憲法

2014年8月30日 (土)

「スポーツは炭坑のカナリアでありたい。先んじて異変を伝える。戦争の兆候は日常より、まず余暇の場に表れるからだ」

きのうのブログの続きを書こうと思っていたけど、ちょっと話題を変える。

今年11月に国分寺市で開催される「国分寺まつり」で、毎年ブースを出している護憲団体「国分寺9条の会」が今年の参加を拒否された、というニュースを知った。 NHKニュース8月28日放送)(東京新聞8月29日

やれやれ、である。日本は、こんな話ばっかりになっている。

素朴な疑問としては、「政治的な意味合いを持つ」ことがダメなら、うちの近所の駅前盆踊りでの国会議員による出店(飲み物)もダメだろうし、地元選出議員による挨拶だって問題になりかねない。

北海道大学教授の町村泰貴さんは、次のように指摘している。サイト「BLOGOS」(8月29日) より。

「地域のおまつりのような場で、憲法や政治に関する催しが行われ、市民が気軽に参加し、子どもたちも自然に政治的な問題に触れて多少なりとも身近な話題として興味をもつこと、それこそが成熟した民主主義社会の建設と維持に必要なことだ」

当然の指摘である。

こうした自粛は、神戸市が憲法記念日に予定していた講演会を承認しなかった件といい、日本中の至る所で起きているのだと思う。

最近では、さいたま市の公民館が「公民館便り」に一市民の作った俳句「梅雨空に『九条守れ』の女性デモ」の掲載を拒否する事件が起きている。

まさに「いやな感じ」の出来事ばかり。(6月28日のブログ

俳人の金子兜太さんが、東京新聞(8月15日) でのいとうせいこうさんとの対談で、戦前起きた「俳句事件」について触れている。

「俳句弾圧は昭和十五年。日米開戦はその翌年の暮れ」

時代のキナ臭さというのは、まずは、こうした地域のお祭りや、文学、スポーツ、映画などの場から顔をのぞかせるんだと思う。きっと。

スポーツライターの藤島大さんの文章に次の一文を見つけた。東京新聞(8月5日)より。 

「スポーツは炭坑のカナリアでありたい。先んじて異変を伝える。戦争の兆候は日常より、まず余暇の場に表れるからだ。かつて『富国』に奨励されたスポーツは、やがて『強兵』に組み込まれた」

この一文には、大きく肯首したい。

例えば、浦和レッズの横断幕問題も、社会の大きな流れの一端が表れたにすぎない。3月14日のブログ

また、この指摘は、スポーツには社会の価値観を変える力があるという考えと表裏一体のものなんだとも思う。(
6月11日のブログ7月3日のブログ7月4日のブログなど)


異変はいきなり我々の前に現れない。例えば、土砂崩れの前には、見慣れない水漏れが地表から起きるように、我々は、まず地域のお祭りやスポーツ、俳句など日常生活での「水漏れ」に目を配る必要がある。




2014年6月 4日 (水)

「民主主義と法の支配を損なう行動は残念だ」

前々回のブログ(5月29日)に続いて、安倍政権による「静かなクーデター(仮)」について。

先月、タイでは陸軍が本格的なクーデターを起こした。憲法は廃止され、このあと15カ月かけて新しい憲法を作るという。そのタイのクーデターについて、日本経済新聞(5月24日)の社説では、次のような言葉が書かれていた。

 
「民主主義と法の支配を損なう行動は残念だ」

話を日本の安倍政権に移す。弁護士の羽柴修さんも、著書『戦争は秘密から始まる』の中で、秘密保護法について次のように語っている。

「憲法を変えずに憲法違反の法律をつくってしまうということですから、私たちからみたらこれは立法クーデターであって、これは断じて許すことはできない」 (P52)

