感情

2014年5月16日 (金)

「キーワードは『エモーショナル』。親しみやすさを強調し、大衆をコントロールしようとしている」

きのう夜6時、安倍総理は集団的自衛権についての記者会見を行った。

その会見について、評論家の小沢遼子さんは、今朝のTBSラジオ『スタンバイ』(5月16日放送)で次のように語っている。

「情緒的だと思った。自分が議員の時、演説は情緒的にやると受けるということが分かって、演説というものが大嫌いになった」


安全保障が専門という東京財団研究員の小原凡司さんは次のように述べていた。TBSラジオ『シャッフル』(5月15日放送)より。

「今日の会見には違和感。重要な議論が抜けて、焦点が矮小化してみえた」

「非常に感情に訴える部分が多かった」


ジャーナリストの神保哲生さんは、同じ番組で次のように指摘している。

「記者会見をテレビのコマーシャルのような扱いをしている気がする」

「時間帯も6時という時間を選んでるし、いわゆるお茶の間の普段政治にあまり関心のない、新聞の政治欄なんてほとんど読んでいない方々に、“やっぱこれは必要なんですよ。そう思うでしょ”というような感じのプレゼンテーション」


まさに、以前このブログ(4月18日)に載せた青山学院大学教授の大石泰彦さんによる安倍政権のメディア対策の指摘そのものの。そんな記者会見だった。もう一度、大石さんの指摘を載せておきたい。毎日新聞夕刊(4月10日)より。

「キーワードは『エモーショナル』。親しみやすさを強調し、大衆をコントロールしようとしている」

さらに元外交官で作家の佐藤優さんは、今朝の文化放送『くにまるジャパン』(5月16日放送)で次のように語っていた。


「きのうの記者会見は演説や会見というより、詩の朗読会、ポエムと思って聞けば理解できる。立派なことをやりたいんだと強い意欲を示したもの。小保方晴子さんの記者会見と一緒。両方ともポエムです」

「ポエムは理屈の話ではない。気合いと、心にどうしたら響くかということ。ある人の心には今回響いたんでしょう。ある人の心には響かない。詩はいいか悪いかという心の受け止め方ですから。きのうは心の時間だったなという感じ」


もう政治もポエムの世界なのである。リーダーの総理大臣が国民に対して堂々とポエムを語っているのだ。

ちなみに、佐藤さんは、安倍政権の外交についても、次のような言葉で語っていた。

「ポエム外交。心の動きだけで外交をやっている」

結局、今の日本の政治や政治家のレベルは、そんなものということなのだろう。

精神科医の斎藤環さんが、朝日新聞(2012年12月27日)で行った次の指摘を裏付けることでもある。

「自民党は右傾化しているというより、ヤンキー化しているのではないでしょうか。自民党はもはや保守政党ではなくヤンキー政党だと考えた方が、いろいろなことがクリアに見えてきます」

ヤンキー化している自民党の総裁だから、会見でポエムなのである。

斎藤環さんは、著書『ヤンキー化する日本』でこんな指摘をする。

「そう、ヤンキーはポエムが好きだ。ポエムは情感を盛り上げ、気合をもたらし、自らの正当性を信じ込ませてくれるなにものかだ。ポエムの良いところは、知識や論理とは無関係に、依拠すべき肯定的感情をもたらしてくれるところだ。同時にまた、ポエムは強力な共感装置でもある」 P38)

斎藤さんは、ヤンキーの特徴として、次のことも挙げている。

「特徴の例として、熟慮を嫌う、理屈を嫌う、反知性主義の傾向が強い」 (P89)

まさに日本の政治は、熟慮なき、知性なき、論理なき世界に入ろうとしている。それは間違いないと思う。

2014年4月21日 (月)

「ネタ的な感動消費ではない言葉を、自ら引き受けて生きる覚悟のある人間が作品をつくり、その姿勢が読んだ人にも文字を通して伝わっていく」

エモーショナルな社会について。続きます。

前回のブログ(4月18日)では、雑誌編集者の渋谷陽一さんの、次の言葉を紹介した。雑誌『SIGHT』(2014年SPRING号)より。

「リベラルや左翼の言っていることって、全然楽しくない。エモーショナルじゃない」 P118)

