戦争

2014年5月21日 (水)

「いまの日本の政治は期末利益優先の株式会社の論理で国家を運営している。わたくしにはそうとしか見えません」

引き続き、安倍政権について。

きのうのブログ(5月20日)では、1932年に起きた5・15事件を引き合いに、今の日本で起きていることは、安倍総理とその取り巻きによる「静かなクーデター(仮)」ではないか。というような極めて個人的な意見を書いた。

そのあと改めて、精神科医の斎藤環さんの著書『ヤンキー化する日本』を読む。対談相手のひとり、日本近代史が専門の愛知県立大学教授の与那覇潤さんは、次のように語っていて驚いた。

「戦前のヤンキー政治運動といえば、青年将校でしょうが、5・15事件の三上卓が書いた『昭和維新の歌』の『財閥富を誇れども、社稷を思う心なし』っていうのが、だぶん今もヤンキーにはぐっとくる」 (P169)

やっぱり、ヤンキーとクーデターは関係が深かかったのである。

ここで出てくる「社稷」というのは、「国家」とのこと。つまり、5・15事件に参加した三上卓氏は当時、財閥を「富や金には関心あるけど、国家についてはどうでもいいと思っている」と批判しているのである。

ここで一端、話を変える。

東京新聞(5月17日)を読んでいたら、『帝国主義はよみがえるのか?』という特集記事があった。

ウクライナ動乱などを受け、今後の世界の動向について、漫画家の小林よりのりさんは、次のように指摘。

「待っているのは力ずくの帝国主義の世界だ」

キャノングローバル戦略研究所の宮家邦彦さんは、次のように指摘している。

「それなりに安定していた国際秩序は崩れ、『帝国主義的なネオナショナリズム』が噴き出す時代になったのです」

ともに今後、帝国主義的な動きが世界に広がっていくという指摘をしている。

帝国主義。
これも個人的な考えで申し訳ないが、僕はずっと、グローバリズムというのを日本語に直すと「帝国主義」だと理解してきた。ただし、この場合の主体は「国家」ではなく「多国籍企業」。今、問題とすべきは、この多国籍企業による「帝国主義」なのではないかと思っている。

ライターの速水健朗さんは、著書『ラーメンと愛国』で次のように書いている。

「現代の『帝国』とは、軍事力による征服ではなく、多国籍企業の活動や、文化商品の流通など、国境や民族を超えたグローバルな経済の在り方を指す。これらを新しい覇権として捉える見方が、ネグリとハートの『帝国』である」 (P258)

そこで、安倍政権による「静かなクーデター(仮)」の話に戻す。

このクーデターの主犯者は、安倍総理とその取り巻きだけではない。もうひとつ財界も中心的な役割を担っていると思う。

その財界のために日本という国そのものが「株式会社化」されていると、内田樹さんは指摘している。著書『街場の憂国会議』より。

「企業経営者たちが民主制を抑制して、できればトップダウンの統治組織(彼らが帰属している株式会社と同じような組織)に改組したいと願っている理由はよくわかる。その理由はずっと合理的である。民主制を廃絶して、彼らが現に運営している組織に似せることの方が端的に『商売がしやすい』からである」 (P17)

「安倍晋三とその同盟者たちが追及しているのは(当人たちにそこまではっきりとした自覚はないと思うが)、『国民国家の株式会社化』である。国の存在理由を『経済成長』に一元化することである。国のすべてのシステムを『経済成長』に資するか否かを基準にして適否を判断し、『成長モデル』に準拠して制度を作り変えることである」 (P18)

「2014年現在、日本で今起きているのは一つの『政治的出来事』というより、むしろ政治過程そのものの液状化と呼ぶべきだと思う。政治が自重を失い、グローバル企業の経営戦略や株の値動きに連動して漂流し始めたのである」 (P16)

