価値観

2014年2月26日 (水)

「日本社会が自信を取り戻し、再び前進するためには、世界の多様な文化や価値観、政治や社会に目を開き、そこから多くを学びとるとともに、国内でも多様性を涵養してくことが必要です」

引き続き、「多様性」について。

前々回(2月25日)前回(2月26日)のブログでは、日本の経営者や経済学者が、グローバルな時代には「付加価値」が必要と言いながらも、実際は、それと正反対の広報性を持つ「均一化」「効率化」を進めている、ということに触れた。

では、そのグローバルな時代に、僕たちはどうふるまえばいいのか。どんな社会を目指せばいいのか。

元国連難民高等弁務官で、国際政治学者の緒方貞子さん。おそらくもっとも国際社会を知る日本人の一人だと思う。彼女の言葉を、岩波書店編『これからどうする』から。

「日本はまず足元を固めることから始めなくてはなりません。そのために何が必要か。逆説的に聞こえるかもしれませんが、世界は多様性に基づく場所だということを真に受けとめ、自らも多様性を備えた社会にしていくことだと思います」 (P5)

「日本は、世界は多様な文化や価値観、社会から成り立っていることを十分認識していなかったのではないか。国際的な場で長年働いてきた私は、ここ10年近く携わってきた国際協力の現場でそう思うことが少なくありませんでした」 (P5)

「日本社会が自信を取り戻し、再び前進するためには、世界の多様な文化や価値観、政治や社会に目を開き、そこから多くを学びとるとともに、国内でも多様性を涵養してくことが必要です。そのことが日本に活力を与え、閉塞感を打開することにつながるのです。そこにこそ、これからの日本の進むべき道はあるのです」 (P6)

「世界の多様性と向き合い、自らも多様性に基づく社会を築くために、最も大事なのが教育のあり方です。日本の教育の最大の問題は、画一性ではないでしょうか。生徒たちは同じ教科書で、一斉に同じことを学ばされています。異なる意見とのコミュニケーションを通じて、自分の意見を鍛え上げる、そうした訓練の場にはなっていません。世界の中で生きていく力を身につけるための、多様性をはぐくむ教育に変えていくべきです。語学力はもちろんですが、それに限りません。より広がりのある視野をもとうとする好奇心、異なる存在を受容する寛容さ、対話を重ね自らを省みる柔軟性、氾濫する情報をより分ける判断力、そうした力の総体こそが求められているのです」 (P6)

この緒方貞子さんの言葉は、とても深く深く、正鵠を射ていると思う。上記の言葉だけでも、今日本社会の持つ多く問題点について言及している。

僕らが目指すべき社会の姿だと思う。ぜひ、政治家の方々、経営者の方々、そして僕自身を含めた市民の方々も、この言葉に胸に刻んでおいた方がいいのでは。素直にそう思う。



「なんか、どんどん価値観がせばまってくる感じがするじゃん?そこを心配するべきなんじゃないかな」

きのうのブログ(2月25日)では、「違い」というもの大切さや、それを面白がる必要についての言葉を並べてみた。

要は、弁護士の伊藤真さんが「一人ひとりが多様に生きていることこそがすばらしい」と語っているように、「同調圧力」に押し流される均一的な社会を作るのではなく、個人の生き方や価値観の多様性が担保された社会こそ、僕らが目指すべきものなんだと思う。

今回は、その「多様性」について考えさせてくれる言葉を並べてみたい。

まずは、みうらじゅんさん。宮藤官九郎さんとの対談本『どうして人はキスをしたくなるんだろう?』から。

「何に一番価値を見いだすかって、人それぞれっていう考え方があったほうがいいよね。俺はたくさん選択肢がある時代のほうが楽しいと思うんだけどなぁ。だって、なんだか乱交みたいでイヤらしいでしょ、全員がひとつになるって() (P218)

「俺はなんか、今の日本って、精神的に不景気な感じがするんだよね。心が貧乏くさいっていうかさ。なんか、どんどん価値観がせばまってくる感じがするじゃん?そこを心配するべきなんじゃないかな。本来は自分に理解できないからこそ掘る面白さもあるんだけおねぇ。お金に換算できるものって大概、貧乏臭いとおもうけどね」 (P223)

あの、みうらじゅんさんも心配しているのである。

作家の平川克美さん『脱グローバリズム』から。

「『もっと誇りを持て』といいたいよね。貧乏であることとか、自分の生き方にさ。自分の価値観が世間と異質なものであってもいいという矜持といえばいいのかな。それがあることで、価値観がバラけていくと思うんですよ」

「どうも、お金の多寡で階位が決まるような一つの価値観が、この何年間にものすごい勢いで進行したしたなと僕は思っていて。そこをバラけさせないと、今の問題というのはなかなか難しい。また結局、金詰まれたらだめか、みたいな話になっちゃうんじゃないかと思います」
 (P54)

 

