長期的視点

2013年8月29日 (木)

「完璧は求めず、とにかくやってみて、ダメなら直せばいいさ」

きのう紹介した作家の島田雅彦さんのインタビューを、もう一度、取り上げてみたい。

「会社の業績悪化や家族の病気など、人にはいや応なく別のニッチを探さなければならない場面がでてきます。どう対応できるか、自分をどう更新できるかで、その人の生き方が分かれると思う。この覚悟を持っているかどうかは大きい。東日本大震災を意識ました」 (毎日新聞夕刊8月13日) 

きのうは、「ニッチ」という言葉に注目してみた。今日は、そのあとに出てくる「更新」という言葉に注目してきたい。 

このブログでも、これまで、これから必要なのは「“変えること”よりも、絶え間なく“更新”を繰り返すこと」というようなことを書いてきた。(2011年11月24日のブログなど 

先の読めない未知なことが続く、世の中では、自分だけでなく、企業や家族など他者の事情で息詰まったり、これまでに居場所がなくなってしまうことも起きうる。しかし、そんな中でも生きてくためには、自分を少しずつ合わせていくしかないのだろう。それを「更新」という言葉をつかった。 

ただ改めて紹介するが、脳学者の養老孟司さんは、次のようにも言っている。日経ビジネスオンライン(2012年2月10日)から。(2012年3月8日のブログ 

「一気に更新しようというのではなく、『だましだまし』やるという姿勢は大事なことだよ」

今日は、そんな「更新」という考えにつながるような言葉を改めて紹介してみたい。 

まずは、きのうの朝日新聞(8月28日)に掲載されたイビチャ・オシムさんのインタビューから。 

「私が思うに、あなた方はあまりに早く考えを変えすぎる。誰かがいいプレーをしていると判断したら、即座に同じようにやろうとする。しかし終始変え続けることはできないし、常に前進を試みるだけでなく、ときには一歩退くことも必要だ」 

劇作家の鴻上尚史さん著書『コミュニケイションのレッスン』から。 

「人間は一瞬では変わりません。特に、身体が変わるには時間がかかります。けれど、その時間が、その人本来の時間なのです」 (P284) 

また社会学者の中島岳志さんは、著書『「リベラル保守」宣言』で、少しずつ変えていくこと本来の保守のやり方だと書いていた。

「例えば、優れた老舗は、過去や現状に対する頑迷な固執を捨て、伝統に依拠した斬進的改良を進めていきます。もちろん同じモノを作り続けることは重要です。しかし、時に新しい試みを取り入れ、時代の変化に対応することも重要です」 

「このチャレンジは、新しいものに見えて、まったくの新しいものではありません。表層的な新しさの深部には、歴史的に積み重ねてきた技法が潜んでいます。先代から受け継いできた無形の伝統が内在しているからこそ、新しい挑戦が可能になるのです」 (P38) 

今年亡くなった精神科医のなだいなださん東京新聞夕刊(6月10日)に紹介されていた言葉も載せておきたい。

「完璧は求めず、とにかくやってみて、ダメなら直せばいいさ」 

なださんの「とりあえず主義」には、心から共感する。まずは、とりあえずやってみて、少しずつ「更新」していく。 

上記に紹介したブログ(2012年3月8日)でも紹介しているが、藤原和博さんの言う「修正主義」もまったく同じことなんだと思う。

「(今の教育界や、日本全体を覆っている)正解主義は『修正主義』に。つまり『こうするのが正しい』とたった一つの正解があると信じ込む正解主義から、とにかくやってみてから修正していけばいいという考え方に転換する」毎日新聞夕刊2012年2月29日より

自分でスペース・隙間を見つめ、そこでとりあえずやってみる。そして少しずつ更新・修正を加え、繰り返しながら、新しいルールを見つけていく。やはり、そんな姿勢が必要な気がする。

 

2013年6月 5日 (水)

「私たちの想像力は今や完全に『経済成長』によって植民地化されてしまい、社会の問題は成長によって解決されると信じ込んでいる」

きのう、いつも使っているPCが壊れた。復旧しないと色んなメモが残っているファイルが消滅してしまう。かなりピンチ。気を取り直して、別のPCを使って書いてみる。

昨晩、サッカー日本代表が5大会連続のW杯出場を決めた。今朝、記者会見にのぞんだキャプテン長谷部誠選手は、次のように語っている。

世界で勝つためには、もっともっと成長しないといけないと痛感しているので、ワールドカップに向けて成長度を上げていきたい」

一方で、安倍総理は今日、成長戦略の第3段を発表したようだ。あっちでもこっちでも「成長!成長!」といった感じ。

そこで、せっかくなので手持ちのメモ帳に残っている。「成長」についての言葉を並べておきたい。まずは、きのうの朝日新聞夕刊(6月4日)に、フランスの経済哲学者のセルジュ・ラトゥーシュ氏がインタビューに答え、「脱成長の必要」を語っていた。

「私たちの想像力は今や完全に『経済成長』によって植民地化されてしまい、社会の問題は成長によって解決されると信じ込んでいる」

「日本の例が示しているのは、経済成長至上主義の社会のままで低成長になると、人が生きていくのに厳しい社会になるということ。結局、経済だけでは問題は解決しない」

これからは人口も減るし、資源も枯渇する。なのに、これまでと同じように成長を求めることはムリがあるのでは。誰でも分かりそうなものだけど。そういえば3月のIOC評価委員会の歓迎スピーチで、安倍総理「より速く~!より高く~!より強く~!」と唄っていた。なんだか時代遅れのフレーズに聞こえたのはボクだけではないと思う。