政治の論理によって国家が作られているのではない。財界の論理によって国家がつくりかえられているという指摘である。

長くなったけど、まだ続けます。

法人減税や雇用形態の変更はもちろん、海外への原発売り込みのための原発推進、そして武器三原則の変更など…。今、安倍政権が進めようとしている政策のほとんどは、財界のための政策が中心とも言えるのではないか。

今回の、集団的自衛権の容認についても、「財界のため」という見方をすると理解しやすい。

政治学者の中野晃一さんは、『街場の憂国会議』で次のように書いている。

「そもそも1991年の湾岸危機を契機として財界は、日本が自由に海外に自衛隊を派遣したり、制約なくアメリカ軍と共同作戦をとったりできるようにするための憲法改正の積極的な支持へと回った」 (P198)

「グローバル企業のエリートたちにとっても『ナショナリズム』企業収益を確保、増大させるための便宜的な手段として用いられているのだ」 (P198)

ナショナリズム高揚による実益ということもある。

それとグローバリズムの中、海外の支社や工場で働くものを多く抱える多国籍企業にとって、自分たちで彼らを守るよりも、自衛隊に守ってもらった方が、経営的には都合がよい、という考えもあるのではないか。そのためにも集団的自衛権は必要となる。

戦前の日本が、陸軍や海軍と財閥に導かれたように、今の日本は、財務省と財界が自分たちに都合のよい国家を作っているのでは、と考えたくなる。安倍政権は、それに乗っかっているだけということになる。

確かにうがった見方なのかもしれないが、この方が色んな事がすっきり理解できるということも確か。

作家の半藤一利さんは、著書『腰ぬけ愛国談義』で次のように指摘する。

「いまの日本の政治は期末利益優先の株式会社の論理で国家を運営している。わたくしにはそうとしか見えません。とにかく目先きの利益が大事であって、組織そのものの永続は目的ではない」 (P267)

5・15事件で三上卓氏が『昭和維新の歌』で書いた「財閥富を誇れども、社稷を思う心なし」というセリフは、82年たった現在でも当てはまる。

ただ当時の青年将校たちのクーデターは、そんな財閥を憂いて決起してのものだが、今、安倍政権による「クーデター(仮)」は、財界と結託しているという点ではまったくベクトルが逆なのであるが…。

2014年5月20日 (火)

「彼は戦後70年間続いてきたひとつの政体を転覆して、まったく新しい政体を作り上げようとしている」

先週金曜日(5月16日)のブログでは、その前日に行われた安倍総理による集団自衛権についての会見について取り上げた。

記者会見そのものが、「エモーショナル」で、「ポエムの朗読会」のようだったという指摘を紹介し、そこから「ヤンキー」と安倍政権との重なりを少し考えてみた。

きのう、書籍『街場の憂国会議』を読んでいたら、この本の中にも同じような指摘があった。

まずは、社会学者の中島岳志さんの指摘から。

「安倍首相の口からは、バッシングと共に『感動』というタームが頻発する」 P170)

「感動とバッシングは、コインの裏表の関係である。そして、両者は空気の構成要素として、強固な力を発揮する」 P170)

さらに同書で、コラムニストの小田嶋隆さんは次のように書いている。

「私は、安倍政権の周辺で、この『ヤンキー』風の美意識ないしは気分が、力を持ち始めている感じに、以前から、不穏な圧迫を感じている」 P74)

ヤンキー風の感動とパッシングによる「力」(同調圧力)で世の中を動かしていく…。

今朝の朝日新聞(5月20日)に載っていた、その安倍総理の私的諮問機関「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(安保法制懇)の座長代理である北岡伸一氏のインタビュー。それを読んでちょっと驚いた。懇談会に反対側の人を入れない理由について、次のように答えている。

