幸せとは

2012年7月 7日 (土)

「自分より相手を幸せにする人が、最後は一番幸せになるのだ」

さらにさらに追加分その③。

先日の文章(7/3)には、宮台真司さんの「他人を幸せにする人間だけが幸せになる」というコメントを紹介した。それにからんだ言葉も見つかったので、こちらも追加して載せておきたい。

 

フェラリーなどのデザイナーを務め、今は地元山形を拠点などに活躍する奥山清行さんというデザイナーがいる。その奥山さんの書籍『ムーンショット デザイン幸福論』に彼のデザインに関する話しながら、こんなフレーズをみつけた。

 

「自分が仕事する上で大事にしているのは『自分より相手の方が幸せになる』ということ。幸せという言葉が大げさなら『自分よりも相手の方が得るものが多い』と言い換えてもいい。これは僕らの仕事の最大の前提条件だ


「目先の損得にこだわり、相手に得をさせるのがマイナスだと考えている人は、瞬間的には恵まれることもあるかもしれないが、長期的には必ず損をする。自分より相手を幸せにする人が、最後は一番幸せになるのだ

 

まさに宮台さんのいいたことと全く持って重なっている。

さらに平川克美さんの『移行期的混乱』という本にも興味深いフレーズであったので紹介したい。

 

「リベラルという言葉は英和辞典で見ると、『自由な』という意味は四番目にしか出てこないの。一番目は『気前がいい』なんですよ。二番目の意味が『たっぷりある』、三番目が『寛容である』と。その四番目に『自由主義の』とか『自由な』って出てくる

 

「『人にふるまっていやる自分こそが自由だ』っていうような広々としたものだったんだと思います」

 

ということである。「人を幸せにする人間」は幸せでもあり、リベラルでもあるのである。

 

2012年7月 3日 (火)

「他人を幸せにする人間だけが幸せになるんです」

 先月のことになるが、6月8日のTBSラジオ『荒川強啓デイキャッチ』を聞いていたら、レギュラーコメンテーターの社会学者・宮台真司さんが、日本の教育の問題点について語っていた。印象的だったので、その一部を紹介したい。


「子供たちに幸せになれって教えるでしょ。で、そのために他人を競争で蹴落として幸せになれ。他人を蹴落として上昇は出来るけど、そのようなことで幸せになれるかどうかは、倫理の問題。結論から言えばムリですよ。あえて短く言うと、他人を幸せにする人間だけが幸せになるんです」

「子供供たちには、今のように「自分が幸せになれ」というのではなく、「他人を幸せにする人間になれ」と教えるべきだと説く。さらに次にように語っていた。


「“どうしたら、他人を幸せにできるのか”あるいは、“本当の幸いとは何なのか?”ってことを徹底的に考える力を持った人間以外には幸せになれるはずがないんですよ」


ちょっと印象的なフレーズだったので、メモをしておいたら、先週の雑誌『AERA』(7/2号)の『日本人が見たブータン』という特集記事に全く同じようなフレーズが載っていた。そちらも紹介しておく。去年まで川崎市で小学校の教諭をしていて、今年1年間、海外青年協力隊としてブータンの小学校で教師としている仁田明宏さんの次のコメントである。


「今年3月、日本の教え子から卒業文集が送られてきました。その中に『3億円あったら、どうする?』というコーナーがあり、みんなが答えを書いています。その半分くらいが『貯金する』でした。今の日本の現状を映しているのでしょうが、あまりに夢がない答えです」


実はボクも10年くらい前、居酒屋トークで知人たちと『1億円手に入ったらどうするか?』で盛り上がったことがある。その時は、みんな社会人という立場で話していたわけだが、結局、「貯金する」「家のローンにまわす」「車を買う」といった小学生と似たような答えしか出なかった。「海外旅行するにも休みがないし・・・」という感じで、日本という社会は案外お金の使い道がないところなんだなあと思った記憶がある。


さて、それではブータンの子供たちはなんと応えているのか。仁田さんのコメントの続きである。


「ブータンの子どもたちに授業で『すごくたくさんお金があったらどうする?』と尋ねてみました。すると、大半の子が『貧しい人にあげる』『親にあげる』など、自分以外の人を幸せに使うと答えました」


