★否定性の否定

2016年3月 7日 (月)

「自らの無能力に本心では気づいているがゆえの苛立ちが、攻撃的衝撃となって現れる」

ここ数週間、「否定性の否定」をキーワードにいろいろ考えてみた。

そこで気づいたのが、「否定性の否定」というキーワードと、昨今、話題になっている「反知性主義」というキーワードが重なるのではないか、ということ。

そんなことを考えさせてくれる言葉をいくつか並べてみたい。

例えば、立教大学大学院総長の吉岡知哉さんは次のように言う。2011年度大学院学位授与式 より。

「『考える』という営みは既存の社会が認める価値の前提や枠組み自体を疑うという点において、本質的に反時代的・反社会的な行為です」

ジャーナリストの池上彰さんは次のような言い方をする。TFM『未来授業』(2013年12月23日)より。

「学問の場においては、徹底して批判的に物事を見なければいけないと思います」

「学問においては常にすべてを疑うことが大事ですが、それを実生活に置き換えると、どんどん人間関係が狭くなっていってしまいます。ですから私はそんなとき『適度な懐疑心』が必要だという言い方をします」

日新聞記者の三浦英之さん。かつて満州国に存在した建国大学の元学生を取材して歩いて書いたノンフィクション作品『五色の虹』。そこに、こんな言葉があった。

「『衝突を恐れるな』とある建国大学出身者は言った。『知ることは傷つくことだ。傷つくことは知ることだ』彼らの言葉が、その後の私の進路を決定づけた」 (P326)

作家の平川克美さんがシリコンバレーで感じたこと。著書『「消費」をやめる』より。

「わたしからすれば、『そこに何かが足りない』という感じが拭えません。何が足りないかと言えば、物事を批判的に捉え、徹底的に思考しようとする知性です。シリコンバレーに充満するアメリカ的起業精神には、知性が決定的に欠けていると感じていました」 (P97)

「そういう場所では、知性を求める態度は軽蔑の対象になります。理屈をこねくり回して何もしない人間だとバカにされます。思索を深めてもお金にはならないからです」

つまり「考える」という行為そのものがもともと、反時代的・反社会的、すなわち「否定性」の機能を持っている。

しかし、その「考えること」や「教養」といったものさえも、「お金にならない」「効率を悪くする」といった理由から忌避され、さらにはバカにされ、そして排除される。

これが「反知性主義」の風潮なのである。

その反知性主義が広がり、お笑いだけでなく、文学、若者、野党、メディア、憲法、日本社会のあらゆる分野から「否定性」が否定、つまり排除されていく。

ここで言う「否定性」には、反論や反対の表明だけでなく、チェック機能、歯止め、反骨心、批評・批判、パロディ、皮肉なども含まれる。


色んな「否定性」が社会から排除された結果、我々は権力が暴走しないようにするための「歯止め」も失う。言い換えれば、権力はいつ暴走してもおかしくない状況になっている。

 政治学者の白井聡さんの指摘。著書『「開戦前夜」のファシズムに抗して』より。

「だから安倍氏はある意味で日本人を代表してしまっているのだ。ただし、問題は軍事的なもののみに関わるのではない。安倍氏が代表する『日本人』とは、正確に言えば、『ニッポンのオッサン』である」

「『ニッポンのオッサン』は、日々その無能力(=不能)を証明されているようなものだ。にもかかわらず、社会のあらゆる領域で彼らは権力を手放そうとせず、まさにそのことが社会変革を妨げ、極端な少子化に代表される閉塞をつくり出している。強がっているが裸の王様である。自らの無能力に本心では気づいているがゆえの苛立ちが、攻撃的衝撃となって現れる。だから、インポマッチョは質が悪いと評さざるをえないのだ」 (P131)

 作家の辺見庸さん著書『流砂のなかで』より。

「それをうちのめす力が、今のマスメディアにせよ、学会にせよ、言論界にせよ、あまりにもなさすぎる。突破口の糸口さえない。そのことにもだえ苦しむことさえない。そうこうするうちに、何かとんでもないことが起こるだろうと思っているんですけどね」 (P96)


2016年3月 5日 (土)

「いつ『反社会』という言葉が、『反国家』とすり替わって、権力に対して異議申し立てをすることも『反社会的』とされてしまうことになるか、その怖さが今の社会にあると感じます」

