★反知性主義について

2015年3月 9日 (月)

「『知性、知識はいらないよ』というのは何なのかを考えてみた。そこで一番大事にされているのは『おカネ』なんです」

国際基督教大学副学長の森本あんりさん著書『反知性主義~アメリカが生んだ「熱病」の正体』を読んだ。

それと並行してたまたま目にした2人の方のコメントが、この本を受けて日本の「反知性主義」についてのもので興味深かった。

まず、コラムニストの小田嶋隆さんは、日経ビジネスオンライン『小田嶋隆ア・ピース・オブ・警告』(2015年3月6日)で、書店のリブロ池袋店が閉店するというニュースを受け、次のように語っている。

「結局のところ、書籍が売れないことは、書籍の中に活字という形で集積されるタイプの知識や情報に対して、わたくしども現代の日本人が、あまり大きな価値を置かなくなってきていることのあらわれなのだ」

そして、本来、知性の本格をなす「教養」について次のように指摘する。

「『教養』とは、知識そのものではなくて、『知識との付き合い方』、『知識の扱い方』、あるいは、『自分がどの程度の知識を持っていてどんな知識を欠いているのかを正確に知る能力』を示唆する言葉」

ちなみに、森本あんりさんは上記の著書『反知性主義』で、次のように書く。

「『知性』とは、単に何かを理解したり分析したりする能力ではなくて、それを自分に適用する「ふりかえり」の作業を含む、ということだろう」 (P260)

「反知性主義とは、知性のあるなしというより、その働き方を問うものである」 (P262)

作家の高橋源一郎さんは、次のように語る。TBSラジオ『デイキャッチ』(3月6日放送)より。

「『知性、知識はいらないよ』というのは何なのかを考えてみた。そこで一番大事にされているのは『おカネ』なんです。つまり、本なんて読んだって、社会に出てお金儲けするのに役に立たないじゃん。それぐらいだったらプログラミングでも覚えておいた方がお金になるよ、ということ」

「『おカネ』に近づくためには、こんな古い哲学なんか読まず、新しい理論を読め、となっている。こっちの方がちょっと怖い。どうしてか。これも一種の知性主義なんです。つまり、この知識じゃなくて、哲学とか文学とか歴史とかじゃなくて、社会理論とかプログラミングとか、こっちの方が役に立つ知識、おカネになる知識…」

「考えたら、これも『効率』なんです」


でも…。
経済を成長させるために、無駄を省き、効率を高めた筈なのに…。結局長い目で見れば、経済もまわらなくなるかもしれない。


小田嶋隆さんは、次の様にも指摘する。『小田嶋隆ア・ピース・オブ・警告』(2015年3月6日)より。

「『一部の人には不可欠でも大多数の人間には無価値なもの』を容赦無く削って行けば、コストはカットできるだろうし、効率も上がるだろう。生産性だってもしかしたら向上するかもしれない」

「が、そうやって無駄な要素を省いて行くと、無駄なものにかかわる人間がいなくなる」

「つまり、音楽を楽しんだり歴史散歩をしたり古美術を蒐集する人間が消えてしまう。と、需要が半減して、世界はとんでもない不景気になる。教養という無駄も、実は経済を回しているのだと思う」


平田オリザさんの言葉を思い出す。著書『芸術立国論』から。(2013年2月5日のブログ

「無駄のない社会は病んだ社会である。すなわち、芸術家のいない社会は病んだ社会だ」 (P43)

遊びのない社会は病んだ社会。そして、当然ながら人間も「遊び」がなければ病んでしまう。

つまり
我々は「ホモ・サピエンス(賢い人)」であり、「ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)」ということ。

この2つをないがしろにして昨今の社会でヒトは「ホモ・エコノミクス(経済人)」もしくは、僕の勝手な造語だが「ホモ・ショッピング(もの買う人)」に成り果てている。

最後にもう一度、高橋源一郎さんの言葉。TBSラジオ『デイキャッチ』(3月6日放送)より。

「でも、それを考えたら、生きるってそもそも効率的じゃない」

僕たちは「生きている」のだし、「生き続けなければならない」のである。「効率」なんかより、当然、「生きる」方が大事なはず。


2014年9月4日のブログ

2014年9月5日のブログ


2014年9月9日のブログ


2014年9月11日のブログ




2014年9月17日 (水)

