水を差す

2014年5月13日 (火)

「時代の風を受けながら、未来を切り開こうという思いが、制作側にも、出演者にもあふれていた。そうした気概を感じさせてくれるバラエティ番組がほとんど見当たらなくなった」

先日、このブログ(4月10日)で「最近のお笑いには批評精神がない」ということを書いた。

そこでは「失念している」と書いていたが、その元となる言葉がみつかったので、改めて紹介したい。元フジテレビのプロデューサー、佐藤義和さんの言葉。著書『バラエティ番組がなくなる日』より。

まず、現在のお笑いタレントたちについては、次のように書いている。

「今どきのお笑いタレントたちは、とても頭がよく、社会性もある。ネタの完成度も高く、整っている。現在の視聴者にどのようなものが受けるかを研究した上で、正しい計算をしている。どんな舞台に立たせても、一定の笑いをとり、客を満足させることができるのだ」 (P123)

これは、前回の時に書いた爆笑問題の田中裕司さんの言葉と重なる。

しかし佐藤氏は、お笑いのレベルは上がっていると指摘する一方で、次の指摘もしている。

「その一方で、時代を変えていこうとする気概、気負いのようなものはまったくない。ないことが悪いとは思わないが、新しい時代をつくっていくための武器としての破壊力もあまり感じられない」

「それはお笑いタレントに限った傾向ではなく、日本の若者全体に共通することだろう。世の中に不満をもって闘おうとすることは、彼らにとって見返りのないそんな役回りである。多少、不満を抱いていたとしても、それは心のなかにしまって、静かに生きていたほうが無難だということだ」 (P123)

その結果、現状維持や予定調和の温存が続いていくことになっているのではないだろうか。

新しい価値観というものが生まれることなく、いつまでも閉塞感は続いてしまう。

佐藤義和さんは、かつて自分の担当していた番組については次のように書いている。

「確かに、『オレたちひょうきん族』をくらだない番組だったといわれれば、そのとおりかもしれない。少なくとも高尚な番組ではなかっただろう。子どもたちに悪い影響を与えなかったといい張るつもりはない。しかし、新しい笑いをつくり出そうという情熱はあった。時代の風を受けながら、未来を切り開こうという思いが、制作側にも、出演者にもあふれていた。そうした気概を感じさせてくれるバラエティ番組がほとんど見当たらなくなった」 (P23)

新しいものをつくろう、未来を切り開こう、という気概はあったという。

新しいものを創り、未来を切り開くためには、現状を見つめ、揺らし、時には否定することが必要となる。それが「批評精神」というもの。

佐藤氏は、こうも書いている。

「日本人は、社会風刺の価値をふたたび見つめるべきだと私は思っている。まだ具体的に何をすればよいか、プランはないが、日本のお笑いをもう少し腰のあるものにするために、社会風刺の切り口が必要なのだろうと思う」 (P182)

「その根拠のひとつは、笑いの原点に『社会批判』があるということである。社会批判といっても、新聞の社説や雑誌記事のように『こんな問題が存在する』『こんな悪い奴がいる』といったトーンではなく、『社会風刺』というしゃれた手法で、この社会を切っていく。それも日常社会を慎ましく送る庶民の視点で」 (P188)

せっかくタレントのレベルが上がっているのなら、「新しい価値観が生まれるかもしれない」という可能性を感じられるお笑いを少しずつでいいので作っていってほしい。

お笑いには、現状に水を差す大切な役割があるのだから。

個人的な心からの希望です。

2014年4月10日 (木)

「日本はいつのころからか、『道化』の中にばかりスターを求めるような風潮ができてしまっている」

今回は、ちょっと話題を変えて、「笑い」についての言葉を並べてみたい。

少し前、ラジオを聴いていたら爆笑問題の田中裕二さんが、今のお笑い芸人について次のように語っていた。TBSラジオ『久米宏ラジオなんですけど』(2月22日放送)より。

「今のお笑い芸人いるじゃないですか。若手とかも。ものすごい才能というか、レベルはとんでもなく上がっている。もちろん多いから。ジャンルとしてお笑いのすそ野が広がっている。今や人気ですから。だから僕らが子供のころ見ていたお笑い番組やバラエティより、面白さでは上回っていると思う」 (午後1時20分ごろ)