ラトゥーシュ氏は、次のようにも語っている。

「もはや私たちは問題を『知らない』のではない。ある哲学者の言葉を借りれば、『知っていることを信じようとしない』のです」

佐賀県唐津市の農民作家、山下惣一さんの言葉。朝日新聞(5月16日)から。

「経済成長するほど、農業や地方が疲弊してきたのがこれまでの歴史です。自然を相手にする農業は成長してはいけない。去年のように今年があり、今年のように来年があるのが一番いい。私たちはこれを安定といい、経済学者は停滞という」

地域エコノミストの藻谷浩介さん著書『藻谷浩介さん、経済成長がなければ僕たちは幸せになれないのでしょうか?』から。

「成長せずともトントンであればストックが維持できるかもしれません。事実、ここ20年の日本がそうです。成長せずにどんどん他国に抜かされていると言う人がいますが、実際外国に住んでみれば、いかに日本が恵まれた状態か痛感しますよね」 (P82)

安定して、ストックが維持できているのに、それを「停滞」と捉える。まさに「成長目線」。「マイナス成長」という言葉だってそう。マイナスなのに「成長」、まったく意味が分からない。

哲学者の内山節さん朝日新聞(3月13日)から。

「貨幣経済に染まった戦後的惰性なんでしょう。貨幣を増やせば生活が豊かになる、成長すれば何でも解決できるという古い意識にとらわれている人たちが、内輪で同じことを言いあっているうちに、それが真理のように思えてくる」

安倍政権の成長戦略というものを見ても「成長すれば何でも解決できる」という幻想からは抜け出せていない。

そもそも「経済成長」以外は「成長ではない」と捉えないという風潮が問題なのではないか。同じ「成長」という言葉でも、サッカーでの成長と、経済での成長は当然ながら違うものである。

では経済以外の成長とは・・・。フランスの経済学者、ダニエル・コーエン氏朝日新聞(1月18日)から。

「人間が成長のない世界に向かうとは考えにくい。しかし、今までとは本質的の異なる、理にかなった成長を、目指さざるをえない。たとえば知識の成長だったり、医療の成長だったり・・・。いずれにしても物質的ではない成長だ」

巨匠のノーム・チョムスキー氏著書『アメリカを占拠せよ!』から。

「成長とは、たとえば、よりシンプルな生き方をする。より暮らしやすいコミュニケーションを築くといたことです。そのためには努力が必要になる。ひとりでに実現するようなものではない。違ったタイプの労働も求められるのです」 (P115)

「買えるものを最大限に買うのではなく、人生にとって価値あるものを最大にすることを基盤とした生き方。それもやはり成長です。別の方向へと向かう成長なのです」 (P116)

チョムスキー氏の言葉から思い出したのが、脚本家の倉本聰さんの言葉。東京新聞(1月1日)から。

「家族で言えば、家の中に電化製品が増えてくるたびに、バラバラになった」

経済成長を追い続け、買えるものを最大限に買い続けた結果、社会も、家族も、個人もバラバラになり、空洞化していったのかもしれない。

最後に、ジャズ演奏家の菊地成孔さんの言葉を。@niftyビジネスの『プロフェッショナル・ビジネス・ピープル』(2011年4月25日)から。

「絶対的な成長があるとしたら、生物学的なものだけ。すなわち加齢です。問題は、加齢に対してアゲインストするかどうかです。若くありたいという人がたくさんいるけど、老けていくのはいいことだと僕は思ってます。だって、『老け』くらいしか成長の痕跡がないわけだから。若者からおっさんへ、おっさんからおじいさんへと徐々に変わっていく。それでいいじゃないかと」

この考え方は、非常に深いものだと思う。社会にしろ、個人にしろ、加齢、すなわち齢を重ねていく過程で、徐々に変わっていくものを受け入れ、結果として視野や関係が広がっていくことが「成長」なのではないか。決して、金銭やランキングという数値のアップだけが「成長」ではない、ということではないか。

2012年8月29日 (水)

「目先の勝利だけに目を奪われることなく、子供の成長を長い目で見られるかどうかだ」

きのうの少年野球の続きの話である。


きのうも紹介した雑誌『サッカー批評』(57号)の『子供がサッカーを嫌いになる日』には、ベンチで怒鳴ってばかりいる指導者のことが書かれている。しかし、こうした指導者の裏側には、結果ばかりを求める親の問題があることも指摘されている。あまりにも勝敗や数字ばかりにこだわり、一喜一憂する親たちの追及を受けた結果として、指導者も子供のことを考えるよりも結果を追い求めてしまうようなのである。

 

サッカーライターの鈴木康浩さんは、次のように書いている。

 

「ジュニア世代に指導者に大事なことは、目先の勝利だけに目を奪われることなく、子供の成長を長い目で見られるかどうかだ。子供が将来プロになる、ならないに関係なく、サッカーから学んだことを武器に、たくましく社会を生き抜ける人間に育てられるか、どうかが、育成に携わる指導者の本当の勝負ではないだろうか」

 

親や指導者が「目先の勝利だけ」に目を奪われた結果として、子供がロボットのようになり、成長を阻害しているというのだ。もっと「長い目」で見守ることが必要という当たり前の話でもある。

 