「僕は、私たちの一人ひとりが普段から目の前の現実をよく観て、よく聴くことこそが、巡り巡って『熱狂なきファシズム』への解毒剤になりうるのではないかと考えている」

前回のブログ(9月11日)では、「思考停止がファシズムを招く」という話をした。

そのあとドキュメンタリー監督の想田和弘さん著書『熱狂なきファシズム』を読んだ。追加として、その中の言葉を載せておきたい。

この本の中で想田さんは、ファシズムについて次のような指摘をしている。

「ファシズムに『熱狂』は必ずしも必要ないのではないか。むしろ現代的なファシズムは、現代的な植民地支配のごとく、目に見えにくいし、実感しにくい。人々の無関心と『否認』の中、みんなに気づかれないうちに、低温火傷のごとくじわじわと静かに進行するものではないか」 (P7)

熱狂することもなく、意識することもなく、いつの間にか
「自由」が失われていく。そして、ファシズムが広がっていく。まさに麻生副総理の言うところの「ナチの手口」の如く。

想田さんは、そうしたファシズムの広がりに対してできることして、次のことを挙げている。

「僕は、私たちの一人ひとりが普段から目の前の現実をよく観て、よく聴くことこそが、巡り巡って『熱狂なきファシズム』への解毒剤になりうるのではないかと考えている。なぜなら虚心坦懐で能動的な『観察』は、無関心を克服し、物事の本質を正確に見抜くための、重要な手立てとなるからだ」 (P12)

目の前の現実をよく観ることが大事…。

この指摘は、「目の前」について書いた次のブログの言葉と重なっている。
6月13日のブログ)(6月28日のブログ)(
「目の前」

「目の前」を大切にすることは、考えることでもある。すなわち思考停止を避けることにつながる。

また、8月30日のブログでは、スポーツライターの藤島大さんの次の言葉を紹介した。東京新聞(8月5日)より。

「スポーツは炭坑のカナリアでありたい。先んじて異変を伝える。戦争の兆候は日常より、まず余暇の場に表れるからだ。かつて『富国』に奨励されたスポーツは、やがて『強兵』に組み込まれた」

これと、次の劇作家の平田オリザさんの言葉が重なる。『熱狂なきファシズム』より。

「私たちアーティストとして一番困るのはファシズムなんですね。要するに、言論の自由を統制されることが一番困るのです。私たちは炭鉱のカナリアのように真っ先に死んでいく存在なので、そこは過敏かもしれませんね」 (P189)

ファシズムに対しては、「炭鉱のカナリア」の存在として、アートやスポーツの役割はとても重要なのである。




2014年9月11日 (木)

「われわれはじつは、自由を求めてはいないのではないか。無意気に不自由を欲しがっているのではないか、と思うのです」

前回のブログ(9月9日)「反知性主義」にまつわる言葉の追加。

メモ書きを見返していたら「自由」について、作家の辺見庸さんの言葉が見つかったので、それを載せておきたい。著書『いま語りえぬことのために』より。

「われわれはじつは、自由を求めてはいないのではないか。無意気に不自由を欲しがっているのではないか、と思うのです。不自由のほうがいろいろ悩まずにすむ」

「サルトルに言わせれば、『人間は自由という刑に処せられている』。自由のほうが主体的に考え、悩み、選択しなければならないぶん、まったくの不自由よりも精神に負荷がかかる。なぜなら完全な不自由状態にあっては、考える余裕も必要もないからです。ファッショ的不自由の麻薬的な『魅力』は、逆説的に言えば、ものごとを深く考えずにすむことです」 
(P88)


結局、「反知性」「思考停止」の方が居心地がいいから、そちらを選び取っているという。

そして、思考停止はファシズムにつながっていく。(9月5日のブログ

フランスの寓話に『茶色の朝』(著・フランク・バヴロフ)という物語がある。ここでは「ファシズムの世界」が「茶色に染められていく社会」として描かれる。

その本の解説で、哲学者の高橋哲哉さんは、次のように指摘する。

「『なんだかんだ言っても、私たちはまだ自由じゃないか。権力の弾圧など受けたことはないし、毎日の生活でとくに不自由を感じることはない』。私たちがいまも感じているこうした『自由』―それが、すでに相当程度『茶色』に染まった自由であり、『茶色の自由』でないと誰が言い切れるでしょうか」 (P45)

そして、次のように書く。

「社会のなかにファシズムや全体主義に通じる現象が現れたとき、それらに驚きや疑問や違和感を感じながらも、さまざまな理由から、それらをやりすごしてしまう」

「やり過ごしてしまうとは、驚きや疑問や違和感をみずから封印し、それ以上考えないようにすること、つまりは思考停止してしまうことにほかなりません」 (P46)