今のお笑いのレベルは高い。これは、よく耳にする指摘である。層も厚くなっているし、バラエティ番組も増えていて、確かにそうなんだろう。

でも、どこか「本当だろうか」「以前の方がドキドキした」という思いも残る。この思いについて考えてみたい。

イラストレーターの山藤章二さん毎日新聞夕刊(3月28日)で次のように語っている。

「自分の想定内のお笑いが好まれ、想定内のオチが好まれる。想定内のお笑いを逸脱するともう、処理できない」

「予定調和で成立している番組で、誰か一人が異論を言うとその場の空気が壊れるんですね。でもね、本当はそれが面白い。ひんしゅくを買う発言をあえてする度胸のある人がいなくなってしまった」

つまり。
既成の概念を崩して、新しい価値観を作ろうという「前衛的」なお笑いが見られないのではないか。層の厚さ、人気などによるレベル向上が、「前衛」には向かわず、「予定調和」の温存に働いているということなのかもしれない。

誰かの言葉かは失念したが、以前、「最近のお笑いには批判精神がない」というコメントを目にしたことがある。残念ながら自分のメモには残っていなかった…。

その一方で、「お笑い」の社会的立場はどんどん高くなっていく。テレビの中では、朝から深夜まで、お笑いタレントが、政治を語り、生活を語り、教育を語り、文学を語り、映画を語り…、と何でも語る。しかかも「ネタ」というより、ひとつの「権威」のように語っている。

なぜ彼らはそんなに「偉く」なったのか。流通しているからなのか、儲かっているからなのか、その理由はよくわからない。

もう少し「お笑い」に関する言葉を。

まずは、糸井重里さん著書『キャッチボール』から。

「日本はいつのころからか、『道化』の中にばかりスターを求めるような風潮ができてしまっている。道化は、確かに求められてもいいけれど、みんなが道化を目指したり、道化を評価しなくてもいい」 (P7)

北野武さん雑誌『sight』(2013年秋号)より。

「オレは反権力というよりもね、シェイクスピアとかさ、いろなところでピエロ出てくるじゃん。その程度だと思うよ。ピエロはピエロだからということで、悪口言えるじゃない。その程度だと思うよ。権力があって、そのそばにくっついて悪口がんがん言って、自分は罰せられない程度っていう」 (P152)

その通りだと思う。「道化」は道化としての役割がある。「トリックスター」としての役割が。なにの、それをいつの間にか本当の「スター」としてあがめてしまうのが最近の風潮なのだろう。

元吉本興業の木村政雄さん著書『「正しいオヤジ」になる方法』より。

「確かにメジャーになったことは素晴らしいことなんですが、でもどこかに『いえいえ所詮、お笑いのやることですから』という謙虚さのようなものを持っていないといけないと思うんですよ」 (P39)

コラムニストの小田嶋隆さん著書『ポエムに万歳』より。

「人間は、そんなに笑う必要があるのか、ということだ。笑いは、スパイスに過ぎない。主食ではない」 (P187)

そもそも所詮、「笑い」であり、「お笑い」であるのだ。


「所詮」だからこそ、気軽に、予定調和を崩したり、新しい価値観をさぐる役割ができる面もあるのではないか。メインでなく、スパイスだからこそ、失敗を恐れず、チャレンジしてみることができる。

話は飛ぶかもしれないが、
以前のブログ(3月14日)で紹介した「空気とムラのガバナンス」という言葉を思い出した。

ビデオニュース・ドットコム『マル激トーク・オン・ディマンド』(3月8日放送)での、ジャーナリストの船橋洋一さんの次の言葉をもう一度。

「異論をあえて唱えることをダサい。KYなんだよ、読めないと。空気を読めるやつばかりだから、役に立たない。村と空気のガバナンスをやっているから、どうしても危機には弱い」 (パート①29分ごろ)


もっと「お笑い」が既成の価値観に対して、異論を唱え、水を差すことをやってほしい。そうすれば、社会そのものから「異論を唱えることはダサい」という風潮を少しでも減らせるのではないか。

また、そこから新しい価値観が生まれるかもしれないという期待が発生し、少しでも閉塞感を打破できるかもしれない。


そういうトリックスターとしての役割を「お笑い」が失っていることは、きっと「空気とムラのガバナンス」を温存することにどこかでつながっていると思う。

 