2人とも、「お金」というものへ価値観が収斂してしまっていることに疑問を投げかけているのが興味深い。

予備校教師の里中哲彦さん著書『黙って働き 笑って納税』から。

「全員が似たような考えになっているときは、ほとんどの人はものごとの本質を考えていない」 (P23)

結局、思考停止ということ。そんな世界は、やがて自分たちの首をしめてしまう。

映画監督の山田洋次さんは、TBSラジオ『久米宏ラジオなんですけど』(2013年12月14日放送)に出演して、今の日本人の持つ価値観について、次のように語っていた。

「今は、その価値観までも金縛りでしょ。寅はかなりでたらめなんだけど、自分の価値観を信じてますから。平気でそれで行く。それが今の人間にはできない」

最後に、思想家の内田樹さん著書『内田樹による内田樹』から。

「全員が同一の『正しさ』で統制された個体識別できない集団は、そうでない集団よりも生き延びるチャンスが少ないからです。集団生き延びるチャンスを減殺するようなものは、その定義自身によって『倫理的でない』ということになります。それが僕の考え方です」 (P31)

 

上記の言葉から見えてくるのは、今の日本は、「お金」や、都合のよい「正しさ」という価値観で社会や集団を均一化、画一化しようとしているのではないか。(2013年5月15日のブログなど )。

 

意識的か、無意識なのかはわからないが、その単一的が「同調圧力」となって、社会の幅を狭めている。いわゆる閉塞感というやつではないだろうか。そんな社会は長続きしないというのが内田さんの言葉の趣旨だと思う。

前回のブログで書いたように、「多様性」と、「均一化」「効率化」はトレードオフの関係である。まさに文字通り。

これまでのブログ(2013年5月22日など)でも何回も書いてきたが、なんだかんだ言っても、今の社会は「多様性」をとにかく排除したい、という風潮があるのだろう。困ったもんだ。

2014年2月25日 (火)

「『違い』を『嫌いだ』というのではなく 『面白い』と思えたら いろいろと楽にならないかな」 

もう一度、「同調圧力」から、自分の考えを転がしてみたい。

前々回のブログ(2月20日)に、一水会の鈴木邦男さんの次の言葉を書いた。著書『愛国者の憂鬱』より。

「日本にはそういう『個』の自由がなくて、何か『個』を消すことが当たり前」 (P204)

 

社会の中での同調圧力が強まっていき、どんどん「個」というものが消されていく。

本来、
そんな風潮は、近代憲法の理念にも反するものだという。弁護士の伊藤真さんは、著『憲法問題』で、次のように書いている。

「個人の尊重は、立憲主義に基づく憲法の根底にある大事な考え方です。近代市民革命そして近代立憲主義憲法の誕生は、この個人の尊重のためにあったといっても過言ではありません」

「人は一人ひとり、違うものです。みんなと違ってもいいという消極的な意味ではなく、一人ひとりが多様に生きていることこそがすばらしい。それが個人の尊重です」 (P93)

 

一人ひとり、違うもの。という考え方を推し進める事こそ、まさに「同調圧力」に対して「水を差していくこと」なのではないか。(2013年9月13日のブログなど)

乙武洋匡さんも、よく「みんなちがって、みんないい」というメッセージを口にする。ジャーナリストの上杉隆さんの対談本『偽悪者』から。

「僕が一貫して訴えてきたのは『みんなちがって、みんないい』ということ。このメッセージを伝えるには、むしろ手足のない僕の体は便利なんですよ。だって、『違い』が一目瞭然だから()」 (P234)

そして、「違い」についての日本での受け止め方についての疑問も興味深い。

海外で暮らしたことのないボクが言うのもなんですが(笑)、『違い』って英語では『Difference』だけど、日本語の『違い』には『Wrong』の意味、つまり『正解じゃない』という意味合いも含まれている……そこには、文化の大きな違いを感じますね」 (P235)

日本の企業は、グローバルな時代を戦うため「効率化」をどんどん進める。その一方で、企業人は、よく「これからのグローバルな時代は、自分の『付加価値』を高めることが大事」ということを言ったりする。

たとえば、竹中平蔵氏。自ら会長を務めるパソナのHPで次のように書いている。

「去年より今年、自分がいかに付加価値を高めたか、今年から来年、いかに自分が賢くなっていくか、自分のスキルをどのように高めていくのか、といったことがこれまで以上に重要になってきます」

 

そこで考えたい。「付加価値」とはなんぞや。

 

劇作家の平田オリザさんは、著書『新しい広場をつくる』で次のように書いている。

 

「付加価値とは何か。それはとりもなおさず、『人との違い』ということだろう」 (P104)

 

つまり、「効率化」と「同調圧力」は裏表のセットであり、それらと「違い」や「付加価値」はトレードオフの関係なのではないか。経済学者や企業人の言うように、「効率化」と「付加価値」の両方を追い求めることはそもそもが無理くりなことなのではないか。

そしてグローバルな時代の中を生き残っていくためには、「効率化」を進めるのではなく、非効率ではあっても「違い」を内包する社会を作っていかないといけない、ということなのではないか。