そのほか、「否定性の否定」にまつわる印象に残った言葉を並べておきたい。

民主党の山尾しおり・衆議院議員の指摘。自身のブログ(2月15日)より。

「少なくとも、メディアと政権与党とが対峙する状態を維持していることについて、私たち日本人は誇りを持つべきですし、その状態を維持するために努力を続けるべきだし、綻びが見えたときには戦うべきだと思います」

この言葉で思い出したのが、話題のドキュメンタリー映画『ヤクザと憲法』。映画の中で、21歳の見習いの組員が呟く言葉。

「あっちではあいつが気に入らない、こっちではあいつが気に入らない。そう思いながらどちらも共存する社会が本当に良い社会なのではないか」

この映画で出てくる暴力団の顧問弁護士を務めてきた山之内幸夫さんは、有罪判決を受け次のように話す。

「社会から消えろ、と言われているようだ」

ヤクザという反社会的な存在は、今、暴排条例等々で徹底的に排除されている。これも「否定性の否定」。

『憲法を考える映画の会』の花崎哲さんのこの映画を受けての言葉。法学館憲法研究所のHP より。

「いつ『反社会』という言葉が、『反国家』とすり替わって、権力に対して異議申し立てをすることも『反社会的』とされてしまうことになるか、その怖さが今の社会にあると感じます」

話は飛ぶが、この映画のタイトルにも入っている「憲法」についても。

社民党の福嶋みずほ・衆議院議員の指摘。著書『「意地悪」化する日本』より。

「自民党の改憲草案も、国家権力ではなく国民を縛るものになっていて、とても憲法とは呼べない代物です。自民党は憲法のない社会を作りたいのです。つまり俺たちの権力を縛る憲法は不要だということです」 (P141)

憲法というものも、本来、権力を縛るもの。国家権力にとっては「否定性」の機能を持つものである。

安倍総理は、この憲法、そして立憲主義をないがしろにしてきた。否定性の否定。

改めて立憲主義について。弁護士の伊藤真さん著書『憲法問題 なぜ今、憲法改正なのか』より。

「じつは憲法は、国家を縛るルールです。社会の秩序がめちゃくちゃにならないように法律が市民を取り締まるのと同じように、国家がおかしなことをしないように一定のルールを課す。それが憲法の役目なのです」

「では、どうして国家を縛るルールが必要なのでしょうか。それは、ときに国家権力が暴走して、私たちの生活を脅かすことがあるからです」

「このように憲法によって国家を律して政治を行うことを、『立憲主義』といいます。近代国家は立憲主義にもとづいて政治が行われています。つまり、およそ近代国家と呼ばれる国はどこでも、国家権力に制限をかける憲法を持っていることになります」


メディア、そして憲法…、その「否定性」の機能は権力の暴走を防ぐためのもの。


2016年3月 3日 (木)

「ジャーナリズムは死にかけている。何よりも恐ろしいのは権力の意向をメディアがそんたくして追従することだ」

メディア・ジャーナリズムの本来の役割は、権力にとって「否定性」の存在であること。前回のブログ(2月21日)では、そんなメディアについての言葉を並べた。

今回は、その追加分を改めて。

今週(2月29日)、高市総務大臣の発言について、6人のジャーナリストの抗議の記者会見を行った。その中での鳥越俊太郎さんの言葉。サイト『THE PAGE』(2月29日配信)より。

「最近の安倍政権になってから以降のメディアと政権のありようを見ると、一方的に安倍政権側が、つまり国民の負託を受けて、委託を受けて政権をチェックするはずのメディアが、マスコミがテレビや新聞などが、逆に政権によってチェックされてる」

同じ会見での岸井成格さんの言葉。

「権力っていうのは絶対的権力であり、権力が強くなればなるほど必ず腐敗し、時に暴走するんです。必ずです。これはもう、政治の鉄則なんです。それをさせてはならないっていうのがジャーナリズムの役割なんですよね」

「必ずチェックし、ブレーキをかけ、そして止めるというのが、これがジャーナリズムの公平、公正なんです。それを忘れたジャーナリズムはジャーナリズムじゃないんですよ」


ジャーナリストの青木理さんTBSラジオ『デイキャッチ』(2月29日放送)より。

「メディアの役割は何かと言えば、政権に対して常に緊張関係を持ち、是々非々でもいいから、おかしいことがあれば“おかしい”とキチンと言うこと」

ジャーナリストの斎藤貴男さん著書『ジャーナリストという仕事』より。

「では、ジャーナリストの役割とは何でしょうか。いきなり結論めいた話ですが、私は『権力のチェック』が最大にして最低限の機能だと思っています」 (P3)

