★消費者民主主義

2014年12月25日 (木)

「消費者意識というのが、21世紀のいちばん主要な正義になっている」

少し話題を変えます。

今日、いろいろな音源を聞いていたら、重なった言葉があったので、それを並べてみたい。

まず、コラムニストの小田嶋隆さん。週末に起きたJR東京駅の騒動について。TBSラジオ『たまむすび』(12月22日放送)より。

「消費者意識というのが、21世紀のいちばん主要な正義になっている。おカネを払う人間に対して、おカネをもらう人間は、どこまでもへりくだるべきだという思想がどこかある。それが政治的にも利用されている」

このJRの騒動については、火曜日の祝日の朝、FMラジオを聞いてたらナビゲータの外国出身と思われる方が次のようなことを話していたのも印象的。(番組名や人名は不明。すいません)

「日本人にはほかに暴徒と化すべきことがあるでは…。今は何でも“Shopping!Shopping!”」

政治学者の白井聡さんビデオニュース・ドットコム『マル激トーク・オン・デマンド』(12月20日配信)より。

「入れたい人がいないから投票に行かないということは、完全に消費者感覚。レストランに行っているわけではない。メニュー見て、どれもおいしそうじゃないので、じゃあ隣の店に行こう。そういう問題ではない。本当に腹が減っているときに、どれも選ばないという選択肢はない。そういう消費者感覚でしかない有権者だから、結局、政治家も育たない。緊張感がないから」 (パート1 45分ごろ)

そして映像監督の想田和弘さん自身のブログ『観察する日々』(12月24日)より。

「今や『消費教』こそが、世界で最も繁栄した、普遍的な『世界宗教』なのだと思う。私たちを凌駕し圧倒する『大きなもの』といえば、もはやそれは『自然』や『絶対神』ではなく、『カネ』や『消費』なのである」


「『消費教』の勝利である。安倍さんは『消費教日本支部』の有能な宣教師である」

その想田和弘さんは、以前にも同じような指摘をしている。ブログ『観察映画の周辺』(2013年6月17日) より。

「政治家も主権者も、消費モデルで政治をイメージするようになってしまった。だから政治家は国民をお客様扱いする。同時に、軽蔑している。単なる消費者だと思ってるから」

「ずばり『消費者民主主義』なのだと思う。消費者はサービスを消費するだけ。つまりお任せ。不具合があれば文句言うだけ。何も生み出さない。税金と票という対価を払う以外、貢献しない。いや、気に入らなければ票さえ投じない」


活動家の湯浅誠さん化放送『ゴールデンラジオ』(2013年7月23日放送)より。

「われわれ、自分の好みのものを選ぶことに慣れている。それが普通になっているので、なかなか自分に100パーセント合致するものはどこもないけど、じゃあ、そのなかでどれがより悪くないかなって選ぶ、という習慣がなかなかない。そうすると、気に入ったものがないという形でどこにも入れないとなる」

「勝負事の将棋とか、いい手ばかり選んでられない。局面ではより悪くない手を刺さなくてはいけない。そこで致命的な手を刺さないことによって結果的に勝つ。野球もそう。100球投げて、100球ベストの球を投げられるわけはない。そういう風に考えられると、ショッピング的、カタログ的な発想にすると、どこにも入れるところはないとなる。いかに社会をより悪くしない、より少しでも欠点を少なくする方を選ぶという発想もできるんじゃないのかな」

日本中が「Shopping!」に浮かれているのはクリスマスだけではなく、もう年中、あらゆる場所でのこと。

でも、政治や文化の世界までも消費者感覚で捉えていると、いつの日か自分たちの社会や自分たち自身をも使い捨ててしまう。そんな気がする。

2014年4月28日 (月)

「『人材』という言葉は、本当は恐ろしい言葉であって、これからの社会では自分が『人材』だと言われたら怒るような、侮辱的な言葉と考えるべきだと思うのです」

前回のブログ(4月25日)の最後で、アメリカの政治学者のC.ダグラス.ラシスさんの次の指摘を紹介した。著書『経済成長がなければ私たちは豊になれないのだろうか』より。

「『人材』という言葉は、本当は恐ろしい言葉であって、これからの社会では自分が『人材』だと言われたら怒るような、侮辱的な言葉と考えるべきだと思うのです。私は材料じゃない、人間です、と答える人が増えるようになったらいいと思う。人が人材になるということは、人間を生産の手段にするということです」 (P150)

