★個別性と複雑性

2015年4月11日 (土)

「他人とのかかわり、ときには面倒を背負い込む。そういう状況を客観的に見て、楽しめるような心境になれば相当なものでしょう」

今年3月11日に、東日本大震災の被災地・気仙沼でのボランティアに参加してから、今日で1か月が過ぎた。

そこで抱いた違和感から、いろんな人の言葉を並べてみて、転がしてみた。その途中で、高橋源一郎さん「個別性と複雑性」という言葉に出会い、その周辺のことについて1か月間、ウダウダと考えてきた。 (3月13日のブログ以降)

震災から4年経った被災地で抱いた違和感とは、「被災地で進められている『復興』とは、『人の暮らし』に向き合うことよりも、『復興事業』を優先させることではないか」というもの。そのあとでメモ帖を見返していたら、こんな言葉も見つけた。

哲学者の内田節さん著書『新・幸福論』より。

「国にとって被災者は、『人々』である。数字でとらえられた『人々』なのである。それに対して被災者による『復興』は、AさんやBさんの世界だ」 (P134)

「被災者はイメージではない。AさんやBさんが被災したのである。ところが国はAさんやBさんと向き合う方法をもっていない。自国内の人間を『国民』、『納税者』といった『人々』として把握するのと同じように、被災者も『人々』としてとらえる。だからイメージ化された被災者への支援になってしまって、被災したAさんやBさんへの支援は実現しないのである」 (P134)

まさに、この言葉の通りだと思う。

経済アナリストの藻谷浩介さん著書『しなやかな日本列島のつくりかた』より。

「『復興は暮らしのため』、『経済成長はあなたが生きていくため』というけれど、あなたが生きていくために、あなたの暮らしを犠牲にしましょうって、それは話がおかしいんですよね。『生きるために経済成長しましょう』と言っているうちに、成長の方がいつのまにか目的になって、『経済成長のために生きよう』という主客転倒を起こしているんです」 (P58)

この理屈で、「暮らし」が犠牲になり、復興事業や経済成長という大きなシステムが優先されていく。

この藻谷さんの言葉の、「復興」を「基地」に、「経済成長」を「対米従属」に入れ替えれば、そのまま沖縄問題についてのコメントになる。日本中で同じことが行われているのである

改めて話を「個別性と複雑性」「全体化と単純化」に移したい。


今、社会のアチコチで行われているのは、個人やその土地の「個別性と複雑性」を排除して、国といった上からの「全体化と単純化」を「粛々」と押し進めていくこと。

確かに。

個人の生活や価値観がどんどん多様化・複雑化していくなかで、その「個別性と複雑性」と向き合うことは、時間もかかるし、手間もかかるし、面倒くさいことでもある。一見、キリがないことのように思える。いちいち個別の対応をしていたら、社会は止まってしまう、グローバルに対応できない。そんな声も大阪の市長や経団連あたりから聞こえてきそうである。

かといって、効率のために「全体化と単純化」を受け入れるわけにはいかない。歴史を振り返れば、それが導くものが想像できるから。


そこで必要となってくるのが、「公共性」だと僕は考える。そう考え、ここ3回のブログ(4月8日のブログから)で「公共」に注目してきた。


公共とは「多数」が集まる出入り自由な場所。自分とは違った「価値観」と出会う場所。それぞれの「個別性と複雑性」に富んだ価値観をぶつけあい、折り合う過程で生まれる「公共性」。

その「公共性」というものが、社会を留めることなく、それなりの効率で進めていくものなのではないか。

そんな「公共空間」では、必要となってくるのが、「多数」の中でやりとりするための「対話」。北川達也さんの言葉。著書『苦手なあの人と対話する技術』より。

「対話とは、人間がみな違うことを前提とする。違うから、わかりあえない。わかりあえないから、話すしかない。話しても、わかりあえるとは限らない。だから話し続けるしかない―これが対話なのだ」 (P120)

そして、異なる価値観と出会うことで学ぶ。牧師の奥田知志さんの言葉。著書『「助けて」と言える国へ』より。

「私は学びは出会いだと思うのです。人は出会いで変わります。例えば、子どもができたら子どものペースに合わせ、恋人ができたら恋人のペースに引っ張られますね。自分のペースが帰られることを極端に恐れていると誰とも出会えない。その結果無縁へと向かう。それが傷つきたくないということとも関連しています」

養老孟司さんの言葉。著書『「自分」の壁』より。

「他人とのかかわり、ときには面倒を背負い込む。そういう状況を客観的に見て、楽しめるような心境になれば相当なものでしょう。自分がどこまでできるか、できないか。それについて迷いが生じるのは当然です。特に、若い人ならば迷うことばかりでしょう。しかし、社会で生きるというのは、そのように迷うことなのです」 (P220)