「目先の勝利」。目先のことばかりに踊り、長い目で物事をみられないのは、少年スポーツの世界だけではなく、政治を含めた今の日本社会での強い風潮なのであろう。その辺の言葉を並べてみたい。

 

社会学者の宮台真司さんは、対談集『増税は誰のためか』の中で、政治家について次のように話している。

 

「政治家は、選挙を考えますよね。短期・長期を分離して考えた時、『長期的にはいいけれど、短期的には苦しむ』という選択肢よりも、『長期的には苦しむけれど、短期的にはいい』という選択肢を提示したほうが、票はとれますよね。『長期的に渡って利益になるサスティナブル(持続可能)な戦略は何なのか』ということではなくて、『選挙に通るための政策は何か』という方向にバイアスがかかることが多いのではないでしょうか」(P154)

 

こうした短期的な結果を求める風潮については、以前の当ブログ(4/24)でも書いている。こうした風潮は、どこから来るのだろうか。思想家の内田樹さんは、ツイッター(7/25)で次のように書いている。

 

「政権を委ねてから成果が出るまでのタイムラグ(ものによっては5年10年またねばなりません)が耐えられない。レジでお金を出したら、『お品物は5年後に配達されます』と言われた買い物客のようなフラストレーションを感じます。『すぐに結果を出せ』という定型句は『お客さま』の苛立ちなのです」

 

この指摘から考えると、どうも日本国民総「お客さま」現象が起きているようである。

 

きのうも取り上げた湯浅誠さんの『ヒーローを待っていても世界は変わらない』にも、こんな指摘がある。

 

「十全に機能していないから一気に取り替えてしまおう、バッサリやってしまおうという心理には、焦りを感じます。それは一つひとつ積み上げながら改善していくことを『待ってられない』という焦りです。注文したときに感じる消費者の焦り、不具合が生じたら手直しをするより、買い換えた方が手っ取り早いという消費社会の焦りに通じるものです」

 

「そこに飛躍が生まれます。一商品とは異なる政治・社会システムを、一商品と同じ見方で見る飛躍、そこで翻弄される人々の生命と暮らしを軽視する飛躍です。私はそれを『ガラガラポン欲求』と読んできました。待てない消費者心理とても言うべきものです」(P66)

 

このブログにも、何回か書いてきたと思うが、すっかり隅々まで行き渡った「消費社会」に根付く「消費者心理」。全てのものを「消費活動」と同じに捉える風潮は、相当やっかいなものになっている気がする。

2012年8月28日 (火)

「その元気を生むのは、『数字や結果にとらわれてないところ』だと僕は思う」

子供の夏休みが終わった。色んなイベントに付き合っていたら、あっという間に夏休みが終わった感じ。しばらくご無沙汰してしまった文章もどんどん書いていきたいと思う。

うちの子供は、今年から地元の少年野球に参加している。毎週末、練習や試合に臨んでいる。特別うまいわけではないが、仲間との野球を楽しんでいるようだ。

度々、その試合を見学していて、気付いていたことがある。そのひとつが、コーチや親といった大人たちによる、子供たちへの不思議な態度のことである。ベンチにいるコーチや親は、ゲーム中の選手たちに色んな指示や指摘をする。まあ、そうだろう。でも、その内容があまりに「マイナス」な指示ばかりで正直、驚いてしまったのである。「何でそんなボールを打つんだ!」「リードが足りない!」「もっと飛び込め!」など、子供ができないことを立て続けに大きな声で指摘していく。時には怒気を含んだような声で。選手たちを励まし前向きな気持ちにさせたり、リラックスさせたりするような意図はあまり感じられない。とにかくできなかったこと、失敗したことを指摘し続けるのである。何かあるとベンチをおびえた目で見ている選手が何人もいた。少なくとも、その瞬間は野球をやっていて楽しそうではない。

ボク自身は、子供の頃の公園での野球と社会人になってからの草野球くらいしか野球経験はない。ちゃんとした野球の世界では、「マイナスの指示」は昔からの常識なのかもしれない。でも練習中ならいざ知らず、試合中に子供を萎縮させてしまっては逆効果なのでは。

実はボクが先日、参加させられた少年野球の審判の講習会でも、そうだった。こっちは初体験で素人。ルールや用語を覚えるのだけで必死なボクのような者に対して、「教師役」の先輩審判たちは、出来ていないことについての指摘を次々と容赦なく投げかけてくる。

「できたことを褒めるより、できないことをとにかく叱る」。これが、子供たちの試合、審判の講習会と両方に共通することだと思った。ボクが子供なら、野球を続けたくなくなるかもしれない。正直、そうも思った。

そんなことを考えていたら、競技は違うけど、『サッカー批評』(57号)に似たような指摘をする文章があったのを思い出した。それは、サッカーライターの鈴木康浩さんが書いた『子供がサッカーを嫌いになる日』という記事。その中には、こんな言葉が紹介されていた。

「昔からベンチで怒鳴って子供をロボットのように扱う指導者はいました」

「子供は何が正しいのかが分からなくて、まったく理解ができずに大人の顔色を気にしてプレーしている。楽しいわけがない

そうやって、サッカーを楽しめなくなった子供たちが多いという。

「子どもたちにはふざけさせてあげる」

「練習する上では非効率なんだけど、普段の状況を考えれば、この子供たちの成長を考えれば、そういう会話も必要」

子供が成長したり、次のステージに上がっていくためには、非効率であっても「ふざけること」も必要という。

スポーツをやる意義には、「勝負の結果」以外にもいろんな要素がある。楽しむこと。上手になっていくこと。仲間との交流などなど。

もちろん「勝つこと」も大事だが、それだけでは悲しい。なのに、周りの大人たちは「勝負の結果」ばかりを求めがちになる。子供が、その世界で伸びていくためには、時には「ふざけること」だって必要なのだ。