それこそ外国人留学生についてのベストセラーを書いた蛇蔵さん『日本人の知らない日本語3』で、次のように書いている。

「『違い』を『嫌いだ』というのではなく 『面白い』と思えたら いろいろと楽にならないかな」 (P157)

 

グローバルな時代こそ、この蛇蔵さんの言葉と上記の乙武さんの言葉を忘れない方がいいのでは、と思った。

2014年1月22日 (水)

「尊厳が最も重大な価値。尊厳っていうのは何なんですか、と尋ねられた時に、子供たちが誰も答えられない。この教育的悲惨さを何とかしないとならない」

前回のブログを書いた後に、少し追加で考えたことがあるので、もう少しだけ。

「感情」について、そのあと思い出したのが、「イワシ化」という言葉(2013年4月16日のブログ )。今思うと、まさに人々が感情で行動している様子を表している表現である。

なのでもう一度、その岡田斗司夫さんの言葉を載せておきたい。著書『評価と贈与の経済学』から。

「ぼく、『イワシ化』って呼んでるんですけども、社会がイワシ化しているんです」

「イワシって小さい魚だから、普段は巨大な群れになって泳いでいる。どこにも中心がないんだけども、うまくまとまっている。自由に泳いでいる。これは見事に、いまの日本人なのではないかと」 (P14)

その
前回のブログは、「感情統治」に絡め取られないためには、感情で行動するのではなく、自分の中に起きる「違和感」を見つめ、それを相手に伝えるためにちゃんと「言葉」にしていくことが大事と書いた。

では「違和感」とは。

イワシ化することなく、そんな流れに「違和感」を感じるためには、何が必要か。

おそらく「違和感」を持つためには、ベースに自分なりの「価値観」を持っていることが大切なんだと思う。「美意識」と言ってもいいのかもしれない。自分なりの「価値観」「美意識」があるから、それと外れた流れや行動には「違和感」を感じるのだろうから。

 

しかし、この「価値観」というものが、社会ではあまり重要視されていない。また教育の世界で、「価値観」の大切さを教えることもない。社会学者の宮台真司さんのそんな指摘があったので、それを追加として紹介しておきたい。ビデオニュース・ドットコム『Nコメ』(12月14日)から。

「日本の政治評価の物差しが、便利・快適、安心・安全だけで、尊厳と幸福じゃない。つまり価値の部分が出てこない。政治的な要求として「価値」が出てこない。政治に「価値」を要求しないという問題」 (1時間17分ごろ)

「尊厳が最も重大な価値。尊厳っていうのは何なんですか、と尋ねられた時に、子供たちが誰も答えられない。この教育的悲惨さを何とかしないとならない」 (1時間21分ごろ)

 

この2つの言葉だけでは足りないかもしれないが、「価値観」とは「尊厳」と「幸福」について自分なりに考え続けること。「生きるとは何か?」「幸福とは何か?」「自分とは何か?」ということについて考えることなんだと思う。

そんなことを裏付ける言葉がまた見つかったら、紹介していきたい。

「やっぱり言葉以外のことを伝えるために言葉で書いているのでしょう」

きのうラジオを何気なく聴いていたら、エコノミストの吉崎達彦さんが次の言葉だけが耳に入ってきた。文化放送『くにまるジャパン』(1月21日放送)より。

「最近のビジネスのキーワード。ものづくりから感動を売る仕事へ」

職人や高い技術でちゃんと作られたものより、感動さるものが売れる時代になっている、ということ。当然というか、ビジネスの世界でも「感情を刺激すること」が優先されている。

既存の価値観を疑い、新しい価値観を見出す、という「批評」より、「感情さえ刺激すればよい」「共感が呼べればよい」という風潮に対して、ボクたちはどう対処していけばいいのか。今回は、そんなことを考えてみたい。

精神科医の名越康文さんが、MBSラジオ『辺境ラジオ』(12月29日放送)で、次のように話していた。

「ちゃんと自分の頭で理解したいと思うんだけど、今のところ『理解したい』というのが、『感情的に理解することが正しい』となってしまっている。自分でも感情的に判断しているのか、ちゃんと落ち着いて判断しているのかの区別がつかない人が一番多い」

名越さんは、「感情的に理解すること」と「ちゃんと判断すること」は別のことだとしている。そして今や、ものごとを判断する価値基準について、「感情」以外の指針がなくなってしまったとする。

「自分がもっと違う指針を持ちたいと思うようになっている。ところが何の指針で判断するのかが、日本人にはない」


「ところが日本には大きいのはやはり宗教がないというのがあるので、何を判断基準にするかというと結局、感情しかない。それに代わる指標を持つことは絶対にこのままではできない。そこを真剣に考えなければならない。では、何の軸で選ぶのかということ」


人々が感情的に動くと、世の中は荒れてくる。社会学者の宮台真司さんは、ビデオニュース・ドットコム『マル激トーク・オン・ディマンド』(1月4日)で、次のように語る。

「入れ替え可能問題。感情の働きもそう。誰でも反応するように反応することは浅ましい。入れ替え可能であり、別の可能性はないかについて考えるできない思考停止状態。そういう状態を脱することができるか」 (パート2 20分ごろ)