たまたまだが、そのあと『ワンピース・ストロング・ワーズ・セカンド』(著・尾田栄一郎)を読んでいたら、その解説で思想家の内田樹さんが、主役のルフィについて次のように書いていた。

「ルフィは『人材』という言葉も、『即戦力』という言葉も、『採用条件』という言葉も使いません。使うわけがないんです。そんなものは本当に創造的で、冒険的な組織にはあり得ないから」

「まず人との出会いがある。そこで『一緒にいたい』という思いが発生する」

「その人が出現して、その仕事をしてくれたおかげで、『ああこういう仕事をしてくれる人を私たちはずっと待ち望んでいたのだ』という認識に達する」 (P208)

雇われるものは「材料」ではなく、雇う者にとって一緒に働く「仲間」なのである。本来は。しかし現実は…。

ということで、今回も「労働」についての続きです。

前回は、日本社会では、経済成長のもと、人を「労働力」といして「消費」してきたという指摘を紹介した。

作家の高橋源一郎さんも、朝日新聞(4月24日)の論壇時評「ブラック化する、この国」で、次のように分析する。

「経済界は、いつでも辞めさせることのできる『労働力』を求めた。新自由主義の下に、あらゆるものが市場原理に晒されることになった。教育も例外ではなかった。学生たちは、取り換えの利く駒の予備軍になった」

教育も市場原理に取り込まれた結果、学生たちはどうなったか。

再び、内田樹さん。少し前の毎日新聞(2012年1月18日)では、次のように書いている。

「若者たちはおびえ、自信を失い、『いくらでも替えのきく使い捨て可能な労働力だ』と信じ込まされた。彼らは、どれほど劣悪な雇用条件に対しても行き申し立てができない」

高橋源一郎さんは、経済界側の要求だけで「駒」(「材料」)にされているわけではない、とも指摘。朝日新聞(4月24日)から。

「わたしたちは自ら望んで『駒』になろうとしているのかもしれない。わたしたちは、立ち向かわなければならないだ。まず、わたしたち自身の内側と」

やれやれ。
人を労働に就く「駒」としてしか扱わない世の中。我々はそんな場所で生きていくためには、自ら進んで「駒」になっているという。

この展開で文章を終わるのは忍びないので、もう少し。
高橋源一郎さんは、上記の文章の最初のところで、大学で働く同僚が卒業式で述べた学生向けの挨拶を掲載している。

「卒業おめでとうとはいえません。なぜなら、あなたたちは、これから向かう社会で、あなたたちを、使い捨てできる便利な駒としか考えない者たちに数多く出会うからです。あなたたちは苦しみ、もがくでしょう。だから、そこでも生きていける知恵をあなたたちに教えてきたつもりです」

では。この同僚という方が述べた「生きていける知恵」とは何か。

思い出す言葉がある。高橋源一郎さんが教えている大学とは違うけど、立教大学の吉岡知哉さんの言葉。このブログでも、これまでも何度か紹介している。もう一度、その言葉を。2011年度の大学院学位授与式での式辞から。

皆さんがどのような途に進まれるにしても、ひとつ確実なことがあります。それは皆さんが、『徹底的に考える』という営為において、自分が社会的な『異物』であることを選び取った存在だということです。どうか、『徹底的に考える』という営みをこれからも続けてください。そして、同時代との齟齬を大切にしてください」

材料、消費財、駒として扱われることの苦しみから抜け出すために何すべきか。そのヒントがこの言葉にある気がする。

 

2014年4月25日 (金)

「少子化という現象は、人が都市で消費された結果だと」 

「労働」についての言葉が目についたので、それらを並べてみたい。

社会学者の山下祐介さん。『里山資本主義』の著者・藻谷浩介さんとの対談で、次のように述べている。『しなやかな日本列島のつくりかた』から。

「今、特に都会で働いている人たちは、人生の多くが『暮らし』ではなく『労働』になっています。その労働というのも、昔は生活と直結するものだったのが、今はなんのために働いていて、誰にその糧が回っているのかよく分からない。がむしゃらに働き、ご飯は外食、結構な家賃と光熱費を払いながら、家に帰ったら寝るだけ。もともとは普通に暮らしていくためにやっていたはずのことが、いつのまにか、もっと大きなシステムの中の一部分に組み込まれてしまっているのです」 (P53)

