単純化

2014年4月18日 (金)

「エモーショナルな物語でなければ対抗できないからって、こっちもエモーショナルな言葉を謳っていいんだろうか」

前回の続き。エモーショナルな世の中について。

雑誌『SIGHT』(2014年SPRING号)では、作家の高橋源一郎さんと、思想家の内田樹さんと、編集長の渋谷陽一さんとの対談が掲載されている。

渋谷陽一さんは、東日本大震災以降の衆議院選挙、参議院選挙、そして都知事選と、いずれも脱原発などを掲げたリベラル候補が敗北したことについて、次のように語っている。

「リベラルや左翼の言っていることって、全然楽しくない。エモーショナルじゃない」 P118)

「いわゆる左翼やリベラル勢力は、ポップな言葉を忘れすぎている。だから勝てない。だからそこで新しい言葉を持たない限り、敗北主義になってしまったり、アングラなものになってしまう危険性はあると思う」 P121)

「たとえば脱原発っていう言葉ひとつ言っても、幸せそうに響かないわけだよ」 P121)

今や社会のメインとなった感情や情緒で物事を考える層に、リベラル勢力は何も訴えることができていないという指摘である。エモーショナルに訴えないと、結局は彼らには届かないという見方である。

正直、この渋谷さんの抱く、焦りというか、忸怩たる思いは十分理解できる。

これに対して、高橋源一郎さんは、次のように語る。

「今の安倍政権の、愛国というエモーショナルな物語に対抗するには、当然エモーショナルな物語じゃなきゃいけないんだけど、僕はそれは危険だなと思っているところもある」

「エモーショナルな物語でなければ対抗できないからって、こっちもエモーショナルな言葉を謳っていいんだろうか」 (P125)

では、どうしたらいいのか。

エモーショナルでしかものを考えない人たちに、エモーショナルな物語や、エモーショナルな言葉以外で、どう語っていったらいいのか。

高橋さんは、次のようにも語っている。

「今安倍さんたちがやっていることは、有権者の愛国心を強めて、強い国を作るっていうことではなくて、物事をシンプルにしようっていう話なんです。『何も考えないで、俺たちの言うことをきけ』と。『国民なんだから国を愛するのがあたりまえだろ、以上、終わり!』というのが。今進行していることなんだ」

「僕らの『物事は複雑だよ』という論理は、強い言葉にならないと思うんだよね。弱い言葉を無数に集めるしかなくて、僕らは集める側に回っているということなんです」 (P128)


世の中をシンプルに従っている勢力に対して、とりあえずは「世の中は複雑だよ」と言い続けるしかない。時間がかかっても、今は力弱くても、それ以外の方法は結局はない、そんな気もする。

ただ、渋谷さんの焦る
気持ちも分かるだけに難しいのだが…。

2014年3月 7日 (金)

「昔だったら諌められたり、馬鹿にされたりしてブレーキがかかったんだけど、今は縦割りになっていて、自分の好きなネットワーク以外には触れない。でたらめな思考や偏見が超伝導サーキットのように永久に回り続けるという特徴がある」

きのうのブログ(3月6日)では、翻訳家のドキュメンタリー映画の話題を取り上げた。そのあと今週の新聞を見ていたら、たまたま翻訳家の池田香代子さんのインタビューが、毎日新聞(3月5日)に載っていた。その中の印象的な言葉は次のもの。

「安倍さんが首相になるよりずっと前から、物事を単純化して快不快で反応したり、発火点が低かったりする感情の劣化が始まっていた気がします」

単純化。快不快で反応。発火点の低下。感情の劣化。最近のキーワードが入っている。どうして、こういうことが起きるのか。


社会学者の宮台真司さんの言葉を思い出す。TBSラジオ『デイキャッチ』(2月28日放送)より。

「見たいものしか見ない。見たくないものは一切見ない。というところに偏見を持つ人たちの特徴がある。実際にはネットが加速する。昔だったら諌められたり、馬鹿にされたりしてブレーキがかかったんだけど、今は縦割りになっていて、自分の好きなネットワーク以外には触れない。でたらめな思考や偏見が超伝導サーキットのように永久に回り続けるという特徴がある」

