「他人とのかかわり、ときには面倒を背負い込む。そういう状況を客観的に見て、楽しめるような心境になれば相当なものでしょう」
今年3月11日に、東日本大震災の被災地・気仙沼でのボランティアに参加してから、今日で1か月が過ぎた。
そこで抱いた違和感から、いろんな人の言葉を並べてみて、転がしてみた。その途中で、高橋源一郎さんの「個別性と複雑性」という言葉に出会い、その周辺のことについて1か月間、ウダウダと考えてきた。 (3月13日のブログ以降)
震災から4年経った被災地で抱いた違和感とは、「被災地で進められている『復興』とは、『人の暮らし』に向き合うことよりも、『復興事業』を優先させることではないか」というもの。そのあとでメモ帖を見返していたら、こんな言葉も見つけた。
哲学者の内田節さん。著書『新・幸福論』より。
「国にとって被災者は、『人々』である。数字でとらえられた『人々』なのである。それに対して被災者による『復興』は、AさんやBさんの世界だ」 (P134)
「被災者はイメージではない。AさんやBさんが被災したのである。ところが国はAさんやBさんと向き合う方法をもっていない。自国内の人間を『国民』、『納税者』といった『人々』として把握するのと同じように、被災者も『人々』としてとらえる。だからイメージ化された被災者への支援になってしまって、被災したAさんやBさんへの支援は実現しないのである」 (P134)
まさに、この言葉の通りだと思う。
経済アナリストの藻谷浩介さん。著書『しなやかな日本列島のつくりかた』より。
「『復興は暮らしのため』、『経済成長はあなたが生きていくため』というけれど、あなたが生きていくために、あなたの暮らしを犠牲にしましょうって、それは話がおかしいんですよね。『生きるために経済成長しましょう』と言っているうちに、成長の方がいつのまにか目的になって、『経済成長のために生きよう』という主客転倒を起こしているんです」 (P58)
この理屈で、「暮らし」が犠牲になり、復興事業や経済成長という大きなシステムが優先されていく。
この藻谷さんの言葉の、「復興」を「基地」に、「経済成長」を「対米従属」に入れ替えれば、そのまま沖縄問題についてのコメントになる。日本中で同じことが行われているのである。
改めて話を「個別性と複雑性」、「全体化と単純化」に移したい。
今、社会のアチコチで行われているのは、個人やその土地の「個別性と複雑性」を排除して、国といった上からの「全体化と単純化」を「粛々」と押し進めていくこと。
確かに。
個人の生活や価値観がどんどん多様化・複雑化していくなかで、その「個別性と複雑性」と向き合うことは、時間もかかるし、手間もかかるし、面倒くさいことでもある。一見、キリがないことのように思える。いちいち個別の対応をしていたら、社会は止まってしまう、グローバルに対応できない。そんな声も大阪の市長や経団連あたりから聞こえてきそうである。
かといって、効率のために「全体化と単純化」を受け入れるわけにはいかない。歴史を振り返れば、それが導くものが想像できるから。
そこで必要となってくるのが、「公共性」だと僕は考える。そう考え、ここ3回のブログ(4月8日のブログから)で「公共」に注目してきた。
公共とは「多数」が集まる出入り自由な場所。自分とは違った「価値観」と出会う場所。それぞれの「個別性と複雑性」に富んだ価値観をぶつけあい、折り合う過程で生まれる「公共性」。
その「公共性」というものが、社会を留めることなく、それなりの効率で進めていくものなのではないか。
そんな「公共空間」では、必要となってくるのが、「多数」の中でやりとりするための「対話」。北川達也さんの言葉。著書『苦手なあの人と対話する技術』より。
「対話とは、人間がみな違うことを前提とする。違うから、わかりあえない。わかりあえないから、話すしかない。話しても、わかりあえるとは限らない。だから話し続けるしかない―これが対話なのだ」 (P120)
そして、異なる価値観と出会うことで学ぶ。牧師の奥田知志さんの言葉。著書『「助けて」と言える国へ』より。
「私は学びは出会いだと思うのです。人は出会いで変わります。例えば、子どもができたら子どものペースに合わせ、恋人ができたら恋人のペースに引っ張られますね。自分のペースが帰られることを極端に恐れていると誰とも出会えない。その結果無縁へと向かう。それが傷つきたくないということとも関連しています」
養老孟司さんの言葉。著書『「自分」の壁』より。
「他人とのかかわり、ときには面倒を背負い込む。そういう状況を客観的に見て、楽しめるような心境になれば相当なものでしょう。自分がどこまでできるか、できないか。それについて迷いが生じるのは当然です。特に、若い人ならば迷うことばかりでしょう。しかし、社会で生きるというのは、そのように迷うことなのです」 (P220)
時間がかかる。手間がかかる。効率も悪い。そして、面倒くさい。でもそんな過程を経ないと、「公共性」というものはきっと作ることはできないし、手にも入らない。
だから、面倒を楽しむ。「公共性」のある社会のための一番の作法は、それではないかと僕は思う。
個人的には、この1か月、「個別性と複雑性」、「全体化と単純化」、そして「公共性」。こうした言葉と出会い、それを転がしてきて、非常に楽しい作業だった。
<参考>