いつのまにか、「暮らし」が犠牲になり、「労働」が中心となってしまっている。その「労働」も大きなシステムの中で、何のために働いているのかが分からなくなっている、という指摘である。

社会学者の濱野智史さんも、朝日新聞(4月24日)で「労働」について次のように書いている。

「効率性だけが追求される資本制社会では、多くの人々は、食いつなぐだけの『労働』にしか従事できず、後世に残る『仕事』には関われない。だから疎外感を味わう」

こうした状況について、藻谷浩介さんも、次のように語る。『しなやかな日本列島のつくりかた』から。

「『復興は人の暮らしのため』、『経済成長はあなたが生きていくため』というけれど、あなたが生きていくために、あなたの暮らしを犠牲にしましょうって、それは話がおかしいですよね。『生きるために経済成長しましょう』と言っているうちに、成長の方がいつのまにか目的になって、『経済成長のために生きよう』という主客転倒を起こしているのです」 (P58)


経済や成長、すなわちお金のために「暮らし」が犠牲になっている。

この
復興については、山下祐介さんは、著書『東北発の震災論』で次のように書いている。

「『復興』を進める事業のためには、人の暮らしはどうなっても構わないという力学が生まれているようだ」 (P269)

この山下さんの言葉の「復興」を、そのまま「労働」に置き換えても成り立つ。

さらに藻谷浩介さんの次の指摘は、非常に興味深い。『しなやかな日本列島のつくりかた』から。

「山下さんの本の中に、都会のそうした構造を、ズバリ一言で表した一文がありました。これです。『(農村部から)あふれた人口は都市に向かい、そこで消費される』。労働の中で消費されてしまって、子孫を残さずに消える。少子化という現象は、人が都市で消費された結果だと」 (P55)

「二十世紀の後半の日本は、戦争前後に大量に生まれた若者を、東京や大阪などの大都市に集めて、国際競争に動員した。その過程で経済成長と呼ばれる現象も起きたんですが、彼らは結局『消費された』、即ち『再生産されなかった』のです」 (P55)

結局、われわれの社会は、経済成長のもと、労働力として「人」を消費してきたということなのである。消費財として「使い捨て」しまったがため、サイクルが成り立たず、その結果としての「少子化」が進んだということなのである。

これは、けっこう恐ろしい指摘だと思う。

アメリカの政治学者のC.ダグラス.ラシスさんの指摘とも重なる。著書『経済成長がなければ私たちは豊になれないのだろうか』から。

「『
人材』という言葉は、本当は恐ろしい言葉であって、これからの社会では自分が『人材』だと言われたら怒るような、侮辱的な言葉と考えるべきだと思うのです。私は材料じゃない、人間です、と答える人が増えるようになったらいいと思う。人が人材になるということは、人間を生産の手段にするということです」 (P150)

消費財や材料としてでなく、暮らしを営む「人」としての役割を社会が取り戻すことが何よりも重要なんだと思える。 

 

 

 

 

 

 

 

 

2013年12月27日 (金)

「人は新しいことばよりも新しい品物のほうに魅力を感じた」

これまでのブログで何回か、「曖昧な言葉」が蔓延していることを考えてみた。(11月21日 12月2日のブログなど)

きのう、コラムニストの小田嶋隆さん新著『ポエムに万歳!』を読んだ。この本の中で小田嶋さんは、ニュース原稿や五輪の招致広告など、世の中のいろんな文章が「ポエム化」していると指摘している。この言葉の「ポエム化」というのは、きっと「曖昧な言葉」の蔓延と同じ現象のような気がする。

この『ポエムに万歳!』の中から、「ポエム化」が進んでいることについて考察しているフレーズをいくつか。

「書き手の何かが過剰な時、文体はポエムに類似する」

「たとえば、後述する東京オリンピックの招致広告の文案が、安いポエムから外に出られなくなったのは、頂点に立っている人間の文芸趣味を反映したからと言うよりは、主張すべきポイントが見当たらなかったからだ」 (P18)

「東日本大震災復興構想会議がまとめた『復興への提言』が古臭い昭和ポエムの文体で書かれていたのも偶然ではない。彼らもまた、主題を明確にすることができなかった。つまり、書き手が何かを隠蔽しようとする時、文章はポエムの体裁を身につけざるを得ないのである」 (P19)