「そうした権力というものは、よいこともたくさんしてくれますが、ときに暴走して、普通の人間の暮らしを踏みにじる場合があるからです。とくに悪意がなくても、結果的にそうなってしまう心配も少なくありません」 (P4)

「くり返しますが、ジャーナリズムの基本的な役割は『権力のチェック』であるはずです。権力を批判することが『国益を損ねる』というのであれば、ジャーナリズムなど必要ありません」

「『国益』とは何でしょう。権力の横暴を批判し、正しくしていくことこそが、ジャーナリズムが果たすべき『国益』です」 (P201)

メディア・ジャーナリズムの役割は権力のチェック…。どれも当たり前の指摘である。

しかし、批判される現在の権力者たちは、そんなメディア・ジャーナリズムの持つ「否定性」の機能を押さえつけ、排除しようとしている。

斎藤貴男さんは、次のようにも書く。

「わたし自身が年をとったせいもありますが、いわゆる偉い人たちが、そろいもそろって軽すぎる。エリートの自負どころか、批判する奴はみんな敵だ、覚えてろよ、訴えてやるからなと、こうなってしまう人たちが珍しくもなくなっているのですから」 P90)

そして内田樹さん著書『「意地悪」化する日本』より。

「耳障りなことを具申すると、『おまえの話は聞きたくない』となってしまうんでしょうね。あるいは、聞いてもわからないのか……」 (P77)

まさに、否定性の否定…。

また、先の大戦で、新聞が行ったことについても斎藤貴男さんは書いている。

当初、新聞は戦争を進める政府を批判し、慎重論を唱えた。しかし権力側が言論弾圧を強めていく中で、新聞自身も自ら「批判」という役割を捨てる。そして戦争を煽った方が売れるという判断をすることで、自分の組織を守ろうとした。


作家の半藤一利さんも次のように書く。著書『B面昭和史』より。

「どの新聞も軍部支持で社説を統一し、多様性を失い、一つの論にまとまり、『新聞の力』を自ら放棄した」 (P117)

「それに戦争は新聞経営には追い風になるのである」 (P117)

「この新聞とラジオの連続的な、勝利につぐ勝利の報道に煽られて、国民もその気になっていく。その熱狂は日増しに高まっていく」 (P118)

当時、新聞やラジオが「権力をチェックする」という役割を捨て去ると、あっという間に日本社会全体が雪崩をうって戦争へと突き進んでいったのである。

上記のジャーナリストたちの記者会見では、ジャーナリストの田勢康弘さんの次の言葉も紹介されていた。

「ジャーナリズムは死にかけている。何よりも恐ろしいのは権力の意向をメディアがそんたくして追従することだ」

敗戦から70年余りが過ぎ、再び、日本のメディア・ジャーナリズムから「否定性」の機能が失われようとしている。


2016年2月21日 (日)

「ジャーナリズムとは報じられたくないことを報じることだ。それ以外のものは広報に過ぎない」

今回も「否定性の否定」について。

先日の読売新聞(2月13日)に、「放送法遵守を求める視聴者の会」の意見広告が載っていた。

『視聴者の目は、ごまかせない』との見出しに、女性の大きな瞳の写真…。

そこには、こんなフレーズがある。

「『放送法遵守を求める視聴者の会』は、圧倒的な力をもつテレビ局に対して、視聴者の立場から声を上げ、問題点を具体的に明らかにすることを通じて、放送法を遵守する活動を開始しました」