エモーショナルな考え方、捉え方をするひとが社会のメインとなっているんだから、エモーショナルな表現や物語じゃないと彼らには届かない、という指摘である。

渋谷さんの指摘するリベラルや左翼の反対にいるのが、分かりやすく言えば「橋下徹」という人物なのだろう。

社会学者の中島岳志さんは、著書『世界が決壊するまえに言葉を紡ぐ』で彼について次のように語っている。

「橋下徹氏は、日教組を叩く同じ地点から電力会社を叩く。言葉は乱暴になり、罵倒が続く。それに人々の期待が集まる。みんな断言に群がる。『わかりやすさ』への渇望は、単純化への希求に変容する」

「ズバッと言ってくれる人。敵を見せてくれる人」

「シニシズムが拡大すればするほど、救世主待望論が加速する。グロテスクな言葉が人々の熱狂をあおり、世界を委縮させる。言葉が毒をもち、やせ細る」 P22)

まさに、エモーショナルな言葉や手法で、市民の期待を集めるという構図。よりエモーショナルな言葉が繰り出され、そしてエモーショナルな社会も加速する。

こうしたエモーショナルな世の中に対しての処方箋として、中嶋さんは「言葉」の大切さを説く。

「私たちは、いまこそ言葉を必要としている。言葉によって漠然たる苛立ちを客体視し、不安を凝視する必要がある。そこからはじめるしかない。人間はどこまでも言葉の動物なのだから」 P22)

我々が大切にしないといけないのは、「言葉」でしかない。エモーショナルな言葉ではなく、対象を静かに客体視する言葉。それを作家の高橋源一郎さんは「弱い言葉」という表現をしている。雑誌『SIGHT』(2014年SPRING号)より。

「文学ってすべて弱い言葉なんです。じゃあ、負けたかっていうと、長いレンジでいうと勝っているんだよね。ドストエフスキーもセルバンテスも、弱い言葉で、その時点では負けるかもしれない。他の強いと思われた言葉は時の移り変わりとともに消え去っていくんだけど、弱いと思われていた彼らの言葉が生き残る、というのが僕たちの経験則」 (P120

エモーショナルな言葉、グロテスクな言葉、その時は「強い」と思われた言葉は、やがて消えていく。消費されていく。そうじゃない「弱い言葉」が生き残るという。

文芸評論家の大澤信亮さんの次の指摘も、同じことだと思う。『世界が決壊するまえに言葉を紡ぐ』より。

「僕は『文学の力』がどういうところにあるかというと、実践的な言語使用の中にあると思っています。ネタ的な感動消費ではない言葉を、自ら引き受けて生きる覚悟のある人間が作品をつくり、その姿勢が読んだ人にも文字を通して伝わっていく。そういうものだけを僕は文学と呼びたい」 (P114)

一瞬で消えていく「感動消費」ではない言葉…。

エモーショナルの物語や言葉を発して、瞬間的にウケて、消費され、消えていくのではない、長く残る言葉を綴っていく。そういうことなんだと思う。

作家の重松清さんの次の指摘もこれに通じる。こちらも『世界が決壊するまえに言葉を紡ぐ』から。

「長く残る言葉って、やっぱり『わかりにくさ』を残していると思うんです。安易な『わかりやすさ』の誘惑にはまらない」 (P190)

次のコラムニストのえのきどいちろうさんの指摘は、実は「うどん」についてのものだけど、同じことだと思う。著書『みんなの山田うどん』より。

「一世を風靡しなかっただけに生き残れる」 (P153)

エモーショナルな社会に対して、我々は、エモーショナルな言葉で対抗するのではなく…。


弱い言葉。実践的な言葉。客観視する言葉。一見わかりにくい言葉。一世風靡しない言葉。…。

そうした長いレンジで生き残っていく言葉を見つけて綴っていかなければならないのだろう。

高橋源一郎さんは、次のようにも言う。雑誌『SIGHT』(2014年SPRING号)より。

「今は、僕の認識でいうと、文明史的転換のときだと思っているんです。これはかつてなかったことなので、政治の言葉自体が一から更新されるべきかもしれない」 (P127)

 

2014年4月18日 (金)

