち政治家が良い国をつくりますから、国民の皆さん、それに従ってください。この憲法に書いた義務はちゃんと守って、いっしょに良い国をつくりましょう。という発想なんです。国や権力は国民のお友達、仲間です、という発想が根底にある。もちろん、そういう面もないわけじゃないんですが、その国とか権力というのは時に暴走したり、過ちを犯す。だから憲法で縛る、というのが立憲主義の本質なんですけどね。そこを曖昧にしてしまうと、やっぱりまずいだろうなと思う」
 

その自民党の改憲草案で、焦点の一つとなっているのが「96条」。憲法改正には、衆参両院で総議員の3分の2以上の賛成で国会が発議し、国民の承認を得る必要があるが、この規定を「3分の2」から「過半数」に緩和しようとしている。これには、日本維新の会も同意しているもよう。 

維新の会の代表、橋下徹氏は、 『96条改正』について次のように語っている。読売新聞(2月28日)より。

「実行するために何が必要かと言うと、まず中身よりも、実行するための装置をきちんと作らないといけない。実行できない環境の中で、議論したって、コメンテーターのような無責任な議論に終わってしまう」 

「もう右肩上がりは望めない利害関係が複雑化した現代社会においては、政治の重要な役割は利害調整ではなく、決定することです」 

彼が言う、「決定すること」とは、「切り捨てること」と同義なのだろう。 

東大の政治学者、森政稔さんは、そう考える政治家が増えていることについて次のように指摘している。朝日新聞(2012年12月18日)より。 

「『選挙で勝てば民意は自分にあるから何でもできる』というようなかなり粗野な民主主義理解を一般化させてしまったことには、政治改革を推進した学者にも責任があると思います」 

学者ではないが、弁護士でもある伊藤真さんは、TBSラジオ『DIG』で、「選挙に勝てば民意は自分にあるから何でもできる」というような状況、多数決での決定によって、少数を切り捨てざるをえない民主主義の性質について、次のように語っている。 

「ときに民主主義と立憲主義はぶつかりあって緊張関係にあるもの。民主主義だからいいじゃないというわけにはいかない。例え民主主義に基づく私たちが決めた政治でも、多数者による政治でも、守らなくてはいけないこと、やってはいけないことある。ということで歯止めをかけるのが立憲民主主義なんです。ところが、政治家でも『民主主義は大切だ』という人はいっぱいいる。政党の名前でも『民主』がついた政党はいっぱいありますよね。『立憲主義が大切だ』という政治家はほとんどいないし、戦後、『立憲』がついた大きな政党はひとつもない」 

ナチスドイツ、戦前の日本政府、そして最近では、大量破壊兵器によるイラク戦争などなど。歴史上、多数派が間違えることはたくさんある。当たり前のことである。特に、前回のブログ(3月26日)で書いたように、日本社会は「忖度文化」がしみこんでいて、一律に流されやすい体質を持っている。そうした多数による暴走を防ぐためにあるのが憲法。この際、伊藤さんの説く「立憲主義の必要性」を改めて考えてみる必要はあると思う。 


 

2012年11月 1日 (木)

「この新しい時代には、『バラバラな人間が、価値観はバラバラなままで、どうにかしてうまくやっていく能力』が求められている」

前回(10/18)のブログでは、これからは「強いリーダーシップより、フォローシップ」が必要になるのではないか、ということを社会学者の小熊英二さんの「鍋の世界」の話を引用しながら紹介した。

今週、劇作家の平田オリザさんの新刊『わかりあえないことから』を読んでいたら、同じようなことが書かれていたので紹介したい。


「開き直って、私は政治家は小粒でもいいのではないかと思う」


「他方、政治家に強いリーダーシップを求める声が根強いことも承知はしている。2012年の大阪府知事・市長選の選挙結果はまさにそのあらわれだろう。強いリーダーシップが、私たちを本当に、未来永劫幸せにしてくれるのなら、それもいい。しかし、そこには当然リスクもあるだろう。しかもそれは、原発事故並みに取り返しのつかに大きなリスクだ」

「民主主義が権力の暴走を止めるためのシステムだとするなら、小粒かもしれないが、市民一人ひとりとの『対話』を重視する政治家を生みだす小選挙区制というシステムは、成熟社会にとっては、存外悪い制度ではない。熱しやすく冷めやすい民族の特性を考えるなら、議院内閣制もまた、さして悪い制度だとは思えない」  (P126)


