★「目の前」と向き合う

2014年6月27日 (金)

「今の日本のように、生活実感のない男性が社会を動かしている限り、なかなか『女性にとって働きやすく、子育てをしやすい社会』を実現するのは難しいのではないでしょうか」 

新聞各紙で東京都議会の「やじ問題」について読んだ。

この発言は、セクハラ発言ではない。完全な女性差別発言だと思う。

やじ発言の議員も議員なら、自民党も自民党、都議会も都議会、都知事も都知事。全ての対応が最悪な感じ。まさに「見てみぬ振り」。

きのうの東電の株主総会での東京都の対応もそうだが、舛添都知事の「見守る」という発言は、「見てみぬ振り」とまるで同義。「このまま東京五輪、やって大丈夫か」というのが率直な個人的感想。なにが「世界一の都市に」「おもてなし」だよ、といいたくもなる。

その「やじ」というか、差別発言をした鈴木章浩都議の記者会見。次の言葉が気になった。毎日新聞(6月24日)より。

「正常化のためにも頑張っていかねばならない」

「調査を呼びかけなくても、議長を中心に正常化に取り組まれると思う」

「これからは、正常化のために、こういうことがないようにすべきだ」


何よりも、都議会の「正常化」が大事と言いたいらしい。

自分がした発言や、自分が持っている価値観、そして嘘をついたこと、そうした問題に対する総括より、都議会の正常化が大事という姿勢。

彼の対応も、「目の前」の問題より、「システム・組織」のツツガナイ運営や存続の方が大事、ということなのである。やれやれ。

東京新聞(6月23日)の『解説』で、石川修巳記者は次のように書く。

「ネットや海外の批判に押される形で否定から一転、やじを認めた張本人が『議会の正常化』を掲げて議席に執着する姿自体、女性に配慮を欠いた男目線に見える」

最近読んだ、ある指摘を思い出す。スウェーデン出身で日本在住の武道家、ウルリカ柚井さんの指摘、著書『武道の教えでいい子が育つ!』から。

「今の日本のように、生活実感のない男性が社会を動かしている限り、なかなか『女性にとって働きやすく、子育てをしやすい社会』を実現するのは難しいのではないでしょうか」 (P150)

生活実感がない政治家には、社会をよくすることはできないということ。「目の前」にちゃんと向き合わず、見てみぬ振りをする政治家はダメということ。

今日、松本サリン事件の発生から20年が経つ。

新聞各紙には、松本サリン事件の特集記事が載っている。きのうの読売新聞(6月26日)には、河野義行さんが、当時、自分を犯人扱いにした警察とメディア、そして実際に犯行を行ったオウム真理教に対して、次のように語っている。


「それぞれに『組織の正義』があったのでしょう。それは一般企業でも同じ。そういうことをしないとはだれも言いきれない」 

「組織の正義」を盲信し、それを振りかざす。肝心なことは見てみぬ振り。そして、大きな過ちを犯していく。

やじ発言の鈴木章浩都議、それに自民党、舛添都知事の「見てみぬ振り」と「システム・組織優先」の対応にも、同じような過ちのニオイがする。

最後に、次の言葉を載せておく。作家の
森達也さん著書 『クラウド 増殖する悪意』から。

「『
する』のではなく『しない』ことで、組織は時折、信じられないくらいに冷酷なふるまいをする」 (P30)

 

 

 

2014年6月25日 (水)

「夢ばかり見て後で現実に打ちのめされるより、現実を見据え、現実を徐々に良くしていくことを考えるべきだろう」

もう少し「目の前」について。

W杯ブラジル大会。日本代表は敗退した。 すぐにでも次の大会に向けた戦いが始まるが、その前にザッケローニ監督を含めたこの4年間をちゃんと総括・検証してほしい。ジーコ監督の4年間もほぼ総括・検証されることなく、直ちにオシム監督となったのをどうしても思い出してしまう。

ちゃんと「目の前」で起きたことを見つめ、総括・検証して、同じ過ちは繰り返さないよう将来にちゃんと活かしてほしい。 それは、原発問題しかり、過去の戦争についてもしかり。

せっかくなので、今回はサッカーにまつわる「目の前」についての言葉を並べてみたい。

その元日本代表監督のイビチャ・オシム氏の言葉。『オシムの言葉』文庫版(著・木村元彦)より。 

「夢ばかり見て後で現実に打ちのめされるより、現実を見据え、現実を徐々に良くしていくことを考えるべきだろう」 日経新聞2005年3月3日 (P212)