そして、戦前のクーデターとの一致点を指摘する言葉も。政治学者の白井聡さんの指摘。著書『永続敗戦論』より。

 
「彼らの姿には、戦前の革新官僚や青年将校を髣髴とさせるところがある。そして、戦前の彼らが先行世代を批判しながらも、軍拡―そしてその必然的帰結としての戦争―というさして新しくもない答えしか見出せなかった点において想像力が貧困であったのと非常によく似て、現代の『安全保障サークル』の若手住人も永続敗戦の構造に目を向けようとはしない」 (P143) 

改めて考えると、もともと安倍政権のお題目は「戦後レジームの脱却」なのである。

ジャーナリストの鳥越俊太郎さんは、『戦争は秘密から始まる』で次のように語る。

「彼が言っている『美しい国・日本』とは、戦後のレジームチェンジと言っています。レジームチェンジとはどういうことか。レジームとは一つの体制のことです。国のかたち、これを変えようということです」 (P24)

「要するに国のかたちを変えようというのが安倍さんの言っていることです」 (P25)

 
「これからはもっと大事なことは国が決めて、国が決めたことをちゃんと国民も守れよと、こういう国家統制型の国をつくろうというのが『美しい国』の中身です」 (P26)

安倍政権は、当初から国の形を変えるのを目的としているのである。
 

もちろん選挙に選ばれた議員が、正しい民主的な手続き・プロセスを経て、国の形を変えていくことは何の問題もないのだろう。一方で、正しい手続きを経ることなく、暴力的にいきなり国の形を変えようとすることを「クーデター」と呼ぶのではないか。

憲法を軽視する「解釈改憲」というやり方。安倍政権によるおよそ正しいとは言えない手続きによって国の形を変えようとしていることは、どうなのか。ということでもある。

作家の保阪正康さんは、朝日新聞(5月29日)で、安倍総理のやり方について次のように述べている。 

「集団的自衛権は正義なんだ、日米同盟の軸なんだ―。安倍さんの頭の中にはそんな思考回路ができあがっていて、認めない人は『おまえが悪い』となってしまうのでしょう。自分の世界に入ってこられない人は、異質に見える。きっと物事を論理的に考えることができない、悲しいほど自己陶酔型の人物だと感じました」

異質を認めず排除するやり方…。

前回のブログ(5月30日)では、民主主義について書いた。

それと関連するが、立教大学教授の哲学者、河野哲也さんは、著書『道徳を問い直す』で民主主義について次のように書いている。

「民主主義の美点は、合意を形成することにあるのではない。そうであるのなら、公民的共和主義のように、同質性を強要する危険性が生じてしまう。むしろ、民主主義の特徴は、対立が維持されつづけることにある。そこでは、合意は特権化されずに、対立と差異が正当なものとして認められ、権威主義的な秩序を作って対立を無理に除去されたりしない。異議や対立する諸価値が併存し、それが決して終息しない多元性を維持することが民主主義の本質なのである」 (P131)

異議や対立する諸価値が併存することこそ、民主主義の本質だとすると、異質を認めない安倍総理ははたして民主的なのだろうか…。 ということである。

この冒頭にタイのクーデターに対して、日本経済新聞による「民主主義と法の支配を損なう行動は残念だ」という指摘を書いた。

民主主義と法の支配を損なう行動…。 

この指摘は、憲法の軽視と民主主義の否定という安倍政権がやっていることにも、そのまま当てはまると思う。とすると、あながち「静かなクーデター(仮)」という言い方も大げさではないと思うのだが、どうだろうか?

2014年5月16日 (金)

「キーワードは『エモーショナル』。親しみやすさを強調し、大衆をコントロールしようとしている」

きのう夜6時、安倍総理は集団的自衛権についての記者会見を行った。

その会見について、評論家の小沢遼子さんは、今朝のTBSラジオ『スタンバイ』(5月16日放送)で次のように語っている。

「情緒的だと思った。自分が議員の時、演説は情緒的にやると受けるということが分かって、演説というものが大嫌いになった」


安全保障が専門という東京財団研究員の小原凡司さんは次のように述べていた。TBSラジオ『シャッフル』(5月15日放送)より。

「今日の会見には違和感。重要な議論が抜けて、焦点が矮小化してみえた」

「非常に感情に訴える部分が多かった」


ジャーナリストの神保哲生さんは、同じ番組で次のように指摘している。

「記者会見をテレビのコマーシャルのような扱いをしている気がする」

「時間帯も6時という時間を選んでるし、いわゆるお茶の間の普段政治にあまり関心のない、新聞の政治欄なんてほとんど読んでいない方々に、“やっぱこれは必要なんですよ。そう思うでしょ”というような感じのプレゼンテーション」