いろいろ批判の多い「小選挙区」について、平田さんは、「対話」を繰り返す、あたかも「鍋の世界」のようにしていけばメリットも大きいと説く。社会学者の宮台真司さんが実施している「コンセンサス会議」というのも、これに近い考え方なんだと思う。


また平田さんは、「対話」と「強いリーダー」との関係について、次のようにも書いている。


「冗長性が高く、面倒で、時間のかかる『対話』の言葉の生成は、当然のように置き去りにされた。強いリーダーシップを持った犠牲者にとっては、『対話』は無駄であり、また脅威でさえあるからだ」


「そうして強い国家、強い軍隊はできたかもしれないが、その結果、異なる価値観や文化を摺りあわせる知的体力が国民の間に醸成されることはなく、やがてそれがファシズムの台頭を招いた」 
(P128)
 


これについては、以前(7/10)のブログでも書いている。また、そのあとのブログ(9/11)では、橋本市長が好む「価値観の一致」という言葉に違和感を持つと書いたが、まさに、「価値観の一致」を急ぐと、それがファシズムが台頭する土壌を促すということなのだろう。その「価値観の一致」について、平田さんは今回の著書で次のようにも書いている。


「日本人に要求されているコミュニケーション能力の質が、いま、大きく変わりつつあるのだと思う。いままでは、遠くで誰かが決めていることを何となく理解する能力、空気を読むといった能力、あるいは集団論でいえば、『心を一つに』『一致団結』といった『価値観をひとつにする方向のコミュニケーション能力』が求められてきた」


しかし、もう日本人はバラバラなのだ。さらに、日本のこの狭い国に住むのは、決して日本文化を前提とした人びとだけではない。だから、この新しい時代には、『バラバラな人間が、価値観はバラバラなままで、どうにかしてうまくやっていく能力』が求められている。私はこれを、『協調性から社交性へ』と呼んできた」

 これからは、「価値観を一致」させることよりも、「バラバラな価値観」を持つ人たちがそれでもうまくやっていく能力が必要になっていく。まさに「鍋の世界」なんだと思う。

2012年8月28日 (火)

「その元気を生むのは、『数字や結果にとらわれてないところ』だと僕は思う」

子供の夏休みが終わった。色んなイベントに付き合っていたら、あっという間に夏休みが終わった感じ。しばらくご無沙汰してしまった文章もどんどん書いていきたいと思う。

うちの子供は、今年から地元の少年野球に参加している。毎週末、練習や試合に臨んでいる。特別うまいわけではないが、仲間との野球を楽しんでいるようだ。

度々、その試合を見学していて、気付いていたことがある。そのひとつが、コーチや親といった大人たちによる、子供たちへの不思議な態度のことである。ベンチにいるコーチや親は、ゲーム中の選手たちに色んな指示や指摘をする。まあ、そうだろう。でも、その内容があまりに「マイナス」な指示ばかりで正直、驚いてしまったのである。「何でそんなボールを打つんだ!」「リードが足りない!」「もっと飛び込め!」など、子供ができないことを立て続けに大きな声で指摘していく。時には怒気を含んだような声で。選手たちを励まし前向きな気持ちにさせたり、リラックスさせたりするような意図はあまり感じられない。とにかくできなかったこと、失敗したことを指摘し続けるのである。何かあるとベンチをおびえた目で見ている選手が何人もいた。少なくとも、その瞬間は野球をやっていて楽しそうではない。

ボク自身は、子供の頃の公園での野球と社会人になってからの草野球くらいしか野球経験はない。ちゃんとした野球の世界では、「マイナスの指示」は昔からの常識なのかもしれない。でも練習中ならいざ知らず、試合中に子供を萎縮させてしまっては逆効果なのでは。

実はボクが先日、参加させられた少年野球の審判の講習会でも、そうだった。こっちは初体験で素人。ルールや用語を覚えるのだけで必死なボクのような者に対して、「教師役」の先輩審判たちは、出来ていないことについての指摘を次々と容赦なく投げかけてくる。