日本人の持つ「見たくないものは見ない」という習性。これをネットは加速してしまうのだと言う。(3月4日のブログ

今週、千葉県柏市で起きた通り魔事件。この容疑者の男について、今朝(3月7日)のTBSラジオ『スタンバイ』で、評論家の小沢遼子さんは、概ね次のような話をしていた。

「ネットが全て。ネットの中では相当自分の思い通りの自分を実現している。やがて自分が作った現実と現実との『乖離』を感じざるを得ない。疎外感を持つようになる」

自分たちの「見たいもの」「考えたいこと」だけで、自分やその世界を作り上げていく。一方での「乖離」「疎外感」。それについては、ネガティブな感情を煽って共有することによって埋めていく。それが今回の事件やヘイトスピーチの問題などにもつながっているのかもしれない。(2月21日のブログ

 

きっと、これは個人の問題だけではない。例えば、政治での「過激な発言続き」にも通じているような気もする。

 

こうして感情の劣化の問題はますますまん延することになる。(1月21日のブログ

もうひとつ宮台真司さんの指摘を載せておく。TBSラジオ『デイキャッチ』(2月21日放送)から。

「どこもかしこも俗情にこびるようになってきている。何が立派な態度で、リスぺクタブルな態度なのか、ということを本当はメディアが、インテ―ネットもそうだけどお互い伝い合わなければならない。実はナショナリズム、国粋主義も俗情にこびる営みの中に入り込んでしまっている」

感情に流されない態度をロールモデルとして、ちゃんと提示していく。

思い込みや偏見がそのまま温存される構造。本来は、立派なモデルと比べたり、アドバイス、諫言などいろいろなもので「水を差す」ことによってアップデイト(更新)していかなければならないのに、それがされない。温存されたものが、逆に感情の劣化に伴って、加速され、増幅されていく構造になっている。それが社会のあちこちで顔を出しているのではないかと思う。

2013年8月 6日 (火)

「こういうのを、僕は『全米が泣いた現象』と言っているんです。人でもない『全米』が泣く訳ないじゃないですか。アメリカの一部の人が泣いただけですよ」

以前のブログ(5月22日5月28日)で、「平均値と個人は違う」という考え方を取り上げた。ロシアの生物学者、アレクセイ・ヤブロコフ博士がチェルノブイリや福島の原発事故について語った次の言葉も印象的である。

「『平均』などというものは科学的にはありえないのです」

しかし世の中は、どうも「平均」「一般」というもので物事をとらえ、ことを進めようとしている。そんな感じの言葉を今回は並べたい。

まずは映画監督の園子温さんが対談本『ナショナリズムの罠』で、次のように語っている。

「こういうのを、僕は『全米が泣いた現象』と言っているんです。人でもない『全米』が泣く訳ないじゃないですか。アメリカの一部の人が泣いただけですよ。あと『カンヌ騒然』ってやつもそうです。どんなすごい映画があろうとも、カンヌの街は騒然としませんから。極端な話、カンヌの審査員すら騒然としてなくて、審査委員長だけが『騒然』としている可能性だってあります」 P66)

「だから、全米が泣かないように。カンヌが騒然としないように、韓国や中国も『激怒』しません。お互いに、大げさに煽りあって、だまし合って、最後は日本人自身も実は全く怒ってないっていう怪しい方向に行くのも、煽って焚きつけるやつがいるからですよ」 P67)

大阪市長選で、橋下徹氏と戦った前市長の平松邦夫さんは、対談本『脱グローバル論』で橋下氏のやり方について、こんな風に語っている。

「市長時代の経験で言うと、当然ながら公務員もいろいろです。いわゆる既得権益を守ろうという職員もいれば、市民の側に立って一緒に走ろうとしている職員だっている。それを十把一絡げにして1つの色で染め上げ、上からバーンと叩くようなやり方をすると何が起きるか」 (P188)