 

2014年3月14日 (金)

「空気を読めるやつばかりだから、役に立たない。ムラと空気のガバナンスをやっているから、どうしても危機には弱い」 

今朝(3月14日)のTBSラジオ『スタンバイ』で、森本毅郎さんが、浦和レッズのサポーターによる差別的横断幕の問題に触れて、次のように語っていた。

「熱心になって、声援も一糸乱れずに送りたいという気持ちが高ぶってくると、どうしても統制を乱す人たちはちょっとお引き取り願いたいとなる。訳が分かった人たちだけでやりたい。この気持ちが横断幕になったんだろうけど、横断幕の言葉が悪い」

「言ってみれば集団で一糸乱れずにやりたいというこの発想。個々、一人ひとりが自由に応援するとか、自由に喜ぶとかではもの足りない。これが高じると、こういう形になって、自分たちと違う人たちは全部排除と。情けない話だと僕は思いますよ」


集団。統制。一糸乱れず。そして、言葉による違う人たちの排除。これらは、今の日本の社会で、あちこちで見ることのできる構図ではないか。

同調圧力、効率化、コントロールしやすい集団、そして曖昧な言葉による「異なる価値観」の人たちの排除…。


まさに安倍政権がやろうとしている政策も含めて、この1年くらいで、急速に広まっている構図なんだと思う。

きのう聴いていたビデオニュース・ドットコム『マル激トーク・オン・ディマンド』(3月8日放送)でほとんど同じ構図について話していたのを思い出す。こちらは原発について。

ゲストとして出演していたジャーナリストの船橋洋一さんが、原発をはじめとした日本社会の問題について次の言葉で語っていた。船橋さんは、福島原発事故独立検証委員会のプログラムディレクターを務めた。

「民間事故調で『ムラと空気のガバナンス』という言葉を打ち出した。まさに空気。異質のものを認めたくない排除しようする」

「だから本当の意味での議論がなかなかできない。同質的なもの、初めから結論を分かっていて落としどころが分かっていて相場観を共有している、ということ。これは、リスクという観点に絞ってみても、ここまでにしておきましょうという、みんな言わなくても以心伝心分かっちゃう」
 (パート①27分ごろ)


「異論をあえて唱えることをダサい。KYなんだよ、読めないと。空気を読めるやつばかりだから、役に立たない。ムラと空気のガバナンスをやっているから、どうしても危機には弱い」 (パート①29分ごろ)

一糸乱れない集団。異物・異論の排除。結局、日本社会は、どこもかしこも行っても「ムラと空気のガバナンス」になってしまう。政治、原発、そして浦和のサポーターたち。

「ムラと空気のガバナンス」では、曖昧なローコンテキストの言葉が流通し、誤解や不和を広げてしまうというのは、まさに浦和サポーターがやったこと。(3月6日のブログ

上記のビデオニュース・ドットコムの番組で社会学者の宮台真司さんが語っていた次の言葉も覚えておいた方がいい。

「口火を切る。空気を破る人間が、この世界では、特に最悪な事態が起こるかもしれないときには、もっとも倫理的な振り舞いとなるということ」 (パート①6分ごろ)

何回でも書く。空気が破る。つまり、水を差すことが、もっとも「倫理的な振る舞い」となるのである。(「水を差す」

今回の浦和レッズの問題では、差別的な文字を掲げたサポーターも問題だが試合中に他のサポーターから指摘を受けたものの、何も動かなかった球団の問題もある。

これも、原発事故と重なる部分がある。上記の番組で、司会でもあるジャーリストの神保哲生さん宮台真司さんとのやりとり。

神保 「危機対応ができていないために、何が発生しているかというと。一番大事な時には非決定という、何も決めないということによる決定がなされている。で状況が流れていくということが必ず起きる」

宮台 「日本の場合は、過失不作為、みんなでやれば怖くない。明らかに過失があったんですよ。みんなが不作為なことによっておこった過失なので、責任は問えない。つまり責任はないということなる」 (パート①58分ごろ)