時間がかかる。手間がかかる。効率も悪い。そして、面倒くさい。でもそんな過程を経ないと、「公共性」というものはきっと作ることはできないし、手にも入らない。

だから、面倒を楽しむ。「公共性」のある社会のための一番の作法は、それではないかと僕は思う。


個人的には、この1か月、「個別性と複雑性」「全体化と単純化」、そして「公共性」。こうした言葉と出会い、それを転がしてきて、非常に楽しい作業だった。



<参考>


「多様性」

「言葉・言語力」

「パブリック・公共性」


「考える」



 

2015年4月10日 (金)

「『パブリック』という、もう少し多様で出入りが自由で風通りがいい場所を鍛えておくことが、民主主義にとっては大事なんじゃないか」

今回も「公共」について続けてみたい。(4月9日のブログの続き)

メモ帖に、色んな「公共」についての言葉があったので並べてみたい。

社会学者の宮台真司さんの言葉。ビデオニュース・ドットコム(2013年7月配信)より。

「公共空間が存在しない。公共空間と言うのは、自分とは違った種類の出自、イデオロギー、価値を持っている人間と同じ空間を共有する、近接的、隣り合って生きていくために存在する知恵。僕たちは、そういう公共空間に対する歴史的な伝統もない」


ジャーナリストの武田徹さんTBSラジオ『セッション』(2013年12月18日放送)より。

 「公共性というものへの概念の理解が市民社会の側も含めて浅いのではないかと思う。公共性って言葉をすごく安易に使う。でも実は全然考えていない所がある」

「公共性の概念を考える時に公益とつなげて考えた方がいいのではないかと思う。公益というのは私益を超えるもの。それぞれの私益を超えて、みなさんの妥協できる、中間点を出していく。そういうことを求めていくのが公共性の追求だと思う。政党益でもないし、政府益でもないし、もしかしたら国益でもないかもしれない。そういうものを超えるかもしれない。そういった公益性を追い求めていくのがメディアの公共性だと思っている」


さらに武田徹さん朝日新聞(4月5日)より。

「奉仕すべき『公共』とは市民社会であり、時の政権の政策ではない。こうして『公共』とは何かをきちんと定義する作業を怠っていると、家庭は再び国家主義の暴走を許す温床になりかねない」

我々の社会は、もっと「公共」とは何かを日頃から考えておかなければいけないのだろう。

 そうしないと、本来、「公共」に属する分野に気がつくと「国家」というものが入り込んできてしまう。

宮台真司さんビデオニュース・ドットコム(2013年7月6日配信)より。

「市民的な公共圏を守るために、憲法で統治権力を制約するという発想が出てこない。逆に憲法で道徳的な価値観まで規定して、公共圏で浅ましくさもしい者たちのトラブルが起こったときには、それには道徳観に基づいて国が乗り出してくれみたいな、どうもそういう話なんです」

映画監督の是枝裕和さん著書『是枝裕和×姜尚中』より。

「『パブリック』という、もう少し多様で出入りが自由で風通りがいい場所を鍛えておくことが、民主主義にとっては大事なんじゃないか―特に日本みたいに同一性が高くて、同調圧力の強い国にとっては、その『パブリック』をどう成熟させるのかというのが、絶対的に重要だと思っていたんです」 (P68)

さらに是枝裕和さん雑誌『AERA』(2015年10月7日号)より。

「この『公共』とは『私』のない場所ではなく、多様な『私』が許される場所だと私は考えるようになり、自分はそこに向かって作るのだと」

本来、「公共」「public(パブリック)」とは、我々にとって欠かせない、そして“出入り自由”の居心地の良い場所なのである。ただ、最近のヤンキー化の進む日本社会では、こうした「公共空間」を苦手とする人が増えているよう。

博報堂の原田曜平さん著書『ヤンキー経済』より。

「車と違って電車内は公共の場所です。視界は見知らぬ他人で埋めつくされており、空間を親しい友人同士だけで専有することはできません。マイルドヤンキーにとって、それは耐え難いものであり、電車のなかではリラックスすることができないのです」 (P152)

個人的なイメージだが、僕は「公共」というと信号機の「黄色信号」を思い出す。それは「進む人」のものでもないし、「止まる人」のものでもない。どちらのもの、みんなのものなのである。だから、いざというときに便利だし安心できる。「黄色信号」があるからこそ、交差点というものが心地よく利用できる。そんなイメージだ。

ただ最近はどうも、黄色信号を「わが物」として平気でツッコンでくる自動車や自転車が増えている。目の前の信号が黄色に変わると逆にアクセルを踏んで急いで渡ろうとする感じ。そういうシーンを見ると、ますます「公共空間」が縮小しているなあと思う。