スポーツとは別の世界だけど、この記事を読んでいてつながった文章があったので紹介したい。東京・自由が丘で「ミシマ社」という出版社をやっている三嶋邦弘さん。その著書『計画と無計画のあいだ』で、こんなことを書いていた。

「会社をやっていれば、いいときもあれば悪いときも当然のごとくある。その悪くなったとき、全員がドヨーンとした顔で『ああ、ああぁ・・・』と地の底から響いてくるようなため息をついていては、チームの士気は下がる一方であろう。そんなときこそ、『元気』が必要とされる。元気は元気なときよりも、元気じゃないとき、真に必要なものなのだ。そして、その元気を生むのは、『数字や結果にとらわれてないところ』だと僕は思う。いってみれば、『遊び』の部分だ」(P120)

そのまま、少年野球やサッカーにも通じるコメントだと思う。スポーツの世界も、どんなに練習して努力しても結果が良いときも悪いときもある。失敗した時こそ、「元気」になる指示やコメントが必要なのだ。それなのに「マイナスの言葉」ばかり履いていては、チームの士気は下がる一方であろう。

「ふざけること」や「遊び」の部分がないと、我々は成長できないということ。これは、更に飛躍すれば社会そのものにも通じることのようだ。こんな文章もあった。日本在住の政治学者C.ダグラス・ラミスによる『経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか』には、こんな文章が載っていた。

「アリストテレスが書いていたことですが、民主主義の必要条件は社会に余暇、自由時間があるということです。余暇がなければ、民主主義は成り立たないと。人が集まって議論したり、話し合ったり、政治に参加するには時間が掛かる。そういう暇がなければ政治はできないのです。政治以外にも人は余暇で文化を作ったり、芸術を作ったり、哲学をしたりする、とアリストテレスは言いました。けれども政治的に言うと、そういう勤務時間以外の時間があって初めて、人が集まり、自由な公の領域を作ることができる、そういう考え方だった」(P188)

社会のなかで民主主義を進めていくためにも、「余暇」や「自由時間」が必要なのである。

全く同じことを、活動家の湯浅誠さんも『ヒーローを待っていても世界は変わらない』で指摘していて興味深い。

「私は最近、こう考えるようになりました。民主主義とは、高尚な理念の問題というよりはむしろ物質的な問題であり、その深まり具合は、時間と空間をそのためにどれくらい確保できるか、というきわめて即物的なことに比例するのではないか」

「私たちの社会が抱えている問題はそれぞれ複雑で、一つひとつちゃんと考えようとすれば、ものすごく時間がかかります。一番簡単なのは、レッテルを貼ってしまうことです。一度レッテルを貼ってしまえば、それ以上考える必要がない」(P85)

少年野球の話から、ついつい飛躍してしまったが、スポーツだろうと、ビジネスだろうと、民主主義だろうと、「遊び」が必要ということなのだ。「遊び」や「自由な時間」によって、ストックを増やしたり、自分の本来の立ち位置を確認したりする。そうしたいと社会の中の市民の目が死んでしまうのではないか。日本社会の閉塞感は、このあたりに起因しているのではないか。

少年野球に話を戻せば、湯浅さんが指摘するように野球の世界だって複雑な世界であるはず。マイナスなことだけに目を向け、レッテルを貼るのではなく、それぞれの大人が考えて、選手たちが「自立」していくことを支えることが大事なのではないだろうか。

 

2012年7月 7日 (土)

「自分より相手を幸せにする人が、最後は一番幸せになるのだ」

さらにさらに追加分その③。

先日の文章(7/3)には、宮台真司さんの「他人を幸せにする人間だけが幸せになる」というコメントを紹介した。それにからんだ言葉も見つかったので、こちらも追加して載せておきたい。

 

フェラリーなどのデザイナーを務め、今は地元山形を拠点などに活躍する奥山清行さんというデザイナーがいる。その奥山さんの書籍『ムーンショット デザイン幸福論』に彼のデザインに関する話しながら、こんなフレーズをみつけた。

 

「自分が仕事する上で大事にしているのは『自分より相手の方が幸せになる』ということ。幸せという言葉が大げさなら『自分よりも相手の方が得るものが多い』と言い換えてもいい。これは僕らの仕事の最大の前提条件だ


「目先の損得にこだわり、相手に得をさせるのがマイナスだと考えている人は、瞬間的には恵まれることもあるかもしれないが、長期的には必ず損をする。自分より相手を幸せにする人が、最後は一番幸せになるのだ

 

まさに宮台さんのいいたことと全く持って重なっている。

さらに平川克美さんの『移行期的混乱』という本にも興味深いフレーズであったので紹介したい。

 

「リベラルという言葉は英和辞典で見ると、『自由な』という意味は四番目にしか出てこないの。一番目は『気前がいい』なんですよ。二番目の意味が『たっぷりある』、三番目が『寛容である』と。その四番目に『自由主義の』とか『自由な』って出てくる

 

「『人にふるまっていやる自分こそが自由だ』っていうような広々としたものだったんだと思います」

 