まさに現実を見据え、現実を徐々に良くしていくこと。これは、「目の前」と向き合い、少しずつ変えていくということ。

今朝のコロンビア戦より前の記事となるが、次の指摘も「目の前」と向き合え、ということ。朝日新聞(6月23日)から、編集委員の潮智史さんの指摘。

「ボールの争奪にこだわり、相手より走り、ゴールを目指す。戦術をうんぬんする前に、目の前の相手に負けない。それが立ち返るべき原点ではないか」

そして、同じくその朝日新聞(6月23日)には、小説家の星野智幸さんのブラジル現地リポートも掲載されている。その文章から。 

「いまの日本には『現場』感覚が欠けていると思います。自分で『何が起きているか』を確かめもせずに他人の体験や言葉を代用し、一つの方向に流されてしまう。そこには個人の実感がないから、国家にだまされていても『危ない』という感触が持てない」

「サッカーも現場で考えてみるべきです。一体感を味わうだけの人もいれば、個々人の実存をかけて応援する人もいる。一概にナショナリズムの発露だとは決めつけられません。現場は複雑ですから」


ここで言う「現場」とは、まさに「目の前」のこと。「目の前」を見ようとしないから、一つの方向に流されてしまう。サッカーだけのことではない。社会そのものに当てはまること。

次は、サッカー解説者のセルジオ越後さん。『日本のサッカーが世界一になるための26の提言』より。 

「僕は組織は『美しいエンジン』だと思っているの」

「いろんなところで小さな活動を続けることが、サッカーという美しいエンジンを作るために必要なことなんじゃないかな。その自覚をみんなが持つべきだと思いますね」 (P59)

W杯で優勝する」という夢を語ることも大事である。ただ、それも同時に「目の前」と向き合い、考え続けるという「小さな活動」を続けないと、チームや日本サッカーそのものの「システム・組織」も機能しないということ。

「スモール・イズ・ビューティフル」。
何度も繰り返す。「目の前」に起きる小さなことと向き合い、少しずつ変えていくしかない。(3月24日のブログその1と、ブログその2 


社会学者の濱野智史さんの言葉。朝日新聞(4月24日)より。

規模の小さな地域の『現場』だからこそ、人々が関わりあい、血の通った知恵が生まれ、変革の可能性が開かれるということだ。『スモール・イズ・ビューティフル』ならぬ、『スモール・イズ・インサイトフル(洞察に満ちている)』なのである」

して、サッカーには社会を良い方向に変える力がある。(6月11日のブログ 

最後にオシム氏の言葉を。
NHKスペシャル『民族共存へのキックオフ~“オシムの国”のW杯~』(6月22日放送)より。

闘う姿を見るだけでも、国民には喜びとなる。人々の気持ちを動かす。自分は何かの一部だと感じ、人々と共に道に出て、共に歌い踊る。生活や仕事に希望が戻り、国が再び歩み始めるんだ」

ボスニア・ヘルツェゴビナがW杯の初勝利を手に入れることを心から願う。

 

  

2014年6月24日 (火)

「あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである」

今回も、「目の前」についての続き。

きのうのブログ(6月23日)では、「市民」という概念について考えた。その追加として、もう少し。

新聞に折り込み広告と一緒に挟まれていた情報誌『定年時代』(6月下旬号)を読んでいたら、カメラマンの石川文洋さん次の言葉が目に入った。

「戦争は市民を犠牲にする」

もしも、国家が戦争に突っ込んでいった時は、「市民」から犠牲になっていく、という戦場カメラマンによる指摘である。

前回のブログでも「國體護持」ということに触れたが、国家というものは自らの「システム・組織」を優先して温存する傾向にあるため、個人である「市民」の方が先に犠牲になる。(2013年12月7日のブログ

そして問題になのは、戦争が始まってからだけでない。その前も国家は「市民」に対して、様々な制限をくわえようとする。

作家の保阪正康さん著書『そして、メディアは日本を戦争に導いた』で次のように書いている。

「市民的権利に制限を加えるよう主張する政治家や政治勢力は、必ず偏狭な国家主義、一面的な民族主義、口先だけの愛国主義を唱え続ける。そういう政治目標を確立するには、なによりも市民的権利に制限を加えることのみが最も手短に行われる手法だからである」 (P220)