そもそも、道路は「公道」であり、パブリックなもののはず。それを「車道」と呼び、車が独占しているところに、日本社会の「公共」に対する意識の希薄さがあると思う。(2011年12月9日のブログ参照)

「公共」というものについて、それが何のために必要なのか、どうしたら作り出せるのか、どうやって維持するのか、そういうことをもっともっと考えておかないといけないのだろう。

もし信号機から「黄色信号」を完全になくしてしまったら、きっと交差点はギスギスした空間になってしまうだろう。

それと一緒で、社会を潤滑に回すためには「公共性」と「公共空間」が必要なんだと思う。


2015年4月 9日 (木)

「それぞれが『正しい』と思うことを発信し、議論したりせめぎ合ったりする中で公正性や公平性は形成されます」

前回のブログ(4月8日)の続き。前回は社会学者の大澤真幸さんが紹介していたハンナ・アーレントの考え方を取り上げた。著書『憲法の条件』より。

「アーレントは、『複数性』ということを重視します。アーレントにとって複数性こそ公共的であるための要件です」

複数性こそ、「公共」を作り出すための条件…。あらゆるものに門戸をあけ、色んな価値観が複数(たくさん)存在すること。とにかく「公共」とはそういうものらしい。

ドキュメンタリー監督の想田和弘さん東京新聞夕刊(4月3日)より。

「どんな政治的な言説も受け入れ、等しく機会を与えることでしか、行政は政治的中立を保てない。そういう『公共』のイメージは、無色透明ではなくて、とてもカラフル」

「多くの日本人は、自治体や公共施設は政治的に無色透明である必要があり、色が付いていないことが望ましいと刷り込まれているようにみえる。でも、どんな立場だって何らかの政治的な色彩を帯びてしまうものでしょう」


どうやったら「公共」というものが生まれるのか?

政治学者の杉田敦さんの言葉。朝日新聞(3月29日)より。

「それぞれが『正しい』と思うことを発信し、議論したりせめぎ合ったりする中で公正性や公平性は形成されます。でも、安倍さんをはじめトップダウン型の国家を志向する人たちはおそらく、なぜそんな面倒なことをするのかと思っている。効率が悪いと」

それぞれの意見、それぞれの価値観、それぞれの民意・・・、そうしたものを調整し、すり合わせていくことで「公共な空間」はできていく。

それを「効率が悪い」と言って、調整やすり合わせを省き、トップダウンで決めていくとどうなるのか。


政治学者の國分功一郎さんTBSラジオ『セッション』(3月23日放送)より。

「全部トップダウンで決めると、みんなやる気がなくなる。国家もそう。国家もひとつの組織。上でなんでも決めて下に押し付けていたら、やる気がなくなる。インセンティブが下がっていく。さらに失敗があっても、隠すことが出来たら隠してしまう。国家という組織をうまくマネジメントしていくために、民主的な手続きで公開性に基づいて、物事を決めていくことが大事。こういう考えが必要」

実際、昨今の政治の世界では、トップダウンを求める風潮が強まっていると思う。あちこちの選挙で投票率は急落し、無投票選挙区も増えているのも当然の帰結なのかもしれない。

社会活動家の湯浅誠さんの言葉。著書『ヒーローは待っていても世界は変わらない』(文庫版)より。

「人々が一人ひとりの『民意』を社会に示すことで、社会は多様な『民意』を示すことができる社会に代わります。それをお互いが調整していくことで、異なる意見の人が調整できる社会に変わっていきます。それは大変大きなことのように、私は思えます」 (P80)

「そこでは『おれの思う通りにやれ』という願いはかなえられないでしょうが、いまよりも少数者の意見が踏まえられた分、より内容豊かな政策が生まれていきます。政策が全員を巻き込むものである以上、それは全員の利益になります」 (P80)

沖縄の問題に話を戻せば、国がトップダウンで政策を押し付けていっても、地元が納得するはずもなければ、折り合いだって見つかるはずもない。

やるべきことは、ちゃんと沖縄の「個別性と複雑性」を持った民意と向き合って、調整し、折り合いを探ること。その過程で、きっとお互いが受け入れられる「公共的」な政策が見ける。それが本来のやり方なのではないだろうか。

最後に、内田樹さんの言葉を。著書『子どもは判ってくれない』(文庫版)より。

「現実の社会は『自分の意見に賛同してくれない』大量の人間を含んでいる。それをまるごと無視してことを進めるというのは、『話は簡単』かもしれないが、実効性が希薄である」

「そして、私は『合意することの大切さについての合意』さえ形成されれば、あとは世の中何とかなるだろうと私は思っている」
 (P29)




2015年4月 8日 (水)

