「『人材』という言葉は、本当は恐ろしい言葉であって、これからの社会では自分が『人材』だと言われたら怒るような、侮辱的な言葉と考えるべきだと思うのです」
前回のブログ(4月25日)の最後で、アメリカの政治学者のC.ダグラス.ラシスさんの次の指摘を紹介した。著書『経済成長がなければ私たちは豊になれないのだろうか』より。
「『人材』という言葉は、本当は恐ろしい言葉であって、これからの社会では自分が『人材』だと言われたら怒るような、侮辱的な言葉と考えるべきだと思うのです。私は材料じゃない、人間です、と答える人が増えるようになったらいいと思う。人が人材になるということは、人間を生産の手段にするということです」 (P150)
たまたまだが、そのあと『ワンピース・ストロング・ワーズ・セカンド』(著・尾田栄一郎)を読んでいたら、その解説で思想家の内田樹さんが、主役のルフィについて次のように書いていた。
「ルフィは『人材』という言葉も、『即戦力』という言葉も、『採用条件』という言葉も使いません。使うわけがないんです。そんなものは本当に創造的で、冒険的な組織にはあり得ないから」
「まず人との出会いがある。そこで『一緒にいたい』という思いが発生する」
「その人が出現して、その仕事をしてくれたおかげで、『ああこういう仕事をしてくれる人を私たちはずっと待ち望んでいたのだ』という認識に達する」 (P208)
雇われるものは「材料」ではなく、雇う者にとって一緒に働く「仲間」なのである。本来は。しかし現実は…。
ということで、今回も「労働」についての続きです。
前回は、日本社会では、経済成長のもと、人を「労働力」といして「消費」してきたという指摘を紹介した。
作家の高橋源一郎さんも、朝日新聞(4月24日)の論壇時評「ブラック化する、この国」で、次のように分析する。
「経済界は、いつでも辞めさせることのできる『労働力』を求めた。新自由主義の下に、あらゆるものが市場原理に晒されることになった。教育も例外ではなかった。学生たちは、取り換えの利く駒の予備軍になった」
教育も市場原理に取り込まれた結果、学生たちはどうなったか。
再び、内田樹さん。少し前の毎日新聞(2012年1月18日)では、次のように書いている。
「若者たちはおびえ、自信を失い、『いくらでも替えのきく使い捨て可能な労働力だ』と信じ込まされた。彼らは、どれほど劣悪な雇用条件に対しても行き申し立てができない」
高橋源一郎さんは、経済界側の要求だけで「駒」(「材料」)にされているわけではない、とも指摘。朝日新聞(4月24日)から。
「わたしたちは自ら望んで『駒』になろうとしているのかもしれない。わたしたちは、立ち向かわなければならないだ。まず、わたしたち自身の内側と」
やれやれ。
人を労働に就く「駒」としてしか扱わない世の中。我々はそんな場所で生きていくためには、自ら進んで「駒」になっているという。
この展開で文章を終わるのは忍びないので、もう少し。
高橋源一郎さんは、上記の文章の最初のところで、大学で働く同僚が卒業式で述べた学生向けの挨拶を掲載している。
「卒業おめでとうとはいえません。なぜなら、あなたたちは、これから向かう社会で、あなたたちを、使い捨てできる便利な駒としか考えない者たちに数多く出会うからです。あなたたちは苦しみ、もがくでしょう。だから、そこでも生きていける知恵をあなたたちに教えてきたつもりです」
では。この同僚という方が述べた「生きていける知恵」とは何か。
思い出す言葉がある。高橋源一郎さんが教えている大学とは違うけど、立教大学の吉岡知哉さんの言葉。このブログでも、これまでも何度か紹介している。もう一度、その言葉を。2011年度の大学院学位授与式での式辞から。
「皆さんがどのような途に進まれるにしても、ひとつ確実なことがあります。それは皆さんが、『徹底的に考える』という営為において、自分が社会的な『異物』であることを選び取った存在だということです。どうか、『徹底的に考える』という営みをこれからも続けてください。そして、同時代との齟齬を大切にしてください」
材料、消費財、駒として扱われることの苦しみから抜け出すために何すべきか。そのヒントがこの言葉にある気がする。