何だかなあ。ザラッとした気持ち悪さしか感じない。

こうした動きは、永田町でも強まっている。安倍総理や高市総務大臣など、メディアに圧力をかけるような発言を繰り返す。

本来、メディアの役割というのは、権力や権威といったものを批判し、チェックすることである。つまりは「否定」の役割である。

安倍政権やそれを取り巻く人たちが強力に進めようとしているのが、このメディアに対する「否定性の否定」なのである。

一方でメディア側も、保守系メディアが安倍政権の賛美・追認を繰り返すなど、本来の役割を放棄する。

テレビ・メディアもしかり。権力に厳しい視線を向けるキャスターは消え、またニュース番組そのものが減り、現状追認するようなバラエティばかりが番組表を埋めている。

そしてメディアの経営者たちは進んで安倍総理と食事を共にし、何度も会合を繰り返す。

 ジャーナリストの田中龍作さんの指摘。ブログ『BLOGOS』(2015年1月15日)より。

報道の中立公平・不偏不党の原則からしてもおかしい。国際常識に照らし合わせても奇異である」

「安倍首相と食事を共にするメディアが、政権を批判しないことだけは揺るぎのない事実である」


メディアを覆い、そして囲い込む「否定性の否定」の風潮。やれやれ、である。

メディアについて、もう一度、思い出すべきことがある。そんな言葉を並べてみる。

先日の甘利氏の記者会見(1月28日)におけるジャーナリストたちの姿について、元朝日新聞記者の山田厚史さんは次のように書いている。弁護士ネット(1月28日) より。

「この記者会見は多くの国民が関心を持っているので、ジャーナリストがその代弁者となって追及しないといけない。そのときに、仲間の論理のような馴れ合いの質問をしていたら、ジャーナリズムの命を失う」

「こういう記者会見に出て、質問を浴びせるのがジャーナリストだと思う。新聞記者がこんなことをやっていたら、本当に情けない。今回の記者会見で、権力を監視するジャーナリズムの力が落ちているなと感じた」


元拉致被害者家族会事務局長の蓮池透さん東京新聞(1月14日)より。

「メディアは批判してこそ価値がある。権力者も批判されてこそ権力者。現在は首相批判がタブーとされている空気さえ感じる」

こんな57歳会社員の投書も見た。東京新聞の投書欄(1月25日)より。


「報道機関の本懐は、大事の時、国家権力に待ったをかけられるか、待ったの声を上げることができるか否かにある」

ジャーナリストの上杉隆さん著書『ニュースをネットで読むと「バカ」になる』より。

ジャーナリズムの仕事は政府を始めとする公権力が隠そうとする事実を暴くことうにあるというのは万国共通の考えである。しかし、日本のメディアはそうした役割を放棄してしまっているどころか、国民の知る権利を否定するかのように政府側の情報操作に協力し続けている」 (P188)

同じくジャーナリストの鳥越俊太郎さん朝日新聞夕刊(2月15日)より。

「40代で1年間、米国の新聞社で働いた経験から言わせてもらうと、米国では権力者が国民の税金を正しく使っているか、しっかり監視する人をジャーナリストと呼ぶんです。日本では、権力の監視をしない人までジャーナリストと言う。本当の意味が理解されていないんですよ」

作家の半藤一利さん朝日新聞(2015年2月28日)より。

「国民の幸せが、日本が民主主義国家であり続けることだとするなら、ジャーナリズム、言論の自由の存在が一番大切な条件と思います。ジャーナリズムが時の権力者を厳しく監視することが、腐敗や暴走を防ぐからですが、言うはやすく、実際は大変難しい」

作家のジョージ・オーウェルの有名な言葉。日本外国特派員協会より。

「ジャーナリズムとは報じられたくないことを報じることだ。それ以外のものは広報に過ぎない」

否定性の否定…。この風潮に対して、メディアやジャーナリズムには、最後まで抗って欲しい。また同時に、新しい手法・訴え方を見出してほしい。

2016年2月17日 (水)

「権力は強力で、いまの若者は反体制の感覚を持っていない。つまり『父殺し』をしてないような状態の人間ばかりだから」

前々回のブログ(2月12日)では、お笑いの世界での、そして前回のブログ(2月13日)では、文学の世界で起きている「否定性の否定」ということについて考えた。

もう少しこの「否定性の否定」について広げて考えてみたい。

この風潮が強まっているのは、お笑いや文学だけではない。

漫画家の小林よしのりさん著書『戦争する国の道徳』より。

「権力は強力で、いまの若者は反体制の感覚を持っていない。つまり『父殺し』をしてないような状態の人間ばかりだから」 (P75)

作家の辺見庸さん朝日新聞(1月21日)より。

60年代には、抵抗とか反逆は美的にいいことだという価値観がありました。いまの若い人たちは全然違うようですね」

でもきっと若者だけでなく、日本人全般に、お笑いタレントと同じように、「反体制」「反権力」「反権威」「アンチ○○」への憧れは消え、さらにはそれを「ダサい」とする傾向さえあるのではないか。