そして、その傾向は、今の安倍政権が導こうとしている国家像にも感じられる。

精神科医の斎藤環さんの言葉。自民党が打ち出した改憲案について。毎日新聞(3月7日)より。

「改憲案ではしきりに『公の秩序』が強調される。福祉ではなく秩序である。しかし、個人の活動を抑圧する『公』は『公』ではない。それは『世間』そのものだ」


まさに今の安倍政権が目指そうとしている社会では、個人が「目の前」と向き合い、自ら考える「市民」の行動を抑制し、その向こうにある「世間」、すなわち「システム・組織」「國體」を優先していこうというニオイが感じられる。

そして実際の戦争となった場合、市民が犠牲となる。作家の森達也さんの言葉。著著『「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と叫ぶ人に訊きたい』より。

「国家によって救われた命は確かにある。でも賭けてもいいけど、国家によって殺された命の方がはるかに多い」 (P312)

「特に国家をめぐる幻想は人に害を為す。多くの人を苦しめる。多くの命を犠牲にする」 (P312)

実際に太平洋戦争でも、そうなった。何百万人もの市民が犠牲になり、「國體」と呼ばれた「システム・組織」は生き残る。

社会学者の白井聡さんの指摘。著書『永続敗戦論』より。

「『貧しい日本』が帰ってくるときに、一体何が露わなかたちで姿を現すのか。それは、永続敗戦を経ても、それを否認することによって生き残ってきたもの、すなわち『国体』であるほかないだろう。われわれは、ポツダム宣言受諾に際して戦中の指導者層が譲らなかった条件が、『国体の護持』であったことをいまいちど思い起こさなければならない」 (P163)

「われわれは少なくとも、歴史を振り返ることによって『国体護持』の意味を理解することはできる。『国体』は、第二次世界大戦における敗戦を乗り越えた、言い換えれば、敗戦に勝利した。永続敗戦という代償を払って」 (P167)

そして、白井聡さんは、「國體」について次のように指摘する。

「国体とは、一切の革新を拒否することにほかならない」 (P182)

つまりは、社会を変えさせないようにするものの正体こそ、「國體」であり、「システム・組織」なのである。

ここ何回かのブログで考えてきた「目の前」と向き合うこと。そもそものきっかけは、「変える」について考えることだった。(6月12日のブログ )社会を少しでも良い方に変えるためには、日常生活やルーティンを繰り返し、その中で「目の前」に現れるものと向き合い、少しずつ変えていくことが大事なのである、という流れ。

この「変える」や「更新」ということについては、このブログでは何度も取り上げてきた。(2011年11月24日 など)(「更新・チェンジ」

結局、社会というものは、少しずつ変えたり、更新したり、修正したりを繰り返していかないと、やがて我々個人が、息苦しくなってしまうものなのだと思う。

だから「目の前」と向き合い、考える必要がある。その「変化」は、何かによって強制的に行われるものではない。個人、すなわち「市民」が少しずつ変えていくしかない。それが、結局は社会を戦争というもの向かうことから防ぎ、自らが「犠牲」にならないようにすることなのではないか。

最後に、上記の『永続敗戦論』で紹介されていたマハトマ・ガンジーの言葉を載せておきたい。

「あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである」 (P201)


2014年6月23日 (月)

「『あの日』を経てきた私たちが、今度こそ『市民』たりうるのか、依然として『ムラ人』にとどまるのか」

今回も、「目の前」という概念について。(6月13日のブログ以降)

「目の前」のものとちゃんと向き合うこと。これは、日常生活を大切にすること。そして「当事者」であること。また「ローカル」「地域」と向き合うこと。それらは実はつながっているのではないか。という話の転がし方をしてきた。

日常生活、
当事者、ローカルときて、もうひとつ「市民」という概念も、実は「目の前のものとちゃんと向き合うこと」と同じなのではないかと思えてきた。

そこで、今回は、「市民」ということについて考えられる言葉を並べてみたい。

まず、ジャーナリストの神保哲生さんの言葉。毎日新聞(4月15日)より。

「市民の立場で『当時者の視点』を持ちながら、多くの人を納得させる『公共性』を持ち合わせることを意識し、情報発信を心がけてほしい」

つまり、「市民」ということは、日常生活を営む地域の当事者ということである。そして「当事者の視点」とは、市民として「目の前」で起きることを見つめるということである。