過失不作為。まさに「思考停止」であり、「見たくないものは見ない」「考えたくないことは考えない」問題。「集団的アインヒマン状態」ともいえる。(3月3日のブログ

2013年10月10日 (木)

「ただ誰も試したことがないだけなのだ。一度試してみれば分かる。不可能なことなんて何一つない」

久々に「水を差す」から離れてみたい。
これまで「失敗」についてのコメントをいろいろ紹介してきた。


今年3月25日のブログでは、サッカー協会の田嶋幸三さん著書『「言語技術」が日本のサッカーを変える』から。 

「サッカーは失敗のスポーツ。ですから、失敗の出来る体験は、とても大切なのです。思考錯誤で何度も何度も失敗するからクリエイティビティが生まれてくる。日本選手たちにクリエイティビティが足りないとすれば、ひとつの答えを求めすぎる結果、失敗を怖れてトライしないからではないでしょうか」 (P197) 

続いて、2月25日のブログ  

雑誌『OUTWARD』(2012年12月号)から。宮城県栗原市にある、くりこま高原自然学校の代表・佐々木豊志さんの言葉。 

「確かに体験させるというのは時間がかかります。子どもが失敗を繰り返しながら体験しないといけませんから。でも、いまは学校教育も家庭も含めて社会全体に子どもとじっくり向き合う余裕がない。物事をあまりに深く追求することがなくなってきたので、農業とか林業など早く答えがでないものに対するイメージがますます欠落していくのではないかと危惧しています」 

さらにイビツァ・オシムさんも、著書『考えよ!』では、次のように書いている。 

「結局、サッカーであろうと人生の他の分野であろうと、誰もが多くのリスクは負わないのだ。現在では、誰も必要以上のリスクは負わない。そこが私にとって日本人の理解しがたい部分である。なにしろ銀行員でさえリスクを負わないのだから」 (P162) 

そして、こうも言う。 

「リスクを負わないものは勝利を手にすることができない、が私の原則論である」 (P144) 

オシムの言う日本人の理解しがたい部分。必要以上に「失敗を恐れる」「リスクを負わない」ということ。きっと、これと同じ体質を指摘しているという文章に出くわしたので、それを紹介したい。 

建築家の坂口恭平さん著書『モバイルハウス 三万円で家をつくる』から。 

「日本という国はなんだか規則がきつくて自由ではないという印象がある。実際はそんなことないのではないかと僕は思っている。ただ誰も試したことがないだけなのだ。一度試してみれば分かる。不可能なことなんて何一つない。どんなこともできる」 (P105) 

「試す。とにかく試す。徹底的に考えて試す。試すと、固まったシステムはくすぐったがる」 P178) 

「この過程で一番強く感じたことは、『試せば大抵うまくいく』ということである」 (P179) 

当然であるが、チャレンジしたり、試したりしないと、失敗もしないかわりに、オシムの指摘するように「勝利も手にできない」、田嶋さんの指摘するように「クリエイティビティも生まれてこない」。 

なぜ試さないのか。坂口恭平さんは、次のように書いている。 

「人間は忙しすぎて、試す時間を失ってしまっている。これが国家がどうしようもなくなっても成立してしまう理由だ。みんな実践する時間がないのだ。それよりも飯を食べるために、家を確保するためにだけ、働かなくてはいけない。これは本当に変える必要がある」 P185) 

その「時間」について。上記に紹介した佐々木さんも触れている。
 

さらに、フランスの経済哲学者、セルジュ・ラトゥーシュさんは、毎日新聞夕刊(10月7日)で次のように書いている。

「時間を取り戻し、治療するためにも、今すぐに脱成長社会を構築しなければなりません」 

「さまざまな距離を縮小し、生活を地域に根差し、スローな生活を再評価する。労働時間を削減し、製品の耐用年数を伸ばし」 

「私たちは速度への執着から解放され、時間と生活の奪還へと向かわなければなりません」 

時間と生活の奪還。それが「試すこと」「失敗を恐れないこと」につながっている。

もっと言えば、坂口さんの書く「試す。とにかく試す。徹底的に考えて試す。試すと、固まったシステムはくすぐったがる」というフレーズは、「水を差す」ということにも通じている気がする。



2013年10月 9日 (水)