どちらが鶏で、どちらが卵かは知らないが。こうした「否定性の否定」という風潮は、もはや政治の世界にも萬栄している。

例えば、安倍総理所信表明(1月22日)で次のように語っていた。

「批判だけに明け暮れ、対案を示さず、後は『どうにかなる』。そういう態度は、国民に対して誠に無責任であります。是非とも、具体的な政策をぶつけあい、建設的な議論を行おうではありませんか」

たぶん野党に向けた言葉である。

安倍政権になって以来、政権内だけでなく一般の人からも、「反対のための反対をするだけの野党に意味はない」というような指摘をよく聞く。

では改めて考えてみたい。

野党とは何か…。「対案のない反対」に本当に意味はないのだろうか。


北海道大学教授の政治学者、吉田徹さん朝日新聞(15年11月6日)より。

 「野党の使命は、何よりも与党権力をチェックすることです。対案はその手段のひとつに過ぎず、絶対視すべきではありません」

「与党と野党はペアダンスを踊っているようなもの。相手がこうステップを踏んだからこっちはこう、相手が賛成なら反対、反対なら賛成と」


同じく吉田徹さんの指摘。著書『野党とは何か――組織改革と政権交代の比較政治』より。

「野党は、民主主義体制にとって欠かせない存在といえる。それは、野党が果たす機能とは、まず与党権力に対して修正や撤回を迫り、いわば政治における『決定』の次元に対して『合意』と『討議』の次元を作り出すことを使命とするからだ」

政治学者の三浦瑠璃さんの指摘。ブログ『山猫日記』(2月16日配信)より。

「政治主導を機能させるために必要なものは多様性と競争です。政治の文脈においては健全な野党と解釈されることも多いですが、それは単にオポジション(=対抗勢力)の存在です」

「中途半端な野党よりも、与党内のライバル争いの方が政権にとって有力な対抗勢力となることはよくあることです」

本来、政治とは、反対勢力との議論・対話を繰り返し折り合いながら、進めていくもののはず。 

しかし、安倍政権は、野党との議論・対話に重きを置かないし、自民党内の反主流派と呼ばれる存在も認めない。

つまり、自分を「否定」する存在を次々と排除していく。

政治における「否定性の否定」である。

上記の安倍総理の所信表明の言葉は、野党だけでなく、ジャーナリズムや歴史家、憲法学者など、安倍政権に向け「否」を唱えるあらゆる勢力に向けられた言葉ともとれる。

でも…、否定する存在を認めない政治をファシズムと呼ぶのではないだろうか。

そして、もう一度、今回最初に載せた小林よしのりさんの言葉を。著書『戦争する国の道徳』より。

「権力は強力で、いまの若者は反体制の感覚を持っていない。つまり『父殺し』をしていないような状態の人間ばかりだから」 (P75)


この指摘は、安倍総理本人だけでなく、世襲の多い政治家たちにもそのまま当てはまる。そんな彼らが巨大な権力を持っているのである。

次回も続けます。

2016年2月13日 (土)

「つまりはこの否定性が、身分制を倒し、近代社会を実現し、これをより民主的な社会へと推進させてきた。近代の動きの原動力にほかならない」

きのうのブログ(2月12日)では、爆笑問題の太田光さんの「最近のお笑い芸人は、政治ネタをやったり、権力者をいじることをダサいと思っている」という内容のコメントを紹介した。その続き。

その太田光さんのラジオを聴いた直後に読んだのが、加藤典洋さん著書『村上春樹は、難しい』

そこで文学における同じような話題が載っていた。文学の世界では、70年代後半に「否定性の否定」が起きたという。

否定性の否定…

「『否定性』とは何か。それは、国家なるものを否定すること、富者なるものを否定すること、現在の社会を構成している理不尽なるものを否定すること、世の中の不合理を正当化する権威と権力を否定することであり、つまりはこの否定性が、身分制を倒し、近代社会を実現し、これをより民主的な社会へと推進させてきた。近代の動きの原動力にほかならない」 (P27)

「七十年代の終り、時代は変わり、無自覚に否定性を否定する。単に肯定的な気分が社会に支配的になる、単に現状追認的な小説がエンターテイメントの領域を中心に瀰漫していく。そういう傾向が強まるなか、純文学の世界は、一般社会から徐々に『古めかしい』もの、『暗いもの』として忌避されるようになる。『暗い』ということがなんら強意な意味を持たないようになってくる」 (P28)

それまでの権利や権力を否定することで、近代社会を築き上げ、民主的な社会を広げてきた。

「近代の文学は、この否定性をロマン主義的な理想と結びつけて人々を引きつけ、それは家の権威、家父長たる『父』への反逆という範型をとってきた」 (P27)

