「自らの無能力に本心では気づいているがゆえの苛立ちが、攻撃的衝撃となって現れる」
ここ数週間、「否定性の否定」をキーワードにいろいろ考えてみた。
そこで気づいたのが、「否定性の否定」というキーワードと、昨今、話題になっている「反知性主義」というキーワードが重なるのではないか、ということ。
そんなことを考えさせてくれる言葉をいくつか並べてみたい。
例えば、立教大学大学院総長の吉岡知哉さんは次のように言う。2011年度大学院学位授与式 より。
「『考える』という営みは既存の社会が認める価値の前提や枠組み自体を疑うという点において、本質的に反時代的・反社会的な行為です」
ジャーナリストの池上彰さんは次のような言い方をする。TFM『未来授業』(2013年12月23日)より。
「学問の場においては、徹底して批判的に物事を見なければいけないと思います」
「学問においては常にすべてを疑うことが大事ですが、それを実生活に置き換えると、どんどん人間関係が狭くなっていってしまいます。ですから私はそんなとき『適度な懐疑心』が必要だという言い方をします」
朝日新聞記者の三浦英之さん。かつて満州国に存在した建国大学の元学生を取材して歩いて書いたノンフィクション作品『五色の虹』。そこに、こんな言葉があった。
「『衝突を恐れるな』とある建国大学出身者は言った。『知ることは傷つくことだ。傷つくことは知ることだ』彼らの言葉が、その後の私の進路を決定づけた」 (P326)
作家の平川克美さんがシリコンバレーで感じたこと。著書『「消費」をやめる』より。
「わたしからすれば、『そこに何かが足りない』という感じが拭えません。何が足りないかと言えば、物事を批判的に捉え、徹底的に思考しようとする知性です。シリコンバレーに充満するアメリカ的起業精神には、知性が決定的に欠けていると感じていました」 (P97)
「そういう場所では、知性を求める態度は軽蔑の対象になります。理屈をこねくり回して何もしない人間だとバカにされます。思索を深めてもお金にはならないからです」
つまり「考える」という行為そのものがもともと、反時代的・反社会的、すなわち「否定性」の機能を持っている。
しかし、その「考えること」や「教養」といったものさえも、「お金にならない」「効率を悪くする」といった理由から忌避され、さらにはバカにされ、そして排除される。
これが「反知性主義」の風潮なのである。
その反知性主義が広がり、お笑いだけでなく、文学、若者、野党、メディア、憲法、日本社会のあらゆる分野から「否定性」が否定、つまり排除されていく。
ここで言う「否定性」には、反論や反対の表明だけでなく、チェック機能、歯止め、反骨心、批評・批判、パロディ、皮肉なども含まれる。
色んな「否定性」が社会から排除された結果、我々は権力が暴走しないようにするための「歯止め」も失う。言い換えれば、権力はいつ暴走してもおかしくない状況になっている。
政治学者の白井聡さんの指摘。著書『「開戦前夜」のファシズムに抗して』より。
「だから安倍氏はある意味で日本人を代表してしまっているのだ。ただし、問題は軍事的なもののみに関わるのではない。安倍氏が代表する『日本人』とは、正確に言えば、『ニッポンのオッサン』である」
「『ニッポンのオッサン』は、日々その無能力(=不能)を証明されているようなものだ。にもかかわらず、社会のあらゆる領域で彼らは権力を手放そうとせず、まさにそのことが社会変革を妨げ、極端な少子化に代表される閉塞をつくり出している。強がっているが裸の王様である。自らの無能力に本心では気づいているがゆえの苛立ちが、攻撃的衝撃となって現れる。だから、インポマッチョは質が悪いと評さざるをえないのだ」 (P131)
作家の辺見庸さん。著書『流砂のなかで』より。
「それをうちのめす力が、今のマスメディアにせよ、学会にせよ、言論界にせよ、あまりにもなさすぎる。突破口の糸口さえない。そのことにもだえ苦しむことさえない。そうこうするうちに、何かとんでもないことが起こるだろうと思っているんですけどね」 (P96)