まさに、以前このブログ(4月18日)に載せた青山学院大学教授の大石泰彦さんによる安倍政権のメディア対策の指摘そのものの。そんな記者会見だった。もう一度、大石さんの指摘を載せておきたい。毎日新聞夕刊(4月10日)より。

「キーワードは『エモーショナル』。親しみやすさを強調し、大衆をコントロールしようとしている」

さらに元外交官で作家の佐藤優さんは、今朝の文化放送『くにまるジャパン』(5月16日放送)で次のように語っていた。


「きのうの記者会見は演説や会見というより、詩の朗読会、ポエムと思って聞けば理解できる。立派なことをやりたいんだと強い意欲を示したもの。小保方晴子さんの記者会見と一緒。両方ともポエムです」

「ポエムは理屈の話ではない。気合いと、心にどうしたら響くかということ。ある人の心には今回響いたんでしょう。ある人の心には響かない。詩はいいか悪いかという心の受け止め方ですから。きのうは心の時間だったなという感じ」


もう政治もポエムの世界なのである。リーダーの総理大臣が国民に対して堂々とポエムを語っているのだ。

ちなみに、佐藤さんは、安倍政権の外交についても、次のような言葉で語っていた。

「ポエム外交。心の動きだけで外交をやっている」

結局、今の日本の政治や政治家のレベルは、そんなものということなのだろう。

精神科医の斎藤環さんが、朝日新聞(2012年12月27日)で行った次の指摘を裏付けることでもある。

「自民党は右傾化しているというより、ヤンキー化しているのではないでしょうか。自民党はもはや保守政党ではなくヤンキー政党だと考えた方が、いろいろなことがクリアに見えてきます」

ヤンキー化している自民党の総裁だから、会見でポエムなのである。

斎藤環さんは、著書『ヤンキー化する日本』でこんな指摘をする。

「そう、ヤンキーはポエムが好きだ。ポエムは情感を盛り上げ、気合をもたらし、自らの正当性を信じ込ませてくれるなにものかだ。ポエムの良いところは、知識や論理とは無関係に、依拠すべき肯定的感情をもたらしてくれるところだ。同時にまた、ポエムは強力な共感装置でもある」 P38)

斎藤さんは、ヤンキーの特徴として、次のことも挙げている。

「特徴の例として、熟慮を嫌う、理屈を嫌う、反知性主義の傾向が強い」 (P89)

まさに日本の政治は、熟慮なき、知性なき、論理なき世界に入ろうとしている。それは間違いないと思う。

2013年3月27日 (水)

「その国とか権力というのは時に暴走したり、過ちを犯す。だから憲法で縛る、というのが立憲主義の本質なんですけどね」

しばらくのあいだ、体罰問題から始まって、外部規律依存という体質にまつわる言葉の紹介が続いていた。しかし今回は、「憲法」をめぐる言葉を紹介してみたい。

一票の格差訴訟で、「憲法」に注目が集まっている。一方で、自民党がつくった改憲草案というものもある。3月11日のブログでは、社会学者の宮台真司さんによる「人権内在説」と「人権外在説」との違いの説明を紹介した。これは、自民党の改憲草案に対して述べたもので、再び「人権外在説」の方へ舵を戻そうとしていると宮台さんは批判している。 