ということである。「人を幸せにする人間」は幸せでもあり、リベラルでもあるのである。

 

2012年7月 6日 (金)

「震災を知らない次の世代のため、体で感じられる記憶として残したい」

先週土曜日(6/30)の新聞夕刊各紙に、宮城県石巻市の道路に横倒しになった「巨大缶詰」の撤去が始まったというニュースが写真入りで取り上げられていた(東京新聞は翌日朝刊)。特に朝日新聞は「津波の傷 保存か撤去か」という見出しで、他よりも少しスペースを割いて、東日本大震災の各被災地で、こうした津波被害の「遺構」が消えつつあることをまとめて伝えていた。


ボクも、現地を訪れた際に、石巻の巨大缶詰や、気仙沼の陸地に打ち上げられた大型漁船、南三陸町の防災対策庁舎などは実際に眼にした。巨大缶詰や大型漁船は、海岸線から何百メートル離れた陸地にある不自然さと、その大きさにやはり驚き、津波の力の大きさを見せられた気がした。

 

しかし、この石巻の巨大缶詰は撤去されてしまうのである。解体した鉄材は、テーブルや椅子などにして、工場に置く予定とのこと。巨大缶詰の所有者「木の屋石巻水産」副社長の木村隆之さんは、朝日新聞に次のように答えている。


「震災を知らない次の世代のため、体で感じられる記憶として残したい」

 

この副社長さんのコメントは非常に理解できるものである。この「巨大缶詰」もそうだが、他の地域で撤去の進む「遺構」についても、その理由は「心が痛む」という被災者の声に押されてとのこと。

 

でもボクはやはり、そのまま残して欲しい、残すべきだとする側に与したい。もちろん実際に被災した立場でもないので、気軽に言わないでと言われそうだけど。前提として、今の被災者たちの思いは理解できるし、最大限汲み取ってあげたい。その一方で、次の世代が同じ惨事を繰り返さないためにも、こうした被災の記憶は様々な形で何とか残していくべきではないかと思う。

 

先日読んだ、朝日新聞の南三陸駐在の記者である三浦英之さんがまとめた書籍『南三陸日記』という本には、昔の津波で被害を受けた人たちは、いろんな方法で次の世代に事実を残すようにしていたとのことだ。

 

「海から3キロ離れた水尻川の上流に『大船沢』という集落がある。『津波で大きな船がここまで流されてきた』という警告を先陣が地名に刻んだと伝えられている。地名だけではないメディアが未発達だった時代、人々は津波の教訓をなんとか子孫に残そうとした」

 

「歌津地区の千葉光一さんの母親の名前は『なみ』だった。1969年の明治三陸津波のとき、妊娠中だった祖母のくらさんは、隣の浜まで流された。家に戻ると、くらさんの母親と子2人が亡くなっていた。一家は悲しみのなか、半年後に生まれ娘に『なみ』と名付けた。子孫が津波の対策を怠わらぬよう、あの日の海を忘れぬように、と」(P196)

 

6月24日にNHKのEテレで放送した『ETV特集 飯舘村一年』というドキュメンタリー番組。その中で、原発事故直後に飯館村から福島に避難した若い夫婦が取り上げられていた。この夫婦は、もともと飯館村で農業を営んでいた。そして事故の2週間後、避難先で男の子が産まれる。その男の子に夫婦は「安土(あど)」という名前を付けたのである。願いを込めて。


28歳の母親は、次のように話していた。

「この子たちが大きくなったときに安心な土に、土のある飯館村に帰ってこられたら良いなっていう。やっぱり思って。それを名前にされるのも迷惑かなとも思ったんですけど。でもそういう願いも込めつつ。こんな時に生まれてくる子どもだから」 


今の風潮として、少しでも「傷」になること、不快なこと、思い出したくないことを丸め込んで、なるべく忘れようとすることがあると思う。もっと言えば、なかったことのようにしようというくらいに。だが、もちろんそうした今の人たちの感情も大切なんだろうけど、その一方で現実に眼を向けて、次の世代の人たちが言い伝えることも大切なのではないか。

 

自分たちにとって、少しでも嫌なことを丸め込んで「忘却」することを、次の世代に伝承することより優先しているのを見ていると、ここにも前回も書いた藤原和博さんの言う「現世利益の宗教」が顔をのぞかせているのではと思えてくる。

 

嫌なことを丸め込む、ということでは、こんな記事もあった。6月14日の毎日新聞夕刊によると、大阪の橋下市長は、大阪人権博物館「リバティおおさか」の補助金を今年度限りで打ち切ることを決めた。この人権博物館は、これまであった差別など、人権問題についての研究、公開資料に取り組む全国唯一の博物館である。差別などが2度と繰り返されないようにというのが、その意図だろう。橋下氏は知事時代から「差別・人権などネガティブな中身だ」「子供が夢を持てる施設に」と、否定的な発言を繰り返す。そして、必要ないとばかり補助金の打ち切りを決めてしまったのである。

 

また「四日市ぜんそく」で知られる三重県四日市市では、公害や訴訟をめぐる資料を保存し、後世に残すために「公害資料館」を作ることが計画されているが、この資料館の名前の「公害」が悪いイメージを持つということで住民がいやがり、立地場所が決まらないとのことだった。

毎日新聞の記事には、黒田征太郎さんの以下のコメントが載せられていた。

「誤解を恐れずに言えば、人間は差別する生き物だと思う。社会は人間が、そう自覚することで良くなるんです」

 