前回のブログ(6月22日)でも、日本の人びとには、「目の前」で起きることよりも、その向こうにある「システム・組織」を温存すること(國體護持)を優先する風潮があることに触れた。

精神科医の斎藤環さんは、「市民」と「ムラ人」という言い方をしている。
毎日新聞(3月7日)より。

「『あの日』を経てきた私たちが、今度こそ『市民』たりうるのか、依然として『ムラ人』にとどまるのか」

おそらく
「目の前」を大事にする人を「市民」、「システム・組織」を優先する人を「ムラ人」と考えればいいのだと思う。

そして、あの日、東日本大震災が発生した2011年3月11日、私たちは確かに「変われる」と思ったのだが…。

社会学者の宮台真司さんは、最近の企業経営者について、次のように話す。 ビデオニュースドットコム『働き方を変えれば日本は変わる』(1月18日放送)より。

「市民でない企業人なんて本当はありえませんよ。今まで許されていたのも不思議だけど」 (パート2 35分ごろ)

この指摘は、前回のブログ(6月22日)で紹介した城南信用金庫理事長の吉原毅さんの主張に通じる。

社会学者の山下祐介さん
『しなやかな日本列島のつくりかた』(著・藻谷浩介)の中で次のように語る。

「今、特に都会で働いている人たちは、人生の多くが『暮らし』ではなく『労働』になっています。その労働というのも、昔は生活と直結するものだったのが、今はなんのために働いていて、誰にその糧が回っているのかよく分からない。がむしゃらに働き、ご飯は外食、結構な家賃と光熱費を払いながら、家に帰ったら寝るだけ。もともとは普通に暮らしていくためにやっていたはずのことが、いつのまにか、もっと大きなシステムの中の一部分に組み込まれてしまっているのです」 (P53)

日常生活のために働くのではなく、大きなシステムのために働く。ここにも「國體護持」の縮図が垣間見える。

若手企業家として知られる駒崎弘樹さん『1984フクシマに生まれて』(著・大野更紗&開沼博)で次のように語る。

「今僕が考えているのは、企業社会の超長時間労働にロックオンされている男性リソースをそこからひっぺがして、まずは家族に、次に地域や社会にコミットさせること」 (P137)

これからの日本社会は、企業という大きな「システム・組織」に取り込まれた人々を、いかに「日常生活」「地域」に取り戻すかにかかっているのだと思う。これまで何度も言われていることだけど。

一方で、そうした新しい社会の在り方を問い、訴えかけるべき存在の一つがジャーナリズム。でも、そのジャーナリズムを行うべきマス・メディアも、大きな企業である以上、同じ問題を抱えている。

作家の保阪正康さん著書『そして、メディアは日本を戦争に導いた』の中で、次のような表現で語っている。

「今の時代、ジャーナリズムはシリビアン(市民)になってほしいけど、それには大変な努力と覚悟が必要です。国家と個人が対立したとき、思い切って抵抗するか、それとも亡命を選ぶかという厳しい選択を迫られることはこれからだってある。今のジャーナリストにそこまでの覚悟があるでしょうか」 (P190)

今のマス・メディアには覚悟がないのか、結局、地域より中央、政治より政局、生活より経済…など、つまり「市民」の問題より、「ムラ人」の問題を優先して取り上げる。

そうやってメディアが、政局、株価、スキャンダル、オリンピック、W杯など、日常生活とかけ離れたものを必要以上に大きく騒ぐことで、我々の視線はどうしてもそちらに向いてしまう。そして、「市民であること」「目の前」というものを忘れていく…。

作家の重松清さん『世界が決壊するまえに言葉を紡ぐ』(著・中島岳志)から。

「その時『ニッポンは一つだ』みたいな、一番簡単なわかりやすさで当事者感を持つのは、ちょっと怖いですよね。オリンピックじゃないけど、高揚感を簡単につくり出せるから。そこに安易に寄り添うのは自戒したいと思っています」 (P199)

市民の立場、生活者の視点、目の前と向き合うことが求められているのは、当然だが、企業やジャーナリズムだけではない。個人も含め、日本社会のあらゆる場所で、それが求められているのだと思う。