「同じ子どもたちに『幸せですか』とも聞いてみました。ほとんどが『幸せです』と答えたのですが、理由は『家族と一緒にいられるから』『食べ物が毎日食べられるから』『学校に行けるから』。日本では当たり前と思われることばかりです」


さすがブータン、『GNH・国民総幸福量』の国である。まさに宮台さんの言う「他人を幸せにする人間が幸せになる」という考えがそのまま子供たちにも浸透している感じである。


また同じ特集記事の中で、ブータンで首相フェローとして働きていた御手洗瑞子さんのコメントも紹介されていた。以前(4/6)は、彼女の書籍『ブータン、これでいいのか』に載っていた同じのようなフレーズを紹介しているが、改めて今回のコメントも紹介したい。


「ブータンの人たちの肯定力は『割り切り力』でもあるように感じます。そもそも『人間の力ではどうにもできない』と思っている範囲が、日本人よりずっと大きいのではないでしょうか。自然の力、運や縁なども含めて、『まあ、なるようになるよ』というスタンスです」


「またブータンの人は、自分自身をそのまま肯定し、根本の、人としての自分に自信と誇りを持てているように思います。なので、どんな状況でも堂々としていられる」


同じ時(4/6)に藤原和博さんのフレーズとして取り上げたのが日本社会に蔓延する『現世利益の宗教』。何とかして、すぐに良い結果を手にしたいという考えが日本には強すぎるということなのだ。その『現世利益』を追い求めすぎる風潮が、結局、日本人から自分に対する「肯定力」を奪っているということなのだろう。


また、ブータンの人の持つ『まあ、なんとかなるよ』というスタンスは、その前(3/8)に紹介した、同じく藤原和博さんの次のフレーズにも通じる。改めて書いておきたい(毎日新聞2/29夕刊)。


「正解主義は、修正主義に。『こうするのが正しい』とたった一つの正解があると信じ込む正解主義から、とにかくやってみてから修正していけばいいという考え方に転換する」


国民の幸福度の高い国、ブータン。その一方で幸福度の低い国、日本。いろいろ両国を比べてみると本当に興味深い。

 

2012年4月 6日 (金)

「努力したのであれば、すぐに何らかの結果が欲しいのが日本人ではないでしょうか」

先日、御手洗瑞子さんの『ブータン、これでいいのだ』という本を読んだ。御手洗さんは、ブータンで1年間政府職員として働いた経験を持つ。去年若き国王が来日したり、「国民総幸福(GNH)」なんてもので最近、何かと取り上げることのおおいブータン王国。御手洗さんが、働きながら見たその国の様子が書いてあって非常に興味深かった。

 

ブータンの良さというと、この本を読むまでは、どこか貧しい国の「清貧」の良さに違いないと思ったりしていた。しかし、実際は違う。インドと中国という2つの大国に挟まれた小国としての「リアリズム」のなか、国民は生活している。携帯電話もあれば、i-Padなどもあり決して貧しいわけではない。チベット仏教の精神を大事にしながら、おおらかに生活している。

 

「日々ブータンで仕事をし、またこの土地に暮らしていて感じるのは、そもそもブータンの人々は『人間の力では(また自分の力では)がんばってみてもどうにもできない』と思っている範囲が、日本人である私たち以上に大きいのではないかということ。自然の力という意味だけでなく、運や縁、運命なども含めて、『まあ、なるようになるよ』というスタンスが強いように感じます」(P182)

 

「輪廻転生を信じ、いつもうっすらと来世を意識し、老後には毎日来世のために祈る。ブータンの人にとって、『今の人生』のとらえ方が、私たち日本人とは違うのだろうなと感じます。『現世が全て』と考えていたら、人生が思い通りにいかない時、もう取り返しがつかない気がして、つらくなる。反対に『現世がすべてではない』と信じれば、多少うまくいかにこと、思い通りにいかないことがあっても、『うーん、まぁいっか。次の人生がうまくいくといいな』と割り切れる」(P210)

 

先日亡くなった評論家の吉本隆明さんの『吉本隆明が語る親鸞』という本に、親鸞の持つ「来世」「他力本願」の考えが興味深く書かれていたが、その親鸞の思想とブータンの仏教が、みごとにつながっている感じなのだ。

 

翻って、そのかつて親鸞という思想家を生んだ日本という国では、どうなのか。たまたまだが、全くブータンとは対極となるような状況を、藤原和博さんが著書『坂の上の坂』の中で指摘していて、非常に興味深い。