「自分と意見の違う人を入れてどうするのか。日本のあしき平等主義だ」

しかも、次のような言葉も。

「安保法制懇に正統性がないと(新聞に)書かれるが、首相の私的懇談会だから、正統性なんてそもそもあるわけがない」

堂々と答えている…。すごい、としか言いようがない。

「正統性」もない同じ意見を持つ集団によって作られた報告書をバックにして、総理がエモーショナルな言葉で世の中を動かし、憲法改正を国民に問うでもなく、国会審議を経ることもなく、国の仕組みを変えていこうとしている。 

一体、何が起きているのだろうか。

この先週5月15日の安倍総理に記者会見について、先週土曜(5月17日)の朝日新聞の投書欄では、神奈川県に住む74歳の男性が次のように書いていた。

「私たちは、この日を『5・15事件』と位置付けて、警戒を強めなければならない」

1932年の5・15事件は、海軍の青年将校が起こしたクーデター事件である。

それから32年。ボクが勝手に考えていることだが、安倍総理が就任以来進めていることは、「彼とその取り巻きによる一種のクーデター」なのではないか。マジで。これまで積み重ねてきた民主主義や立憲主義や国際常識などをひっくり返して、自分たちが考える「理想の社会」を創ろうとしているのではないか。

そう考えないと、今起きていることが理解できない。

32年前のクーデターでは、犬養毅総理が殺害されたが、今回のクーデターは、総理が中心となって進めている。

麻生副総理が去年(2013年7月29日)に口にした言葉を思い出す。

「ナチス政権下のドイツでは、憲法は、ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わってナチス憲法に変わっていたんですよ。誰も気づかないで変わった。あの手口、学んだらどうかね」

その言葉のとおり、誰も気づかないようにして、今、安倍総理とその取り巻きによる「クーデター」が進行されているのではないか。

考えすぎだろうか。

先に紹介した『街場の憂国会議』で、思想家の内田樹さんは、次のように書く。

「安倍晋三は『保守』政治家ではない。左派が批判するような『反動』政治家でもない。『革新』政治家であり、もっと強い言葉を使って言えば、『革命』政治家である。私はそう評価している。彼は戦後70年間続いてきたひとつの政体を転覆して、まったく新しい政体を作り上げようとしている」 (P17)

2014年3月17日 (月)

「しかし、それもこれも、どこかできいたようなことばかりではないか」

前回のブログ(3月14日)では、「ムラと空気のガバナンス」というジャーナリストの船橋洋一さんの言葉を載せた。

その船橋洋一さん近著『原発敗戦』は非常に興味深い本だった。今回は、その中からの言葉を中心に紹介してみたい。

まずは、もう一度、船橋さんによる「村と空気のガバナンス」についての言葉を載せたい。ビデオニュース・ドットコム(3月8日放送)より。

「民間事故調で『ムラと空気のガバナンス』という言葉を打ち出した。まさに空気。異質のものを認めたくない排除しようする。だから本当の意味での議論がなかなかできない。同質的なもの、初めから結論を分かっていて落としどころが分かっていて相場観を共有している、ということ。これは、リスクという観点に絞ってみても、ここまでにしておきましょうという、みんな言わなくても以心伝心分かっちゃう」 (パート①27分ごろ)

「異論をあえて唱えることをダサい。KYなんだよ、読めないと。空気を読める奴ばかりだから、役に立たない。ムラと空気のガバナンスをやっているから、どうしても危機には弱い」 (29分ごろ)

『原発敗戦』では、その「危機には弱い」という日本の社会の問題点がいやというほど指摘されている。

「危機の際、求められる人間は空気を読むタイプではない。危機の時は優先順位を峻厳につけるしかない。こうしたときは、現実の感情の渦に巻き込まれず、専門性と理性だけを頼りに発想し、助言できる人間――空気を読むのが必ずしも得意でないタイプ――が役に立つ」 (P66)

「官僚機構は平時は、法遵守、公正、効率――実際、それが実現しているかどうかは別問題として――、ボトムアップなどを重んじる。
 
しかし、危機にあっては法律を曲げなければならないこともある。トリアージュのような優先順位を容赦なく迫られることもある。効率一本槍ではなくリダンダンシー(溜め)が必要なこともある。指揮官の更迭、チームの編成替え、損切りなどはトップダウンでやる以外はない」 (P150)