主張するポイントが見当たらない…、主題を明確にすることができない…こういったことは、政治やエンターテイメントの世界で、ナショナリズム的な言説が増えていることの背景でもあるのではないか。一昨日のブログ(12月25日)に書いたことにも通じる。政治の世界やエンターテイメントの世界で受けているナショナリズムの言説も、すなわち「ポエム」なのである。

さらに
小田嶋さんは、本の中で、こうも書いている。

「ポエムは、大衆受けする。それがポエムの恐ろしい一面だ」 (P20)

当然ながら、小田嶋さんは、本来の「詩」は別物ということで「ポエム」という言葉を使っている。

一方の詩の世界。

ボクが大好きな詩人に、荒川洋治さんという人がいる。その著書に、まさに『詩とことば』というタイトルの本がある。その中から、言葉について書かれた印象的な文章を載せておきたい。ちなみに次の指摘は、1979年の社会についてのものである。

政治の季節も、興奮の季節も終わり、次から次に生まれる新しい商品に目を奪われるようになる。人は新しいことばよりも新しい品物のほうに魅力を感じた。革命よりも現実のほうが夢を与えた」 (文庫版P123)

「1970年半ばになると、人々はことばの想像力や創造性より、物を楽しむことを優先する」 (P177)

「人とことばの関係が変わった。単純になったのだ。人間が弱くなり、忍耐がなくなったのか、努力しなくても近づける簡単なことばに引き寄せられ、思考力や想像力を要する詩のことばは、興味の対象からはずれることになる」 (P178)

豊かさや、楽しさを、ちゃんとした「ことば」を獲得するよりも優先させてきた結果、「曖昧な言葉」があふれることになっているのだろうか。30~40年近い年月をかけて、こうなってしまったということなのか。やれやれ。



2013年10月17日 (木)

「なにかを決めることにはなにか断つ覚悟が必要だし、それがなければその決断はいい方向に進まないだろう」

前々回(10月15日)前回(10月16日)は、「リスク」についての言葉を並べた。そこで入れなかった言葉をまず紹介したい。

政策研究大学院大学客員教授の小松正之さんは、雑誌『中央公論』11月号で、次のように書いている。 

「決断するためには、知識を集め、思考することが必要になる。ひとつの答えや主張を導くということは、それだけ他の可能性を捨てるというリスクを取ることだ」 (P44) 

棋士の羽生善治さんは、著書『羽生善治の思考』で次のように書く。 

「積極的にリスクを負うことは、未来のリスクを最小限にすること。決断とリスクはワンセット。本当のリスクとは、決断を下した後にともなうリスクではなく、決断を下すべき時に束の間のリスクを恐れ、逃げてしまうこと。怖いと思っても、恐れず前に進んでいく気持ちは次の勝利への大切な姿勢だと思います」 

ともに「リスク」についての含蓄ある言葉。それと同時に「決断」というフレーズも出てくるところが興味深い。もしかしたら「決断」と「リスク」というのはセットかもしれないと思って、そんな言葉を今日は並べてみたい。 

まず、メジャーリーグ。ヤンキースで活躍する黒田博樹さんは、まさに『決めて断つ』というタイトルの著書で、次のように書いている。 

「なにかを決めることにはなにか断つ覚悟が必要だし、それがなければその決断はいい方向に進まないだろう」 (P13) 

さらに次のように書いている。 

「思うに、ひとつの道を選ぶには徹底的に考え抜くことが必要だ。それが正解とは限らないわけだが、それでも自分で決めた以上、『あれだけ考えたのだから、これが正解だ』 

と思わなければやっていられなくなる。いや、むしろ自分の選んだ道が『正解』となるように自分で努力することが大切なのではないかと思う」 (P165)

上記した羽生善治さんは、著書『直観力』では、次のように書いている。

「対局中に、自分の調子を測るバロメーターがある。それは、たくさん記憶できているとか計算ができるとか、パッと新しい手がひらめるとかいったことではない。そうではなく、『見切る』ことができるかどうかだ。迷宮に入り込むことなく、『見切って』選択できるか、決断することができるかが、自分の調子を測るのにわかりやすいバロメーターになる」 (P27)