しかしその「純文学」の手法・モチーフが、70年代後半以降、「古めかしい」「暗いもの」とされてしまった。

これが、否定性の否定

まさに、「権力者をいじることはダサい」とする昨今のお笑い芸人に重なる。興味深い。

加藤典洋さんは、次のように解説する。

「ここに顔を見せているのは、その民主化の次の段階にくる、文学の試練にほかならない。どのような近代的な文学も、必ず、社会がゆたかになっていくある時点で、この試練にぶつかる」

「『否定性』が従来のかたちのままでは文学を生き生きと生かし続けられない、そういう社会の転換点がくる。そしてそれはどのような社会にも不可避でまた、文学的な普遍的なことである」


「そこで、従来の『否定性』に依存しないで、また『欲望』を否定することなく、どのように新しい―またそういいたければ真摯な―文学をつくりあげるかが問題となる。ここにあるのはそういうポストモダン期の問いなのである」 (P36)

そんなころ、文学の世界に登場したのが、村上春樹さんのデビュー作『風の歌を聴け』だという。

「これは、日本の戦後の文学史に現れた、最初の、自覚的に『否定的なことを否定する』作品だったということだ」 (P27)

「こうした風潮のなか、この小さなデビュー作は、この否定性の没落をいち早く受け入れながらも、没落してくものを悲哀にみちたまなざしで見送る」 (P28)

ただ、ここで考えた。

「否定性の否定」といっても、村上春樹さんの作品は決して「現状追認」とはなっていない。
 もしかしたら、彼は「それまでの否定性」を否定しただけで、否定そのものを否定しているわけではないのではないか。ちょっと、ややこしいけど。

評論家の宇野常寛さんが村上春樹さんの『1Q84』について書いた言葉。著書『リトル・ピープルの時代』より。

「もはやビッグ・ブラザーのもたらす縦の力、遥か上方から降りてくる巨大な力ではなく、私たちの生活世界に遍在する横の力、内部に蠢く無数のリトル・ピープルたちの集合が発揮する不可視の力こそが、現代においてはときに『悪』として作用する『壁』なのだ」

今の時代、父なる「ビッグ・ブラザー」なんてどこにも存在しない。その代り、無数の「リトル・ピープルたち」が存在する。

だから村上春樹さんは、今、「ビック・ブラザー」を躍起に否定することにもうそんなに意味はないと、それについては「否定」したのである。

ただそれでは終わらず彼の場合、自分が否定する矛先を、リトル・ピープルたちがつくり出す「壁」に切り替えたのではないだろうか。

村上春樹さんエルサレム賞受賞のスピーチ(2009年)より。

「高くて硬い壁と、壁にぶつかって割れてしまう卵があるときには、私は常に卵の側に立つ」

「この壁には名前があります。それは“システム”というのです。“システム”は私たちを守ってくれるものですが、しかし時にそれ自身が意思を持ち、私たちを殺し始め、また他者を殺さしめるのです。冷たく、効率的に、システマティックに」


自分が卵という存在になって、壁の存在を否定しようとする、のである。

さて。今のお笑いに話を戻す。

若手の芸人たちが「権力者をいじることはダサい」というスタンスを取る。そして、とにかく受ければ、笑えればいい、拍手を取れればいい、視聴率を取れればいい…。そんなお笑いばかりを繰り広げる。

そんなスタンスを「現状追認的なエンターテイメント」と呼ぶのではないか。しかし社会はどんどん閉塞感を増し、息苦しくなる。見えないシステム、壁が我々を窮屈にしようとする。

 現状追認だけでは、打開できない。きっと。そんなリトル・ピープルたちの所業を、どう笑いに昇華し、かつてのビートたけしさんの笑いのように受け手に「希望」を与えられるのか。それこそが、お笑いが抱えるポストモダンの問題なのではないか。

爆笑問題の太田光さんの言葉。TBSラジオ『爆笑問題カーボーイ』(2月2日放送)より。

「よく言う。『お笑いがやりにくくなった』『なんでもクレームが来るようになった』。そうじゃない。そういう時代に対応することをやらないといけない。俺たちは。えぐいことなのに、そうじゃないようにみせる。俺たちに芸がないから、客をだませない状態が今…」