「公共の場が特定の色に染まってしまう状況は、望ましくない」

今回も「個別性と複雑性」について。もう少し話を膨らませてみたい。

憲法の話を。

前回のブログ(4月6日)でも弁護士の伊藤真さんの言葉を紹介したが、今回も。講演録(2005年10月12日)より。

「物ごとを多数決で決めることを民主主義というならば、多数派に歯止めをかけることを立憲主義といいます」

多数決によって物事を進める考え方を民主主義。その多数決から、少数派の意見を守るのを立憲主義。簡単にいえば、そうことらしい。

憲法学者の田村理さん東京新聞(3月30日)より。

「社会に多様な意見があることを肯定的に捉える。信念を曲げることはないが、絶対的な正解でないと考え、違う立場の人と何とか合意形成をする。憲法が国民に求めているのは、そんな意識」

同じく田村さんの言葉。サイト『マガジン9』(2009年5月13日)より。

「憲法が掲げる人権の多くは、表現の自由(21条)を筆頭とした自由権、国民の代表府である国会でも数に物を言わせて少数意見を弾圧してはならないことを求めるものです」

立憲主義は少数派が持つ「個別性と複雑性」のある価値観を守るために存在する。だからこそ、安倍政権はこの「立憲主義」をないがしろにしようとする。効率的に政策を進めるためには、それぞれの「個別性と複雑性」に耳を傾けている場合じゃないからである。

宮台真司さんの指摘。ビデオニュース・ドットコム(2013年7月6日配信)より。

「市民的な公共性の規定を国家がないがしろにしてはいけないというのが憲法の重要なポイント。つまり自治に国家が介入してはいけない。自治と言うのは自分たちで公共圏を決めていくこと」

だが、今の政権は沖縄の民意に介入して、日米安保のもと「全体化」を推し進めようとする。

では、なぜ少数派を守らなければいけないのか。

社会学者の大澤真幸さんは、著書『憲法の条件』でこんなことを語っている。ドイツの哲学者ハンナ・アーレントについて。

「アーレントは、『複数性』ということを重視します。アーレントにとって複数性こそ公共的であるための要件です」

「公共の場が特定の色に染まってしまう状況は、望ましくない。というか、同質的な者しかいなくて、まるで全体で『一人』のようになってしまった社会的な場は、もはや公共的空間ではない。私がいて、さまざまな他者がいる。そんな多様性のある状況を複数性と表現し、非常に肯定的に捉えています」

「多様な人が同じテーブルにつき、みんながいろいろな意見を持ち、それぞれが発言できるような状況、それぞれの人が固有名をもって現れるような状況が、アーレントの観点では、公共空間です」
(P131)

つまり、「公共の空間」を作り出すためには、様々な少数派を含めた「複数性」が必要。いろんな立場や考え方の人たちが存在し、それぞれの価値観が交錯し、ぶつかりあう必要がある。

哲学者の河野哲也さんの言葉。著書『道徳を問い直す』より。

「民主主義の美点は、合意を形成することにあるのではない」

「むしろ、民主主義の特徴は、対立が維持されつづけることにある。そこでは、合意は特化されずに、対立と差異が正当なものとして認められ、権威主義的な秩序を作って対立を無理に除去させたりしない。異議や対立する諸価値が併存し、それが決して終息しない多元性を維持することが民主主義の本質なのである」 (P131)

しかし、である。大澤真幸さんは、次のように語る。著書『憲法の条件』より。

「ところが、日本の場合はそうじゃないんですね。日本社会ではみんな一致していることが望ましい状況とされます」 P194)

この「いろんな価値観によって公共空間を作り出す」についての話は、次回でもう少し。




2015年4月 6日 (月)

「嘘をつく国家は、いつか滅びるものです」 

前回のブログ(4月5日)の最後に「多数決」について指摘する文章を載せた。

その後、過去のメモから「多数決」についての言葉をいくつか見つけたので、それを紹介しておきたい。

社会学者の宮台真司さんTBSラジオ『デイキャッチ』(2013年5月3日放送)より。

「民主の本義は多数決ではないんです。自治なんです。自分たちで自分たちのことを決めること。これがね、民主主義の本義なんです」

「自分たちで自分たちのことを決める。そこに、統治権力が勝手に介入してこられてしまっては自治が成り立ちませんよね」


まさに沖縄では、民意を得た自治に、国が介入しようとしている。

弁護士の伊藤真さんサイト『けんぽう手習い塾』(第3回)より。

「多数決によっても奪ってはならない価値、多数決によっても入り込んではいけない領域が個人の良心や宗教であり、個人の価値観であり、一人ひとりの生き方です。憲法はこうした私的領域を守るためにあるといってもよいでしょう」

さらに伊藤真さんの言葉。『けんぽう手習い塾』(第44回) より。

「暴力という力と多数の力はときに同じように民主主義を危うくします」

「少数派の人たちが、自分たちが意見を言っても無駄だ、聞いてもらえないし、どうせ強行採決されてしまうのだからと諦めてしまうようになったら立憲民主主義は成り立たないのです」