「僕らの立場でできることは違和感を表明し続けることしかない。誹謗中傷ではなく、理性的な違和感の表明」

一昨日のブログ(10月7日)に続き、「水を差す」という言葉について。

今年から筑波大学教授となった精神科医の斎藤環さんが、今日の東京新聞(10月9日)で次のように語っていた。まずは、戦前の空気を受けての話。 

「主戦論が盛んな場面で『勝ち目がないからやめよう』とはなかなか言えない。流れに水を差す人が忌避されたり、そういう人が自分から慎んでしまったりする傾向が積もり積もると、それが合理的だとわかっていても、撤退に踏み切れず、悪習の源になりかねない」 

今の風潮では、経済成長については、「主戦論一色」といってもいいのではないか。まずは経済を盛り上なきゃ、という空気が強い。原発にしろ、東京オリンピックにしろ、アベノミクスを後押しするものについて「批判」、すなわち「水を差す」ということがなかなか言えないのである。 

そんな「水を差す」ことがしにくい空気、風潮。それに対して、我々ができることとして、斎藤さんは、こんなことを挙げている。 

「僕らの立場でできることは違和感を表明し続けることしかない。誹謗中傷ではなく、理性的な違和感の表明」 

「穏便かつ理性的に、礼儀正しく違和感を表明する発想が大事。けんかしても原発は終わらない。すっきりしない感情をどう持ちこたえるか、成熟度が問われる」
 

そう。
それでも我々にできることは、ひとつひとつの「違和感」、それもひとつの「水」だと思うのだが、それを提示していくこと。しかも、感情に流されずに、理性的に、礼儀正しく。


 

2013年10月 7日 (月)

「日常が揺さぶられ、撹拌されなければ、生きることがたいへん過酷で困難になってしまいます」

ここ3回のブログ(9月13日から)では、「水を差す」ということについての言葉を並べてみた。もう少し追加したい。

文化放送『ゴールデンラジオ』(10月4日)
を聴いていたら、大橋巨泉さんがまさに世の中の空気に「水を差す」ような発言をしていた。

踏切で倒れたお年寄りを助け、亡くなった横浜の女性に対して、安倍総理が表彰したことに対して、巨泉さんは、「誤解を恐れずに言うと」と断ったうえで、次のようにコメントした。

「表彰するなんてとんでもない。個人的に『私は感動しました』と安倍総理がいうのはいい。 でも『亡くなった女性の命も大切な命なんです、そういうことはしないでください。お年寄りには、踏切の中でしゃがまないでください』というのが国を扱う政治家の言うべきこと」

まさに、このニュースをもてはやす世の中の雰囲気に「水を差す」コメント。ボクも、こういうコメントも必要なんだと思う。

オリンピックに対しては、東北の復興と絡めて、次のように「水を差す」。

「オリンピックが受かったって言って喜んでいる日本人ってどうかしていると思う」

この巨泉さんの発言を受けての、室井佑月さんのコメントも印象的。


「今、オリンピックのことに『ん~』と言おうものなら売国奴って言われちゃう」

「正論は言いたいんですよ。『なんだかなあ』っていう雰囲気に負けちゃう」


ここで指摘されている「正論を言えない空気」。これについては、ちゃんと受け止め考えていかないといけないと思う。

さて。
この「水を差す」、そして「空気を揺らす」という行為がなぜ必要なのか。もう一度、考えてみたい。

ちょっと関係ないように思えるかもしれないが、ここでは思想家の内田樹さんが、著書『聖地巡礼Beginning』で、村上春樹さん描く世界について語っていた言葉を印象してみたい。

「この世界の無数のものの中には『どんな選択肢をとっても存在しているはずのもの』と『あのとき別の道をたどっていたら存在していないはずのもの』があることになる。そうやって類別すると世界の風景が一変するでしょう」 (P205)

「どんなことがあっても存在し続けるべきものと、わずかな手違いで消え去ってしまうものを識別する能力というのは、今を生きる上で死活的に重要なものだと思うんです。その能力のことを『壁抜け』というんじゃないかと思うんです」 (P206)

つまり、どんな世界でも存在し続ける「リアルなもの」と、少し世界が変われば「消え去ってしまうもの」の識別が大事だということ。ここから連想したのだが、なぜ「水を差す」のか、「空気を揺らす」のか。例え、水を差されたとしても、存在し続けるものと、水を差しただけで消えてしまうものとを、識別するために、その行為は必要なのではないか。 ということである。

