「われわれは道化師にもっと多くのことを要求したい。道化師は社会批評家になりうるのだ」
今回は「普通」から離れて、再び「お笑い」について。
以前このブログ(4月10日 や5月13日)で、今のお笑いには、「社会批評」や「社会批判」、「社会風刺」の視点がない、という話を展開した。
作家の赤坂真理さんの本を読んでいたら、同じような指摘が書かれていたので、ここで紹介したい。著書『愛と暴力の戦後とその後』より。
「『お笑い』や『お笑いタレント』とはなんだろうと思うとき、それはコメディではなくコメディアンでもなく、『場の調停者』『場の仕切り屋』である、という言葉が浮かぶ。場を仕切ったり、なごませたり、そういう役目をする人たちが、お笑いタレントなのだ」
「それも、異質なものが出逢う場所の調停者ではなく、同質集団内部の調停者である」
「だから、お笑い芸人(ひな壇芸人)が会するバラエティ番組を見ているとよく、閉鎖集団のいじめを見る気持ちになるのだ」 (P157)
本来、お笑いには、今の社会の常識を疑い、からかい、おちょくったりすることで、閉塞感を打ち破り、新しい価値観を生み出していく。そんな役割があったはず。
なのに、今のお笑いは、「ムラ」の空気を守り、それを長続きさせることにしか作用していない。閉塞感を打ち破るどころか、閉塞感を助長している。だから、物足りない。
喜劇役者、コメディアン、道化師、芸人…。私たちの社会は、どんな時代でも、社会に風穴を開ける「笑い」を必要としてきた。
日本でサーカスのプロモーターをする大島幹雄さんという方がいる。彼の著作に、ロシア革命の時の伝説的な「道化師」ラザレンコについて書いた『サーカスと革命』という本がある。そのなかに、こんな記述がある。
「ヴィターリイ・ラザレンコ。彼は、革命が生んだまったく新しいタイプの道化師であった。いままでの道化師が、自分自身をカリカチュア、いわば<負の存在>として畸形化し、笑わせることにより、社会の歪みを告発してきたのに対して、ラザレンコは、自分ではなく、外敵や権力を徹底的にいたぶり、揶揄する、攻撃的道化師であった」 (P8)
20世紀前半のロシアで道化師として活躍したラザレンコ。まさに「社会風刺」を持った道化だったのだろう。そして、その活動は社会とリンクし、風穴を開ける役目の一端を担う。
「革命という歴史的瞬間に立ち会ったラザレンコは、道化師の反逆精神を逆転させ、みずからの道化のエネルギーとして、アジテーター・クラウンとして民衆の先頭に立った」 (P8)
本質的には、こうした「道化師」も「お笑いタレント」も役割は変わらない。はず、である。
もちろん、「お笑いタレント」全員が「社会風刺」に走る必要はない。ただ誰かが「笑い」で社会に新しい風穴を開ける、凝り固まった常識に水を差す、そんな役割を演じてほしい。そんな人が、我々の社会にもいてほしい。そう、思う。
ラザレンコを支援した人に、当時のロシア革命政権の教育人民委員であったルナチャルスキイという人物がいる。彼は、こう語っている。
「われわれは道化師にもっと多くのことを要求したい。道化師は社会批評家になりうるのだ。その偉大なる始祖はアリストファネス(古代ギリシアの喜劇作家)である。道化師すなわち民衆的道化の諷刺は、全的に正当で鋭く、深く民主的であらねばならない」 (P52)
この言葉を、そのまま今の「お笑い界」にも送りたいと思う。