民主主義のもとでは、多数決原理によって多数派の求めることが正義になる。が、人間には多数決によってもけっして奪ってはならない自由と尊厳がある。それを守る最後の砦が憲法であり、立憲主義、ということである。

東京新聞の大場司さん
東京新聞(2012年8月15日)より。

「少数派は、多数派が気付かない社会の異常、不条理にいち早く反応する“感知器”の役割を果たします」


内田樹さんの言葉。著書『子どもは判ってくれない』より。

「自分の意見に反対する人間、自分と政治的立場が違う人間、自分の利益を損なう人間であっても、それが『同じ日本社会』の構成員であるかぎり、その人は『同胞』であり、その権利を守り、その人の利害を代表することが私の仕事であると言い切れる人間だけがその語の厳密な意味における『公人』、すなわち『市民』(civis)であるとオルテガは考えており、私はその考えを支持する」

ここでのオルテガとは、スペインの哲学者オルテガ=イ=ガセーのこと。

政治学者の國分功一郎さんTBSラジオ『セッション』(3月23日放送)より。

「『民主主義は多数決でしょ』とよく言われる。多数決は最後にとる手段だけど、多数決をすればいいのではない。多数決をすればいいのであれば、別に審議する必要はない。それはまずいとみんな何となく思って言うのは、やっぱり審議しないといけない。ではなぜ審議するかというと、情報を公開して共有してもらうため」

「最近思うのは、情報の公開、情報の共有というものが民主主義の根幹だと思う。それがなされないと議論も何もない」


なぜ、「情報の公開、共有」が大切なのか。

「情報が公開されないで、権限が強くなっていくと失敗をどんどん隠していく。まずいことが進んでいく。それを正当化するための議論を必要に作り上げていく。だから情報の公開がいかに重要かということ。情報が公開してみんなで話し合って決める方が、組織全体がうまく行くということ」

結局、沖縄問題も、情報を公開しての政府と沖縄側による時間をかけた話し合いがもっと必要だということ。

しかし特定秘密保護法や、メディアへの介入など、今の政策は「情報の公開」とは逆へ逆へと進んでいく。なにせ、日本は「報道の自由度ランキング」が世界59位なのである。

国家権力が物事を隠し、国民にウソをつくようになると…。先月29日に亡くなった外務省の元アメリカ局長の吉野文六さんの言葉を思い出す。『ふたつの嘘』(著・諸永裕司)より。

「嘘をつく国家は、いつか滅びるものです」 (P315)



2015年4月 5日 (日)

「多数決をなぜやるかというと、少数派の発露の機会を与えるためにやる」

沖縄県の翁長知事と、菅官房長官がようやく話し合いを持った。ようやくである。

久米宏さんは、安倍政権の対応について次に様に指摘した。TBSラジオ『ラジオなんですけど』(4月4日放送)より。

「安倍政権のうたい文句の一つが『地方創生』。地方を生き返らせる、地方が元気になれば日本が元気になる…。で、『地方創生』というお題目と、地方の民意を尊重しないというのは矛盾するんじゃないかと、僕は思う。地方創生をうたい文句にしておいて、地方の民意は無視するというのはだいぶ矛盾があるのではと僕は考えるわけです」

地元のそれぞれの暮らし、すなわち地方の持つ「個別性や複雑性」よりも、国による「全体化」が押し付けられていく。

結局、政府が看板に掲げている地方創生というのは、そういうことなのだと思う。「国の言う通りをしろ」ということ。

社会学者の山下祐介さんの指摘を改めて。雑誌『世界』(4月号)より。(3月14日のブログ


「今の態勢のままでは、ここでまた新たな『地方創生至上主義』が生み出され、地方を守るためのはずが、それを破壊するものへと展開を始めて行くのではないか」 (P90)

沖縄の問題は「構図」としてそのまま我々の問題なのである。同じ「構図」によって、日本全国で地方の「個別性」が排除されていく。

統一地方選も盛り上がらないのも当然である。どうせ国が地方の民意を踏みにじるのだから誰がなっても…。

今回の道府県議選の31%の選挙区が無投票だという。今後、さらに増えかねない。

無投票…。候補者が審判を受けずに、政治を担うという問題点がある。

総務省のHPには「選挙の意義」について書かれている。「身近な選挙」について次にように。

「『選挙』とは、私たちの代表を選び私たちの意見を政治に反映させるためのもの。そのためにも、私たち一人ひとりが『選挙』に関心を寄せることで、『選挙』はもっと身近なものになるといえます」