さらに上記の本では、対談相手である僧侶の釈徹宗さんが語っていた次の言葉も印象深かった。

「我々は倦まず弛まず、苦しい日常を這いずりまわりながら、何とか生き抜いていかねばなりません。しかし、そのためにはときどき日常が揺さぶられ、撹拌されなければ、生きることがたいへん過酷で困難になってしまいます」 (P296)

とても深い。

いつの間にか自分の周りに広がり、固定されている日常や空気というもの。これを「水を差す」「空気を揺らす」ことで時々、変えていかないと、自分の居場所がどんどん息苦しくなっていく、ということなのではないか。 

2013年9月25日 (水)

「五輪は権力者にとってはいいツール。ほとんどの不満を脇によけてしまう」

少し時間がたったが、もう少しだけ、前々回のブログ(9月13日)に続いて「水を差す」ということに関する言葉・論評を載せておきたい。

デザイナーでライターの、高橋ヨシキさんは、朝日新聞(9月21日)で次のように述べている。 

「今、東京でのオリンピック開催を批判すると非国民扱いです。ムラ祭りでみんな気持ちよくなっているんだから邪魔するな、邪魔すると村八分だぞと。もちろんそんなこと、言語化されませんよ。言葉じゃなくて空気で人を動かす」 

言葉でなく、空気で動かす・・・。 

そして次のようにも述べる。 

「何にでも『国民的』をつけたがるのも、その一環です。AKB48は『国民的アイドル』、宮崎駿監督作品『国民的アニメ』」 

「『国民的』にみんなが無批判に乗っかっていく風潮と、そんなヌルい状況を揺さぶるような表現を『過激だ』といって排除したがる風潮はコインの裏表で、それを支えているのは、本や映画を、『泣いた』『笑った』ではなく、『泣けた』『笑えた』と評するタイプの人たちです」
 

国民的な盛り上がりには、「水を差す」ことさえ許されなくなってくる。

どこからもクレームがつかないことが最優先された、大人の鑑賞に堪えない『お子様ランチ』のような作品だらけになってしまいました。表現の質が下がれば観客のリテラシーが下がり、それがさらなる質の低下を招く。お子様ランチを求める観客と、お子様ランチさえ出しておけば大丈夫とあぐらをかく作り手。そのレベルの低い共犯関係が社会にも染みだしてきた結果が、いまの『国民的』ムラ社会なのでしょう」 

上記の言葉は、前回のブログ(9月17日)で、詩人の荒川洋治さんが述べた次の言葉とほとんど重なる。改めて。 

「詩人がみな多数派を志向したら、表面的な心地よい言葉が愛され、深く考えて発せられた言葉が軽んじられる危険がある」 

詩の「お子様ランチ」化…。

続いて、作家の奥田英朗さん。奥田さんには、前回の東京五輪を題材にした小説『オリンピックの身代金』がある。東京新聞夕刊(9月19日)から。
 

「国がかじ取りをする時には、必ず振り落とされ、見捨てられる人が出てくる。64年に関して言えば、底辺の労働者であり、地方だった」 

「だが、社会全体で『五輪に水を差すな』という雰囲気があり、問題にならなかった。五輪は権力者にとってはいいツール。ほとんどの不満を脇によけてしまう」

「水を差すな」という空気が出来上がることによって、一番喜ぶのは、権力者なのだろう。この構図は、以前のブログ(5月7日)で書いた「権力者・リーダーは、辺境を排除しようとする」ということと殆ど重なっているような気がする。

2013年9月17日 (火)

「自由であるためには孤立しなくちゃいけない。例外にならなくてはいけないんです」

前回のブログ(9月13日)では、「水を差す」という行為についての言葉を並べてみた。山本七平さん「『空気』を排除するため、現実という名の『水』を差す」ことが必要と指摘しているにもかかわらず、実際、今の時代や社会では、この「水を差す」という行為が、排除や炎上の対象となってしまう。「水を差す」ことがやりにくくなっている中で、我々は何ができるのだろうか。今回は、そのヒントとなるような言葉を探してみた。