「できたことを褒めるより、できないことをとにかく叱る」。これが、子供たちの試合、審判の講習会と両方に共通することだと思った。ボクが子供なら、野球を続けたくなくなるかもしれない。正直、そうも思った。

そんなことを考えていたら、競技は違うけど、『サッカー批評』(57号)に似たような指摘をする文章があったのを思い出した。それは、サッカーライターの鈴木康浩さんが書いた『子供がサッカーを嫌いになる日』という記事。その中には、こんな言葉が紹介されていた。

「昔からベンチで怒鳴って子供をロボットのように扱う指導者はいました」

「子供は何が正しいのかが分からなくて、まったく理解ができずに大人の顔色を気にしてプレーしている。楽しいわけがない

そうやって、サッカーを楽しめなくなった子供たちが多いという。

「子どもたちにはふざけさせてあげる」

「練習する上では非効率なんだけど、普段の状況を考えれば、この子供たちの成長を考えれば、そういう会話も必要」

子供が成長したり、次のステージに上がっていくためには、非効率であっても「ふざけること」も必要という。

スポーツをやる意義には、「勝負の結果」以外にもいろんな要素がある。楽しむこと。上手になっていくこと。仲間との交流などなど。

もちろん「勝つこと」も大事だが、それだけでは悲しい。なのに、周りの大人たちは「勝負の結果」ばかりを求めがちになる。子供が、その世界で伸びていくためには、時には「ふざけること」だって必要なのだ。

スポーツとは別の世界だけど、この記事を読んでいてつながった文章があったので紹介したい。東京・自由が丘で「ミシマ社」という出版社をやっている三嶋邦弘さん。その著書『計画と無計画のあいだ』で、こんなことを書いていた。

「会社をやっていれば、いいときもあれば悪いときも当然のごとくある。その悪くなったとき、全員がドヨーンとした顔で『ああ、ああぁ・・・』と地の底から響いてくるようなため息をついていては、チームの士気は下がる一方であろう。そんなときこそ、『元気』が必要とされる。元気は元気なときよりも、元気じゃないとき、真に必要なものなのだ。そして、その元気を生むのは、『数字や結果にとらわれてないところ』だと僕は思う。いってみれば、『遊び』の部分だ」(P120)

そのまま、少年野球やサッカーにも通じるコメントだと思う。スポーツの世界も、どんなに練習して努力しても結果が良いときも悪いときもある。失敗した時こそ、「元気」になる指示やコメントが必要なのだ。それなのに「マイナスの言葉」ばかり履いていては、チームの士気は下がる一方であろう。

「ふざけること」や「遊び」の部分がないと、我々は成長できないということ。これは、更に飛躍すれば社会そのものにも通じることのようだ。こんな文章もあった。日本在住の政治学者C.ダグラス・ラミスによる『経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか』には、こんな文章が載っていた。

「アリストテレスが書いていたことですが、民主主義の必要条件は社会に余暇、自由時間があるということです。余暇がなければ、民主主義は成り立たないと。人が集まって議論したり、話し合ったり、政治に参加するには時間が掛かる。そういう暇がなければ政治はできないのです。政治以外にも人は余暇で文化を作ったり、芸術を作ったり、哲学をしたりする、とアリストテレスは言いました。けれども政治的に言うと、そういう勤務時間以外の時間があって初めて、人が集まり、自由な公の領域を作ることができる、そういう考え方だった」(P188)

社会のなかで民主主義を進めていくためにも、「余暇」や「自由時間」が必要なのである。

全く同じことを、活動家の湯浅誠さんも『ヒーローを待っていても世界は変わらない』で指摘していて興味深い。

「私は最近、こう考えるようになりました。民主主義とは、高尚な理念の問題というよりはむしろ物質的な問題であり、その深まり具合は、時間と空間をそのためにどれくらい確保できるか、というきわめて即物的なことに比例するのではないか」

「私たちの社会が抱えている問題はそれぞれ複雑で、一つひとつちゃんと考えようとすれば、ものすごく時間がかかります。一番簡単なのは、レッテルを貼ってしまうことです。一度レッテルを貼ってしまえば、それ以上考える必要がない」(P85)

少年野球の話から、ついつい飛躍してしまったが、スポーツだろうと、ビジネスだろうと、民主主義だろうと、「遊び」が必要ということなのだ。「遊び」や「自由な時間」によって、ストックを増やしたり、自分の本来の立ち位置を確認したりする。そうしたいと社会の中の市民の目が死んでしまうのではないか。日本社会の閉塞感は、このあたりに起因しているのではないか。