選挙がなければ、さらにさらに選挙は「遠いもの」となっていく。

そして、HPには「多数決」について次に様に書かれている。

「民主政治の原則である多数決は、人々の意見を集約し、決定する際に用いる方法です。より多くの支持を得た者を代表者とすることによって、政治の安定化を図ります」

ただ、その多数決は、代表者を決めるだけに行われるのではない。法学者の木村草太さんは次にように語る。TBSラジオ『セッション』(3月23日放送)より。

「多数決をなぜやるかというと、少数派の発露の機会を与えるためにやる。反対がどれくらいいるかというのも、多数決をやらないと分からない。少数派がどれくらいいるのかを多数派に突き付ける機会が多数決だと考えるべき」

ただ沖縄を始め、地方に限っては「多数派」の発露にさえなっていない。信じられないことに。

その結果なのか、地方選の無投票が増えていく。無投票というのは、まったく民意の「個別性と複雑性」をくみ取ることができないということである。



2015年3月27日 (金)

「政治は全体最適で、部分の都合はがまんすべきだ、というような考え方がある。しかし、それで世の中がうまくいくわけではない、ということを知ることも教養である」

今回も「個別性と複雑性」について。

もともと作家の高橋源一郎さんが語っていた言葉。ラジオデイズ『文学は戦争の前で無力なのか』(3月13日配信)より。(3月21日のブログ

「文学とは『個別性』と『複雑性』なんですよ」

「社会もそうだし、そういう社会に反対している方も、『個別性」と『複雑性』を失おうとしている」


この高橋さんの発言に対して、コラムニストの小田嶋隆さんは次のように書いていた。日経ビジネス・オンライン『小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」』(3月13日) より。

「話を聞きながら私がぼんやりと考えていたのは、震災以来、メディアに載る言葉が、文学の言葉とは正反対の、『単純化』と『全体化』の方向で推移しているということだった」

「新聞各社が政治的なスタンスを明らかにしつつあることも、われら一般人が曖昧な言葉をきらうようになってきていることも、同じ流れの中にあるできごとなのだと思う」


“個別性”と“複雑性”の反対の言葉は、“全体化”と“単純化”とのこと。なるほど。

確かに、今の社会のアチコチでは「全体化と単純化」が進んでいる。

それをファシズムと呼ぶんだと思うけど。

茂木健一郎さん自身のツイッター(3月23日)より。

「政治は全体最適で、部分の都合はがまんすべきだ、というような考え方がある。しかし、それで世の中がうまくいくわけではない、ということを知ることも教養である」

「何事かをなそうとすると、反対する人が必ず出てくる。では、反対者にどう向き合うかということを知るのも、教養である」


やっぱ、我々が持つ「個別性と複雑性」を、「全体化と単純化」の同調圧力から守るために必要なのは「教養」、ということなのである。

作家の村上春樹さんサイト『村上さんのところ』(3月24日)より。

「世の中は冗談抜きでだんだんおそろしくなっています。そういうときには歴史を正確に振り返ることが大事になると思います」

教養を身につけるためには、まずは歴史から学ぶこと。そうなるのではないか。

2015年3月26日 (木)

「面倒くさくて疲れることを引き受けなおした後に見えるおもしろさ。それが民主主義という体制を、常に挑戦にさらされながらも生き延びさせてきた最大の理由なのではないか」

前回(3月25日)のブログの続き。「個別性と複雑性」に我々はどう向き合っていくべきか、ということについて。

いきなり話は「少年の犯罪」に飛ぶ。

TBSラジオ『セッション』(3月2日放送)を聴いていたら、川崎の事件を受け「少年法」について話し合っていた。少年法の厳罰化を求める声が強いことについて、司会の荻上チキさんは、次のように語っている。

「厳罰化はすごく分かりやすいから支持する方もいる」

では、厳罰化ではない方法については…。

「一方で、ほかの個別の話をしようということになると、匿名の電話番号の相談はどうかとか、ソーシャルワーカーを増やしたらどうかとか、先生とかの余裕を増やしたらどうかという、小さな事例をたくさん積み重ねていって全体としてどうなるのかという議論をしないといけない」

「報道に触れた人のフラストレーションがたまっているときに、そうした小さな事例をコマコマされても『そんなで何が解決するんだ』という感じで、一発でかいやつドンということで、
厳罰化が好まれる傾向がある」