続いて。全然分野は違うけど、サッカーを教えている池上正さん『サッカーで子どもがみるみる変わる7つの目標』で書いていた次の指摘も興味深い。

「都心でよくある中学受験は、ある中学校に魅力を感じて『ここに行きたい』と1校を受験するのではなく、偏差値の高い順番に志望校を決める子が多いのだそうです。なぜなら『落ちても公立中学に行けないから』だと言います。すべての公立中学校がそうでないのに、『学校が荒れている』といったような理由で、親が懸命に入れる私立中学を探します」 (P181)

公立学校にもいろいろあるに決まっているはずだが、「公立学校は荒れている」と一般化してしまう。ことわざ「木を見て、森を見ず」の反対の状況とでもいうべきか。個々を見ようとせずに、大くくりな「平均」「一般」で物事をとらえようとする。その方が楽なのだろう。もちろん、それがすべて悪いわけではない。でも「平均などというものはありえない」という一面を忘れるべきではないのではないか。つまりは「木も、森も見ず」な状況なのである。

最近の景気回復についても、まったく同じ状況だと思う。経済評論家の森永卓郎さんは、文化放送『ゴールデンラジオ』(7月15日)で、次のように語っていた。

「景気は全体としては良くなってきているが、一部の人だけがすごく良くなっている。平均は良い。なぜか。一部の人たちがブンブン引っ張り上げているのが今の実態」

たとえば、少し前に某放送作家の年収が50億円という話が流れた。きっと実際に手にしているお金はもっと多いんだと思う。まあ、それなりに活躍もしているのも確か。しかし反面、昔の著名な作家や放送作家も、そんなにも稼いでいたのだろかと思わなくもない。今は、勝ち組ひとりに収益が一点集中し、莫大な収益を手にできる。その一方で、きっと何かが失われている。何だろう。もしかしたら個々の多様な小さな放送作家の居場所がなくなっているかもしれない。でも、全体の放送作家の平均収入は、50億円のおかげでガツンと上がっているのかも、である。それにしても、50億円を手にして、いったい何をするんだろか。たぶん、また新たな収益システムを作り出すのに使われ、さらに一点が巨大化していく・・・。

これは、おそらく「辺境」がなくなっている構造と同じなのではないだろうか(5月2日のブログなど)。社会学者の開沼博さんは、著書『地方の論理』で次のように指摘している。

「例えば、新自由主義という言葉があります。それは、経済成長が困難になる中で、市場を活用しながらそれまであった社会のムダ・余裕を徹底的に排除する思想です」 P212)

新自由主義やグローバリズムという考えは、ムダや余裕、辺境を排除して、一転集中を生み、そして平均値を上げていくやり方なのだろう。ムダや辺境がなくなれば、自分たちの価値を揺るがすような、新たな価値観も生まれにくくなる・・・。

最後に、コラムニストの小田嶋隆さん『脱グローバル論』で語っていた言葉を書いておきたい。

「麦踏みってありますよね。あれ、麦を踏んで強くするんだと思われているけど、実は違うんで、弱い麦を踏み殺して、麦全体の強さの平均値を上げるわけですよ。それって教育現場にもある話で、どんどん厳しくすれば、弱い子はその学校から逃げちゃうとか、やめちゃうとか、極端な話、死んじゃうとかね。で、教室に残った生徒だけの平均値を取ると、『ほら成績上がっているよ』みたないことってのは、私立学校の教育なんかではあり得るわけですよ」 (P79)

2013年4月 5日 (金)

「単純化した言葉の中には、必ずごまかしと飛躍が存在する」

前々回のブログ(4月3日)で紹介した森達也さんの言葉を改めて。著書『誰がこの国を壊すのか』から。

テレビも新聞も、それを見る人・読む人・買う人によって社員一人ひとりの生活が支えられている。それは否定できない。でも市場原理を最優先事項としたその瞬間から、メディアは民意によって造型されることを回避できなくなる。その結果、民意が求める単純化、簡略化-つまり『わかりやすさ』を表現の主眼に置くようになってしまう」 (P109) 