最後に、作家・角田光代さん小説『彼女のなかの彼女』。この小説の主人公は、自堕落な生活を送る女性小説家。その恋人である仙太郎が彼女に対して、口にしたセリフを載せておきたい。

「でもぼくはさ、そういう人に、だれかの心に届くようなものが書けると思わない。生活を放棄している人に、人の営みが書けるとは思わない」 (P208)





2014年6月22日 (日)

「『長期的な発展』を目指す企業にとっては、コミュニティという豊かな概念、機能を持った存在がなければ、企業としての存続は不可能です」

前々回のブログ(6月13日)で、「目の前」と向き合うことの大切さを書いた。

少し話を少しだけ、横の方に転がしてみたい。

城南信用金庫が、東日本大震災のあと、「脱原発」を宣言している。その理事長の吉原毅さんの本を読んでいて、「目の前と向き合うこと」はこういうことか、と気づかせてくれることがあった。 

吉原毅さんは、信用金庫という金融機関の役割について、次のように書く。著書『信用金庫の力』より。

「信用金庫は、地域を守って、地域の人々を幸せにする社会貢献企業です」 (P56)

「信用金庫は、町長など地域の有力者たちが中心となり、地域の発展のためにつくられた金融機関であり、地域を守って地域の人々を幸せにする公共的な使命を持った金融機関です」 (P26)

次は、著書『城南信用金庫の「脱原発」宣言』より。

「信用金庫は、承認がお金をもうけるためにつくった銀行と違って、町長など地域の有力者たちが地域の発展のために、町役場の中などにつくった公共的な金融機関で、社会貢献からはじまったものです」 (P7)


地域の有志による信用組合である信用金庫と、株式会社である銀行とは、そもそも役割が違うという。

吉原さんの本には、城南信用金庫の三代目理事長である小原鉄五郎さんが、当時の職員に語った言葉が紹介されていた。著書『原発ゼロで日本経済は再生する』より。

「私たちはいつから銀行に成り下がったのですか。銀行は利益を目的とした企業で、私たちは町役場の一角で生まれた、世のため、人のために尽くす社会貢献企業なのです」 (P142)

つまり、銀行は株主というシステムを支える人たちのために存在し、信用金庫は、その地元である地域のために存在する、ということである。

システム・組織より、「目の前」にある地域と向き合うのが信用金庫なのである。だから、地域を大切にする「脱原発」を訴えているのである。

しかし日本では「目の前」のことでさえ、「見てみぬ振り」を続ける。(3月3日のブログ と、3月4日のブログ

「見てみぬ振り」についての、吉原毅さんの次のエピソードも印象的である。著書『原発ゼロで日本経済は再生する』により。

「私はラグビー部に所属していたが、高校一年生のときの試合で相手校と乱闘となったことがある。しかし、目の前で仲間が殴られているというのに、私は『やめろよ』といっただけで、応戦することなく傍観してしまった。直後から自己嫌悪の思いに襲われた。なぜ相手に突っ込んでいって、代わりに殴られてでも仲間を助けなかったのか」

見てみぬ振りをしてその場をやり過ごせば、その代償として自分のプライドはずたずたに引き裂かれる。惨めな思いに打ちのめされる。同じ経験を二度とするものかと、十五歳の心に固く誓ったことをいまでも鮮明に覚えている」 (P236)

でも、日本は個人より、組織・システムなのである。(2013年5月30日のブログなど)(「システム・組織」

信用金庫より、銀行側の論理で行く。そして、「目の前」のものは「見てみぬ振り」をする。

吉原さんの上記の2冊の本の間に読んでいた小説『ライアー』(著・大沢在昌)さんの中に出てきた次のセリフもオーバーラップしてくる。

神村奈々という主人公が、機関のトップであり、義父でもある神村直祐に語る言葉である。 

「義父はもう、人ではない。機関だ。義父が研究所であり、『連合会』なのだ」 (P487)

(奈々)「委員会でも研究所でもなく、あなたです。あなたは組織ではなく、ひとりの人なのだから、こうなるのを避けるのをできた筈です。でもそうしなかった。組織の論理と個人の論理をいっしょにしてしまった」

(直祐)「それは当然だ。組織の論理が何より重要なのだ。個人の論理で組織を動かせば、結果、権力の暴走になってしまう」 (P490) 

