★責任とは

2015年9月 3日 (木)

「記憶が共有され、人々が社会を成すと、呼び出す声が聞こえるわけです。つまり、『こういうことがあったのに、私たちは何をしているのか』という声が聞こえてくる。そうなると、それに対し応答(レスポンス)しなければならない、という動きがおきる。それが、その社会における責任(レスポンシビリティ)です」

東京五輪のエンブレム問題について。

きのう東京都知事の舛添要一さんのコメント。自身のツイッタ―(9月2日)より。

「新国立競技場と同様、責任の所在が不明確、情報公開が不十分という問題が背景にある」

責任の所在が不明確、情報公開が不十分…。最近の不祥事のほとんどが、この2つのことが要因にある。そんな気がする。

今回は、「責任」について考えたい。


東京2020組織委員会の事務総長、武藤敏郎氏の一昨日(9月1日)の記者会見から、「責任」についての言葉を拾ってみる。

「もちろん、組織としてはそのトップのものが責任を持つんだという論理は分かりますけれども、今ご指摘のように、分解してどこかの誰かに責任があるのかという、そういう議論はちょっと私はするべきでないし、またできないだろうというふうに思います」

「この問題は、関係者三者三様にそれぞれ責任があると思いますけれども、われわれは事態の状況を見極めた上できちっと対処して、新しいものをつくっていくということがわれわれの責任であるというふうに思っております」

「もちろん、組織としてはそのトップのものが責任を持つんだという論理は分かりますけれども、今ご指摘のように、分解してどこかの誰かに責任があるのかという、そういう議論はちょっと私はするべきでないし、またできないだろうというふうに思います」


聴いていてクラクラする。そのうち「一億総懺悔」と言いそう…。

どうして、私たちの国は、いつもこうなるのか。本当に虚しい気分になる。

作家の橘玲さんの言葉を思い出す。著書『(日本人)』より。

「統治のない社会には『責任』もない。戦争にせよ原発事故にせよ、日本ではむかしもいまも、責任を追及しても“空虚な中心”が待ち構えているだけだ」 (文庫版P294)

この「責任」について、とても興味深い指摘を目にした。「歴史と向き合うこと」「すぐに忘れてしまうこと」と、「責任をとること」。これらにはつながりがあるという。

それは、作家の高橋源一郎さんと、政治学者の小熊英二さんによる対談の中での指摘。サイト『WEB DICE』(8月28日配信)より。

まずは、高橋源一郎さんの言葉。

「僕は、記録が持つ意味はもう一つあるのではないかと考えます。ご存知のように、私たちのこの国の人々は忘れやすい。忘れやすいことの結果として、何が起こっても誰も責任をとらず、社会がそれを追認しているかのごとく見えます。つまり、記録とは、現実の問題を忘れないためにする意味もあるのでは?」

そして、小熊英二さんの言葉。

「つまり何かが記憶され、『こんな現実があったんだ』と認識すると、それが記憶を構成し、『こんな過去がある“私たち”は今何をしているのだろう、これからどうするのだろう』というふうに、現在や未来を構成する。それが『社会を構成する』ということです」

「記憶が共有され、人々が社会を成すと、呼び出す声が聞こえるわけです。つまり、『こういうことがあったのに、私たちは何をしているのか』という声が聞こえてくる。そうなると、それに対し応答(レスポンス)しなければならない、という動きがおきる。それが、その社会における責任(レスポンシビリティ)です」

「だから、すべて忘れていくことと、レスポンスしないことは同じことです。それは一言でいえば、歴史のない民ということであり、社会を成していないということです」


非常に興味深い指摘である。なるほど、と本当に膝を叩いた。

歴史と向き合わない。記録しない。記憶をおろそかにする。すぐに忘れてしまう。そうした社会では、だれも責任をとらない。それは「社会」とさえ入れない。

これは、最近再び注目を集めている大阪市の橋下徹氏についても同じ。ドキュメンタリー監督の想田和弘さんの指摘。ツイッター(9月3日) より。

「橋下さんは『大阪から国を変える』と言っていたのに、大阪が改善しないと『国が悪いから大阪が変わらない』と言って国政政党作りましたよね。あの方の話法は自分のできる目の前のことをせずに、全部外部に責任を求めるんですね。キリがない。絶対に自分は責任を取らない」