思想家の内田樹さん著書『街場の憂国論』で書く次の文章も、宮台さんの指摘と同じことだと思う。

「『誰でも言いそうなこと』を言う人の言葉づかいはしだいにぞんざいになり、感情的になり、断片的になり、攻撃的になり、支離滅裂になっていき、やがて意味不明のものになります」 (P8)

「『誰でも言いそうなこと』を語る人は、『いなくなっても替えが効く人』だということです。その人自身は『多くの人が自分と同じことを言っている』という事実を根拠にして『だから私の言うことは正しいだ』と思っています。ネットに匿名で攻撃的なことを書く人のほとんどはそういう前提に立っています」 (P10)

感情が優先される世の中は、「入れ替え可能な言葉」があふれ、荒れていくということだろう。そして、「民主主義は感情統治」というような政治家が現れ(きのうのブログ)、マインドコントロールに絡めとられていく。

我々は、どうすればいいのか。次の内田樹さんの言葉の中にヒントがあるような気がする。上記の名越康文さんの言葉を受けて語ったもの。MBSラジオ『辺境ラジオ』(12月29日放送)より。

「カミュが言っている『反抗』とは何か。これは『反抗』ではない。元の言葉は、どっちかというと『嫌な感じ』『ちょっとムッとする』『ちょっと気持ち悪い』ということ。『理屈はあっているけど、言いすぎじゃない』『筋は通っているけど、言いすぎでしょ』。ある限度や節度を越えたときに『嫌な感じ』が自分はする。その『嫌な感じ』をベースにして哲学体系、倫理を構築しようとした。普通は、価値あるもの、信義であったり、善であったりするものを確固たる基盤にして、哲学や倫理の基盤を構築するわけだけど。自分の中で発生する『それ我慢できない』『むかつき』とか、身体的に生物としておかしいのではないかという感覚が彼にはある」

「むかつき」「我慢できない」、言い換えれば、「違和感」ということなのではないか。自分が時間をかけて身につけた価値観やリテラシーに照らして、内部から湧き上がる「違和感」。これを自分の判断基準にするということなのである。

実際に、カミュがいた時代のフランスのレジスタンスは、それをもとに連帯し、ファシズムと戦ったという。

「ナチスに対するフランスのレジスタンス。俺は『これが我慢できない』という我慢できない感を彼らが共有していた。頭にくる、怒り、とは違う」

「最終的に人間が大きな決断する時には、プラスのイメージに向かって『ああいう理想社会を作りましょう』『みんな、このイメージで、綱領で統一しましょう』『いいですか、反対の人でていけ』というのではなく、『オレ、どうしてもこのシステム我慢できないんだけど』『オレも!』というもの」

ふむふむ。

ただ、思うに「違和感」というのも、「感情」の一つであることは確かである。きっと大事なのは、自分の内部に芽生えた「違和感」に向き合うこと。そしてその、まだ言葉にならない「違和感」を、ちゃんと「輪郭のある言葉」にして相手に伝えていく。ということなのではいか。

作家の小川洋子さん毎日新聞(1月13日)に、そのままのことを書いていた。自分の小説に対しての姿勢だけど、これは小説以外のことにも当てはまると思う。

「小説も言葉でしか表現できないけども書いていない所で、何を伝えるか。辞書にないような意味合いまでを伝えたい、あるいは想像させたいと思う。そのための言葉選びをする。ということは、やっぱり言葉以外のことを伝えるために言葉で書いているのでしょう」

繰り返す。やはり「言葉」なのだと思う。


2014年1月20日 (月)

「なんか『前衛』を再構築しなければいけないという気がしている。今、文化といっても、まさに前衛みたいな感覚がない」

前回のブログ(1月17日)では、今は「『共感』が優先される時代」について考えてみた。

 

「共感」。

今の社会では、まずは「感情に訴えること」が優先されているのではないか。曖昧でフワッとした「ポエムの言葉」がありがたがれる様子(1月16日のブログ)などからも、「感情」というものが必要以上にチヤホヤされ、「共感」や「感情」によって今の社会が形作られているのではとも思う。

今回は改めて、クリエイティブの世界と「共感」「感情」の関係について考えてみたい。

まずは、批評家の東浩紀さんの指摘。ビデオニュースドットコム『マル激トーク・オン・ディマンド』(1月4日)で次のように話している。

「例えば、小説であれば今の時代のリアルをうまい具合にくみ取ったみたいな、みんなが共感できるみたいな小説になる。エンターテイメントと純文学とか違いが全然なくなっている」

「昔は人を傷つけようが何だろうが『こういうことをやるのが文学だ』『こういうことをやるのが芸術だ』というものがあった。そういう軸を取り戻さないとダメだと。それが政治的前衛ともつながっていく」 (パート2 29分ごろ)

「日本って。知識人の責任というのがない。テレビ知識人というのは、大衆がなんとく無意識に思っていることを言葉にして、共感をできるというだけ。彼らは何も導かない」 (パート2 33分ごろ)