最後の神村直祐の言葉は、ちょっと聞くと「そうかもな」とも思うが、先ほどの吉原毅さんの『信用金庫の力』に、ピーター・ドラッカーの言葉が紹介されていた。

「そのドラッカーが『組織とコミュニティ』について、興味深いことを述べています。それは『企業とは、組織だけでは成り立たない』ということです」

「『企業には、コミュニティの要素がなければいけない』と主張しています」


「『長期的な発展』を目指す企業にとっては、コミュニティという豊かな概念、機能を持った存在がなければ、企業としての存続は不可能です」 (P49) 

コミュニティや地域を大切にするとは、「目の前」を大切にすること。結局、それが組織を長期的に存続させることでもあるのだと思う。

今回は、「目の前とちゃんと向き合うこと」のひとつ実例として興味深いと思ったので、少し話を横に転がしてみた。

2014年6月14日 (土)

「日本人の一番悪いところは、『すべてが他人事』という感覚に侵されているところだと思います」

前回のブログ(6月13日)では、ルーティンを繰り返し、「目の前」に現れるものから修正していくことの大切さについて書いた。

この「目の前」ということについて、もう少し転がして考えてみたい。

自分の「目の前」にあるものとちゃんと向き合うこと。それは言い換えれば、「当事者になる」ということなのではないか…。


以前のブログ(3月25日)で、「当事者」ということに関係する言葉やフレーズを並べてみた。

これからは、それぞれの人が「当事者」として色んなこと引き受け、考え、行動することが大事なのでは、ということだった。


そのあとも、いろいろと「当事者」にまつわる言葉を見つけたので、その言葉から考えてみたい。

東日本大震災と原発事故については、当時、多くの人が「当事者」としての立ち位置や意識を突きつけられた。

映画監督の久保田直さんは、毎日新聞夕刊(3月6日)で次のように語っている。


「直後は当事者と感じたはずなのに、突きつけられた生き方の問い直しは完全に人ごとになっている」

「あれほど大事故に直面したのに、明日、自分は死ぬかもしれないと思っている人は少ない。すべてに『当事者』意識が希薄化している」


東日本大震災の直後は、多くの人が「当事者意識」を持っていた。「決して他人事ではない」「何かをしなければ」と思って僕もボランティアに駆け付けた。3年たった今、社会には「他人事」という空気が早くも支配している。

ラジオパーソナリティの吉田照美さんは、著書『ラジオマン』で次のように指摘している。

「日本人の一番悪いところは、『すべてが他人事』という感覚に侵されているところだと思います。自分の身に降りかかったときに初めて、事の重大さに気づき、自分の置かれている立場を知らされる。あんな大きな事故があったにもかかわらず、そういう気質が今でも直っていない。日本人特有の、水に流せないのに流してしまおう的な状況が、相変わらず続いていることの恐怖をつくづく感じます。本当は、水に流しても元通りにならないことだってあるはずなのに」 (P197)

そして、社会学者の開沼博さんは次のように言う。文化放送『ゴールデンラジオ』(3月14日放送)より。

「ともすれば福島を観客として見ているだけではないか、消費物として見ているのではないか。あなたもプレイヤーですよね。あなたもプレイヤーとして何を出来るかを考えてくださいと思う」

ここでいう「プレイヤー」とは、「当事者」と同じことなんだと思う。

大震災から3年以上の月日が流れる中、どこまで「当事者意識」を保てるのか。自分たちの生活の「目の前」で起きた出来事ととらえ、他人事としないかが問われ続けている。

作家の重松清さん『世界が決壊するまえに言葉を紡ぐ』から。

「当事者としての振るまい方をこれから見つけなければらなないのかもしれません」 (P198)

「原発事故によって、数十年単位の、もしかしたら僕らの生きている間には終わらない問題がつきつけられた。その『いつ』も『どこ』も枠が抜けたところで、どう当事者として振る舞い、どう引き受ければいいのか」 (P199)

当事者であるためには、前回のブログで取り上げた古市憲寿さんがいように、「今」と「ここ」の問題として受け止める必要がある。「いつ」や「どこ」が欠如したままでは、その問題は他人事とならざるをえない。

