優先順位・選択

2013年10月24日 (木)

「神話を信じるほうが、悩まなくてすむからね。自分の頭で考え、疑い、苦しみ、戦うという主体的営みの対局に神話はある」

もうしばらく「リスク」「失敗」の続き。すいません。

きのう新たに、茨城県東海村の前村長、村上達也さんと、ビデオジャーナリストの神保哲生さんとの『東海村・村長の「脱原発」』論』という本を読んでいたら、同じような指摘があったので、それも記す。あちこちで出会う。そのくらい「リスクを避ける習性」というのは、日本社会の根深い問題ということでもある。

その村上さんが、お役所、すなわち行政の習性について次のように語っている。 

村上 「余計なことをして、パニックを起こして、そのために被害が起きると、行政側が責任を取らなければならない。それが怖い」 

神保 「たとえ人の命がかかっているような状況でも、何かをやり過ぎた結果、トラブルが起きてその責任を取らされるくらいなら何もやらないでおいたほうがいいと考えてしまう、そういうことですか」 

村上 「ええ。日本は、行政のそういう性向がきわめて強い国ですよね。官僚組織の論理が最優先にされる結果、無謬性を失うのを恐れて緊急時には何もできなという性向です」 (P52) 

ちなみに、「無謬性」とは、「間違いがない」ということ。 

本来なら、「人の命」を失う以上のリスクはないはず。でも、それよりも目先のパニック、トラブル、その責任というリスクを避けるがために、「何もしない」という選択肢を選んでしまう。 

でも、これまで何度も書いてきたが、人間社会では、必ず間違いや失敗も起きるし、リスクゼロなんて状況もありえない。それでも「無謬性」というものを信じるために用意されるのが、「安全神話」なのかもしれない。「リスクゼロ」というフィクションを信じ込ませるために、「安全神話」を作りだし、流布させる。 

原発の「安全神話」について、東海村の前村長、村上達也さんは、次のように話している。 

「それまでは住民避難を計画すること自体、原子力の危険性を認めることになると考えられていた。原発は絶対に安全なのだから住民避難など考慮する必要はないと、本気で言われていたのです」 

「本当に、日本は恐ろしい国だと思っています。国民の生命財産より原発が大事で、しかも随所で隠蔽体質と無謬性への恐怖がある」 (P54) 

「それは、少し考えれば誰にでもわかることだった。いくら安全対策を施しても、結局は日本で原発を建設すること自体に無理がある。その無理を押し通すために、原発推進の勢力は自らも安全に対して思考停止するしかなかった。ですから、日本人が本当に反省しなければならないと私が思うのは、そういう思考停止をうながす流れ、世の中の雰囲気ができたとき、日本社会はあっという間にそれに同調してきたということですよ」 (P173) 

本来フィクションでしかない「リスクゼロ」。それを信じるために、「安全神話」をつくりだし、流布させる。そして「思考停止」して、それを同調という圧力のもとで受け入れ続ける。

ゼロリスク」というフィクションを信じる状況を、社会学者の宮台真司さんは「フィクションの繭」と表現する。宮台ブログ(2012年8月13日)から。 

「〈原発を止められない社会〉である本質的な理由は何か。〈巨大なフィクションの繭〉のせいです。例えば日本にしかない『100%原発安全神話』。そのせいで津波対策やフィルタードベントなどの追加的安全対策が、技術はあるのに採用されなかった」 

「これらが〈巨大なフィクションの繭〉の中で、何もものを見ないで出鱈目な決定を連発してきているのが、日本の政治です。これは戦前から変わっていません」


こうした「安全神話」について、作家の辺見庸さんは、『この国はどこで間違えたのか』という本の中で、次の湯に語っている。

「神話を信じるほうが、悩まなくてすむからね。自分の頭で考え、疑い、苦しみ、戦うという主体的営みの対局に神話はある。皇軍不敗神話、天皇神話もそうです。神話は、われわれの思惟、行動を非論理的に縛り、誘導する固定観念や集団的無意識、根拠ない規範にもなる。とりわけ、われわれは巨大なものや先進テクノロジー=善という『近代神話』に長くとりつかれてきた。その近代神話の頂点にあるのが原発だった」 (P285) 