 

「キリスト教をはじめ、なぜ世界の宗教が日本に浸透しなかったのか。ひとつの仮説があります。それは、日本人が現世御利益を求めてしまうからです。すぐに結果を求めてしまう。『天国では幸せになれる』などと言われてもピンと来ない。努力したのであれば、すぐに何かの結果が欲しいのが日本人ではないでしょうか」(P80)

 

藤原氏は、日本では「現世御利益」という宗教が信じられているとも言っています。

「では、現世御利益の宗教とは、具体的にはどんな教義を持つものでしょうか。日本を席巻したのは、『頑張る教』だったのではないかと思います。例えば、勉強して頑張れば、いい学校や大学に入れ、いい会社の社員になって、課長くらいなればみな車や家が買える。要するに『いい子』を貫いて生きれば、きっと幸福は待っている、ということ」(P80)

ブータンや親鸞の思想とは、まさに対極ともいえる状況が日本にはあるよう。短絡的に「結果、結果」という現世御利益を求め過ぎていることが、今の日本の閉塞感につながっているのでは、とブータンの人たちの生活を知ると思えてくる。

2012年3月 8日 (木)

「『だましだまし』やるという姿勢は大事なことだよ」

前回の続き。では「たくみにゆらぐ」というのは、どういうことなのか。

生物学者の福岡伸一さんの著書に『動的平衡』という本がある。「生命とは動的平衡にある流れである」というもので、生物は常に変化し、自らを更新することで「細胞の中に必然的に溜まるゴミ=エントロピーを捨て続け」、現状を保っていくというのが「動的平衡」という考え方である。

この考え方は、鴨長明『方丈記』の「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし」に通じる。

この常に変化している状態、常に更新している状態のことこそ、きっと内田樹氏が言う「たくみにゆらぐ」ことなのではないか。

宮崎駿さんによる『風の谷のナウシカ』の最後の方(第7巻)で、ナウシカも次のように語っている。

「生きることは変わることだ。王蟲も粘菌も草木も人間も変わっていくだろう。腐海も共に生きるだろう」

ボクが旧来思っていた「大人の定義」では、「けっして変わらないもの」が大人の条件だった。大人というものは、自分の意見をころころ変えるものではない、というような風潮は確かにある。でも「コロコロ変える」のではなく、「たくみに変える」ということである。

すこし話は飛ぶ。

日経ビジネスオンラインにアップされていた脳学者の養老孟司さんと、建築家の隈研吾さんとの『「ともだおれ」思想が日本を救う』(2月10日)という対談で2人は、東日本大震災の復興について次のように語っている。

養老「一気に更新しようというのではなく、『だましだまし』やるという姿勢は大事なことだよ」

隈 「『だましだまし』の気持ちで復興を地道にやっていけば、その過程で新しいテクノロジーだって入り込む余地もできるし、一歩ずつゆっくり補強されていく。そういう方法論でやっていかなきゃいけないと思うんですけど」

東北の復興にからめて、この2人は「一気に変える」のではなく、「だましだまし」変えるのが大事だと説く。

杉並区の元和田中学校長の藤原和博氏は、「修正」という言葉を使う。毎日新聞夕刊(2/29)のインタビューで、次のように語っている。

「(今の教育界や、日本全体を覆っている)正解主義は『修正主義』に。つまり『こうするのが正しい』とたった一つの正解があると信じ込む正解主義から、とにかくやってみてから修正していけばいいという考え方に転換する」

とにかく手を付けてみる。一気に正解に到達しようと考えるのではなく、その都度、修正を加えていき、目的地を見つければいいのではないか。

「だましだまし」「修正主義」。

いずれも「たくみにゆらぐ」という状態とつながっているような気がする。

さらに話はずれてしまうが、藤原氏は、目的地に到達することが全てではないとも言う。

「ある状態になることが幸福だと思い込んでいるけど、実はそうじゃないんじゃないか。向こうに山の頂が見えていて、そこに向かって登っていること自体、今の瞬間から思いが実現していく成長みたいなものが幸福ではないか」