続いて、
デザイナーでライターの、高橋ヨシキさん朝日新聞(9月25日)から。(2013年9月25日のブログ でも紹介)

「どこからもクレームがつかないことが最優先された、大人の鑑賞に堪えない『お子様ランチ』のような作品だらけになってしまいました。表現の質が下がれば観客のリテラシーが下がり、それがさらなる質の低下を招く。お子様ランチを求める観客と、お子様ランチさえ出しておけば大丈夫とあぐらをかく作り手。そのレベルの低い共犯関係が社会にも染みだしてきた結果が、いまの『国民的』ムラ社会なのでしょう」

そんなヌルい状況を揺さぶるような表現を『過激だ』といって排除したがる風潮はコインの裏表で、それを支えているのは、本や映画を、『泣いた』『笑った』ではなく、『泣けた』『笑えた』と評するタイプの人たちです」 

一方、上記の東浩紀さんの対談相手、社会学者・宮台真司さんは、次のように語る。ビデオニュースドットコム『マル激トーク・オン・ディマンド』(1月4日)より。

「お涙ちょうだい映画を見に来るやつらにとっては、お涙ちょうだいであれば何でもいい。どのネタでもいい。そのような感情の働き方は、人を阿呆にするからよくない。喜怒哀楽を刺激するものだったら何でもいいの?という問題なんです。感情を刺激するウエルメイドの映画が増えている」 (パート20分ごろ)

ライターの速水由紀子さんは、映画監督の園子温さんについて書いたノンフィクション『悪魔のDNA』で、今の映画の観客について次のように書いている。

「観客は自分がどんな面白がり方をすればいいかはっきりしないと劇場に行かない。すっきりする。泣ける。エロい。笑える」 (P108)

「1800円払うのだから気分が爽快になる映画が見たい、という気持ちもわかる。そういう映画がヒットするのは自然の摂理だ」 (P110)

 

分かりやすく感情に訴えてくる映画ばかりがヒットする。この裏には、せっかく「1800円払っているのだから」という映画料金の高さも影響しているという。(2012年12月22日のブログ に関連)

こうやって色んな要素が相まって、「共感」を優先した作品ばかりが世の中にあふれるようになっている。ほかの価値観は見向きもされなくなる。批判精神にあふれ、新しい価値観、世界観を開拓し、広げようという作品は駆逐されてしまう。

上記した東浩紀さんは、こうも述べている。(ビデオニュース・ドットコムより)

「なんか『前衛』を再構築しなければいけないという気がしている。今、文化といっても、まさに前衛みたいな感覚がない」

ここで指摘する「前衛」とは、今の社会、作品に満足せずに、新しい価値観を試すこと。すなわち、そんな「前衛」の作品には、今の社会への批評精神が何よりも大事となる。

先日、映画館でキューブリック監督の『2001年宇宙の旅』を改めて観た。その「前衛」ぶりには心底驚かされた。45年前の作品とは思えない新しさがあり、この映画が他の映画にどれだけの影響を与え、その世界を豊かにしてきたのだろうと思う。


以前、このブログで「辺境」がなくなっていることについて書いたが、この「前衛」がないことも同根の問題だと思う。(2013年5月20日のブログ など)

上記したデザイナ-の高橋ヨシキさんは、同じ記事の中(朝日新聞9月21日)の中で、こんな言葉も口にしている。

「言葉じゃなくて空気で人を動かす」

このセリフは、エンターテイメント、クリエイティブの世界だけの話ではない。我々は、かつて「空気」によって過ちを犯してきたことを思う出した方がよい。(2013年9月13日のブログ

2013年9月10日 (火)

「どこにも入り込む隙間はある。世の中と世の中の隙間、それが世間だ。人と人の隙間、それが人間だ。私もそろそろ自分のニッチを探しにいかないとな」

前々回のブログ(8月28日)では、作家の島田雅彦さんのコトバから、「ニッチを探すこと」「スペースを探すこと」の重要性について考えてみた。

順序は逆になってしまったが、その島田雅彦さん小説『ニッチを探して』を読み終わったので、その中に出てくる屋島教授が口にした次の言葉を紹介しておきたい。 

「どこにも入り込む隙間はある。世の中と世の中の隙間、それが世間だ。人と人の隙間、それが人間だ。私もそろそろ自分のニッチを探しにいかないとな」 (P204) 

さらに島田雅彦さんが出演していた、JFM『学問のススメ』(8月27日)も聴いた。その中から。 

「ニッチを探す体験は自信にはなると思う。人はプライドを守る、名誉を守ることが時には必要ですが、それをやると職を失う、あるいは今までの人間関係が悪くなったり、厳しい状況おかれる可能性がある。それでも嫌な所にずっといたくない。思い切って給料が半分になったとしても、ここから離脱するということがやりやすくなるのかな」 