結局、安全神話を信じ、リスクゼロを信じることで、安心できる。その方が、日々の生活は「楽」なのだ。きっと。でも、その神話、フィクションはいつか崩壊するのだろう。その時、巨大に増長したリスクと対面しなければならなくなるのではないのか。 

上記の『この国はどこで間違えたのか』の中で、沖縄タイムス記者の渡辺豪さんは、次のように語っている。 

「過ちは確かにあった。そして今もある。われわれが抱える問題の深刻さは、過ちに気付きながら事態を放置してきたこと。対象と向き合って転換や変革を測れない構造的な弱みにあるのではないだろうか」 (P294) 

リスク、失敗、間違い、過ち。どうすれば、それらと向き合い、共存していけるようになるのか。

最後に。テイストはぐっと変わるが、糸井重里さんの本の中にも「失敗」についての言葉があったので。著書『ぽてんしゃる。』から。

「『失敗』を求めているはずはないのですが、『失敗』を恐怖していたら、なんつーか、「悪い運命のおもうつぼ」です」 (P157)

2013年10月21日 (月)

「優先順位はその人の価値観で決まる。国がとり組む優先順位はその国の人々の価値観の反映だ」

「リスク」を前にして動けなくなってしまう傾向。これは結局、選ぶことができないことでもある。ということについて、ここ数日のブログで書いてきた。

この流れで、ボクが思っていることは「優先順位」を付けることの大切さである。社会の中の価値観が広がり、多様になり、それによって選択肢が増えていくことはとても良いことだと思う。その動きを止めていけない。

しかしその一方で、誰にも一日24時間しかないわけだし、場所も制限される。つまり、存在するモノの中から、全てを選ぶことはできない。そこで重要になってくるのが「優先順位」というやつだと思う。何から選ぶのか、何を捨て、あきらめるのか。それを判断するためにも、自分なりの価値観、美意識、状況などに合わせた「優先順位」を日頃から考えておくことが大切だと思う。そうでないと、目の前の数値やランキングに依存する体質になってしまうんだと思う。
 

ちょっと前、その「優先順位」についての語っている言葉を見つけたので、載せておきたい。 

カウンセラーの海原純子さんが、毎日新聞9月8日で書いていた文章から。 

「優先順位はその人の価値観で決まる。国がとり組む優先順位はその国の人々の価値観の反映だ。汚染水問題を最優先と考える人は少ないのだろうか。早く対策を、と叫びたくなる」

どうも日本の政治的には、いろんな政策に対して「優先順位」を付けることができていないよう。 

こちらはダイブ前の新聞記事から。当時、米日経済協議会副会長のチャールズ・レイク氏は、日経新聞2011年1月9日で次のように語っている。 

「日本の通商政策について、各国の目には、国家として政策の優先順位がないと映ります。経産省、外務省、農林省が独自の立場で国際交渉に臨み、大臣が3人同席しないと話ができない。これではいったいだれが日本の代表か分かりません」 

この指摘を読むと、現在行われているTPP交渉も思いやられる。 

さらに作家の村上龍さんも、メールマガジン『JMM』2011年1月18日で次のように書く。

「菅内閣に実行力が不足している一因は、山積みの諸問題に優先順位をつけらないことです。政治家に限らず、物事を「決断・実行」するためには、優先順位を決めることが求められます」 

素人ながら当時の民主党政権の失敗については、この「優先順位」を付けられないことがすべての根源だったのではと思う。例えば、マニフェストで約束した「高速道路無料化」や「高校無償化」などを、すぐに財源がないからと取り下げた。本来、取り下げる必要はなかった。「今は財源がないから、優先順位が高いものから手を付ける。もし状況が許せば、将来、それに取り組む」と言えば、「嘘つき」呼ばわりはされなかったのではないか。 

生活面での「優先順位」でいえば、日頃から、自分なりの価値観や美意識を大事にしていることが大切である。また社会や生活の中には、先人の知恵として優先順位をつけやすい仕組みがあちこちに組み込まれていたりもする。そんな話を、養老孟司さん福岡伸一さんがしている。『せいめいのはなし』から。 