「修正」という過程こそに「生きる幸せ」があるのではないか…。深い。

これは、平川克美さんが近著『小商いのすすめ』で指摘していたこととも、ほぼ同じくする。

「拡大より継続を。短期的な利益よりは現場のひとりひとりが労働の意味や喜びを噛み占めることのできる職場をつくること。それが生きる誇りにつながること」

「利益を生む」という会社の目的よりも、その継続の過程でかみしめる『労働の意味や喜び』ことが大事なことではないのか、という指摘である。

つまり、何のために「たくみにゆらぐ」のか、と問う場合、その「ゆらぐ」行為こそが「生きること」なのではないのか。繰り返すが、まさに落語の世界が表現したいことが、これだったりする。

2012年1月19日 (木)

「不安のままぶら下がって、それに耐える力こそが『教養』だと思うんですよ」

モノへの執着を捨てることを推奨する『断捨離』という言葉があるらしい。コンサルタントのやましたひでこさんが推奨する考え方らしく、その著作も話題ということ。字面は、なんとなく見ていて知っていたが…。そんな意味だったとは全く知らなかった。

先日、たまりにたまった過去の新聞のコピーなどに目を通していたら、去年12月16日の東京新聞夕刊に、そのやましたひでこさんのインタビューが掲載されていた。そのインタビューの中で、東日本大震災を受けて考えたことを話していて、それが少し印象に残ったので紹介してみる。

「震災直後、被災地から遠く離れた人たちが買いだめに走る様子を見て、衝撃を受けました。スーパーに大挙して押しかけ、三日分、四日分の食料や水を買い求める人たち。こうした人たちは、一週間分、一カ月分買いだめしても不安が増幅していくのだと思います。『備蓄』と『買いだめ』は違うのに、どれだけのモノが必要か、分からなくなってしまったのではないか」

震災後に東京をはじめ、日本中で起きた食材や生活必需品などの「買いだめ」「買占め」という現象についての感想である。

やましたさんが指摘する、この「不安心理」について、ボクなりにつらつらと考えていたら、この構造は、多くの人が「老後への備え」としてお金を貯め込むことと、全く同じではないか、と思えてきた。

老後の不安に対して、人々がため込んだ「タンス預金」。これが莫大なため、市場にお金が回らないという話はよく聞く。仕事からリタイアする老後というは、「きっとお金がかかる」「お金がないと病院にも行けない」「お金がないと自分の生活を楽しめない」なんて思って、今、お金を使わずに「老後のもしもの時」に備えて、せっせと「タンス預金」を貯め込む。

その結果、以前、ラジオで聞いた話によると、「親の遺産を受け取る人の平均年齢は、60代の後半」とのことだ。ちょっとショックだった。今や80歳を越えた高齢の親が亡くなり、それを受け取る子供も、その時点で60代の後半になっているというのだ。若い人たちに比べて、高齢者の方々の財布のヒモが堅いことは想像に難くない。つまり、日本社会に存在する「お金」のかなりの部分が、「タンス預金」から「タンス預金」へと移動しているにすぎない。お金は消費にまわることなく、ずっとタンスの中で「もしもの時」を待って額だけ増やしているのだろう。

もちろん老後に不安があるのは分かる。そのための備えも必要になる。でも、やました氏が言うように『備蓄』と『買いだめ』は違うのである。とはいっても適切なお金の『備蓄量』というのは、高齢者にとっても、若い世代にとっても難しいことも確か。そう考えてみながら、いろんな資料に目を通していたら、そうしたお金に関するコメントは、やはりとても多かった。いくつか拾ってみたい。

まずは、ライターの北尾トロさんが自ら編集する雑誌『季刊レポ』(2011年冬号)の 『1年経ったら火の車』という文章の中で、こんなつぶやきをしていた。

「金ってそんなに大事なんだろうか。たくさんの金を得たとして、その金でやりたいことがなかったら銀行口座の数字が増えたり老後の生活に多少の安心感がもたらされるだけでしょ。やりたいことのあるヤツが、やりたいことをやるための資金を手にしたときにその金は生きる。だけど、往々にしてやりたいことのあるヤツには金が回ってこないんだなコレが」(P76)

雑誌編集のお金のやりとりに苦戦する本人から出た「お金」に対する率直な思いなんだろう。

内田樹さんは、近著『呪いの時代』で、お金を貯め込むことについて、こんな文章を載せていました。

「もちろん、老後が心配とかそういうご事情の方もいると思いますけれど、老後の蓄えなら、1億も2億もいらないでしょう。一人の人が大量の貨幣を貯め込んでも、いいことなんかない」