「危機の時には、このように所見、知見を明確に言い切る専門家が必要なのです。しかし、空気はまったく読めないし、読もうともしない。結局は、官邸からつまみ出されてしまう。集団を同質にしすぎてムラにすると、危機に弱くなる。日本の“国債ムラ”にもそのリスクがあると見るべきでしょう」 (P235)

これは、ビデオニュース・ドットコム(3月8日放送)でも本人が語っている。

「日常の場合だったら、平等とか公正とかいうのはとても重要です。それから法の遵守。それから効率がなければ続かない。下からきちんとあげていくという手続き、手順、これも重要です。しかし、危機の時は、ここだけは残さなければいけない、ここだけは切り捨てるという優先順位というのが決定的に重要。全部は残せない。法律の遵守もギリギリ守るにしても相当変えなければいけない。例えば効率も、一辺倒ではいけない無駄なところが意外に力を発揮したりする」 (パート①54分すぎ)

「最後は価値観なんです。つまり優先順位って価値観になる。危機の時は価値観のぶつかり合い、激しい衝突ですから。その時に誰の価値観、社会全体とか、民族全体とか、将来の時間軸とか、そういうことになってくる。どこを残すかということは。単に効率性とかいうことではなくて、価値観そのものを日頃から育てるような、共有するような場と、それを引っ張っていくような人材をつくらないといけない」 (パート②11分ごろ)

ここでの「最後は価値観」という言葉は重いと思う。

えば企業におけるコンプライアンスとは、危機対応のためのものに設けられているはず。本来は、その企業にとっての一番大事な「価値観」を決め、その理念に基づいた経営を行うことが大切なはず。

なのに実際におこなわれているのは、コンプライアンスを突きつめた結果、コントロールしやすい同質的な組織を作り、リスクを避け、異質を排除し、危機に直面しても法令順守し続け、まったく危機に向かない組織を作り上げてしまう。


まさに東京電力がそうであり、また日本という国もそうなのである。ということ。


船橋洋一さんは、次のようにも書いている。 

「危機の時、その国と国民の本当の力が試されるし、本当の姿が現れる」 (P20)

上記した船橋さんの指摘の中には、このブログで、これまで何度も取り上げていた問題がたくさんある。


「ルール」
「コンプライアンス」「コントロール」「優先順位」「価値観」「水を差す」、そして「言葉・言語力」

『原発敗戦』の中には、その「言葉」についての指摘も多い。

「もう一つ、危機の際、重要なのはリーダーの発する「言葉」である。
あの国家危機のさなか、菅は国民の心に残る言葉を一つとして発しなかった。
それによって『国民一丸』となって危機に取り組むモーメントを生み出すことができなかった」 (P68)

「『絶対』は魔語である。『絶対』という言葉を使った瞬間からそれこそ『負け』なのである」 (P108)

そして、この本の「はじめに」には、次のように書かれている。

「しかし、それもこれも、どこかできいたようなことばかりではないか」

「戦後70年になろうとしているというのに、いったい、いまの日本はあの敗戦に至った戦前の日本とどこがどう違うのだろうか」

「日本は、再び負けたのではないか」

「福島原発事故は、日本の『第二の敗戦』だった」 (P20)

そして、最後に収められている歴史家の半藤一利さんとの対談の中で、船橋さんは次のように語る。

「共通の遺産として後世に残していく。いざというときに反射的に、『あ、これはあのときの失敗に似ている』『あのときはこうして助かった』と。国民の記憶に深く刻まれるかどうかが、次の危機を乗り越えるための、よすがになるはずなのです」 (P272)


そうなのである。我々は「ムラと空気のガバナンス」を抜け出すためにすることは、「歴史から学ぶ」しかないのである。(「歴史に学ぶ」

 