博物館や資料館が「暗いもの」ではいけないのだろうか。それを丸め込んで、明るいイメージにすることが必要なのだろうか。保存したり伝承したりしなければいけないものには、当然、明るいものだって、くらいものだってある。でもアーカイブとして後世に残す必要があるから、博物館や資料館を作るのではないだろうか。それを丸め込んでしまっていいのだろうか。

 

黒田さんの言うとおり、たぶん同じ事を繰り返してしまうのが人間なんだろう。津波による被災、公害、差別…。いつか過去を忘れて過ちを繰り返してしまうのかもしれない。でも過ちをなるべく起こさないためにも、今、例え、それが「不快」であっても、ちゃんと見つめ、自覚しして、残すものは残す。これが今を生きる人の使命だとも思うのだが・・・。

 

何だか偉そうなことを書いてしまったが、メディアの世界にも、口触りの良い、当たり障りのない、丸め込んだ作品が増えていることも、同じことなのだと思う。

2012年4月24日 (火)

「短期的には苦しくとも価値を創造していこうというのが日本にはない」

フランスの経済学者、ジャック・アタリ氏による今週の毎日新聞朝刊(4/22)のコラム『時代の風』を読んだ。日本の最大の弱点は総理が短期間で替わりすぎることという指摘をした上で。次のように述べている。

「資源の乏しい日本がバイオテクノロジーやロボット技術、ナノテクノロジーで世界一の座に上り詰めたのは、かつて長期的なビジョンを持っていたからだ。しかし、日本は短期的な利益を目指すようになりつつある」

「日本は長期的な視点で物事を考えなければならない」

ここ数年のように、総理がわずか1年くらいという短期間でクルクル替わっていては、長期的な取り組みが出来ない。これが日本の凋落の原因の一つだ、という指摘である。

短期的な視点、すなわち近視眼的な風潮がハビこっているというのは、アタリ氏が指摘する政治の世界だけではない。最近たびたび引用させてもらっているが、建築家の隈研吾さんは、日経ビジネスオンライン(2/2)で次のようなコメントをしている。

「長期的な視点は、今の日本で最も欠落しているものです。例えば、選挙で当選した参議院議員が任期中に考えるのは、次の選挙のことでしょう。それって長くて6年です。それと、役人のポジションは、ほとんど2~3年で替わっていきます。もし長く考える役人がいても、せいぜい自分の定年まで。しかも彼らの実質的な定年はだいたい50歳ぐらいですから、どんなに長く考えたとしても20年くらいなんです。それ以上長い時間軸で考えている人って、日本の中枢にほとんどいないんじゃないかな」

特に隈さんがメイン・フィールドとする建築業界については。こんな興味深い指摘も。

「日本の行政システムが1年間で予算を消化しなきゃならないから、今の時代の建築に関わるすべてのことは、全部1年単位になっています。その年度の予算というのを前提にして、建物の規模が決まってくるから、『国家百年の計』で建築を考えている人なんて誰もいないですよ。当然、建物の設計もその年度で終わらなきゃいけない、ということになっています」

政治の世界、そして役人の世界が近視眼的になることによって、実際、建築にも大きな影響が出ている。同じようなコメントは、思想家の内田樹さんもしていたのを見つけた。去年12月25日に毎日放送で放送された『辺境ラジオ』というラジオ番組の中でのコメント。

「ビジネスマンって結局、四半期で考えているんだよね。四半期の決算のことでね。三ヶ月単位くらいでしか考えていないの。今期のもし業績が悪化したら、もうその次はないんだ。今は、三ヶ月間生き延びるしかないんだ・・・。政治家は、次の選挙・・・」

ビジネスの世界における物事のスパンが、どんどん短くなっているということは、ボク自身にも強い実感がある。かつてボクが働いていたラジオの世界でも、20年弱くらい前は、その番組が定着して、さらに結果を出すためには「4年くらい」は掛かると言われていた。その間、現場では修正を繰り返しながら、番組を大事に育てていく。やがてやってくるブレークスルーを信じて。経営など幹部たちは、時々は口を出すが、2~4年くらいは「待ってくれた」のである。それが、どんどん短くなっていく。今ではラジオの世界でも、1年我慢してくれればいい方なのではないか。1~2年経って、結果が出ないと番組が変えらてしまう。かたやテレビの世界なんて、1クルー、3ヶ月単位で番組がクルクルと変わっていく。またスタッフなど人事面の異動でも、もう1~2ヶ月単位でクルクルかわってしまう。とにかく「待てない」のである。

どんどん日本が近視眼的な社会になっているということなのだろう。短い期間の損得だけで物事を考えることを「打算的」とも言う。打算的な手当をしか行えない社会というのは、果たして何を失っていくのであろう。

社会学者の宮台真司さんが、去年12月7日に東京・恵比寿で行ったトークイベントで、彼が話した言葉を記したメモが残っていたので、そのコトバを紹介してみる。

「ドイツでは原発を止めることで電気代が高くなるマイナスを負いながら価値を発信している。短期的には苦しくとも価値を創造していこうというのが日本にはない」

「価値を共有することを私たちはないがしろにしすぎている」

短期的には苦しい状況があっても、それを長期的に乗り越えることで、社会の中に新しい価値が生まれることがあるという指摘である。残念ながら、今の近視眼的な日本社会では、こうしたことは出来ないことになる。つまり、現在の近視眼的で、打算的な風潮が強まれば強まるほど、社会の中で「価値が共有されること」がないがしろにされ、ますます「価値の分断」が進んでいくということになるのだろうか。

