「『知性、知識はいらないよ』というのは何なのかを考えてみた。そこで一番大事にされているのは『おカネ』なんです」
国際基督教大学副学長の森本あんりさんの著書『反知性主義~アメリカが生んだ「熱病」の正体』を読んだ。
それと並行してたまたま目にした2人の方のコメントが、この本を受けて日本の「反知性主義」についてのもので興味深かった。
まず、コラムニストの小田嶋隆さんは、日経ビジネスオンライン『小田嶋隆ア・ピース・オブ・警告』(2015年3月6日)で、書店のリブロ池袋店が閉店するというニュースを受け、次のように語っている。
「結局のところ、書籍が売れないことは、書籍の中に活字という形で集積されるタイプの知識や情報に対して、わたくしども現代の日本人が、あまり大きな価値を置かなくなってきていることのあらわれなのだ」
そして、本来、知性の本格をなす「教養」について次のように指摘する。
「『教養』とは、知識そのものではなくて、『知識との付き合い方』、『知識の扱い方』、あるいは、『自分がどの程度の知識を持っていてどんな知識を欠いているのかを正確に知る能力』を示唆する言葉」
ちなみに、森本あんりさんは上記の著書『反知性主義』で、次のように書く。
「『知性』とは、単に何かを理解したり分析したりする能力ではなくて、それを自分に適用する「ふりかえり」の作業を含む、ということだろう」 (P260)
「反知性主義とは、知性のあるなしというより、その働き方を問うものである」 (P262)
作家の高橋源一郎さんは、次のように語る。TBSラジオ『デイキャッチ』(3月6日放送)より。
「『知性、知識はいらないよ』というのは何なのかを考えてみた。そこで一番大事にされているのは『おカネ』なんです。つまり、本なんて読んだって、社会に出てお金儲けするのに役に立たないじゃん。それぐらいだったらプログラミングでも覚えておいた方がお金になるよ、ということ」
「『おカネ』に近づくためには、こんな古い哲学なんか読まず、新しい理論を読め、となっている。こっちの方がちょっと怖い。どうしてか。これも一種の知性主義なんです。つまり、この知識じゃなくて、哲学とか文学とか歴史とかじゃなくて、社会理論とかプログラミングとか、こっちの方が役に立つ知識、おカネになる知識…」
「考えたら、これも『効率』なんです」
でも…。
経済を成長させるために、無駄を省き、効率を高めた筈なのに…。結局長い目で見れば、経済もまわらなくなるかもしれない。
小田嶋隆さんは、次の様にも指摘する。『小田嶋隆ア・ピース・オブ・警告』(2015年3月6日)より。
「『一部の人には不可欠でも大多数の人間には無価値なもの』を容赦無く削って行けば、コストはカットできるだろうし、効率も上がるだろう。生産性だってもしかしたら向上するかもしれない」
「が、そうやって無駄な要素を省いて行くと、無駄なものにかかわる人間がいなくなる」
「つまり、音楽を楽しんだり歴史散歩をしたり古美術を蒐集する人間が消えてしまう。と、需要が半減して、世界はとんでもない不景気になる。教養という無駄も、実は経済を回しているのだと思う」
平田オリザさんの言葉を思い出す。著書『芸術立国論』から。(2013年2月5日のブログ)
「無駄のない社会は病んだ社会である。すなわち、芸術家のいない社会は病んだ社会だ」 (P43)
遊びのない社会は病んだ社会。そして、当然ながら人間も「遊び」がなければ病んでしまう。
つまり我々は「ホモ・サピエンス(賢い人)」であり、「ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)」ということ。
この2つをないがしろにして昨今の社会でヒトは「ホモ・エコノミクス(経済人)」もしくは、僕の勝手な造語だが「ホモ・ショッピング(もの買う人)」に成り果てている。
最後にもう一度、高橋源一郎さんの言葉。TBSラジオ『デイキャッチ』(3月6日放送)より。
「でも、それを考えたら、生きるってそもそも効率的じゃない」
僕たちは「生きている」のだし、「生き続けなければならない」のである。「効率」なんかより、当然、「生きる」方が大事なはず。
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