2014年3月13日 (木)

「わたしたちはこの種の熱狂が、必ずしもわたしたちに幸福な未来を約束してこなかった歴史に学びたいと思う。そして、圧倒的な祝祭気分に、あえて水を差しておきたいと思う」

一昨日の3・11は、何度も通っている気仙沼で迎えた。2時46分、市内にサイレンが1分間鳴り響き、海岸に向かって黙とうした。

その後、ボランティア受入部のリーダーMさんが、黙とうのあとに行った言葉が残った。

「あの震災が起きた3年前に思っていた3年後がこの姿なのか、という疑念は正直ある」

被災地に行くと、どうしても社会学者の山下祐介さんの次の言葉を思い出す。著書『東北発の震災論』から。

「『復興』を進める事業のためには、人の暮らしはどうなっても構わないという力学が生まれているようだ」 (P269)

3年がたった。ガレキはなくなった。しかし、その後に広がる更地がそのままにされているのを見るたびに、ガレキと共にいろんなことを「なかったこと」にしたいのではという疑念はぬぐえない。

3月4日のブログの最後のところで、1964年開催の初回の東京五輪は太平洋戦争の「敗戦」を、2020年開催予定の第2回目の東京五輪は3・11の「第2の敗戦」を「なかったこと」にすることに貢献するのかもしれない。ということを記述した。

作家の平川克美さんは、著書『街場の五輪論』で次のように語っている。

「東京は今回を含めて三度開催候補地となっている。
最初のオリンピック招致が決定する少し前の1923年、東京は関東大震災に見舞われ、首都はほとんど壊滅状態であった。その二年後の1925年、治安維持法が国会を通過し、国民の政治活動が制限される」

「この、震災という自然の災厄からオリンピックを挟んで、太平洋戦争へ至る歴史を見ていると、この度のオリンピック招致に相前後する歴史状況との符号にお何処かされる」 (P174)

ここで言う1回目の東京五輪とは、1940年に予定されていたのに戦争によって中止になったオリンピックのこと。

平川さんは、関東大震災の2年後に治安維持法が成立したことと、東日本大震災の2年後に特定秘密保護法が成立。そのあと五輪へ向かっていくことなど重なっていることが多いことへの危惧を語っている。

「もうじき、建設のラッシュがはじまり、いやがおうでもオリンピックに向けての熱狂の空気が支配的になるだろう。しかし、わたしたちはこの種の熱狂が、必ずしもわたしたちに幸福な未来を約束してこなかった歴史に学びたいと思う。そして、圧倒的な祝祭気分に、あえて水を差しておきたいと思う」 (P183)

このブログでは、何度も書いてきたが、僕たちは歴史から学ぶしかないのだと思う。(2013年1月8日のブログ)(「歴史に学ぶ」

震災遺構の問題も同じなのではないだろうか。「なかったこと」にしないためにも、時間をかけて残していった方がいいと個人的には思う。(2012年7月6日のブログ

作家の半藤一利さんの言葉も載せておきたい。著書『そして、メディアは日本を戦争に導いた』から。

「昭和13年ぐらいで国家体制の整備統一と強化は、大体けりがついていた。その打ち上げが昭和15年の紀元2600年のお祭り。ああいう大きなお祭りをやるということは、後ろに意図があるんですよね。国家行事には裏があると常にそう思わなければならないんだよね」 (P158)

改めて書く。2020年、東京五輪という大きなお祭りがやってくる。

2014年3月 4日 (火)

「考えたくないことは考えない、考えなくてもなんとかなるだろう。これが空気の国の習い性だ」

きのうのブログ(3月3日)では、最後に畑村洋太郎さんの次の言葉を紹介した。岩波書店編集『これからどうする』から。

「東日本大震災の津波と原発事故で私たちが学んだ最大のことがらは、“人は見たくないものは見ない、考えたくないことは考えない”という特性を持っているため、敢えて“見たくないことも見る、考えたくないことも考える”ようにしなければ同じ愚を繰り返すことになる、ということではないだろうか」 (P349)