結局、この「少年の犯罪」の問題でも、社会が「個別性と複雑性」に向き合うことを許してくれない。

どんな少年犯罪であろうと、どんな事情があろうとも、ルールやシステムを厳罰化してスピーディに一律に対処しようという風潮が強まっている。

同じ番組内で、ジャーナリストの青木理さんは、「少年法の厳罰化」では少年犯罪は減っていないと指摘する。

「厳罰化よりは、犯罪をおかした少年少女と向き合って、一歩でも早く社会に可能であれば社会に復帰させるという議論をした方がいい」

「それはしんどいし、面倒くさいし、すっきりしないし、手間もかかる。でも、僕ら大人にはそういう議論をする義務があると思う」


例え、時間がかかっても、面倒くさくても、いかにその過程を経ずには、私たちは前には進めないということ。

そのためにいかに時間を切り出すか。その面倒を味わって楽しめるか。そこにかかっている。

そもそも、民主主義というものがそういうものなのである。

前回のブログでも取り上げた湯浅誠さん。民主主義についての言葉。著書『ヒーローは待っていても世界は変わらない』より。

「課題は多いですが、私は最後のところでは楽観しています。なぜなら、それはおもしろいことだからです。面倒くさくて疲れることを引き受けなおした後に見えるおもしろさ。それが民主主義という体制を、常に挑戦にさらされながらも生き延びさせてきた最大の理由なのではないか、そのおもしろさが日本社会の隅々まで共有される日が一日も早く訪れることを願って、この補章を閉じることにします」 (P189)

最後に。
このブログでは何回か紹介したが、改めて宮崎駿さんの映画作りについての言葉を。NHK『プロフェッショナル』(2013年11月13日)より。


「面倒くさいっていう自分の気持ちとの戦いなんだよ。何が面倒くさいって究極に面倒くさいよね。『面倒くさかったらやめれば?』『うるせえな』ってことになる。世の中の大事なことって、たいてい面倒くさいんだよ」



2015年3月25日 (水)

「私たちの社会が抱えている問題はそれぞれ複雑で、一つひとつちゃんと考えようとすれば、ものすごく時間がかかります。一番簡単なのは、レッテルを貼ってしまうことです」

「個別性や複雑性」を否定して、「全体」を優先する。

今、日本社会ではそうした風潮が強まっているのではないか。被災地の復興事業、安倍政権の政策、そして「八紘一宇」のスローガンなどなど…。


ということを、ここ数回のブログで考えてきた。(3月13日のブログ以降)

一方で全ての「個別性と複雑性」に対応していたら、物事は前に進まない、という批判はあるだろう。

今日は、そんなことについて考えたい。

社会活動家の湯浅誠さん著書『ヒーローは待っていても世界は変わらない』(文庫版)を読み返していた。

「日本には1億2千万の人が、それぞれ切実なニーズを持って暮らしている、と言いました。『その一人ひとりを大切に』というのは誰も否定しない理念だと思いますが、それには時間がかかります。特に近年は『そんなにもたもたしてられるか』」というような焦りが、国全体に広がっているように思えます」 (P26)

焦り、である。とにかくスピード感ある決定が求められる。「決める政治」である。

さらには…。

「私たちの社会が抱えている問題はそれぞれ複雑で、一つひとつちゃんと考えようとすれば、ものすごく時間がかかります。一番簡単なのは、レッテルを貼ってしまうことです。一度レッテルを貼ってしまえば、もうそれ以上考える必要が無い」 (P85)

「これは非常に効率的です。ではなぜそんなに効率が優先されるか。みんな忙しいからでしょう。そんなことにいちいち関わっている暇はない、俺は仕事と生活に追われて大変なんだと」 (P85)

こういう背景もあって、「八紘一宇」というようなスローガンがレッテルとして利用されていく。(3月21日のブログ

さらに…。

「そのような中で台頭しているのが『強いリーダーシップ』待望論、『決断できる政治』への期待感でしょう。これは一言でいうと、利害調整の拒否という心性を表しています」 (P26)

「余裕のない人が増えると、『一人ひとりの命を大切に』という理念の力が弱まり、『既得権益』を暴き出そうという『犯人探し』の勢いが強くなります」

「そこに切り込む『切り込み隊長』が待ち望まれる。『強いリーダーシップ』待望論とはそういうものだと思います」 (P29)

つまり強いリーダーシップとは、“個別性と複雑性”と向き合うことや利害調整をすることを拒否することでもある。

こうして独裁者やファシズムを育む土壌が整えられていく。

どうしたらいいのか。湯浅誠さんは次のように書いている。

「人々が一人ひとりの『民意』を社会に示すことで、社会は多様な『民意』を示すことができる社会に代わります。それをお互いが調整していくことで、異なる意見の人が調整できる社会に変わっていきます。それは大変大きなことのように、私は思えます」 (P80)

「そこでは『おれの思う通りにやれ』という願いはかなえられないでしょうが、いまよりも少数者の意見が踏まえられた分、より内容豊かな政策が生まれていきます。政策が全員を巻き込むものである以上、それは全員の利益になります」 (P80)

「レッテルにおさめず、複雑な問題を複雑な問題として考えるにはどうしても時間がかかります。すべての人は一日二十四時間しかもっていないので、その中からどれだけ、学んだり、意見交換したり、議論したりするための時間を切り出せるか」 (P86)