「芸能というのは客をだませないといけない。でもだましにくい。今は裏が…。だから考え直さないといけない。だまし方をもう一回。いろいろある。そこが芸だから」


否定性を否定するだけでなく、新しいだまし方、すなわち新しい価値観を感じさせるようなお笑い。村上春樹さんが鮮やかに提示してくれたようなことを、才能あるお笑い芸人たちにも期待したい。



2016年2月12日 (金)

「今の芸人は俺らなんてバカにしている。爆笑問題は社会派で政治をいじって…、ユルいことやっているなって」

去年(2015年)の正月のNHK『初笑い東西寄席』という番組で爆笑問題が政治ネタを事前に却下された、という話題についてはこのブログでも取り上げた。(2015年1月8日1月9日のブログなど)

今年もそのNHK『初笑い東西寄席』(1月3日放送)を観ていたら、爆笑問題は意地のような感じで政治ネタばかりの漫才を繰り広げていた。僕は「さすが」と思った。

そのことについて、最近、爆笑問題の2人が次のように話していた。TBSラジオ『爆笑問題カーボーイ』(2月2日放送)より。

太田 「大問題になった。社説にまで載った。安倍さんと圧力だとか。“そんなことないよ。演芸番組…”そう思って、今年はさんざん安倍のことをけなすネタをやりましたよ。東西寄席で。でも誰も取り上げない!」

田中 「あれ、ずるいんだよ。“爆笑問題ヒヨった”とか言っといて、やったら、“ヒヨってなかった”とは言ってくれない。だから嫌いなんだよ、ネットって。汚いんだよ。どうぜ批判しかしないから」

太田 「でも『やったんだよ』くらいは言って欲しかった」


確かに知る限り、話題になっていなかった。でも、ちゃんと彼らが政治ネタをやったことは、もっと取り上げて話題にしてあげるべきだと思う。

そして、次の太田光さんのお笑い芸人についての指摘がすごく興味深かった。

「今の芸人は俺らなんてバカにしている。爆笑問題は社会派で政治をいじって…、ユルいことやっているなって。今の若手はそう思っている」

「例えば文化人とか新聞記者が新聞に『彼らは面白い』と載せるようなお笑いは一番バカにする。お笑い芸人というのは…。社会的に認められて、彼らはちゃんとした風刺をやっています、みたいな。そういうお笑いは一番ダサい。そこは誰も狙ってない。最先端のやつは誰もそこは狙わない。ダサいから」

「俺らも安倍さんのことをイジくったりするから、そうすると今のもっと尖がっている奴らは『ダッセイな。権力者なんてイジてて』なんて思っている若手はいっぱいいる。有吉あたりなんか思っている。だって面白いんだもの。ああいう悪口の方が…」


以上のように、今のお笑い芸人について批評を展開した。

なるほど、と思う。確かに寄席芸人は別としてテレビで活躍するお笑い芸人たちは、時事や風刺については触れたがらない。あまりTV観てないけど…。

以前このブログ(2014年5月13日など)でも、今のお笑いについては社会批判、風刺がないことが問題だとする言葉を紹介した。

お笑いに、そうした視点がなければ、社会の閉塞感は破れないし、新しい価値観を生み出すことはできないのではないか…。
それをやらないことは、お笑いという存在自体を否定することにつながるのではないか…。

かつて、ビートたけしさんはお笑いの固定観念や伝統の枠を壊し、新しいものを僕たちに見せてくれた。時事や風刺ばかりではないが、それから逃げてはいなかった。そういう彼の毒舌やアイロニーが、社会に風穴をあけ、活力を与えたのではないか。

例えば、松本ハウスのハウス加賀谷さん。幻聴や厳格に苦しんでいた中学時代に、ラジオでのビートたけしさんのトークに出会い、漫才師を志す。著書『統合失調症がやってきた』より。

「自分をさらけ出して笑いに変えるたけしさんに驚嘆し、毒舌で社会をめった斬りにしていくたけしさんに痛快さを覚えていた。特に、暗闇の中にいた中学時代は短絡的で、『たけしさんなら何かを変えてくれるんじゃないか』『もっと常識をぶっ壊してくれ!』と期待していた」 (P60)

これこそが、お笑いの役割だと思う。ふさぎ込む一人の中学生に希望を与え、新しい世界に導いたのである。

そして松本ハウスは、今も確実に風穴をあけている。

でも…。今の多くのお笑い芸人たちに、そんな役割を望んでも仕方ないことなのだろうか…。


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