★公共性って何だ?

2016年4月14日 (木)

「『集う』と『群れる』は違います。個は集い、大衆は群れる」

前回のブログ(4月13日)の続き。

前回では、作家の桐野夏生さんによる「個が強くならなければ“公共”は生まれない」という指摘から考えてみた。

次の言葉も同じ指摘。批評家の若松英輔さん朝日新聞(3月8日)より。

「今、改めて『個』であることの重要さを考えています。この自覚を深めることで、他者との理解を深めていくのではないでしょうか」

そして、若松さんの次の指摘も非常に興味深い。

「『集う』と『群れる』は違います。個は集い、大衆は群れる」

「『群れる』と人は、個々の心にある苦しみや悲しみを十分に顧みることができなくなる。この問題よりも、世に言う『大きな』ことの方が重要に見えてくる」

確かに、日本人は「群れる」ことは日常茶飯事にするが、なかなか「集う」ことをしない。それは「広場」がないことにも通じる。(『広場と民主主義』

個が軽視される、この日本社会。さて、私たちは、どうしていけばいいのか。

改めて作家の桐野夏生さん朝日新聞(4月12日)より。

「日本の現状ではむしろ、もっと個を強くしていくべきじゃないですか。どんどん『私』を主張すればいい。しっかりした個の土台の上に、ほんものの公共は育まれていくと思います」

これは以前、紹介したドキュメンタリー映画監督の海南友子さんが東日本大震災後の社会について語った言葉と同じである。改めて、その言葉を。朝日新聞(3月12日)より。(3月26日のブログ

「誰かに任せておくのではなく、地域や国について自分なりに考え、おかしいと思ったら口に出していく。それは『公』を取り戻していく作業だと思います。そして、そこから『公』も変わっていくのではないだろうか―」

哲学者の鷲田清一さん。学長を務める京都市立芸術大の卒業式(3月23日)の式辞より。


「だれをも『一』と捉え,それ以上とも以下とも考えないこと。これは民主主義の原則です。けれどもここで『一』は同質の単位のことではありません。一人ひとりの存在を違うものとして尊重すること。そして人をまとめ,平均化し,同じ方向を向かせようとする動きに,最後まで抵抗するのが,芸術だということです」

ラジオパーソナリティの吉田照美さん今朝の朝日新聞(4月14日)より。

「権力に都合のいい流れをつくらないためには、やっぱり一人ひとりが考えなければなりません。世の中にあふれる情報の中から自分に必要な情報を感知するアンテナを磨くのも個人です」

「確かに僕は偏ってます。当然です。そもそも人はみな偏っているものですから。偏り具合が違うだけです。すべての人が同じ考えだなんてありえないし、気持ち悪い」


作家の辺見庸さん著書『いま語りえぬことのために』より。

「『われわれ』とか『みんな』という集合的人称を信用してはいけない。そういう幻想への忖度、気遣いというものがいかに事態を悪くしているか。自分で少し自信がないなと思っても、声をあげて言う。モグモグとなにか言う。あるいは、つっかえつっかえ質問する。理不尽な指示、命令については、『できたらやりたくないのですが……』と、だらだらと、ぐずぐずと、しかし、最後まで抗うしかないと思います」

2016年4月13日 (水)

「個がなければ公への認識は生まれない。公への奉仕が強制的に求められるとしたら、ファシズムです」

このブログでは、日々の生活のなかで印象に残った色んな人たちの言葉を並べている。そこから共通に見えるものについて考えたりしている。

このブログを続けながら、僕は「公共とは何だ?」ということについて考えていることが多いと思う。

きのうの朝日新聞(4月12日)には、『公共のゆくえ』と題した特集記事が載っていて、作家の桐野夏生さんがインタビューに答えていた。そのインタビューから。

「公共性とは、いったい何なのか。公共という語が都合よく使われている気がします」

「私たちは、それほど個人として認識されているのでしょうか。一人ひとりの顔が非常に見えにくいですよ。この社会は」

「自分のことを振り返っても、日本は女性が個人として自由に生きつらい国です」

「個がなければ公への認識は生まれない。公への奉仕が強制的に求められるとしたら、ファシズムです」


司馬遼太郎さんも次のように指摘する。NHKスペシャル『司馬遼太郎思索紀行 この国のかたち』(2月19日放送)より。

「立憲国家は、人々、個々の、つよい精神が必要なのです。戦後日本は、まだまだできていません」

しかし、どうやら今の日本では、さらに「個」が存在しにくい風潮が強まっているようである。

 ライターの武田砂鉄さんの今の政権に対する指摘。著書『紋切型社会』より。

「彼らの想定する『私たち』とは個人ではない。『I』の集積ではない。集いまくって『I』を『We』にするのではなく、『We』が切り刻まれて『I』になっていくという算段だ」 (P120)

「目立つ個に個が吸収されて全体化していく、これは個人主義でもなければもちろん民主主義でもない。全体化の後に残るのは、大量のまったく曖昧な単体である」 (P123)