少年野球に話を戻せば、湯浅さんが指摘するように野球の世界だって複雑な世界であるはず。マイナスなことだけに目を向け、レッテルを貼るのではなく、それぞれの大人が考えて、選手たちが「自立」していくことを支えることが大事なのではないだろうか。

 

2012年7月10日 (火)

「彼は、『民主主義は国民のコンセンサスを得るための制度なのだが、そのコンセンサスは、論理や科学的正しさではなく、感情によって成し遂げられるものだ』と言っているのです」

先週木曜日(7/5)の朝日新聞に、劇作家の平田オリザさんのインタビュー『ひとりごと国会』が載っていた。政治家の言葉について、内閣官房参与を3年務め、鳩山元総理のスピーチライターもしていた平田さんに聞くというもの。

その中で「対話」と「会話」の違いについて述べた上で、なぜ日本に対話が根付かなかったのかを次のように書いている。

「近代化以前の日本は、極端に人口流動性の低い社会でした。狭く閉じたムラ社会では、知り合い同士でいかにうまくやっていくかだけを考えればいいから、同化を促す『会話』のための言葉が発達し、違いを見つけてすり合わせる『対話』の言葉は生まれてきませんでした」

「近代日本語は、フランス語や英語が150年から200年かけて行った言語の近代化、国語の統一という難事業を40~50年でやってしまった。すごいことです。ただ当然、積み残しや取りこぼしがでてくる。日本だけではありません。ドイツ、イタリアも日本とほぼ同じ頃、地方政府を統一し、近代化を急ぎます。そうすると、対話は余計なんですよ。面倒くさいから。僕は、それが、ドイツ、イタリアのファシズムや、日本の超国家主義の台頭を許したと思っています。対話は民主主義の大前提です」

平田さんは、野田総理の「言葉」から、政治と言葉について語っているが、ちょうど雑誌『世界』7月号では、大阪の橋下市長の特集が組まれていて、その中で映像作家の想田和弘さんが、橋下市長の言葉と政治との関連について語っている。

「橋下氏は、人々の『感情を統治』するためにこそ、言葉を発しているのではないか、そして、橋下氏を支持する人々は、彼の言葉を自ら進んで輪唱することによって、『感情を統治』されているのではないか」

さらに、橋下氏がツイッターで「民主主義は感情統治」とコメントしていたのを受けて、想田氏は、次のように語っている。

「僕はこのつぶやきにこそ、橋下氏が考える政治のイメージが集約されているように思えます。つまり彼は、『民主主義は国民のコンセンサスを得るための制度なのだが、そのコンセンサスは、論理や科学的正しさではなく、感情によって成し遂げられるものだ』と言っているのです」

実に興味深い指摘だと思う。ふつう政治家というのは、論理や科学的正しさを言葉でもって説明し、時間をかけて、市民とコンセンサスをとっていく。コンセンサスをとる過程において、大きな役割を果たすのが、対話であるはず。しかし、橋下氏は違う。対話より、「感情の統治」を重要と考えている。彼にとってのコンセンサスとは、感情的な言葉を投げ、その「感情の一致」のみによって得るものなのである。その結果、時間が省くことができて、スピードある政治が出来るというわけ。

以前読んだ『リスクに背を向ける日本人』という本の中で対談していたハーバード大学社会部長でライシャワー日本研究所教授の、メアリー・L・ブリントンさんも、日本人一般についてだが、こんなことを話していた。

「コミュニケーションが大切だと日本人はよく言いますが、日本人のいうコミュニケーションとは、『感情』に重きを置きすぎているんじゃないでしょうか。いわゆる『心を通わせる』ことがコミュニケーションなんだと」

「しかし、もう一つ必要なのは、『自分の意図や能力を相手にちゃんと伝えるためのコミュニケーション『スキル』です。アメリカ人は子どもの頃から、言葉を使って自分の『意図』を伝える訓練を受けています」

平田オリザさんが指摘するように、日本、ドイツ、イタリアが、近代化を急ぐ中、「対話」を面倒なもの、余計なものとしていたのと同様、橋下氏は、対話によるコンセンサスより、感情の一致によるコンセンサスの方を優先させているということになる。さらに日本人全般に当てはまることでもあるようだ。