「『自分のところにきたもの』というのは貨幣でもいいし、商品でもいいし、情報や知識や技術でもいい。とにかく自分ところで止めないで、次に回す。自分で食べたり飲んだりして使う限り、保有できる貨幣には限界がある。先ほども言いましたけれど、ある限界を超えたら、お金をいくらもっていてもそれではもう『金で金を買う』以外のことはできなくなる。そこで『金を買う』以外に使い道のないようなお金は『なくてもいい』お金だと僕は思います」
(P172)

なぜ人はお金を貯め込むのか。老後の不安以外にも、いろんな理由があるということ。雑誌『新潮45』1月号には、経済学者の小野善康さんの『「お金への執着」が経済を狂わせる』という文章が掲載されていた。

「お金の数字情報は、もっとも効率よく人びとを幸せにする。数字の桁が上がってくるだけで、巨大な可能性を手にすることができるからである」(P54)

「交換性を保持しながら、我慢して使わないことによってのみ妄想に浸れる。そのため、働いて稼いだお金が物を買うためでなく、貯めることに向けられ、モノへの需要にならない」(P55)

最初に紹介したやましたひでこさんは、震災後におきた『買いだめ』について、同じインタビューの中で次のようにも言っている。

「買いだめをした人たちの中には、『増えたら幸せ、あればあるだけ幸せ』というのは幻想だ、ということに気付いた人もいると思います」

そして内田氏も、お金の「囲い込み」について震災後、同じようなことが判明したと、雑誌『新潮45』12月号の『「宴会のできる武家屋敷」に住みたい』に書いている。           

「いままでの社会システムは基本的に市場原理で動いていました。必要なものはすべて商品の形で提供された。ですから、市民の仕事は『欲しい商品を買えるだけの金を稼ぐこと』に単純化した」


「でも、東日本大震災と福島の原発事故でわかったことは、『金さえ出せば欲しいものが買える』というのは極めて特殊な非常に豊かで安全な社会においてだけ可能なルールだったということです」

 
最後に元外務省官僚の佐藤優さんが著書『野蛮人の図書室』に書いていたフレーズを載せておく。


「もちろん資本主義社会において、失業し、賃金がまったく入ってこないならば生きていくことができない。しかし、自分の必要以上にカネを稼ぐことにどれほどの意味があるのか、よく考えてみる必要がある。少し余裕のある人が困っている人を助けるという行動をとるだけで、日本社会はだいぶ変化するはずだ。それができないのは思想に問題があるからだ」(127P)

 

基本的には、佐藤氏も内田氏と全く同じことを言っている。とはいっても、先の見えない不安にどう耐えるのか。佐藤氏は次のように書く。

 

「『どうしたらいいか?』って問いには、答えを出さずに不安な状況に耐えることが大事だと思う。
回答を急がない。不安のままぶら下がって、それに耐える力こそが『教養』だと思うんですよ」

うん。良いこと言う。「不安に耐える力こそ『教養』」。これはメモしておいた方が良いと思う。

とても文章が長くなっていましたが、我々は震災後の買いだめ状態と同じことが、お金についても起きている。お金と買いだめ、これについて改めて考えてみたりする必要があるのではないか。そんなことを考えたわけです。

 

 

2011年11月25日 (金)

「新しい物に向き合うからこそ、『希望と不安』がこみ上げる」

ときどき「不安」というものについて考えてみたりする。

小さい頃から塾に行って、良い学校に入って、良い大学を卒業して、新卒でよい会社に入って、定年まで面倒をみてもらい、そして余生を退職金と年金で過ごす。高度成長期以降の分かりやすい日本人のライフモデルのひとつは、こんな感じだったのだろう。この流れも社会の「システム」と考えられなくもない。当時は、一度、うまくラインに乗ってしまえば、死ぬまで大きな逸脱もなく、それなりの人生が送られるというもの。ただし、この流れのどこか途中で逸脱してしまった場合には、その先の人生は、このシステムが保障してくれることはなくなる。そして、その多くの人が読めない先行きに「不安」を感じることになるのだろう。