続いて、建築家の隈研吾さんが、毎日新聞6月16日で語っていた言葉。

「選ぶことは、諦めること。思い切りよく締める潔さが日本人にかけている」 

次のコラムニストの小田嶋隆さんの言葉も、どこか通じるものがあるような。朝日新聞10月8日から。 

「人生を途中からやり直そうとするなら、まず何かを捨てることです。捨てた結果、その空白に強制的に何かが入ってくる。その『何か』がいいか悪いかは、また別の問題ですけれど」 

断つこと、諦めること、捨てること、見切ること。これこそが、決断すること、選び取ることであるという。「リスクゼロ」の選択肢なんて、そうそうあるものじゃない。我々は、そんな選択ばかり待っているから、なかなか前に進めなくなっているのかもしれない。 

その意味で、活動家の湯浅誠さんが、TBSラジオ『ゴールデンラジオ』(7月23日)に「選挙」「投票」について語っていた次の言葉もどこか重なっているのではと思う。 

「われわれ、自分の好みのものを選ぶことに慣れている。それが普通になっているので、なかなか自分に100パーセント合致するものはどこもないけど、じゃあ、そのなかでどれがより悪くないかなって選ぶ、という習慣がなかなかない。そうすると、気に入ったものがないという形でどこにも入れないとなる」 

「どうしても自分に合ったものを選ぶ、気に入ったものを選ぶというのが、マーケット」
 

「勝負事はそう。将棋とか、いい手ばかり選んでられない。局面ではより悪くない手を刺さなくてはいけない。そこで致命的な手を刺さないことによって結果的に勝つ。野球もそう。100球投げて、100球ベストの球を投げられるわけはない。そういう風に考えられると、ショッピング的、カタログ的な発想にすると、どこにも入れるところはないとなる。いかに社会をより悪くしない、より少しでも欠点を少なくする方を選ぶという発想もできるんじゃないのかな」
 

リスクゼロの選択を待つのでなく、決断をして、より悪くない選択肢を選ぶ。こういう考え方が大切なのではないか。当然、そこには「リスク」は伴うだろう。でも、その「リスク」と上手に共存していくというのが人生なのではないか。そう思えてくる。 

最後に、羽生善治さん著書『羽生善治の思考』に書いてあった次の言葉を載せておきたい。 

「自分が選んだものに対して責任を取りつつ自信を持つことが大事なのではないだろうか」

そういえば「人生は、選択の連続である」ということを言っていた人もいた。誰か思い出せないけど。

2012年8月29日 (水)

「目先の勝利だけに目を奪われることなく、子供の成長を長い目で見られるかどうかだ」

きのうの少年野球の続きの話である。


きのうも紹介した雑誌『サッカー批評』(57号)の『子供がサッカーを嫌いになる日』には、ベンチで怒鳴ってばかりいる指導者のことが書かれている。しかし、こうした指導者の裏側には、結果ばかりを求める親の問題があることも指摘されている。あまりにも勝敗や数字ばかりにこだわり、一喜一憂する親たちの追及を受けた結果として、指導者も子供のことを考えるよりも結果を追い求めてしまうようなのである。

 

サッカーライターの鈴木康浩さんは、次のように書いている。

 

「ジュニア世代に指導者に大事なことは、目先の勝利だけに目を奪われることなく、子供の成長を長い目で見られるかどうかだ。子供が将来プロになる、ならないに関係なく、サッカーから学んだことを武器に、たくましく社会を生き抜ける人間に育てられるか、どうかが、育成に携わる指導者の本当の勝負ではないだろうか」

 

親や指導者が「目先の勝利だけ」に目を奪われた結果として、子供がロボットのようになり、成長を阻害しているというのだ。もっと「長い目」で見守ることが必要という当たり前の話でもある。

 

「目先の勝利」。目先のことばかりに踊り、長い目で物事をみられないのは、少年スポーツの世界だけではなく、政治を含めた今の日本社会での強い風潮なのであろう。その辺の言葉を並べてみたい。

 

社会学者の宮台真司さんは、対談集『増税は誰のためか』の中で、政治家について次のように話している。

 

「政治家は、選挙を考えますよね。短期・長期を分離して考えた時、『長期的にはいいけれど、短期的には苦しむ』という選択肢よりも、『長期的には苦しむけれど、短期的にはいい』という選択肢を提示したほうが、票はとれますよね。『長期的に渡って利益になるサスティナブル(持続可能)な戦略は何なのか』ということではなくて、『選挙に通るための政策は何か』という方向にバイアスがかかることが多いのではないでしょうか」(P154)

 