東愛知新聞の社説(9月1日)には、こんな言葉が書かれていた。 

「大切なことは、もう一つあります。復興や再建、政策転換に取り組む時に『空気を読まない』ということです」 

「求められているのは、しっかりと自分を持ち、『考えたくないこと』でも考えるという『空気の国の習い性』からの脱出です」 

そして、作家の辺見庸さん神奈川新聞(9月8日)の『現在は戦時』と題したインタビューで、次のように語っていた。 

「日本のファシズムは、必ずしも外部権力によって強制されたものじゃなく、内発的に求めていくことに非常に顕著な特徴がある。職場の日々の仕事がスムーズに進み、どこからもクレームがかからない。みんなで静かに。自分の方からね。別に政府や行政から圧力がかかるわけじゃないのに。メディア自身がそうなっている」 

「自由であるためには孤立しなくちゃいけない。例外にならなくてはいけないんです」 

そして、詩人の荒川洋治さん朝日新聞夕刊(9月10日)で、東日本大震災後、大量に書かれた震災を主題にした詩や歌や、現代詩について、次のように語っている。 

「被災者への共感がないと誤解されかねないので、『震災詩』を批判するのは難しい。ただ、翼賛的な空気の中で詩人たちが戦争を肯定する詩を書いてしまった苦い歴史もあり、批評は大事」 

「80年以降、現実世界を否定するよりも、目の前の快楽が重視されるようになり、詩も社会性を失っていった」 

批評の欠落、目の前の快楽の優先。これは、前回紹介した「saraband」という方の、ツイッター(9月9日)での指摘と重なるように思える。そちらを、もう一度、書いてみる。 

「クリティカルな欠点を覆い隠したうえでなりたっている、多数派の多幸的な雰囲気、空気、これは、知的ではなく、感情的な論理である。比較的多数の、空気にのって楽しんでいる多数派は、それに水をさされると、感情的嫌悪感で反応してくる。『キモい、怖い、マゾ』であり、排除である」

目の前の快楽を優先する多数派が作り出す「空気」。それに対して、どうしたらいいのか。荒川洋治さんは、詩人として次のように語る。 

「世の中の一般的な論調には同化せず、詩を書く立場からしか見えないことや感じとれないことを書く」 

「詩の言葉は少数の人に深く鋭く入っていくことに意味がある。詩人がみな多数派を志向したら、表面的な心地よい言葉が愛され、深く考えて発せられた言葉が軽んじられる危険がある。ぼくは自分の詩は50人くらいに読まれれば十分と思っている。読む人が多すぎると表現の穴を見つけられるという恐怖感もあるのだけど」

辺見庸さんも、荒川洋治さんも個人的に大好きな方である。

「空気を読まない」「考えたくもないことでも考える」「孤立する」「例外になる」「一般的な論調に同化しない」「少数の人に深く鋭く入る」。こうしたフレーズは、我々が今すべきことの大切なヒントになっていると思う。


2013年9月13日 (金)