「逆境に追い込まれて、急に緊張感の中でひらめくことがあるかもしれないし、実際に本当に自分に適した生息域は、それこそニッチはどこなのかを突き詰めて考えていったときに、ひょっとしたら今までの人生、ライフスタイルというのが自分に合わないのに無理していたということが分かるかもしれない」 

「日本はこれ以上の発展は見込めない。そうするとどこかで上手に没落する方法を模索しないといけないのではないかと思う。プライドとか名誉とかを失わない状態で、しっかりと生き延びていく知恵だけは身につけておく」 

「そうやってフラフラしながら何か価値を見つけていく。何もしてないようでブラブラしているようで、その実、ちゃんと考えていて、自分が必要とされるタイミングと場所をじっと待っていて、あっあったと思ったら、ピュッと行く。このフットワークの良さ」

ニッチ、隙間、スペースをさがる力があるということは、自分の生きる幅や選択肢を広げることでもあるのだろう。

2013年8月 6日 (火)

「こういうのを、僕は『全米が泣いた現象』と言っているんです。人でもない『全米』が泣く訳ないじゃないですか。アメリカの一部の人が泣いただけですよ」

以前のブログ(5月22日5月28日)で、「平均値と個人は違う」という考え方を取り上げた。ロシアの生物学者、アレクセイ・ヤブロコフ博士がチェルノブイリや福島の原発事故について語った次の言葉も印象的である。

「『平均』などというものは科学的にはありえないのです」

しかし世の中は、どうも「平均」「一般」というもので物事をとらえ、ことを進めようとしている。そんな感じの言葉を今回は並べたい。

まずは映画監督の園子温さんが対談本『ナショナリズムの罠』で、次のように語っている。

「こういうのを、僕は『全米が泣いた現象』と言っているんです。人でもない『全米』が泣く訳ないじゃないですか。アメリカの一部の人が泣いただけですよ。あと『カンヌ騒然』ってやつもそうです。どんなすごい映画があろうとも、カンヌの街は騒然としませんから。極端な話、カンヌの審査員すら騒然としてなくて、審査委員長だけが『騒然』としている可能性だってあります」 P66)

「だから、全米が泣かないように。カンヌが騒然としないように、韓国や中国も『激怒』しません。お互いに、大げさに煽りあって、だまし合って、最後は日本人自身も実は全く怒ってないっていう怪しい方向に行くのも、煽って焚きつけるやつがいるからですよ」 P67)

大阪市長選で、橋下徹氏と戦った前市長の平松邦夫さんは、対談本『脱グローバル論』で橋下氏のやり方について、こんな風に語っている。

「市長時代の経験で言うと、当然ながら公務員もいろいろです。いわゆる既得権益を守ろうという職員もいれば、市民の側に立って一緒に走ろうとしている職員だっている。それを十把一絡げにして1つの色で染め上げ、上からバーンと叩くようなやり方をすると何が起きるか」 (P188)

続いて。全然分野は違うけど、サッカーを教えている池上正さん『サッカーで子どもがみるみる変わる7つの目標』で書いていた次の指摘も興味深い。

「都心でよくある中学受験は、ある中学校に魅力を感じて『ここに行きたい』と1校を受験するのではなく、偏差値の高い順番に志望校を決める子が多いのだそうです。なぜなら『落ちても公立中学に行けないから』だと言います。すべての公立中学校がそうでないのに、『学校が荒れている』といったような理由で、親が懸命に入れる私立中学を探します」 (P181)

公立学校にもいろいろあるに決まっているはずだが、「公立学校は荒れている」と一般化してしまう。ことわざ「木を見て、森を見ず」の反対の状況とでもいうべきか。個々を見ようとせずに、大くくりな「平均」「一般」で物事をとらえようとする。その方が楽なのだろう。もちろん、それがすべて悪いわけではない。でも「平均などというものはありえない」という一面を忘れるべきではないのではないか。つまりは「木も、森も見ず」な状況なのである。

最近の景気回復についても、まったく同じ状況だと思う。経済評論家の森永卓郎さんは、文化放送『ゴールデンラジオ』(7月15日)で、次のように語っていた。

「景気は全体としては良くなってきているが、一部の人だけがすごく良くなっている。平均は良い。なぜか。一部の人たちがブンブン引っ張り上げているのが今の実態」

たとえば、少し前に某放送作家の年収が50億円という話が流れた。きっと実際に手にしているお金はもっと多いんだと思う。まあ、それなりに活躍もしているのも確か。しかし反面、昔の著名な作家や放送作家も、そんなにも稼いでいたのだろかと思わなくもない。今は、勝ち組ひとりに収益が一点集中し、莫大な収益を手にできる。その一方で、きっと何かが失われている。何だろう。もしかしたら個々の多様な小さな放送作家の居場所がなくなっているかもしれない。でも、全体の放送作家の平均収入は、50億円のおかげでガツンと上がっているのかも、である。それにしても、50億円を手にして、いったい何をするんだろか。たぶん、また新たな収益システムを作り出すのに使われ、さらに一点が巨大化していく・・・。