自分では責任を取らず、定かでない「誰か」「何か」にそれを求める。そして、空虚な時間が流れ、全てを忘れていく。

結局、歴史や過去とちゃんと向き合わない政治家は、責任もとらないのである。

戦後70年。この社会、この国は、これからも同じことを繰り返すだけなのか。

私たちの社会が「責任」を向き合うようになるためには、どうしたらいいのか。

政治学者の白井聡さんの言葉。『ダイヤモンド・オンライン』(8月11日配信) より。

「具体的には、もう一度我々も日本国民として、あの戦争に対する責任を国内的に総括する一種の儀式をやらなければだめです。死者にむち打つことになったとしても」

やはり、ここに手を付けるしかないのかもしれない。

 

<「責任」について>

2014年11月11日のブログ

2015年7月24日のブログ


2015年7月24日 (金)

「過去と現在は地続き。検証を忘れれば、同じ惨事が繰り返されます」

きのう自転車で神宮の森を久々に通った。国立競技場の場所は、ぽっかりと大きな空間が出来上がっていた。青い空がとても広い。

どんな競技場が出来るのだろうか。

勝手なアイデアとしては、あの巨大な空間を芝生の広場にする。五輪の開閉会式の時だけは、プロジェクションマッピングで幻想的な競技場を創り上げる。…というのは、どうだろうか?そしてその芝生の大きな広場の片隅に、ザハ氏の当初のデザインを採用した小さな小さな公衆トイレを作る。

いいアイデアだと思うんだけど。

この国立競技場の問題について、きのう東京都知事の舛添要一氏は責任問題を追及した。今週火曜日(21日)の会見でも、次のように述べている。

「こういうことは検証して、問題があるところはきちんと責任をとってもらわないといけないのですが、誰がどういう責任を持っているかが全くわからない。これこそが無責任体制だと思います」

この翌日には、組織委員会会長の森喜朗氏が記者会見(7月22日)している。

「どこに責任があるか、難しいが、全体で負わなくてはいけない。誰がどうこうということも大事ですが、新たに官邸が責任を持ってやると。それを見てからでいいんじゃないですかね。責任と犯人を持ち出して、あまりいいことはないと思いますね」

まさに丸山真夫氏による「無責任の体系」の見本のようなコメント。全体で責任を負う…。つまりは「一億総懺悔」なのである。

過去を検証し、責任の所在を明らかにし、失敗を繰り返さないようにする。この国は、これができない。(2014年11月11日のブログ

作家の赤坂真理さんのコメント。朝日新聞7月23日より。

「天皇を中心に据え、責任者がわからないまま戦争を始めて敗戦に至った権力構造とは、何だったのか。なぜ国全体の利益を求める議論にならなかったのか。それらは今の社会にも脈々と生き続けているものです」

かの大戦も、4年前の原発事故も、今回の国立競技場の問題も同じなのである。


相手を黙らせる際には「最高責任者は私」「私が総理大臣なんですから」と見栄を切る安倍総理だって、実際にコトが起きて責任を追及されると知らんぷりするのだろう。きっと。少なくとも、ISによる人質事件のときはそうだった。

赤坂真理さんは、次のようにも言う。


「過去と現在は地続き。検証を忘れれば、同じ惨事が繰り返されます」

そして作家の高橋源一郎さんの言葉。朝日新聞7月22日より。

「過去は、わたしたちとは無縁ではなく、単なる思い出の対象でもない。『そこ』までたどり着けたらなら、わたしたちの現在の意味を教えてくれる場所なのだ」

同じく高橋源一郎さんの言葉。著書『ぼくらの民主主義なんだぜ』より。

「なぜ、その問題は、いまもわたしたちを苦しめるのか。それは、『過去』というものが、決して終わったものではなく、その『過去』と向き合う、その時代を生きる『現在』のわたしたちにとっての問題だからだ」 (P227)

2015年7月13日 (月)

「原発やダムを止められない国に戦争が止められるのか…、という話になってくる」

新国立競技場の問題。いろいろ記事や資料を読んでいるのだけど、ツッコミどころが多すぎて、逆に思考停止のような状態になってしまう。

この問題については、コラムニストのえのきどいちろうさんのコメントに肯いた。文化放送『くにまるジャパン』(7月10日放送)より。

「どのメディア見ても、みんな文句を言っている。それが止まらないのはどういうことか、ということ」

「『止めてくれ』と言っているのに止まらない。これ、どうやったら止まります?」


まさに、その通りだと思う。

ずさんな計画や建築費についての議論や批判もちろん必要だが、同時に「なぜ止められないか」についても話し合わなければならない。

またえのきどいちろうさんは、次のようにも述べる。

「中心がなくて、誰がジャッジするかが曖昧で、一回決まったことが止まらなくなってしまう構造は、僕らがずっと抱えている問題」

だれも責任を取ろうとしない構造については、先々月に舛添要一・東京都知事がブログに書いていたのが分かりやすかった。『舛添都知事日記』(5月19日) より。

「新国立競技場建設の責任者に能力、責任意識、危機感がないことは驚くべきことであり、大日本帝国陸軍を彷彿とさせる。日本を戦争、そして敗北と破滅に導いたこの組織の特色は、壮大な無責任体制になる」