「個」がなくなって曖昧な単体となる…。これは、昨今、政府の締め付けに対して、グズグズになっているメディアの構図と同じである。

TBS『報道特集』キャスターの金平茂紀さん雑誌『世界』5月号より。

「本来は『内部的自由』を確保していたはずの記者やディレクターたちが、組織を守るという大義名分のもとで、個を滅却して組織の論理に進んで従う。自主規制、忖度、過剰なコンプライアンス遵守が横行して、言葉・表現の自由がまさに自壊しかかっているのではないか」 (P71)

作家の森達也さん。ハンナ・アーレントを引き合いに「公共」について述べた言葉雑誌『現代思想』(2015年2月号)より。

「公共の場が特定の色に染まってしまう状況は、望ましくない。というか、同質的な者しかいなくて、まるで全体で『一人』のようになってしまった社会的な場は、もはや公共的空間ではない」

「多様な人が同じテーブルにつき、みんながいろいろな意見を持ち、それぞれが発言できるような状況、それぞれの人が固有名をもって現れるような状況が、アーレントの観点では、公共空間です」


「ところが、日本の場合はそうじゃないんですね。日本社会ではみんな一致していることが望ましい状況とされます」 (P194)

2015年4月29日 (水)

「言論の自由は、そしてあらゆる批判精神は、指の間から漏れる白砂のように、静かに、音もなく、しかし確実に、失われつつあったのである。その結果がどこへ行き着いたかは、いうまでもない」

日曜日の統一地方選挙。僕の自治体の投票率は40%を切っていた。どうにかしないと…。

社会の「公共性」を育むためには、対話による異なる意見や価値観のすり合わせが必要、というような話を、ここ数回のブログではゴロゴロと転がしながら自分になりに考えている。

本来、「公共性」を手に入れるための大切な手法である「議論」が、日本ではなぜ成り立たないのだろうか。そんな話を前回のブログ(4月25日)では考えた。

さらに今回は、「メディアと公共性」について考えてみたい。きっと「公共性」を育むためのメディアの役割は大きいと思うから

ドキュメンタリー監督の想田和弘さんは、最近の「選挙」について次のようにも書いている。雑誌『ジャーナリズム』(4月号)より。

「この議論なき選挙の傾向は、近年改善されるどころか、ますます悪化しているようにも感じる」 (P10)

「ほとんどのテレビ局は、何を恐れているのか『さわらぬ神に祟りなし』と自粛することによってリスクを冒すよりも、最初から議論しないことを望んでいるのである」 (P11)

特に安倍政権になってから、テレビの選挙報道が全く盛り上がらない。今のテレビメディアは候補者たちの異なる主張や公約をぶつけあう場を設け、候補者に提示する。その役割から自ら逃げている。そんな指摘である。

そんなメディアの姿勢は、自ら「言論の自由」「表現の自由」を放棄しているともいえる。

内田樹さん雑誌『AERA』(4月13日号)より。

「『言論の自由』とは自分の言いたいことを言う自由のことではない。そうではなくて、異論が行き交う場、多様な政治的意見が共生しうる場に対する敬意のことである。人々が情理を尽くしてそれぞれの自説の受け容れを粘り強く求めるならば、長期的には必ず『よりましな知見』が生き残るだろうという、場の審判性に対する信頼のことである」

京都大学教授の曽我部真裕さんは、「言論の自由」について次のように書く。きのうの朝日新聞(4月28日)より。

「その根幹にあるのは『異論を認める』ということですが、国民もメディアも、それを意識しなくなっている。特にネット上では、異論を認めて議論するのではなく、異論をつぶしあう。メディア自身までが、批判されるとすぐ訴訟を起こす」

それは、メディアと政治家の関係でも…。

マイケル・サンデル氏の言葉。President ONLINE』(2013年1月5日)より。

「メディアは、市民の問いかけに対して、真剣な議論の機会を提供し、政治家にプレッシャーを与えなくてはいけない」

公共性を育むために必要な「議論」「対話」、そして「批判」。もっとメディアは、自らの役割について考える必要がある。

ジャーナリストの神保哲生さんビデオニュース・ドットコム「ニュース・コメンティタリー」(2014年12月6日配信)より。

「確かに何が公共かというのはそれぞれの人の価値観に関係してくると思う」

「ただ権力を監視するという機能、メディアの機能は、あらゆる公益に資するという前提が、今はちゃんと教育されているのかという感じがある。いろんな価値観があってもいい。でもどんな価値観があっても、きちんと権力を見ていくという行為自体は、それ自体が公益的、公共的なふるまいという前提がある」


では、そんな情けない昨今のメディに対して、我々はどうするべきなのか。

さらにマイケル・サンデル氏の言葉。President ONLINE』(2013年1月5日) より。

「マスコミ改革のためには、視聴者である市民が、真剣な熟議の場を求めていることをメディアに感じさせる必要がある」

朝日新聞記者の恵村順一郎さん朝日新聞(4月24日)より。

「そしてひとりひとりの国民には、報道機関と権力を厳しく見張っていただきたい。異論や批判を排除せず、むしろ敬意を示す。そんな多様性ある社会こそが、健全な民主主義を育むことができる」

