★広場と民主主義

2016年1月20日 (水)

「日本は人々がパブリックなことを話し合うための場所をなくすことに、見事に成功したんですね。本拠地がないと、運動は続かないですから」

先日、新宿歌舞伎町へ行った。旧コマ劇前にあった噴水はなくなり、広場そのものもノッペリとした感じとなっている。

この噴水広場は、歌舞伎町の名づけ親で、都市整備を担当した石川栄耀氏が作ったもの。彼のことは、以前(9月1日のブログ)で触れた。

皇居前広場、新宿西口広場…、戦後の時代に市民たちが志を持って集まっていた広場は、次々と集会が禁じられていった。戦後70年、徐々に政府や自治体は、市民が集まり、対話するパブリック・公共の場所を奪ってきたのである。

東京という街から広場が消えたからこそ、デモは国会前の路上に集まり、お祭りで騒ぎたい人たちは渋谷の交差点に集まる。ただ、そこはあくまでも道路。道路を管轄する警察のさじ加減で規制される。決して、人々が自由に集まれるパブリックの場所ではない。


ノンフィクション作家の高野秀行さんと歴史学者の清水克行さんの対談を思い出す。著書『世界の辺境とハードボイルド室町時代』より。

高野 「英語の『パブリック』と日本語の『公』って言葉としてかみ合わないんで。日本の公って一体何だろうってよく考えます」

清水 「『パブリック(公共の)』と『オフィシャル(公式の)』の違いなんでしょうね」 (P294)

確かに今の日本では、パブリックという場所は、全てお上の管轄の場所に置かれている。許可が必要なのである。政府や自治体は、その時々で「パブリック」と「公」という言葉を使い分け、市民を管理しようとする。

日本から「広場」はなくなり、民主主義は後退した。そういうことなのだろう。

さらに最近は、市民団体に対して、公共の施設や大学のホールが貸し出されない事例が相次ぎ、ジュンク堂という書店までもが自主規制を受け入れた。いずれも、これまでは「公共の役割」を果たしてきたと思っていた場所である。


武蔵野大学教授の永田浩三さんのコメント。雑誌『AERA』(12/26&1/4号)より。

「このところ、政府批判を許さない風潮や、自治体などが勝手に政府の意向を忖度して自主規制する傾向がある。公民館などの公共施設は戦後に民主主義を市民に普及する場だった。そこで言論の自由を守らなければ、民主主義が揺らいでしまう」 (P32)

ジュンク堂難波支店の店長、福嶋聡さんのコメント。

「書店は意見の交戦の場であって、あらゆる意見を排除しないという民主主義を体現している場所です」 (P33)

そうなのだ。お上はついに、広場以外の「パブリックな場所」をも奪おうとしているのである。

作家の高橋源一郎さんの言葉。雑誌『AERA』(12/26&1/4号)より。


「日本は人々がパブリックなことを話し合うための場所をなくすことに、見事に成功したんですね。本拠地がないと、運動は続かないですから」 (P18)

その結果、この国では民主主義が危機を迎えている。

最後に、石川栄耀さんの言葉をもう一度、載せておきたい。『都市計画家 石川栄耀』より。

「広場は民主社会のレッテルであるように思える。日本にそれがないことは淋しすぎる。何となく日本人の性格の中に民主主義が無いことを意味するように思えるからである」 (P240) 

2015年9月 1日 (火)

「広場は民主社会のレッテルであるように思える。日本にそれがないことは淋しすぎる」

きのうのブログ(8月31日)では、先の日曜日には国会前に「広場」が出来た、という話を書いた。

そのあと、映画監督の園子温さん著書『受け入れない』を読んでいたら、“広場”についての文章が出来てきた。サッカー日本代表の試合の後、渋谷のスクランブル交差点に集まる若者たちについて書いているもの。

「世界的にも大きな首都と言える東京に、恥ずかしながら広場を作り忘れた。これは日本の欠陥であって、スクランブル交差点に集まる若者はちっとも悪くない」 (P56)

東京というか、日本には確かに“広場”がない。大勢の人が集まれる場所がない。

そこで“広場”について少しだけ調べてみた。

すると戦後の都市計画を進めた人に石川栄耀さんという方がいるのを知った。“広場”についてこだわりを持ち、自ら整備した歌舞伎町の真ん中には、コマ劇前広場(今はシネシティ広場というらしい)を作っている。

この石川栄耀さんによる“広場”についての言葉。『都市計画家 石川栄耀』より。

「広場は民主社会のレッテルであるように思える。日本にそれがないことは淋しすぎる。何となく日本人の性格の中に民主主義が無いことを意味するように思えるからである」 (P240)

「自分は復興計画で新宿に歌舞伎町という盛り場を作った。広場のある芸能中心としてつくった。それが日本唯一の広場のように思っている」 (P244)

「自分にいわせれば日本人には『広場なき』民族であった。家ならば『茶の間なき』家の造り手。顔ならば『微笑なき』人たちである」 (P245)

「広場のない民族。それは笑いのない民族というのに等しい」 (P271)