「『空気』を排除するため、現実という名の『水』を差す」 

先週の日曜日、2020年オリンピックの東京開催が決まった。そのあと、「水を差す」という言葉をちょくちょく見かけ、とても気になった。そのいくつかを書いてみたい。

共産党の参議院議員、小池晃氏ツイッター(9月8日)から。 

「ニコ生で原発についての首相プレゼンを批判したら『五輪に水を差すな』というコメントが」 

思想家の内田樹氏ツイッター(9月10日)から。 

「つづいて目白で朝日新聞のインタビュー。『五輪開催について』。『水を差すようなことを言う人』を探してウチダのもとにいらしたそうです。なかなかいないんです」 

朝日新聞デジタル版(9月12日)で、コラムニストの小田嶋隆さん。こちらは「水を差す」ではなく「水をかける」という表現を使っている。 

「なぜ水をかけるんだっていう同調圧力がある。反論しにくくならないか心配してます」

個人的に、この「水を差す」という行為や言葉について考えたことがある。

 ボクはメディアというものが持つ役割は「水を差す」ことなのではないかと思って働いてきた。同じような表現として個人的には「空気を揺らす」と言ったりもした。

水を差し続けることで空気を揺らす。揺れることによって、そこから落ちてくるものを掬い上げる。これがメディアが基本的にやるべきものだと思っていた。 

小田嶋隆さんも、TBSラジオ『たまむすび』(9月11日)で、次のように話している。 

「(コラムニストとういうのは)本当は、空気を読めとか、同調しろとかいうものに対してザブザブ水をかける係ですね」 

そうそう、そんな感じ。のはず。

しかし、ここ数年来、「水を差す」という行為は、メディア的にも、社会的にも、企業的にも、個人的にも本当に難しくなった。というか、許されなくなった。と思う。 

その雰囲気をsarabande」という方が、ツイッター(9月9日)で次のように表現していた。

「クリティカルな欠点を覆い隠したうえでなりたっている、多数派の多幸的な雰囲気、空気、これは、知的ではなく、感情的な論理である。比較的多数の、空気にのって楽しんでいる多数派は、それに水をさされると、感情的嫌悪感で反応してくる。『キモい、怖い、マゾ』であり、排除である」

今や、「水を差す」ものは、「キモい、怖い、マゾ」という感情的嫌悪の存在なのである。そんな行為は、排除か、炎上の対象としかみられないのではないか。

もう一度思い出した方が良い言葉がある。かつて山本七平氏は、名著『「空気」の研究』で次のように書いている。

「『空気』とはまことに絶対権をもった妖怪である」 (文庫版P19) 

「もし日本が、再び破滅へと突入していくなら、それを突入させていくものは戦艦大和の場合の如く『空気』であり、破滅の後にもし名目的責任者がその理由を問われたら、同じように『あのときは、ああせざると得なかった』と答えるであろうと思う」 (P20)

山本氏は、上の『「空気」の研究』に続いて、『「水=通常性」の研究』という文章も書いている。その文章から。 

「『空気』を排除するため、現実という名の『水』を差す」 (P129)

「先日、日銀を退職した先輩によると、太平洋戦争の前にすでに日本は『先立つもの』がなかったそうである。また石油という『先立つもの』もなかった。だがだれもそれを口にしなかった。差す『水』はあった。だが差せなかったわけで、ここで“空気”が全体を拘束する。従って『全体空気拘束主義者』は『水を差す者』を罵言で沈黙させるのがふつうである」 (P92)

やはり「空気」というものに支配されないためには、「水」という現実を差す必要があるのだろう。

なのに。今の社会でも、「水を差す」ものは、『キモい、怖い、マゾ』となり、排除されてしまう。

となると、日本社会は山本七平氏の言うように「再び破滅へと突入」となってしまうのか。悲観論ばかりでは、本当にやれやれという気持ちになる。では、われわれはどうしたらいいのか。まだまだ考える時間は残されていると思うのだが。




その他のカテゴリー

★「アメリカ幕府」 ★「予測社会」 ★「復興」を考える ★「日本人」信仰 ★「普通」って何!? ★「目の前」と向き合う ★「粉飾社会」 ★なぜ社会風刺が許されないのか ★サッカーと「永続敗戦」と、 ★サッカーと多様性 ★ノーミス・ノーリスク病 ★メディアの自粛 ★一億総活躍社会って!? ★個別性と複雑性 ★公共性って何だ? ★前のめり社会 ★勝利至上主義を考える ★反知性主義について ★否定性の否定 ★変わるということ ★大事なことは面倒くさい… ★嫌な感じと違和感 ★広場と民主主義 ★忘れないために ★批評&批判の大切さ ★政治家の言葉 ★教養とは何か ★歴史から学ぶこと ★民主主義って何だ? ★消費者民主主義 ★現代の独裁とは ★社会の中のスポーツ ★考えることの大切さ ★責任とは ★雑感 クリエイティビティ グローバリズム コントロール コンプライアンス システム・組織 ジャーナリズム スペースを埋める パブリック・公共 メディア・テレビ ランニングコスト リスク リベラル・自由 ルール 仕事・労働 体罰問題 価値観 優先順位・選択 内向き 効率主義 単純化 同調圧力 安倍政権 対米従属 市場原理 幸せとは 忖度・自粛 感情 憲法 戦争 教育・子供 数値・数字 橋下現象 民主主義 水を差す 現世利益 自律と他律 自転車 言葉・言語力 長期的視点 震災・原発

カテゴリー

無料ブログはココログ