地味な作業だけど、何とかしないと「言論の自由」、そして「民主主義」がなくなってしまう…。

最後に。
加藤周一さん自らの体験による言葉。朝日新聞(4月24日)より。


「言論の自由は、そしてあらゆる批判精神は、指の間から漏れる白砂のように、静かに、音もなく、しかし確実に、失われつつあったのである。その結果がどこへ行き着いたかは、いうまでもない」


2015年4月25日 (土)

「日本の選挙には、議論が不在なのである」

ここ数回、「議論」「対話」についての言葉を並べみた。

いろいろ調べていて、サイト『ハフィントン・ポスト』(2013年6月10日)に掲載されていた明治大学教授の小笠原泰さんブログ『日本人は、なぜ議論できないのか』(第3回) が参考になった。

日本で行われている「議論」というものについて次のように書く。

「場(の空気)で徐々に参加者を縛り、『思いの共有化』と称して全員一致が望ましい状態であるように方向づける日本の『議論』」

それに対して、「対話」とは。

「意見の異なる明確な相手を念頭に置く、双方向のコミュニケーションであるdialogue(対話)」

「対話は、ロゴス(言語と論理)による勝ち負けという結果を問う『討論』とは異なり、ロゴスを分かち合う学ぶプロセスであり、説得ではなく、自発的に意見を変えることを良しとし、それを負けとはしない」


確かに日本では、議論、討議、討論、論戦、対話などがすべて「議論」という言葉を用いて語られるからややこしかったりする。

さらに小笠原泰さんは、『日本人は、なぜ議論できないのか』(第4回) で、さらに次のように分析する。

「対話(ダイアローグ)の集積ではなく、独白(モノローグ)の連鎖の展開が、日本的な言語行為の特徴といえるのではないか」

「特定の相手に向けてメッセージを発し、各自の意見を互いに主張し、それをぶつけ合うのではなく、むしろ、相手を特定することなく、意見の対立は顕在化することなく、会議と言う『場』に、独り言(モノローグ)のように発せられる参加者一人一人の考えや意見(思いや心情に近い)が次々と置かれていくと言えないか」


上記の日本の「議論」の特長を頭に入れながら、次の指摘を読むとより興味深い。

ドキュメンタリー監督の想田和弘さん雑誌『ジャーナリズム』(4月号)、『ニッポンの選挙には「議論」が不在』という文章を載せている。

「よく政治家が『選挙戦で論戦を展開していきたい』などと発言したりするが、論戦が実際に行われることは極めて稀である。日本の選挙には、議論が不在なのである」 (P10)

「僕が観察した二つの選挙では『問題や課題について洗い出し、議論し、意見をすり合わせる』という過程と機能が、ほぼ完全に欠落していたように思う。そして議論やすり合わせがないまま、主権者は投票日を迎え、決断だけを迫られるのだ」 (P9)

候補者が自分の主張や意見を「独白(モノローグ)」といて語るだけなのが、日本の選挙なのである。選挙戦において、その政治家の「対話力」や「柔軟性」を見たりすることはできない。

また政治の場で候補者同士、政治家同士の主張をぶつけ、すり合わせる「議論」がないのと同様に、社会には、政治家と有権者の間にも「対話」がない。

政治学者の早川誠さんは有権者について次のように書く。雑誌『ジャーナリズム』(4月号)より。

「しかし、政治家やジャーナリズムと自分自身との意見の一致を求めるあまり、自分以外の有権者の意見が反映されることを拒絶してしまえば、異なる意見の違いを調整する余地などはなくなる。有権者は相互に分断されてしまい、政治に不可欠な妥協や取引が成立する可能性は低くなってしまう」 (P27)

これから必要となってくるのは、政治家同士、政治家と有権者の間の本当の意味での「対話」なのだろう。すり合わせ、調整、そして合意形成、折り合いということを繰り返すことで政治の世界にも「公共性」を作り出していかなければならない。

最後に。
小笠原泰さんの興味深い言葉を。
『日本人は、なぜ議論できないのか』(第5回)より。

「全会一致(衆議一決)は、欧米社会では、ファシズムに通じるものとして、民主主義社会において回避すべきものとして認識されている」

明日は、統一地方選挙後半戦の投票日。僕の地元でも、候補者たちの「独白」による選挙戦だけが行われていた。きっと、今回の選挙でも何も変わらないのだろう。

とにかく個人的には、多様な候補者の当選と、投票率の下げ止まりを望みたい。

2015年4月22日 (水)

「『あなたの意見には反対だけれど、あなたが意見を表明することの権利は命がけで守る』という民主主義のもっとも根本的なところを、政治家や、企業でいうと管理職の人たち、それから学校の先生たちが守れるかどうかなんです」

もう少し「議論」について。きのうのブログ(4月21日)の続き。

なぜ、ここ数回、「議論」について考えているか。改めて確認すると…。

これからは色んな異なる価値観をぶつけ合い、すり合わせ、調整して、共有していくことで、「公共の空間」を作り、「公共性」を育んでいくことが大事。という話の流れの中で、よく政治家は「議論が必要」という言葉を使う。しかし、彼らの「議論」はそれをすることが目的になっている違和感を持ってしまう。それは、なぜなんだろう。