「エモーショナルな物語でなければ対抗できないからって、こっちもエモーショナルな言葉を謳っていいんだろうか」

前回の続き。エモーショナルな世の中について。

雑誌『SIGHT』(2014年SPRING号)では、作家の高橋源一郎さんと、思想家の内田樹さんと、編集長の渋谷陽一さんとの対談が掲載されている。

渋谷陽一さんは、東日本大震災以降の衆議院選挙、参議院選挙、そして都知事選と、いずれも脱原発などを掲げたリベラル候補が敗北したことについて、次のように語っている。

「リベラルや左翼の言っていることって、全然楽しくない。エモーショナルじゃない」 P118)

「いわゆる左翼やリベラル勢力は、ポップな言葉を忘れすぎている。だから勝てない。だからそこで新しい言葉を持たない限り、敗北主義になってしまったり、アングラなものになってしまう危険性はあると思う」 P121)

「たとえば脱原発っていう言葉ひとつ言っても、幸せそうに響かないわけだよ」 P121)

今や社会のメインとなった感情や情緒で物事を考える層に、リベラル勢力は何も訴えることができていないという指摘である。エモーショナルに訴えないと、結局は彼らには届かないという見方である。

正直、この渋谷さんの抱く、焦りというか、忸怩たる思いは十分理解できる。

これに対して、高橋源一郎さんは、次のように語る。

「今の安倍政権の、愛国というエモーショナルな物語に対抗するには、当然エモーショナルな物語じゃなきゃいけないんだけど、僕はそれは危険だなと思っているところもある」

「エモーショナルな物語でなければ対抗できないからって、こっちもエモーショナルな言葉を謳っていいんだろうか」 (P125)

では、どうしたらいいのか。

エモーショナルでしかものを考えない人たちに、エモーショナルな物語や、エモーショナルな言葉以外で、どう語っていったらいいのか。

高橋さんは、次のようにも語っている。

「今安倍さんたちがやっていることは、有権者の愛国心を強めて、強い国を作るっていうことではなくて、物事をシンプルにしようっていう話なんです。『何も考えないで、俺たちの言うことをきけ』と。『国民なんだから国を愛するのがあたりまえだろ、以上、終わり!』というのが。今進行していることなんだ」

「僕らの『物事は複雑だよ』という論理は、強い言葉にならないと思うんだよね。弱い言葉を無数に集めるしかなくて、僕らは集める側に回っているということなんです」 (P128)


世の中をシンプルに従っている勢力に対して、とりあえずは「世の中は複雑だよ」と言い続けるしかない。時間がかかっても、今は力弱くても、それ以外の方法は結局はない、そんな気もする。

ただ、渋谷さんの焦る
気持ちも分かるだけに難しいのだが…。

「感情のレベルとか情緒のレベルで考えている人も社会にはいっぱいいる、そっちがメインなんじゃないか、と」

以前のブログ(1月21日)で、橋下徹・大阪市長の次の言葉を紹介した。(感情」 

「民主主義は感情統治」

人びとの感情を操ることによって政治を動かす。

それに近い指摘を先日、読んだ。青山学院大学教授の大石泰彦さんは、安倍政権のメディア対策について、次のように指摘している。毎日新聞夕刊(4月10日)より。

「キーワードは『エモーショナル』。親しみやすさを強調し、大衆をコントロールしようとしている」

安倍政権の支持率が相変わらず、50%を超えていることを考えると、そのエモーショナル・コントロール、すなわち感情統治は成功しているとも言えるのではないか。言い換えれば、政治によるマインド・コントロールである。

こうした政治家によるエモーショナル・コントロールが効果を発する背景には、次のようなことがあるのかもしれない。社会学者の開沼博さん雑誌『SIGHT』(2014年SPRING号)より。

「要は『自分はものを考えている』っていう自覚を持っている人は論理で考えていくけども、感情のレベルとか情緒のレベルで考えている人も社会にはいっぱいいる、そっちがメインなんじゃないか、と」 (P72)

そうなのだろう。今は、論理で考えるより、感情や情緒で考える人の方が社会の主体になっている。悲しいことに、これが現実なのである。

だからこそ、曖昧な輪郭の言葉や、ポエムのような言葉が流通している。2013年11月21日のブログ 2014年1月16日のブログ

また、こちらも以前のブログ(1月22日)でも紹介したが、精神科医の名越康文さんの次の指摘にも通じる。MBSラジオ『辺境ラジオ』(2014年12月29日放送)より。

「ちゃんと自分の頭で理解したいと思うんだけど、今のところ『理解したい』というのが、『感情的に理解することが正しい』となってしまっている。自分でも感情的に判断しているのか、ちゃんと落ち着いて判断しているのかの区別がつかない人が一番多い」