政府の事故調査・検証委員会委員長を務めた経験からの言葉である。

 

今朝の読売新聞(3月4日)にも、その畑村洋太郎さんのインタビューが載っていた。事故から3年、政府や東京電力を強く批判している。

「報告書に『見ないものは見えない。見たいものが見える』など、事故で得た知見を書いたが、ほとんど改善されていない」

「どんなに考え、調べても、自分たちには考えが至らない領域がある。まずそれを認めることだ」


あれだけ大きな事故を起こしても、「見えないものは見えない」。この習性をただすことなく、もう3年が過ぎようとしている。

エッセイストの阿川佐和子さんインタビュー集『阿川佐和子の世界一受けたい授業』で次のように語っている。

「この対談で半藤一利さんにお話を伺いしたとき、『日本人は、起きてほしくないことには、起きないだろうと思ってしまう。先の大戦でも、ソ連は絶対に参戦しないと思い込んでいた』とおっしゃっていたんですけど、たしかに大事な判断をするときに、楽観的になる癖があるのかなと」 (P85)

3年前から変わらないのではない。先の大戦から、ずっと変われていないのである。

作家の荒俣宏さん著書『すごい人のすごい話』から。

「ぼくは、現代の日本人は楽しいことばかり追い求めて、その代償として重いものを背負うことを避けているように見えるんです。例えば、かつて日本が戦争をやったという事実も、きちんと背負うべきだった。でも、そういうことは重いから、できるだけ考えたくない。『背負う』を別の言葉でいうと『あきらめる』。どこであきらめがつくかという問題じゃないですか」 (P314)

去年9月1日の東愛知新聞の社説には、作家の笠井潔さんを引き合いに次のように書かれている。

「『最悪の事態を想定しての必要な準備ができず、危機管理能力を致命的に欠いているのは、日米戦争から福島原発事故にいたるまで、空気が支配する日本社会の宿命的な病理』だ、と作家の笠井潔さんが指摘しています」

「笠井さんは『考えたくないことは考えない、考えなくてもなんとかなるだろう。これが空気の国の習い性だ』と指弾します。場の空気に流される習性からの脱却が大切です。これは国づくり、地域づくりにも言えることなのです」


見たくないものを見ず。考えたくないことは考えず。背負うことを避け、あきらめることを避け、そうやって70年余り、そういう「思考停止」の習性でやってきた。そこで、「第2の敗戦」という人もいる「3・11」を迎えることになった。

 

ドキュメンタリー映画監督の想田和弘さん東京新聞(2013年9月11日)では、次のように語っている。

「放射能汚染や人びとの苦しみを『なかったこと』にしないと、五輪の昂揚感も経済利益も台無しになる。招致の成功で、多数派には原発事故をないものにする強い動機が生まれた」

最初の東京オリンピックは結果として、「第1の敗戦」を「なかったこと」にすることに貢献し、今度の東京オリンピックは、「第2の敗戦」である3・11を「なかったこと」にすることに貢献するのだろうか。

2013年10月 9日 (水)

「僕らの立場でできることは違和感を表明し続けることしかない。誹謗中傷ではなく、理性的な違和感の表明」

一昨日のブログ(10月7日)に続き、「水を差す」という言葉について。

今年から筑波大学教授となった精神科医の斎藤環さんが、今日の東京新聞(10月9日)で次のように語っていた。まずは、戦前の空気を受けての話。 

「主戦論が盛んな場面で『勝ち目がないからやめよう』とはなかなか言えない。流れに水を差す人が忌避されたり、そういう人が自分から慎んでしまったりする傾向が積もり積もると、それが合理的だとわかっていても、撤退に踏み切れず、悪習の源になりかねない」 