福岡 「選択できないと、はたらけなくなっちゃうわけだ。どちらへ行けばいいのかわらかないから、混乱してストップしてしまう」 

養老 「いちばん身近な例でいつも感じているのは右利きと左利きですよ。利き手というのは、いざというときにないと困るんですね。わかりやすくいえば、利き足がないといざというときに逃げるのにうさぎ跳びになっちゃう」 (P148)

利き手もそうだが、レディ・ファースト、弱者優先などの考え方もそういうことだと思う。考えることなく、そうすることで社会がスムーズに動くし、居心地がよくなる。だから、こういうものは大切にしなければいけないのだと思う。

自分なりの「優先順位」というもこそが、その人の価値観や美意識とイコールなんだと思う。それは、政治家や国家でも同じことなんだろう。きっと。

2013年10月18日 (金)

「日本人が陥りがちなこと。それは『選択肢があるのに選択をためらい。先延ばしにし、いつまでも選択はしない』という態度だ」

きのうのブログ(10月17日)の最後で、誰かが「人生は、選択の連続である」ということを言ったと書いたが、それに近い言葉を見つけたので載せておきたい。

解剖学者の養老孟司さんが、毎日新聞(2011年1月11日)の書評欄で『選択の科学』(著・シーナ・アイエンガー)について取り上げている。その中に次のように書いている。 

「だれでも選択する。商品の場合には当然だし、結婚でもそうであろう。人生の大事はどのような選択をするかでしばし決められる」 

確かに言われるまでもなく、人生の中で「選択」が重要となることはしばしばある。選ばなければならないし、選んだものが常に正しい、安心という保証はない。

そこで今日は、そんな「選択」についての言葉を並べてみたい。
 

デザイナーの奥山清行さんは、著書『ムーンショットデザイン幸福論』で次のように書いている。 

「日本人が陥りがちなこと。それは『選択肢があるのに選択をためらい。先延ばしにし、いつまでも選択はしない』という態度だ」 

ついでに、前回も紹介した建築家の隈研吾さんの言葉をもう一度。毎日新聞6月16日から。

選ぶことは、諦めること。思い切りよく締める潔さが日本人にかけている」 

ともに、日本人は「選択」そのものが苦手になってきているという指摘である。 

さらに、毎日新聞の特集記事『イマジン』(6月7日)の中で、こんな文章を見つけた。 

「物があふれ、なんでも選べるようになった日本。その中で、私たちは、人生を、暮らしを、社会を自由に選んでいるのだろうか」 

「人と異なる選択をして“外す”ことを怖がる人たちは、ランキング情報や、口コミなどに頼る。これにより、選択の同質化が進む」
 

どんどん選択肢が増えていく現代社会。すると選ぶこと、すなわち捨てることに疲れてくる。その結果、ランキングや他人の選択に乗って選ぶという方法が横行する。これは「ランキング依存」や「数値依存」という傾向とも重なっている。(3月19日のブログ)。「イワシ化」という表現もあった。(4月16日のブログ) 

では、どうすれば「選択」に強くなれるか。続いて、そのヒントになるような言葉を並べていきたい。

養老孟司さんは、先ほどの『選択の科学』の書評欄で次のように書いている。 

「商品の品揃えが多すぎると、売り上げが激減するという。二十四種類の商品をそろえた場合と、六種類の場合を比較して、購入率に六倍の違いがあることを見出した」 

「人間の情報能力に関係する。せいぜい五から九くらいの種類のものしか、われわれは記憶して処理できないのである」
 

ライターの金子由紀子さんは、著書『40才からのシンプルな暮らし』で次のように書く。 

「モノを減らすことで、自分にとって大切なものとそうでないものが、はっきり見えてくるという効用があります。そうすると、やるべきこととやらなくていいことも、自然と見えてくるのです」 

モノが増え、選択肢が増えていくことは豊かな社会の一面であることは間違いない。でも、いくら選択肢が多くても選べなければ、もともこうもない。前回のブログの中での言葉とも通じるが、豊かな選択肢を前にして、自分の価値観に従い、そこから捨てる、見切るなど、断捨離を行うことは、すなわち選びやすくするための準備でもある。 