結局、今の世の中、「感情」や「情緒」で回っていたり、動いたりしているのである。

やれやれ。

結局、こうした社会では、いったい誰が得をしてるのだろうか。そして、こうした社会は、どこへ向かっていくのだろうか。

2014年3月 7日 (金)

「昔だったら諌められたり、馬鹿にされたりしてブレーキがかかったんだけど、今は縦割りになっていて、自分の好きなネットワーク以外には触れない。でたらめな思考や偏見が超伝導サーキットのように永久に回り続けるという特徴がある」

きのうのブログ(3月6日)では、翻訳家のドキュメンタリー映画の話題を取り上げた。そのあと今週の新聞を見ていたら、たまたま翻訳家の池田香代子さんのインタビューが、毎日新聞(3月5日)に載っていた。その中の印象的な言葉は次のもの。

「安倍さんが首相になるよりずっと前から、物事を単純化して快不快で反応したり、発火点が低かったりする感情の劣化が始まっていた気がします」

単純化。快不快で反応。発火点の低下。感情の劣化。最近のキーワードが入っている。どうして、こういうことが起きるのか。


社会学者の宮台真司さんの言葉を思い出す。TBSラジオ『デイキャッチ』(2月28日放送)より。

「見たいものしか見ない。見たくないものは一切見ない。というところに偏見を持つ人たちの特徴がある。実際にはネットが加速する。昔だったら諌められたり、馬鹿にされたりしてブレーキがかかったんだけど、今は縦割りになっていて、自分の好きなネットワーク以外には触れない。でたらめな思考や偏見が超伝導サーキットのように永久に回り続けるという特徴がある」

日本人の持つ「見たくないものは見ない」という習性。これをネットは加速してしまうのだと言う。(3月4日のブログ

今週、千葉県柏市で起きた通り魔事件。この容疑者の男について、今朝(3月7日)のTBSラジオ『スタンバイ』で、評論家の小沢遼子さんは、概ね次のような話をしていた。

「ネットが全て。ネットの中では相当自分の思い通りの自分を実現している。やがて自分が作った現実と現実との『乖離』を感じざるを得ない。疎外感を持つようになる」

自分たちの「見たいもの」「考えたいこと」だけで、自分やその世界を作り上げていく。一方での「乖離」「疎外感」。それについては、ネガティブな感情を煽って共有することによって埋めていく。それが今回の事件やヘイトスピーチの問題などにもつながっているのかもしれない。(2月21日のブログ

 

きっと、これは個人の問題だけではない。例えば、政治での「過激な発言続き」にも通じているような気もする。

 

こうして感情の劣化の問題はますますまん延することになる。(1月21日のブログ

もうひとつ宮台真司さんの指摘を載せておく。TBSラジオ『デイキャッチ』(2月21日放送)から。

「どこもかしこも俗情にこびるようになってきている。何が立派な態度で、リスぺクタブルな態度なのか、ということを本当はメディアが、インテ―ネットもそうだけどお互い伝い合わなければならない。実はナショナリズム、国粋主義も俗情にこびる営みの中に入り込んでしまっている」

感情に流されない態度をロールモデルとして、ちゃんと提示していく。

思い込みや偏見がそのまま温存される構造。本来は、立派なモデルと比べたり、アドバイス、諫言などいろいろなもので「水を差す」ことによってアップデイト(更新)していかなければならないのに、それがされない。温存されたものが、逆に感情の劣化に伴って、加速され、増幅されていく構造になっている。それが社会のあちこちで顔を出しているのではないかと思う。

2014年1月22日 (水)

「やっぱり言葉以外のことを伝えるために言葉で書いているのでしょう」

きのうラジオを何気なく聴いていたら、エコノミストの吉崎達彦さんが次の言葉だけが耳に入ってきた。文化放送『くにまるジャパン』(1月21日放送)より。

「最近のビジネスのキーワード。ものづくりから感動を売る仕事へ」

職人や高い技術でちゃんと作られたものより、感動さるものが売れる時代になっている、ということ。当然というか、ビジネスの世界でも「感情を刺激すること」が優先されている。

既存の価値観を疑い、新しい価値観を見出す、という「批評」より、「感情さえ刺激すればよい」「共感が呼べればよい」という風潮に対して、ボクたちはどう対処していけばいいのか。今回は、そんなことを考えてみたい。