今の風潮では、経済成長については、「主戦論一色」といってもいいのではないか。まずは経済を盛り上なきゃ、という空気が強い。原発にしろ、東京オリンピックにしろ、アベノミクスを後押しするものについて「批判」、すなわち「水を差す」ということがなかなか言えないのである。 

そんな「水を差す」ことがしにくい空気、風潮。それに対して、我々ができることとして、斎藤さんは、こんなことを挙げている。 

「僕らの立場でできることは違和感を表明し続けることしかない。誹謗中傷ではなく、理性的な違和感の表明」 

「穏便かつ理性的に、礼儀正しく違和感を表明する発想が大事。けんかしても原発は終わらない。すっきりしない感情をどう持ちこたえるか、成熟度が問われる」
 

そう。
それでも我々にできることは、ひとつひとつの「違和感」、それもひとつの「水」だと思うのだが、それを提示していくこと。しかも、感情に流されずに、理性的に、礼儀正しく。


 

2013年9月13日 (金)

「『空気』を排除するため、現実という名の『水』を差す」 

先週の日曜日、2020年オリンピックの東京開催が決まった。そのあと、「水を差す」という言葉をちょくちょく見かけ、とても気になった。そのいくつかを書いてみたい。

共産党の参議院議員、小池晃氏ツイッター(9月8日)から。 

「ニコ生で原発についての首相プレゼンを批判したら『五輪に水を差すな』というコメントが」 

思想家の内田樹氏ツイッター(9月10日)から。 

「つづいて目白で朝日新聞のインタビュー。『五輪開催について』。『水を差すようなことを言う人』を探してウチダのもとにいらしたそうです。なかなかいないんです」 

朝日新聞デジタル版(9月12日)で、コラムニストの小田嶋隆さん。こちらは「水を差す」ではなく「水をかける」という表現を使っている。 

「なぜ水をかけるんだっていう同調圧力がある。反論しにくくならないか心配してます」

個人的に、この「水を差す」という行為や言葉について考えたことがある。

 ボクはメディアというものが持つ役割は「水を差す」ことなのではないかと思って働いてきた。同じような表現として個人的には「空気を揺らす」と言ったりもした。

水を差し続けることで空気を揺らす。揺れることによって、そこから落ちてくるものを掬い上げる。これがメディアが基本的にやるべきものだと思っていた。 

小田嶋隆さんも、TBSラジオ『たまむすび』(9月11日)で、次のように話している。 

「(コラムニストとういうのは)本当は、空気を読めとか、同調しろとかいうものに対してザブザブ水をかける係ですね」 

そうそう、そんな感じ。のはず。

しかし、ここ数年来、「水を差す」という行為は、メディア的にも、社会的にも、企業的にも、個人的にも本当に難しくなった。というか、許されなくなった。と思う。 

その雰囲気をsarabande」という方が、ツイッター(9月9日)で次のように表現していた。

「クリティカルな欠点を覆い隠したうえでなりたっている、多数派の多幸的な雰囲気、空気、これは、知的ではなく、感情的な論理である。比較的多数の、空気にのって楽しんでいる多数派は、それに水をさされると、感情的嫌悪感で反応してくる。『キモい、怖い、マゾ』であり、排除である」

今や、「水を差す」ものは、「キモい、怖い、マゾ」という感情的嫌悪の存在なのである。そんな行為は、排除か、炎上の対象としかみられないのではないか。

もう一度思い出した方が良い言葉がある。かつて山本七平氏は、名著『「空気」の研究』で次のように書いている。

「『空気』とはまことに絶対権をもった妖怪である」 (文庫版P19) 

「もし日本が、再び破滅へと突入していくなら、それを突入させていくものは戦艦大和の場合の如く『空気』であり、破滅の後にもし名目的責任者がその理由を問われたら、同じように『あのときは、ああせざると得なかった』と答えるであろうと思う」 (P20)