「新国立競技場建設について、安倍首相には楽観的な情報しか上がっていなかった。これは、各戦線での敗北をひた隠し、『勝利』と偽って国民を騙してきた戦前の陸軍と同じである」


かの戦争から70年以上も経っているのに、我々の社会は同じ構造を変えられないでいる。

“止められない”という問題に話を戻す。

安保法制もそう。原発もそう。成長神話もそう。財政赤字もそう。

考えてみると、私たちの社会には止めなければいけないのに、止められないものばかり。批判や指摘を受けても、なぜか立ち止まろうとさえしない。

次の言葉は、八ッ場ダムの建設が再開されたときの社会学者の宮台真司さんのもの。ビデオニュース・ドットコム(2013年6月15日)より。

「原発を止められないこともさることながら、“原発を止められない社会”を止めようということ。何事も止められない」

「TPPも同じ。これはとんでもないことらしいということが分かっても『今さら引き返せない』となっている」


日本社会は、何事も止められない…。

ジャーナリストの鎌田慧さんの核燃サイクルについての指摘。毎日新聞夕刊(7月10日)より。

「核燃サイクルは、技術的問題やコストなどの課題が多すぎ、諸外国はとっくに撤退したのに、日本だけが夢物語にしがみついている。一度決めたら変えない官僚主義のせいです。原子力船むつ、そして新国立も一緒。これでは、日本軍が『撤退は恥』と大勢の兵士を玉砕させた発想と、今も変わっていない」

まさに何も止められない社会、日本である…。

話は飛ぶ。映画『グローリー/明日の行進』を観た。この映画では、公民権法が成立したにも関わらず、黒人差別がなくならない時代のマーティン・ルーサー・キング牧師が描かれている。

公民権法に従おうとしないアラバマの州知事、ジョーズ・ウォレスとジョンソン大統領とのやり取りが印象深かった。

ジョンソン大統領 「ジョージ!アラバマを牛耳っているのは君だ。明白に違憲である州政府の行為を許し、問題解決に少しも動かなかった知事として、歴史に永遠の名を刻むことになるが、それでいいのか?」

ウォレス州知事 「I don‘t care!(別に構わない)」

ジョンソン大統領 「私は嫌だ。憲法に反する事態を放置した大統領と歴史に記録されることには耐えられない」

こうしてジョンソン大統領は、ルーサー・キング牧師が求めるより強力な公民権法の成立に動き出す。

翻って日本の社会を見ると、どんな問題でも「I don‘t care」と口にする当事者ばかり。

さらに言えば「放置したものとして歴史に記録される」どころか、記録は残らないし、歴史は修正されるし、国民は忘れやすいときている。

そもそも、上記のジョンソン大統領の言葉と違い、今の日本の総理大臣は、自ら「違憲」という指摘に対して「I don‘t care!」と大声で言い返している感じである。やれやれ。

最後に、ジャーナリストの神保哲生さんの言葉。ビデオニュース・ドットコム(2013年6月15日)より。

「原発やダムを止められない国に戦争が止められるのか…、という話になってくる」

まさにそう。

ズサンな新国立競技場の計画さえ止められない国が、いざというときに戦争を止められるのか、という問題なのである。

2014年11月11日 (火)

「僕は日本の抱える問題に、共通して『自己責任の回避』があると感じます」

先週の毎日新聞(11月3日)に、作家の村上春樹さんの単独インタビューが掲載されていた。日本社会の問題点について、次のように語っている。

「僕は日本の抱える問題に、共通して『自己責任の回避』があると感じます。45年の終戦に関しても2011年の福島第1原発事故に関しても、誰も本当には責任を取っていない。そういう気がする」

責任、である。

この「責任」という言葉がいろんなところで目についたので、それを並べて、いろいろ考えてみたい。

政治学者の岡田憲治さん著書『ええ、政治ですが、それが何か?』より。

「この事態を招いたことに関して、電力会社においても、行政においても、政治家においても、一切、全く、何の責任をとらされていません。あたかも『1000年に一度の天災』のせいだと言わんばかりの放置ぶりです」 (P252) 