精神科医の名越康文さんが、MBSラジオ『辺境ラジオ』(12月29日放送)で、次のように話していた。

「ちゃんと自分の頭で理解したいと思うんだけど、今のところ『理解したい』というのが、『感情的に理解することが正しい』となってしまっている。自分でも感情的に判断しているのか、ちゃんと落ち着いて判断しているのかの区別がつかない人が一番多い」

名越さんは、「感情的に理解すること」と「ちゃんと判断すること」は別のことだとしている。そして今や、ものごとを判断する価値基準について、「感情」以外の指針がなくなってしまったとする。

「自分がもっと違う指針を持ちたいと思うようになっている。ところが何の指針で判断するのかが、日本人にはない」


「ところが日本には大きいのはやはり宗教がないというのがあるので、何を判断基準にするかというと結局、感情しかない。それに代わる指標を持つことは絶対にこのままではできない。そこを真剣に考えなければならない。では、何の軸で選ぶのかということ」


人々が感情的に動くと、世の中は荒れてくる。社会学者の宮台真司さんは、ビデオニュース・ドットコム『マル激トーク・オン・ディマンド』(1月4日)で、次のように語る。

「入れ替え可能問題。感情の働きもそう。誰でも反応するように反応することは浅ましい。入れ替え可能であり、別の可能性はないかについて考えるできない思考停止状態。そういう状態を脱することができるか」 (パート2 20分ごろ)

思想家の内田樹さん著書『街場の憂国論』で書く次の文章も、宮台さんの指摘と同じことだと思う。

「『誰でも言いそうなこと』を言う人の言葉づかいはしだいにぞんざいになり、感情的になり、断片的になり、攻撃的になり、支離滅裂になっていき、やがて意味不明のものになります」 (P8)

「『誰でも言いそうなこと』を語る人は、『いなくなっても替えが効く人』だということです。その人自身は『多くの人が自分と同じことを言っている』という事実を根拠にして『だから私の言うことは正しいだ』と思っています。ネットに匿名で攻撃的なことを書く人のほとんどはそういう前提に立っています」 (P10)

感情が優先される世の中は、「入れ替え可能な言葉」があふれ、荒れていくということだろう。そして、「民主主義は感情統治」というような政治家が現れ(きのうのブログ)、マインドコントロールに絡めとられていく。

我々は、どうすればいいのか。次の内田樹さんの言葉の中にヒントがあるような気がする。上記の名越康文さんの言葉を受けて語ったもの。MBSラジオ『辺境ラジオ』(12月29日放送)より。

「カミュが言っている『反抗』とは何か。これは『反抗』ではない。元の言葉は、どっちかというと『嫌な感じ』『ちょっとムッとする』『ちょっと気持ち悪い』ということ。『理屈はあっているけど、言いすぎじゃない』『筋は通っているけど、言いすぎでしょ』。ある限度や節度を越えたときに『嫌な感じ』が自分はする。その『嫌な感じ』をベースにして哲学体系、倫理を構築しようとした。普通は、価値あるもの、信義であったり、善であったりするものを確固たる基盤にして、哲学や倫理の基盤を構築するわけだけど。自分の中で発生する『それ我慢できない』『むかつき』とか、身体的に生物としておかしいのではないかという感覚が彼にはある」

「むかつき」「我慢できない」、言い換えれば、「違和感」ということなのではないか。自分が時間をかけて身につけた価値観やリテラシーに照らして、内部から湧き上がる「違和感」。これを自分の判断基準にするということなのである。

実際に、カミュがいた時代のフランスのレジスタンスは、それをもとに連帯し、ファシズムと戦ったという。

「ナチスに対するフランスのレジスタンス。俺は『これが我慢できない』という我慢できない感を彼らが共有していた。頭にくる、怒り、とは違う」

「最終的に人間が大きな決断する時には、プラスのイメージに向かって『ああいう理想社会を作りましょう』『みんな、このイメージで、綱領で統一しましょう』『いいですか、反対の人でていけ』というのではなく、『オレ、どうしてもこのシステム我慢できないんだけど』『オレも!』というもの」

ふむふむ。

ただ、思うに「違和感」というのも、「感情」の一つであることは確かである。きっと大事なのは、自分の内部に芽生えた「違和感」に向き合うこと。そしてその、まだ言葉にならない「違和感」を、ちゃんと「輪郭のある言葉」にして相手に伝えていく。ということなのではいか。