そんな思いで、ここまで何回か「議論」について言葉を転がしてきた。


前回のブログでは、内田樹さんによる、政治家の議論が空洞化するのは、「非対話的なモード」だからという言葉を紹介した。

相手の価値観を認めない、理解しようとしない「非対話的なモード」だから、お互いが納得できる合意形成、折り合いを見つけることができない。

話は変わるが、先週(4月17日)、安倍総理と沖縄の翁長知事が、会談した。新聞には「対話ムードを演出」朝日新聞4月18日)、「対話姿勢を演出」沖縄タイムズ4月17日)などの文字が見られた。

そこで、今回は「議論」ではなく「対話」について、少しだけ考えてみたい。

劇作家の平田オリザさんの説明。NHK『東北発 未来塾』(4月13日放送)より。

「対話とは、違う立場の人同士が自分の考えを説明し合い、価値観をすり合わせること」

「分かり合えないということは、価値観が同じにはならないと考える。価値観をひとつにしなくても社会を構成できるようにすることが大事。いろんな人たちがいて、その人たちがお互いの立場を理解する」


やはり「お互いの立場」を理解することが大事となってくる。政治家に足りない部分である。

また平田オリザさんは次のようにも指摘する。著書『ニッポンには対話がない』より。

「ほんとうにだめなのが、中高年の男性たちです。これがいちばん対話下手。いま流行している言葉で言うと『上から目線』で、『そんなことはないだろう』とか、『きみは若いからわからないかもしれないが』って言ってしまう。若い人たちの意見を押さえつけるためだけの発言をしてしまう」 (P58)

「異なる感性とか異なる価値観をすり合わせていくのは大変なことですけれども、それをいとわないという習慣を身につけていかないと、少なくとも異なる文化的背景を持った人とは仕事にならない」 (P165)

僕にとっても耳の痛い言葉だったりもする。また安倍総理や菅官房長官が、沖縄の翁長知事から「上から目線」と批判されたのも思い出す。

元外交官の北川達夫さん。同じく『ニッポンには対話がない』より。

『相手の気持ちはわからない』という前提に立つエンパシーという発想が、言語、文化、宗教、伝統、性別、世代、立場など、あらゆる「違い」を超えたコミュニケーションにおいては、必要不可欠なものとなる」 (P138)

「相手の見解があって自分の見解がある。それが対立する、対立するとお互いが変わってくる。まさに、その変わってくるところを楽しめるか、そこを重視できるかですよね。回避せずに、対立を恐れないでぶつかって、そのうえでお互いにどう変わるか、そのプロセスを理解することが対話では重要になってきます」 (P167)

「妥協というものを否定的にとらえると、これまた対話はできなくなってしまいます。対話というのは、価値観を意図的に衝突させ、そこによってお互いに変わっていく作業なのですから、ある意味で前向きに妥協点を探す作業ともいえるんですね」 (P168)

結局、折り合いや妥協をするためには、自分が変わることである。その変わるということをいかに肯定的に変わるかが問われる。

さらに内田樹さんの次の言葉を重ねると興味深い。著書『子どもは判ってくれない』より。

「『私の主張は間違っている可能性がある』と思っている人間たちが集まると、その議論はたいへん迅速に進行し、かつ内容は濃密で深厚なるものとなる」 (P129)

最後に、平田オリザさんの次の言葉を。著書『ニッポンには対話がない』より。

「ワンランク上のほんとうの民主主義国家として成立させるための正念場に来ていると思います。それはやはり、『あなたの意見には反対だけれど、あなたが意見を表明することの権利は命がけで守る』という民主主義のもっとも根本的なところを、政治家や、企業でいうと管理職の人たち、それから学校の先生たちが守れるかどうかなんです」 (P53)

議論をすることが目的の「議論」に終始するのではなく、「対話」を続け、お互いが理解し合い、折り合い、すり合う過程で自分が変わっていく。それこそが「公共性」につながっていくことなのだろう。沖縄問題しかり、被災地での復興しかり。


2015年4月21日 (火)

「でも『とことん話し合え』というのも島国、ムラ社会の論理。とことん話し合えば、結論が出ると思っている」

きのうのブログ(4月20日)への追加分として。

きのう、NHKのEテレ『東北発 未来塾』(4月20日放送)を観た。劇作家の平田オリザさんが、次のように語っていた。

「日本の先生は根性論が好きだから『とことん話し合え』とか言う。でも『とことん話し合え』というのも島国、ムラ社会の論理。とことん話し合えば、結論が出ると思っている」

「そうではない。結論なんかでないから、一定時間内にどうにかする」

「どうにかするしかない。どうやって折り合いをつけるか考えなければいけない」


きっと「ところん話し合うこと」も大切だとは思う。でも、それ以上に重要なのは、きのうのブログでも書いたが、「折り合うこと」なのだと思う。

ただ、この「折り合い」という言葉について、大阪市長の橋下徹さんは次のように使っている。自身のツイーター(1月15日)より。

「政治家の議論は、課題解決のための議論。議論は手段。必ず結論を出さなければならない。裁判と同じ。この議論で重要なことは、どこで議論は熟したと判断するか。ここが最重要。この判断がなければ永遠の議論となって、判決など出せなくなる」