やり過ごすこと、つまりは、事なかれ主義…。これは決してリスクを負わない姿勢や風潮のことでもある。

政策研究大学院大学客員教授の小松正之さんは、「知」と「リスク」の関係について次のように語る。雑誌『中央公論』(2013年11月号)より。(2013年10月15日のブログ

「知識を得ることで自分の世界を広げることができるかどうか。これがリスクを取れる人間とそうでない人間を分ける」 (P45)

「私たちができることがあるとすれば、ひたすら愚直に学び続けると言うことだけだ。教養と学びに終わりはない。いざというときにリスクを取る自信と能力をつけるために、我々は学び続けねばならない」 (P45)

リスクを避ける「事なかれ主義」。これに陥らないため、つまりはファシズムを招き入れないためにも、我々は学び続ける必要がある。こういうこと。

2014年9月 9日 (火)

「誰かが自分に都合の良い物語を抱くこと自体は認めるが、それを他者に強要しようとする行為には反対する。つまり、リベラリズムです」

今回も「反知性主義」について。前回のブログ(9月5日)の続きで、反知性主義に対してどう振る舞えばいいのか。それについての言葉を並べてみたい。

その前に。
前回の最後、「反知性主義」や「ヤンキー化」というのは、思考停止につながるという話をした。

そこで思い出したのが、映画『ハンナ・アーレント』の中での、ハンナ・アーレントの言葉。

「思考ができなくなると、平凡な人間が残虐行為に走るのです」


残虐行為…。反知性主義には、知性を求める人たちをまさに「攻撃性」を伴って批判する傾向がある、との指摘を前回紹介した。

これは、いとうせいこうさんの次の言葉とも重なってくる。東京新聞(9月15日)。(9月1日のブログ

「自由を担いきれないので、自分から手放してしまう人たちがいると。手放した人たちにとっては、自由を求めて抵抗している人がうっとうしい。なので、その人たちを攻撃してしまう。そうすると、権力がやらなくても、自動的に自由を求める人たちの声がだんだん小さくなってしまう」

「下からの自粛と同時に、大きな権力に便乗するような欲望が動いて、結局はみんなで権力をつくっていく。特に自分たちが得もしないあろう人たちがそれをやって、他人の自由や良心を手放させていくことに快感を覚える時代になっちゃっている」


まさに、この攻撃性のベクトルの先には、ナチの残虐行為や『アクト・オブ・キリング』の世界があるんだと思う。

では、我々は、この広がりつつある「反知性主義」、「ヤンキー化」に対してどう振る舞っていけばいいのか。

佐藤優さんは、著書『「知」の読書術』で次のように書く。

「反知性主義者に実証的批判を突きつけても、実効的な批判にはなりません。なぜなら、彼らにはみずからにとって都合のよいことは大きく見え、都合の悪いことは視野から消えてしまうからです。だから反知性主義者は、実証性や客観性に基づく反証をいくらされても、痛くも痒くもありません」 (P82)

相手を批判しても意味がない…。こまったもんだ。

湯浅誠さんの次の言葉を思い出す。文化放送『ゴールデンラジオ』(6月24日放送)より。

「鈍感さには、もう鈍感にならないと耐えられなくなってしまう」

れは都議会のセクハラ発言を受けてのトークで、セクハラを受け流す癖がついた女性についての言葉。

これに倣えば「反知性には、自分も反知性でいかないと耐えられなくなってしまう」となってしまう。かつて渋谷陽一さんが吐露したジレンマとも重なる。(4月18日のブログ

やはり、それでは悲しい。では、どうすれば?

その佐藤優さんは、朝日新聞(2月19日)では、「反知性主義」への振り舞い方について次のように書いている。

「自由です」

これを最後の足場にするしかないと説く。

「誰かが自分に都合の良い物語を抱くこと自体は認めるが、それを他者に強要しようとする行為には反対する。つまり、リベラリズムです」

自分たちの自由の領域をいかに守るか、ということ。

政治学者の岡田憲治さん著書『ええ、政治ですが、それが何か?』より。

「自分の欲望に根ざして世界のあり方や希望を他者に伝える際に、このように風通しが悪くなり、自由にものを言うことがはばかれるようになり、そして言葉が大雑把になっているならば、そうなっている理由を考え、多くの言葉を動員して、政治のイメージを豊かにして、その原因を明らかにしなければなりません。自由にものが言える世界がなければ、人は自分と仲間の力を引き出して楽しく生きていることができないからです」 (P272)