作家の小川洋子さん毎日新聞(1月13日)に、そのままのことを書いていた。自分の小説に対しての姿勢だけど、これは小説以外のことにも当てはまると思う。

「小説も言葉でしか表現できないけども書いていない所で、何を伝えるか。辞書にないような意味合いまでを伝えたい、あるいは想像させたいと思う。そのための言葉選びをする。ということは、やっぱり言葉以外のことを伝えるために言葉で書いているのでしょう」

繰り返す。やはり「言葉」なのだと思う。


2014年1月21日 (火)

「民主主義は感情統治」

続いて、「感情」についてもう少し考えてみたい。

 

きのう(1月20日のブログ)では、エンターテイメントやクリエイティブの世界が、「感情さえ刺激すればよい」「共感が呼べればよい」という風潮を強めている、そんな言葉を紹介した。

その結果のクリエイティブ作品の劣化。そして、その「感情」自体もどんどんダメになっているという指摘がある。

社会学者の宮台真司さんTBSラジオ『デイキャッチ』(1月10日放送)で、「感情の劣化」の問題について語っている。

「感情の劣化問題。昔、日本人の多くが持っていた心の働きが劣化してしまったので、その一方で政治の劣化をもたらし、性愛の劣化をもたらし、一方で犯罪の劣化をもたらしています。犯罪がどんどんずさん化している。それは社会の劣化も示している」

感情の劣化は、クリエイティブ作品の劣化だけにとどまらない。政治への劣化へと続いていく。

「インターネット化は民主制と両立しない。従来政治参加しなかった層がインターネット化を背景に参加できるようになった。感情の劣化がただちにインターネット上にある種の炎上現象を醸し出す。それで政治が、あるいは政治家が動かされてしまう」

 

「人々は鬱屈する。鬱屈した人々は、感情的に劣化しているので、感情の釣りで炎上させれば、社会を手当てしなくとも、政治は回る。ポピュリズムは回る。そして感情の劣化現象に適応した政治的メッセージを発しないと当選できなくなる」

完全に「劣化」のスパイラル現象である。

 

実際、政治の世界では、具体的にどんな動きが起きているか。以前書いたこのブログ(2012年7月10日のブログ) を思い出す。

そこで紹介したドキュメンタリー監督の想田和弘さんの言葉を、ここでも改めて。雑誌『世界』(2012年7月号)より

「橋下氏は、人々の『感情を統治』するためにこそ、言葉を発しているのではないか、そして、橋下氏を支持する人々は、彼の言葉を自ら進んで輪唱することによって、『感情を統治』されているのではないか」

実際に大阪市長の橋下徹氏は、かつて自身のツイッター(2012年5月10日)に、次の言葉を書いていた。

「民主主義は感情統治」

言い換えると、マインドコントロール。こわい、こわい。

2014年1月20日 (月)

「なんか『前衛』を再構築しなければいけないという気がしている。今、文化といっても、まさに前衛みたいな感覚がない」

前回のブログ(1月17日)では、今は「『共感』が優先される時代」について考えてみた。

 

「共感」。

今の社会では、まずは「感情に訴えること」が優先されているのではないか。曖昧でフワッとした「ポエムの言葉」がありがたがれる様子(1月16日のブログ)などからも、「感情」というものが必要以上にチヤホヤされ、「共感」や「感情」によって今の社会が形作られているのではとも思う。

今回は改めて、クリエイティブの世界と「共感」「感情」の関係について考えてみたい。

まずは、批評家の東浩紀さんの指摘。ビデオニュースドットコム『マル激トーク・オン・ディマンド』(1月4日)で次のように話している。

「例えば、小説であれば今の時代のリアルをうまい具合にくみ取ったみたいな、みんなが共感できるみたいな小説になる。エンターテイメントと純文学とか違いが全然なくなっている」

「昔は人を傷つけようが何だろうが『こういうことをやるのが文学だ』『こういうことをやるのが芸術だ』というものがあった。そういう軸を取り戻さないとダメだと。それが政治的前衛ともつながっていく」 (パート2 29分ごろ)

「日本って。知識人の責任というのがない。テレビ知識人というのは、大衆がなんとく無意識に思っていることを言葉にして、共感をできるというだけ。彼らは何も導かない」 (パート2 33分ごろ)