「論点について主張を尽くし、これ以上折り合いがつかないところ、あとは見解の違いとしか言いようのないところまで達したら議論は終了。結論を出さなければならない」


一見、平田オリザさんと同じようなことを言っている気もする。

だけど、ここで橋下氏が使う「折り合い」という言葉には、相手に「屈する」という意味が強い気がする。たぶん「合意形成」という考えもない。


そもそも議論は「裁判と同じ」ではない、と思う。裁判は、お互いが主張を尽し、最後は裁判官が判断する。そこには「合意形成」というものを目指す必要ない。

でも、「合意形成」という意味での折り合いというものは、相手への敬意や相手を理解しようという気持ちがないと生まれない。

橋下氏を含め、政治家にこの「まずは相手を理解しよう」という考えが薄いんだと思う。最後は、権力によって決めてしまえばいいと思っている。たぶん。そんな政治家が確実に増えている。

内田樹さんの言葉。著書『慨世の遠吠え』より。

「国会の議論が空洞化して、無意味なものになりつつあるのは、政治家がそれぞれ『自分だけが現実について論じていて、対立党派の人間たちが見ているのは現実ではない』という非対話的なモードで国会に登院しているからだと思います」 (P25)

さらに、こんな言葉も。

「『そもそもあんたはなにもわかっていないんだよ』という言い方で、自分たちは同一の現実を共有していないというところまで言い放つ政治家もいる。見ている世界が違うんだから、話が噛み合うはずがない。そして、自分の見ている現実は『本当の現実』で、おまえたちが見ているのは『幻想』だという。そんな対立的なスキームで政策を論じていたのでは、対話も落としどころのすり合わせもできるはずがない」 (P25)

相手への敬意や理解を持たず、議論で落としどころのすり合わせも行わない…。これが政治の世界で行われていること。だから彼らが使う「議論」という言葉に違和感を持ってしまうのだと思う。

 

2015年4月20日 (月)

「私は『戦う』という言葉が嫌いなのである。私が好きなのは『折り合う』という動詞である」

もう少し「議論」について考えてみたい。前回のブログ(4月14日)の続き。

作家の橘玲さん著書『バカが多いのには理由がある』より。

「私たちの社会には複数の『正義』があります。正義とはひとびとが直感的に『正しい』と感じるものですから、それぞれの正義は台頭で優劣はつけられません」

「だとすれば大切なのは、自分と異なる正義を尊重することと、両立できない(トレードオフの)正義の間で折り合いをつける工夫をすることです」 (P234)

おととい内田樹さん著書『子どもは判ってくれない』を改めて読み返していた。その中から。

「今、私たちの社会はそのような、『具体性を欠き、誰に向かって言っているのかよく分からない』けれど、文句のつけようのないほど『正しい意見』に充満している。新聞の社説からニュース解説から大臣や官僚の国会動弁からテレビ人生相談まで、そんなのばかりだ」 (P12)

「世の中には、議論の場において、とりあえず『正しいこと』を言うことを『結論を出すこと』に優先させる人がいる」

「このタイプの『正論家』が『正論』でひた押しに押してゆくと、会議が結論に達するのに、たいへん時間がかかる。正論を語る人は、正しさを正しさとして貫徹する『構え』そのものに意味があるわけであって、その『正しさ』が多数派の同意を得られて物質化するかどうかということには副次的な関心しか向かないからである。正論派は『合意形成』や『多数派工作』や『説得』や『根回し』というような術策には興味を示されないのである」 (P126)

それぞれの「正しいこと」を言い合うのが議論ではないのである。そこから、いかにして「合意」にたどり着くかが重要なのである。

内田樹さんは、次のようにも書く。

「私は『戦う』という言葉が嫌いなのである。私が好きなのは『折り合う』という動詞である」 (P96)


「『折り合いをつける』とか『妥協する』という言葉を多く人はネガディヴな意味で用いるけれど、私は『妥協』というのはかなり高度な知的達成であると考えている」 (P130) 

 

 

 <参考>

2013年5月15日のブログ 

2015年4月14日 (火)

「現場でいちばん大切なのは、相手をやりこめることではなくて、いかにして和解しがたい対立を合意形成にもっていくかじゃないですか」

前回のブログ(4月11日)では、「公共性」について考えた。その続き。

異なる価値観や考えをぶつけ合い、調整して、共有することで社会を豊かにしていく。そういう場所が「公共の空間」であり、そこで「公共性」を育むことが今の日本社会では大事なのではないか。という話をしてきた。

統一地方選挙の関連記事で、元我孫子市長の福嶋浩彦さんが「地方政治」ついて次にように語っていた。東京新聞(4月6日)より。

「とことん議論して、新しいものが生まれるかもしれないという、ワクワクした気持ちを味わってほしい」

有権者や政治家がとことん議論して新しいものを生む。そうなれば、地方議会が「公共の空間」として機能する。ということ。

その通りだと思うし、ぜひ地方政治もそうあってほしい。ただ、僕が何回か傍聴した地元の自治体の議会は、そんな姿からは程遠い。議論はゼロ。報告やセレモニーの場でしかない。