政治家が「対話」によるコンセンサスを軽視する風潮、そんな時代にわれわれはどうすればいいのか。平田オリザ氏と、想田和弘氏の両者の考えをひいておきたい。

まずは、平田氏は次のように言う。

「日本は今、成長社会から成熟社会に移行し、富ではなく、負の分かち合いの時代に入りました。国会の体力が緩やかに衰退していく中、何を大事にして、何を諦めるのか。価値観をすり合わせながら、今後の方向性について国民的な合意を形成していかなければなりません。対話が切実に求められています」

そして想田氏は次のように言う。

「まず手始めに、紋切り型ではない、豊かでみずみずしい、新たな言葉を紡いでいかなくてはなりません。守るべき諸価値を、先人の言葉に頼らず、われわれの言葉で編み直していくのです。それは必然的に、『人権』や『民主主義』といった、この国ではしばらく当然視されてきた価値そのものの価値を問い直し、再定義する仕事にもなるでしょう」

それでも我々がすべきことは、対話を繰り返すことによって、新しい言葉をつくり、新しい価値観をつくってコンセンサスをとっていく。それしかないということなのだろう。

2011年12月 2日 (金)

「若い人たちは、民主主義と市場原理を同じひとつの社会システムだと考えているのかもしれない。それらは、似ているようでいて、まるで違う」

ここ2回、大阪W選挙の結果を受けてのフレーズをとりあげてきたけど、今回もそんな感じ。コラムニストの小田嶋隆さんが日経ビジネスオンラインで連載している『ア・ピース・オブ・警句』に、今日(12/2)、『大阪の「維新」とまどろっこしい民主主義』と題した文章が掲載され、とても興味深かったので、その中のフレーズをとりあげたい。きのうの平川克美さんの指摘とも重なる部分も多い。

小田嶋氏は、まず、最近のニューストピックである「オリンパス問題、TPP、暴対法、大阪での選挙結果、自転車の車道通行問題、各種のコンプライアンス関連事案」には、「グレーゾーンに対する寛容さの欠如」が通奏低音としてあるとしたうえで、次のように述べる。

「われわれの社会は、白と黒との境界領域にある、「不明瞭さ」や「不効率」や「ルーズさ」に対して、鷹揚に構える余裕を失っており、他方、グローバリズムに取り込まれたローカルな組織に独特な、無力感に苛まれているのだ」

今までグレーゾーンとしてやってきた慣習、「日本的」とも、「なあなあ」とも、「曖昧」ともいえるような慣習について、白黒つけなければならないという風潮が強まっている」ということなのだろう。ボクは、これまで、そうしたグレーゾーンこそ「パブリックな意識」「公共的な意識」が問われる場だと思ってきた。ということでは、日本から「公共の場」、私のモノでも、あなたのものでもない場所がなくなってきたということでもあるのだろう。

続いて小田嶋氏は、「民主主義」について、こう書く。

「民主主義は、元来、まだるっこしいものだ。デモクラシーは、意思決定のプロセスに多様な民意を反映させるべく、徐々に洗練を加えてきたシステムで、そうである以上、原理的に、効率やスピードよりも、慎重さと安全に重心を置いているからだ」

その「まだるっこさ」を我慢できない社会やリーダーが希求するのが、「効率」であり、「スピード」であり、さらには「変わること」「改革」なのだろう。

「でも、私は、『維新』なり『改革』が、そんなに簡単に結実するとは思っていない。正直に申し上げれば、非常に悲観的な観測を抱いている。民主主義の政体に果断さや効率を求めるのは、そもそも無いものねだりだ。逆に言えば、それら(スピードと効率)は、民主主義自体の死と引き換えにでないと、手に入れることができない」

では、どうしたらいいのか。小田嶋氏は次のように述べる。

「民主主義は、そもそも『豊かさ』の結果であって、原因ではない。つまり、民主主義は豊かさをもたらすわけではないのだ。それがもたらすのは、まだるっこしい公正さと、非効率な安全と、一種官僚的なセーフティーネットで、言い方を変えるなら、市民社会に公正さと安全をもたらすためには、相応の時間と忍耐が必要だということになる。結局のところ、われわれは、全員が少しずつ我慢するという方法でしか、公正な社会を実現することはできないのだ」