これは、おそらく「辺境」がなくなっている構造と同じなのではないだろうか(5月2日のブログなど)。社会学者の開沼博さんは、著書『地方の論理』で次のように指摘している。

「例えば、新自由主義という言葉があります。それは、経済成長が困難になる中で、市場を活用しながらそれまであった社会のムダ・余裕を徹底的に排除する思想です」 P212)

新自由主義やグローバリズムという考えは、ムダや余裕、辺境を排除して、一転集中を生み、そして平均値を上げていくやり方なのだろう。ムダや辺境がなくなれば、自分たちの価値を揺るがすような、新たな価値観も生まれにくくなる・・・。

最後に、コラムニストの小田嶋隆さん『脱グローバル論』で語っていた言葉を書いておきたい。

「麦踏みってありますよね。あれ、麦を踏んで強くするんだと思われているけど、実は違うんで、弱い麦を踏み殺して、麦全体の強さの平均値を上げるわけですよ。それって教育現場にもある話で、どんどん厳しくすれば、弱い子はその学校から逃げちゃうとか、やめちゃうとか、極端な話、死んじゃうとかね。で、教室に残った生徒だけの平均値を取ると、『ほら成績上がっているよ』みたないことってのは、私立学校の教育なんかではあり得るわけですよ」 (P79)

2013年5月15日 (水)

「『本当の正しさ』を突き詰めていくと、人は狭量になり、寛容さを失っていきます」

「わが国の考え方が十分に理解されていないことは残念だ。正しく理解されるよう、積極的な情報収集や発信に努めていく」

上記の言葉は、一昨日(13日)の参議院予算委員会で、安倍総理がアメリカ議会調査局の報告書を受けて語ったものである。個人的に引っ掛かったのが、このなかの「正しく理解されるよう」という言葉。「正しく理解」というのは、どういうことなんだろう、そんなものはあるのか、と素朴に思ってしまう。権力者が「正しい」という言葉を簡単に使うことに、なんだかモヤモヤとしたものを感じるのである。 

そこで、今日は、「正しさ」「正解」といったものについての言葉を並べてみる。 

作家の高橋源一郎さんは、読売新聞(2012年3月6日)で、次のように述べている。 

「『本当の正しさ』を突き詰めていくと、人は狭量になり、寛容さを失っていきます」 

まさに、今の日本の風潮を表した言葉だと思う。 

さらに高橋源一郎さんは、東京新聞(2012年9月16日)でも、次のように書く。

「みんな『正解』があると思っている。そして、こっちが正解なら相手は間違っていると、違う意見をつぶそうとする。正解がみつからないと、正解はどれ?と空気を読む。オールオアナッシング(全てか無いか)です。でも正解はない。空気を読む必要もないってことが大事なんですよね」

もうひとつ高橋源一郎さんの言葉。ツイッター(2012年3月4日)から。

「無理矢理回答を迫ること、その回答者に、専門家なみの知識を要求すること、自分の意見だけが『正しい』と考えること、その結果として、自分の意見の反対者は、無知で愚昧な人間が『悪』であると考えること。『悪』であるから排除して当然と考えること。おかしいじゃん、どれも」
 

正しさを求めれば求めるほど、社会が息苦しくなってくる。まったく同じことを、茂木健一郎さんも書いている。著書『新しい日本の愛し方』から。 

「そもそも、一つひとつの問題に『正解』があり、その『正解』に早く到達することが学力の優秀さの表れであり、大学の入学者の選抜はどれくらい多くの『正解』を答えられるかによって行われるべきだという日本人の思い込み自体が、現代の文明の中では、もうはやどうしようもなく時代遅れになっていしまっている」 (P46) 

「『正解』を求めることを、自分にも他人にも強制する文化の下では、人は次第に息苦しさを感じるようになってくる。昨今の日本が、まさにそれであろう」 (P77) 

社会学者の開沼博さんは、「正義」という言葉をつかって、次のように指摘する。著書『漂白される社会』から。 

「『正義』は常に重層的なものだ。それは、それは社会の中に常に複数、分散、乱立して存在する。しかし、あたかも一つの『正義』があるかのように装うことで社会は凝縮し、安定を保とうとする」 

「『正義』『善良』『合理』『中心』、あるいは『普通』といった価値。それらは常に、その時々の状況で一時的に構築されたものだ。
 
ただ、その重層感に無自覚なままに、一つの絶対的な『正義』を求め続けることは『正しさなき“正義”』や『普通でない“普通”』を生みだしていくだろう。それが結果的に、ナイーブな正義が求めていた良き社会の実現をむしろ遠ざける結果になるのならば、その『善意』にとって不幸なことである」 (P283)


善意が結果として、息苦しい社会をつくっていく。 

美術家の森村泰昌さんは、福岡伸一さんの対談本『エッジエフェクト』で、次のように語っている。

「『正しい』が勝つのです。今の日本の文化の欠落部分は、そこにあるのではと思いますね。価値基準を計る際に、美という物差しがまったく通用しないのです。美という物差しで計ろうとした途端、完全に無視されますから」 