ただ時々、「議論」というものがよく分からなくなる。

確かに政治家の方は、この言葉が好きである。安倍総理も「議論を尽くして決めたい」と言うし、野党も「議論が足りない」と言う。

でも、「議論」って何なんだろうと思う。

役人が作った原稿を読んで答弁することが議論なのか、審議なのか。日本の政治の世界では「議論」というセレモニーを行うことが目的化しているのではないか。

産経新聞(4月3日)には、「議会での質問をアドバイスする議員向けの有料サービスが登場した」という記事も。これがいいことなのか、悪いことなのかは分からない。少なくとも今の議会で、議論や審議が有機的に行われているとは思えない。

政治学者の杉田敦さんの言葉。朝日新聞(3月29日)より。

「それぞれが『正しい』と思うことを発信し、議論したりせめぎ合ったりする中で公正性や公平性は形成されます」

この言葉のように、本来、議論とは、お互いの考えや価値観を主張して、ぶつけ合う。それぞれが折り合い合意できる場所を探しながら、「公正性」や「公平性」、すなわち「公共性」を形成することが目的なのである。

議論はあくまでも「公共性」を手に入れるための手段であって、目的ではない。

内田樹さん著書『身体知』より。

「論争って、勝てば恨みを買うし、負ければ気分がわるい。どっちに転んでもいいことがない」 (P48)

「議論してやりこめたって、それで計画の実現が早まるということはあまりないというか、ほとんどない」 (P49)

「現場でいちばん大切なのは、相手をやりこめることではなくて、いかにして和解しがたい対立を合意形成にもっていくかじゃないですか。たいせつなのは『論破』することじゃなくて、『説得』することでしょう」 (P49)

社会学者の開沼博さん著書『ニッポンのジレンマ ぼくらの日本改造論』より。

「それをコミュニティなり自治会なりで議論にするにしても、また難しい問題が出てきます。多くの場合『俺とお前は意見が合わない。やってられない』ということになりがちですし、それは日本の社会には『議論をする』という精神的風土がなかったからかもしれません。結果、議論をすればするほど分断が明らかになり、それが深まるという事態になる」 (P21)

 折り合いや合意形成にもっと重点を置いた「議論」。それが必要なのだと思う。

大阪市長の橋下徹氏は、今年1月15日のツイートで次のように書く。サイト『BLGOS』(1月15日) より。

「新聞の論説委員も、実務を知らない学者も、自称インテリも、解決策を示す責任を負ったことがないから、議論を終了する判断というものをやったことがないのだろう。日本は議論についての教育がない」

「メディアも自称インテリも時間をかければ良い議論になると勘違いしている」

「結論を出さなくてもいい議論は時間の長さが評価されるポイントになるのだろう。しかし結論を出す議論は時間をかけたかどうかは関係ない。結論を出すに至ったかどうか。もうこれ以上議論をしても折り合いがつかないかどうか」


一理ある、と思う。確かに、日本で議論の教育のないのも確かだし、時間をかければよい議論になるとは限らない。

ただ、議論で結論を出すだけでもダメ。どうやって結論を出したかが大切なのではないか。意見をぶつけ合うだけでなく、相手に耳を傾け、折り合う場所を見つけなければならない。そうしないと、強要・押し付けになってしまう。

実は、安倍総理や菅官房長官が好む「粛々と進める」という言葉にも、議論による合意形成を放棄する意図があるのではないか。小田嶋隆さんの指摘。TBSラジオ『たまむすび』(4月6日放送)より。

「政治用語として“粛々”という言葉を使った時には、もう議論はしないよ、説明はしないよ、反論は受け付けないよ、聴く耳を持たないよ、無視するよ、黙殺するよ、放置するよ、ネグレクトするよ、強行突破するよ、というニュアンスがある。そんな言葉に既になっている」


ネットでこんな言葉を見つけた。展示会エキスパートという、飯野健二さんの言葉。サイト『展示会のイイノ』(2012年6月14日) より。

「議論は、『口喧嘩』や『論争』ではない」

「自分の主張を相手にわかってもらうため、折り合いをつけるプロセスのことだ」


「議論」の本質とは、どちらが正しいかという結論を得るものではなく、異なる意見や価値観を知り、それについて考えること。そして、相手の意見を理解できず、そのまま受け入れられない場合は、お互いに合意できる点や折り合う場所を見つけること。

マイケル・サンデルが言う所の「共通善」というものを見つけ出す作業こそが、「議論」の本質なのだろう。President ONLINE』(2013年1月5日) より。

「たとえば米国政治の世界では、議会や公聴会といった『熟議』の場が『ロビー活動』の場と化しつつある。議論や異論、論争があふれるなか、人と『やり合う』ことに血道を上げる姿が目立つ」

「私が唱えているのは、コミュニティーや市民としての義務、市民間の相互責任に重きを置き、道理にかなった問いかけや議論を展開すべきだということである。市民が共通善を目指し、人生に意味を与えてくれるような伝統を真剣にとらえるべきだ、と言っているのだ」