2012年3月 8日 (木)

「『だましだまし』やるという姿勢は大事なことだよ」

前回の続き。では「たくみにゆらぐ」というのは、どういうことなのか。

生物学者の福岡伸一さんの著書に『動的平衡』という本がある。「生命とは動的平衡にある流れである」というもので、生物は常に変化し、自らを更新することで「細胞の中に必然的に溜まるゴミ=エントロピーを捨て続け」、現状を保っていくというのが「動的平衡」という考え方である。

この考え方は、鴨長明『方丈記』の「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし」に通じる。

この常に変化している状態、常に更新している状態のことこそ、きっと内田樹氏が言う「たくみにゆらぐ」ことなのではないか。

宮崎駿さんによる『風の谷のナウシカ』の最後の方(第7巻)で、ナウシカも次のように語っている。

「生きることは変わることだ。王蟲も粘菌も草木も人間も変わっていくだろう。腐海も共に生きるだろう」

ボクが旧来思っていた「大人の定義」では、「けっして変わらないもの」が大人の条件だった。大人というものは、自分の意見をころころ変えるものではない、というような風潮は確かにある。でも「コロコロ変える」のではなく、「たくみに変える」ということである。

すこし話は飛ぶ。

日経ビジネスオンラインにアップされていた脳学者の養老孟司さんと、建築家の隈研吾さんとの『「ともだおれ」思想が日本を救う』(2月10日)という対談で2人は、東日本大震災の復興について次のように語っている。

養老「一気に更新しようというのではなく、『だましだまし』やるという姿勢は大事なことだよ」

隈 「『だましだまし』の気持ちで復興を地道にやっていけば、その過程で新しいテクノロジーだって入り込む余地もできるし、一歩ずつゆっくり補強されていく。そういう方法論でやっていかなきゃいけないと思うんですけど」

東北の復興にからめて、この2人は「一気に変える」のではなく、「だましだまし」変えるのが大事だと説く。

杉並区の元和田中学校長の藤原和博氏は、「修正」という言葉を使う。毎日新聞夕刊(2/29)のインタビューで、次のように語っている。

「(今の教育界や、日本全体を覆っている)正解主義は『修正主義』に。つまり『こうするのが正しい』とたった一つの正解があると信じ込む正解主義から、とにかくやってみてから修正していけばいいという考え方に転換する」

とにかく手を付けてみる。一気に正解に到達しようと考えるのではなく、その都度、修正を加えていき、目的地を見つければいいのではないか。

「だましだまし」「修正主義」。

いずれも「たくみにゆらぐ」という状態とつながっているような気がする。

さらに話はずれてしまうが、藤原氏は、目的地に到達することが全てではないとも言う。

「ある状態になることが幸福だと思い込んでいるけど、実はそうじゃないんじゃないか。向こうに山の頂が見えていて、そこに向かって登っていること自体、今の瞬間から思いが実現していく成長みたいなものが幸福ではないか」

「修正」という過程こそに「生きる幸せ」があるのではないか…。深い。

これは、平川克美さんが近著『小商いのすすめ』で指摘していたこととも、ほぼ同じくする。

「拡大より継続を。短期的な利益よりは現場のひとりひとりが労働の意味や喜びを噛み占めることのできる職場をつくること。それが生きる誇りにつながること」

「利益を生む」という会社の目的よりも、その継続の過程でかみしめる『労働の意味や喜び』ことが大事なことではないのか、という指摘である。

つまり、何のために「たくみにゆらぐ」のか、と問う場合、その「ゆらぐ」行為こそが「生きること」なのではないのか。繰り返すが、まさに落語の世界が表現したいことが、これだったりする。

2012年1月19日 (木)

「不安のままぶら下がって、それに耐える力こそが『教養』だと思うんですよ」

モノへの執着を捨てることを推奨する『断捨離』という言葉があるらしい。コンサルタントのやましたひでこさんが推奨する考え方らしく、その著作も話題ということ。字面は、なんとなく見ていて知っていたが…。そんな意味だったとは全く知らなかった。

先日、たまりにたまった過去の新聞のコピーなどに目を通していたら、去年12月16日の東京新聞夕刊に、そのやましたひでこさんのインタビューが掲載されていた。そのインタビューの中で、東日本大震災を受けて考えたことを話していて、それが少し印象に残ったので紹介してみる。

「震災直後、被災地から遠く離れた人たちが買いだめに走る様子を見て、衝撃を受けました。スーパーに大挙して押しかけ、三日分、四日分の食料や水を買い求める人たち。こうした人たちは、一週間分、一カ月分買いだめしても不安が増幅していくのだと思います。『備蓄』と『買いだめ』は違うのに、どれだけのモノが必要か、分からなくなってしまったのではないか」

震災後に東京をはじめ、日本中で起きた食材や生活必需品などの「買いだめ」「買占め」という現象についての感想である。

やましたさんが指摘する、この「不安心理」について、ボクなりにつらつらと考えていたら、この構造は、多くの人が「老後への備え」としてお金を貯め込むことと、全く同じではないか、と思えてきた。

老後の不安に対して、人々がため込んだ「タンス預金」。これが莫大なため、市場にお金が回らないという話はよく聞く。仕事からリタイアする老後というは、「きっとお金がかかる」「お金がないと病院にも行けない」「お金がないと自分の生活を楽しめない」なんて思って、今、お金を使わずに「老後のもしもの時」に備えて、せっせと「タンス預金」を貯め込む。