続いて、
デザイナーでライターの、高橋ヨシキさん朝日新聞(9月25日)から。(2013年9月25日のブログ でも紹介)

「どこからもクレームがつかないことが最優先された、大人の鑑賞に堪えない『お子様ランチ』のような作品だらけになってしまいました。表現の質が下がれば観客のリテラシーが下がり、それがさらなる質の低下を招く。お子様ランチを求める観客と、お子様ランチさえ出しておけば大丈夫とあぐらをかく作り手。そのレベルの低い共犯関係が社会にも染みだしてきた結果が、いまの『国民的』ムラ社会なのでしょう」

そんなヌルい状況を揺さぶるような表現を『過激だ』といって排除したがる風潮はコインの裏表で、それを支えているのは、本や映画を、『泣いた』『笑った』ではなく、『泣けた』『笑えた』と評するタイプの人たちです」 

一方、上記の東浩紀さんの対談相手、社会学者・宮台真司さんは、次のように語る。ビデオニュースドットコム『マル激トーク・オン・ディマンド』(1月4日)より。

「お涙ちょうだい映画を見に来るやつらにとっては、お涙ちょうだいであれば何でもいい。どのネタでもいい。そのような感情の働き方は、人を阿呆にするからよくない。喜怒哀楽を刺激するものだったら何でもいいの?という問題なんです。感情を刺激するウエルメイドの映画が増えている」 (パート20分ごろ)

ライターの速水由紀子さんは、映画監督の園子温さんについて書いたノンフィクション『悪魔のDNA』で、今の映画の観客について次のように書いている。

「観客は自分がどんな面白がり方をすればいいかはっきりしないと劇場に行かない。すっきりする。泣ける。エロい。笑える」 (P108)

「1800円払うのだから気分が爽快になる映画が見たい、という気持ちもわかる。そういう映画がヒットするのは自然の摂理だ」 (P110)

 

分かりやすく感情に訴えてくる映画ばかりがヒットする。この裏には、せっかく「1800円払っているのだから」という映画料金の高さも影響しているという。(2012年12月22日のブログ に関連)

こうやって色んな要素が相まって、「共感」を優先した作品ばかりが世の中にあふれるようになっている。ほかの価値観は見向きもされなくなる。批判精神にあふれ、新しい価値観、世界観を開拓し、広げようという作品は駆逐されてしまう。

上記した東浩紀さんは、こうも述べている。(ビデオニュース・ドットコムより)

「なんか『前衛』を再構築しなければいけないという気がしている。今、文化といっても、まさに前衛みたいな感覚がない」

ここで指摘する「前衛」とは、今の社会、作品に満足せずに、新しい価値観を試すこと。すなわち、そんな「前衛」の作品には、今の社会への批評精神が何よりも大事となる。

先日、映画館でキューブリック監督の『2001年宇宙の旅』を改めて観た。その「前衛」ぶりには心底驚かされた。45年前の作品とは思えない新しさがあり、この映画が他の映画にどれだけの影響を与え、その世界を豊かにしてきたのだろうと思う。


以前、このブログで「辺境」がなくなっていることについて書いたが、この「前衛」がないことも同根の問題だと思う。(2013年5月20日のブログ など)

上記したデザイナ-の高橋ヨシキさんは、同じ記事の中(朝日新聞9月21日)の中で、こんな言葉も口にしている。

「言葉じゃなくて空気で人を動かす」

このセリフは、エンターテイメント、クリエイティブの世界だけの話ではない。我々は、かつて「空気」によって過ちを犯してきたことを思う出した方がよい。(2013年9月13日のブログ

2012年7月10日 (火)

「彼は、『民主主義は国民のコンセンサスを得るための制度なのだが、そのコンセンサスは、論理や科学的正しさではなく、感情によって成し遂げられるものだ』と言っているのです」

先週木曜日(7/5)の朝日新聞に、劇作家の平田オリザさんのインタビュー『ひとりごと国会』が載っていた。政治家の言葉について、内閣官房参与を3年務め、鳩山元総理のスピーチライターもしていた平田さんに聞くというもの。

その中で「対話」と「会話」の違いについて述べた上で、なぜ日本に対話が根付かなかったのかを次のように書いている。

「近代化以前の日本は、極端に人口流動性の低い社会でした。狭く閉じたムラ社会では、知り合い同士でいかにうまくやっていくかだけを考えればいいから、同化を促す『会話』のための言葉が発達し、違いを見つけてすり合わせる『対話』の言葉は生まれてきませんでした」