「いずれにしろ、『共通善』を目指した討論の場を増やすことが必要だ。政府やメディア、高等教育機関の改革に加え、労働組合や社会運動団体、環境グループ、女性の権利団体など、市民社会レベルでの協調を進め、市民の声をくみ上げていく仕組みづくりが大切である」



2015年4月11日 (土)

「他人とのかかわり、ときには面倒を背負い込む。そういう状況を客観的に見て、楽しめるような心境になれば相当なものでしょう」

今年3月11日に、東日本大震災の被災地・気仙沼でのボランティアに参加してから、今日で1か月が過ぎた。

そこで抱いた違和感から、いろんな人の言葉を並べてみて、転がしてみた。その途中で、高橋源一郎さん「個別性と複雑性」という言葉に出会い、その周辺のことについて1か月間、ウダウダと考えてきた。 (3月13日のブログ以降)

震災から4年経った被災地で抱いた違和感とは、「被災地で進められている『復興』とは、『人の暮らし』に向き合うことよりも、『復興事業』を優先させることではないか」というもの。そのあとでメモ帖を見返していたら、こんな言葉も見つけた。

哲学者の内田節さん著書『新・幸福論』より。

「国にとって被災者は、『人々』である。数字でとらえられた『人々』なのである。それに対して被災者による『復興』は、AさんやBさんの世界だ」 (P134)

「被災者はイメージではない。AさんやBさんが被災したのである。ところが国はAさんやBさんと向き合う方法をもっていない。自国内の人間を『国民』、『納税者』といった『人々』として把握するのと同じように、被災者も『人々』としてとらえる。だからイメージ化された被災者への支援になってしまって、被災したAさんやBさんへの支援は実現しないのである」 (P134)

まさに、この言葉の通りだと思う。

経済アナリストの藻谷浩介さん著書『しなやかな日本列島のつくりかた』より。

「『復興は暮らしのため』、『経済成長はあなたが生きていくため』というけれど、あなたが生きていくために、あなたの暮らしを犠牲にしましょうって、それは話がおかしいんですよね。『生きるために経済成長しましょう』と言っているうちに、成長の方がいつのまにか目的になって、『経済成長のために生きよう』という主客転倒を起こしているんです」 (P58)

この理屈で、「暮らし」が犠牲になり、復興事業や経済成長という大きなシステムが優先されていく。

この藻谷さんの言葉の、「復興」を「基地」に、「経済成長」を「対米従属」に入れ替えれば、そのまま沖縄問題についてのコメントになる。日本中で同じことが行われているのである

改めて話を「個別性と複雑性」「全体化と単純化」に移したい。


今、社会のアチコチで行われているのは、個人やその土地の「個別性と複雑性」を排除して、国といった上からの「全体化と単純化」を「粛々」と押し進めていくこと。

確かに。

個人の生活や価値観がどんどん多様化・複雑化していくなかで、その「個別性と複雑性」と向き合うことは、時間もかかるし、手間もかかるし、面倒くさいことでもある。一見、キリがないことのように思える。いちいち個別の対応をしていたら、社会は止まってしまう、グローバルに対応できない。そんな声も大阪の市長や経団連あたりから聞こえてきそうである。

かといって、効率のために「全体化と単純化」を受け入れるわけにはいかない。歴史を振り返れば、それが導くものが想像できるから。


そこで必要となってくるのが、「公共性」だと僕は考える。そう考え、ここ3回のブログ(4月8日のブログから)で「公共」に注目してきた。


公共とは「多数」が集まる出入り自由な場所。自分とは違った「価値観」と出会う場所。それぞれの「個別性と複雑性」に富んだ価値観をぶつけあい、折り合う過程で生まれる「公共性」。

その「公共性」というものが、社会を留めることなく、それなりの効率で進めていくものなのではないか。

そんな「公共空間」では、必要となってくるのが、「多数」の中でやりとりするための「対話」。北川達也さんの言葉。著書『苦手なあの人と対話する技術』より。

「対話とは、人間がみな違うことを前提とする。違うから、わかりあえない。わかりあえないから、話すしかない。話しても、わかりあえるとは限らない。だから話し続けるしかない―これが対話なのだ」 (P120)

そして、異なる価値観と出会うことで学ぶ。牧師の奥田知志さんの言葉。著書『「助けて」と言える国へ』より。

「私は学びは出会いだと思うのです。人は出会いで変わります。例えば、子どもができたら子どものペースに合わせ、恋人ができたら恋人のペースに引っ張られますね。自分のペースが帰られることを極端に恐れていると誰とも出会えない。その結果無縁へと向かう。それが傷つきたくないということとも関連しています」

養老孟司さんの言葉。著書『「自分」の壁』より。

「他人とのかかわり、ときには面倒を背負い込む。そういう状況を客観的に見て、楽しめるような心境になれば相当なものでしょう。自分がどこまでできるか、できないか。それについて迷いが生じるのは当然です。特に、若い人ならば迷うことばかりでしょう。しかし、社会で生きるというのは、そのように迷うことなのです」 (P220)