こうした短期的な結果を求める風潮については、以前の当ブログ(4/24)でも書いている。こうした風潮は、どこから来るのだろうか。思想家の内田樹さんは、ツイッター(7/25)で次のように書いている。

 

「政権を委ねてから成果が出るまでのタイムラグ(ものによっては5年10年またねばなりません)が耐えられない。レジでお金を出したら、『お品物は5年後に配達されます』と言われた買い物客のようなフラストレーションを感じます。『すぐに結果を出せ』という定型句は『お客さま』の苛立ちなのです」

 

この指摘から考えると、どうも日本国民総「お客さま」現象が起きているようである。

 

きのうも取り上げた湯浅誠さんの『ヒーローを待っていても世界は変わらない』にも、こんな指摘がある。

 

「十全に機能していないから一気に取り替えてしまおう、バッサリやってしまおうという心理には、焦りを感じます。それは一つひとつ積み上げながら改善していくことを『待ってられない』という焦りです。注文したときに感じる消費者の焦り、不具合が生じたら手直しをするより、買い換えた方が手っ取り早いという消費社会の焦りに通じるものです」

 

「そこに飛躍が生まれます。一商品とは異なる政治・社会システムを、一商品と同じ見方で見る飛躍、そこで翻弄される人々の生命と暮らしを軽視する飛躍です。私はそれを『ガラガラポン欲求』と読んできました。待てない消費者心理とても言うべきものです」(P66)

 

このブログにも、何回か書いてきたと思うが、すっかり隅々まで行き渡った「消費社会」に根付く「消費者心理」。全てのものを「消費活動」と同じに捉える風潮は、相当やっかいなものになっている気がする。

2012年1月19日 (木)

「不安のままぶら下がって、それに耐える力こそが『教養』だと思うんですよ」

モノへの執着を捨てることを推奨する『断捨離』という言葉があるらしい。コンサルタントのやましたひでこさんが推奨する考え方らしく、その著作も話題ということ。字面は、なんとなく見ていて知っていたが…。そんな意味だったとは全く知らなかった。

先日、たまりにたまった過去の新聞のコピーなどに目を通していたら、去年12月16日の東京新聞夕刊に、そのやましたひでこさんのインタビューが掲載されていた。そのインタビューの中で、東日本大震災を受けて考えたことを話していて、それが少し印象に残ったので紹介してみる。

「震災直後、被災地から遠く離れた人たちが買いだめに走る様子を見て、衝撃を受けました。スーパーに大挙して押しかけ、三日分、四日分の食料や水を買い求める人たち。こうした人たちは、一週間分、一カ月分買いだめしても不安が増幅していくのだと思います。『備蓄』と『買いだめ』は違うのに、どれだけのモノが必要か、分からなくなってしまったのではないか」

震災後に東京をはじめ、日本中で起きた食材や生活必需品などの「買いだめ」「買占め」という現象についての感想である。

やましたさんが指摘する、この「不安心理」について、ボクなりにつらつらと考えていたら、この構造は、多くの人が「老後への備え」としてお金を貯め込むことと、全く同じではないか、と思えてきた。

老後の不安に対して、人々がため込んだ「タンス預金」。これが莫大なため、市場にお金が回らないという話はよく聞く。仕事からリタイアする老後というは、「きっとお金がかかる」「お金がないと病院にも行けない」「お金がないと自分の生活を楽しめない」なんて思って、今、お金を使わずに「老後のもしもの時」に備えて、せっせと「タンス預金」を貯め込む。

その結果、以前、ラジオで聞いた話によると、「親の遺産を受け取る人の平均年齢は、60代の後半」とのことだ。ちょっとショックだった。今や80歳を越えた高齢の親が亡くなり、それを受け取る子供も、その時点で60代の後半になっているというのだ。若い人たちに比べて、高齢者の方々の財布のヒモが堅いことは想像に難くない。つまり、日本社会に存在する「お金」のかなりの部分が、「タンス預金」から「タンス預金」へと移動しているにすぎない。お金は消費にまわることなく、ずっとタンスの中で「もしもの時」を待って額だけ増やしているのだろう。

もちろん老後に不安があるのは分かる。そのための備えも必要になる。でも、やました氏が言うように『備蓄』と『買いだめ』は違うのである。とはいっても適切なお金の『備蓄量』というのは、高齢者にとっても、若い世代にとっても難しいことも確か。そう考えてみながら、いろんな資料に目を通していたら、そうしたお金に関するコメントは、やはりとても多かった。いくつか拾ってみたい。