最後に、社会学者の宮台真司さんの言葉。『原発をどうするか、みんなで決める』から。

「巨大なものに何もかも委ねたまま生きる結果、自分たちが何をしているのか、自分たちが何者なのかわからなくなる」 (P28)


当事者意識を失うということは、自分が何者かをわからなくなるということでもある。

大きなものに目を奪われるのではなく、「今」「ここ」を大事にして、「目の前」とちゃんと向き合うこと…。やはり、そういうことになる。

2014年6月13日 (金)

「『目の前』とちゃんと向き合って、『目の前』から解決していくことは、生物にとって、生死にかかわる切実な行動原理だということだけを強調しておきます」

きのうのブログ(6月12日)では、「変わる」「変化」にまつわる言葉を並べた。

もうひとつ、こんな言葉も。野球選手の上原浩治さん著書『覚悟の決め方』から。

「何かを『変える勇気』も必要だが、『変えない勇気』も必要なのだ」 (P32) 

この本の中で、上原投手は、野球選手としてルーティンを守っていくことの大切さ、そして難しさを説く。

「毎日同じことを淡々と、黙々とこなす―。はたから見れば、もっとも楽そうに見えるかもしれない。簡単そうに思えるかもしれない。でも、じつはこれがいちばん難しい。つくづくそう思う」 (P33)

このルーティンを守ることについては、イチロー選手も大切にしている。(2012年3月9日のブログ 

ヤンキース・バッティングコーチのケビン・ロングさんは、イチローについて次のように語っている。NHK『プロフェッショナル』(2013年12月16日放送)より。

「まるで宗教の儀式を見ているようだよ。イチローは毎日必ず6時15分にバッティングケージに来る。1分の狂いもなくね。練習が終わるのは6時19分から20分の間だ。きっちり同じ回数だけバットを振るんだ。ここれまでくるとほとんど精密機械のようだよ」

なぜ、イチロー選手はルーティンを厳格に守るのか。改めて、イチローのトレーナーを務める森本貴義さんの指摘を紹介する。著書『一流の思考法』より。

「『昨日の自分』と『今日の自分』を比較しているんです。繰り返すことで熟練し、型をつくることで修正ができます。イチロー選手が継続的に結果を出せる秘訣は『毎日同じことを同じ時間に行う』」

ルーティンを繰り返すことで、自分のひとつ型を身につける。さらにそれを繰り返すことで、修正すべき部分を見出すのである。「変えるべき部分」と「変えてはいけない部分」とを判別するということでもある。

上記の言葉は、たまたま野球選手2人のものだが、これは僕たちの生活にも当てはまることだと思う。ルーティンとは、「日常生活」という言葉に置き換えられる。

繰り返される日常生活の中で、変えなければいけない部分と変えてはいけない部分を見極める。そして変えなければいけない部分、修正すべき部分に手を付け、良い方に転がしていく。きっと世の中、社会を変えていくとは、その延長にあることなんだと思う。

次に載せる2人の方の指摘は、まさにそのことを言っている。

建築家の隈研吾さん著書『僕の場所』より。

「僕ら生物は具体的でちっぽけな身体を持っています。具体的身体があるということは、何かが『目の前』にあるということです」

「『目の前』を媒介として、世界と対等に向かい合えるわけです。サルトルが少し難しい言葉で、目の前がいかに大事であり、近くのものから解決していかなければいけないと語っています。何しろ世界には問題が多すぎるからです」


「建築とは『目の前』に対して何かを提案することです。『目の前』とちゃんと向き合って、『目の前』から解決していくことは、生物にとって、生死にかかわる切実な行動原理だということだけを強調しておきます」 (P87) 

そして、社会学者の古市憲寿さん著書『だから日本はズレている』より。

「僕たちはまず『今、ここ』にいる自分たち自身も社会の一部だということを思い出すべきだと思う。まず『今、ここ』で暮らす自分や仲間を大切にすること。自分たちが生きやすい環境を作ろうとすること。それは、結局社会を良くすることになるのだ」 (P217)

社会を変える、良くしていくということは、日常生活の中での「今、ここ」、「目の前」を見つめ、少しずつ変えていくということなのである。

もうひとつ最後に。生物学者の福岡伸一さん著書『動的平衡ダイアローグ』から。

「生物も個人も、先を見通すことはできない。できるのはせいぜい、いまあるものを利用したり、改良したりすること。そうして生き延びてゆくことなんです」 P159)

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