「正しいか、正しくないか」でしか判断したり、考えようとしない社会。たとえば「美しいかどうか」「面白いかどうか」「落ち着くかどうか」「気が抜けるかどうか」など、本来、物事の判断基準はたくさんあってしかるべきなのに。 

そもそも一つの「正しい」というものや、一つの「正解」というものがあるのだろうか。政治の世界にも、そのほかの世界にも。ジャーナリストの田中良紹さんは、 自身のブログ『国会探検』(2012年2月25日)で次のように書いていた。

「正論はさまざまである。全員が正しいと思うことなどまずない。誰かが『正しい』と言えば、別の誰かが『正しくない』と主張する。時代が変われば正しさの基準も変わる。正しい事を実現したと称賛された政治が、後に批判された例はいくらでもある」

確固とした「正しいもの」、「正解」はない・・・。では我々は、どう振舞っていけばいいのか。
 

最初に紹介した読売新聞(2012年3月6日)のインタビューで、高橋源一郎さんは、次のようにも語っている。

「あることが正しいかどうかという判断は、個人が自分の責任においてすればいいことです。正しさは幾つもあると教えるのが、我々教師や作家の責務なのかもしれません」
 

長くなってしまったけど、あと2つだけ。まずは、棋士の羽生善治さんの言葉。雑誌『AERA』(2012年12月10日号)から。

「大切なことは、『この場面に、答えがわからない』ということがわかるかどうかです」
 

最後にアンドロイドなどを作る大阪大学の工学博士、石黒浩さん。次のように語っている(出典は失念)。

「もちろん正解なんてない。でもその答えを追い求め、悩み、考え続けることが人の存在価値なんだと思います」

正解がない、つまり答えがない。だけど、だからこそ、それを揺れながら、追い求めることに意義がある。そういう理解や振る舞いからは、きっと相手に「正しいもの」や「正解」を押し付けるという姿勢は生まれてこないのではと思うのだが。



2013年5月 8日 (水)

「相手と自分の違うところ、相手の言動のよく理解が及ばないところは、とにかく面白がるところです」

4月25日のブログ翌26日のブログでは、「これからは価値観が異なる相手とのあいだに小さな共通項を見つけてうまくやっていくことが大事になる」「それは結婚に似ている」というような内容の言葉を並べてみた。新たに同じ指摘をみつけたので、追加として載せておきたい。

ノンフィクションライターの高橋秀実さん著書『男は邪魔!』のなかに、結婚ということについての次の言葉を見つけた。

「価値観も違って当たり前。価値を見いだす対象が異なるのかもしれないが、違うから合わせようとする。違いあっての合わせる努力ということで、それこそが愛。ひいては結婚というものではないだろうか。不自然かもしれないが、不自然だからこそ努力する甲斐があるのではないか」 (P75)
 

そして前回も取り上げた内田樹さん『「正しいオヤジ」になる方法』の中でも、次のように語っている。

「相手と自分の違うところ、相手の言動のよく理解が及ばないところは、とにかく面白がるところです。『ああ、妻はこんなことを考えていたのか!』って、驚く」
 

自分の体だってそうじゃないですか。勝手なリズムで動いて、勝手に眠くなったり、お腹が空いたりして、勝手に衰えて、勝手に病んで、勝手に死んでしまう。自分の身体でさえ意のままにならないんですから、他人においておや、です。配偶者も、そんな意のままにならない自分の体の延長みたいなものだと考えてればいいんじゃないですか」 (P124)

価値観が違い、ままならない、コントロールが効かない相手とうまくやっていく。すなわち「結婚」というものと、「社会の人間関係」との共通点は多いということ。ほんと、そう思う。

もうひとつ追加。マイケル・サンデルさん著書
『それをお金で買いますか』のなかで、次のように書いていた。

「民主主義には完璧な平等が必要なわけではないが、市民が共通の生を分かち合うことが必要なのは間違いない。大事なのは、出自や社会的立場の異なる大人たちが日常生活を送りながら出会い、ぶつかり合うことだ。なぜなら、それがたがいに折り合いをつけ、差異を受け入れることを学ぶ方法だし、共通善を尊ぶようになる方法だから」 (P284)

価値観の違う人がぶつかりあい、共通項をみつけて折り合っていく。個人的には「折り合い」という言葉は好きである。


さらに追加。活動家の湯浅誠さん著書『ヒーローを待っていても世界は変わらない』から。

「問題は処方箋です。ではどうしたらいいか、でそれぞれの意見が分かれる。私には私の意見があり、別の人には別の意見がある、それがあたりまえです。逆にそうでなければ気持ち悪い。みんなが同じ意見を持っているような社会は、自由な社会とは言えないでしょう」

「だから異なる意見を闘わせ、意見交換や議論をする中で、お互いの意見を調整することが必要となります。夫婦や親子のような親しい関係でも、自分の意見や意向だけを一方的に主張し、『おれの言うことを聴かないおまえが悪い』と言い続けていたら合意形成に至らないことは、誰もが経験していることだと思います」 (P46)

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