広場を持たない社会は、民主主義がない社会…。けっこう深い言葉である。

“広場”で連想したのが、1969年に7000人が新宿西口広場に集まったというフォークゲリラ。

この新宿フォークゲリラについて、社会学者の道場親信さんは、次のように語る。図書新聞 より。

「『広場』は重要なキーワードだと思います。コミュニケーションを厭わない関係を人の輪の中からどう自発的につくりだせるか」

“広場”に集まり、知らない人がコミュニケーションを通じて意見を交わす。やがて、それが民主主義とつながっていく。

これは、次の言葉に重なる。作家の高橋源一郎さん著書『ぼくらの民主主義なんだぜ』より。

「『民主主義』とは、たくさんの、異なった意見や感覚や習慣を持った人たちが、一つの場所で一緒にやっていくシステムのことだ」 (P254)

劇作家の平田オリザさん著書『対話のレッスン』(文庫版)より。

「考えが異なる人々がなにかを決めるためには、異なった考えの相手を説得しなければならない。それも、すべての異なった考えの人々を。なんと気の遠くなるような状況だろう。けれど、それが『民主制』だった。そして、その『異なった考えの相手』を説得するための技術、いや、考え方こそ『対話』だったのである」 (P258) 


広場 ⇒ 色んな人が集まる ⇒ コミュニケーション ⇒ 対話 ⇒ それが民主主義

“広場”から“民主主義”への流れは、こんな感じだろうか。

ただ新宿のフォークゲリラの後、警察は、現場となった「西口広場」を「西口通路」と名前を変えさせる。“通路”と呼ぶことで、そこに人が集まることを禁止したという。

この国の権力は、“広場”を作ることよりも、常に“広場”を奪う方向に動く。戦後70年は、ただでさえ“広場”の少ない日本社会から、権力が徐々に“広場”を奪ってきた歴史でもあるのかもしれない。そして、広場とともに「民主主義」が失われていく。

しかし、である。

久しぶりに日本社会に“広場”が誕生した。それが先の日曜日、国会前で起きたことなんだと思う。

私たちはこれから、民主主義を取り戻していくためには、そうした「広場」をどんどん作っていかなければならない。いろんな場所、いろんな空間に多様な形や大きさの“広場”、すなわち“公共空間”が必要なんだと思う。

きっと安倍政権は、数少ない貴重な広場を今までにましてどんどん奪っていこうとするだろう。でも、そんな圧力に負けてはいけない。

さてさて、新しい広場をどこに作るのか…。

やはり手始めとしては、以前のブログ(7月24日)で書いた、今更地になっている国立競技場の跡地を広場にするのがいいと思う。そこで東京五輪の開会式もやる。

新国立競技場問題では、ゴタゴタの渦中にいた建築家の安藤忠雄さんも次のように言っている。読売新聞(3月21日)より。

「本来、人の集まる場所こそ一番大事です。でも、今の日本で求められるのは経済効果としての建築ばかり。『余白』を作らせてくれない」

安藤さんには新しい国立競技場を作るための審査員長として、ぜひ自分で都心の「余白」すなわち“広場”を作ることを実践してほしい。




2015年8月31日 (月)

「国会正面前の道路はさっきから広場になりました」

前回のブログ(8月26日)の続き。

その最後に政治学者の白井聡さんの次の言葉を紹介した。NHKラジオ『いとうせいこうトーキングセッション』(8月14日放送)より。

「どう生きるべきかという話はそんなに難しいことではない。これは不愉快だな、これはおかしいな、これには乗れないな、と言うものに対しては、『嫌だ』と言い続けるしかない」

そして昨日、国会前をはじめ、全国各地で安保法制反対の声が挙がった。「嫌だ」と口に出し、行動に移した人たちが集まっていた。

先週木曜の朝日新聞(8月27日)の『論壇時評』での、作家の高橋源一郎さんの言葉とも重なる。

「『政治』や『社会』について違和を感じたなら、誰でも疑問の声をあげ、行動してもいいのだ。そんな当たり前のことが、いま起こりつつある」

また政治学者の小熊英二さんは、きのう現場で感じたことを2つ挙げ、そのうちの1つについて次のようにコメントしている。今日の東京新聞(8月31日)より。

「国会前と言う空間が、抗議の場として定着したことだ。福島の原発事故後に起きた2012年の官邸前抗議からの運動の成果だろう」

「不当と感じることに声を上げる政治文化が浸透したのは、よい変化だ」


高橋源一郎さんも、国会前で次のようなツイートをしている。自身のツイッター(8月30日)より。

「国会議事堂前にいます。人が多すぎて身動きできない。国会正面前の道路はさっきから広場になりました」

“広場”ができた、のである。

さらに次のようにも語っている。BS-TBS『週刊報道LIFE』(8月30日放送)より。

「日本は欧米と違って人が集まってなにか言う広場がない。でも今日はこうして人が集まった。SEALDsは広場をつくってくれた」

国会前にできた“広場”に大勢の人が集まり、そして「嫌だ」と声を上げたのである。

僕自身は昨日、別件がありその“広場”には行けなかった。参加できなかったことが本当に悔しい。でも、そういう口惜しさを実感することもきっと大切。次こそは必ず、自分も「広場」に参加したいと思う。


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