棋士の羽生善治さんも、著書『羽生善治の思考』で次のようにも書いている。 

「たくさんの選択肢のなかから選ぶと、間違いなく後悔する。3つくらいのなかから選ぶのは後悔しないのに、10も20もあるなかから選ぶと、絶対に後悔することになる。ただ、そういうものだと思っていれば、それほど悩んだり、後悔することは少ない」 

ちょっと飛ぶが、国の混乱を避けるため、選挙での政党の数を制限している国(?)もあるというのを読んで興味深く感じた。 

ノンフィクションライターの高野秀行さん著書『謎の独立国家ソマリランド』から。ソマリランドの選挙制度について。 

「まず、政党の数は三つに限定されている。もし政党の数をかぎらないと、ちいさな分分分家くらいのレベルまで氏族レベルで人々が政党を作ってしまうことが目に見えているからだという。たった三つしかなければ、氏族間で協力する必要がある。では、どうやって政党を三つに絞るかというと、これが選挙なのである。人(議員)を選ぶ前に『党』を選ぶ選挙があるのだ。憲法ではこの政党選挙を十年に一度行うと明記されている」 (P463) 

「ソマリランドの憲法では『政党は三つまで』と定められている。そして十年に一度、その三つの政党を決める選挙が行われる。ベスト3から漏れた政党は消滅し、政治家は三つの政党のどれかに入党することになる。なぜそんなことをするのか。それはまず氏族同士で固まるのを防ぐため。もうひとつは政党が乱立すると単純に国民が混乱するから」 (P494) 

もちろん日本の選挙に、この方法をいきなり導入するわけにはいかないのだろうが、生活の中で、常に選択肢を減らしていく工夫・訓練をしていくことは可能なのではないだろうか。最後に、こちらもヒントになる言葉。船橋洋一さん『カウントダウン・メルトダウン』に紹介されていた、当時、内閣参与だった劇作家の平田オリザさんの言葉。 

「ベストの選択は無理だと思います。できる限り公正と思われる情報を集めて、次善、三善の策を考えていくしかありません」 (P202)

ベストの選択をしようとするから選択できなくなっていく。リスクゼロではないにしろ、ベターと思われるものを選び、そのあとは「だましだまし」修正を加えていくという風に考えることができれば、少しは楽に「選択」できるようになりそうな気がする。


2013年10月17日 (木)

「なにかを決めることにはなにか断つ覚悟が必要だし、それがなければその決断はいい方向に進まないだろう」

前々回(10月15日)前回(10月16日)は、「リスク」についての言葉を並べた。そこで入れなかった言葉をまず紹介したい。

政策研究大学院大学客員教授の小松正之さんは、雑誌『中央公論』11月号で、次のように書いている。 

「決断するためには、知識を集め、思考することが必要になる。ひとつの答えや主張を導くということは、それだけ他の可能性を捨てるというリスクを取ることだ」 (P44) 

棋士の羽生善治さんは、著書『羽生善治の思考』で次のように書く。 

「積極的にリスクを負うことは、未来のリスクを最小限にすること。決断とリスクはワンセット。本当のリスクとは、決断を下した後にともなうリスクではなく、決断を下すべき時に束の間のリスクを恐れ、逃げてしまうこと。怖いと思っても、恐れず前に進んでいく気持ちは次の勝利への大切な姿勢だと思います」 

ともに「リスク」についての含蓄ある言葉。それと同時に「決断」というフレーズも出てくるところが興味深い。もしかしたら「決断」と「リスク」というのはセットかもしれないと思って、そんな言葉を今日は並べてみたい。 

まず、メジャーリーグ。ヤンキースで活躍する黒田博樹さんは、まさに『決めて断つ』というタイトルの著書で、次のように書いている。 

「なにかを決めることにはなにか断つ覚悟が必要だし、それがなければその決断はいい方向に進まないだろう」 (P13) 