きのうも書いたように、我々は「耐える」「我慢する」しかないということらしい。「複雑さ」「あいまいさ」「不完全さ」そして、「まどろっこしさ」といったものに対して。

そして、冒頭に挙げた興味深いフレーズが書かれている。

「若い人たちは、民主主義と市場原理を同じひとつの社会システムだと考えているのかもしれない。それらは、似ているようでいて、まるで違う。ある場面では正反対だ」

この指摘は目から鱗だった。そう。ボクもどこかで「民主主義」と「市場原理」というのは同じ構造を持っていると思っていた時期がある。その違いについて突き詰めては、考えてはこなかった。

「民主主義の多数決原理は、市場原理における淘汰の過程とよく似ているように見える。が、民主主義は、少数意見を排除するシステムではない。むしろ、少数意見を反映する機構をその内部に持っていないと機能しないようにできている。だからこそそれは効率とは縁遠いのだ」

きのう平川氏は、民主主義が「最悪の結果」を招くことがあるからこそ、担保として「少数意見の尊重」が必要と指摘していた。それを小田嶋氏は「少数意見を反映しないと機能しないようにできている」という言い方をしている。ふむふむ。

こうした民主主義についての「負」の側面について、経済学者の佐伯啓思さんも、きのう(12/1)の朝日新聞のインタビューについて危惧を語っていた。

「日本人は、民意がストレートに政治に反映すればするほどいい民主主義だと思ってきた。その理解そのものが間違っていたんじゃないか」

「国民の政治意識の高まりを伴わないまま、民意の反映を優先しすぎたために、非常に情緒的でイメージ先行型の民主主義ができてしまった」

「最悪の結果」「衆愚政治」を招きかねない民主主義。それに市場と同じように「民意」というものを反映させてしまっているのが、日本の現状なのではないか、ということなのではないか。

佐伯氏は、次のように語る。

「まず民主主義の理解を変える。民主主義は不安定で危険をはらんでいることを前提に、どうすれば民主主義をなんとか維持していけるかを考えなくてはならない」

2日連続で、「民主主義」というシステムについてのフレーズを紹介することになってしまった。民主主義というとても大きな「システム」も、戦後60年が経ち「澱」のようなものがたまっているのかもしれない。そして我々の付き合い方、依存の仕方、更新の仕方を含め、どう対処しているかが求められている時期に来ているということなのだろうか。

2011年12月 1日 (木)

「現実的であることは、複雑さや、曖昧さ、不完全さに耐えるということ」

自らビジネスを展開し、『移行期的混乱』や『株式会社という病』などの著作物もある平川克美さんが、きのう(11/30)のツイッターで大阪W選挙についての論評を書いていて興味深い内容だった。

まず、今回の橋下徹氏が圧勝した結果については、次のように述べる。

「手続きやプロセスを重視するという政治手法よりは、明確なビジョンを示して強引に牽引する政治手法を持つ為政者が求められるようになったということです」

平川さん自身、ビジネスの世界に身を置いていることもあるからなのか、今回の指摘は橋下氏へのものながら、どれもボク自身が所属する会社で起きていることにも当てはまることばかりなのである。

日本の多くの企業がそうであるように、ボクの所属する会社もメディアながら、経営的は厳しい局面にあるらしい。「らしい」というのは、トップがそんな危機感ばかりをあおるからで、下っ端のボクにしてみれば「経営なんて良い時もあれば、悪い時もある。今は、日本中の企業が厳しい局面にあるのだから、そんな大騒ぎしなくても」なんて思っている。甘いのかもしれないが。

半年前までボクが出向して所属していた組織のトップも、厳しい局面にいる危機感からか、上記の指摘のように「手続きやプロセス」をすっ飛ばして、「収支を合わせる」という結果を追い求め続けた。

「効率的な一元管理、スピーディな意思決定、完全な破壊と創造を掲げる指導者に一票を投じることは、それが最悪の結果になるかもしれないことを勘定に入れなくてはならない」