その自民党が作った改憲草案について、東京新聞(3月2日)が特集を組んでいた。その記事の中で、伊藤塾塾長の伊藤真さんは、憲法について改めて、次のように語っている。 

「立憲主義とは、憲法で国家権力縛ること。多くの人が勘違いをしているようだが、憲法は国民の権利を制限するものではないし、法律の親分でもない」 

「草案はその立憲主義とは逆向きで、国民の権利を後退させ、義務を拡大させている。自民党の改憲草案は、人権を保護するための立憲主義を否定している」 

さらに伊藤さんは、TBSラジオ『DIG』(3月21日)の中で、自民党改憲案について次のように語っている。

「本来憲法は、繰り返しますが、国民が人権を守るために国をしばるための道具。それがまったく逆転し、国家が国民を支配し、コントロールするための道具のように実はなってしまったところがある」

「立憲主義の本質を骨抜きにしようという意図ははっきりあるように思える。ですから憲法を、国民をコントロールするための、国の側が国民を、支配というと言葉がきついかもしれませんけど、国が思うような国作りをしたい、そのためには国民にいろいろ従ってください、協力してください。私たち政治家が良い国をつくりますから、国民の皆さん、それに従ってください。この憲法に書いた義務はちゃんと守って、いっしょに良い国をつくりましょう。という発想なんです。国や権力は国民のお友達、仲間です、という発想が根底にある。もちろん、そういう面もないわけじゃないんですが、その国とか権力というのは時に暴走したり、過ちを犯す。だから憲法で縛る、というのが立憲主義の本質なんですけどね。そこを曖昧にしてしまうと、やっぱりまずいだろうなと思う」
 

その自民党の改憲草案で、焦点の一つとなっているのが「96条」。憲法改正には、衆参両院で総議員の3分の2以上の賛成で国会が発議し、国民の承認を得る必要があるが、この規定を「3分の2」から「過半数」に緩和しようとしている。これには、日本維新の会も同意しているもよう。 

維新の会の代表、橋下徹氏は、 『96条改正』について次のように語っている。読売新聞(2月28日)より。

「実行するために何が必要かと言うと、まず中身よりも、実行するための装置をきちんと作らないといけない。実行できない環境の中で、議論したって、コメンテーターのような無責任な議論に終わってしまう」 

「もう右肩上がりは望めない利害関係が複雑化した現代社会においては、政治の重要な役割は利害調整ではなく、決定することです」 

彼が言う、「決定すること」とは、「切り捨てること」と同義なのだろう。 

東大の政治学者、森政稔さんは、そう考える政治家が増えていることについて次のように指摘している。朝日新聞(2012年12月18日)より。 

「『選挙で勝てば民意は自分にあるから何でもできる』というようなかなり粗野な民主主義理解を一般化させてしまったことには、政治改革を推進した学者にも責任があると思います」 

学者ではないが、弁護士でもある伊藤真さんは、TBSラジオ『DIG』で、「選挙に勝てば民意は自分にあるから何でもできる」というような状況、多数決での決定によって、少数を切り捨てざるをえない民主主義の性質について、次のように語っている。 

「ときに民主主義と立憲主義はぶつかりあって緊張関係にあるもの。民主主義だからいいじゃないというわけにはいかない。例え民主主義に基づく私たちが決めた政治でも、多数者による政治でも、守らなくてはいけないこと、やってはいけないことある。ということで歯止めをかけるのが立憲民主主義なんです。ところが、政治家でも『民主主義は大切だ』という人はいっぱいいる。政党の名前でも『民主』がついた政党はいっぱいありますよね。『立憲主義が大切だ』という政治家はほとんどいないし、戦後、『立憲』がついた大きな政党はひとつもない」 

ナチスドイツ、戦前の日本政府、そして最近では、大量破壊兵器によるイラク戦争などなど。歴史上、多数派が間違えることはたくさんある。当たり前のことである。特に、前回のブログ(3月26日)で書いたように、日本社会は「忖度文化」がしみこんでいて、一律に流されやすい体質を持っている。そうした多数による暴走を防ぐためにあるのが憲法。この際、伊藤さんの説く「立憲主義の必要性」を改めて考えてみる必要はあると思う。 


 

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