作家の高橋源一郎さん。日本が抱える「責任」の問題について次のように語っている。ラジオデイズ『グローバリズムと愛国』(10月24日配信)より。

「あの原発事故で誰も責任を取らず、総括もせず、元に戻すと。責任を取らないということが、この社会がこのような形で来てしまった大きな理由だと思う」 (パート2 1分すぎ)

 「在特会の人たちの言っていることは、『日本は責任をとらなくていい』ということ。なぜウケるかというと、『責任をとらない』ということがすごく大きくこの国の底に流れている。『責任を取れ』というと、『なんだお前は』と言い返す」 (2分ごろ)

誰も責任をとらない社会的な体質…。

これについて社会学者の宮台真司さんは、次のように語っている。ビデオニュース・ドットコム『マル激トーク・オン・ディマンド』(10月11日配信)より。

「市民社会に対して責任を取るとか、負うという考えがない。東電や政府も含めて、皆さん、内集団のことしか考えていない。他の集団、すなわち市民社会に対するコミットメントがない」 (パート2 36分ごろ)

例えば、民主党。岡田憲治さんの指摘。著書『「踊り場」日本論』より。

先日、あるところで、民主党の内情に詳しい人に、質問する機会がありました。『民主党はどうして党内議論をしっかりして敗北の総括を徹底的にしないんでしょうね?』って聞いてみたんです。大敗って最大のチャンスでしょ?そうしたその人曰く『それをやると責任問題が発生するだろう』。誰のせいでこうなったのかという、責任の問題が発生して、みんながただでさえボロボロになっているところで、ありゃ、あいつがいけなかったんだって話はできないんだというんです」 (P117)

そして戦争での責任の取り方について、ジャーナリストの池上彰さん著書『池上彰の教養のススメ』より。

「戦後の日本政府は、たくさんの兵を死に至らしめ、たくさんの民間人を死に至らしめたトップの責任を自ら追及しようとはしなかったんですよね。連合国軍の極東軍事裁判に任せてしまった」

「そのあげく『あれはあくまで勝った側の裁判だ』という。まさにその通りです。だったら自らの手で、戦争を失敗に至らしめた政治や軍のトップたちの責任を問うたか。問うていない。日本は自国での判断を放棄したことになり、それはつまり、極東軍事裁判の結果を受け入れたということになります。これは揺るがせにできない前提です」 (P232)

戦争の責任の取り方については、作家の赤坂真理さん小説『東京プリズン』にも印象的なシーンがあった。主人公のマリのセリフ。

「『私たちは負けてもいい』とは言いません。負けるのならそれはしかたがない。でも、どう負けるかは自分たちで定義したいのです。それをしなかったことこそが、私たちの本当の負けでした」 (文庫版P526)

また赤坂さんは、著書『愛と暴力の戦後とその後』で次のように書く。

「最終的に責任を持つべきものが免責されているのだから、暴力の、天井の、底もない。すべては現場の裁量となり、『空気』と同調圧力が支配する。それが大日本帝国軍に起きたことで、それは今の日本の集団でも普通に起こりうると思う」 (P286)

誰も責任を取らないから、同調圧力が支配的になる…。なるほど、である。

一方で、こんな指摘も。作家の橘玲さん著書『(日本人)』より。

「統治のない社会には『責任』もない。戦争にせよ原発事故にせよ、日本ではむかしもいまも、責任を追及しても“空虚な中心”が待ち構えているだけだ」 (文庫版P294)

日本という社会は、責任を追及しても「詮無い構造」を長い時間かけて巧妙に作り上げているのかもしれない。

また、橘さんは、こんな指摘も。

「日本では、いったん『責任』を負わされ、スケープゴートにされたときの損害があまりにも大きいので、誰もが責任を逃れようとする。その結果、権限と責任が分離し、外部からはどこに権力の中心があるのかわからなくなる。このようにして、天皇を“空虚な中心”とする、どこにも『責任』をとる人間のいない奇妙な無責任社会が生まれたのだ」 (文庫本P280)

この指摘にも大きく肯いてしまう。


責任を回避し続けることで「國體」を護持する。まさに「永続敗戦」の構造である。

しかし、そんな「國體」が長続きするのだろうか。

内田樹さん著書『どんどん沈む日本をそれでも愛せますか?』より。

「システムがクラッシュするのは、誰も責任を取らないからなんだよ。目の前に危機の兆候が見えてても、『これは俺の仕事じゃないから』って放置したり、その場にいない誰かの責任に転化するやつばかりになったときにシステムはクラッシュするんだよ」 (P40)

どうやっても…。

でも、今からでも遅くない。「誰かのせいにする」のではなく、社会全体で「責任」と向き合う方法や新しい仕組みを考えなければいけないことだけは確かだと思う。

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