「世の中に旧弊がはびこり、停滞するのは不幸な時代だが、それらを一挙に変革することに賭ける博打的選挙行動が勝利する時代はもっと不幸な時代だということです」

ボクの組織でも、とにかく効率を求め「一元管理」を徹底し、「スピード」を追い求め、それを阻害するような「過去のやり方」をとにかく否定し、破壊していった。以前も書いたが、結果、組織は「ツリー」でもなく、「直線的」になっていく。そのやり方を全部否定するつもりはない。ただ平川氏が指摘するように、それによって「良い結果」が保障されるわけでもなく、「最悪の結果」になる可能性だってあるのだ。

以前も抜粋したが、平川氏の盟友・内田樹氏は、ブログで同じようなことを書いている。

「浮足立って、『とにかく既成のものはみんな壊せ』というようなことを口走って、それでよい結果が出るというふうに私は思わない。とりあえず日本近代史を徴する限り、『みんな壊せ』というようなことを口走った政治運動はすべて『大失敗』に帰着した」

平川氏は、次にようにも書く。

「すべての独裁者は、民意を代表して政治を行うと宣言する。そして、民意に反するものは去ってもらうといいだすのです」

その通り。当時ボクが出向していた組織のトップは、「民意」ではなく、「我々は株主のために働くのが使命だ」とボクの前で断言した。我が社にとっての「株主」とは、すなわち親会社のことである。つまり親会社の意思、「とにかくお金を稼ぐこと」それを最優先すること。メディアとしての社会的責任を果たすことは「その次」ということだった。その方針に異を唱えたボクは、結果、その組織から追い出された。

「橋下さんは、府民にとって良きことを実現しようとしているのでしょう。しかし、かれの危うさは、ひとはしばしば良きことをしようとして、とんでもない災危を実現してしまうものだという歴史的事実への配慮が伺えないということです」

その時のトップも、自分は「良きこと」していると疑っていない様子だった。なぜ自分が進める「効率」や「スピード」を求めた「変革」に身内から「異論」や「待った」をとなえるものが理解できなかったに違いない。

でも平川氏が民主主義について、以下のように語るように「最悪の結果」となる可能性を否定できない以上、担保のためにも少数者の意見にも耳を傾けなければならないはずだったのではないだろうか。

「選挙や多数決は、確かに民主主義を担保する意思決定手段です。しかし、少数者を尊重するという普段の努力こそが民主主義の根幹の理念です。少数者を無視したり、弾圧する独裁者もまた選挙によって選ばれる可能性があるからです」

今回、平川氏の「つぶやき」を読んでいて、自分の身の周囲で起きていることと重なる部分が多かったので、ほとんどそのまま抜き出してしまった。

ただ、今回の中で最も印象に残ったフレーズは、次のものになる。

「現実的であることは、複雑さや、曖昧さ、不完全さに耐えるということ」

現実の社会というのは、本当に「複雑で、曖昧で、不完全なものばかり」なのである。だからこそ、間違いも起きるし、最悪の結果を招いたりもするのだ。それに耐えることも大事になる。

例えば、子育てがまさにそうだった。子供は、当然ながら「複雑で、曖昧で、不完全」なのである。だから、親はイライラする。余裕がない時には、「完全」を求めて、ついつい怒ったりしてしまう。だけど、所詮それが子供、つまり人間なのである。親は耐えるしかないのだ。なかなかうまくいかないけど。

これと同じような指摘があったのを思い出した。調べてみたら政治学者の中島岳志さんが書いた『秋葉原事件 加藤智大の軌跡』の中にあった。

「世の中は驚くほど複雑だ。そして、世の中を構成している人間はさらに複雑である。卑近な他者どころか、自分自身の心だって簡単には把握できない。時に、理由の伴わない非合理な行動をとり、周囲を驚かせる。そんな行動をとった自分に、自分自身が戸惑う」

「そのような人間が構成する社会を、そう簡単に単純化して語ることなんてできない。単純化した言葉の中には、必ずごまかしと飛躍が存在する」

「博打のような二者択一の断言は、世の中を一層分かりにくくする。その不透明感が私たちの不安をさらに掻き立て、さらに強い言葉に依存しようとする」

「複雑で、曖昧で、不完全」な社会、世の中、そして人間だからこそ、「最悪の結果」を避けるためには、結果を急ぐのではなく、「手続きやプロセス」を大事にしていく必要があるということなんだろう。だけど、政治や企業では、まったく反対のことばかり選択されている。

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