さらに次のように書いている。 

「思うに、ひとつの道を選ぶには徹底的に考え抜くことが必要だ。それが正解とは限らないわけだが、それでも自分で決めた以上、『あれだけ考えたのだから、これが正解だ』 

と思わなければやっていられなくなる。いや、むしろ自分の選んだ道が『正解』となるように自分で努力することが大切なのではないかと思う」 (P165)

上記した羽生善治さんは、著書『直観力』では、次のように書いている。

「対局中に、自分の調子を測るバロメーターがある。それは、たくさん記憶できているとか計算ができるとか、パッと新しい手がひらめるとかいったことではない。そうではなく、『見切る』ことができるかどうかだ。迷宮に入り込むことなく、『見切って』選択できるか、決断することができるかが、自分の調子を測るのにわかりやすいバロメーターになる」 (P27)

続いて、建築家の隈研吾さんが、毎日新聞6月16日で語っていた言葉。

「選ぶことは、諦めること。思い切りよく締める潔さが日本人にかけている」 

次のコラムニストの小田嶋隆さんの言葉も、どこか通じるものがあるような。朝日新聞10月8日から。 

「人生を途中からやり直そうとするなら、まず何かを捨てることです。捨てた結果、その空白に強制的に何かが入ってくる。その『何か』がいいか悪いかは、また別の問題ですけれど」 

断つこと、諦めること、捨てること、見切ること。これこそが、決断すること、選び取ることであるという。「リスクゼロ」の選択肢なんて、そうそうあるものじゃない。我々は、そんな選択ばかり待っているから、なかなか前に進めなくなっているのかもしれない。 

その意味で、活動家の湯浅誠さんが、TBSラジオ『ゴールデンラジオ』(7月23日)に「選挙」「投票」について語っていた次の言葉もどこか重なっているのではと思う。 

「われわれ、自分の好みのものを選ぶことに慣れている。それが普通になっているので、なかなか自分に100パーセント合致するものはどこもないけど、じゃあ、そのなかでどれがより悪くないかなって選ぶ、という習慣がなかなかない。そうすると、気に入ったものがないという形でどこにも入れないとなる」 

「どうしても自分に合ったものを選ぶ、気に入ったものを選ぶというのが、マーケット」
 

「勝負事はそう。将棋とか、いい手ばかり選んでられない。局面ではより悪くない手を刺さなくてはいけない。そこで致命的な手を刺さないことによって結果的に勝つ。野球もそう。100球投げて、100球ベストの球を投げられるわけはない。そういう風に考えられると、ショッピング的、カタログ的な発想にすると、どこにも入れるところはないとなる。いかに社会をより悪くしない、より少しでも欠点を少なくする方を選ぶという発想もできるんじゃないのかな」
 

リスクゼロの選択を待つのでなく、決断をして、より悪くない選択肢を選ぶ。こういう考え方が大切なのではないか。当然、そこには「リスク」は伴うだろう。でも、その「リスク」と上手に共存していくというのが人生なのではないか。そう思えてくる。 

最後に、羽生善治さん著書『羽生善治の思考』に書いてあった次の言葉を載せておきたい。 

「自分が選んだものに対して責任を取りつつ自信を持つことが大事なのではないだろうか」

そういえば「人生は、選択の連続である」ということを言っていた人もいた。誰か思い出せないけど。

2013年10月16日 (水)

「リスクゼロを求めて焦り、かえってリスクと共生できずに不安要因を増大させてしまっている」

きのうのブログ(10月15日)に続いて、「リスク」について。それにまつわる文章がいくつか見つかったので、ずらりと並べてみる。

まずは、ノンフィクションライターの武田徹さんと、作家の川上弘美さんが、ジブリの『風の谷のナウシカ』を取り上げて書いている文章があったので、それから。 

武田徹さん著書『原発論議はなぜ不毛なのか』から。 

「ナウシカが墓所で述べた通り、『清浄と汚濁こそが生命』なのだ。青き清浄の地がナウシカたちを寄せ付けなかったことは象徴的であり、リスクゼロの空間とは生命活動自体を拒絶する場所なのだ。私たちが既にリスクに汚れていることを自覚し、汚れを引き受ける覚悟を伴わずには私たちの社会は立ちゆかない」 (P150) 