自由にものを言い続ける…。

作家の辺見庸さん神奈川新聞(2013年9月8日)より。(2013年9月17日ブログ

「自由であるためには孤立しなくちゃいけない。例外にならなくてはいけないんです」

反知性主義やヤンキー化の流れから「例外」となれるか。

作家の平川克美さんラジオデイズ『はなし半分 特別号』(8月配信)より。

「知性主義と反知性主義を分けるのは、孤立に耐えられるか、という所にあるのでは。ある流れに乗らないとダメ、な状況が色んな局面である。そういう時に敢えて流れに乗らない。そうすると色んな指弾の矢が飛んでくる。それでも自分の知性を信じる。そこに立ち止れるかどうかは大きい気がする」 (パート2 50分ごろ)

そして改めて作家の佐藤優さん。次の言葉にもつながっていくる。著書『野蛮人の図書室』より。(2012年1月19日のブログ

「『どうしたらいいか?』って問いには、答えを出さずに不安な状況に耐えることが大事だと思う。回答を急がない。不安のままぶら下がって、それに耐える力こそが『教養』だと思うんですよ」

教養・・・。すなわち知性のことでもある。

ジャーナリストの池上彰さんは、次のように書く。著書『大人の教養』より。

「こういう教養を身につけていけば、人間はさまざまな偏見から、あるいは束縛から逃れ、自由な発想や思考を展開していくことができる」 (P24)


ちょっとまとめてみる。

「知性」や「教養」を守るためには、「自由」が必要。
その「自由」を手に入れるためには、「知性」や「教養」が必要。

さらに、その「自由」を守るためには、孤立や不安を恐れない。
それに耐えるために必要なのも、結局は「知性」「教養」。

どうも、こういうことのようである。

2014年9月 5日 (金)

「ヤンキー的な人々というのは、感性を肯定するために知性を批判するんですよね。『考えるな、感じろ』とばかりに」

今回も「反知性主義」について。きのうのブログ(9月4日)の続き。

この反知性主義が広がっていることについて、社会学者の竹内洋さんは、次のように指摘する。朝日新聞(2月19日)より。

「大衆社会化が進み、ポピュリズムが広がってきたためだろう。ポピュリズムの政治とは、大衆の『感情』をあおるものだからだ」

「橋下市長は学者たちを『本を読んでいるだけの、現場を知らない役立たず』と口汚くののしった。ヘイトスピーチだったと思うが、有権者にはアピールした」


政治の世界でも、「知性」を排除し、「感情」だけによる判断が基準になっていく。(1月21日のブログ

また、きのうのブログでは、反知性主義の特徴として、知性を求める人たちや行為を「軽蔑の対象」にして、さらには「憤りと疑惑」の対象にする、という指摘を取り上げた。

これは、大阪の橋下徹市長による学者やメディアへの批判の一連の言説を見ると分かりやすい。

「学者の皆さんには机上で頭の中で理屈をこねるだけではなく、現場の人の営み、組織のあり様も体験してもらいたいものです」 (ツイッター2011年2月24日

「現実の政治・行政は学者の評論やコメンテーターの意見と違う。実行しなければならない」 (ツイッター2012年2月2日

「学者論議で困ったものは、市井の市民の暮らし、現実の経済、政策実現プロセスを知らないことだ」 (ツイッター2012年4月30日

「現場を経験したことのない学者の意見は放っておいて、教育に真に携わってきた教育論者の声を聞くべきだ」 (ツイッター2012年8月3日


もちろん、現場を知っていないより知っていた方がいい。でも、あまり知らないからと言って、「知」を扱う者を全否定する言動はどうかと思う。

僕は、「反知性主義の広がり」と、「社会のヤンキー化」というのは実は同義なのでないかと思っている。

精神科医の斎藤環さんが「ヤンキー」について語った次の指摘を読むと分かりやすい。著書『ヤンキー化する日本』より。

「当たり前だが、彼らはけっして知的水準に問題があるわけではない。しかし、知性より感情を、所有よりも関係を、理論よりも現場を、分析よりも行動を重んずるという共通の特徴ゆえに、知性への決定的な不信から抜け出すことができないのだ」 (P48)

「私の本でもヤンキーの特徴の例として、熟慮を嫌う、理屈を嫌う、反知性主義の傾向が強い、ということを挙げていまして、橋下さんはヤンキー文化の可能性と限界を見極めるうえでの重要なメルクマール(指標)になり得ると書いているんです」 (P89)

「ヤンキーに知性があってはいけない理由はないんですけど、ヤンキー的な人々というのは、感性を肯定するために知性を批判するんですよね。『考えるな、感じろ』とばかりに」 P146)