「誰に対しても、意見交換や調整を頭から拒否すべきではない。地味だけれども、調整して、よりより社会をつくっていくという粘り強さをもつ人たちが必要です。そういう人をたくさん増やすこと、自分たち自身がそういう人になることが重要だと思っています」 (P81)

結局、我々に必要なのは「時間」なんだと思う。話し合う時間、議論する時間、調整する時間、考える時間、距離を置く時間、我慢する時間などなど…。

こういう時間をどうやって切り出せるのか。これにかかっている。

私事だが、きのう僕の子供が小学校を卒業した。その卒業式で校長先生が子どもたちに祝辞として贈った言葉がある。

「A watched pan never boils」(見つめる鍋は煮え立たない)

焦りは禁物。時間を置けば、違った見方に気付く。というような意味を持つことわざ。

確かに今必要とされている考え方だと思う。




2015年3月22日 (日)

「人も音楽もひとつの価値観に縛られる必要はないし、みんなが同じ方向を向く必要もないと」

きのうのブログの続き。

きのうは「戦争になると文学の持つ『個別性と複雑性』が排除される」という高橋源一郎さんの言葉を紹介した。(3月21日のブログ

それにまつわる言葉を追加として。

文芸評論家の楜沢健さん『週刊読書人』(2月13日号)より。

「『言葉狩り』『表現狩り』なしに『戦争のできる国』を立ち上げることはできない」

「『言葉狩り』『表現狩り』は高級芸術ではなく大衆芸術を、中央より地方の声を標的にしている」


この「言葉狩り」「表現狩り」を言い換えれば、高橋源一郎さんが言う「複雑な言葉、ニュアンスに富んだ言葉が排斥されること」

その過程では、まず地方や端っこのもの(すなわち「個別性と複雑性」)が、中央の価値観で一律に染めていくこと。社会から辺境がなくなっていくことでもある。(2013年5月2日のブログ)

作家の田中慎弥さん著書『宰相A』で、ファシズムと文学の関係をアイロニー満載で書いていて面白く読めた。その小説の中で、主人公の作家に対して市井の人が口にするセリフ。

「何かと言えば紙、鉛筆、小説。聞き飽きました。Jの生まれ変わりであるあなたがそんな、なんの役にも立たないものにしがみついてどうするんです。恥ずかしいと思いませんか。日本の現状に目を瞑って小説などという虚構に逃げ込んでいいわけがありません。目を覚ましてください」 (P96)

「何かといえば小説小説。選ばれた人間が、そんな何の役にも立たないものにうちまでもしがみついて、恥ずかしいと思わないのですか。日本の現状に目を向けずに?」 (P106)

ファシズムの世界では、こうやって「文学」「小説」が世の中から排除されていく。ここでいう「小説」とは、「暮らし」「日常」という言葉と置き換えてもいいんだと思う。

ちなみに、この小説中の「日本」では、宰相Aが次のような言葉も述べる。

「戦争こそ平和の何よりの基盤であります。戦争という国から平和という歌が流れるのです。戦争の器でこそ中身の平和が映えるのです。戦争は平和の偉大な母であります」 (P91)

たぶん安倍総理の大好きな「積極的平和主義」を皮肉ったもの。この「積極平和主義」というのもスローガン。「八紘一宇」にどこか通じるニオイを感じるのは気のせいか。

文学だけではない、ジャーナリズムも、政治も、経済政策も、もちろん復興政策も、個々の「暮らし」と向き合ってこそのものであるはず。本来は、それぞれの「個別性と複雑性」に向き合わないと、真理には近づけないはず。

でも…。「効率化」という御旗の下に、どの分野でも「個別性と複雑性」は排除されていく。

歴史では、それがファシズム、さらには戦争へとつながっていく。

音楽家の大友良英さんの言葉を。音楽だけでなく、あらゆる分野に当てはまる。著書『学校で教えない音楽』より。

「それと同時に、文脈は一つじゃないし、歴史の見かたもひとつじゃないってことにも、強くこだわりたい、そう思っています。同じものですら『場』が変われば意味が変わるように、人も音楽もひとつの価値観に縛られる必要はないし、みんなが同じ方向を向く必要もないと」 (P224)

いい言葉だと思う。

もうひとつ。きのうの夜読んでいた漫画家の蛭子能収さん著書『ひとりぼっちを笑うな』より。

「むしろ、“自分と違って当たり前”。それを大前提にして、日々の生活を送るほうが賢明ですし、人は自然とそういう『違い』に対応する能力も備えているはずです」 (P67)

つまり、我々の社会が求められているのは「個別性と複雑性」に対応する能力なのではないだろうか。

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