「近代日本語は、フランス語や英語が150年から200年かけて行った言語の近代化、国語の統一という難事業を40~50年でやってしまった。すごいことです。ただ当然、積み残しや取りこぼしがでてくる。日本だけではありません。ドイツ、イタリアも日本とほぼ同じ頃、地方政府を統一し、近代化を急ぎます。そうすると、対話は余計なんですよ。面倒くさいから。僕は、それが、ドイツ、イタリアのファシズムや、日本の超国家主義の台頭を許したと思っています。対話は民主主義の大前提です」

平田さんは、野田総理の「言葉」から、政治と言葉について語っているが、ちょうど雑誌『世界』7月号では、大阪の橋下市長の特集が組まれていて、その中で映像作家の想田和弘さんが、橋下市長の言葉と政治との関連について語っている。

「橋下氏は、人々の『感情を統治』するためにこそ、言葉を発しているのではないか、そして、橋下氏を支持する人々は、彼の言葉を自ら進んで輪唱することによって、『感情を統治』されているのではないか」

さらに、橋下氏がツイッターで「民主主義は感情統治」とコメントしていたのを受けて、想田氏は、次のように語っている。

「僕はこのつぶやきにこそ、橋下氏が考える政治のイメージが集約されているように思えます。つまり彼は、『民主主義は国民のコンセンサスを得るための制度なのだが、そのコンセンサスは、論理や科学的正しさではなく、感情によって成し遂げられるものだ』と言っているのです」

実に興味深い指摘だと思う。ふつう政治家というのは、論理や科学的正しさを言葉でもって説明し、時間をかけて、市民とコンセンサスをとっていく。コンセンサスをとる過程において、大きな役割を果たすのが、対話であるはず。しかし、橋下氏は違う。対話より、「感情の統治」を重要と考えている。彼にとってのコンセンサスとは、感情的な言葉を投げ、その「感情の一致」のみによって得るものなのである。その結果、時間が省くことができて、スピードある政治が出来るというわけ。

以前読んだ『リスクに背を向ける日本人』という本の中で対談していたハーバード大学社会部長でライシャワー日本研究所教授の、メアリー・L・ブリントンさんも、日本人一般についてだが、こんなことを話していた。

「コミュニケーションが大切だと日本人はよく言いますが、日本人のいうコミュニケーションとは、『感情』に重きを置きすぎているんじゃないでしょうか。いわゆる『心を通わせる』ことがコミュニケーションなんだと」

「しかし、もう一つ必要なのは、『自分の意図や能力を相手にちゃんと伝えるためのコミュニケーション『スキル』です。アメリカ人は子どもの頃から、言葉を使って自分の『意図』を伝える訓練を受けています」

平田オリザさんが指摘するように、日本、ドイツ、イタリアが、近代化を急ぐ中、「対話」を面倒なもの、余計なものとしていたのと同様、橋下氏は、対話によるコンセンサスより、感情の一致によるコンセンサスの方を優先させているということになる。さらに日本人全般に当てはまることでもあるようだ。

政治家が「対話」によるコンセンサスを軽視する風潮、そんな時代にわれわれはどうすればいいのか。平田オリザ氏と、想田和弘氏の両者の考えをひいておきたい。

まずは、平田氏は次のように言う。

「日本は今、成長社会から成熟社会に移行し、富ではなく、負の分かち合いの時代に入りました。国会の体力が緩やかに衰退していく中、何を大事にして、何を諦めるのか。価値観をすり合わせながら、今後の方向性について国民的な合意を形成していかなければなりません。対話が切実に求められています」

そして想田氏は次のように言う。

「まず手始めに、紋切り型ではない、豊かでみずみずしい、新たな言葉を紡いでいかなくてはなりません。守るべき諸価値を、先人の言葉に頼らず、われわれの言葉で編み直していくのです。それは必然的に、『人権』や『民主主義』といった、この国ではしばらく当然視されてきた価値そのものの価値を問い直し、再定義する仕事にもなるでしょう」

それでも我々がすべきことは、対話を繰り返すことによって、新しい言葉をつくり、新しい価値観をつくってコンセンサスをとっていく。それしかないということなのだろう。

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