感性を肯定するために、知性を批判する…。

もはや、本を読んだりして考えることは悪という感じ。それより、Believe your 鳥肌」P42)なのである。(2013年4月12日のブログ

「感性の肯定」と「知性の批判」とは、すなわち考えないこと。思考停止ということなのである。

最後に、この言葉を載せておく。お天気キャスターの森田正光さん著書『「役に立たない」と思う本こそ買え』より。

「思考停止はとてもラクで心地いい。『考える』という面倒なことをやめてしまうわけだから。だがそれがファシズムにつながることもあるのだ、ということを覚えておきたい」 (P81)


2014年9月 4日 (木)

「知性を求める態度は軽蔑の対象になります。理屈をこねくり回して何もしない人間だとバカにされます」

今回からは、少し「反知性主義」というものに注目してみたい。

今のお笑いには「社会批判」「社会批評」「社会風刺」の視点がなくなっているのでは、ということを考えた。(8月29日のブログなど)

この「批評性」が失われているという風潮は、「お笑い」の世界のだけのことでない。

作家の平川克美さん著書『「消費」をやめる』を読んでいたら、今の起業家について、次のような指摘が載っていた。

「シリコンバレーを好む人たちは、アメリカ流のアグレッシブな人間像を肯定します。ビジネスの目標は、成功して富を手に入れることであり、人生の勝利者になることだというものです」

「わたしからすれば、『そこに何かが足りない』という感じが拭えません。何が足りないかと言えば、物事を批判的に捉え、徹底的に思考しようとする知性です。シリコンバレーに充満するアメリカ的起業精神には、知性が決定的に欠けていると感じていました」 (P97)

今の起業家には、「物事を批判的に捉え」る姿勢が足りないとの指摘。僕が、今の「お笑い」に対して感じた「何かが足りない」というのと、まったく同じことである。

平川克美さんの、さらなる指摘は興味深い。

「そういう場所では、知性を求める態度は軽蔑の対象になります。理屈をこねくり回して何もしない人間だとバカにされます。思索を深めてもお金にはならないからです」 P98)

そこでは知性が軽蔑の対象になっているという。知性を用いて思考することは、効率の悪いことであり、面倒なことである。そんな感じなのだろうか。

当然ながらそんな社会からは、知性の裏付け必要とされる「批評」「批判」「風刺」が疎まれ、排除されていく。それはメディアも例外ではない。(7月9日のブログ

こうした「知性」を軽蔑、排除の対象とする風潮のことを「反知性主義」と呼ぶ。

反知性主義とは何か。それにまつわる言葉を並べてみる。

批評家の東浩紀さんツイッター(6月27日)より。

「日本は徹底して反知性主義の国(頭いいひとや上品なひとをバカにする国)で、そこがいいとこでもあるからね。アニメとかニコ動とかそういう国だから栄えてるわけでね。むずかしいですよね」

佐藤優さんは、著書『「知」の読書術』で「反知性主義」についてこう定義する。

「反知性主義とは、実証性や客観性を軽視して、自分が理解したいように世界を解釈する態度のこと」 (P80)

文化放送『くにまるジャパン』(8月29日放送)では、次のように話していた。

反知性主義というのは、大学の先生でも、新聞記者でもなる。要するに、具体的で、客観的で、実証的なデータがあるのに、それらに目をつむって、自分の思い込みの物語に固執するということ。こういうことが世界に出始めている。それから『決断が重要だ』『問答無用だ。何も考えずにとにかくやれ!』 こういうのは危ない。その辺に警鐘を鳴らしたい」

朝日新聞(2月19日)では、『「反知性主義」への警鐘』という特集記事を組んでいる。

その記事によると、「反知性主義」の特徴について、アメリカの歴史学者、ホーフスタッターさんは、著書『アメリカの反知性主義』で次のように定義している。

「知的な生き方およびそれを代表するとされる人びとに対する憤りと疑惑」

まさに「知性」を面倒くさいもの、場を壊すもの、として、さらには排除していく風潮のことである。

やれやれ。これが広がっているのでる。

でもここで、もう一度、宮崎駿さんの言葉を。NHK『プロフェッショナル』(2013年11月13日)より。(7月4日のブログ

「世の中の大事なことって、たいてい面倒くさいんだよ」

知性を面倒なものとして排除した社会が、どうなるか。ちょっと考えれば、分かりそうなもの。

付け足し。

今、公開中の映画『LUCY』で、モーガン・フリーマン演じるノーマン博士は、次のように言う。

「生命の使命は、次世代に“知識”を伝えること」

この言葉からすると、反知性主義は、生きることの否定ということになってしまう。

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