その結果、以前、ラジオで聞いた話によると、「親の遺産を受け取る人の平均年齢は、60代の後半」とのことだ。ちょっとショックだった。今や80歳を越えた高齢の親が亡くなり、それを受け取る子供も、その時点で60代の後半になっているというのだ。若い人たちに比べて、高齢者の方々の財布のヒモが堅いことは想像に難くない。つまり、日本社会に存在する「お金」のかなりの部分が、「タンス預金」から「タンス預金」へと移動しているにすぎない。お金は消費にまわることなく、ずっとタンスの中で「もしもの時」を待って額だけ増やしているのだろう。

もちろん老後に不安があるのは分かる。そのための備えも必要になる。でも、やました氏が言うように『備蓄』と『買いだめ』は違うのである。とはいっても適切なお金の『備蓄量』というのは、高齢者にとっても、若い世代にとっても難しいことも確か。そう考えてみながら、いろんな資料に目を通していたら、そうしたお金に関するコメントは、やはりとても多かった。いくつか拾ってみたい。

まずは、ライターの北尾トロさんが自ら編集する雑誌『季刊レポ』(2011年冬号)の 『1年経ったら火の車』という文章の中で、こんなつぶやきをしていた。

「金ってそんなに大事なんだろうか。たくさんの金を得たとして、その金でやりたいことがなかったら銀行口座の数字が増えたり老後の生活に多少の安心感がもたらされるだけでしょ。やりたいことのあるヤツが、やりたいことをやるための資金を手にしたときにその金は生きる。だけど、往々にしてやりたいことのあるヤツには金が回ってこないんだなコレが」(P76)

雑誌編集のお金のやりとりに苦戦する本人から出た「お金」に対する率直な思いなんだろう。

内田樹さんは、近著『呪いの時代』で、お金を貯め込むことについて、こんな文章を載せていました。

「もちろん、老後が心配とかそういうご事情の方もいると思いますけれど、老後の蓄えなら、1億も2億もいらないでしょう。一人の人が大量の貨幣を貯め込んでも、いいことなんかない」

「『自分のところにきたもの』というのは貨幣でもいいし、商品でもいいし、情報や知識や技術でもいい。とにかく自分ところで止めないで、次に回す。自分で食べたり飲んだりして使う限り、保有できる貨幣には限界がある。先ほども言いましたけれど、ある限界を超えたら、お金をいくらもっていてもそれではもう『金で金を買う』以外のことはできなくなる。そこで『金を買う』以外に使い道のないようなお金は『なくてもいい』お金だと僕は思います」
(P172)

なぜ人はお金を貯め込むのか。老後の不安以外にも、いろんな理由があるということ。雑誌『新潮45』1月号には、経済学者の小野善康さんの『「お金への執着」が経済を狂わせる』という文章が掲載されていた。

「お金の数字情報は、もっとも効率よく人びとを幸せにする。数字の桁が上がってくるだけで、巨大な可能性を手にすることができるからである」(P54)

「交換性を保持しながら、我慢して使わないことによってのみ妄想に浸れる。そのため、働いて稼いだお金が物を買うためでなく、貯めることに向けられ、モノへの需要にならない」(P55)

最初に紹介したやましたひでこさんは、震災後におきた『買いだめ』について、同じインタビューの中で次のようにも言っている。

「買いだめをした人たちの中には、『増えたら幸せ、あればあるだけ幸せ』というのは幻想だ、ということに気付いた人もいると思います」

そして内田氏も、お金の「囲い込み」について震災後、同じようなことが判明したと、雑誌『新潮45』12月号の『「宴会のできる武家屋敷」に住みたい』に書いている。           

「いままでの社会システムは基本的に市場原理で動いていました。必要なものはすべて商品の形で提供された。ですから、市民の仕事は『欲しい商品を買えるだけの金を稼ぐこと』に単純化した」


「でも、東日本大震災と福島の原発事故でわかったことは、『金さえ出せば欲しいものが買える』というのは極めて特殊な非常に豊かで安全な社会においてだけ可能なルールだったということです」

 
最後に元外務省官僚の佐藤優さんが著書『野蛮人の図書室』に書いていたフレーズを載せておく。


「もちろん資本主義社会において、失業し、賃金がまったく入ってこないならば生きていくことができない。しかし、自分の必要以上にカネを稼ぐことにどれほどの意味があるのか、よく考えてみる必要がある。少し余裕のある人が困っている人を助けるという行動をとるだけで、日本社会はだいぶ変化するはずだ。それができないのは思想に問題があるからだ」(127P)

 

基本的には、佐藤氏も内田氏と全く同じことを言っている。とはいっても、先の見えない不安にどう耐えるのか。佐藤氏は次のように書く。

 

「『どうしたらいいか?』って問いには、答えを出さずに不安な状況に耐えることが大事だと思う。
回答を急がない。不安のままぶら下がって、それに耐える力こそが『教養』だと思うんですよ」

うん。良いこと言う。「不安に耐える力こそ『教養』」。これはメモしておいた方が良いと思う。

とても文章が長くなっていましたが、我々は震災後の買いだめ状態と同じことが、お金についても起きている。お金と買いだめ、これについて改めて考えてみたりする必要があるのではないか。そんなことを考えたわけです。

 

 

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