メディアは生き残るため、市場原理を受け入れて、紙面・記事の単純化、簡略化を進める。つまりは、メディアが自分の巨大なランニングコストを温存しようとすればするほど、世の中そのものの単純化、簡略化の後押ししていってしまう、ということになる。 

そこで、今回は、世の中で進む「単純化」「簡略化」に対する言葉を、ずらりと並べてみたい。 

北海道大学大学院准教授の中島岳志さん毎日新聞夕刊(2012年2月17日)から。 

「人間はすごく複雑だから、それをできる限り多くの人が使える言語の形で丁寧に書くこと、これが分かりやすさだと思う。ところが、メディア、特にテレビでは『Aか、Bか』みたいな二者択一言語になっている。あれは分かりやすさじゃなくて単純化です」 

同じく中島さんは、著書『秋葉原事件 加藤智大の軌跡』では、次のように語る。

「そのような人間が構成する社会を、そう簡単に単純化して語ることなんてできない。単純化した言葉の中には、必ずごまかしと飛躍が存在する」
 

思想家の内田樹さん雑誌『AERA』(2012年12月17日号)から。 

「メディアは『ニューズ』で商売している。『今日は昨日と同じく平和な一日でした。よかったね』では、飯が食えない。あちらもこちらも全システムが機能不全をきたしており、早急な制度改革が断行されねば国家崩壊の危機は目前……というタイプの話をメディアが好むのは、ほんとうにそう思っているからでなく、そうである方が部数が伸び、視聴率が上がるからである」 

同じく内田さん。こちらは、雑誌『新潮45』(2012年5月号)から。 

「現に私たちの社会における政治家、ヒーローたちは『“悪”に対する過剰な攻撃性』によって、高いポピュラリティを獲得しています。『語りが穏やかである』とか、『考えが深い』とか、『忍耐強く説得を試みている』といったことを政治家の美質に数える習慣を、メディアはほぼ完全に放棄しました。そのような文言を久しくメディアで見聞したことがありません。メディアを徴する限り、今政治家に求められているのは、何よりも『スピード感』であり、『わかりやすさ』であり、『思い切りのよさ』のようです」 

ジャーナリストの辺見庸さん著書『水の透視画法』から。 

「うちつづく月刊誌の休刊決定とは、活字媒体のおわりのはじまりであるとともに、資本の運動へのメディア側によるいまだかつてなく従順な投降でもある。『売れないものは悪いもの』『売れれば良いもの』という世の中の狂れ心と暴力に闘わずして屈したのである」 

森達也さんは、朝日新聞(2012年1月26日)では、次のように語っている。 

「正義と悪。敵と味方。黒と白や右と左。そして被害と加害。前提を二項対立にしたほうが、確かに思考は楽だ。でも、それは現実ではない。この世界はもっと複雑で多面的だ」 

社会運動家の湯浅誠さん毎日新聞(2012年3月30日)から。 

「橋下さんが出てくる前、小泉純一郎政権のころから、複雑さは複雑であること自体が悪であり、シンプルで分かりやすいことは善である、という判断基準の強まりを感じます。複雑さの中身は問題とされない」 

作家の藤本義一さん『<3・11後>忘却に抗して』から。 

「政治にはあきらめしかない。だから、大阪市長になった橋下徹さんみたいのが出てくる。それなりに喝采を浴びてね。でも、彼は単純、明快がとりえでしょ。それでは社会は変わらないな。もっと深い思いの種があって、十年は土の中で育てて、それからじんわり芽を出していく。人の社会の大事な過程をはしょると、事態はかえってよどみ、濁っていくんと違いますかね」 (P191) 

世の中で進む単純化、簡略化。メディアは、自ら持つランニングコストを切り落として行かない限り、この風潮の片棒を担いで行くことになる。

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