まずは、ライターの北尾トロさんが自ら編集する雑誌『季刊レポ』(2011年冬号)の 『1年経ったら火の車』という文章の中で、こんなつぶやきをしていた。

「金ってそんなに大事なんだろうか。たくさんの金を得たとして、その金でやりたいことがなかったら銀行口座の数字が増えたり老後の生活に多少の安心感がもたらされるだけでしょ。やりたいことのあるヤツが、やりたいことをやるための資金を手にしたときにその金は生きる。だけど、往々にしてやりたいことのあるヤツには金が回ってこないんだなコレが」(P76)

雑誌編集のお金のやりとりに苦戦する本人から出た「お金」に対する率直な思いなんだろう。

内田樹さんは、近著『呪いの時代』で、お金を貯め込むことについて、こんな文章を載せていました。

「もちろん、老後が心配とかそういうご事情の方もいると思いますけれど、老後の蓄えなら、1億も2億もいらないでしょう。一人の人が大量の貨幣を貯め込んでも、いいことなんかない」

「『自分のところにきたもの』というのは貨幣でもいいし、商品でもいいし、情報や知識や技術でもいい。とにかく自分ところで止めないで、次に回す。自分で食べたり飲んだりして使う限り、保有できる貨幣には限界がある。先ほども言いましたけれど、ある限界を超えたら、お金をいくらもっていてもそれではもう『金で金を買う』以外のことはできなくなる。そこで『金を買う』以外に使い道のないようなお金は『なくてもいい』お金だと僕は思います」
(P172)

なぜ人はお金を貯め込むのか。老後の不安以外にも、いろんな理由があるということ。雑誌『新潮45』1月号には、経済学者の小野善康さんの『「お金への執着」が経済を狂わせる』という文章が掲載されていた。

「お金の数字情報は、もっとも効率よく人びとを幸せにする。数字の桁が上がってくるだけで、巨大な可能性を手にすることができるからである」(P54)

「交換性を保持しながら、我慢して使わないことによってのみ妄想に浸れる。そのため、働いて稼いだお金が物を買うためでなく、貯めることに向けられ、モノへの需要にならない」(P55)

最初に紹介したやましたひでこさんは、震災後におきた『買いだめ』について、同じインタビューの中で次のようにも言っている。

「買いだめをした人たちの中には、『増えたら幸せ、あればあるだけ幸せ』というのは幻想だ、ということに気付いた人もいると思います」

そして内田氏も、お金の「囲い込み」について震災後、同じようなことが判明したと、雑誌『新潮45』12月号の『「宴会のできる武家屋敷」に住みたい』に書いている。           

「いままでの社会システムは基本的に市場原理で動いていました。必要なものはすべて商品の形で提供された。ですから、市民の仕事は『欲しい商品を買えるだけの金を稼ぐこと』に単純化した」


「でも、東日本大震災と福島の原発事故でわかったことは、『金さえ出せば欲しいものが買える』というのは極めて特殊な非常に豊かで安全な社会においてだけ可能なルールだったということです」

 
最後に元外務省官僚の佐藤優さんが著書『野蛮人の図書室』に書いていたフレーズを載せておく。


「もちろん資本主義社会において、失業し、賃金がまったく入ってこないならば生きていくことができない。しかし、自分の必要以上にカネを稼ぐことにどれほどの意味があるのか、よく考えてみる必要がある。少し余裕のある人が困っている人を助けるという行動をとるだけで、日本社会はだいぶ変化するはずだ。それができないのは思想に問題があるからだ」(127P)

 

基本的には、佐藤氏も内田氏と全く同じことを言っている。とはいっても、先の見えない不安にどう耐えるのか。佐藤氏は次のように書く。

 

「『どうしたらいいか?』って問いには、答えを出さずに不安な状況に耐えることが大事だと思う。
回答を急がない。不安のままぶら下がって、それに耐える力こそが『教養』だと思うんですよ」

うん。良いこと言う。「不安に耐える力こそ『教養』」。これはメモしておいた方が良いと思う。

とても文章が長くなっていましたが、我々は震災後の買いだめ状態と同じことが、お金についても起きている。お金と買いだめ、これについて改めて考えてみたりする必要があるのではないか。そんなことを考えたわけです。

 

 

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