でも本当に「先が見えないこと」、イコール「不安」なのだろうか。先行きがオートマチックに進まないこと全てを「不安」としてしまうことで、それを忌み嫌う風潮が広がっているのではないか。その結果、オートマチックなシステムに依存する傾向が強まっているのではないか。そんなことを考えたりしていた。

雑誌『AERA』の今週号(11/28)の巻頭コラムで、脳学者の養老孟司さんは、放射能の「不安」について書いていた。

「どうも近頃の人は不安になることが権利だと思っていることが気になる。病気が簡単に薬や手術で治らなかった時代、人間にとって不安は当たり前だった。けれども、最先端の医療技術を施せば、ほとんどの病気は治るような錯覚をしがちな昨今、不安は悪となった。不安だから何とかしてください、不安な状況はおかしいと言い出す」

つまり少し前までの社会では、人間は、いつ病気になるかわからないし、いつ不幸がやってくるかはわからないもの「先の読めない」道を進んでいた。「一寸先は闇」そんな時代。でも反対に言えば、時代が勝手に転がることもあり、予定外の幸せや転機がいつでも起こり得たということでもある。そんな時代には、もちろん不安を感じることなく「死」まで運んでくれる安心できるシステムなんて存在しなかった。先が読めない時代は、常に「不安」がつきまとっていた。

テクノロジーの発達とともに、「不安」がなるべくない社会を作り上げてきたのである。その結果、養老さんが言うように、不安が常在しない状態になり、それは「悪」になった。そんな社会で、仮に「不安」を感じた場合、それはあるべきものではないものと考える。きっと「社会が悪いから、システムが悪いから、不安を感じるのだ」という気持ちになり、声高に「誰かどうにかしてくれ」と主張するようになったりする。原因となるものを徹底的に批判する。

養老さんは、次のように続ける。

「人間、生きていれば不安はつきもの。不安を抱えながら生きなければならない生き物で、不安を前に、そのつど選択を迫られる。ようするに、それが大人なのである」

要は、不安から逃げるではなく、どう不安と向き合って、どう不安と折り合っていくのかが、人間(大人)ということなのだろう。

この養老さんのコラムを読んでいて、「不安」がらみで思い出したコメントがある。正確な日にちは失念してしまったが、茂木健一郎さんがツイッターでつぶやいていたものだと思う。

「人生には、不確実性が原理的に避けられない。どんなに賢くて、どんなに綿密な計画を立てても、必ず予想もできないことが起こる。だから、不確実性をいかに抱きしめるかということ」

「『あなたの人生に、いろんな不確実性なことがあると思いますが、これから何が起きるか。それが楽しみですか?不安ですか?』 予想がつかない。だからこそ、希望を持ち、明日を楽しみに頑張っている」

不確実な、先の読めない場面に遭遇したとき、その先の道をドキドキと「不安」に感じるか、ワクワクと「希望」に感じるか。これだけで大きく違ってくる。もちろん、ただ「闇」に突っ込んでいってもだめ。ワクワクと希望を感じるためには、それなりの準備や経験、知識なんかも必要になってくるのだろう。

同じく、茂木さんは、ツイッターの連続ツイート『新しいことに挑戦すると、それだけ濃密な時間を過ごすことができる』(11/15)の中で、次のように述べていた。

「新しいことに挑戦する時には、大人の胸にだってさざ波が立つ。小学生の時の作文には、『希望と不安』という言葉がつきものだったが、新しい物に向き合うからこそ、『希望と不安』がこみ上げる」

つまり「不安」と「希望」は常にセット。トレードオフの関係ではないのである。

また茂木さんは、最新刊『僕たちは美しく生きていけるのだろうか』の中でこんな風にも書いている。

「『身を捨ててこそ、浮かぶ瀬もあれ』という『空也上人絵詞伝』の言葉もある。生きるということは、つまり、自分がどうなってしまうかわからない、ということを受け入れることである。自分がどうなってしまうかわからない。それでも構わない。と受け入れて前に進むことによって初めて、切り開かれる道がある」

つまり、そういうことなのだそうだ。

今回、書いていて気付いたのだが、この文章のなかの「希望と不安」というフレーズを、「チャンスとリスク」に置き換えても成り立つ。社会にまんえいする「リスク回避」のコンプライアンス信仰に対する見方としても成り立つわけだ。それについては後日、書いてみよう。

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