山本氏は、上の『「空気」の研究』に続いて、『「水=通常性」の研究』という文章も書いている。その文章から。 

「『空気』を排除するため、現実という名の『水』を差す」 (P129)

「先日、日銀を退職した先輩によると、太平洋戦争の前にすでに日本は『先立つもの』がなかったそうである。また石油という『先立つもの』もなかった。だがだれもそれを口にしなかった。差す『水』はあった。だが差せなかったわけで、ここで“空気”が全体を拘束する。従って『全体空気拘束主義者』は『水を差す者』を罵言で沈黙させるのがふつうである」 (P92)

やはり「空気」というものに支配されないためには、「水」という現実を差す必要があるのだろう。

なのに。今の社会でも、「水を差す」ものは、『キモい、怖い、マゾ』となり、排除されてしまう。

となると、日本社会は山本七平氏の言うように「再び破滅へと突入」となってしまうのか。悲観論ばかりでは、本当にやれやれという気持ちになる。では、われわれはどうしたらいいのか。まだまだ考える時間は残されていると思うのだが。




2012年8月31日 (金)

「勇敢に真実を省み、批判することが、新しい時代の建設に役立つ」

前回、前々回のブログで書いたようなことを、つらつらとい考えていた中、今年8月15日に放送されたNHKスペシャル『終戦 なぜ早く決められなかったのか』を録画で観た。「掘り下げて欲しい」と思っていた点を、しっかりと掘り下げてくれた良質なドキュメントだった。

 

この番組の中では、外務省を含めた日本政府、陸軍、海軍が「なぜ情報を共有できなかったのか」「ちゃんと情報を上部に上げなかったのか」などを検証していた。その当時の状況について外交評論家の岡本行夫さんは、次のように語っていた。

 

「情報の共有の問題以前に、情報を軽視するというところがある。とにかくタテ割りの組織ですから、軍も日本政府全体も、外から来る話は基本的に雑音なんですよ。自分たちがとったもの以外はね。自分たちがとったものの、自分たちの都合の良いものだけを出している。今から思うと、様々な良い情報が来ていたんですね。そういうものを総合的に情報として、ひとつの戦略として組み替えていく。こういうことは殆どなされない」(25分ごろ)

 

当時の軍が、自分たちの都合の良い情報だけを、都合の良い状況のためにしか使わなかったということについては、以前、社会学者の宮台真司さんがTBSラジオ『荒川強啓 デイキャッチ』(6/8)でも語っていた。

 

「丸山昌男はこういうことを言っている。日本の軍隊は陸軍参謀本部であれ、海軍軍令部であれ、ともに現状分析の部署と作戦立案の部署を持っていて、実は作戦立案の部署が権益まみれなんです。どういう作戦をとるかによってお金が動くから。で順序としては、現状分析のあとに立案がなされるんだけど、現状分析を全く無視して権益だけをみた作戦立案がなされる。そうすると、その作戦立案部に合わせて、現状分析がパーフェクトに書き換えられてしまう。簡単に言えば、現状に則した妥当な政治的な決定がなされるというふうには、国策の決定はなされていない」


この時、宮台さんは、軍部が権益のために情報による現状分析を書き換えてしまったのと同じことが、「原子力政策」でも行われているのである、と指摘していた。まさにセクショナリズム。

 

NHKスペシャル『終戦 なぜ早く決められなかったのか』の最後は、当時、早期の講和を目指して奔走した海軍少将の高木惣吉さんが終戦後に語ったとされるコメントで閉められている。

 

「反省を回避し過去を忘却するならば、いつまで経っても同じ過誤を繰り返す危険がある。勇敢に真実を省み、批判することが、新しい時代の建設に役立つものと考えられるのであります」(1時間11分ごろ)

 

「勇敢に真実を省み、批判すること」、それが「新しい時代の建設に役立つ」。

戦争時代、原発問題、スポーツ界などなど。なんだか、ずっと同じ事を繰り返しているような気がする。

 

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