時間がかかる。手間がかかる。効率も悪い。そして、面倒くさい。でもそんな過程を経ないと、「公共性」というものはきっと作ることはできないし、手にも入らない。

だから、面倒を楽しむ。「公共性」のある社会のための一番の作法は、それではないかと僕は思う。


個人的には、この1か月、「個別性と複雑性」「全体化と単純化」、そして「公共性」。こうした言葉と出会い、それを転がしてきて、非常に楽しい作業だった。



<参考>


「多様性」

「言葉・言語力」

「パブリック・公共性」


「考える」



 

2015年4月10日 (金)

「『パブリック』という、もう少し多様で出入りが自由で風通りがいい場所を鍛えておくことが、民主主義にとっては大事なんじゃないか」

今回も「公共」について続けてみたい。(4月9日のブログの続き)

メモ帖に、色んな「公共」についての言葉があったので並べてみたい。

社会学者の宮台真司さんの言葉。ビデオニュース・ドットコム(2013年7月配信)より。

「公共空間が存在しない。公共空間と言うのは、自分とは違った種類の出自、イデオロギー、価値を持っている人間と同じ空間を共有する、近接的、隣り合って生きていくために存在する知恵。僕たちは、そういう公共空間に対する歴史的な伝統もない」


ジャーナリストの武田徹さんTBSラジオ『セッション』(2013年12月18日放送)より。

 「公共性というものへの概念の理解が市民社会の側も含めて浅いのではないかと思う。公共性って言葉をすごく安易に使う。でも実は全然考えていない所がある」

「公共性の概念を考える時に公益とつなげて考えた方がいいのではないかと思う。公益というのは私益を超えるもの。それぞれの私益を超えて、みなさんの妥協できる、中間点を出していく。そういうことを求めていくのが公共性の追求だと思う。政党益でもないし、政府益でもないし、もしかしたら国益でもないかもしれない。そういうものを超えるかもしれない。そういった公益性を追い求めていくのがメディアの公共性だと思っている」


さらに武田徹さん朝日新聞(4月5日)より。

「奉仕すべき『公共』とは市民社会であり、時の政権の政策ではない。こうして『公共』とは何かをきちんと定義する作業を怠っていると、家庭は再び国家主義の暴走を許す温床になりかねない」

我々の社会は、もっと「公共」とは何かを日頃から考えておかなければいけないのだろう。

 そうしないと、本来、「公共」に属する分野に気がつくと「国家」というものが入り込んできてしまう。

宮台真司さんビデオニュース・ドットコム(2013年7月6日配信)より。

「市民的な公共圏を守るために、憲法で統治権力を制約するという発想が出てこない。逆に憲法で道徳的な価値観まで規定して、公共圏で浅ましくさもしい者たちのトラブルが起こったときには、それには道徳観に基づいて国が乗り出してくれみたいな、どうもそういう話なんです」

映画監督の是枝裕和さん著書『是枝裕和×姜尚中』より。

「『パブリック』という、もう少し多様で出入りが自由で風通りがいい場所を鍛えておくことが、民主主義にとっては大事なんじゃないか―特に日本みたいに同一性が高くて、同調圧力の強い国にとっては、その『パブリック』をどう成熟させるのかというのが、絶対的に重要だと思っていたんです」 (P68)

さらに是枝裕和さん雑誌『AERA』(2015年10月7日号)より。

「この『公共』とは『私』のない場所ではなく、多様な『私』が許される場所だと私は考えるようになり、自分はそこに向かって作るのだと」

本来、「公共」「public(パブリック)」とは、我々にとって欠かせない、そして“出入り自由”の居心地の良い場所なのである。ただ、最近のヤンキー化の進む日本社会では、こうした「公共空間」を苦手とする人が増えているよう。

博報堂の原田曜平さん著書『ヤンキー経済』より。

「車と違って電車内は公共の場所です。視界は見知らぬ他人で埋めつくされており、空間を親しい友人同士だけで専有することはできません。マイルドヤンキーにとって、それは耐え難いものであり、電車のなかではリラックスすることができないのです」 (P152)

個人的なイメージだが、僕は「公共」というと信号機の「黄色信号」を思い出す。それは「進む人」のものでもないし、「止まる人」のものでもない。どちらのもの、みんなのものなのである。だから、いざというときに便利だし安心できる。「黄色信号」があるからこそ、交差点というものが心地よく利用できる。そんなイメージだ。

ただ最近はどうも、黄色信号を「わが物」として平気でツッコンでくる自動車や自転車が増えている。目の前の信号が黄色に変わると逆にアクセルを踏んで急いで渡ろうとする感じ。そういうシーンを見ると、ますます「公共空間」が縮小しているなあと思う。

そもそも、道路は「公道」であり、パブリックなもののはず。それを「車道」と呼び、車が独占しているところに、日本社会の「公共」に対する意識の希薄さがあると思う。(2011年12月9日のブログ参照)

「公共」というものについて、それが何のために必要なのか、どうしたら作り出せるのか、どうやって維持するのか、そういうことをもっともっと考えておかないといけないのだろう。

もし信号機から「黄色信号」を完全になくしてしまったら、きっと交差点はギスギスした空間になってしまうだろう。

それと一緒で、社会を潤滑に回すためには「公共性」と「公共空間」が必要なんだと思う。


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