続いて川上弘美さん、『ジブリの教科書1 風の谷のナウシカ』から。 

「生きていれば、まったく害をなさずにいられるわけがない。完全に正しいものなんて、あり得ない。なのに自分のなした過ちを『なすはずがなかったことなのに』と悩むのは、傲慢で自己過信なことなのだと思う。今ではそれがちょっとわかる。マチガイノナイ人間ハ、イマセン」 (P226) 

武田徹さん、著書『殺して忘れる社会』では、「リスク」について次のようにも書く。 

「『リスクをあえて取る』という考え方は日本ではなじみにくいようだ。日本語で「リスク」は危険一般を単にカタカナ読みしただけなものなので『リスクは避けるべきだ』と直結してしまう。リスクゼロを求めて焦り、かえってリスクと共生できずに不安要因を増大させてしまっている」 

統計物理学者で大阪大学教授の菊池誠さんによる「リスク」の説明も分かりやすい。朝日新聞2012年2月29日から。

「リスクというのは『危険度』。『あるかないか』じゃなくて、程度の問題なんです」

程度の問題ということは、そもそも「ゼロリスク」という概念そのものがフィクションなのかもしれない。

続いていて、東海テレビの阿武野勝彦さん著書『戸塚ヨットスクールは、いま』から、現代の風潮について。 

「リスクに過敏になる余り、責任を他者に負わせ、安全圏からモノを投げつける個人主義が、より人間関係を乾いたものへと押しやっている」 

リスクを避け、リスクゼロを追い求める風潮。これが我々の社会を息苦しくしている。 

次は、サッカー界から。まずはライターの海江田哲朗さん。サッカー取材でチームや選手といった取材対象から感じることを次のように書いている。雑誌『サッカー批評』61号から。 

「とにかく、失点しないことが第一。全然せめてない。そういった逃げ腰の姿勢は全体ににじみ出ており、どれほど周囲のエネルギーを注いでいるのか気が付いていない」 (P58) 

そして、イビチャ・オシム氏著書『考えよ!』から。 

「『リスクを負わない者は勝利を手にすることができない』が私の原則論である」 (P144) 

同じくオシム氏雑誌『ナンバー・プラス』(2010年10月号)では、次のように話している。 

「リスクを冒さずに負けた時、日本はすべてを失うということを。単に試合を失うだけではない。これまでに築き上げてきた実績や名誉、信頼、さらには子供達の将来、日本サッカーの未来をも失うことになる。リスクを冒さなければ、勝っても後に何も残らない。逆に負けた時には、ダメージがとてつもなく大きい。誰もがそこをよく考えるべきだ」 

続いて、棋士の羽生善治さん今年2月5日のブログでも、紹介した次の言葉。著書『直観力』 から。

「無駄を排除して高効率を求めたとしても、リスクを誘発する可能性がゼロにはならない。むしろ、即効性を求めた手法が知らず知らずのうちに大きなリスクを増幅させているケースもある。無駄と思えるランダムな試みを取り入れることによって『過ぎたるは猶及ばざるがごとし』を回避できるのではないかと考えている」 (P41) 

てっとりばやく目の前のリスクを避け、フィクションのような「リスクゼロ」を追い求めた結果、かえって大きなリスクを招き、大切なものを失ってしまう。そんな感じだろうか。 

では、リスクとどう上手に付き合って生きていくか。前回、紹介した小松正之さん「いざというときにリスクを取る自信と能力をつけるために、我々は学び続けねばならない」という言葉もそうだが、上記のそれぞれの言葉にヒントがある気がする。 

最後に医師で神戸大教授の岩田健太郎さんの食品についての次の言葉も、きっと他のことにも当てはめることができるのでは。著書『「ゼロリスク社会」の罠』から。

「食品リスクを回避する秘訣は単純で、いろいろなものをバランスよく食べることに尽きます。危険な食品を口にする可能性は常にゼロではありませんが、いろいろな食品を少し打つ食べていれば、悪い食品にあたって時のダメージを最小限に抑えられます」 (P116)
 

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