「記憶が共有され、人々が社会を成すと、呼び出す声が聞こえるわけです。つまり、『こういうことがあったのに、私たちは何をしているのか』という声が聞こえてくる。そうなると、それに対し応答(レスポンス)しなければならない、という動きがおきる。それが、その社会における責任(レスポンシビリティ)です」
東京五輪のエンブレム問題について。
きのう東京都知事の舛添要一さんのコメント。自身のツイッタ―(9月2日)より。
「新国立競技場と同様、責任の所在が不明確、情報公開が不十分という問題が背景にある」
責任の所在が不明確、情報公開が不十分…。最近の不祥事のほとんどが、この2つのことが要因にある。そんな気がする。
今回は、「責任」について考えたい。
東京2020組織委員会の事務総長、武藤敏郎氏の一昨日(9月1日)の記者会見から、「責任」についての言葉を拾ってみる。
「もちろん、組織としてはそのトップのものが責任を持つんだという論理は分かりますけれども、今ご指摘のように、分解してどこかの誰かに責任があるのかという、そういう議論はちょっと私はするべきでないし、またできないだろうというふうに思います」
「この問題は、関係者三者三様にそれぞれ責任があると思いますけれども、われわれは事態の状況を見極めた上できちっと対処して、新しいものをつくっていくということがわれわれの責任であるというふうに思っております」
「もちろん、組織としてはそのトップのものが責任を持つんだという論理は分かりますけれども、今ご指摘のように、分解してどこかの誰かに責任があるのかという、そういう議論はちょっと私はするべきでないし、またできないだろうというふうに思います」
聴いていてクラクラする。そのうち「一億総懺悔」と言いそう…。
どうして、私たちの国は、いつもこうなるのか。本当に虚しい気分になる。
作家の橘玲さんの言葉を思い出す。著書『(日本人)』より。
「統治のない社会には『責任』もない。戦争にせよ原発事故にせよ、日本ではむかしもいまも、責任を追及しても“空虚な中心”が待ち構えているだけだ」 (文庫版P294)
この「責任」について、とても興味深い指摘を目にした。「歴史と向き合うこと」「すぐに忘れてしまうこと」と、「責任をとること」。これらにはつながりがあるという。
それは、作家の高橋源一郎さんと、政治学者の小熊英二さんによる対談の中での指摘。サイト『WEB DICE』(8月28日配信)より。
まずは、高橋源一郎さんの言葉。
「僕は、記録が持つ意味はもう一つあるのではないかと考えます。ご存知のように、私たちのこの国の人々は忘れやすい。忘れやすいことの結果として、何が起こっても誰も責任をとらず、社会がそれを追認しているかのごとく見えます。つまり、記録とは、現実の問題を忘れないためにする意味もあるのでは?」
そして、小熊英二さんの言葉。
「つまり何かが記憶され、『こんな現実があったんだ』と認識すると、それが記憶を構成し、『こんな過去がある“私たち”は今何をしているのだろう、これからどうするのだろう』というふうに、現在や未来を構成する。それが『社会を構成する』ということです」
「記憶が共有され、人々が社会を成すと、呼び出す声が聞こえるわけです。つまり、『こういうことがあったのに、私たちは何をしているのか』という声が聞こえてくる。そうなると、それに対し応答(レスポンス)しなければならない、という動きがおきる。それが、その社会における責任(レスポンシビリティ)です」
「だから、すべて忘れていくことと、レスポンスしないことは同じことです。それは一言でいえば、歴史のない民ということであり、社会を成していないということです」
非常に興味深い指摘である。なるほど、と本当に膝を叩いた。
歴史と向き合わない。記録しない。記憶をおろそかにする。すぐに忘れてしまう。そうした社会では、だれも責任をとらない。それは「社会」とさえ入れない。
これは、最近再び注目を集めている大阪市の橋下徹氏についても同じ。ドキュメンタリー監督の想田和弘さんの指摘。ツイッター(9月3日) より。
「橋下さんは『大阪から国を変える』と言っていたのに、大阪が改善しないと『国が悪いから大阪が変わらない』と言って国政政党作りましたよね。あの方の話法は自分のできる目の前のことをせずに、全部外部に責任を求めるんですね。キリがない。絶対に自分は責任を取らない」
自分では責任を取らず、定かでない「誰か」「何か」にそれを求める。そして、空虚な時間が流れ、全てを忘れていく。
結局、歴史や過去とちゃんと向き合わない政治家は、責任もとらないのである。
戦後70年。この社会、この国は、これからも同じことを繰り返すだけなのか。
私たちの社会が「責任」を向き合うようになるためには、どうしたらいいのか。
政治学者の白井聡さんの言葉。『ダイヤモンド・オンライン』(8月11日配信) より。
「具体的には、もう一度我々も日本国民として、あの戦争に対する責任を国内的に総括する一種の儀式をやらなければだめです。死者にむち打つことになったとしても」
やはり、ここに手を付けるしかないのかもしれない。
<「責任」について>